269.愛撫-Caress-
1991年7月14日(日)PM:18:44 中央区精霊学園札幌校第一学生寮女子棟四階四○五号

 ベッドの上にいるマテア・パルニャン=オクオ。
 丸くなっている彼女。
 側には、雪乃下 巫(ユキノシタ ミコ)が座っていた。
 優しくマテアの頭を撫でている。

「ふーん、私達が実家に顔出してる間に、そんな事があったんだねぇ」

「ハイなのです」

「これ、もう一口食べる?」

「うにゃ、食べる」

 巫の隣、マテアと反対側。
 トレーに載せられた芋羊羹がある。

「甘すぎないのでおいしいです」

「そうだね。これさ東京の本家の人がくれたんだけど。何か浅草だかまで行って買ってきた有名なお店のらしいよ」

「そうなんですか。それでアサクサって何処です?」

「私もあんまりよくは知らないけど、東京はわかるよね?」

 確認するように、マテアに視線を向ける巫。

「一応ここ日本という国の首都だという事は理解しているつもりなのです」

 彼女の言葉を聞いた巫。
 芋羊羹を一切れ、マテアの口元に持っていく。
 頭を上げたマテアは、喜々として齧り付いた。

「うん、その首都にある下町の一つらしいよ。私も実際に行った事があるわけじゃないから、どんな所かは知らないけどね」

「そうなんですか。行ってみたいですね」

 おいしそうに頬張っているマテア。
 飲み込んでから答えた。

「そうだね。まぁ、今日は何だかとりあえず頑張ったみたいでお疲れ様」

「ありがとです」

 巫に撫でられているマテア。
 気持ち良さそうに喉を鳴らしている。

「喉が・・」

「喉?」

 マテアの言葉に、しばし考えあぐねた巫。
 芋羊羹を一切れ食べた所で思い至った。

「あっちに移動しよっか」

 テーブルを指した彼女に、目で頷いたマテア。

 トレーを両手で持つ巫に続く形で歩く。

「何飲む? 牛乳とサイダーがあったはずだよね」

「サイダーで」

 椅子に座りながら、爛々と瞳を輝かせたマテア。

「私もサイダーにしよ」

 テーブルの真ん中にトレーを置いた巫。
 サイダーの入ったコップを二つ持って戻ってくる。
 一つをマテアの前に、もう一つをテーブルを挟んで反対側に置いた。

 よほど飲物を欲していたようだ。
 マテアはコップを両手で囲むように掴む。
 サイダーを一気に喉に流し込んだ。

「喉の中がシュワシュワ」

 コップを置いた後のマテアの言葉だ。

「そんなに慌てて飲まなくても」

 苦笑いの巫も、座った後サイダーを一口。
 芋羊羹を食べながら、今しばらく二人の会話は続いた。

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1991年7月14日(日)PM:18:56 中央区精霊学園札幌校第二学生寮女子棟一階一○三号

 ベッドに潜り、眠りに落ちている白紙 伽耶(シラカミ カヤ)。
 もぞもぞと動くと、閉じていた瞼を半分開いた。
 しばらくして、空腹を訴える音が奏でられる。

「お腹空いた」

 ぼそりと溢した伽耶。
 鼻腔を擽る香りに気付く。
 再びお腹が空腹を訴える合唱を始めた。

「あ? おはようございます」

 台所から現れた極 伊麻奈(キワ イマナ)。
 エプロン姿の彼女。
 伽耶の目覚めに気付いたのだ。

「伊麻奈ちゃん、おはよー。もしかして聞こえてた?」

「え? 何がですか?」

「聞こえてないなら気にしないで。で何かいい匂いしてるけど?」

「シチュー食べたくなったので調理してました。伽耶さんも一緒に食べます?」

「うん、丁度お腹空いたところだったんだ」

「それじゃもうすぐ出来ますので、お待ち下さいね」

「わかった」

 台所に消えて行った伊麻奈。
 彼女を見送った伽耶。
 彼女は別の事を考え始めた。

「沙耶、大丈夫かな? 絶対あの顔は気にしているよね。あんな奴だけど、一時期は一緒に学んだ仲間だったわけだし。私と違って根暗な所あるからなぁ」

 言葉の後に漏れる溜息。

「沙耶自身が自分で振り切るしかないんだろうけど、何か後押し位出来ないかなぁ?」

 そのまま、何するでもない。
 上半身を起こした伽耶。
 しばらく遠くを眺める。

 台所に消えた伊麻奈。
 彼女に呼ばれるまで物思いに耽る。
 伽耶はずっとそのままだった。

「伽耶さん、出来ましたよ」

 トレーにはシチューとツナとゆで卵のサラダ。
 軽くトーストされたフランスパン。
 パジャマ姿のままの伽耶。
 だるそうに立ち上がった。
 ゆっくり歩き、椅子に座る。
 伊麻奈は、彼女が座る前に配膳を終わらせていた。

