魚菜王国いわて

あとがき



私が「漁師のつぶやき」を閉じる理由は三つある。

一つ目の理由は、自分のサイト内で矛盾が生じ始めたことである。

石油エネルギー節約が、エネルギー問題の最重要課題であるにもかかわらず、地方の生き残りは、都会からのカネの流入にかかっている、と私が書いたことに、まず矛盾がある。
都会との“貿易”には、その運搬手段に石油エネルギーを膨大に使ってしまうからだ。
方針変更」と題したつぶやき以降に、このことは露わになった。
ちなみに「方針変更」以前は、地方は地方の価値観でカネを地域内で循環させよ、と書いている。
つまり「方針変更」しなければ良かったわけだ。

そして、私が気づいたもう一つの矛盾。
それは、大衆をバカにし始めたことである。
普通の感覚」というつぶやきで、「噂の真相」投稿欄からの転載した文章から、私は次のように書いている。

大衆の目線って大事ですよね。
過去の悲惨の不幸の大多数は、世界的に見ても急進的なもので、特に左翼思想のもたらしたものはひどい。
急進的とは、つまり大衆の目線を無視したもの。
いくら理想を語っても大衆が影響を受けなければ、それは理想でしかない、夢でしかない。

しかし、私が最近書いている文章は、違うような気がする。
このことにハッと気がついたのは、その投稿者からのメールを受けた際に、あらためて「普通の感覚」というつぶやきを読み直した時である。
しかし、その後も大衆をバカにしたようなつぶやき「滝沢村新駅について」を書いた。
このようなことを書くようになっては、読者には支持されないと思う。

二つ目の理由は、アクセス数が伸びないこと、そして宮古市民からのアクセス数が非常に少ないことにある。

トップページに「かけがえのないわが故郷、岩手県宮古市のために」とある。
しかし、宮古市のネット閲覧者は、どれほど私のサイトを見てくれただろうか?
私がアクションを起こした人以外は、ほとんどいないのではないか、と私は思っている。
ほんの一握りではあるが、「読んでいる」というメールをくれた人は、すべて県外からで、この事実からアクセス者は県外のほうが多いのではないか。
アクセス数は丸三年で、21,279。
21,279÷(365×3)≒20となり、1日に20回アクセスされたことになる。
一人で複数回アクセスすることもあるだろうから、1日の訪問者は10人程度か。
一方、数ヶ月前に開設された「みやこのごっつお」というサイトは、4ヶ月で70,000アクセスだという。
私のサイトだとあと6年以上かかる。
リンクがそれほどあるわけでもないのに、「みやこのごっつお」はたいしたものだ。

私が相互リンクしていただいているサイトは、どこも個人でやっている少数アクセスサイトである。
思えば、私のサイトへ相手方からリンクの通知をして下さったのは、「そりゃいけ!栄進丸」の「姫さま」だけであった。
それ以外の相互リンクは、私から「お願い」を申し立てたものである。
相互リンクといえば、リンクのお願いを申し込んで、無視(実質断られた)ことがあった。
宮古では最もメジャーなサイトであり、無視されたのは、恐らく私だけだろう。

Webサイトの淘汰はアクセス数で決まり、これが広告収入などを見込む事業化されたサイトだと、この数字はものすごくシビアなものとなる。
この「漁師につぶやき」が趣味のサイトだと割り引いて考えても、やはりアクセス数が伸びないということは、魅力のないサイトであると、冷酷な烙印を押されているのと同じことだ。
私はそれを素直に認め、消えようと思う。

三つ目の理由は、自分の問題である。

経験者はわかると思うが、海上へ船で乗り出すということは、それだけで体力を奪われるものだ。
しかも肉体労働であるため、帰ってくると休みたい気持ちでいっぱいである。
私自身、文章を書くのもそれほど得意なわけではなく、学校時代の国語の評定は、常に下位の成績であったくらいだ。
その私が、このようなテキストサイトを更新するとなると、それなりに時間を費やす。
かなり費やす。
この労力に対する効果というのは、残念ながら無きに等しかった。
同じ労力を費やすなら、地元紙へ投稿したほうがいい。
採用されれば、その効果はアクセス数の小さなWebサイトとは比較にならないほど大きくなるからだ。

時間というものは貴重だ。
対時間効果のまったくないサイト更新は、無駄な時間を費やしたといえる。
骨折後の落ちた体力を相まって、読書量はかなり落ちた。
小型船漁業を取り巻く目下の問題もあり、勉強しなければならないものは山ほどある。
これ以上、無駄なことに時間を割くことは、私にはもうできない(←これはあまりにカッコ良すぎるので、「温泉にも行ったり、うまいものを食べたいして、リフレッシュする時間もたくさん設けたい」と替えて読んでください。笑)。

以上が、サイトを閉じた理由である。



リバータリアニズムとは、究極の自由主義、そして、そのような主義、思想を実践しようとする人をリバータリアンという。
思想上、彼らは「小さな政府」論者であり、極右勢力といえる。
リバータリアニズムの中の、さらに最右翼に位置する主義は、アナーキズムである。
無政府主義者。
良く解釈すれば、すべて自分でやってしまうというスーパーマンたちだ。
しかし、すべて自分でやらなければならないのである。

