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ヤイユーカラパーク VOL38 2001.11.08
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おもな内容

南太平洋ひとまわり(4)

9月21日  晴れ

昨夜23:00にブリスベン出港。27日のオークランド入港まで、NFIPの船上会議がひらかれる。参加するのは、以下のメンバー。

 モタリラヴォア・ヒルダ・リニ(ヴァヌアツ/NFIP事務局長)

 ジャック・アルフレッド(フィジー)

 スタンレー・シンプソン(フィジー/PCRC事務局)

 シオン・テイシナ・フコー(トンガ/NFIP議長)

 セケティ・フォオウ・フコー(トンガ)

 ポーリン・タンギオラ(アオテアロア)

 パレクラ・ロヘ(アオテアロア)

 ジョゼス・タウンジェンガ・トゥハヌク(ソロモン)

 モーゼス & マリリン・ハヴィニ(ブーゲンビル)

 チーフ・ヴィラレオ・ボボレンヴァヌア(ヴァヌアツ)

 ジョーン・ウィンフィールド(オーストラリア)

 ガリィ(ミック)・マーティン(オーストラリア)

 計良 光範

 そしてピースボートから Iさん。

明日から始まる会議の、打ち合わせ。出発前にヒルダから送られてきたプログラムの草案を服部さん(札幌)に訳してもらい、目を通してはいたのだが、"おいおい、これを全部5日間でやるの……!?"という内容とボリュームだった。

そしてこの日渡されたプログラムは、幾分整理されてはいるものの、基本的には変わりがなく"!!!……"である。『21世紀への平和および人類の安全に関するNFIPフォーラム』。勿論英文のそのDraft Program を、同時通訳に付いてくれているスタッフに聞きながら読んで、改めてがっくり来る。"NFIPの本会議でも、こんな大それたボリュームの議論はしないよなぁ……"。が、しかし、元はといえば"俺が言い出しっぺか!"……抜けるわけにはいかないのだ。

どこまで行けるか分らんが、とりあえず出発してみますか……と思っていると、ポーリンが言った。「ペーパーは大事にするが、国連の'先住民の10年'がどう進んでいるかを検証しながら、先進国主導の会議とは違う、私たち自身の会議にしよう」。よかった!

その夜、大ホール(ミュージックサロンという)で開会セレモニー。挨拶と参加者紹介、歌、ダンス、ヒルダの息子ワガのたたく木のドラム、そしてカバ・セレモニー。ヴァヌアツ産のカバは、強く美味かった……。

時差が発生し、24:00に時計を1時間進める。

9月22日  晴れ

オリビア号には全部で5つのバーと2つのレストランがある。6つのフロアに点在しているそれらのバーへ辿りつく経路がなかなか複雑で、大抵は迷う。会議はその中の3つのバーを移動しながら行われた。迷路のような通路を辿って、次の会議場(?)へ行き着くのだから、頭や論議が錯綜するのも無理はない。

10:00からサダコバーで始まった初日の会議。同じ時間帯で、屋上では「洋上大運動会」が始まった。天井を駆け回る足音が賑やかな中で、ポーリンの提案で「太平洋の平和と自民族」について全員が話すところから始まった。

午後は船底のミラーバーへ移動して、SESSION2「平和問題の検証」に入る。ここはかつてのディスコ・バーで、壁面が鏡張りになっている。現在は深夜に若者たち(主に)が集まって、朝まで飲み、騒いでいるらしい。どうにも落ち着かない場所であった。

そのせいでもあるまいが、会議はこの辺りからスムーズに進まなくなってきた。SESSION3「平和問題の根源的分析(?)」――自決権の欠落/不適格で不適切な教育/不適格な政府と良いリーダーシップの欠落/ヴィジョンなき開発/民族紛争/軍国主義/グローバリゼーション/環境と健康――。それぞれが自分たちの状況を話すだけで、問題の共有ができないのだ。言いっ放しで終ってしまう。互いに属する国や地域の事情が異なることは知っていても、そこを乗り越える方向へ進んでいかないのである。前途は多難だ。

会議は18時で終わり、今晩は何もない。運動会の打ち上げで、あちこちで盛り上がっているのだろう。夕食後、部屋へ戻る途中、小6の坊主に捕まった。「スイートに行きたい!」と言うので一緒に戻る。コーラでも買ってこいと1$渡したら、9本位も買い込んできて、「冷蔵庫に入れておいて」。この後、しょっちゅう訪ねてくるらしい。適当におしゃべりしたら、帰って行った。

デッキに出ると、雲があり星は見えず、真っ暗な海。昨夜からうねりが少し強くなり、揺れる。風は冷たい。今朝の表示が19℃だった。段々温度が下がってきている。

9月23日  曇り

昨夜は早く寝すぎたのか飲み足りなかったのか、1時半に目が覚めてしまった。デッキで煙草を喫んでいるうちに思いついて、プールサイドまで行った。若者たちが盛んに騒いでいた。チューハイ飲んで戻り、3時に寝直したら、7時まで眠ってしまった。

気温15℃、涼しい。今日から暖房が入ったとアナウンスがあった。

会議2日目。昨日のトピックをスタンリーがレジメにまとめてきたので、それに沿って昨日よりは要領よく論議が進んだ。

とは言え、8項目のトピックについて、話が散発する状態は変わらず、なかなか議論にならない。大方の問題が、当事者(国民・民族)が内部的に抱えている課題や矛盾と、外部からの圧力という二つの方向から考えられなければならないということは語られるのだが、それをどう整理していくのかという議論にならない。断片的に分る英語と、同時通訳の伝えてくれる情報とを合わせて理解し、考えることに、疲れてくる。

夜、全員に集合がかかりミュージックサロンへ。船長から、片方のエンジンのトランス・ミッションが故障して、スピードが17ノットから11ノットに落ちていること。そのためミルフォード・サウンドを回ることができず、まっすぐオークランドへ向かうべく航路変更をしたと報告があった。氷河の景観を楽しむことが出来なくなり残念だが、仕方がない。

今夜、時差が生じるので、時計を1時間進めるよう案内があった。

9月24日  曇り

午前中、会議はミラーバー。ピースボート・スタッフのIさんから、問題点の整理と解決法について話し合いたいという提起があり、昨日までの論議(?)の要約が必要だったが、記録担当のスタンリーの作業が間に合わなかった。明日までには何かまとまったものを作らなければならないのに、五里霧中である。

