50年目の伊丹廃寺跡(国指定史跡)

             発掘調査から50年――“まぼろしの古代大寺院”の
                        「今」を訪ねて
   (写真36枚)

           緑ケ丘4丁目にある伊丹廃寺跡は、昭和41年(1966)、「国の史跡」に指定された。
         伊丹の誇る、世に知られざる古代大寺院の遺跡である。その地で発掘調査が始まったのは、
        昭和33年(1958)のこと。筆者が大学を卒業した年であった。このページを制作しているのは
        平成20年(2008)だから、それからもう、「50年」もの歳月が流れたことになる。
          半世紀の“時”を超えて、その伊丹廃寺跡は、現在、どのような様相を呈しているのであろう
        か――。緑におおわれた廃寺の遺跡やゆかりの場所を訪ね、カメラ・ルポしてみた。
                                             《平成20年(2008)12月制作》

         現在の伊丹廃寺跡。鮮やかな朱塗りの北門と西門が復元されている。場所は、緑ケ丘にある
         陸上自衛隊総監部の正門前。緑ケ丘公園の300bほど北、瑞ケ池公園の300bほど東だ(緑ケ丘
         4丁目)

      ▼この場所には、昔(1300年前の奈良時代)、どんなお寺があったのだろうか――。それは、
      法隆寺様式の伽藍(がらん)配置をもつ、ナゾに包まれた古代大寺院だった。

         東に金堂、西に五重塔を配した、在りし日の伊丹廃寺の伽藍配置図。北門(復元)を入った所
         に、この標示板が建てられている。
           以下に、伊丹廃寺のあらましを、詳述しておきたい。

                埋もれていたナゾの古代大寺院

           緑ケ丘の陸上自衛隊総監部前に、風変わりな“空間”がある。はるかなる大昔、そこには想像を
         絶するほどの大規模な寺院が建っていたのだという。その遺跡が伊丹廃寺跡で、昭和41年(1966)
         国の史跡に指定された。
           在りし日のお寺の正式名称はわからない。しかし、その場所(緑ケ丘4丁目)の旧地名は、昭和37
         年(1962)まで、「伊丹市北村字鋳物師(いもじ)南良蓮寺」だった。お寺の名前が地名に付けられる
         ほどだから、伊丹廃寺の寺号は「良蓮寺」であったのかも知れない。
           その推論を裏付けるかのように、『川辺郡誌』(1912年刊)には、「龍蓮寺(ろうれんじ)は鋳物師村
         隆盛の時、七堂伽藍(がらん)の巨刹(きょさつ)たりしも、天正7年兵火に罹(かか)りて烏有(うゆう)に帰す
         後(の)ち屡次(るじ)其寺跡に耕作を試むるも収穫を見る能(あた)はざるより、今は雑木生へる一荒地と
         なり果つ」とある。
           また、寛文年間(1661〜1673)の『北村絵図』には、「北村ノ内いもし屋」と書かれた集落の西北
         に長方形の区画が描かれ、「良蓮寺」と書き込まれていた。しかも、その区画の中には、遺構らしき
         ものまで描かれているのだ。
           確かに近年まで、緑ケ丘の陸上自衛隊総監部の辺りには、「北良蓮寺」「南良蓮寺」という地名が
         存在していた。筆者がその地の高校(県立伊丹高校)に通った昭和20年代の後半(1950〜1954)
         ごろ、自衛隊の正門前は、まさしく「雑木生へる一荒地」であった。
           ところが、『川辺郡誌』や『北村絵図』が「龍(良)蓮寺」跡と指摘し、遺跡があることを暗示しつづけ
         た、その雑木林の中から、現実に大規模な寺院跡の遺跡が姿を現すのである。その展開はまことに
         ドラマチックであった。
           経過をふり返ると、まず、半世紀前の昭和33年(1958)、雑木林の中で畑を耕していた人が偶然
         銅製の水煙(すいえん=仏塔の九輪上部に付けられた火焔型の装飾金具)を発見。これをきっかけに、
         本格的な発掘調査が進められた。筆者がその現場を見たときは、土の匂いも生々しく大量の瓦類が
         出土していた。
           以来、8年に及ぶ調査の結果、お寺は南向きで、東に金堂、西に五重塔を配置し、その周りに回廊
         がめぐらされていたことが判明。背後(北側)には講堂、僧坊などもあり、東西150b、南北130bの
         境内は、築地塀(ついじべい)で囲まれていたという。伊丹廃寺は、法隆寺様式の伽藍配置をもつ大寺院
         だったのである。
           この奈良時代のお寺は、天正7年(1579)、織田信長の軍勢が伊丹の有岡城を攻めたとき、その
         兵火によって炎上したと伝えられる。それにしても、国史跡に指定されるほどの名刹(めいさつ)であり
         ながら、その存在が地元史料や古絵図にだけしか記録されていないのは、なぜであろうか。
           伊丹廃寺跡は現在、金堂の基壇(東西20b・南北16b)や、五重塔の基壇(12.7b四方)など
         が往古の姿そのままに復元され、史跡公園となっている。
           また、伊丹廃寺跡からの出土遺物は昭和52年(1977)、一括して県の有形文化財(考古資料)
         に指定された。なかでも、唐草文様入りの水煙が圧巻だ。右半分を欠いているが、緑青(ろくしょう)
         帯びており、高さ115a、厚さ1.6〜1.8a。ほかに、風鐸(ふうたく)、九輪(くりん)、せん仏(せんぶつ)
         軒丸瓦(のきまるがわら)、軒平瓦(のきひらがわら)、丸瓦、平瓦、土器類などがある。
           これら「まぼろしの名刹」跡で見つかった出土品は、伊丹市立博物館(千僧1丁目)に収蔵されて
         おり、主なものは2階の常設展示場で見ることができる。

