近畿の古墳  ――注目の発掘現場を訪ねて


           近年、各地の古代遺跡で、超ド級の発見があい次いでいます。なかでも、ロマンの香りに
         彩られた「古墳」の発掘現場は、とくに人気が高いようです。
           以下に、筆者が現地説明会に参加して撮影した、著名な古墳の写真を列挙してみたいと
         思います。いずれもナゾに包まれた、話題性の多い古墳ばかりです。
                                             《平成19年(2007年)から制作開始》


      @黒塚古墳(奈良・天理市  平成10年(1998)1月撮影
           卑弥呼(ひみこ)の鏡? 三角縁神獣鏡が33枚も出土。

         水銀朱のほどこされた木棺の周りに、鏡がズラリ。三角縁神獣鏡がこれほど大量に出土した
         例はない。黒塚古墳の場合、33枚の三角縁神獣鏡が棺の外側に配置されていた。棺は赤く
         染まっており、真ん中に画文帯(がもんたい)神獣鏡がポツンと一つ。その光景は誠に印象的で
         あった。
           石室は自然石や割り石をうず高く積み上げた竪穴(たてあな)式で、長さ8.3b。それらの石が
         地震で大きく崩壊していたという。そのため、盗掘をまぬかれ、奇跡的に多くの副葬品が残されて
         きたのであろう。こうして、古墳時代の貴重な遺物がタイムカプセルのように姿を現してくる光景は、
         筆舌に尽くせないほど感動的であった。

         土・日の2日間で、2万3千人が現地説明会に!  雨の中、筆者も妻と一緒に2時間以上も
         列に並んだ。場所は、卑弥呼の墓ともいわれる箸墓(はしはか)古墳(桜井市)の北2`の地点だ。
         その付近一帯に、あの「邪馬台国」が存在したのであろうか。
           *黒塚古墳……全長130bの前方後円墳(前期古墳=4世紀前半)。周濠がある。被葬者は
         不明。大小50基もの古墳から成る大和(おおやまと)古墳群の一つだ。



     A御願塚(ごがづか)古墳(兵庫・伊丹市)  平成10年(1998)7月撮影
           「造り出し」の両サイドに、円筒埴輪(えんとうはにわ)の列。

         円筒埴輪(基底部)は東側に8基、西側に7基。阪急「稲野」駅の西にある御願塚古墳から
         出土した埴輪は、直径が30a以上もあったろうか。現在、それは失われた上部を補って復元
         され、伊丹市立博物館(千僧1丁目)の2階に展示されている。
           *御願塚古墳……全長52bの帆立貝式前方後円墳(中期古墳=5世紀)。周濠がある。
         墳丘は原形のまま残されているが、石室の有無は未確認。被葬者は不明。

         左=周濠ぎわの土中(墳丘のすそ)から発掘された「造り出し」。幅5.8b、奥行き5.2b。
         祭祀のためのスペースだという。右=幅11bの周濠跡が見つかった柏木古墳。御願塚古墳
         の南方、柏木町1丁目にある。阪神大震災で倒壊した民家の跡地が発掘され、周濠があったこと
         が判明した。(この柏木古墳の写真だけは、平成7年9月に撮影)


     B植山古墳(奈良・橿原市)  平成12年(2000)8月撮影
         推古天皇とその皇子が埋葬された横穴式石室

         下の左・中=初の女帝だった推古天皇(554〜628)の石室。石棺はない。下の右=
         その息子・竹田皇子の石室。家形石棺がある。
丘の南斜面に、ポッカリと二つの石室が
         口を開けていた。炎天下、大勢の考古学ファンが食い入るようにして、その巨大な遺構を見つ
         める。今まで「天皇陵」が発掘された前例はなく、その現場(植山古墳)に居る臨場感は格別で
         あった。
           なお、左上の写真の奥に見える緑地帯は、全長300bの丸山古墳だ。それは、推古天皇
         の父、欽明天皇の陵墓であるらしい(ただし、別の場所に「伝・欽明天皇陵」あり)。
           *植山古墳……東西40b、南北32bの方墳(終末期古墳=7世紀前半)。石室は横穴式
         で、2基とも奥行き13b。周濠がある(底に敷石。水はなく、空堀と考えられる)。
           ちなみに、「推古天皇陵」は大阪・南河内郡太子町に現存する(一辺58bの方形墳)。天皇
         の石棺は、植山から太子町へ移されたのであろう。そのため、この植山古墳は宮内庁の管轄
         圏外で、発掘調査が可能となったわけである。

             同じ日、石舞台古墳(奈良・明日香村)まで足をのばして、石室の巨大ぶりを
            実体験した。 
天井石が大きいのにも、ド肝を抜かれる。


     C藤ノ木古墳(奈良・斑鳩町)  平成13年(2001)4月撮影
          初公開! 横穴式石室の奥に、朱塗りの家形石棺。

         石室は奥行き14b(玄室5.7b+羨道8.3b)。石棺は一石の刳抜(くりぬき)式だ。
         昭和60年(1985)ごろ、きらめくばかりの豪華な副葬品に彩られた、古墳内部のカラー写真を
         見た記憶がある。その藤ノ木古墳の巨大な石室が初めて公開されるというので、現地を訪れた。
         ここも老若男女の長蛇の列だったが、石室の奥に鎮座する石棺に、わずかばかり朱色が見えた
         のが、印象に残る。
           *藤ノ木古墳……直径48b、高さ9bの円墳(後期古墳=6世紀後半)。昭和60年代に発掘
         調査が行われ、玄室(棺を安置する部屋)から金銅製の透彫鞍金具(すかしぼりくらかなぐ=馬具)や
         石棺が出土。さらに、石棺の中から金銅製の冠(かんむり)、履(くつ=儀式用)、銅鏡、剣、玉などが
         見つかった。被葬者は不明。      

        左=藤ノ木古墳は法隆寺のすぐ西、畑に囲まれた場所にある。豪華な副葬品が出土して
         脚光を浴びた古墳が小さな円墳だったのは、意外だった。右=法隆寺の南大門から、五重塔を
        望む。


      D西求女塚(にしもとめづか)古墳(兵庫・神戸市灘区)  平成13年(2001)5月撮影
            “バチ形”に開いた最古級の墳丘が出土。

         三味線のバチの形のように開いた、墳丘のすそのライン(前方部の北側)。その形状は、
         箸墓古墳(奈良・桜井市)に酷似しているという。場所は、国道43号線ぞいの、町中にある緑深い
         公園だ。
           *西求女塚古墳……全長98bの前方後方墳(出現期古墳=3世紀後半)。被葬者は不明。
         平成4年(1992)以降の発掘調査で、まず竪穴(たてあな)式石室が見つかり、その内外から三角縁
         神獣鏡7枚、中国製とみられる青銅鏡5枚、短剣などが出土。古墳の形状、石室、出土品からみて、
         最古級の古墳と確認された。 