ポーリンが言うように、"自決権"にも二つのカテゴリーがあると考えなければならないだろう。一つは、アオテアロアや日本、オーストラリアのように、先進国と呼ばれながら国内先住民族が依然として"植民地状態"におかれている国々。もう一つは、一応は先住民族中心に独立を保っている(獲得した)国々(島々)。その違いが認められた上での論議にならず、ジョゼス(ソロモン)は「独立を達成した処では、自決権の問題はある程度解決している」と言い、モーゼス(ブーゲンビル)は「我々の平和のプランは、すべてここに書かれている」と14ページのレポートを配り、チーフ・ヴィラレオ(ヴァヌアツ)は、自分たちの"伝統"について深遠な哲学を延々と述べ続ける……。フコーさんが困った顔をして黙りこくっているうちに昼休みになった。……ジョゼスもモーゼスもオーストラリアに住んでいて、ほんとうにソロモンやブーゲンビルのことが分っているのか? と、内心思いながら、まさかそう言うわけにもいかない……だろう。

「ミラーバーは、イヤだ!」というポーリンの主張で、午後はプールデッキの一角に席を作って再開された。風が吹き、海はきれいで気分がいいのだが、会議は停滞。予定通り『声明文』を作る作業に入っていいのだろうか? と疑問をもちながら、それでも「会議」の責任でまとめる必要があるだろうというのが大方の雰囲気だった。

こんな論議の中から出る「声明」なんて……というのが、ポーリン、ミック、私である。ま、やってくれ、と、ヒルダとスタンリーに預けてしまう。

会議が散開した後、ポーリンの一声でミック、ジョーン、パレクラ、私、それに通訳のポールも加わって小会議。全体の「声明」とは別に、3カ国による「声明」を出すことにする。何を盛り込むかについて意見を出し合った後、文章化をミックにまかせて終った。

速度の落ちた船は、オークランドへ向かってゆっくり進んでいる。それでもミルフォード・サウンド行きを止めたので、船は予定より1日早くオークランドに着くということで、つまり会議に使える日程が1日減ったということになる。間に合うのだろうか?

9月25日  雨のち曇り・強風

NFIP会議最終日は、スタンリーがタイピングした声明文を検討――というより、字句修正で終始。明日到着するオークランドへの"上陸説明会"やミュージックサロンでの講座、オークランドで下船する人びとの下船準備などで慌しく騒然とした中で、翻訳された草案に目を通す。通訳の鈴木さんには、感謝である。スタンリーの作業の遅れにもかかわらず、夕方までには日本語の最終稿が渡されたのだから……。

全体の「声明文」は、以下のようになった。


平 和 ビ ジ ョ ン

人的安全と平和的共存のための太平洋的概念

太平洋の平和と人的安全のためのフォーラム(以下フォーラム)はピースボート船上において2000年9月21日に渉り、ピースボート及び太平洋問題情報センター(PCRC)により共同開催された。参加者には太平洋地域の先住民指導者、長老、平和活動家、教育者、チーフ(首長)、教会関係者、労働組合員及び青年代表が集合した。当フォーラムは平和課題の根本原因として考えられるもの、即時の注意と行動が求められるのはどのような部分かを明確化した。

平和課題

フォーラムは、太平洋的平和ビジョンの審議の最後に以下のような宣言を発表する。

# 緊張、紛争、武装化、武力を伴う暴力行為は、植民地支配の遺産、政府の判断、不適当かつ間違った政策と行為に関連しているという根本的原因を認識する。

# 構造的衝突、価値観の相違による衝突、社会関係の衝突、情報の衝突、経済的利害による衝突、そして政治的衝突から生じる平和への課題を立証する。

# 平和的課題とは以下の項目を中心として考えられると明確化する:

= 自決権

= 特に人的・文化的価値と技術指導のための適切な教育

= 土着の民主的政治構造に不適合な外国の政治構造

= 開発のための明確なビジョン

= 長期的な先住民族問題の解決へ向けての政府による適切な取り組みの必要性

= 雇用と国防のために軍隊が必要なのだという神話

= グローバル化の悪影響


太平洋の平和と人的安全のためのフォーラムは:

# 私たちが平和の共有権を担うべき者としての立場を自覚する。

# 私たちが抱える緊張、対立、社会経済的衝突、暴力、武装化、グローバル化と関連した武装化に対しての我々のもろさを自覚する。

太平洋の平和と人的安全のためのフォーラムは平和を推進するため、太平洋の全ての人々に以下を呼びかける:

a) 平和と調和の中で、私たちの文化的歴史、アイデンティティーと子ども達のための持続可能な未来を守る。

b) 先住民族の持つ平和の概念を平和的環境の構築のため再確認・再発見する。

c) 外来の制度と文化においては共存と人的価値を強化する要素のみを選択する。

d) 全ての教育段階と共同体において、平和教育を最重要科目とする。

e) 太平洋の常備軍も含めた全ての軍備を禁止する。

f) 社会的経済的不均衡の重要性を問題提起する。

g) 我々太平洋の人間の必要に合うように現状の政治システムと開発計画を見直し、改革する。

h) 私たちの自決権、主権、私たちの土地と資源の管理の権利を取り戻す。

i) グローバル化の悪影響に対抗する。

j) 武装化、有毒性廃棄物、遺伝子組み替え製品、医薬品などの製品から太平洋を共有する全ての先住民族、そして全ての民族を保護する。

k) 先住民族の知的所有権を保護する。

l) バヌアツのトゥラガ人、ブーゲンビル人の相互平和と経済的自立制度の平和モデルのような選択肢の発展と導入を奨励する。


私たちは以下を支持・支援する:

「わたし達の平和宣言2000」

太平洋地域キリスト教評議会の先住民の土地とアイデンティティーに関する声明文

ピースボートにより取り組まれている諸活動

反核独立太平洋人民憲章

先進国における先住民宣言


以上は、太平洋地域において早急に注目が求められる分野である。平和実現のためには、太平洋地域の人々が平和を所有し、そのための責任を共に担わなければならない。

<翻訳:鈴木 郁乃>


そして、この後28日のオークランド出港間際までかかってミックが書き上げた私たちの声明は、以下である。ミックの下船直前に渡された英文コピーは、帰国後、札幌の吉田美千代さんによって翻訳された。


