伊丹《再》発見 知られざる歴史遺産etc.
このページでは、あまり知られていない伊丹の歴史遺産、歴史や文化に関する新しい
発見、トピックス、エピソードなどを取り上げ、多角的にカメラ・ウオッチングします。
《平成19年(2007年)から制作開始》
(この『伊丹《再》発見』の項目は、随時に追加していく予定です)
町中のオアシス(みやのまえ文化の郷=宮ノ前2丁目)に、旧「近衛家会所」の
石灯籠が登場! 伊丹市文化財保存協会が、創立40周年記念に復元設置。
石灯籠の除幕セレモニー(お披露目式)。平成18年(2006)11月18日(土)、旧岡田家
住宅や柿衞(かきもり)文庫などのある文化ゾーンの日本庭園で、テープ・カットが行われた。
この石灯籠は、中央3丁目にあった旧「近衛家会所」の庭園に設置されていたものだ。
石灯籠はどっしりとして、重厚そのもの。他ではあまり見かけないような、独特の趣(おもむき)が
感じられる。右端は説明プレート。(小さい写真の上をクリックすると、画像が大きくなります。以前
に石灯籠があった旧「近衛家会所」の場所や、伊丹と「近衛家」とのゆかりについては後述します)
文化ゾーンの日本庭園は、さながら“別世界”。石灯籠が設置されたのは産業道路ぞいの
土塀のそばであるが、そこに広がる日本庭園は、まさしく“町中のオアシス”のよう。左上の
写真の奥は旧石橋家住宅、右上の写真の奥は旧岡田家住宅(酒蔵)。柿衞文庫の庭には、
「頼山陽遺愛の柿」も実る。幹線道路や高層ビルに囲まれた中心市街地に、このような“名庭”
があるとは、信じられぬくらいだ。
左=旧岡田家住宅(店舗・酒蔵)。築330年を超える町屋だ。40周年を迎えた伊丹市文化財
保存協会の事務局は、この建物の中にある。同住宅は国の重要文化財に指定されており、
「伊丹郷町館」として公開されている(月曜休館)。建物の裏側に、日本庭園がある。
右=在りし日の「近衛家会所」跡の表門。昭和29年(1954)に焼失するまで、中央3丁目に
存続した。《この写真は、許可を得て、伊丹市立博物館発行の『新・伊丹史話』より転載させて
いただいた》
伊丹市の市章は、「近衛家」の合印文(あいいんもん)だ。酒づくりで栄えた旧「伊丹郷町」
(中心市街地)の大部分は、寛文元年(1661)から明治維新後の明治4年(1871)まで、200年
余りの長きにわたって、「近衛家」の領地であった。領主の庇護のもと、当時の伊丹郷は日本一
の“酒造産業都市”として君臨したのである。そうしたゆかりがあるため、伊丹に市制がしかれた
昭和15年(1940)、「近衛家」の家紋の一つである合印文が、同家の許しを得て、市章に制定
されたのだった。右上の写真=「近衛家会所」の跡地にある説明プレート(中央3丁目・ネオ
伊丹ビルの敷地内)
「近衛家会所関係資料」は、伊丹市指定の文化財(歴史資料)。昭和63年(1988)、一括
40点が指定された。「近衛家」の家紋(合印文)が記されているのは、軒丸瓦、表門桁覆(おもて
もんけたおお)い金具、用水桶など。これらの貴重な品々は、伊丹市立博物館(千僧1丁目)の2階
に展示されている。
▼半世紀前、旧「近衛家会所」の建物は、この場所(中央3丁目)にあった。
《昭和29年(1954年)に撮影》