         後方部では、慶長伏見地震(1596年)の地滑り地層も見つかった。阪神大震災の被災地で、
         このような生々しい場面に遭遇するのは、複雑な気分だった。


     E勝山古墳(奈良・桜井市)  平成13年(2001)6月撮影
         新聞各紙が、「邪馬台国は古墳時代!」と報道。

         左=周濠の底から「最古」の木製品が出土した勝山古墳。報道によると、木製品は「年輪
         年代法」と呼ばれるハイテク技法で測定され、「199〜211年」に伐採されたヒノキ材と判明。それ
         は埋葬儀式に使われたもので、勝山古墳は、「3世紀初頭」に築造された「最古」の古墳であると
         いう。
           つまり、邪馬台国の女王・卑弥呼(?〜248年ごろ没)の生きた弥生時代、すでに大和の地に、
         大規模な前方後円墳があったというわけだ。その衝撃的なニュースに触発され、「最古」の古墳を
         ナマで見たくて、発掘調査も現地説明会もないのに、大和路を歩いた。
          *勝山古墳……全長110bの前方後円墳(出現期古墳=3世紀前半)。北側と西側に、周濠の
         痕跡らしき池がある。石室の有無は未確認。被葬者は不明。初期ヤマト政権発祥の地、纏向(まき
           むく)遺跡のエリア内に位置する。付近一帯は、古墳時代前期の大規模な集落跡だ。

         左=卑弥呼の墓ともいわれる箸墓古墳(桜井市)。勝山の1`ほど南にある。右=箸墓の
         近くにあるホケノ山古墳(桜井市)。これまでは、このホケノ山が「最古」(226〜250年ごろ築造)
         とされてきた。


     F勝福寺古墳(兵庫・川西市)  平成13年(2001)8月撮影
          横穴式石室のある前方後円墳と判明。

         “無名”(?)の古墳でも、現地説明会は大にぎわい。阪急「川西能勢口」駅から北へ1`
         余りの丘陵(火打2丁目)に勝福寺があり、その裏山が古墳である。発掘調査が行われるまで
         は、二つの円墳(それぞれ直径20b)が連なっているとみられていた。
          *勝福寺古墳……全長40bの前方後円墳(後期古墳=6世紀前半)。以前から横穴式
         石室(奥行き9b)の存在が知られており、過去に画文帯神獣鏡や馬具、刀剣類などが出土した
         という。被葬者は不明。 


     G今城塚(いましろづか)古墳(大阪・高槻市)  平成13年(2001)9月撮影
           大王(天皇)の陵墓……ホントか? ウソか?

         上の写真2枚は、古墳北側の外濠と内濠の間にある、堤の中央部。この場所で、形象埴輪
         の配置された大規模な祭祀スペースが発見された。その現地説明会に参加できず、後日、
         遠巻きに現場を眺めただけだった。
           このとき発掘された埴輪の群像は、大王の葬送の儀式を再現した場面といわれ、家形埴輪の
         一つは、高さ約170a。国内最大級で、高床式の神殿を表現したものだという。ほかに巫女(みこ)
         武人、力士、馬、鶏などをかたどった埴輪100点以上が出土。天皇陵クラスの古墳における埴輪
         祭祀の実態を物語る、画期的な発見だといわれる。
           天皇陵といえば、この今城塚古墳こそ「真の継体天皇陵」…というのが、定説のようだ。
         つまり、「継体天皇陵」と称する古墳は別の場所に存在するのだが、継体天皇(?〜531)の陵墓
         は、こちらの今城塚が「本物」というわけである。専門研究者らが、文献史料や古墳の築造年代
         などから、そのように推定しているからだ。
           *今城塚古墳……全長190bの前方後円墳(後期古墳=6世紀前半)。二重濠を含む総長は、
         350bというビッグサイズだ。戦国時代に三好長慶がここに砦(とりで)を築いたため、墳丘は大きく
         改変されているようである。それに、墳丘も周濠もほとんど手入れがされておらず、古墳全体が
         荒れ果てた感じだった。

         「継体天皇陵」とされている太田茶臼山古墳(大阪・茨木市)。今城塚の西1.5`、旧西国
         街道ぞいにある。全長227bの前方後円墳(中期古墳=5世紀前半)。周濠にはきれいな水が
         たたえられ、陵墓の正面には鳥居が建てられていた。宮内庁が厳重に管理していて、墳丘などに
         立ち入ることはできない。
           しかし、この古墳の築造年代は継体天皇の没年(531年)と合わず、「天皇陵」としては信憑性に
         欠けるようだ。今城塚古墳が「真の継体天皇陵」と指摘されるゆえんであろう。


     H赤土山古墳(奈良・天理市)  平成13年(2001)12月撮影
          “無傷”含め円筒埴輪など12個……なぜ、埋めた?

         立ったままの状態で、深さ1bの地中に! それは奇妙な光景であった。後円部の南側の
         すそで、円筒埴輪9個(高さ約1.1b)、朝顔形埴輪3個(高さ約1.4b)が、整然と並んで出土
         したのである。なかには原形をとどめたものもあり、驚くばかりだ。
           報道によると、発掘調査を担当した天理市教育委員会は、「なぜ地中に埋めたのかは分から
         ない」としている。
           *赤土山古墳……全長103bの前方後円墳(中期古墳=4世紀末〜5世紀初頭)。後円部に
         「造り出し」(祭祀のためのスペース)があるのは、奇異に感じる。現地説明会で配布された資料に
         よると、「墳丘は上下2段築成」「変則的な造り」だという。

         古墳の発掘から8ヵ月後――埴輪埋没のミステリーが解き明かされた! 平成14年8月7日
         付の新聞各紙は、ナゾをもたらした原因は「南海地震による地滑りだった」と報道。古墳の築造
         後、2回の地震があり、2回目は887年に発生した南海地震らしいという。
           では、1回目はいつ…?と、興味をそそられて、別の史料を調べてみた。それは、『日本書紀』
         に記載のある416年の地震であろうか。5世紀の初めなら、この赤土山古墳の築造直後だ。規模
         などは不明であるが、その地震は河内から大和にかけてのものだったとされている。このとき、
         赤土山に大規模な地滑りが起こり、円筒埴輪の列が埋没したのであろう。
   



     I條ウル神古墳(奈良・御所市)  平成14年(2002)3月撮影
            最大規模の横穴式石室・家形石棺……なぜ今、発見?    