太 平 洋 植 民 地 下 の 先 住 民 の 平 和 宣 言


私たち、太平洋に接している、アオテアロア、日本、オーストラリアの先住民は、2000年9月21日から26日までピースボート上で開かれた太平洋の平和と人類の安全のためのフォーラムにおいて、太平洋の平和を維持するための緊急な課題と行動が必要だという議題を深く考え、ここにそれを記します。


議論の結果として:

- 私たちは、すべての国々が永久なる平和に同意するように求めます。

- 私たちは、外国の政治システムの導入によって、私たちの主権を取り除こうとしているという認識を持っています。

- 私たちは今一度、私たちの自決権を主張し、植民地主義的な力が私たちの主権をおびやかしていることを確認します。

- 私たちは、自分たちの権利を実行に移すために、土地、動植物、海や湖、川などにある資源の管理は私たちにあることを確認します。

- 私たちは、先住民のやり方での教育を実践する権利を主張します。

- グローバリゼーションにより、私たちの主権が攻撃の的になっているので、これを否定します。

- 私たちは太平洋どこにおいても武力の行使を非難し、平和のためと名のついた武力の行使を拒否します。争いは、調停や和解によって解決されるべきです。

- 私たちは、すぐにウランの採掘をすべて禁止し、太平洋においてそれを輸送することを直ちに取りやめるべきだと宣言します。また、ウランのみならず、有毒の物質が輸送され、私たちやまわりの環境が汚染されることを禁止する宣言もつけ加えます。

- 私たちは、私たちの領域に移住が自由におこなわれることを拒否しますが、全く拒否するわけではなく、決定する過程での参加を要求します。

- 私たちは、抑圧的な審判のシステムが先住民の投獄、また、その結果としての死を招いてきたことを認識しています。先住民には先住民による論争を治めるやりかたがあり、その方法によってのみ問題解決ができます。

- 私たちは、先住民の知的所有物への権利は先住民に主権があること以外ではなりたたないことを再度確認します。

- 私たちはまた、以下のことを署名し支持します:

・ 太平洋の平和と人類の安全のフォーラムからの平和ビジョン

・ 平和と非暴力のための声明2000

・ 1992年リオデジャネイロで署名されたカリオカ宣言

・ 太平洋、また全世界の平和のための各国のネットワーク作りと友好のためにあるピースボートやNFIPによって採択されている決議

私たちは、永遠の平和を得るために太平洋に住む人々すべてにお互いに支えあおうと呼びかけます。

<翻訳:吉田 美千代>


検討することが出来ないまま完成したので、期待とは違ったものになってしまった。これじゃあミックによる"アボリジニーの宣言"だ。……と思うのは、数ヶ月後のことになってしまった。ま、半分は我々の主張なんだから、いいか! ……それにしても、もっと英語くらいは勉強しておけよ、な!?

夜は二つのレストランで、立食スタイルとフリードリンクの"ガラ・ビュッフェ"。太平洋フェスティバルと銘打ってのパーティーは、ミルフォード・サウンドに行けなかった船長の罪滅ぼしだったのかもしれない。

そして"NFIP会議 閉会セレモニー"が……。ともあれ、無事に終った。

オークランドで下船する40名ほどのメンバーのお別れパーティもあり、ミュージックサロンからデッキのネプチューン・バーへ移動して、飲み、歌い、踊り……深夜まで賑やかだった。

9月26日 オークランド(アオテアロア/N.Z)  晴れ

9:00、オークランド/プリンセス・ワーフに着岸。10年ぶりのアオテアロアだ。

予定より1日早く着いたので、今日はまったくのフリータイム。一人でぶらぶらとオークランド博物館まで歩いた。10年前には展示スペースで行われていたマオリのパフォーマンスが、別室でやられていた。

中のビュッフェでの昼食をはさんで、のんびり見て廻る。ミュージアム・ショップで図版やCDを買い込み、重い荷をぶら下げて帰途についた。博物館のある公園や街の佇まいは、10年前と変わっていない。あの時は、NFIP会議(第6回)に参加した智子さんや通訳の若いD君、シスターS、荒川さん(反核パシフィック)と街中のステーキ屋で特大ステーキを食べたっけ。今はあんなステーキ食べる元気はないなぁー、と思いながら見覚えのある通りを、あちこち歩いた。小さな骨董屋に入り、ポウナム(グリーンストーン/翡翠の種類)のペンダントがひどく安かったので幾つか買ったりして、船に戻った。誰へのお土産なんだ?

船が着いたのは現在も工事中の新しい建物で、その二階バルコニーから延びたブリッジを通って船内に入るようになっている。ビルの中には免税店もあり、酒類が並べられているのだが、出港するまで品物は渡せないということなので、がっかりである。ブリスベンで買い込んだウイスキーが底をついてきたのだ。

オークランドでのオプショナルツアーの一つ『先住民族マオリの村を訪問』の事前打ち合わせを担当したスタッフのUさん(カメラマンでもある)。「同行してくれるマオリ女性、ワータラさんは、怖いですよー!」……さらに「何度怒られたか分りません」。そりゃ、ポーリンだって最初は怖かったけど、慣れれば優しい人さ……と思いながら、ふと胸騒ぎ。「あっ、写真があります!」……胸騒ぎは正解! そこに写っているのは、まさしく10年前のNFIP会議で最も恐ろしく感じられた女性だった。

当時、マオリの解放運動の状況は非常に厳しいものだったし、その中でNFIPを運営するPCRC事務局をフィジーへ移すことが決定されるということが重なって、地元のマオリたちはぴりぴりしていたのである。なかでも白人排外主義的な傾向の強いメンバーは、殊更に頑なな態度を捨てなかった。その筆頭がワータラであり、女性として始めて顔への入墨を復活させた彼女が、マオリの旗を手に立っているポスターが、今も我が家には貼られている。ワイタンギ条約150年に作られたもので、「1990 A TIME TO HONOUR TO TREATY」(条約を尊重すべき時 ?)と書かれている。英語バージョンの同条約をマオリ語バージョンに読み替えていく闘いの、シンボルとでもいうべきポスターだった。

「んん……これは、確かに怖い……!」と私。「でしょう?」とUさん。明日が、怖い……。その夜は、なんとなく、遅くまで飲み続けてしまった。

9月27日 オークランド 晴れ

朝、上陸前の"ポーヒリ"(PAWHIRI/マオリの歓迎セレモニー)は12:00からということだったので、デッキでポーリンたちと過ごす。その内にUさんが来て、「ワータラさんが会場の準備を始めていますよ」と言うではないか。"そりゃあ、挨拶くらいしておかにゃあ……"と、ブリッジを渡ってビルの中へ。いたっ!