「この場所」とは、現在の伊丹シティホテルのすぐ北側、ネオ伊丹ビルの建つ場所である。
そこに、以前、伊丹市役所があり、同じ敷地内には、旧「近衛家会所」だった武家屋敷ふうの
建物があった。「会所」というのは、“惣宿老”(そうしゅくろう=「近衛家」が伊丹の酒造家の中から
任命した政務担当者)たちが町政を運営した役所のこと。その場所は、旧岡田家住宅からは、
南へ200bたらずの至近距離だ。しかし、昭和29年(1954)1月の火災で、市庁舎(木造2階
建て)もろとも、「会所」跡の建物はその姿を消す。
当時、筆者は県立伊丹高校の3年生。市役所のすぐ西側に住んでおり、深夜の大火を間近で
目撃した。上に掲げたモノクロ写真は、その後、蛇腹(じゃばら)の付いた旧式カメラで、筆者が
西あるいは南西方向から撮影したもの。火災の跡地に新庁舎を建設する場面だと思う。それに
しても、よくこんな古い写真を残していたものだ。
写真に写っている白壁の建物(右端)は、伊丹生まれの俳人・鬼貫(おにつら)の生家だった
上島家の酒蔵である。酒蔵は昭和37年(1962)まで存続した。現在、三井住友銀行のある
場所だ。その左手に法専寺の山門が見える。山門も本堂(左端)も、周りにあった酒蔵も、よくぞ
類焼をまぬかれたものである。
今回、久々に陽の目を見た旧「近衛家会所」の石灯籠は、この写真の場所にあり、焼けただ
れた瓦礫(がれき)の下に埋もれていたのであろう。
もし、「近衛家会所」だった建物が今も健在であったならば、それは築350年にも及ぶ。そして、
間違いなく国の重要文化財に指定されていただろう――。そう思うと、焼失したのは惜しまれて
ならないが、かつてその庭園を彩った趣のある石灯籠が、伊丹市文化財保存協会の手によって、
このほど半世紀ぶり(52年ぶり)に再デビューを果たしたのは、誠によろこばしい限りというほか
ない。真っ赤に燃えさかる深夜の大火の中から、不死鳥のようによみがえったその石灯籠が、
いとおしく思えてくるような気分である。
有岡城の堀跡が発見さる!
本丸跡(JR伊丹駅前)の南150b地点で。
430年前の堀跡が見つかった発掘調査現場(伊丹3丁目)。戦国時代の遺構は土の
においも生々しく、東西方向に長々と連なっていた。場所は、小西酒造の四季醸造工場の
北側だ。新聞の報道を見たら現地説明会の日を待ち切れず、すぐ現場へ駆けつけて、撮影
させていただいた。(次の4枚のうちの左下も、この日に撮影)
現地説明会は大にぎわいだった。平成18年(2006)11月、現地で配布された伊丹市教育
委員会の説明資料によると、発見された堀跡は長さ約18b、幅約5b、深さ約1.5b。付近
には有岡城の侍町(さむらいまち=家臣たちの居住区域)があったらしく、堀はそれに関連する
防禦施設であろうか。
有岡城は史上初めての“総構え”の城(町ぐるみの城塞)で、本丸跡などが国の史跡に指定
されているのであるが、今までにも堀跡は町中(旧城下町)で幾つも見つかっている。
《有岡城についての詳細は、この『伊丹の歴史グラビア』の、「@有岡城跡」および
「G伊丹の発掘…(1)有岡城跡」をご参照ください》
伊丹廃寺(緑ケ丘4丁目)の巨大な礎石が、
臂岡(ひじおか)天満宮(鋳物師1丁目)の境内に、なぜか二つも!