         石舞台古墳、丸山古墳に次ぐ超巨大石室――80年以上も前に報告されていたのに。
         辺り一帯は山深い寒村で、畑の中にポツンとある丘が、條ウル神古墳だった。地元では、古墳の
         存在は以前から知られていたらしい。発掘ではなく、現状確認調査で横穴式石室が発見されたの
         である。その石室は、玄室(棺を安置する部屋)だけで奥行き7.1b+αという大型だった。羨道
         (玄室へ入るための通路)の長さは、確認されていない。
           上の写真の奥には、ぼんやりと家形石棺(全長2.78b・幅1.47b)が見えるが、これも巨大
         で、その石棺の蓋(ふた)には、8ヵ所もの縄掛(なわかけ)突起が付いているという。
           *條ウル神古墳……全長100b以上の前方後円墳?(後期古墳=6世紀後半)。墳丘と周りの
         地形が著しく改変されていて、古墳の全容は未確認だという。被葬者は不明。
           なお、大正5年(1916)、当時の奈良県技官・西崎辰之助氏が、この條ウル神古墳の存在
         を県に報告していた。だが、あまりにもスケールが大きく、石棺に8つも縄掛突起(通常は6つ)が
         あると報告されたことから、信用性を欠いたらしい。発見者の西崎氏は、さぞ無念であったことだろう。
         当時(20世紀初頭)はまだ、考古学“不毛”の時代だったのであろうか。


     J今城塚古墳(大阪・高槻市)=《その2》  平成19年(2007)3月撮影
             石室を支えた基盤の石組みが出土。「真の継体天皇陵」説…信憑性が一段と。

         地震の地滑り跡から見つかった、大規模な「石室基盤工」。石組みは落ち込んだままの状態で、
         後円部の北側から出土した。東西17.7b、南北11.2b。コの字形をなし、石が3段、積まれて
         いたらしい。
           その石組みの構造、規模からみて、高槻市教育委員会は「基盤の上に横穴式石室があった
         ことは確実」と発表。古墳の後円部は完成時に3段構造、高さは約18bだったという。
           また、新聞報道も、これだけの規模は天皇陵以外に考えられず、今城塚古墳が「真の継体
         天皇陵」であることがより確実になったとしている。
           石室はすでに失われていたが、天皇陵クラスの古墳で墳丘の内部構造が確認されたのは初め
         て。「天皇陵」とされている古墳は宮内庁が発掘を許さず、立入禁止だからだ。そうした厳しい規制が
         あるだけに、「真の継体天皇陵」としての信憑性が高まった、その今城塚の墳丘に居る臨場感は格別
         で、至近距離から発掘現場を撮影できるのは、このうえない喜びであった。
           《今城塚古墳の1.5`ほど西側(茨木市域)に、宮内庁の管理する「継体天皇陵」(太田茶臼山
         古墳=5世紀前半/全長227b)が存在することは、前述のとおりである》
           *今城塚古墳……全長190bの前方後円墳(後期古墳=6世紀前半)。二重の周濠を含めた
         総長は、350bに及ぶ。平成13年(2001)からの発掘調査で、大王(天皇)の葬送儀式を再現したと
         みられる埴輪100点以上が出土し、注目を集めた。その後、墳丘の周辺は史跡公園としての整備が
         進められている。

          左=朱色が残る石棺の底石とみられる破片。右=見学を終え、墳丘から下りる人たち。   
          左=現地説明会には、大勢の考古学ファンが詰めかけた。右=1面トップで遺構の
          発見を報じる、平成19年(2007)3月2日付の『読売新聞』。                    


      K中山荘園(なかやまそうえん)古墳(兵庫・宝塚市)  平成19年(2007)5月撮影
              なぜ、八角形? 珍しい形の墳丘が、発見から25年ぶりに公開!

         4半世紀前の昭和57年(1982)に発見され、平成11年(1999)、「国の史跡」に!
         見晴らしのよい長尾山系の急斜面に、中山荘園古墳はある。場所は、中山寺(真言宗中山寺派
         総本山)の西側。阪急「中山」駅やJR「中山寺」駅から北西の方角だ(宝塚市中山荘園)。
           この古墳が公開されるまでに長期間を要したのは、当初、一部が私有地だったからだという。
         そのため、貴重な遺跡でありながら、「国史跡」の指定を受けられず、整備もままならなかったらし
         い。宝塚市教育委員会がようやく一般公開にこぎつけたのは、つい最近の、平成18年(2006)12月
         のことだった。

         中山荘園古墳の墳丘のすそ。少し角度があって、多角形であることをうかがわせる。
         標記のように、この古墳はユニークな八角形である。外護列石は墳丘の外周に6面が検出されて
         おり、八角形を意図して築かれたようだ。
           八角形墳は天皇陵クラスの古墳に多いといわれるが、驚くほど小規模なこの中山荘園古墳が、
         なぜ、八角形なのか――。大いなるミステリーというべきであろう。
           *中山荘園古墳……直径13.5b、高さ2.6bの八角形墳(終末期古墳=7世紀前半)。横穴
         式石室があり、玄室の奥行きは3.4b、幅1.3b、高さ1.3b。不思議なほど小型である。石棺や
         副葬品は見つかっていない。被葬者は不明。
           なお、終末期古墳はおしなべて“小ぶり”で、あの極彩色壁画のあるキトラ古墳(奈良・明日香村)
         でさえ、直径13.8bの円墳だ。同じく高松塚古墳も、直径は23bしかない。

          左・中=中山荘園古墳の墳丘にある説明プレート。発掘当時の写真も掲載されている。
          右=観音霊場として知られた中山寺の山門。中山荘園古墳はこの寺の西方にある。


      L真弓鑵子塚(まゆみ・かんすづか)古墳(奈良・明日香村)  平成20年(2008)2月撮影
           石舞台しのぐドーム型の横穴式巨大石室……。なぜ今、発見?

