伊丹《再》発見……その4
                           さらに、“遺跡ウオッチング”をつづけます。


      昆陽池(こやいけ)公園にある文学碑を訪ねて…
      伊丹市文化財保存協会が、“現地講座”を開催。

               『小倉百人一首』に選ばれている秀歌(歌碑)の前で……。昆陽池公園
               には、歌碑、句碑など、13基もの文学碑がある。いずれも昭和57年(1982)
               から61年までに、伊丹市文化財保存協会によって建立されたものだ。

         「百人一首」の歌は、大弐三位(だいにのさんみ)。紫式部の娘だ。その歌碑(上の写真)は同公園
         の草生地広場(松並木付近)にあり、「ありま山ゐなのささ原風吹けば / いでそよひとをわすれ
         やはする」――と、彫り刻まれている。
           作者の大弐三位(999〜没年不詳)は、平安時代中期の女流歌人である。『後拾遺和歌集』に収録
         されたこの歌は、遠くに有馬の山々を望む「猪名野笹原」の寂しくも美しい風物を背景に、つれない男
         への変わらぬ恋心を詠んでいるのだという。

         晩秋の日曜日、風情ある池畔や樹林などを文学散歩。この“現地講座”は、平成19年(2007)
         11月11日(日)、「歴史・文化が醸(かも)し出す伊丹ロマン事業」の一環として、伊丹市文化財保存
         協会によって催された。当日は、およそ50人が参加。同協会の役員さんたちの解説つきガイドで、
         有意義なひとときを過ごした。

         左=昆陽池の西側から昆虫館(池の北東)までつづく「ふるさと小径(こみち)」で…。その600b
         ほどの沿道に、5基もの文学碑が建てられている。右=池の水面(みなも)も、晩秋の色に染まって
         いた。昆陽池は奈良時代の高僧・行基(668〜749)によって築造された、灌漑(かんがい)用水池で、
         万葉の昔から、歌枕(古歌に詠まれた名所)として知られる。

         左=「読み人知らず」の歌を刻んだ歌碑。歌枕として有名な「猪名野」や「有馬山」が詠み込まれ
         ている。この歌碑は、貯水池の東側にある。右=歌碑のそばの石柱に、「伊丹市文化財保存
         協会建之」の文字が見える。

         有名歌人や俳人の文学碑が、昆陽池のほとりに点在。左上=高市連黒人(たけちのむらじくろひと
         の歌碑(ふるさと小径にある)。右上=慈円の歌碑(ふるさと小径にある)。左中=藤原定家の詩碑
         (貯水池の北東にある)。右中=西行法師の歌碑(昆陽池センターの近くにある)。左下=日野草城
         の句碑(昆陽池センターの近くにある)。右下=待賢門院堀河の歌碑(昆陽池の南東にある)。
           このうち、慈円(1155〜1225)の歌碑には、「ゑにかきて今唐土の人に見せむ / 霞わた
         れる昆陽の松原」――と刻まれている。名勝に富んだ唐土(もろこし=中国)の人に、今すぐにでも、
         絵に描いて見せたいほどだというのであるから、昆陽池はよほど風光明媚な景勝の地だったので
         あろう。

         伊丹生まれの俳人・鬼貫(おにつら)は、当時の昆陽池の巨大ぶりを絶賛! 上島鬼貫(1661〜
         1738)の句碑は野鳥観察橋と貯水池との間にあり、「月なくて昼ハ霞むやこやの池」――と、彫り
         刻まれている。昆陽池はとてつもなく大きな池だから、昼もおぼろに霞んで、周りがよく見えないほど
         だというのである。
           オーバーな!――と思われるかも知れない。しかし、上記した慈円の歌にも、「霞わたれる」と詠ま
         れているのだ。慈円も鬼貫も、「霞」という文字を使って、当時の昆陽池の巨大ぶりを表現しているので
         あろう。
           では、いったい、昔の昆陽池はどれほど大きかったのであろうか――。

                    文化3年(1806)の『昆陽池付近絵図』(解説図)。伊丹市立
                    博物館が発行した『伊丹古絵図集成』より、許可を得て、転載
                    させていただいた。

