289.楕円-Oval-
1991年7月24日(水)PM:17:08 中央区精霊学園札幌校小等部一階

 血を吸い始め、恍惚の表情になる浅村 有(アサムラ タモツ)。
 左手は黒瓜 伊砂(クロウリ イズナ)の左胸へ向かう。
 右手は太腿と太腿の間を優しく撫で始める。

 本能の赴くままに行動し始めている彼。
 外の状況を把握出来なかった。
 誰かが走り出す音。
 少しして扉が開けた音が聞こえる。
 隣の理科室に誰かが侵入してきたのだ。

 理科室と理科準備室を繋いでいる扉。
 突然、その扉が開けられる。
 その時まで、浅村は異変に気付いていなかった。

 まともな戦闘訓練等受けた事のない彼。
 素人である彼は、力に溺れている。
 周囲を警戒するという事を怠っていたのだ。

 驚きの眼差しの浅村。
 彼の視界に飛び込んできた人物。
 緋色髪に緋色眼のポニーテールの色名 緋(シキナ アカ)。
 冷たい眼差しで浅村を見ていた。

「浅村先生、何をなさっているのですか?」

 彼が何をしているのか?
 直ぐには把握出来なかった緋。
 伊砂のほとんど光を失った瞳。
 まるで狙ったかのようだ。
 彼女の首筋から垂れて来た血。
 直感的に、異常な状態だと理解した。

「茉祐子さん、誰か先生を呼んできて下さい」

 遅れて緋を追って来た竹原 茉祐子(タケハラ マユコ)。
 彼女が、理科室の扉に辿り着いていた。
 緋の言葉に、状況を把握出来ない茉祐子。
 しかし、彼女の表情が微かに険しい。
 その事が決定打となり、茉祐子は走り出した。

 浅村から茉祐子に視線を移動。
 再び浅村に戻すまでは僅かな時間。
 咄嗟に手を十字に組んだ緋。
 同時に後方に飛んだ。
 だが、狭い室内では衝撃を完全に殺す事は出来ない。
 棚を一つ打ち砕き、一瞬彼女は呼吸を詰まらせた。
 そこで床に倒れた伊砂。
 もう一人別の少女が床に倒れている事に気付く。

「夜魔族(ヤマゾク)? いや、吸血鬼(ヴァンパイア)? 眷属? 吸血という奴ですか?」

 何とか立ち上がった緋。
 だが、目の前に浅村の拳が迫っていた。
 素人同然の動きにも関わらず、その速度は尋常ではない。
 しかし、緋は更に驚愕する。
 目の前で、浅村の体が横に吹き飛ばされたからだ。

「緋、よくわかんないけど逃げるよ」

「鳶? 何でここに?」

「焦りまくりの茉祐子ちゃん」

 彼女の言葉に、何となく理解した緋。
 緋と全く同じ顔で、髪と眼が鳶色の色名 鳶(シキナ トビ)。
 彼女に、手を引っ張られる緋。

 理科準備室から理科室へ移動し、廊下まであと少し。
 そこで突然、鳶の体が背後に吹き飛ばされた。
 咄嗟に鳶を受け止めた緋。
 勢いを殺す事も出来ないまま、壁に激突。
 呻き、一瞬意識が飛びかけた緋と鳶。

 浅村を挟んで、更にその奥。
 夕凪 舞花(ユウナギ マイカ)が驚いた表情で立っている。
 緋も鳶も彼女に戦闘力が皆無なのは知ってた。

「舞花さん、逃げて」

 鳶の言葉に、覚束ない足取りで走り出す舞花。
 せめてもの時間稼ぎに、緋と鳶は浅村に躍り懸った。

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1991年7月24日(水)PM:17:09 中央区精霊学園札幌校時計塔地下四階

 濛々と立ち込める煙。
 その中で、まるで繭のようだ。
 楕円を形作っている黒い雷。

 薄れていく雷の中心にいる古川 美咲(フルカワ ミサキ)。
 彼女に抱き締められたアティナ・カレン・アティスナ。
 二人が座り込んでいた。

 あの瞬間、咄嗟に危険を感じた古川。
 彼女は即断で行動した。
 意識を自分とアティナの周囲に集中させる。

≪闇紫電≫

≪円≫

 解き放たれた黒い雷は、二人を守るかのようだ。
 繭を形作るかのように、重なる事なく、隙間を作る事もない。
 水平に円運動を続けたのだ。

「間一髪だったか」

 苦悶の表情の古川は、冷や汗を掻いている。
 依然放った時は、その効果を発揮する事はなかった。
 だが、今回は魔力そのものを消失させる事が出来たようだ。
 アティナを引き寄せた時の衝撃。
 腕の痛みに顔を顰める古川。

「アティナ、大丈夫か?」

「・・・はい」

 座り込んだままの二人。
 体は問題なさそうだが、彼女の心は酷く傷ついているのだろう。
 小刻みに震えており、声もどんよりと闇のようだった。

「ここに置いて行くわけにもいかないな。歩けるか?」

「は・はい・・大丈夫です」

 焦る心を表に出さないようにしている古川。
 アティナを支えて歩き始める。
 無言で歩く二人。
 どちらも沈痛な面持ちだ。
 下手な慰めは意味ないだろうと、古川は口を閉ざしている。