一つは、社殿の右側の小さな祠(ほこら)のそばに。「造り出し」と呼ばれる加工のあとが
くっきり。礎石は約1b四方、厚さも70aほどある。その大きさからも、伊丹廃寺の在りし日の
巨大な姿をしのぶことができる。
なお、この礎石の存在は、『伊丹の文化財』(伊丹市教育委員会発行)に「伊丹廃寺礎石
(臂岡天満宮境内)」として記載があるので、かなりよく知られていよう。
もう一つは、社殿の向かい側(東100b)の忠魂碑の下に。こちらの礎石は、ほとんど
知られていないのではないだろうか。筆者は平成10年(1998)ごろ、鋳物師(いもじ)1丁目
在住だった親友のK氏(故人)に、「こんな所に、伊丹廃寺の礎石がある」と教えてもらって、
その存在を知ったのである。
それにしても、この臂岡天満宮の境内に、“幻の名刹(めいさつ)”ともいうべき伊丹廃寺の
礎石が二つも現存するのは、大いなるミステリーといえよう。
左=玉垣のつづく参道から、臂岡天満宮を望む。天満宮は緑ケ丘公園のすぐ東側、伊丹
段丘の上にある。旧「北村」の氏神で、祭神は菅原道真公(845〜903)だ。この天神さんの
約300b北西に、伊丹廃寺跡がある。廃寺跡の旧地名も、この天満宮と同じ「伊丹市北村字
鋳物師」であった。
右=伊丹廃寺跡の金堂基壇(復元)。この遺跡は法隆寺様式の伽藍(がらん)配置をもつ
大規模な古代寺院跡で、国の指定史跡だ。陸上自衛隊総監部の正門前にある。金堂や塔の
基壇の上に礎石はないが、その位置が示されている。
左=伊丹廃寺跡の金堂基壇の上にある礎石(復元)の様子。1ヵ所だけ、別の石で復元
されている。往時は、大きな礎石がこのように埋め込まれていたのであろう。
右=伊丹廃寺の伽藍配置図。金堂基壇の近くの石に彫り刻まれている。この配置図の前に
立つと、位置関係がよくわかり、在りし日の大寺院の面影を彷彿(ほうふつ)とさせる。
ところで、この巨石(上の写真=臂岡天満宮の社殿前)は、何だろう? もう一度、天満宮へ
戻るが、石の横幅はおよそ1.5b。単なる庭石とは思えない。次の項目で取り上げる「猪名寺
廃寺」の巨石とそっくりだ。寺院など構築物の基礎に用いられた石ではないのだろうか。
猪名寺廃寺の塔の心礎(しんそ)が、
法園寺(尼崎・猪名寺1丁目)の境内に現存。
心礎は長径2.35b、高さ1.1bの花崗岩。古代の大寺院である猪名寺廃寺は、伊丹
廃寺と同様、金堂と塔が南面して東西に並ぶ法隆寺様式だったという。写真左は、その塔の
心礎(仏塔などの中心柱の礎石)だ。塔は三重塔と推定されているが、その心礎はとにかく
巨石で、真ん中に柱を立てる「くりこみ」(直径74a、深さ18a)がある。右は、説明プレート。
猪名野神社の「元宮」(写真右)が、同じ場所(法園寺境内)に。猪名寺廃寺跡は尼崎市の
北東端、藻川(もがわ)の西岸に位置する。そこは現在、法園寺となっており、境内には伊丹の
猪名野神社の「元宮」があるのだ。同神社の秋季祭礼の“御神幸(おわたり)パレード”は、昔、
ここにあった御旅所(おたびしょ)まで巡行したのだという。伊丹の宮ノ前地区からここまで、片道
2`余りの道のりである。
「ぎやうぎばし」(行基橋)が、市立伊丹高校の北側の通りに健在。
しかし、この歴史モニュメントともいうべき橋は、近々、姿を消すようだ。
歴史的かなづかいで表記されたこの小さな石橋がいつ架けられたのかは、わからない。だが、
付近一帯の旧地名が「行基田」(ぎょうぎでん)であったことは確かだ。市高もフジコーも、
その昔は「行基田」であった。奈良時代の高僧・行基(668〜749)が開拓した水田が、この辺り
まで広がっていたのだろうか。橋の名も、地名も、「行基さん」の遺徳をしのんで命名されたと
