教善寺の阿弥陀(あみだ)さん
               ルーツは「伊丹廃寺」のご本尊だった?
                                                        (写真 10枚)

         上の写真は、教善寺の木造阿弥陀如来立像と山門(北伊丹3丁目)。この「阿弥陀(あみだ)さん」         は、昭和40年(1965)、伊丹市の有形文化財(彫刻)に指定された。制作時期は室町時代ごろと
         みられ、快慶の後期作品の様風を踏襲したものといわれる。
           教善寺があるのは、多田街道ぞいの伊丹市北伊丹3丁目。西国街道の伊丹坂を下って、産業道路
         (尼崎池田線)を渡ったところに「辻の碑(いしぶみ)(伊丹市指定史跡)があるが、教善寺はその北、
         旧「北村」の集落の真ん中に位置する。
           それにしても――、このお寺の「阿弥陀さん」が元は伊丹廃寺(国指定史跡)のご本尊だった
         というのだから、驚くばかりだ。

         左上=「多田街道都市景観形成道路」の図。教善寺は赤色の部分の中ほどにある。右上=左の
        標識がある北伊丹センター前。
奥に見える建物は、教善寺(北伊丹3丁目)。
           左下=画面の右奥が、「辻の碑」だ。教善寺はここから300bほど北(奥)、多田街道ぞいに
         ある。右下=「従是多田御社一里半」と刻まれた石柱。「辻の碑」の手前にある(北伊丹1丁目)
         多田街道は、伊丹郷町と多田院(多田神社=川西市)を結ぶ、古くからの街道であった。

           ちなみに、教善寺の所在地(北伊丹3丁目)の旧地名は「伊丹市北村」、伊丹廃寺(緑ケ丘4丁目)
         の旧地名は「伊丹市北村字鋳物師(いもじ)」である。つまり、「北村」が本郷で、「鋳物師」はその枝郷
         というわけだ。同じ村域にある伊丹廃寺(国指定史跡)は、教善寺の北西、直線距離にして1`ほど
         しか離れていない。(余談ながら、筆者の住む春日丘4丁目も同じ旧「北村」のエリアである)。

           さて、その教善寺の「阿弥陀さん」のことを、筆者は以前、伊丹のグラフ情報誌『いたみティ』
         (伊丹経済交友会発行)に書いた。1回目は平成4年(1992)の「伊丹の文化財めぐりD」、2回目
         は平成13年(2001)の「伊丹古寺巡礼F」だ。その連載の中から、「阿弥陀さん」のエピソードをここ
         に転載させていただく。文章は「伊丹古寺巡礼」シリーズで、筆者自身が執筆したものである。

             上の写真は、「伊丹の文化財めぐりD」のタイトル部分。阿弥陀如来立像の
             全身が写っているので、『いたみティ』1992年10月号から転載させていただいた。

       ひなびた村はロマンと伝説に彩られて

           西国街道の伊丹坂を下ると、摂津国の真ん中を示す「辻の碑(いしぶみ)」(市指定史跡)が
         あり、その北側の伊丹市北伊丹3丁目に、教善寺(
きょうぜんじ・浄土真宗)がある。
           付近は古くからの農村地帯で、旧地名は「北村」であった。伊丹市域にはもはや「北村」と
         いう地名は存在しないが、めざす教善寺は、その北村の集落に位置する古刹である。
           さて、このお寺は明応5年(1496)の創建で、本尊は伊丹市指定の有形文化財(彫刻)、
         木造阿弥陀如来
(あみだにょらい)立像だ。その美しいお姿はヒノキ材の寄木造りで、像高98.8a。
         いまは黒っぽく見えるが、漆
(うるし)を塗った上に金箔(きんぱく)がほどこされた漆箔像(しっぱくぞう)
         だという。
           実は、この「阿弥陀さん」には、ロマンに満ちたエピソードが秘められていた。

           寺伝によれば、戦国時代の天正7年(1579)、信長の軍勢が伊丹の有岡城を攻めたとき、その
         兵火で鋳物師
(いもじ)村の良蓮寺(りょうれんじ)が炎上したが、そのとき間一髪で助け出されたご本尊
         が、この教善寺の「阿弥陀さん」だという。当時、燃えさかる炎のなか、僧侶や村人たちが必死の
         思いでレスキュー隊を組織し、ピンチを救ったのであろうか。
           『川辺郡誌』なる史料には、「龍蓮寺は鋳物師村隆盛の時、七堂伽藍の巨刹たりしも……」と
         ある。「龍蓮寺
(ろうれんじ)」は良蓮寺(りょうれんじ)で、緑ケ丘4丁目にあった伊丹廃寺(国指定史跡)
         のことであろう。そこは、近年まで、「北村字鋳物師南良蓮寺」という地名だったからだ。

           とすれば、“まぼろしの名刹(めいさつ)”ともいうべき古代大寺院の本尊が、いまから430年前、村人
         たちに助けられ、同じ村域(鋳物師村は北村の枝郷)の教善寺にかくまわれたことになる。なんとも
         ロマンのただよう、心温まる話ではないか。
           この「阿弥陀さん」のおはします教善寺の境内に、伊丹廃寺(良蓮寺)のものと伝わる礎石が一つ
         安置されているのも、奇しき因縁であろう。

                【参照】――「50年目の伊丹廃寺跡」

           以上が、教善寺と旧「北村」地区に伝わる、心温まる「阿弥陀さん」のエピソードである。
           あくまで伝承だから、その“生い立ち”が史実かどうかはつまびらかではないが、教善寺の門前に
        掲げられた、「阿弥陀如来立像」と題する説明標識(伊丹市教育委員会)に、次のように記され
        ている
のも、また事実である。
           「寺伝によると、天正7年(1579)、織田信長が有岡城主荒木村重を攻めた時に鋳物師(いもじ)
         良蓮寺(緑ケ丘4丁目・国指定史跡 伊丹廃寺)が炎上したが、その時かろうじて本尊をこの寺に移し
         たものと記されている。なるほど、この阿弥陀如来はこの寺の建物には不釣り合いに大きく、この寺の
         従来の本尊は今、別間に安置されている」―――と。
           なお、この寺伝では、伊丹廃寺イコール「良蓮寺」としている点が、きわめて興味ぶかい。筆者は、
         伊丹廃寺の所在地の旧地名が「伊丹市北村字鋳物師南良蓮寺」であったことから、伊丹廃寺の正式
         名称(寺名)は「良蓮寺」では(?)と考えるからだ。         

     左=伊丹廃寺の金堂基壇(復元)。右=伊丹廃寺跡を彩る朱塗りの北門(復元)。
           教善寺のあの優しいお顔の「阿弥陀さん」は、ここにあった金堂の中に祀(まつ)られていたの          であろうか。                           《平成21年(2009年)1月制作》


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