         伊丹廃寺跡に設けられた説明標識、石に彫り刻まれた伽藍配置図など。いずれも、廃寺跡の
         史跡公園にある。

         陸上自衛隊総監部の敷地内も、一部が伊丹廃寺の“境内”だった。写真は、廃寺跡から自衛隊
         基地を望む。
           現在、廃寺跡の北門(復元)の前には、歩道のある広い道路が連なっている。その北側の自衛隊
         の敷地内に、その昔は伊丹廃寺の講堂や僧坊などがあり、さらにその北には築地塀(ついじべい)
         めぐらされていたようだ。

         金堂の基壇(復元)。史跡公園の中央部にある。基壇は東西20b、南北16b。栗石と瓦とを交互に
         積み上げており、南面左右に2基、北面中央に1基の階段が設けられている。ちなみに、発掘された
         金堂基壇の遺構(実物)は、この同じ場所の地下に埋設保存されているのだそうだ。
           なお、在りし日の伊丹廃寺の金堂の内壁は、せん仏などで飾られていたらしい。出土したそのせん         仏の表面には、金箔(きんぱく)の痕跡がわずかばかり残っているという。

         五重塔の基壇(復元)。金堂の西側10b余りの所にあり、一辺12.7bの正方形。半裁した瓦だけ
         で積んでおり、南面中央に階段が1基、設けられている。
           なお、この基壇の上にそびえていた五重塔は、お寺が炎上するとき、金堂の側(東)へ倒れたよう
         だ。塔の上部を飾る水煙は焼けただれ、その左半分の残欠が金堂跡と塔跡の間の土中から見つかっ         たという。

      ▼金堂や五重塔の礎石はないが、なぜか、別の場所に「礎石」だけが現存!

         伊丹廃寺の遺跡には、現在、建物の礎石は残されていない。上の写真のように、別の石で復元
         されたもの(左)や、基壇の上に小石でその位置が示されている(右)だけである。
           では、いったい、“ホンモノ”の礎石は、どこへ行ってしまったのだろうか――。必ずどこかに
         あるはずだ。伝承としてその所在が知られているものを、以下に写真で示しておきたい。

         臂岡(ひじおか)天満宮の境内に、伊丹廃寺の「礎石」が複数個も現存(鋳物師1丁目)。場所は
         伊丹廃寺の南東およそ300b、緑ケ丘公園の東側だ。この天神さんは旧「北村」の氏神である。
           左上=社殿に向かって右側の、小さな祠(ほこら)のそば。以前、「伊丹廃寺の礎石」と記した木札が
         掲げられていた。石の大きさは約1b四方、厚さは70aほど。「造り出し」と呼ばれる加工のアトがうか
         がえる。その大きさからも、伊丹廃寺の巨大な姿をしのぶことができよう。
           右上=社殿の向かい側(東100b)の、忠魂碑の下。左下=同所の祠の台座。右下=臂岡天満
         宮の参道から拝殿を望む。
           この天神さんの境内には、ほかにもそれらしき巨石が散見されるが、伊丹廃寺の「礎石」であると
         の確信はもてない。

