少し肌寒い風が吹き始め、ぽつぽつと街の明かりが灯る頃、家路を急いでいた悟浄は路地の向こうから、あかりの付いていない真っ暗なままの我が家を見つけた。

── っかしいなあ。今日はどこにも出かけないって、八戒言ってたよなあ ──
ぶつぶつ口のなかでそう呟くと、彼は小走りになって路地の奥へと入って行った。そこで彼が目にしたものは、家の前でぼんやりとたたずんでいる八戒の姿だった。

「おい、どうかしたのか?」
自分に向けられた不審気な声に答え、にっこりと笑うと八戒は、
「ああ悟浄、おかえりなさい。悟空が今まで来てて、その見送りをしてたんですよ。」
と、先刻の昏い瞳など幻だったかのように振舞った。その態度と、小一時間ばかり外で風にあおられていたのを示す乱れた髪と、赤みのなくなった頬が妙にアンバランスで、悟浄は更にいぶかしんだ。しかしここで追及するのはとりあえず止めにして、顎で家を示すと部屋へはいるよう促した。
「サルの見送りなんかする必要ねぇよ。あいつはいっつも他人ンちで喰い散らかすばっかりなんだからよ。」
と、その内心を見せずに、例によって悟空の悪口をとうとうとまくしたて始める。
「もう悟浄ってば。今、夕飯の支度をしますから、少し待っていてくださいね。」
くすくす笑いながら、八戒はまだ悟空を罵り足りないような悟浄をたしなめた。


窓の外にかかる月に、雲が早い速度で流されていく。天上だけで無く、地上にも風が出てきたようで、窓枠がガタガタと音を立てだした。明日は雨かもしれない。八戒はぼんやりと窓辺に立ち、見るとはなしに流されていく雲を目で追っていた。

風呂から上がり、だらしのない格好でタオルを頭に乗せたまま寝室に入ろうとした悟浄は、月明かりに照らされて物思いに耽る八戒に、夕方感じた不審さを再び覚え、声もかけずに窓辺へ近寄った。
「わあ!どうしたんですか?いきなり忍び寄るなんてマネ ─── 」
いきなり背中から力一杯抱きすくめられて、八戒は驚きの声をあげた。が、肩越しに振り返って、自分をいやに真剣なまなざしで見つめてくる悟浄に気がつき、言葉をつまらせた。
「先刻からなんか変だぜ?おまえ、ずっとぼんやりしてるだろう。何かあったんじゃねぇのか?」
「別に何もありませんよ。
─── それより手を緩めてもらえませんか?少し、痛いです。」

強い口調で断定するのとはうらはらに、うつむき加減で目を合わそうとしない八戒の態度に悟浄は苛立った。
「こっち見ろよ。」
そう言いながら、悟浄はその抱きしめる腕に更に力を込め、八戒の形のよい顎に手を掛けて激しく接吻けた。おのれの舌に絡みついてくる悟浄に抗えず、八戒は固くしていた身体をその胸にそっと委ねる。悟浄は自分にかけられたその重みを感じ、くちびるを首筋に這わすと、服の中に手をすべらせて、熱くなり始めた肌を求めた。自分に触れてくるその指やくちびるに八戒は思わずうめき声を一声洩らす。
その自分のあげた声に、はっと我に返ったように少し身体を離して、
「心配かけてすみません。でも本当に何でもないんです。」
と、囁いた。その声の中にある響きを感じ、悟浄は手を止め抱きしめた格好のまま押し黙っ
た。

痛くなるような沈黙が数瞬続いた後、悟浄は何度か頭を振り、ふーっと息をついた。
「分かったよ。もう無理に聞かない。だけど俺にまで気を使うのはヤメろよ。」
「別に、気なんか使っていませんよ。」
そう言いながら、八戒は眼鏡を外し、自らの腕を悟浄の首にまわして、接吻けを求める仕草をしたのだった。


その翌日は、やはり朝から雨になった。けぶるように振りしきる雨は暖かさをましてきていた季節を、逆さにしたような肌寒さを連れてくる。街の喧噪も今日は雨のとばりに遮られて、ここまでは伝わってこない。そんな奇妙な静けさが、辺りをつつんでいた。
今日は八戒は子供達に算術を教えていた。こんな天気の日は集中しなくてはいけないものの方がはかどるだろうと考えた八戒の読みは当たり、いつもふざけてばかりいる子供達がやけに熱心に取り組んでいた。カリカリと計算を進める音が響く中、八戒はゆっくりと子供達を見てまわり、小声で一人一人に声をかけていく。


