[散歩道]
                      湯島天満宮と泉鏡花の筆塚

 湯島通れば思い出す……と歌われた湯島天満宮。その発祥は南北朝時代の1355年。菅原道真公の偉徳を慕った付近の村民が、京都北野天満宮の分霊を勧請して祀ったのがそのはじまりとされる(社伝では創建は458年としている)。その後、太田道灌による再建、徳川家康公による朱印地の寄進、湯島聖堂を特別に移転した徳川綱吉公など、歴代の将軍の篤い庇護により隆盛をきわめた。明治18年(1885)に改築された天神社殿も老朽化が進み、平成7年(1995)には後世に残る総檜造りで立派な新社殿が造営され、現在に至っています。

 江戸時代における湯島天満宮は、和歌や連歌の神、芸能の神、書道の神、さらには縁結びの神として崇められ、富籤の興行なども行われ本郷や下谷にかけての町人層の間で特に親しまれてきました。御祭神として祀られている菅原道真公は、33歳で文章博士となった学問の神様。その天満宮にあやかりたいと、現在でも、受験シーズンになると多数の受験生や家族が合格祈願に訪れる。
 
 境内の梅の花も有名で「湯島の白梅」が戦時中の歌として大ヒットしました。泉鏡花の「婦系図」に題を採ったものですが、境内の池畔に泉鏡花の筆塚があります。「婦系図」は、湯島を舞台にした悲恋の長篇小説で、明治40年に「やまと新聞」に連載され、翌年春陽堂から出版されました。また、後年には脚色されて、新派悲劇の代表作ともなりました。

 「婦系図」の主人公である早瀬主税は、世間に内緒で、芸者あがりの女・お蔦と所帯を持っていた。しかしそれを知った主税の師・酒井俊蔵が2人の仲を許さない。当時の婚姻制度に圧し潰されてゆく愛の姿が、鏡花独特の演劇的手法で描かれています。
 実生活での鏡花は、神楽坂の芸者・桃太郎と同棲し、後に結婚しました。それを師・尾崎紅葉から反対された経験が、同作品に投影したといわれています。また、この小説の連載を依頼しに来た彼の親友・登張竹風からスリに関する興味深いエピソードを聞いたことが、創作の糸口になったとも伝えられています。

 

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