通りかかった通訳を介して「10年前の会議で……」と言うと、「覚えている。よく来た!」と抱きしめられた。一緒に旅が出来て嬉しいと言い、小さい声で「私も歳をとったから、前のように恐くはないヨ」と言って、にやりと笑った。…………ともあれ、10年ぶりの再会だった。

12:00過ぎ、オプショナルツアー参加者やまだ残っていたNFIPメンバーなどが、先導のポーリンに従ってポーヒリ会場へ入っていく。そこには地元のマオリ長老たちや、市長はじめ要人たち(なのだろう)が並んで待っていた。ヒルダの顔も見える――ヴァヌアツではなくマオリのヒルダとは、前年タヒチでの会議以来1年ぶり。船に乗る前にひらかれた『先住民女性フォーラム 2000』に招待したのだが、「他の行事が決っている」ということで、代わりにペティ・マレイを送ってきたのだった。

我々訪問団一同は、ここでポーリンからワータラに渡された。この二人は、普段あまり仲がいいとは言えない。その故もあってか、二人とも特別に、"厳粛"な面持ちでの受け渡しであった。初めてポーヒリを経験する人(ほとんどがそうだが)は、相当緊張したことだろう。

マオリの伝統では「挨拶をしたら、その後に歌をうたう」ことになっており、我々も直前の説明会で"皆でうたえる歌"として「上を向いて歩こう」の歌詞カードを配られていた。挨拶の応酬のなかで歌が足りなくなるだろうと予測は出来たのだが、もう間に合わない。

思い出すのは1988年のこと。翌'89年に全国規模で行われる『ピープルズ・プラン・21世紀』の打ち合わせ会議が、何度も東京中心にもたれていた。

その頃はフィリピンの民主化運動やネグロス・キャンペーン、南アフリカの反アパルトヘイトの闘いに日本市民の関心が集まり、集会やコンサートが数多くひらかれていた。その中でフィリピン民衆の「アン バヤンコ」(我が祖国)が歌われ、南アフリカの自由の歌「コシ シケレリ アフリカ」(アフリカに祝福あれ)が歌われた。どちらも物悲しい旋律でありながら、聞いているうち、歌っているうちに"静かな闘志"とでもいえる感情が湧き起ってくる名曲である。

『P・P・21』の開幕集会の打ち合わせが終った後だったろうか、雑談の中で「我々も何か皆でうたえる歌が欲しいもんですねぇ、新しい"我が祖国"みたいな……」と私が言った途端に、ある先輩市民活動家が吐き捨てるように言った。「そんなのはナンセンスだ! 大体"祖国"なんて概念が許せない……」

それっきりで終ったのだが、妙に心に残っていた。当時の市民運動のなかでは、"越境する民主主義"であるとか"国際ではなく民際"といった論議が盛んだったことと、戦前・戦中を体験してきた人の感性ではそうなるのかといった納得の仕方をしていたようだ。

その後、最初にこの時のことを思い出したのは、1997年3月、『森』が初めての海外交流団をカナダに出した時だった。バンクーバーの北、リルワット・ネーションに滞在中、アルビンの隣家から"スエット・ロッジ"をやるので参加しないか? と声がかかった。「ラッキー!」とばかりに駆けつけ、何人かがテントの中にもぐり込んでいく。"スエット・ロッジ"とは、低く組まれたテントを何重にも毛布などで覆い、その中心に置かれた焼き石を囲んで座り、水を掛けながら立ち込める蒸気の高温に耐え、精神を純化・高揚させるというもので、『森』キャンプのサウナ・バスに似てなくはないが、もっと厳格でストイックなものである。

私はその時同時に進行していたホースライディング・メンバーの送迎で忙しく、参加することは出来なかったのだが、4〜5人のメンバーが参加し、何度か息抜きをしながらではあるが2時間におよぶ暗闇でのセレモニーを体験した。

10名程の参加者が暗い中で輪になって座り、蒸気とセイジの香りのなかで目を閉じて、交代で歌い、祈り、伝説を語り……ということを続けたという。「その内に、あなたたちも何か歌いなさいと言われ、困ってしまいました」と、後からの報告。「何も思いつかなくて、結局"おーてーてー つーないでー"を歌ったんだけど……手をつないで輪になっていたしネ」そして、「いざとなると、一緒にうたえる歌って、思いつかないもんですねー」ということだった。

その次に'88年の出来事を思い出したのが、このオークランドでのポーヒリの場である。我々には"スキヤキソング"位しか、共にうたえる歌がないのか!? 主義や思想はどうであれ、「私たちには、いまだにうたう歌が無い!」のが現実。寂しい限りである。

閑話休題。私の歌うウポポの追加もあり、子どもたちのダンスも楽しんで、ポーヒリは無事に終了した。この後パリへ向かうというポーリンや他のNFIPメンバーと別れを惜しみながら、私たち「先住民族マオリの村を訪問」組は、2階建てバスに乗り込み出発した。ワータラとともに、1泊2日の旅である。

ワータラの説明を聞きながら、オークランド市街を見渡せるMaungawhau山に登り(ここは10年前にも登ったっけ……)、マオリの遺跡Puhinui保護地区を見、ちょっと寄った民芸店では地元新聞記者のインタビューを受けたりしながら、夕刻Kotahitanga Maraeに到着した。

Marae(マラエ)というのはマオリが地域に持っている集会所で、当然このマラエでもその門を入る時からポーヒリが始まる。集会所の前に並んでいる老若男女の前に我々も並んで、ワータラの指示通りにしなければならない。挨拶〜歌、挨拶〜歌……歌が足りない……。やっと歓迎してくれる一人一人と鼻をこすり合わせる"挨拶"が終って、一段落だ。

夕食は、ハンギだった。肉や野菜をココナッツ・ミルクと一緒にバナナの葉に包んで穴の中の焼き石に載せ、3〜4時間かけて蒸し焼きにしたもの。太平洋の島々ではよく見られ、フィジーではロボ、タヒチではタマラアと呼ぶが、同じものだ。いずれも、ご馳走である。

