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ヤイユーカラパーク VOL38 2001.11.8
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おもな内容

インターネットから


日本カトリック正義と平和協議会のメール・ネットで流れてきたものです。翻訳・配信した富永さんのコメントとともに転載します。


『9月14日、アメリカ連邦議会はブッシュ大統領に報復戦争の「必要で適切なあらゆる軍事力」を行使する権限を与える決議を採択しました。上院は全会一致でしたが、下院は420対1でした。唯一の反対票を投じたのがバーバラ・リー議員です。当初は「殺してやる」といった脅迫を受けましたが、カリフォルニアのバークレー、 オ−クランド選出の民主党下院議員であるこの55歳の黒人女性の勇気ある行動は世論の支持を徐々に広げつつあります。

テロ事件からわずか3日後、情報操作も政治的圧力もおそらく日本では想像もできないくらい厳しいものだったと思いますが、本当に勇気ある行動です。そして、民主主義における「少数意見の尊重」とは手続きを民主的に行うと言うだけではなく、最初は少数意見であっても客観的に正しい側が多数派に転化する可能性を保証する物でなければならない以上、アメリカの、日本の、世界の平和勢力が報復戦争を許さない多数派に転化する闘いを進めていきたいと思います。

とりあえずバーバラ・リー議員の下院での発言を翻訳しましたが、この格調高い演説をどれだけうまく翻訳できたか自信はありません。あまり意訳しないで直訳調でも、リー議員の意図が伝われば、と思います』


アメリカ下院議会におけるバーバラ・リー下院議員の発言

議長、私は今日、ニューヨーク、バージニア、ペンシルベニアで殺され傷つけられた、家族と愛する人々への悲しみで一杯になりながら、耐えがたい気持ちで演壇に立っています。

アメリカ国民と全世界の何百万もの人々をとらえた悲しみを理解しないのは、最も愚かな者か、最も無神経な者だけでしょう。

アメリカ合衆国に対するこの筆舌に尽くしがたい攻撃のために、私は向かうべき方向を求めて、自らの道徳指針と良心と神に頼らざるをえませんでした。

9月11日は世界を変えました。最も深い恐怖が、今や私たちの心に付きまとってます。しかしながら私は、軍事行動がアメリカ合衆国に対する国際的なテロリズムのこれ以上の行動を防ぐことはないと確信しています。

私は、大統領はこの決議がなくても戦争を行なうことができることを私たち全員が分かっているにもかかわらず、この武力行使決議が通過するのだということを知っています。

この[反対]投票がどんなに困難なものであろうとも、私たちの何人かが、自制を行使するように説得しければなりません。

しばらく距離を置いて今日の私たちの行動のもつ意味を通して考えよう、その結果をもっと十分に理解しよう、と言う者が私たちの中にいなければなりません。

私たちは従来型の戦争を扱っているのではありません。私たちは従来型のやり方での対応はできないのです。

私はこの悪循環が制御不能になるのを見たくありません。今回の危機には国家の安全や外交政策や社会の安全、情報収集や経済、殺人といった諸問題が入っているのです。

私たちの対応は、それと同様に多面的でなければなりません。

私たちはあわてて判定を下してはなりません。

あまりにも多すぎる罪のない人たちが、既に亡くなりました。

アメリカ合衆国は喪に服しています。もしも私たちがあわてて反撃を開始すれば、女性や子どもやその他の非戦闘員が、十字砲火を浴びるという大きすぎる危険に遭う恐れがあるのです。

同様に私たちは、残忍な殺人者によるこの狂暴な行為に対する正当な怒りがあるからと、あらゆるアラブ系のアメリカ人やイスラム教徒、東南アジア出身者や他のどの人々に対しても、人種や宗教や民族を理由として偏見をあおることはできません。

最後に、私たちは退場の戦略も確かな標的もなしに、無制限の戦争を開始しないように注意を払わなければなりません。

私たちは過去の過ちを繰り返すことはできません。

1964年に連邦議会は、リンドン・ジョンソン大統領に、攻撃を撃退しさらなる侵略行為を防ぐため「あらゆる必要な手段をとる」権力を与えました。その決定をした時、本議会は憲法上の責任を放棄し、長年にわたるベトナムでの宣戦布告なき戦争へとアメリカ合衆国を送り出したのです。

当時、トンキン湾決議にただ二人反対票を投じたうちの一人であるワイン・モース上院議員は言明しました。「歴史は、我々がアメリカ合衆国憲法を覆し、台無しにするという重大な過ちを犯したということを記録するであろうと私は信じる。……次の世紀のうちに、将来の世代の人々はこのような歴史的な過ちを現に犯そうとしている連邦議会を、落胆と大いなる失望をもって見ることになるだろうと私は信じる。」

モース上院議員は正しかったのです。私は今日、同じ過ちを私たちが犯しているのではないかと恐れています。

そして私は、その結果を恐れています。私はこの投票をするのに思い悩んできました。

しかし私は今日、ナショナル・カテドラルでのとても辛いが美しい追悼会の中で、この投票に正面から取り組むことにしたのです。牧師の一人がとても感銘深く「私たちは行動する際には、自らが深く悔いる害悪にならないようにしましょう。」と語ったからです。


こういう政治家が、日本にはいないのでしょうか?