            さて、この200年前の絵図には、昆陽池のサイズが明記されているのだ。「東西差渡シ五百間」
         「南北差渡シ三百八間」と書き込まれているのである。これをメートル法に換算すると、東西の直径
         が909b、南北は560b。対角線なら、優に1`を超えていただろう。まさしく、信じられぬほどの
         超ビッグサイズだ。
           こうなると、鬼貫や慈円が「霞む」「霞わたれる」と表現したのも、決してオーバーではなかったと
         いえよう。
           鬼貫が「月なくて昼ハ霞むやこやの池」――と詠んだのは、元禄元年(1688)のことであった。
         上に示した『昆陽池付近絵図』の描かれる120年ほど前だ。奈良時代に築造された昆陽池は、慈円の
         鎌倉時代も鬼貫の江戸時代も変わることなく、巨大な姿をそのまま保ちつづけたのであろう。昆陽池を
         含む「猪名野笹原」一帯には、ゆっくりと“時”が流れたのに違いない。
           ところが、その昆陽池が突如、変貌を余儀なくされる。池の誕生から1200年余りを経た、昭和
         時代の中期のことであった。

           現在(2007年)、昆陽池は大きく埋め立てられ、昔の姿を失っている。池は天平年間(729〜743)に
         僧・行基が築いた溜池で、以来、昭和40年(1965)ごろまで往古のスケールを保ってきた。けれども、
         その後、池の東半分は住友総合グラウンドや住友電気工業の社宅・寮、マンションなどに姿を変えた。
         さらに、北と南も埋め立てられ、そこに昆虫館やふるさと小径、貯水池、草生地広場、多目的広場など
         が出現。貯水池を除くと、現在の昆陽池の水面は、往時の3分の1ぐらいであろうか。
           別の言葉で言い直すと、現在の昆陽池公園の東側に連なる「瑞ケ丘(みずがおか)2丁目」全域が、
         昔は昆陽池の水面であった。つまり、「水が陸(おか)」に化け、住友総合グラウンドなどに姿を変えて
         いるわけだ。その広大な住友総合グラウンドの正面入口付近が、かつての昆陽池のいちばん
         東の端っこだったのである。
           こうして、古来、阪神間随一の大きさを誇った昆陽池は、昭和時代中期に急激な変貌を余儀なく
         された。それでも、昔の昆陽池の面影を彷彿(ほうふつ)とさせる文学碑が池のほとりに建てられ
         ているのは、誠にうれしい限りというほかない。

         伊丹市文化財保存協会の事務所で、『文学碑をたずねて』(ガイドブック)を発売中! 同協会
         が設置した文学碑は、伊丹市内に60基もある。作者は紀貫之、和泉式部、藤原定家、西行法師から
         井原西鶴、上島鬼貫、与謝蕪村、若山牧水、斎藤茂吉まで、スーパースターが目白押しだ。それらの
         歌碑、句碑、詩碑などに刻まれた作品を詳しく解説したガイドブックがある。
           その『文学碑をたずねて』は、新書判・136ページ。上の写真は、左(カラー)が表紙、右(モノ
         クロ)は大弐三位の「百人一首」の歌が解説されている見開きページだ。旧岡田家住宅(宮ノ前2丁目
         /月曜休館)の中にある伊丹市文化財保存協会の事務所で、1000円で販売されている。


      有岡城時代(430年前)の「堀」が出土!
      産業道路ぞい、酒蔵(万歳1号蔵)の跡地から(伊丹2丁目)。

         発見された「堀」は、城下町などを分断する「中堀」(防禦施設)であろうか。この場所の東
         250bほどの地点(JR伊丹駅前)に有岡城の本丸跡があり、そこは昔、深い「内堀」で囲まれていた
         らしい。さらに、“総構え”の城(町ぐるみの城塞)の外周には、長々と「外堀」がめぐらされていたと
         いう。
           さて、今回、発掘された「堀」は、その「内堀」と「外堀」との中間地点に位置するのだ。ということ
         は、城内(本丸の外側=「外堀」の内側)にあった侍町(さむらいまち=家臣たちの居住区域)や、城下
         町(町屋の建ち並ぶ町人町)などを分断し、防禦するための、「中堀」であろう。
           こうした「中堀」は、これまでに旧城下町などで何本も出土している。そのうち、最大規模の「中堀」
         は、平成15年(2003)から翌年にかけ、すぐ北側のニトリ(大型店舗)建設予定地で発見された「堀」で
         あろうか。
             【参照】――「G伊丹の発掘…(1)有岡城跡」

         現地説明会には、大勢の郷土史ファンがつめかけた。説明会(見学会)は平成20年(2008)
         1月19日(土)、伊丹市教育委員会が開催。寒い日であったが、発掘現場は大にぎわいだった。
         詳しい解説資料がいただけるのもうれしい。

