| 278.退屈-Ennui- |
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1991年7月16日(火)PM:21:22 中央区精霊学園札幌校第二職員寮四階四○五号 何が超越者になれるだ。 奴の甘言に誑かされた結果がこれか。 くそ、血が吸いたい。 「白い肌の首筋に歯を突きたててやりたい」 駄目だ、欲望に飲み込まれてはならない。 何としても耐えねば駄目だ。 あぁ、でも血を吸う時の快楽を味わいたい。 「駄目だ駄目だ駄目だ」 理性を保つんだ。 「ぐぁぁぐぅ」 血が欲しい。 「血が吸いたい」 耐えないと駄目だ。 折角手に入れた楽園なんだ。 この手で壊すなんて有り得ない。 薄い桃色の髪、雪のように白い肌。 伊麻奈ちゃんの柔らかそうな首に牙を。 「いや、俺は何を考えてるんだ?」 血の欲求に飲まれるな。 真理香ちゃんも詩望ちゃん。 二人も柔らかくておいしそうだ。 最初は彼女達も少し痛いだろう。 けど、死なない程度に飲めばいいじゃないか。 あぁ、くそ、駄目だ。 こんな事考えちゃいけない。 本能に侵食されちゃ駄目なんだ。 理性を掻き集めろ、掻き集めるんだよ。 白い肌に牙を突き立てて、鮮やかに彩る血もいい。 褐色の肌に滴る血も違う味わいがあるんだろうな。 「あぁ、がぁがぁぁ」 耐えろ耐えろ耐えるんだ!! 街に行くまで耐えるんだ!! 「ぐがぁぁぁぁぁ」 彼は拳を握り締めている。 食い込んでいく爪。 血が吹き出しても痛みに耐え続けた。 理性を上書きしそうな本能。 奥歯を噛み締めて、耐え続ける。 防音性のある構造の室内。 幸か不幸かはわからない。 無意識に発した叫び声に唸り声。 誰にも聞かれる事はなかった。 ----------------------------------------- 1991年7月16日(火)PM:21:45 中央区精霊学園札幌校第一学生寮女子棟二階二○五号 「デンワダヨ」 受話器を持っているルラ。 振り向いて、十二紋 柚香(ジュウニモン ユズカ)の顔を見た。 「私?」 「ウン、ジュウニモンアヤカトイウヒト」 彼女から受話器を受け取った柚香。 「綾姉さん、お久しぶりです」 『突然電話してごめんね。本当は午前中のうちに連絡したかったんだけど。霧香に伝える時間しかなくて。でも、そんな久しぶりでしたっけ?』 「半年とちょっと? 元旦に会ったきりですよ」 思わず笑みの顔になる柚香。 『あぁ、そうかそうだね。霧香には会ったんだよね?』 「うん、今日訪ねてきたよ。ここに入学してたなんて知らなくてびっくりしちゃった」 『私も職員として近々行く予定だったから、本当は柚香を驚かそうと黙ってたんだけどね。早急に伝える必要があったから』 電話口の十二紋 綾香(ジュウニモン アヤカ)。 受話器越しの声ではある。 だが、少しだけ沈んだ感じになった。 「霧香ちゃんが言ってたけど、錐茄さんが現れるかもしれないって?」 『えぇ、そうなの』 「だって彼女は収監されたんじゃ?」 『そうよ。収監されてた。でも逃げたそうよ。実は今日、警察に呼ばれたんだよね。警察署で事情を説明してくれたの。説明してくれた人は警察官じゃさそうだったけどね。それで場所までは教えて貰えなかったんだけど、収監されていた刑務所が襲撃されたらしく、混乱に乗じて逃げた囚人がいるんだってさ。それでその中に、十二紋 錐茄(ジュウニモン キリナ)も含まれているそうなの。だから、こっちも注意するけど、柚香も注意してね』 「あの人が・・・・。うん、わかった。教えてくれてありがと」 ----------------------------------------- 1991年7月17日(水)AM:8:38 中央区精霊学園札幌校第四学生寮男子棟二階二○二号 皿洗いを終えた形藁 勲(ナリワラ イサム)。 台所から移動した。 ベッドを椅子にして座っている河村 正嗣(カワムラ マサツグ)。 彼の声が響く。 「勲、悪いな。いろいろと押し付けて」 「しょうがありませんよ。正嗣さんは疲労でまだ動くのも一苦労なんですから」 「いやー、本当すまない」 心底申し訳無さそうな顔の正嗣。 「回復したら、当分やってもらいますからね」 「え? あぁ。もちろん」 「だから、今は存分に休んで回復させてください」 勲は形藁 伝二(ナリワラ デンジ)の子供である。 