事件直後、伝えられる報道のなかでかすかな希望はこのリー議員の行動と、オノ・ヨーコがニューヨーク・タイムスに載せた全面広告――紙面の中央に"イマジン"の歌詞が一行だけ――だったのですが……。

もうひとつ、カトリック麹町教会のフランシス・酒井さんが配信してくれたドキュメントを、酒井さんのお許しをいただいたので転載します。『兄弟、もし嫌じゃなければ……』

インターネットで飛び交う情報や、抗議行動への参加要請。声明に署名し送信しながら、堪えがたいはかなさと無力感にとらわれるのは私だけではないでしょう。辛い時代です。


『兄弟、もし嫌じゃなければ……』

<Date: Sep-14-2001 01:43:45 AM>

ぼくの名前はウスマン・ファーマン、今年の5月にベントレー大経済学部を卒業した者です。21歳で、10月には22になります。ぼくはパキスタン出身で、イスラム教徒です。2001年の9月10日まで、ワールドトレードセンターの7番ビルで働いていました。ちょうど反対側にある1番ビルで働いている知り合いや友達もいます。何人かは逃げ出すことができて、何人かはまだ行方が分かっていません。ぼくはこの恐ろしい事件をなんとか生き延びました。ぼくらがまだ一緒にやっていけるように願って、あのひどい日に、いまだに規模さえ分かっていない悲劇の最中に、ぼくが経験したことをみなさんと分かち合いたいと思っています。ぼくが知ったのは、ぼくたちが誰であっても、どこの出身でも、ぼくらはただ互いに受け入れ合っているんだということです。

ぼくは毎朝ニュージャージーから電車で通勤しています。というか、そうしていました。今でも何が起きたのか信じられないでいます。あの朝、ぼくは目を覚ましてベッドから抜け出し、電車に乗り遅れるんじゃないかとやきもきしながら、ぎりぎりの一本に乗り込みました。なんとかして仕事に間に合うようにしなきゃと、ひたすら自分に言い聞かせていたのを覚えています。どうにか7時48分の電車に乗って、ホーボーケンに8時20分に到着しました。着いてから何か食べようと思い立ちましたが、我慢してPATH(訳注:Port Authority の経営する New Jersey 州と Manhattan間の通勤列車線)に乗ってワールドトレードセンターに向かいました。ワールドトレードに着いたのは8時40分でした。7番ビルのロビーに入ったのが8時45分、そのとき最初の飛行機が激突しました。

もしもっと後の電車に乗っていたり、何か食べたりしていたら、5分遅れて横断歩道を歩いていたかもしれません。もしそうだったら、炎や破片の雨に降られて、ここでこうしてみなさんに語りかけていることもなかったでしょう。死んでいたかもしれません。

ロビーにいて最初の爆発音を聞きましたが、よく分かりませんでした。外では工事も行われていましたし、足場が落ちたのかなと思ったのです。エレベーターに乗って27階のオフィスに昇りました。中に入ると、そこは空っぽでした。警報も鳴っておらず、スプリンクラーも作動せず、何もなかったのです。ぼくたちのオフィス、あるいは働いていたオフィスは、7番ビルの南側にありました。ぼくたちは北ビルと南ビルのすぐそばに、文字通り石を投げたら北ビルに届くくらいの所にいたのです。

携帯電話が鳴って母と話し、生きているよと伝えると、まさにそのとき二番目のビルの爆発が起こるのが見えました。ボストンにいる友達に電話して、彼女を起こしてみんなにぼくは無事で、今から逃げると伝えてくれと頼みました。もう一度下を見下ろし、いつも昼を食べていた広場と噴水を見ると、煙を上げる残骸で埋まっていました。

どうやらぼくがこのビルに残った最後の一人らしく、エレベーターでぼくが昇って来るときには同僚はみんな階段で下に降りていたようです。避難するときには混乱はありませんでした。みんな落ち着いて互いに助け合っていたのです。妊娠中の女性が階段で下まで運ばれていました。

ぼくが見たもっとひどい詳細については、割愛します。誰もそんな光景を目にする義務はないし、描写するのは人間の品位を越えています。これからの一生ずっとぼくにつきまとうだろうし、ぼくの心はあの事件で命を失った人たちみんなと、事件の痛ましい記憶と共に生き延びた人たちに向けられているのです。ぼくの知り合いがビルから逃げられたのは、千人もの人たちが煙から逃れる道を見つけようと人の鎖を作ったからに過ぎません。あの日はみんながヒーローでした。

ぼくたちは7番ビルの北側に避難しました。建物からはまだ1ブロックから離れていません。警備の人たちは北に行け、振り返るなと言っていました。5ブロックほど進んで振り返って見てみました。何千人もの人たちが驚愕しながら見つめる中、最初のビルが倒壊しました。