         石室の天井は、400個の石材を積み重ねたドーム状。見たこともない風景だった。渡来人系の
         構築技法がうかがえるとされる、そのエキゾチックな横穴式石室の規模は、石舞台古墳のそれを
         しのぎ、国内最大級だという。
           *真弓鑵子塚古墳……直径40bの円墳(後期古墳=6世紀中頃)。丘陵の先端を造成して
         築かれている。石室の幅4.4b、長さ19b、高さ4.7b。玄室の床面積(28u)は石舞台古墳(26
         u)より広く、欽明天皇陵とされる丸山古墳(橿原市)の34uに次ぐ。被葬者は不明。
           なお、この真弓鑵子塚古墳についての現地見学会の予告は、新聞・テレビでセンセーショナルに
         報道された。それによると、直近の発掘調査で古墳の全容が明らかになったとの印象を受けたが、
         実際には昭和37年(1962)に調査が行われていたらしい。このほど国史跡の指定を受けるため、
         平成19年(2007)から改めて本格的な再調査がなされたようだ。

         見学会の当日(平成20年2月9日)は朝から大雪で、奈良の最高気温は3度Cという寒い
         日だった。それにもめげず、大勢の考古学ファンが長蛇の列をなす。筆者の後ろに並んでいた人は
         姫路から来たということだった。上の写真の奥が、古墳のある丘陵である。
        

         近鉄「飛鳥駅」(吉野線)は、降りしきる雪の中。真弓鑵子塚古墳は、この駅の西、徒歩15分
         ぐらいの所にある。しかし、見学会の日は駅周辺から大にぎわいで、石室にたどり着くまで2時間
         以上も行列に並んだ。
           ちなみに、石舞台古墳をはじめ、高松塚古墳もキトラ古墳も、この「飛鳥」(あすか)を最寄駅とする
         明日香村にある。


      M長尾山古墳(兵庫・宝塚市)  平成20年(2008)9月撮影
             墳丘を囲む「朝顔形埴輪」の底部が、8基……。列をなして出土。

          見つかった埴輪(はにわ)は、直径30〜35a。その底部8個が、列状で姿を現した。埴輪の
          高さは約60aと推定され、80a〜1bの間隔で古墳を囲んでいたとみられるという。宝塚市教育
          委員会と大阪大学考古学研究室が共同で発掘調査を行っていた。
            *長尾山古墳……長さ39bの前方後円墳(前期古墳=4世紀初頭)。長尾山系の南東に
          のびる標高120bの尾根上にある。小規模ではあるが、前方部2段、後円部3段築成で、猪名川
          流域では最古の前方後円墳だという。被葬者は不明。
            なお、平成10年(1998)、伊丹市の御願塚(ごがづか)古墳でも、埴輪の列が見つかった。それは
          「円筒埴輪」の底部だったが、この長尾山古墳の埴輪は「朝顔形埴輪」だという。【参照==この
          『近畿の古墳』の「A御願塚古墳」

          長尾山古墳の墳頂部。ここには、竪穴(たてあな)式の埋葬施設があった?  墳丘(後円部)の
          最上部には墓壙(ぼこう)とみられる土層の違いがあり、棺を埋めるための竪穴を掘ったのではないか
          と推測されている。真偽のほどを確かめるため、今後、継続して発掘調査を行う予定だという。

          発掘現場は阪急「山本駅」(宝塚線)の北方、坂道と石段をのぼって徒歩15分。古墳は
          山手台南公園(山手台東1丁目)の一画に位置する。その長尾山のふもとに長尾小学校があるが、
          同校は元来、伊丹市域の荒牧地区にあり、かつては「川辺郡長尾村」全域が校区だったという。


      N長尾山古墳(兵庫・宝塚市)=《その2》  平成21年(2009)9月撮影
             墳頂部に「竪穴」の痕跡…。葬送儀礼うかがわせる土器の破片も出土。

          長尾山古墳の墳頂。「陥没坑」とは、埋設されていた木棺などが腐って、上部の土砂が
          落ち込んだ跡だという。その範囲は、木棺の大きさに相当する長さ3.3b、幅0.6b。この
          陥没部分の直下に、竪穴(たてあな)式の埋葬施設が存在したようだ。
            この古墳は4世紀初頭の前方後円墳。いわゆる“前期古墳”である。その当時の埋葬施設は、
          黒塚古墳(奈良・天理市)のような竪穴だった。横穴式石室が現れるのは、5世紀以降(“中期
          古墳”以降)であるらしい。
            なお、上に示した写真の「陥没坑」の付近からは、土師器(はじき)の破片が50点ほど出土。
          それは、さかずきなど、小型の丸底土器に復元できるのだそうだ。こうしたことから、埋葬終了後に
          飲食を伴う葬送儀礼が行われた可能性があるという。
            葬送儀礼をうかがわせる土師器は、奈良の黒塚古墳や神戸の西求女塚(にしもとめづか)古墳など
          の墳頂部でも見つかっているようだ。猪名川流域の古墳では、この長尾山が初例だという。上の
          写真の右下が、長尾山古墳から出土した土師器など(破片)。
            この発掘調査は前年に引き続き、宝塚市教育委員会と大阪大学考古学研究所が共同で行って
          いた。

         後円部の東斜面。大きな基底石(きていせき)の上方に、葺石(ふきいし)が墳頂近くまで
         並んでいる。手前に見えるのは、埴輪(はにわ)の底部だ。長尾山古墳は斜面全体を葺石で
         覆った丁寧な造りだったようである。

         左=現地説明会の受付風景。奥に見える樹林が、発掘現場だ。右=長尾山古墳のある山手台
         南公園(宝塚市山手台東1丁目・標高120b)から、南東方向を望む。すがすがしい秋晴れの
         一日だった。


      O津堂城山(つどう・しろやま)古墳(大阪・藤井寺市)  平成21年(2009年)10月撮影
           円筒埴輪(はにわ)や葺石(ふきいし)などが出土。“大王陵”築造のナゾ解明へ。

         円筒埴輪の向こうに、びっしりと葺石が敷き詰められていた。この津堂城山古墳は後円部の
         頂上が「陵墓参考地」に指定されており、大王陵(天皇陵)と考えられるのであるが、今回の発掘
         調査によって、墳丘は4段築成と判明。ナゾに包まれた実像が解明されそうだ。
           *津堂城山古墳……墳長208bの前方後円墳(前期古墳=4世紀後半)。二重の周濠跡など
         を含めると、総長440bの巨大古墳だという。古市(ふるいち)古墳群(藤井寺市・羽曳野市)の最北端
         に位置しており、大阪平野に群集する大型古墳の中では最も早く築造されたとされる。被葬者は
         不明。