「それじゃ、食べましょうか。頂きます」

「頂きます」

 伊麻奈の言葉に追従した伽耶。
 スプーンにシチューを掬う。
 少し冷ましてから口に含んだ。

「今日ほおいひい」

 少しだけ苦笑している伊麻奈。
 口の中を空にした伽耶。

「やっぱり、小さい頃から料理してると違うなぁ。私なんかほとんど手伝った事ないや」

「最初は言われるままだったんですけど、段々料理が楽しくなったのもあるんだと思います。でも、まだ一人で作れるメニューは限られてますけどね」

「そっか。楽しいってのは重要かもねぇ」

 その後は、一心不乱にお腹を満たし始める。
 満足そうに彼女を見ている伊麻奈。
 彼女はゆっくり食べていた。

「伽耶さん、今日はお疲れ様でした」

 食べる合間を縫っての伊麻奈の言葉。
 伽耶はぽかんと口を開けたままになった。

「そんな顔しなくても。先生方のお手伝いをした後、戻ってきたら眠っていたので。相当お疲れだったんだなと思ってたんですよ」

「あ!? うん、確かに疲れたかも。でもそれなら伊麻奈ちゃんだってお疲れ様だよ。ヘルプ? 援護? ありがと。言わなきゃって思ってたんだから」

「いえいえ、私も砂ちゃんも自分がそうしたいからしただけですし」

 少し照れたようにはにかんだ伊麻奈。

「それでも、ありがと」

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1991年7月14日(日)PM:20:04 中央区精霊学園札幌校時計塔五階

 何とはなしにテレビを見ている古川 美咲(フルカワ ミサキ)。
 テーブルの上には食べかけの焼き魚。
 古風な絵柄の麒麟の描かれた麦酒の缶が二つ。
 手前側の缶を右手で掴むと、一気に呷った。
 飲み干した空き缶を無意識に握り潰す古川。

「まさか全く歯が立たないなんてな」

 自嘲気味に呟いた彼女。
 もう一つの缶を右手で掴んだ。
 器用に片手でステイオンタブ式の麦酒の飲み口を開けた。
 口を付けて、ごくごくと勢いよく飲み干す。

「何だかんだでショックなんだろうな」

 一度缶をテーブルの上に置いた。
 焼き魚の載せられている皿。
 落ちないように置かれていた箸を握った。

「初体験ってわけではないが、やはり不便なのは不便だな」

 独り言を溢した古川。
 魚の身を雑に箸で取ると、口に放り込む。
 テレビでは何かのバラエティらしき番組が放映されていた。

 興味があるわけではない。
 ただ何となく見ている古川。
 そこにインターホンが鳴る。

「こんな時間に誰だろう? 茉祐子なら勝手に入ってくるはずだしな」

 こんな時間の訪問者に訝しむ古川。
 だが、無視するわけにもいかない。
 緩慢な動作で立ち上がる。
 訪問者を確認し反応を返す。
 その時の彼女の表情は、驚きに塗り潰されていた。

「彩耶!? 今開ける」

 扉の鍵を開錠し、白紙 彩耶(シラカミ アヤ)を招き入れる。

「はろぅ、ファビオ君から話しは聞いたけど、手酷くやられたものね」

「何がはろぅだよ」

 苦笑いの古川。

「本当手酷くやられた。明日行くつもりだったんだけど、立ち話も何だし入るといいさ」

 右手で入るように促す古川。
 靴を脱ぐと、遠慮なく歩いていく彩耶。

「美咲、あなたお酒呑んでるでしょ?」

「ん? まぁね。しばらくご無沙汰だったしな」

「全く。負傷した当日なのにって毎度同じ事を言ってる気がするな」

「奇遇だね。私も毎度同じ事言われてる気がしてた」

 にこりと微笑む古川に、呆れた表情の彩耶。

「彩耶も飲む?」

「飲みません。私は車ですから」

「だよね」

「わかってて聞いたんですか? はぁもう」

 テーブルを挟んで座る二人。

「悪いが、こんな様なんでね。喉を潤す何か欲しければ、勝手に冷蔵庫から持ってきてね」

 彼女は、右手で冷蔵庫を指し示す。

「お酒の他に何かあるの?」

 立ち上がって冷蔵庫の前まで移動した彩耶。

「ミネラルウォーターとスポーツドリンクならあったと思う」

「勝手にコップ使うわよ」

「ご自由にどうぞ」

 彩耶がスポーツドリンクをコップに入れ始めた。
 戻るまで焼き魚を啄ばむ古川。
 コップ片手に彩耶が戻って座った。

 箸を落ちないように皿に載せた古川。
 まるで乾杯をするかのようだ。
 呑み掛けのビールの缶を掴み掲げた。

 呆れた表情になっている彩耶。
 それでもコップを缶に静かにぶつけた。
 彼女はそのまま、二口程飲んだ。