そして正嗣は、既に事を知っていた。 何故なら勲達が正嗣達に伝えたのだ。 かつて伝二に殺されかけた正嗣。 思う所がないわけではない。 伝二の子供だと知るまで、モヤモヤしていた。 それは、彼だけではない。 一緒に話しを聞いていた面々も同じであろう。 だが、勲は伝二ではない。 また伝二も勲ではないのだ。 だから、正嗣達は何も言わない。 六月十日の件で、形藁一家を責める事はしなかった。 親と子として、実際どんな関係だったのかは不明だ。 だが、勲達の話し振りから、あまり良好な関係ではなかった。 その事だけは、正嗣も何となくは理解出来ている。 彼等を責めるのは筋違いだ。 もちろんそれもある。 だが、伝二の子供である事を告げられた。 その後に憐憫の情が湧かなかったのか。 もし聞かれれば、正嗣自身は否とは答えられない。 見方によっては、違う意味での侮辱になりそうだ。 なので、結局彼はその事について触れない。 慰めの言葉を掛けたりはしなかった。 ----------------------------------------- 1991年7月17日(水)AM:10:20 中央区精霊学園札幌校時計塔五階 非常に退屈そうな表情だ。 テレビを見ている古川 美咲(フルカワ ミサキ)。 左手は吊るしたままの状態。 右手で適当にチャンネルを変えた。 そこに聞こえるインターフォンの音。 「はいはい。今行きますよ」 誰に聞かせるでもなく呟く。 来訪者はファビオ・ベナビデス・クルスだった。 「ちゃんと大人しくしていらっしゃるようですね。さすが茉祐子さんだ」 「あぁ、おかげで昨日はあの後酷い目にあったがな。怒られるは泣かれるは説教されるは小言も言われるわでな」 「いい気味です。少しは自信の体の心配もするようになってくれませんとね」 微笑するファビオに、古川は苦笑いだ。 「で何だ? 笑いにでも来たのか?」 「そうですね。それでもいいですけど。多分気になっている事の一つだと思うので、報告ですよ」 「気になっている事の報告?」 怪訝な表情になる古川。 「はい。封印処理されていた黒異装器ですが、推測通り綻びが確認されました。早急に対処するとの事で、一箇所は修正完了。残りの一箇所も本日中に修正完了する予定との事です」 「春己様の考えが的中か」 「はい。そうなりますね。春己様は本日現地に向かい、探索を試してみるとの事です。あぁ後、茉祐子さんが昼頃に来るそうです」 「あぁ、わかった。早急に私の判断が必要な案件は?」 「今の所はありません」 「そうか。で凄く退屈なんだけど」 「体を休めるにはいい事じゃないですか」 即反応を返したファビオ。 古川は苦笑いのまま何も言えなかった。 ----------------------------------------- 1991年7月17日(水)AM:11:11 中央区精霊学園札幌校第二職員寮二階二○二号 下着姿のままの破廉恥な格好。 ベッドに寝転がっている山中 惠理香(ヤマナカ エリカ)。 腹部には包帯が巻かれている。 「まさか体が拒否反応を示すなんてね」 どんよりとした表情だ。 彼女は小さな声で呟いた。 「自分では過去の出来事だと言い聞かせたつもりだったけど、本当つもりなだけだったんだな」 彼女の目には少し隈があるのがわかる。 「自分の犯した罰から逃げただけだもんね。苦しみから目を逸らしていただけだったのかもな」 無意識に細めた目。 彼女はいま、ここではない過去を見ている。 記憶から消してしまいたい過去。 状況的にどうしようもなかった事ではある。 とは言え、実の教え子をその手にかけた。 その事実は覆る事はない。 「私は結局事件があの後どうなったのかも知らないんだな。美咲もあの後については、私の前で触れた事もないし」 右手を天に向けた惠理香。 何かを掴むように握り締めた。 「忘れちゃ駄目だったんだろうな。私が償う為には、あの事件の真相を明らかにする事だったんだ。今更気付いてもどうしようもないのにね」 完全に瞼を閉じた惠理香。 暫しの間、そのままの状態。 時間だけが過ぎていく。 二分程経過してから彼女は目を開いた。 「今更だけど、手掛かりなんてもう見つからないのかもしれないけど。まずはどうなったのか確認するのが、罪滅ぼしの第一歩だよね」 まるで誰かに許しを請うかのようだ。 彼女はそっと呟いた。 |