         右上の写真、青いビニールシートで覆われた場所(後円部の頂上)は、宮内庁が管理する
        「陵墓参考地」だ。ちなみに、「陵墓」は歴代の天皇・皇后らを葬った陵(みささぎ)と、その他の皇族
         を葬った墓のこと。「陵墓参考地」とは、被葬者を特定できないが、陵墓の可能性があるもののこと
         だ。いずれも、立ち入ることはできない。
           その立入禁止であるべき“陵墓”クラスの古墳に、筆者はこれまで、3回も立ち入る幸運に恵まれ
         た。その1回目は、この『近畿の古墳』シリーズに取り上げた「B植山古墳(奈良・橿原市)」=平成12
         年(2000)8月、2回目は、「GJ今城塚古墳(大阪・高槻市)」=平成13年(2001)9月・同19年
         (2007)3月、そして3回目が、今回の「O津堂城山古墳(大阪・藤井寺市)」である。
           過去に推古天皇陵だった植山、真の継体天皇陵とされる今城塚のときもそうであったが、“陵墓”
         の現場に居る臨場感は格別だった。
           それにしても、植山、今城塚ともに「陵墓」ではないため、発掘調査が許され、人々は墳丘に立ち
         入ることができたわけだ。なお、推古天皇陵は現在、大阪・南河内郡太子町にあり、継体天皇陵(=
         太田茶臼山古墳)は大阪・茨木市にある。どちらも宮内庁が厳重に管理していて、墳丘への立ち入り
         は厳禁だ。
           右下の写真は、一面にコスモスが植えられた津堂城山古墳の周濠(内堀)跡だ。

         左=古市古墳群の中で最大を誇る応神天皇陵(誉田御廟山〈こんだ・ごびょうやま〉古墳=大阪・
        羽曳野市)。
今回訪れた津堂城山の2`余り南東にある。墳丘長420bの前方後円墳(中期古墳=
         5世紀)。周濠がある。仁徳天皇陵(大仙陵古墳/大阪・堺市/中期古墳=5世紀)の486bに次い
         で、日本列島では2番目の超ビッグサイズだ。
           右=応神天皇陵であることを示す標識。古墳とその周辺は、宮内庁が厳重に管理している。
         「陵墓」の前の鳥居も、一般の神社などとは違い、特別な様式のように思えた。
           ちなみに、筆者がこれまでに見た古墳では、箸墓(はしはか)古墳(奈良・桜井市/全長280b)や、
         太田茶臼山古墳(継体天皇陵/大阪・茨木市/全長227b)も、これと同じ様式の鳥居だった。なお、
         「陵墓」以外の普通の古墳には、鳥居なんぞ建てられてはいない。


      P桜井茶臼山(さくらい・ちゃうすやま)古墳(奈良・桜井市) 平成21年(2009年)10月撮影
           朱色に彩られた巨大な竪穴式石室……。これは間違いなく大王の墓だ!

         「水銀朱」の鮮やかな竪穴(たてあな)式石室。内部も天井石も、全面に朱が塗られている。
         1700年の“時”を超え、信じられぬほど見事だ。発掘調査を担当した奈良県立橿原考古学研究所に
         よると、塗料には200`もの「水銀朱」が使われたとみられ、過去最大級の出土例だという。
           *桜井茶臼山古墳……全長200b、後円部直径110b、同高さ24bの前方後円墳(前期古墳
         =3世紀末〜4世紀前半)。水銀朱を塗布した石材に囲まれた、竪穴式石室がある。その長さは南北
         6.75b、幅1.27b、高さ1.71b。石室の周囲に数千枚の板石を垂直に積み上げ、12枚の巨大
         な天井石でふたをしている。被葬者は不明。

           このような朱塗りの大規模な石室を持っているにもかかわらず、被葬者が特定できないため、古墳
         は「陵墓」(天皇・皇后などの墓)に指定されておらず、「陵墓参考地」でもない。そのため、宮内庁の
         管轄外で、この桜井茶臼山古墳は発掘調査が可能となり、人々も墳丘に立ち入ることができたわけで
         ある。
           しかしながら、現地説明会では、石室の中へは入れなかった。そのため、朱の鮮やかな様子が
         うまく写真に撮れなかったのは、かえすがえすも残念であった。
           そのことを補うため、以下に、『読売新聞』に掲載されたカラー写真を、ここに転用させていただく。
         プロの写真はさすがに秀逸で、ことのほか朱の色が鮮やかだ。

         『読売新聞』(平成21年〈2009年〉10月23日付・朝刊第1面)に掲載された、桜井茶臼山
         古墳の朱塗りの石室。その中に、コウヤマキで造られた木棺の姿が見える。
           それにしても、この写真の手前に横たわる1700年前の木棺が、一部原形をとどめているのは、
         なぜか――。
           それは、大量の水銀が“防腐剤”としての役割を果たしたからだと考えられる。当時、水銀朱は
         魔よけ、不老不死、死者復活の願いなどとともに、防腐効果があるともみられていたようだ。
           貴重な水銀が惜しげもなくふんだんに使われた、想像以上に丁寧な造りの巨大石室――。これ
         は、間違いなく大王(天皇)の陵墓であろう。
           その陵墓の発掘現場に居る、えもいわれぬ臨場感……。まして、大王の眠る朱塗りの石室を
         至近距離で目の当たりにする機会は、そうそうあるものではない。ヤジ馬根性が昂(こう)じたおかげ
         で、伊丹(兵庫県)から桜井まで遠征し、千載一遇のチャンスに恵まれたのは、幸運であった。

           ところで、“赤い木棺”といえば、平成10年(1998)の1月に三角縁神獣鏡が33枚も出土した
         黒塚古墳(奈良・天理市/全長130b)が思い出される。土・日の2日間で2万3千人もの考古学
         ファンが押し寄せた、注目すべき古墳だ。筆者も冷たい雨の降る中、妻と一緒に2時間以上も現地
         説明会の列に並んだ。その黒塚古墳も竪穴式石室で、丸太をくり抜いたような木棺が残っており、
         それが鮮やかな水銀朱に染まっていたのである。
           余談ながら、筆者が古墳の発掘現場に取り憑(つ)かれたのは、今から12年前。黒塚で“赤い
         木棺”とその周囲に配置された三角縁神獣鏡の出土した場面をナマで見たからだった。
                 【参照】――この『近畿の古墳』シリーズの
                         「@黒塚古墳」(平成10年1月撮影)