夕食後に交流会。マオリの歌とダンス。我が団の若手による"南中ソーラン"。私のウポポ―数少ないレパートリーのすべてを出し尽くした。そして最後に、マオリ男性による"ハカ"の実地指導……若者たちに引っ張られて前へ出ると、「靴を脱いで、上半身裸に!」の声、出っ張った腹を気にする暇もなく、全身に力を込め、胸を叩き、「カマテ カマテ!」と掛け声をかけて……。何度かやって、なんとかOKが出て……いやー、疲れました。

夜が更けるまで、マラエの庭で若者たちと遊び興じる子どもたち。

「南十字星はどれ?」裏庭で、地平線近くの星を指して「あれ」と教えられる。そう言えば、10年前にも訊ねて、あんまり星が多すぎて、結局どれだか分らなかったっけ……と思いながら、今度はしっかり覚えようと思ったのだが、しばらくしてから訊かれて「あれだよ」と言ったら、周りの人びとは「違いますよー」と他の星を指さした。「!」……また駄目か……。今回の旅は"南十字星クルーズ"だというのに、その南十字星が分らないんじゃ仕方がないなぁ。

9月28日 オークランド  晴れ

朝食後、マラエを出発。ワータラの自宅傍を通ってWaiuku & Tamakae保護地区へ。ワータラの案内で深い森の中を歩く。走っていると、全島が牧草地のように見える北島にも、こういう森がまだ残っていたのだ。植生は違うが(シダ類の巨大さは凄い)、北海道の山に踏込んだような安心感があった。

昼食を、有機栽培農場(Awhitu Organic Herb Garden)で。その後、森の植生の再生活動をしている白人グループの農場(Whakarongo Farm)で懇談。なるほど、ワータラの交遊範囲は確かに広がっていた……。

ここに残るというワータラと別れて、バスは港へ向かう。短い時間だったが、彼女との旅は楽しかった。そしてワータラも別れを惜しんでくれた。今度は、いつ会える……?

帰船してすぐ免税店へ走りこみ、シーバスリーガルとジャックダニエルの大瓶を3本買い込む。まだ手元には来ていないけれど、これで日本まで大丈夫と、一安心。

さて、出港予定時刻が過ぎても、さっぱり船は動かない。ボートデッキと対岸のビルのバルコニーに並んで向き合った人びとが声を掛け合い、テープを投げ合って1時間……2時間……。ビールを飲みながら出港を待つうちに、ほろ酔いになってきた。やがて銅鑼が鳴り、やっと船が岸を離れ始めた……時間は、覚えていない。

オークランドでは40人程が降り、60人程の新メンバーが乗ってきた。新しい水先案内人も乗船して、夜、顔合せ。24:00時差発生、針を1時間戻す。

9月29日  晴れ

午後、昨日購入したウイスキー(刺繍教室の生徒のためのクッキーもあるんだ)が手元に。 

夜、"サザンクロスナイト"と称する、新メンバーのウェルカムパーティー。ミュージックサロンでの第1部は、歌とダンス。プールデッキでの第2部は花火大会。船の上の花火は、そりゃあ綺麗だった! 数十発の花火を打ち上げるのは、ピースボート始まって以来ということで、そのためにスタッフが"危険物取扱い"の資格(正式名称は不明)を取得して臨んだという。下のデッキにセットした花火を、数人の若者が次々に点火していく。星空に高く打ち上げられ、さまざまな形に開いていく光の花々……。あまりの見事さに、涙ぐんでさえしまった。

終って上がってきた煤けた顔のスタッフは、「いやー、怖かった……!」「だけど日本に着くまでに、もう1回やりますよ!」……お疲れさまでした、そして、ありがとう!

9月30日  晴れ

午前中、講座「先住民族について語ろう」。オーストラリア出身でスタッフのポールとの対話形式で。18日の「太平洋入門」以来、久しぶりの講座だった。講座再開である。

持ち込んできたミステリーを読んでしまった。仕事をすればよさそうなものなのに、なかなかそうもならない。図書室に未読のディック・フランシスを2冊見つけ、借りてきた。これでしばらくは大丈夫だ。

10月1日 ヌーメア(カナーキー/ニューカレドニア)  晴れ

8時にヌーメア入港。昨日から暑くなっていたのが、今朝は気温23℃と表示されていた。きれいな町並みだが、日曜日のせいか人影がない。がらんとした街に、10時頃から人々は繰り出していった。今日は、ソロモンへ行けなくなった(出発直前の紛争勃発)ために生れたボーナス・デーで、オプショナルツアーもなく、1日フリー。

博物館へ向かって歩き出すと、暑い。タヒチと同様フランス領だが、街はタヒチほどフランスっぽくない。メラネシアに入ってきたという感じ。

小さな博物館は、楽しかった。が、12:00になるとフランス人の小母ちゃんが声をかけ、閉館になる。2時間の昼休みらしい。博物館の前で、日本人の小母ちゃんが日本語で書かれたヌーメアの絵地図を配っていた。近くのショッピングセンターにTシャツとパレオの店を開いているという。「日曜日でもうちはやっているから、寄っていって」というので、行ってみた。博物館には売店がなかったのだ。

同じフランス領でも、タヒチのデザインや色使いとはまったく異なる。メラネシアンとポリネシアンの感覚の違いが実感できる。何枚かのTシャツとパレオを買った。

午後は気温が上がり、日陰を選んで歩かないと暑い。港の外れの民芸品屋まで足を伸ばし、小さな石像と絵葉書を買った。黒真珠と珊瑚細工が主な商品だったが、あまり縁がない。あとは船に戻って、のんびりと過ごした。

10月2日 ヌーメア(カナーキー/ニューカレドニア)  晴れ

早い朝食をすませて7:30に「先住民族カナクの村 ウニア」組は出発した。街を抜け、低い山の上の展望台(モンラヴェル丘?)。前大戦の時の砲台があり、錆びた砲身が海に向けられていた。それから次第にバスは山の中へ入っていく。やがて小さな村へ入ると、古い教会。キリスト教がメラネシアンの信仰世界に入り込んでいったのか、あるいはその逆なのかは分らないが、両者が混じりあった不思議な魅力が感じられた。