         付近一帯は、戦国時代は「有岡城」の城下町、江戸時代は「伊丹酒」の銘醸地だった。
         この発掘現場(小西酒造の酒蔵跡)からは、まず酒蔵の搾(しぼ)り場遺構が出土し、次いでその
         下の地層から城の遺構(堀)が発見された。有岡城の落城(1579年)後、旧城下町が日本一の
         酒造産業都市として栄えた、伊丹の輝かしい歴史を象徴する「複合遺跡」といえよう。
           それにしても、この「有岡城跡・伊丹郷町遺跡」でこれほど大がかりな発掘調査が行われるのは、
         発掘面積からみて、もうこれが最後かも知れない。
           なお、左の写真の奥の白い建物は、清酒「白雪」醸造元・小西酒造の本社ビルだ。右の写真の
         奥には、同社の長寿蔵(「白雪」ブルワリービレッジ長寿蔵)が見える。

         有岡城は史上初めての“総構え”(町全体を城塞化した城)と判明し、昭和54年(1979)、
         その本丸跡と砦(とりで)跡などが、「国の史跡」に指定された。本丸跡はJR伊丹駅前(伊丹1・2
         丁目)、北の守りを固めた砦跡は猪名野神社(宮ノ前3丁目)である。
           有岡城は、戦国武将・荒木村重(1535〜1586)の居城であった。上の地図に示したように、その
         領域は、北は猪名野神社から南は鵯塚(ひよどりづか=伊丹7丁目)まで。淡路島の形状に似た南北
         1.5`の高台が、そっくりそのまま“町ぐるみの城塞”だったのである。高台は伊丹段丘の上に位置
         しており、東縁は高さ10bほどの段丘崖であった。その崖の上(段丘面の東端)に本丸があり、本丸
         の西に侍町、さらにその西側に城下町が連なっていたという。
           しかし、城主の村重が主君の信長に反逆したため、織田軍団が大軍をさし向けて攻囲。天正7年
         (1579)、有岡城は落城する。
             【参照】――「@有岡城跡」
           ちなみに、このほど発掘調査が行われた場所(小西酒造の万歳1号蔵跡)は、JR伊丹駅と阪急
         伊丹駅との中間地点。“城内”を南北に貫く産業道路(尼崎池田線)と、JRから西へつづく道が交わる
         辺り(伊丹2丁目)だ。そこは、かつての城下町のまん真ん中、その後に酒づくりの町として発展した
         伊丹郷町の中心地である。

       ≪在りし日の万歳1号蔵(ばんざいいちごうぐら=小西酒造)≫
        ▼30年ほど前………昭和50年代(1975年〜)に撮影

                  

         伝・築400年?――。伊丹を代表する小西酒造のこの巨大な酒蔵は、阪神大震災(1995年)
         まで、黒い屋根瓦も健在だった。写真は、「伊丹郵便局前」交差点から見た、在りし日の勇姿だ。
         産業道路に面し、威風堂々たる構えであった。
             【参照】――「C伊丹の酒蔵」
           ちなみに、清酒「白雪」の醸造元として知られる小西酒造は、天文19年(1550)に伊丹で創業。
         450年以上の歴史を誇る、業界きっての老舗である。

       ▼解体直前………平成19年(2007年)5月に撮影

         レンガ造りの四角い煙突が、万歳1号蔵のシンボルだった。左上の写真は、ニトリ(大型店舗)
         の4階から撮影。酒蔵の煙突は最後まで健在であったが、阪神大震災のあと、屋根は惜しくもトタン
         屋根に姿を変えており、風格が失われた感じは否めなかった。
           それにしても、この万歳1号蔵が姿を消すと、見慣れた風景がすっかり変わってしまう。なんとも
         寂しい限りである。    ≪平成20年(2008年)2月制作≫


      前記した酒蔵(万歳1号蔵)の跡地から、
     またまた有岡城時代(430年前)の「堀」が出土!
(伊丹2丁目)

             伊丹市教育委員会による現地説明会(見学会)は、平成20年(2008)1月19日に
           ひきつづき、同年4月19日・8月2日にも開催され、大勢の郷土史ファンがつめかけた。
           場所は、産業道路に面した、前述の小西酒造の酒蔵(万歳1号蔵)の跡地である。

         平成20年(2008)3月〜4月の発掘風景。この広大な現場では、その後も発掘調査がつづけ
         られた。酒蔵のあった場所だけに、搾(しぼ)り場、カマドなどの酒造遺構が出土するのは当然として
         も、有岡城時代(430年前)の巨大な「堀」が姿を現したのが注目される。

      ▼平成20年(2008)4月19日、現地説明会

         見つかった「堀」は長さ50b超、幅6.5b、深さ3b。かなり大規模である。それが南北に長々
         と連なっていた。“総構え”だった有岡城の城内を分断する「中堀」、つまり城下町などを仕切る防禦
         施設と考えられる。