考えられる。
ちなみに、「行基」の正式な読み方は、「ぎょうき」である。しかし、伊丹では古来、「き」では
なく、「ぎ」と濁音で読む。僧・行基のことも昆陽寺のことも、「ぎょうぎさん」だ。「ぎやうぎばし」と
彫り刻まれたこの石橋は、「ぎょうぎ」と読みならわしてきた“伊丹らしさ”を象徴する、歴史的な
モニュメントともいえよう。
東から見た五合橋線の「行基町」交差点。行基橋(行基町3丁目)は、阪急伊丹駅の西に
位置するこの交差点から、100b余り先(西)にある。しかし、その周囲は道路の拡幅工事が
進行中で、平成20年(2008)ごろには、橋は撤去されるらしい。旧地名(「行基田」)はとっくに
消え失せたが、「行基町」という大字(おおあざ)が存続するのがせめてものなぐさめであろうか。
行基ゆかりの「閼伽井(あかい)」が、
昆陽寺の南の小さな公園(寺本1丁目)に。
疱瘡(ほうそう=天然痘)によく効く霊験あらたかな井戸水――『摂陽群談』(1701年刊)なる
史料は、閼伽井について、このように伝える。別名「行基井」とも。「行基さん」が掘らせた井戸だ
という。
その由緒ある井戸(復元)は、旧西国街道ぞいの、こぢんまりとした公園に現存している。
場所は、昆陽寺の塔頭(たっちゅう)の一つだった、正覚院のすぐ南側。昆陽寺山門の300bほど
南の地点だ。「そんな所に、西国街道?」と、いぶかしく思われるかも知れない。しかし、その
旧街道は大鹿―千僧―昆陽と西方向へ進んだあと、昆陽寺の“聖域”を避け、この辺りで大きく
南へ迂回(うかい)しているのである。
なお、閼伽井のある公園の付近は昔、「閼伽井」という地名だったらしい。「閼伽」は梵語(ぼん
ご)で、仏前に供える水のこと。その井戸の名前がそのまま地名となっていたわけだ。
左=正覚院の付近から北方(昆陽寺方面)を望む。閼伽井のある公園から北へつづくこの
道は、昔、昆陽寺の参道だったと思われる。現在、写真の奥を国道171号線(高架橋)が横切って
おり、その向こうに昆陽寺山門の屋根だけが見える。
右=朱塗りの鮮やかな昆陽寺山門(寺本2丁目)。天平3年(731)、「行基さん」が建立した
昆陽寺は、七堂伽藍(がらん)の備わった摂津第一の巨刹(きょさつ)であったが、信長の軍勢が
伊丹の有岡城を攻めた天正7年(1579)、その戦火に包まれて炎上。ことごとく灰燼(かいじん)に
帰した。現在の建物は、いずれも江戸時代に再建されたものだという。
昆陽寺の鐘楼の鐘が盗まれた話は、
平安時代の『今昔物語』(巻29)にも出てくる。
説話の題名は、「摂津国来小屋寺盗鐘語」。梵鐘(ぼんしょう)を盗もうとたくらむ男が現れ、
ある夜、鐘楼から忽然(こつぜん)と鐘が消え失せる話であるが、この「小屋寺」は明らかに
伊丹の昆陽寺であろう。中世に昆陽のことを、「児屋」「古屋」「小屋」などと表記した例が多い
からだ。
左=昆陽寺の鐘楼。お堂の中には現在、4代目の銅鐘が健在だという。その鐘楼は、朱塗り
の山門を入ってすぐ右側にある。
仁王像が警固する昆陽寺山門。ひときわ目を引く朱塗りの姿が、偉容を誇る。明暦年間
(1655〜1658)に再建されたもので、県の有形文化財(建造物)に指定されている。
左=昆陽寺の境内にある観音堂。寛永3年(1626)に再建された。枯淡の味をにじませた
この建物は、県の有形文化財(建造物)に指定されている。 右=同じく境内にある開山堂
(行基堂)。お寺を創建した「行基さん」がまつられている。この建物の中に安置された広目天
立像、多聞天立像は、京都仏師の作とみられ、県の有形文化財(彫刻)に指定されている。
旧岡田家住宅の「店の間」に、お雛(ひな)さん!