メラネシアンの古い村の周囲に、近年ポリネシアンの移住者が集落を作り始め、トラブルも起きているようだ。通りかかった二人の男性と少し話した。「メラネシアンの連中は、怠け者で働かないから……」と言う。畑を作りながら町に働きに行っているという、フィジーからの移住者だった。"フィジーなら、メラネシアじゃないか……"と思ったが、大概のフィジアンは自らをポリネシアンと思っているようだ。本国のフィジーでは、"あまり勤勉ではない"とされているフィジアンが、人口の半数を占めるインド移民の子孫による政治・経済の優勢に対して2度に渉るクーデターを起したことは記憶に新しい。そのフィジーから移住し、"勤勉に"生活している人びともいるのか……。

バスはさらに走り、予定のウニア村に到着した。しかしそこでは、村の長老が亡くなったので、これから葬儀を行い喪に入るということだった。従って、申し訳ないが皆さんをお迎えすることが出来なくなったと……。

ウニア村の教会の牧師さん(だと思う)が、代案を用意してくれたらしく、我々はそこから更に奥を目指して山中にバスを進めた。幾つもの峠を越え、山中から海岸に出てさらに山の中へ……バスがやっと通れるような細い橋も何ヶ所か渡り、2時間程も走り続けたろうか、突然のスコールのなかで辿り着いたのは、珊瑚礁の一角に建てられたリゾートホテルだった。

レストランで歓迎の言葉に続いての昼食は、ブーニャ(アオテアロアでのハンギ)とワインとフランスパン。さすがに皆空腹である。美味かった! そして、ダンス・パフォーマンス。

雨上がりの道を帰路につく。途中、戦前日本人が開発・操業していたという鉄鉱山跡を通ったりしながら、山越えの旅だった。南太平洋というと、ほとんど珊瑚礁と白い砂浜のイメージしかない私にとって、この山越えのバス旅行は新鮮であり興味深かった。"そうかぁ、カナークや西パプア人はこんな所で戦っているんだ……!"。ぜひ再訪しようと決めた。

船に帰り着くと、さっきのレストランでパフォーマンスを披露してくれた面々が既に着いて、岸壁に楽器を並べているではないか! どこで抜かれたんだろう。近道があるのか……?

彼らの賑やかなパフォーマンスに送られて、18:00過ぎに出港。夜、新水案顔合せ。

10月3日  晴れ

午前中に講座「共生への道」……アイヌの歴史と現在について、新乗船者もいるので復習。午後は"地球大学/先住民コース"の補修講座……これまで講座を聞き、各地で先住民に出会い、どんな感想を持っているかから始まって、それぞれの総括を出してみた。これまでの自分のイメージ(先入観)が壊され、"分らないこと"が増えた、とか、これまで自分とは遠いところでのことと思っていたのが、意外に自分と距離がないところに存在していることに気がつきショックだった……などなど、おもしろかった。

ヌーメアから乗船してきた中原道子さん(早稲田)と高橋哲哉さん(東大)による、「戦争責任」がテーマの講座が始まった。『ゆきゆきて神軍』にはじまる映画も使っての講座は、楽しみである。忙しくなりそうだ……。

10月4日  小雨

昨日朝が26℃、今朝は28℃。昨夕から波が高くなり、今朝も横揺れがしている。講座はないので、この後の講座で使うビデオのサーチ作業をし、午後は映画『プライド』(東条英機と東京裁判)を見た後、"ロシアンティー・パーティー"(船長主催)。ウクライナ衣装が美しい女性たちがケーキの大盤振る舞いだが、ケーキじゃあねぇ……。その後は、地球大学・補講。

全員を「先住民」「非先住民」「政府」の三つのグループに分け、"土地権""自決権""教育権"についてどう考えるのか、それぞれが主張を出し合うという、ロール・プレイング。5分間で相談し、1分間で発表し、テーマ毎に役割を交代する。

愉快だった。発表を聞いてもコメントはせず、論点の整理だけをする。興奮したり、シニカルになったり、社会正義を云々したり……それらを順に体験する。なかなかエキサイティングな企画であった。

夜、地球大学生や通訳グループが我がスイートで酒盛り。Iさんが仕入れてきた大紙パックのワインや船内の特売デーに買っておいたビール(半額の1本・1$なのだ)、シーバスリーガルで、途中から何やらスナック類を抱えて入ってきた水パ(水先案内人パートナーと称する、私の助手たち)グループも加わって、賑やか。

23:00頃、ガダルカナル沖通過のアナウンス。デッキに出ると、霧雨のなかに30人程の人びとが集まって、線香を点し、手を合わせたり黙祷をしている。海に花を投げる人も……。今回は上陸出来なかった300km先にある飢餓の島、ガダルカナルで死んでいった人びとへ、それぞれの思いである。真暗な海に、汽笛が響いていった。

時差調整、1時間時計を戻す。

10月5日  曇り

午後、地球大学・補講。昨日の論議を整理する。テーマ毎の主張・認識をまとめると……

<土地権>

・先住民  返還せよ。「法」がないままに奪い取られたものであるから。

・政府   先住土地権は認められない。補償については、考えても良い。しかし権利主張をするには、主張者側に立証責任がある。

・非先住民 占有権は現所有者にある。法規・契約が優先する。

<自決権>

・先住民  後住者の「法」による規制は無意味。自決権が認められるべき。

・政府   先住性を認め補償はするが、自決権は認められない。「法」は一つである。

・非先住民 民主主義国家において、特定の集団に特権を認めるのはおかしい。税は平等に使われるべきであり、自決権を認めることは出来ない。

<教育権>

・先住民  独自の文化に基づいた教育を、公教育でおこなえ。

・政府   義務教育・公教育においては、公用語(日本語)による教育が前提。特別な教育は出来ない。

・非先住民 必要なら、私的な教育機関でおこなえ。制度として公教育に持ち込んではいけない。


というようなことになった。こんな風に整理して考えられるようになったのは大進歩だが、問題はこの後である。地球大学では、各コースがクルーズ終了までに、"アクションプラン"なるものを作り出さなければならないのだ。次回・最終回は大変だ……。

10月6日 ラバウル(パプアニューギニア)  晴れ

10:00、ベイロード埠頭着岸。昨日の上陸説明会で聞かされた通り、ラバウルが近づくにつれて吹き上げる噴煙が見えてきた。1994年、町外れのタブルブル火山が噴火し、大量の火山灰に埋まったラバウルは、潰滅状態になったという。2万人以上が生活の場を失い、企業などは隣のココポに移ってしまった中で、コカコーラだけが残っていると……。今も1時間に何回かは黒煙を吹き上げ、火山灰は終日降り続けている。船から見下ろす埠頭には、頭から袋でもかぶっているように完全防備した人びとがいた。