それは長安の下町の私塾といっても、自宅の一部を教場とし、近所の子供に読み書きを教えているのに毛が生えた程度のものでしかなかった。しかし八戒の塾は子供にも、その親達にも大層評判が良かった。よその塾では全然相手にしてもらえなかった腕白小僧でも、八戒の言うことにならよく従ったからだ。子供達にとって八戒は単なる教師以上の存在であった。こうやって見てまわる時も八戒に声を掛けられる度に、彼らは目を輝かせた。

そろそろお茶をいれてやろう、と八戒が腰を上げ、ふと目を窓の外に向けた時だった。 紗のかかったような輪郭のぼやけた街の中を歩いていく人影があった。その後ろ姿が少しこちらを振り返ったとき、傘の影から地に降りた太陽のようにあでやかに光る金髪がちらりと覗いた。

その途端、どくんっと八戒は自分の身体の中で、何かが跳ね上がったのを感じた。いやそう考える前に頭の中がどくどく言い始め、目の前がふっとかげり、その金色のひかりだけが闇の中に浮かびあがる。
背を壁に預け、ずるずると倒れていく八戒に異変を感じた子供達が口々に名を呼びながら駆け寄る。が、古い傷から身体のなかをえぐりとられる、そんな痛みを感じた八戒は遠ざかる意識のなかで、もう姿を消してしまった幻を追い続けた。



寺院の裏手に、悟浄の仕事場である古びたその建物はあった。表立って寺院が動くことのできない事件を取り扱う事務所の実働部隊を悟浄は任されていた。
机の上に足を乗せた御世辞にも行儀がいいとはいえない格好で、連絡員からの報告を興味なさそうに受けていた悟浄は、表が騒がしいのに気がつき、怪訝そうな顔をして耳をそばだてた。その騒音の元が子供の声だと分かるとイヤそうな表情で、表まで届く大声で怒鳴りつけた。

「おい!雨宿りなら別な場所でやれ!ここはガキの来るようなところじゃねぇんだよ。」しかし反対にその声を聞きつけて子供達は口々に叫びながら、わらわらと入ってきた。
「あーっ!先生んとこのおっさんだ。大変だ。先生が大変なんだよぅ。」
数人の子供がカン高い声で好き勝手にわめくものだから、最初は何が何だか分からなくて悟浄は耳を押さえていた。誰がおっさんだって?と険悪な顔をしかけてその後の言葉に飛び上がった。
「誰が大変だって?おい。八戒がどうかしたのか?」
「いきなり倒れちゃって意識がないの。今、うちのお母さんがお医者さんを呼びに行ってるけど……。」
それを聞き息を飲んだ悟浄は無意識に拳を白くなるほど、ギュっと握りしめた。そして騒ぎを聞きつけて奥から出てきた三蔵の気配に振り向きもせず、
「ワりぃ。帰らせてもらうわ。」
と、一声掛けるなり、傘も差さずに雨の中に走り出した。


息を弾ませ、ずぶぬれで家に駆けこんだ悟浄が見たものは、寝台に上半身を起こしてにこやかに応対をしている八戒と、帰り支度をしている近所の初老の医者であった。
「あれ、悟浄。そんな格好でどうしたんですか。」
「どうもこうもねぇよ。お前が倒れたってガキどもが言いにきたから、急いで帰ってきたんじゃねぇか。具合はどうなんだ。」
心配しているのを隠すかのように怒鳴る悟浄に八戒は首をすくめた。
「すみません、心配かけて。ちょっとふらっとしただけなのに、皆大袈裟なんですから。ええ、大丈夫ですって。」
八戒のしっかりした物言いに気持ちの矛先をかわされて、悟浄はふいっと顔を背けた。そしてそのまま、帰ろうとしていた医者を見送りに部屋から出て行く。
玄関の前で医者は立ち止まると、
「あんた、塾の先生の身内かね?」
と、悟浄に尋ねた。家族だ、と短く答える悟浄に、医者はかくしから何やら取り出し手渡した。
「何だよこれ。」
「鎮静剤じゃよ。 ── あの御仁は大した気力の持ち主だの。わしが最初来たときは眼を
見開いたまま焦点を失っておって、こりゃ危ないかもと思ったぞ。貧血とたぶん心労だと思うが、見ために騙されんようにな。よくよく気を付けてやることだ」
ぼそぼそとそう言い残し、医者は雨の振り続く街へと帰って行った。