伊丹市文化財保存協会が、恒例行事として展示。
華やかな雰囲気で、みやびやかに。毎年2月中旬から3月初めにかけ、「ひなかざり@伊丹
郷町館」と銘打ち、旧岡田家住宅(宮ノ前2丁目)で開催される。展示されるのは、市民から寄贈
された明治・大正・昭和時代の雛飾りがそれぞれ1式(上の写真、左から順に)。国の重要文化財
に指定されている格調高い建物の中で、“古き佳き時代”にタイムスリップしたような気分にひたる
ことができる。
「ひなかざり@伊丹郷町館」は、千客万来。“風物詩”ともなったこの催しは、大勢の見学者で
にぎわった。伊丹在住の作家で、放映中の『芋たこなんきん』(NHK連続テレビ小説)の原作者、
田辺聖子さんもいらっしゃったという。
伊丹市文化財保存協会の事務局は、この旧岡田家住宅の中にある。事務局の前の通路
から外(裏側)へ出ると、風雅な日本庭園があり、同協会が創立40周年記念に復元設置した
旧「近衛家会所」の石灯籠を見ることができる。
旧岡田家住宅(店舗・酒蔵)では、酒造用具、
棟札、伊丹の酒造史解説パネルなどを常設展示。
棟札(むなふだ)が見つかったおかげで、国指定重要文化財(建造物)に! 右上の写真は、
その棟札の現物(裏面)。旧岡田家住宅(宮ノ前2丁目)は、平成4年(1992)、国の重要文化財
に指定された。昭和59年(1984)に店舗の2階屋根裏で棟札が発見され、延宝2年(1674)の築造
と判明したからだ。棟札というのは、棟上げのとき、施主・施工者・年月日・工事の由緒などを記して
棟木に打ち付ける札のことである。
見つかった棟札は、旧岡田家住宅のショーケースの中に展示されている。上部には「延寶貮」の
文字があり、これによって建築年代が特定されたわけである。
店舗の土間では、伊丹の酒造史を写真パネル、古文書などで解説。伊丹は「清酒発祥の地」
である。慶長5年(1600)に伊丹北郷の「鴻池村」で初めて清酒が開発されてから、「伊丹郷町」が
江戸積酒造業の代表的銘醸地として栄えるまでの、輝かしい歴史が詳しく紹介されている。
酒蔵の奥に、男柱(おとこばしら)の地下遺構が現存。平成10年(1998)に酒蔵で発掘調査が
行われ、男柱の地下部分が発見された。男柱というのは、搾(しぼ)り場の中心をなす太い柱の
ことだ。現在は、柱の上部やハネ棒、酒槽(ふね)などを復元し、発掘されたその場所で、そのまま
保存されている。右下=発掘調査で出土した男柱の埋設部分。原形のまま地下遺構が残され
ているのは、珍しい。《この写真だけは、平成10年に撮影》
こうしてみてくると、「伊丹郷町」の真ん中に位置する旧岡田家住宅(店舗・酒蔵)は、レトロな
たたずまいを残す歴史遺産であるばかりではなく、伊丹の酒造史を今に伝える、かけがえのない
「現地資料館」ともいえよう。
正面および東側から見た旧岡田家住宅(店舗・酒蔵)。築330年超の町屋だ。店舗・酒蔵とも
切妻造り2階建て、本瓦葺きの堂々たる風格である。江戸時代前期の風情をにじませた玄関口や
「店の間」、それに広い土間のある店舗が、酒蔵や洗い場、釜屋と一体化した構えを残している
点で、きわめて貴重だという。
【この『伊丹《再》発見』のページは、随時に追加していく予定です】