         戦国時代(有岡城)や江戸時代(酒蔵)の地層から、石組みの溝、カマド、中国製青花皿など
         が出土。上段の2枚は酒造用のカマドで、左=江戸時代、右=明治時代。左下=一石五輪塔を
         側石として転用した溝。右下=皿、甕(かめ)などの出土遺物。

      ▼平成20年(2008)8月2日、現地説明会

         有岡城の「堀」跡や、江戸時代の「大溝筋」遺構が発見さる。場所は、4月に説明会のあった
         発掘現場のすぐ東側だ。「大溝筋」というのは、江戸時代の古絵図にも描かれた、伊丹郷町の真ん中
         を南流する生活用水路である。
           なお、右下の写真の奥に見える白いビルは、清酒「白雪」醸造元・小西酒造の本社だ。産業道路
         ぞい、同社の「白雪」ブルワリービレッジ長寿蔵の南側にある。発掘現場の酒蔵跡は、その本社の前
         (東側)であった。

         写真の奥、右側に見える建物は、JR伊丹駅前再開発ビル(アリオ)。そのビルの向こう側(JR
         伊丹駅前)が、有岡城の本丸跡である。本丸跡は、この発掘現場(酒蔵跡)とは250bほどしか離れ
         ていない。
           『信長公記』は、有岡城が信長の軍勢に攻められて落城する場面(1579年)を、「城と町との間
         に侍町あり。これをば火を懸け、はだか城になされたり」――と伝える。
           「侍町(さむらいまち)」というのは、家臣たちの居住区域のこと。いわば“職住近接”の社宅街のような
         エリアだ。その「侍町」は、「城」(本丸)と「町」(町人の住む城下町)との中間地点にあったという。つま         り、この発掘現場の付近が「町」で、その東側が「侍町」であった。
           このように、外堀で取り囲まれた“総構え”の有岡城は、その外堀や城壁の中に、「城」も「侍町」も
         「城下町」も、すっぽりと包み込まれていたわけである。

         付近の旧地名に「殿町(とのまち)」、「外城(とじょう)」、「無足町(むそくちょう)」など。「侍町」の辺り
         一帯は、昭和50年代(1975年〜)まで、「殿町」という地名だった。その場所には、戦国の昔、上・中
         級家臣の住むサムライ屋敷が、びっしりと建ち並んでいたのであろう。「殿町」なる地名は、そうした
         イメージを連想させるように思われる。
           左=「殿町」と示された町名標識。中=この発掘現場の東側の通り。右=「外城」と記された
         町名標識。いずれも、昭和50年代に撮影した写真である。
           ちなみに、有岡城の最南端の出城だった鵯塚(ひよどりづか=伊丹7丁目)の近くに、「外城」という
         旧地名があった。その出城を意味する「外城」の付近は、江戸時代、「無足町」という奇妙な町名だっ          た。“無足”とは、知行の料足のない意で、所領や禄(ろく)のない武士のこと。「無足町」のネーミング
         からみて、そこは足軽・雑兵クラス(下級武士)の住んだ町と考えられる。
           なお、有岡城の本丸跡付近(JR伊丹駅前)の旧地名は、「古城(こじょう)」あるいは「大手町
           (おおてちょう)」であった。“城山”一帯は「古城山」と呼ばれたし、崖下にひろがる低湿地は「古城下」
         という地名だった。
           また、最北端の出城があった猪名野神社(宮ノ前3丁目)の近くに、「堀越町(ほりこしちょう)」という
         地名があったのも、興味ぶかい。付近には、昭和の初めごろまで有岡城の外堀が残っていたからだ。
         その「堀を越えた」外側が、「堀越町」だったわけである。

           こうしてみてくると、伊丹の中心市街地(有岡城の“総構え”のエリア)に、有岡城にまつわる
         古い地名があった頃が懐かしい。古い地名(小字=こあざ)は、その地の故事来歴を如実に物語っ          ていたからだ。
           ところが、昭和37年(1962)に「住居表示に関する法律」が制定され、それまで長く受け継がれて
         きた旧地名(小字)は、次から次へと失われた。それに代わる新地名が、「〇丁目〇番〇号」という
         “数字地名”である。大字(おおあざ)の下につづくその“数字地名”は、いったい何を物語るというのだろ
         うか。古い地名が歴史の裏側へ埋没して行ったのは、今さらながら惜しまれてならない。

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                【この『伊丹《再》発見』のページは、随時に追加していく予定です】