ここで、この堂を捧げられている、マグダラのマリアについて書かせてください。
マグダラのマリアとは、聖書の著名な登場人物で、聖女とされる人です。
私は、この人物に、非常に思い入れがあります。ドラマチックな生涯を送ったとされる人です。
最近、映画“ダ・ヴィンチ・コード”でも登場していて、そのイメージが強い人もいるかもしれません。
一般には、前身が娼婦(聖書にはそうだという記載はありませんが)で、イエスに出会い、改悛し、その後は一途にイエスに従って行った人物とされます。
私は昔から、自分のことに悩み、キリスト教についていろいろ自分なりに調べた(でも結局入信などはしなかったですが)ので、その折に、遠藤周作さんの著作などを読み、氏の「聖書の中の女性たち」というエッセイで彼女について知りました。
氏によれば、彼女は、聖書の中で、「7つの悪魔のその身より出でたる」と表現され、つまり、悪徳に染まりきっていたところを、イエスに出会って改悛した女性で、一般には娼婦であったと解釈されるようです。
氏の(というか、大抵の)解釈では、彼女は情熱的であるゆえに、世の中の欺瞞などに耐えられず、却って余計に罪に走ってしまったのであろうとされています。
彼女はその後、本当に一途にイエスに従って行き、ゴルゴダの丘でイエスが磔刑に処せられた時も、自分達も捕縛されることを恐れて隠れている、いわゆるイエスの12使徒達を尻目に、磔刑の後、その頃死者を送る儀式として重要とされていた、遺体に香油を塗る為、イエスが穴に投げ込まれた丘へと、他の女性2、3人と共に、先頭を切って向かいます。
しかしそこで彼女が見たものは、巨石で封印されている筈の穴の上の、その巨石が横に転がっている光景でした。穴の中にあるはずの遺体はなくなっていました。
彼女は驚き、取って返して渋るペテロ(初代教皇とされる)ら2人程を強引に連れて行き、様子を見させます。
彼女が放心して(或いはすすり泣いて)いると、朝もやの中から誰かが近づいてきます。
彼女はその人が墓守だと思い、こう話しかけます。
「私の師の遺体をどこへやったのですか? 引き取りますので教えてください」
その人は彼女に近づいてこう声をかけます。「マリアよ」
つまりその人は、磔刑に処された後、再来したイエス・キリストで、彼女は、復活した彼に、地上の人で初めて会ったのです。かつて罪と汚辱にまみれた存在であった彼女が。
この、復活したイエスに初めて会ったが故に、彼女は聖女とされます(と私は理解しています)。
すなわち、彼女の物語は、罪を負う人間と言うものへの救済という、キリスト教の真髄を体現しているとも言えます。
ダ・ヴィンチ・コードでは、彼女はキリストの妻或いは愛人と設定されているそうです。
この映画のおかげで、そのように思い込んでいる人が増えたとも聞きます。
その情熱的な半生故に、そういう解釈も古くから一部にあるようですが、私はそう思いたくありません。
私はミュージカルなども好きで、特にジーザス・クライスト・スーパースター(劇団四季版)が好きです。
(イエスの最後の10日間を描いた作品です。イエスが磔刑に処される所で終わります。)
それは贔屓の男優さんがはまり役を演じているということもありますが、
マグダラのマリアがかなり大事な役柄で登場し、すばらしいアリアを2つ程歌う為でもあります。
一つは、「Everything all right」、様々なことに苦悩するイエスを慰める歌、
もう一つは、「I don't know how to love him(邦題:私にはイエスが判らない)」、
イエスが寝入った後で、彼に対する彼女の思いを歌う歌です。原文の直訳を一部書きます。
“どのように彼を愛していいのかわからない”
“もし彼が私を愛していると言ったなら、私は当惑し、怯えて彼の前から走り去るだろう”
(注:日本語の訳詞は、メロディに合わせてかなり翻案(意訳)されています。)
本当に可愛らしい歌です。
この作品の演出家のティム・ライスは、イエスと彼女の関係について、“男女の仲であったかどうかは判らないが、そうであった可能性もあるだろう”と某所に書いていました。問題なのはその類の事が実際にあったかどうかではなく、彼女の一途さ、魂の真の意味での清らかさが大事と言うことでしょう。私の認識もその程度です。
それは、聖母マリアに象徴される、“処女性”という意味での清さ(それはそれで大事ですが)ではありませんが、やはり大事なものだと思います。
であるから、神の光にあふれたという印象を与えるこの美しく白い聖堂は、罪を赦されて、地上で最初に復活したキリストに会ったとされるマグダラのマリアにこそふさわしいと思えるのです。 |