 生き残っている唯一の肉親である兄。
 彼が既に知っている兄ではない。
 頭では理解しても、心で折り合いをつけれないアティナ。
 彼女も発するべき言葉を持たない。
 そのまま、上階へ向かう階段を半分程進んだ。
 そこでアティナが口を開いた。

「兄は・・・もう私の知っている兄ではなくなったのですね」

 囁くような彼女の言葉に、古川は何も言えない。
 それでも、彼女は精霊庁として判断を下すしかなかった。

「冷たいようだが、こうなってしまったからには、被害が出る前に彼を止めるしかない。例えそれが討伐という形になったとしてもな。私を怨みたければ怨んでくれてかまわない。だが精霊庁として、いや最高幹部の一人として、責任が私にはあるからな」

 アティナは唇を噛み締めるだけだった。

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1991年7月24日(水)PM:17:15 中央区精霊学園札幌校小等部一階

 舞花は、自身に抗う術が無い。
 その事を、いや抗う術を得ようとしてこなかった。
 その事を改めて後悔していた。
 学園内という事もあり、安心し切っている。
 そんな気持ちもあったかもしれない。

 彼女の視線の先にいる緋と鳶。
 魅了(チャーム)に捕われ、無意識状態にだ。
 二人は床に転がっている。
 それでも彼女は動けない。
 後悔したのもほんの一瞬だった。
 、魅了(チャーム)に捕われてしまったのだ。

 時間的に残っている生徒は限られている。
 理科準備室や理科室の中だけで終わっていた。
 それならば浅村の所業は露呈する事はなかったかもしれない。
 だが、今彼は吸血に勤しむ事は出来ない。
 黒神 元魅(クロカミ モトミ)と睨み合っていた。
 浅村の吸血鬼(ヴァンパイア)としての本能。
 それが彼女は危険だと警鐘を鳴らしている。

 吸血により獲得した力。
 いまだ従前に発揮する事が浅村には出来ていない。
 それでも、肉体能力はただの人間ではなくなっている。
 まちがいなく人間を凌駕していた。
 十二歳とは思えない戦闘力を有している緋と鳶。
 二人を圧倒した浅村。

「浅村先生、いやもう先生じゃないか。あんたは教える立場の者として、してはいけない事をしてしまったようだな」

 浅村には元魅の体が一瞬ぶれたように見える。
 次の瞬間には、彼女の拳が浅村の腹部に減り込んでいた。
 何が起きたのか、彼は理解出来ない。

 眷属と言えども、浅村にも再生能力はある。
 冷たい怒りの元魅から放たれる拳の乱打。
 浅村の再生能力をあっさりと突き破った。

 原型を留めない程、顔を拉げさせた浅村。
 彼は、既に意識を喪失させていた。
 元魅は塵屑(ゴミクズ)を見るようだ。
 冷たい眼差しを向けている。

「生徒達の前で良かったな。そうでなければ、この程度じゃ済まなかったぞ」

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1991年7月24日(水)PM:17:29 中央区精霊学園札幌校南通

 半ば理性を喪失し、本能に従い脱獄。
 逃げたヴラド・エレニ・アティスナ。
 だが、暴れ蹂躙し、吸血する事は叶わなかった。
 タイミングが悪かったのだ。

 ファビオ・ベナビデス・クルスに呼ばれたアルマ・ファン=バンサンクル=ソナー。
 彼女にくっ付いてきたラミラ。
 エレメンタル札幌に買い物に行く。
 そのついでに、古川の見舞いに来た三人。
 無表情の黒金 佐昂(クロガネ サア)。
 真面目な顔の黒金 沙惟(クロガネ サイ)。
 微笑んでいる黒金 早兎(クロガネ サウ)。
 彼女達に遭遇してしまったのだ。

 ラミラを除く四人は、即座にヴラドの危険性を理解する。
 ファビオへの伝達を、ラミラに任せた四人。
 ヴラドを人が来る可能性が低い南通の隅へ追い詰めた。

 佐昂、沙惟、早兎の三人は、買い物へ行く途中だった。
 その為、武器は持っておらず素手だ。
 だが、古川から秘密裏に仕事を任される。
 その事からも判るとおり、実力は高い。
 戦闘の経験値はヴラドとは雲泥の差だった。

 そして、アルマも戦闘の経験値も当然。
 吸血鬼(ヴァンパイア)としての経験値も、ヴラドよりも上である。
 戦闘方法が魔術よりである彼女。
 武器の有る無しは威力と射程以外は余り関係ない。
 そして何よりも、四人は冷静だった。

 ヴラドの処遇について四人はこの時点では知らない。
 もちろんその事もあった。
 だが四人には、今のこの状況が全く不明。
 その為、彼を倒すのではなく牽制するに留める。
 疲労を蓄積させながら追い詰めていったのだ。