11:00、マイクロバスに分乗して、「旧日本軍戦跡をめぐる」ツアーは出発した。「灰が入るので、窓は閉めてください」ということで、ボール紙張りの窓も含めて閉めていたのだが、30℃近い気温にマスクをしている人もいるのである。もちろんエアコンなどない。「この程度なら大丈夫」と窓をあけ、車は走った。

連合軍の空爆から守るために掘って上陸用舟艇を格納したバージトンネル(中には錆び朽ちた舟艇が何隻かそのまま残っていた)の前の芝生に、地元の人びとが店開きをしていた。なかに幾つかの木彫品があり、30センチ程の顔のレリーフを買った。丁寧に模様が掘りこんであり、気に入った。檳榔子も売っていて、皮をむいて石灰をつけて食べるやり方を教わった何人かが噛み、口を赤く染めている。コカの葉を噛んだような効果があると聞いていたのだが、どうだったのだろう?

ココポ博物館――小学校の理科室のような規模と内容だった!――の前庭には、日本軍の飛行機の一部や機関銃、大砲などが展示(?)されている。その庭で、数人の老人たちが「もしもし亀よ」と「海ゆかば」を歌ってくれた。歓迎してくれたのは確かだが、複雑な気持ちになった。

灰に埋まった旧日本海軍の爆撃機や海軍司令部地下壕、1980年に建ったという戦没者慰霊碑などを廻り、港近くの市場で帰船までの時間を過ごす。独特の色合いで描かれたパレオを買って、船に戻った。さすがに全身灰だらけで、シャワーの後バスタブには灰が残っていた。灰はともかく、こんな所までやって来て、立てこもって……上層部は勝てる道理がないことを知っていたに違いないと思う。やけくそだったんだろうと。彼らのやけくそに殺された兵士たちが、あまりにも悲しい。私の伯父も、敗戦直前の沖縄で死んでいる。死んで昇進して何になる……。

夕食後、ミュージックサロンで民族ダンス"シンシン"が披露された。マスクとボディペインティングの、男の踊りが多い。テンポが早く力強いステップは、戦いの踊りである。また、長い草の茎を身体に叩きつける踊りは、"戦士の証明"なのだろう。ヤマゲンがボランティアで飛び入りし、打ち据えられて歯をくいしばる。えらい!

22:00、出港。さらば、ラバウルよ〜である。

10月7日  晴れ・小雨

午前、講座「言葉・物語・祈り」……アイヌの言葉と精神。

午後には中原さんの講座「女性の国際戦犯法廷」を聞き、夜には映画『スペシャリスト』を見ることが出来た。1961年のアイヒマン裁判の映像資料(350時間分という)を編集して作られたこの映画は、衝撃的である。アイヒマンは悪魔でも殺人鬼でもない、ただの凡庸な小役人に過ぎないということが分るにつれて、なんとも言えない恐怖に捕らえられる。"アイヒマンには誰でもなれる……"。ランズマンの『ショアー』の提起した問題も深刻だったが、これもまた多くの人に見てもらいたい映画である。

23:30からは、プールデッキで地球大学・先住民コースのミーティング、というよりは単なる飲み会か? やがて24:00過ぎに、アクシデントが……。

このプールデッキには<まんだら屋>という屋台がある。独立採算で営業されている食堂・居酒屋で、多彩なメニューとドリンク類で顧客(?)が多く、夜間だけの営業。その<まんだら屋>の定番が"とんこつラーメン"で、この夜「激辛ラーメン対決」という企画があった。

特製激辛ラーメンを最短時間で食べ終えた者が優勝、というものだ。出場者募集のかけ声に、「やってみるか」と乗っかったのが運の尽きだった。1回戦の5人程のメンバーに混ざってカウンターに座る。前回チャンピオンのIさんと、スタッフのI君の間だ。やがて全員の前に並べられたラーメン丼の中は、真っ赤である。「よーい、ドン!」で突入。息を止めて食べる、というより飲み込む……まず、麺を……。水を飲んで、スープを……。これが、辛い! 喉が、胃袋が、痛い……!

前回記録に1分の差をつけて、ダントツであった!……ギャラリーの歓声のなか、デッキの椅子に座り込み、テーブルにへたり込んで、水を飲み続ける。喉から胃袋までの間が、火傷のような痛みに襲われていた。気を失わないだけ、立派だった……。

やっと正常に呼吸が出来るようになった頃、第2回戦が終ったらしく、一段と歓声が大きくなった。なんと、更に1分以上の差をつけてヤマゲンが食べきり、優勝したのである。確か、1分50秒という、信じられない記録であった。凄い!!

幼稚園以来のあらゆる競技における初のスピード記録保持の栄光は、わずか数分間で消えてしまったが、それはオリンピック競技の英雄たちの、何人もが味わった瞬間と同じではなかったろうか……?

食道を焼いた痛みは翌朝には消えていた。ヤマゲンとI君は翌日腹を壊したということだったから、真の強者が誰なのかは明らかである。――自慢にゃならんか……?

10月8日  晴れ

午前中、地球大学・補講。これで最後になる補講では、今後へ向けての「アクション・プラン」を作らなければならない。しかし、航海が終れば全国に散っていってしまうメンバーが、この後も一緒に何かを続けていくことは難しい。"ホームページを作ろう""ヤイユーカラの森のキャンプに行こう"といった程度で、とりあえずは終った。

午後、講座「アイヌの文化と生活」。アイヌの連続講座も最終回。アイヌについて7回、太平洋と先住民族について3回の講座を行なったことになる。水パの諸君、お疲れさまでした……。

夜、『東チモール復興支援/チャリティ・オークション』開催。女性メンバーの水着にはじまり、特上生寿司盛り合わせに到るまで、さまざまな出品商品が競りにかけられ、満杯のミュージックサロンはおおいに盛り上がった。傑作商品を幾つか……。「船内アナウンス権」――毎回食事の前に案内アナウンスが入るのだが、個性的な声と語りのレギュラー・アナウンサーに代わってその役を務めることが出来るというもの。「スイート宿泊権」――船底の船室メンバーには憧れのスイートに、一泊出来るというもの。などなど……。