         教善寺の境内にも、「伊丹廃寺跡出土礎石」が現存(北伊丹3丁目)。場所は、西国街道と多田
         街道が交差する「辻の碑(いしぶみ)(市指定史跡)の少し北だ。
           左上=伊丹廃寺の礎石。右上=伊丹廃寺の軒丸瓦(のきまるがわら)。左下=教善寺の木造阿弥陀
         如来立像〈上半身〉(市指定有形文化財)数奇な運命をたどったとされるこの「阿弥陀(あみだ)さん」
         の、ロマンに満ちたエピソードについては、別項で詳述したい。右下=教善寺の山門。
                【参照】――「教善寺の阿弥陀(あみだ)さん」

         旧石橋家住宅(県指定有形文化財)の縁側に、「沓脱(くつぬ)ぎ石」として(宮ノ前2丁目)。
         場所は伊丹の中心市街地、旧岡田家住宅(国指定重要文化財)や、柿衞(かきもり)文庫、美術館など
         のある、「みやのまえ文化の郷(さと)」の一画だ。
           左=伊丹廃寺の礎石を再利用した沓脱ぎ石。右=旧石橋家住宅。沓脱ぎ石のある縁側は、風情
         ある日本庭園に面している。

         大鹿地区の旧家で、知られざる「礎石」を発見!  しかし、――。 写真は、大鹿交流センターの
         前から北方を望む(大鹿3丁目)。
           筆者は30年ほど前(1980年ごろ)、「大鹿の**氏邸に伊丹廃寺の礎石があるらしい」とのウワサ
         を耳にしていたのだが、その話は事実だった。“未知の礎石”のある家を突き止めたのである。しかし、
         写真の撮影を許していただけなかったのは、誠に残念であった。

      ▼伊丹廃寺跡出土品は、県指定有形文化財(考古資料)。伊丹市立博物館(千僧1丁目)の2階
      常設展示場で見ることができる。「伊丹の自然と歴史」と題する常設コーナーでは、縄文・弥生時代から
      古代―中世―近世―近代の順に展示されている。発掘調査で出土した貴重な埋蔵文化財の姿をナマで
      鑑賞できるのがうれしい。

               半世紀前の昭和33年(1958)に発見された、伊丹廃寺の水煙(すいえん)
               伊丹市立博物館展示コーナーの“主役”だ。この写真は、許可を得て、『新・
               伊丹史話』(伊丹市立博物館発行)から転載させていただいた。

         埋もれていたこの超ド級の出土遺物は、写真のように右半分が失われているのだが、見つかった
         水煙(仏塔の上部に取り付けられた火焔形の装飾金具)は、高さ115a、厚さは1.6〜1.8a。
         唐草文様入りの優美なものだ。
           伊丹廃寺の遺跡発見のきっかけとなったこの水煙は、金堂跡と塔跡との中間地点に埋もれていた
         という。お寺が焼け落ちるとき、五重塔は東(金堂の側)へ倒れたのであろう。
           この水煙のほか、せん仏、風鐸(ふうたく)、軒丸瓦(のきまるがわら)、軒平瓦(のきひらがわら)、九輪(く
           りん)など、国指定史跡伊丹廃寺跡からの出土遺物1,027点が、昭和52年(1977)、一括して
         県の有形文化財(考古資料)に指定された。いずれも伊丹市立博物館が所蔵しており、主なものは
         同館2階に展示されている。

      ▼「伊丹廃寺保存会」(昭和38年設置)が、伊丹市文化財保存協会の前身。
           伊丹廃寺跡は昭和33年(1958)から発掘調査が始まり、8年に及ぶ調査の結果、きわめて貴重
         な歴史遺産と判明。昭和41年(1966)、国の史跡に指定された。
           その3年前にあたる昭和38年(1963)2月、伊丹市民を中心として「伊丹廃寺保存会」が設立され
         た。この保存会が、現在の伊丹市文化財保存協会の前身である。

