01追分宿-小諸宿 10月25日

北国街道を歩きました
  (令和元年10月25日〜31日)

1.日別

02小諸宿-田中宿-海野宿-上田宿 10月26日

北国街道を歩きました。これまでに東海道をはじめとする五街道と山陽道を歩いてきたのですが、次にどこを歩くか、という点で悩みました。ルート選定基準としては

1.有名な街道で、なるべく昔の風景が保たれていそうなルート
2.先達がおられて、ルートなどをNETにアップされていること

3.できれば、市販本があること

といった点です。これを満たすルートとして北国街道を選びました。

 北国街道の定義は色々あります。辞書には

『『北陸道と中山道を結ぶ旧街道。 (1) 新潟県直江津 (上越市) −長野県信濃追分 (軽井沢町) 間で,現在の国道 18号線の一部。途中篠ノ井で北国西街道 (善光寺街道) が分岐。江戸幕府は佐渡の金の輸送路として重視し,五街道に次ぐ脇往還の地位にあった。 (2) 滋賀県鳥居本 (彦根市) −福井県南越前町間で,現在の国道8号線の一部と 365号線にあたる。 (→北陸街道 )』

となっています。今回は上の定義 (1) の「新潟県直江津 (上越市) −長野県信濃追分 (軽井沢町) 間」を選択しました。

 上の図1で言うと赤い字で書かれた
追分宿から高田宿までを歩くことにしました
北国街道は江戸幕府にとっては五街道に続く重要なルートだったようで、「日本大百科全書(ニッポニカ)」によると、

『北国街道
ほっこくかいどう

 本州中央部と新潟および北陸3県を結ぶ北陸道とを連絡する近世の街道で、二つある。一つは浅間山麓(あさまさんろく)の信濃追分(しなのおいわけ)で中山道(なかせんどう)と分かれ、小諸(こもろ)、上田、長野、高田を経て直江津(なおえつ)で北陸道に合流するもの。加賀・高田藩が江戸へ出仕のおり通行したが、江戸幕府の財政をまかなった佐渡の金を江戸へ輸送するのに利用され、五街道に次いで重要視された。また、長野の南方、篠ノ井(しののい)から松本を経て木曽谷(きそだに)の北端、洗馬(せば)で中山道に合流するものを北国西街道(善光寺街道)とよび、善光寺参詣(さんけい)者が多く利用した。』

という性格の街道です。事実、今回歩いてみて驚いたのは結構多くの宿で、今も昔日の面影を残しているところが結構あり、「北国街道」という名前を誇らしげにお使いになっているところがあちこちにありました。なかなかいい選択をしたと思っているところです。

 ところで、このルートはおおむね国道18号線に沿っており、なおかつ信濃川の上流である千曲川に沿っています。千曲川が「千のまがり」と書く意味が少しわかりました。昔から暴れ川だったのですね。 今回の旅で少し心が痛んだのは、約一か月前に台風19号が長野・関東域を襲い、その影響で千曲川氾濫による鉄道の休止やリンゴ畑の莫大な被害を目の当たりにしたことです。千曲川が決壊した箇所は歩きませんでしたが、鉄道が止まったところや千曲川が溢水したところは歩きました。水の力の大きさが実感として感じられました。

それでは以下から写真集をお楽しみください。今回はすべての写真に解説を付けましたので、少しは見やすくなったかと思います。

06野尻宿-関川宿-田切・二俣宿-関山宿-松崎・二本木宿-新井宿 10月30日
03上田宿-坂木宿-上戸倉宿-下戸倉宿-矢代宿 10月27日
04矢代宿-丹波島宿-善光寺宿 10月28日
05善光寺宿-新町宿-牟礼宿-古間宿-野尻宿 10月29日
07新井宿-高田宿 10月31日
2.北国街道を歩きましたー通しー

おまけ

 今回歩いたルートの高低表です。NETから頂戴しましたので、私が歩いた日にちとは微妙にずれていますので、ご注意ください。

その1  追分宿-小諸宿-田中宿




その2  田中宿-海野宿-上田宿-坂木宿-(上下)戸倉宿-矢代宿




その3  矢代宿-丹波島-善光寺宿




その4  善光寺宿-新町宿-牟礼宿-古間宿-柏原宿-野尻宿




その5  野尻宿-関川宿-田切宿-関山宿-二本木宿-新井宿




その6  新井宿-高田宿


















図 1