悟浄が部屋に戻ると、さすがに疲れたのか八戒は横になっていた。
「貧血だって?」
と、問いながら悟浄はその枕許に椅子を引き寄せ腰を下ろし、八戒の少し血の気の失せた頬にそっと手を触れた。そしてそのツヤのあるさらさらとした髪に手を入れ、優しく撫で始めた。
八戒は問いには答えず眼を閉じてされるがままになっていたが、しばらくすると本当に眠りに落ちていった。
その無防備な寝顔を痛ましげに、悟浄はずっと見つめていた。



薄明るい光が窓から差しこみ顔を照らしたのに気づき、八戒は小さく呻き声をあげて目を覚ました。ぼんやりとした明るい光を背に受け、悟浄が笑いかけてくる。
「目ぇ覚めたようだな。気分はどうだ?」
「 ─── もう、朝ですか?」
「いや、もうすぐ夕暮れだ。ああ、明るいのは雨が上がったせいだな。」
まだぼんやりしている八戒に悟浄は低く笑い、窓を開けた。まだ雲はかなり残っていたが、水溜まりには遅い午後の陽光がきらめいて、八戒は眩しそうに目を細めた。

「どうだ、なんか喰えそうか?」
「 ── 悟浄が作るんですか?」
言外に不審を目一杯詰めこんで八戒は疑わしそうに聞く。
「たりめーだ。俺のほかに誰が作るんだっつぅの。」
「わかりました。お粥でいいです。あ、卵も入れてくださいね。」
八戒はふーっと溜め息をつき、そうリクエストしたのだった。


悪戦苦闘の末、とりあえず出来上がったお粥らしきものをまだ横になったままの八戒に運ぶ。悟浄は自分の夕飯は作らなかった。というか、作れるわけないのだ。
大量のお粥もどきを見て、八戒は覚悟はしていたものの、やはりげんなりした。
「責任もって悟浄も食べてくださいね。」
と、念を押すことを忘れなかった。


夜半、ふと目を覚ました八戒は、すぐ目の前に熟睡している悟浄の顔があるのを認め、目許だけで柔らかく微笑った。そしてそのままするりと寝台を抜け出し、隣の男を起こさないようそっと起き出した。
水を飲もうとして台所へと音を立てずに向かったが、卓の上に置いてある水差しは思った通り、からっぽのままだった。悟浄にそんな細かい気がまわせる訳がない、そう考えてまた少しだけ微笑う。

家の裏手にある井戸に水を汲みに行こうとして裏口を開けた八戒は、いつの間にかまた雨が降り出しているのに気がついた。ひんやりとした空気が開け放したままの扉から部屋の中に入りこむ。はっとした面持ちで八戒は扉を閉めようとして、思ったより随分大きな音がしたことにまた驚いて肩を震わせた。その音はよく眠っていた悟浄を起こしてしまうのに充分なものだった。

隣にいるはずの八戒がいないのに気づき、悟浄ははっと跳ね起きた。しかし、まだ布団が温かいのと、奥からこちらに向かってくる足音に安堵してそっと息をついた。
いるべきはずのところに、八戒がいない。それだけで動揺するおのれの不甲斐なさに無性に腹が立ってきて、悟浄は枕許の煙草に手を伸ばした。

またくらくらとしはじめた頭と、重たい体を無理に引きずり寝室までたどりついた八戒は、その薄暗い部屋の寝台で、こちらに背を向けて座っている悟浄の背中を見つけた。
その瞬間、八戒は自分の中で何かが弾け飛んだ音を聞いた。そしてその真っ白になった

頭の中に、昼間見かけた金色の幻が強烈な勢いで押し寄せてきて、普段は記憶の底に沈めてある、あの夜見てしまった光景すら、深い闇から乱暴に引き出されようとしていた。
人の気配に気がついて悟浄が振り返るのと、部屋の入口でどさりと音を立て八戒が崩れ落ちるのは、ほぼ同時だった。
悟浄は慌てて駆け寄り、八戒を抱きかかえる。
「おい!八戒。しっかりしろ、おい!」
何度呼んでもいらえのない様子に悟浄は焦りを見せ、肩を掴んでかなり乱暴に揺さぶった。
「八戒!どうした、八戒!!」
繰り返し呼ばれる自分の名を耳にして、ようやく八戒はガチガチになっていた身体を動かし少し顔を上げた。血の気の失せたその顔に浮かぶのは、悟浄には見せないようにしていた、昏い瞳の色だった。
悟浄は息をのんだ.そして掴んだ肩を更に強く掴む。
彼らはお互いの瞳の中に相手を凝視するおのれの姿を見つけ、視線だけで激しく求めあうかのように声も立てずに見つめ続けた。