         上の2枚=伊丹市文化財保存協会の事務局。旧岡田家住宅の中にある。中段の2枚=伊丹
         廃寺の礎石を再利用した沓脱(くつぬ)ぎ石。同協会事務局から10bと離れていない、旧石橋家
         住宅(県指定有形文化財)の縁側にある。下の2枚=旧岡田家住宅(店舗・酒蔵)。延宝2年(16
         74)の棟札が見つかったこの建物は、築330年を超えている。国指定の重要文化財だ。(いずれも
         宮ノ前2丁目)。                   

           伊丹市文化財保存協会は、「伊丹廃寺保存会」を母体として発展的に改組、昭和40年(1965)
         11月に設立された。以来、その歴史は40年以上に及ぶ。同協会の創立40周年を記念し、平成18年
         (2006)11月には、「みやのまえ文化の郷」の日本庭園に、旧「近衛家会所」の石灯籠が復元設置
         された。そのときの除幕セレモニーなどの写真がある。このホームページ(『伊丹の歴史グラビア』)に、
         「伊丹《再》発見@……40周年記念に石灯籠を復元設置」として収録しているので、ご参照いただけ
         れば幸いである。
           このほか、「伊丹《再》発見@……旧岡田家住宅でお雛(ひな)さんを展示」「伊丹《再》発見C……
         昆陽池公園の文学碑を訪ねて」も、同協会が主催する恒例のイベントである。
           伊丹市文化財保存協会は、伊丹市内に点在する文化財の保護ならびにこれに関する史実の研究
         とその知識の普及を図り、市民文化の向上に役立てることを目的としている。

      ▼伊丹廃寺の正式名称は? 昭和37年(1962)まで、付近の地名は「良蓮寺」だったが……。
           法隆寺様式の伽藍配置をもつ、超ド級のお寺でありながら、在りし日の伊丹廃寺の正式な名前は
         わからない。「伊丹廃寺」とは、「伊丹にあった廃絶した古い寺院」という意味あいであろう。便宜上、
         そう呼ばれているだけだと思われる。
           それにしても、伊丹廃寺が無名であるはずはなかろう。国の史跡に指定されるほどの貴重な歴史
         遺産であるにもかかわらず、なぜ、お寺の正式名称が不明なのであろうか――。これは、大いなる
         ミステリーというべきであろう
           それと、もう一つ。伊丹廃寺のことは地元の限られた文献史料に記載があるだけで、他には一切、
         存在が記録されていないのは、なぜであろうか。まして、このお寺を建立した人物が誰であるのかも
         わからないのだ。お寺の存在そのものが、何らかの理由で、歴史から消されたのであろうか――。
         これまた、大いなるミステリーというほかない。
           伊丹廃寺はまさしく、ナゾに包まれた、しかも、ミステリアスな雰囲気に満ちた“まぼろしの
        古代大寺院”といえよう。

           そのお寺の名前を、地元史料は「霊林寺(りょうりんじ)」、「龍蓮寺(ろうれんじ)」、「良蓮寺(りょうれんじ)
         とする。その出典は、『摂津名所図会』(1798年刊)、『川辺郡誌』(1912年刊)、『北村絵図』(1661年
         刊)だ。これら三つの寺名はいずれもよく似た発音だから、耳で聞いたときのフィーリングで、それぞれ
         の漢字が当てられたと考えられる。つまり、それらの三つは別物ではなく、同一のお寺を指したのに
         違いなかろう。

           さて、その三つの寺名のうちの一つ、「良蓮寺」は、近年まで、伊丹廃寺の所在地の地名だっ
         たのである。つまり、陸上自衛隊総監部の正門前付近(現・緑ケ丘4丁目)は、昭和37年(1962)
         まで、「伊丹市北村字鋳物師(いもじ)南良蓮寺」であった。その北は「北良蓮寺」だった。お寺の
         名前がズバリそのまま、地名として、地図上に残されてきたのだ。
           その「良蓮寺」という小字(こあざ)名が伊丹廃寺の正式名称と考えるのが自然と思われるのだが、
         それでは短絡的に過ぎるのであろうか。
           とにかく、地名の「良蓮寺」がイコール寺名だとする根拠はないのだという。それは、いわゆる一等
         史料に伊丹廃寺についての記載がなく、その存在そのものが“おぼろげ”だからだろう。

           それにしても、“無名”のお寺にしては、発掘された伽藍配置があまりにも見事で、いかにも
         大寺院の様相を呈しているのは、なぜであろうか――。“無名”のナゾも含め、いつの日か、この
         ミステリーが解き明かされることを念願してやまない。


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