           その黒塚古墳は、今回訪れた桜井茶臼山古墳の4`ほど北に位置する。そうして、黒塚と茶臼山
         との中間地点には、邪馬台国の女王・卑弥呼(ひみこ・?〜248年ごろ没)の墓との説がある、箸墓 (はしはか)古墳(奈良・桜井市/全長280b)が存在している。
           その箸墓古墳は、この同じ年(2009年)の11月に、「卑弥呼時代最大の建物跡」「邪馬台国の
         中枢か」(『朝日新聞』)と大きく報道されて話題を呼んだ、纏向(まきむく)遺跡(奈良・桜井市/東西
         2`・南北1.5`/2世紀末〜4世紀初め)のエリア内にあるのだ。
            纏向遺跡は奈良盆地の南東部にある。そこの発掘調査で見つかった大型建物跡(3世紀前半)
          は、邪馬台国の宮殿だった可能性があるという。このビッグ・ニュースは同年11月16日、「邪馬台国    か?」「謎の“古代都市”発見」と題し、NHKの『クローズアップ現代』でも取り上げられた。
            古代史のミステリーに迫る大発見があい次ぐこの地方は、いま、注目のマトといっても過言では
          なかろう。                                                                                                                                                   桜井茶臼山古墳は石室の天井石も朱色だった。左=北側から見た天井石のアップ。右=取り
           はずされ、墳丘に展示されていた天井石。                                      

           「天井石」というのは、竪穴式の石室にふたをするための巨大な石である。むろん、その上にうず
           高く、土が積み上げられていたわけだ。それにしても、1700年前にほどこされた水銀朱がさほど
           色あせていないのには驚く。

         左=桜井茶臼山古墳の後円部。見学者用に設けられた階段の上に、竪穴式石室がある。
         右=同古墳の前方部。この茶臼山は柄鏡(えかがみ)形と呼ばれる大型前方後円墳で、前方部
         がずいぶん長いように感じられた。

         上の2枚=現地説明会の受付付近。右の写真の奥に見える山は、大神(おおみわ)神社のご神体
         とされる三輪山(みわやま)だ。下=JR桜井線の車窓から見た三輪山。その手前(西側一帯)に、
         注目の纏向遺跡が広がっている。
                                                 《平成21年(2009年)12月制作》


      【「P桜井茶臼山古墳」のつづき】

           前記した現地説明会の日から2月余り経った平成22年(2010)1月7日――。桜井茶臼山
         古墳(奈良・桜井市)について、ド肝(ぎも)を抜かんばかりのビッグニュースが飛び込んできた。
         報道に接したのは、夜9時のNHK『ニュースウオッチ9』であったが、その内容はこうである。

                桜井茶臼山古墳の竪穴式石室とその周辺に、13種・81枚という
                信じられぬほど大量の銅鏡が副葬されていたというのだ。
                  しかも、そのおびただしい鏡の中には、『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』が伝える、
                “卑弥呼(ひみこ)の鏡”(=三角縁神獣鏡〈さんかくぶちしんじゅうきょう〉)も交じっている
                らしい。

            こうなると、前年11月に同じ桜井市内の纒向(まきむく)遺跡で大型建物跡が発見されたこととあい
          まって、「邪馬台国大和説」はますます信憑性(しんぴょうせい)が高まってくるのではないだろ
          うか。
            それにしても、自分がナマで見てきたばかりの、あの朱色に彩られた石室のある古墳で、画期的
          な、それも超ド級の大発見があったわけだから、まさしく青天のヘキレキだった。
            この衝撃的なビッグニュースを記録にとどめるべく、2010年1月8日(金)付の『朝日新聞』
          および『読売新聞』の記事を、以下に転載させていただく。最初の2枚は『朝日』の第1面と第30
          面、つづく2枚は『読売』の第1面と第35面である。          《平成22年(2010年)1月制作》


      Q打出小槌(うちで・こづち)古墳(兵庫・芦屋市)   《平成22年(2010年)9月撮影》
               “二重周濠”の痕跡が見つかる。阪神間で最大規模の前方後円墳。

         この場所に、打出小槌古墳の二重目の濠(ほり)がめぐらされていた(芦屋市打出小槌町)。
         上の写真の中央部、地面がややへこんで浅い溝状になっている所が、“二重周濠”の痕跡だ。その
         幅は1.2b、深さは40a。意外と小規模であり、しかも、すぐ右側(内側)に1重目の濠があったと
         いう。2本の濠が至近距離にあるというのも不思議だった。
           二重濠は、畿内政権中枢の大王墓(天皇陵)などで採用される築造形式で、被葬者の権力の
         大きさを示すといわれる。当時(5世紀)、この芦屋地域一帯に権勢を誇った有力氏族が存在したので
         あろう。
           *打出小槌古墳……全長75bの前方後円墳(中期古墳=5世紀)。これまでに埴輪(はにわ)
         須恵器(すえき)などの破片が多数、出土したという。しかし、古墳そのものは600年ほど前に水田開発
         で姿を失い、現存しない。今回、区域内にある住宅建設に伴う発掘調査で、後円部の跡地で二重濠
         が見つかった。被葬者は不明。

         古墳のあった場所は、「打出小槌町」。♪♪大判小判がザックザック……のイメージだが、芦屋市
         のレッキとした地名である。右の写真に、「打出小槌町」との町名標識が見える。すぐ北側を国道2号
         線(阪神国道)が走り、町内には阪神電鉄「打出」駅がある。

         打出小槌古墳の東方150bの住宅地にある金津山(かなつやま)古墳(芦屋市春日町)。
         全長55bの前方後円墳(5世紀)で、この古墳にも二重に周濠がめぐらされているという。ここにも、
         知られざる有力氏族が眠っているのであろうか。


      R牽牛子塚(けんごしづか)古墳(奈良・明日香村)   《平成22年(2010年)9月撮影》
             “八角形墳”の痕跡(幅1bの石敷き)がくっきり……。斉明天皇陵か。

         八角形の墳丘は、「陵墓」(天皇陵)の証(あか)し――。上の写真は、その“八角形墳”の
         痕跡を明確にとらえたものだ。筆者が牽牛子塚古墳の発掘現場へ赴(おもむ)き、生々しい歴史
         の断面を切り取ってきた映像である。
           とくに、左下の写真(石敷きのコーナー部分)は、八角形であったことを如実に物語っていよう。
         古墳のすそを取り囲む八角形の石敷き――。それは、長方形の切り石が石畳のように3列(幅約
         1b)に並べられ、八角形になるよう、途中で135度の角度に折れ曲がっているのだそうだ。
           なお、「陵墓」というのは、歴代の天皇・皇后らを葬った陵(みささぎ)のこと。宮内庁が厳重に管理
         していて、発掘調査は一切、許可されず、人々は墳丘に立ち入ることもできない。

         左=現地見学会は大にぎわいだった。人々の向こう側が、八角形の敷き石の列などが出土した
         発掘現場だ。その奥が墳丘で、巨大な切り石が石室の周りをガードしている。
           右=墳丘に建てられた「牽牛子塚古墳」の説明プレート。