そんなことが起きるなんて誰も信じられませんでしたし、今でも超現実的で想像も出来ません。次に覚えているのは、5階くらいの高さのガラスと瓦礫の真っ黒な雲がこちらに転がるように向かってきたことです。ぼくは振り返って大急ぎで逃げました。昨日までどうして自分がこんなに悲しんでいるのか分からなかったけれど、それは逃げる途中で転んでしまったからです。次に起きたことが、ぼくにここに来てこのスピーチをさせたのです。

ぼくは仰向けに転がって、この巨大な雲が近付いてくるのを見ていました。600フィートくらい離れていたでしょうか、もう辺りはすっかり暗くなっていました。ぼくは普段から首にアラビア語で安全のためのお祈りが書かれたペンダントをかけています。ちょうど十字架のようなものです。するとハシディズム派のユダヤ人が近付いてきて、ペンダントを手に取って見たのです。彼はアラビア語で書かれた言葉を声に出して読み上げました。次に起きたことは忘れません。強いブルックリン訛で彼は言いました。「兄弟、嫌じゃなかったら、ガラスの雲が近付いているから、俺の手を取りなよ、ここからずらかろう」彼はぼくが起きるのを手伝って、それからぼくたちはまるで永遠に思えるほどの時間をずっと振り返らずに走り続けました。まさか彼のような人がぼくを助けてくれるとは思いませんでした。彼がいなければ、ぼくはきっとガラスと瓦礫の雲に飲まれていたでしょう。

ようやく20ブロックほど離れたところでぼくは立ち止まり、2番目のタワーが崩落するのをぞっとしながら眺めました。タワーの下の通りに逃げ出した人がいるんだと気付いたときには恐怖を覚えました。前にも書いたように、あのビルが崩落するなんて誰も思わなかったのです。ショックと信じられないという気持ちのまま、ぼくたちはミッドタウンまで徒歩で行きました。3番街と47番通りの交差点にある姉のオフィスまで3時間かかりました。いくつかの通りは完全に見捨てられ、完全に静かで、車もなく、何もなく……ただ遠くでむせぶようにサイレンが鳴るだけでした。

ぼくはなんとか家に電話して大丈夫だと伝え、ぼくの安否を気遣う同僚と友達に連絡を取りました。ぼくたちはなんとかニュージャージーに車で行くことができました。ジョージ・ワシントン橋を渡るときに振り返ると、タワーは見えませんでした。あれは現実のことだったのです。

世界があの悲劇からまき直しを図るにつれ、道端にいる人たちも激しく非難するようになりました。ぼくの家からそう遠くない所で、あるパキスタン人の女性が身の回りの品々を車に積もうと駐車場を横切っていたところを、故意に車で轢かれました。彼女の唯一の過ち(?)は頭を覆って、ぼくの故郷の伝統的な衣装を身に纏っていたことだけなのです。コミュニティにいる家族の無事が心配になります。ぼくの姉は今では怖がって、通勤に地下鉄に乗れません。ぼくの8歳になる妹の学校はロックダウンされて武装した警官に見張られています。

暴力は暴力しか生まず、恐怖と憎しみにかられて互いを襲撃し合っても、この惨劇を引き起こした名無しの卑怯者と少しも違わないのです。もしぼくを助け起こしてくれたあの男性がいなければ、今頃ぼくはきっと病院にいたかもしれないし、そうじゃなければ死んでいたかもしれません。助けはいちばん期待していなかったところからやって来て、その結果、ぼくたちは人種や宗教、民族に関係なく、みんなここに一緒にいるんだということをただ教えてくれたのです。これこそがこの国の基礎になっている主義というものです。

どうか少しの間でも、あなたの周りの人たちを見てください。友だちや見知らぬ人たち、この危機の時であれば、誰でも助けが必要なときには身近にいる人に助けてもらいたいはずです。ぼくを助けてくれたのは普段は話し掛けてさえくれないだろうと思っていた人でした。今こそニューヨークやワシントンにいる人たちのために何が出来るか自分の胸に聞いてみてください。献血をするのもいいですし、衣服や食べ物、お金を送るのもいいでしょう。亡くなった消防士たちや警察官、救急隊の人たちの家族を助けるための基金も設立されています。いちばん役に立たないのは、ぼくたちが互いに攻撃し合うことで、それこそが連中の思うつぼなのであって、ここにいる人たちは誰もそんなことは望んではいないのです。

ぼくの名前はウスマン・ファーマン、ベントレー大経済学部を去年の5月に卒業しました。21歳で、10月には22になります。ぼくはパキスタン人でイスラム教徒であり、そしてぼくもまたこのひどい悲劇の犠牲者なのです。今度みなさんが怒りを覚え、自分なりに仕返ししてやろうと思ったときには、どうかこの言葉を思い出してください。

「兄弟、嫌じゃなかったら、ガラスの雲が近付いているから、俺の手を取りなよ、ここからずらかろう」