八戒は、あの西に向かって四人で旅していた頃を、思い出していた。

旅に出る前から、自分にとって悟浄はかけがえのない人になっていたが、それを口に出して伝えたことはなく、隣で共に歩いて行ける、そんな関係に心から満足していた。
いや、それは悟浄だけではなく、悟空のことも、そして三蔵のことも。

このままずっと四人でやっていける。そんなふうに未来を信じていた。それがいつからだったろう。悟浄の視線が一点に集中するようになったのは。三蔵の姿を魅せられたように目で追うようになったのは。

ずっと気がつかないフリをしてきた。気がついてしまえば何もかもが変わってしまう。そんな気がしたのだ。

しかしあの晩、あの夜もこんなふうに雨が降っていた。
その日は宿屋が空いていて、それぞれ別の部屋を取ることができた。すべてが眠りに閉ざされる頃、雨の音に触発されたのか、八戒はまた「喪う」という夢を見ていた。それは最初は昔喪失した最愛の女性が去って行く夢だったように思う。しかしそれは現在の不安を暴き立てるかのように、血の赤が、男の赤い髪へと変わっていった。

わあぁっという自分の声で目が覚めたのだと気づくのには、数瞬を要した。
深く息をつくと、今日は同じ部屋で眠る面子がいなかったことを思い出してほっとする。
かなり寝汗をかいたらしい。口の乾きを覚え、音を立てないように寝静まった廊下を食堂へ向かう。
その途中でいくつも並んだ扉の一つが、ほんの少し開いているのを八戒は見つけた。

(あの部屋は確か三蔵が泊まっている部屋では ── ?)
三蔵らしくもなく、不用心だなぁと思いつつ、その戸を閉めようとして、八戒はふとなかに目をやった。
その瞬間、身体の奥のほうからどくんっと言う音がして、凍りついたかのようにその光景から目を離すことができなくなった。
それは、激しく愛を交わす悟浄と三蔵の姿であった
降りしきる雨の音に混じる、ひそやかな喘ぎ声。
今まで一度も見たことのない、本気で他人を求めている悟浄の瞳。それはあまりに真摯で、普段の彼からはまったく想像もつかないものであった。
そして組み敷かれて、夜目にも眩しい金色の光を乱れさせている三蔵も、また。かれは紫暗の瞳で、おのれを抱く男の赤い瞳を射抜くかのように見つめていた。

そこには他人を一切寄せつけない、言うならば壮絶な命のやりとりにも似た、研ぎ澄まされた空気が満ちていた。
どのくらいその様子を見ていたのだろう。茫然として、八戒は自分が自室に戻ったことすら覚えていなかった。
気づかないフリをしてきたものに、気づかされてしまった。布団にくるまっていても、身体がガタガタ震え出すのを八戒は止められなかった。

悟浄。悟浄。声にならない声で、何度もその名を呼ぶ。
一番近しい存在だと思っていた。うぬぼれていた。心臓を冷たい手がギュっと握りしめる。
悟浄にとって、自分は一番ではなかった。

では、自分にとって、悟浄は ── ?

想いを形にするのが遅すぎた。
もう、遅いのだ。彼のひとは、もうあのひとを選んでしまった。

まんじりともせずに朝を迎えた八戒は、いつもと同じ何ひとつ変わった様子も見せずに他の三人と共に食卓についていた。悟浄も三蔵も、八戒に二人の関係を知られた、なんてことはこれっぽっちも疑っていないようだった。悟空にいたっては何をか言わんや、だ。 しかしその日以来、八戒は一人でいる時、三人に背を向けている時、ひっそりと昏い影をその瞳に宿すようになった。




その昏い瞳を八戒は悟浄からそっとそらした。
「まだ本調子じゃないようですね。少しふらっとしてしまって。」
そう言って笑った顔に先刻の昏い色は微塵もなく、悟浄は何も言い出すことができなくなった。
何か、隠している。悟浄はいたたまれなさで目が痛むほど、眉間にしわを寄せて考えこんだ。








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