           *牽牛子塚(けんごしづか)古墳……丘陵上に築かれた対辺22b(バラス敷きの範囲を含めると
         32b以上)・高さ4.5bの八角形墳(終末期古墳=7世紀後半)。巨大な凝灰岩をくり抜いた横口式
         石槨(せっかく)がある。その石室の内部は、真ん中で仕切られ、二つの埋葬施設があるという。被葬者
         は、斉明天皇とその娘・間人皇女(はしひとのひめみこ)とみられるようだ。

          *斉明(さいめい)天皇(594〜661)……第37代天皇(第35代の皇極天皇も同一人物)。飛鳥
         時代の女帝である。大化改新で知られる中大兄皇子(なかのおおえのおうじ=天智天皇)、天武天皇の
         母。運河の造営など、大規模な土木工事を好んだという。2000年には、その“代表作”の一つ、亀形
         石造物を中心とする「酒船石遺跡」が、飛鳥宮跡の近くで見つかった。
           なお、斉明天皇の夫・舒明(じょめい)天皇や、息子の天智天皇、天武天皇の陵墓も、天皇家専用の
         八角形だ。こうなると、「八角形墳」と確認された牽牛子塚古墳は、斉明天皇陵とみて間違いはないの
         だろう。

          巨石をくり抜いて丁寧に造られた石槨。石は二上山から運ばれたという凝灰岩で、幅5b、奥行
          き3.5b、高さ2.5b。重さは70dに及ぶのだそうだ。石室は内部が二つに分かれていて、床面に
          高さ10aの二つの棺台が設けられているという。
            この事実は、斉明天皇が娘と合葬されたとの『日本書記』の記述と一致するらしい。

            この牽牛子塚古墳についてのビッグ・ニュースを記録にとどめるべく、平成22年(2010)9月
          10日(金)付の『朝日新聞』(朝刊)の第1面の記事を、以下に転載させていただく。

           さらに、上の記事が紙面を飾った日から11日後の9月21日(火)、『朝日新聞』は社説で
         牽牛子塚古墳に関連する主張を述べた。今後は、宮内庁が発掘を許さない「陵墓」の学術
         調査が解禁され、その実態が明らかにされるべきだというものだ。その社説の記事も、以下に
         転載させていただく。

          上段の2枚=「牽牛子塚古墳」の方向を示す道しるべ(左)と、明日香村の田園風景。
          アキアカネが群れをなして飛び交い、道ばたでしきりにキリギリスが鳴いていた。なぜか懐かしい、
          抒情的(じょじょうてき)な雰囲気だった。奥に見える丘陵の上に、牽牛子塚古墳がある。
            右下=近鉄「飛鳥(あすか)」(吉野線)の駅前で、「明日香女(あすかめ)」のかかしが出迎え
          てくれた。奈良は「平城遷都1300年祭」の真ッただ中。にぎやかに駅前を彩るかかしたちは、その
          イベントの一環であろうか。

            ≪後記≫ それにしても、「牽牛子塚古墳」を訪れた日は、暑い日だった。9月も11日(土)だと
          いうのに、この日の奈良の最高気温は35.6度C。連日、「猛暑日」がつづく。熱中症を恐れ、500
          _g入りのスポーツ・ドリンクをたずさえて見学会に参加したのだが、湿度も高くて、不快な暑さだ。
          近鉄「飛鳥」駅から徒歩15分の、起伏のある道を、休み休みゆっくり歩くのだから、25分以上もかか
          っただろうか。後期高齢者(12月で75歳)の筆者には、つらい“強行軍”だった。
            ちなみに、2年前(2008年)の2月、同じ明日香村の「真弓鑵子塚(まゆみ・かんすづか)古墳」を見
          学した日は、朝から大雪が降り積もり、奈良の最高気温は3度Cだった。その年の6月、筆者は大腸
          がんの手術を受けた。幸い順調に回復したとはいえ、今も抗がん剤治療をつづけている身だ。加齢も
          あって、体力の衰えはいなめなかった。
            それでも、めざす「牽牛子塚古墳」の墳丘に近づくと、気分が引き締まるから不思議である。元気
          よく急坂を登り、胸おどる発掘現場へ……。渾身(こんしん)の気合を込めて、“八角形墳”を示す石敷き
          や横口式石槨などにレンズを向け、シャッターを切った。一眼レフの「パシャ!」という快い音が、疲れ
          を吹っ飛ばしてくれる。満足できる写真が撮れて、気分はさわやかだった。

            ところで、筆者は、普通なら絶対、立ち入ることが許されない「天皇陵」へ、3回も入ることができ
          た。そこには、土の匂いも生々しい発掘現場が待ち受けており、姿を現したばかりの千数百年前の
          出土遺物を、えもいわれぬ感動を覚えながら、見学することができたのである。
            その古墳は、推古天皇の「植山古墳」(奈良・橿原市=2000年8月)、真の継体天皇陵といわれる
          「今城塚古墳」(大阪・高槻市=2007年3月)、そして、今回の「牽牛子塚古墳」だ。
            それに、朱塗りの巨大な竪穴(たてあな)式石室が見つかったうえに、後日、81枚もの銅鏡が副葬
          されていたと報道された「桜井茶臼山古墳」(奈良・桜井市=2009年10月)も、間違いなく「天皇陵」
          であろう。
            これらはいずれも、宮内庁の管理する「陵墓」ではない。そのため、発掘調査が可能となり、現地
          説明会が催されたわけである。筆者はそれに参加し、「天皇陵」へ立ち入ることができたのだ。そうし          て、資料をいただき、写真を撮らせていただいたのだった。
            ともかく、「天皇陵」の現場に居合わせる臨場感は格別で、筆舌に尽くしがたいほど。古墳の発掘
          現場に取り憑(つ)かれたおかげで、そうした貴重な体験を重ねることができた。有難いことである。
                                                 ≪平成22年(2010年)10月制作≫


      S長尾山古墳(兵庫・宝塚市)=≪その3≫    平成22年(2010年)10月撮影
             最大・最古級、未盗掘……。1700年前の「粘土槨」が原形のまま出土!