後日談だが、2万円で落札した生寿司(4人前?)の"キャビア握り"が最高だったとか、一泊3万5千円(だと思った)のスイートに満杯に集まった若者たちの宴会は朝まで続き、一睡もできなかったとか……。チャリティの収益は、126,960円と発表された。

10月9日 チューク(ミクロネシア連邦)  晴れ

7:30、モエン島ポートドック着岸。岸壁には20人程の地元女性メンバーが並び、歌と踊りで歓迎してくれる。デッキから見ていると更に同数の男性メンバーも加わって、賑やかなパフォーマンスを披露してくれた。

9:30、「シュノーケリングで沈船を見る」ツアーに出発。10数隻のボートに7〜8人ずつ分乗して港を出た。ボートが軽いのに"ヤマハ"などのでかい船外機が2基ついていて、なんとも素晴らしいスピードで突っ走る。船体の三分の二を宙に浮かせて、さながらボートレースのように船団は進んでいった。その舳先に身をのりだして腕を広げる若者。見ると周囲のどのボートでも、同じことをしている。デカプリオには見えなかろうに……。

最初のポイントに投錨して、旧日本軍の沈船を見る……つもりで飛び込んだのだが、シュノーケルで空気が入るはずなのに、息苦しくてたまらない。とても、潜って……という気分にならないのだ。ボートの周りで少し泳いでから、舟に上がって……これが大変だった! 船べりに手をかけて上がるのだが、身体が重くて、上がれない。操船していたお兄さんに引っぱり上げてもらい、やっと舟に戻ることが出来た。やれやれ、縄ばしごでもあればいいのに……。

やがて、旧海軍の滑走路があったというエテン島に上陸して昼食。午後はその辺りの珊瑚礁で遊んだ。近くに零戦が沈んでいるというので、ボートや泳ぎで見に行く人びと。特別に見たいわけでもない私は、浅瀬でのんびりと過ごす。どうも片肺の私にとっては、シュノーケルで長時間というのは無理らしい。吐く息が完全には抜けきらず、やがて酸素が足りなくなってくるらしい。背が立つあたりで、海中を眺めていた。ここら辺のナマコは、でかい! 食べられるかどうかは分らないが、とても食べてみる気にはなれない。

モエン島に戻り、岬のホテルに寄って売店で買い物をしたり、ビーチのバーでビールを飲んだ。このクルーズ唯一の海水浴と、最後の上陸が終わった。16:30、出港。

夜は、途中から乗船してきたプロのシンガーと、クルーズ中船内の到る所で歌いまくってきたT君のジョイント・コンサート。残り4日間を、のんびりと過ごしたいものだ……

10月10日  晴れ

午前中、私の水パで在日コリアンMさんとスタッフNさんによる、対話形式の講座。国や民族について話されることの多かった今回のクルーズが、終盤に生み出した企画だった。在日に対する"思い込み"が、意外に根強く残されていることが、改めて実感された。それでもMさん、話せてよかったね……。

午後、「地球大学 発表会」。各クラスの"アクションプラン"は……。

<東チモール> 報告会開催。ホームページ作成。

<先住民族> ホームページ作成。『ヤイユーカラの森』ツアー実施。

<戦争責任> 12月に東京で開催される「女性の国際戦犯法廷」成功への協力。

「世界のことを考えると、いつも日本に考えが戻ってくる」ことに気がついた若者たち。考え続けて生きてほしいと思う……。

10月11日  晴れ

14:00〜22:30、三部に分けて行われる大イベント「太平洋 ハレハレ祭」の準備で、船内は騒然。何もすることがないのだからのんびりしていれば良さそうなのに、何となく落ち着かない。昼食がデッキランチだったせいもあり、本読んだりビール飲んだりで時間が過ぎた。

南京玉すだれに始まった「太平洋 ハレハレ祭」、全25企画。楽しめました。演劇やピアノ演奏は見事だったし、ジャンベ太鼓・デジリドゥ・ムックリの合奏も素晴らしかった。とくに3人のムックリ奏者は、短時間でよくあれだけ鳴らせるようになった!(身贔屓か?)

その後は、地球大学生が集まってプールデッキでカバ・セレモニー。ヴァヌアツのチーフ・ヴィラレオのプレゼントだ。デッキ中の誰彼にふるまって、バケツに3杯を飲み尽くしたが、美味だった。(違う感想を持った人もいたようだが……)

10月12日  小雨のち晴れ

パッキング。お土産(一応は)の分増えた荷物を入れるため、ダンボールを1個購入。船内に散った図書やビデオを回収しながら、箱に詰めていく。"下船説明会"……これまでの"上陸説明会"ではなく、"住所交換会"がひらかれているのも、何となく寂しい。

夜、プールデッキでの「フェアウェルパーティー」。再び花火が打ち上げられた。雨上がりの空に美しく広がる花火を、前回とは違ってしんみりと眺める我々だった……。

24:00、時差発生、1時間針を戻す。日本時間になった。

10月13日  晴れ

さすがに人びとも荷造りに忙しい。その合間にも、船内各所ではさまざまな自主企画が行われており、まさに"寸暇を惜しんで楽しもう"の感。

夜、残酒整理にかかる。水パとの打ち上げ会で始まったのが、地球大学生や通訳、噂を聞いてやってきた人などで、部屋が一杯になった。3:00過ぎに皆が帰り、4:00就寝。

10月14日 東京(日本) 晴れ

6:00過ぎに目が覚め、デッキで一服。まだ陸地は見えない。けれども朝食を済ませて7:30にデッキに出ると、陸地がかすんで見えていた。千葉だ……。帰ってきてしまった。海も空もやけに明るい。気温21℃とアナウンスがあった。日本は、秋だ。

デッキでは、若者たちが携帯を使い始める。が、なかなか繋がらないようだ。

9:00頃から下船の準備が始まる。パスポートが返され、IDカード・船カード(船の出入りに使った)・部屋の鍵を返す。そして入国審査。

12:00、晴海埠頭に着岸。やがてスタッフが運んできてくれた台車に8個のダンボールを積み込んで、船を下りた。税関を通って、構内の宅配便に荷物を預けると、外へ出る。日本だ。


その夜は東京に泊まり翌日帰った我が家の回りは、早くも紅葉が終わりかけていた。夏から晩秋へ、本人は飛び越えた積りでいるようだが、その間の"仕事たち"は勝手な私の飛越を許してはくれない。ツケを払う日々が始まった……。

<終わり>