         長尾山古墳の墳頂部から姿を現した「粘土槨」(ねんどかく)。その中には、木棺や副葬品が
         埋め込まれているはずだ。「粘土槨」というのは、被葬者を納めた木棺を粘土で覆う埋葬施設の
         こと。出土した「粘土槨」は高さ1b以上、幅2.7b、長さ6.7b。かまぼこ状で、ほぼ原形を保った
         ままで見つかったという。
           長尾山古墳は、丘陵の上に築かれた全長39bの前方後円墳(前期古墳=4世紀初め)。この
         時代の埋葬施設は、おしなべて“竪穴(たてあな)”であるらしい。横穴式石室が出現するのは、その
         後の5世紀以降だという。
           筆者がこの長尾山の発掘現場を訪れたのは、3年連続3回目であるが、過去2回とも、「後円部
         の墳頂に陥没坑(かんぼつこう=土砂の落ち込み)があるので、この下には“竪穴”の埋葬施設が存在した
         はず」とのことだった。
           果たせるかな、今回……。墳丘の直下に“竪穴”があり、地下1.5bの土中から想像を絶するほど
         の、巨大な「粘土槨」が出土したわけだ。こうして発掘経過を時系列的にみてくると、その成り行きは
         誠にドラマチックであったといえよう。

         現地説明会には、大勢の考古学ファンがつめかけた。場所は阪急「山本駅」(宝塚線)の北方、
         宝塚市山手台東1丁目。駅からは、上り坂を歩いて15分余りの道のりだ。古墳は、長尾山系の南東に
         のびる、標高120bの尾根上にある。発掘調査は宝塚市教育委員会と大阪大学考古学研究室が
         共同で行っていた。


      [21]越塚御門(こし・つかごもん)古墳(奈良・明日香村)   平成22年(2010年)12月撮影
            『日本書紀』の記述どおり、大田皇女の石室が見つかる!
            牽牛子塚古墳(斉明天皇陵)のそば、発掘調査が史料記載の場面を実証。

         発掘された越塚御門古墳の石室。“八角形墳”でクローズアップされた牽牛子塚古墳の
         わずか20bばかり南東、祖母(斉明天皇)の陵墓のわきで、孫娘(大田皇女)は眠って
         いた。つまり、この同じ場所に、女帝・斉明(さいめい)天皇―その娘・間人皇女(はしひとのひめみこ)
         ―孫娘・大田皇女(おおたのひめみこ)という、飛鳥時代の3人の女性皇族が埋葬されていたわけだ。
         このことは、『日本書紀』(720年に成立した日本最初の勅撰歴史書)に書かれているとおり
        なのだという。

           発掘された石室は、岩をくりぬいた横口式石槨(せっかく)で、長さ2.4b、幅90a、高さ60a。
         天井部は失われていて不明だが、ドーム状を呈していたといわれる。その前面には、バラスを敷き
         つめた幅1bの墓道が設けられている。
           上のタテ長の写真=奥に見える墳丘が、注目の牽牛子塚古墳だ。その手前で、新たに
         石室(越塚御門古墳)が発見された。この二つの古墳は同じ丘の上にあり、20bほどしか離れて
         いない。
           左下=大田皇女が葬られたという越塚御門古墳の石室。右下=斉明天皇と間人皇女が
         合葬されたとされる牽牛子塚古墳の石室。その内部は広く、二つの部屋に仕切られている。(この
         右下の写真だけは、3ヵ月前の2010年9月に撮影)

         新しく発見された大田皇女の石室(越塚御門古墳)は、緑深い丘陵の南端、見晴らしの
         よい尾根の上にある。さて、その牽牛子塚古墳付近の様子は、1300年前の『日本書紀』に
         書かれていたとおりだという。すなわち、『日本書紀』の667年2月の記述に、「斉明天皇と
         間人皇女を合葬し、孫の大田皇女を御陵の前に埋葬した」と書かれているのだそうだ。
         つまり、斉明天皇(594〜661)の「墓の前」に、息子である中大兄皇子(なかのおおえのおうじ・大化
         改新で有名・のちの天智天皇/626〜671)の娘、「大田皇女」(生没年不詳)が葬られたという
         のである。
           現に、牽牛子塚古墳には2人(斉明と間人)を合葬した石室が存在するのだし、今回、その墳墓
         の前から、新たに孫娘を埋葬した石室が現れたのだ。何という見事な一致であろうか。
           一等史料に記載のある場面が、そっくりそのまま実在することが判明したわけで、文献史料と
         発掘調査の結果が、これほど鮮やかに符合するケースは、そうそうあるものではなかろう。
         これで、牽牛子塚が斉明天皇陵である可能性がいちだんと高まったのは、間違いのない
         ところだ。とにかく、考古学史上の大発見、劇的なビッグ・ニュースといっても過言ではないと思う。

           *越塚御門古墳……牽牛子塚古墳の前にある。終末期古墳(7世紀後半)。「明日香村大字越
         小字塚御門」にあるので、そう名づけられた。これまで文献に記載がなく、新規に検出された古墳だ
         という。地表面に墳丘の痕跡はまったく残っておらず、墳形や規模などは不明。被葬者は大田皇女
         であろう。
           *大田皇女の妹は、女帝・持統天皇(645〜702/天武天皇の皇后)……『万葉集』『小倉
         百人一首』の歌でも知られる持統天皇は、天智天皇を父とする大田皇女の同母妹であった。天智の
         母が斉明天皇だから、大田・持統の姉妹は斉明の孫である。「春過ぎて夏来たるらし白妙の 衣
         ほしたり天(あめ)の香具山」――『万葉集』(巻1―28)にある、持統天皇の有名な歌だ。

         のどかな明日香村の田園地帯に、考古学ファンが長蛇の列。近鉄「飛鳥(あすか)」駅(吉野線)
         から15分ばかり歩いた所で資料(明日香村教育委員会発行)をいただき、そこから行列が始まった。
         それは、狭い農道を500b以上もつづいただろうか。3ヵ月前(9月)に牽牛子塚古墳を訪れたとき、
         道ばたでキリギリスが鳴き、アキアカネが群れをなして飛び交っていた付近だ。
           今回めざす越塚御門古墳は、左上の写真の奥、なだらかな丘の上にある。筆者は妻と一緒に
         1時間近くも列に並んだのであるが、さほど苦にはならず、少し寒かったが、明日香村の風情ある
         雰囲気にひたっていたようだった。
           それにしても、筆者はもうトシ(後期高齢者)だし、再びここへ来るとは思っていなかった。ところが、
         わずか3ヵ月の間に、また明日香へ来ている。もし、石室が出土したというだけなら、おそらく来なかっ
         たであろう。伊丹(兵庫県)の自宅から阪急―大阪地下鉄―近鉄と乗り継いで、2時間以上もかかる
         のだから……。
           それが、再びやって来たのは、 『日本書紀』の記述が発掘現場の状況と見事に合致して
        いるという、衝撃的なニュースに驚愕し、触発されたからだ。
おかげで、画期的な発掘現場をナマ
         で見せていただき、その“証拠写真”を撮ることもできた。有難いことである。
                                                 ≪平成23年(2011年)2月制作≫


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【古墳に関する新しい発見や話題があれば、随時に追加していく予定です】