一般的に、右翼といったら、愛国者である。
リバータリアンは極右勢力でありながら、どうして無政府主義者に近いのだろう。
これは、私は非常に矛盾を感じていたものだが、「宮古は子育ての地?」を書いているうちに、だんだんわかってきた。
リバータリアンは、グローバリストのように、どこへでも移動して商売するわけではない。
やはり自分の住んでいる土地というものを大事にするのである。
これを愛郷心と言うだろう。
自分の生まれ故郷を愛すること、自分の住んでいる土地を愛することは、自分の生まれた国を愛することと同じことだ。
リバータリアンは、自分たちのすることに政治的に関与してほしくない、自分たちの力でできるだけ生きていくんだ、というだけであって、国を愛していないわけではないと思う。
むしろ、自分の住む土地を愛しているのだから、愛国心は人一倍強いと私は見る。
独力で生きていくということは、裏返せば極力政府に負荷をかけないということであり、これほど国を想うということは他にはない。

一方、グローバリストは、商売さえうまくいけば、その土地のことなど、どうでもいい。
ダメならさっさと引き上げるだけだ。
だから、彼らにその土地の環境問題など考えるに及ばない。
もしかしたら、自分の商売のためだけに、自国を利用している者もいるかもしれない。
困ったことに、彼らも自由を主張する立場である。
が、彼らは、自由を主義として生きるのではなく、自由を利用して生きているだけである。
私は“自由”のことをいろいろ書いてきたが、これだけははっきりさせておきたい。
同じ自由でも、愛国心愛郷心のある自由は“自立”を指すのであり、愛郷心のない自由は“グローバリストが都合よく利用する自由”でしかないということを。

戦後から現在に至るまで、日本がこのような経済繁栄をどうして続けることができたか、を考えると、それはやはり愛国心が強い国民だからではないか、と私は考えるようになった。
資源もほとんどない、しかもアメリカの属国。
このようなものすごいハンディキャップの中で、EUに匹敵する経済力(現在はかなり落ちている?)を持つということは、ものすごく異常なことなのだ。
そのような状況で、近年、「日本人は愛国心が希薄になっている」とよく言われるが、何を根拠に言っているのか、私にはわからない。
しかし、私も「日本人は愛国心が希薄になっている」と思っている。
直接的には、そのように見えないのだが、自覚もなく知らず知らずのうちに、グローバリストら(国内グローバル商人ら)にいいように利用され、今まで私が書いてきたように、地域を売っているも同然の結果となりつつある。
自覚症状がないというのは、本当に困ったものだ。
そのような人たちは、地域社会が本当にダメになったときに、初めてその構造に気づき、悔やむだろうか?
悔やまずに、そのまま故郷を捨てて出て行くのだろうか?
「宮古を子育ての地」としか思っていない人たちは、悔やむこともないだろう。
地域社会のことなど“どうでもよく”、“自分のこと”ことしか考えない人は、グローバリストの手先となる素質にあふれている。
こんな日本人が増えている、ということに、私は「日本人は愛国心が希薄になっている」の根拠を見出してしまうのである。

もう一つ、私が国内グローバル商人と名指す、宮古に進出した大手コンビニの犠牲者が出たことを憂慮する。
かのコンビニには、宮古なら宮古の統括責任者みたいなのがいて、宮古のコンビニ界を征服しようとする意図があって、あのように店舗を乱立させたのだと私は思っていた。
ところが、それは違うらしい。
各店にオーナー(つまり社長)を置き、競争させて売上を伸ばすという戦略のようだ。
とにかく売上金をできるだけ回収するだけが目的であって、その店舗がどうような状態になろうと関係ない、というふうに私は見る。
これでは、オーナー側はたまったものではない。
400m間隔で田舎にコンビニが乱立したら、どう贔屓目にみても、足の引っ張り合いをしているとしか言えない。
自殺したコンビニのオーナーには非常に気の毒な話だ。
宮古は、かのコンビニの資金源でしかなく、そのコンビニで消費する人たちは、自覚なしに資金収奪の手先となっていることになる。

榊原英資氏を賢明な読者は知っていると思うが、彼はアメリカのグローバリストに都合のいいように使われ、「ミスター円」という称号を授かった。
が、結果的に日本を売ったことになってしまった。
彼は、フジテレビの政治番組「報道2001」によく出演しているが、その彼の言動をよく観察してほしい。
明らかに自分が利用されたことを自覚していて、アメリカの出方を警戒する発言がやたらと目につく(フリだけかもしれないが)。
彼は彼なりに、「アメリカに騙されるな」と警告している点で、愛国心旺盛なのだと私は思う。
宮古の人たちも自分の行動を考え、グローバリストの手先となっていると感じたら、その行動をやめてもらいたい。

私はスマトラ沖地震に少ない額ではあるが募金した。
この地震でアチェは有名になったが、そのアチェで生産される天然ガスは、ほとんど日本で消費されるという。
しかし、地元の人々にはその恩恵は少なく、逆に、液化天然ガス精製プラントの建設で人々は土地を追われ、温排水で漁業は大打撃を受けた(「難民の世紀?漂流の民」を読んで参照)。
この事実を知っている私としては、どうしても募金せざるを得なかった。
日本は、海外に資源を依存して成長繁栄した国である。
それゆえ、あらゆる海外援助を惜しむべきではないと思う。
もし日本人がアチェのような不幸を見ぬふりをするならば、それはグローバリストと同じことをしていることになる。
今回の地震では、アメリカの支援は消極的であり、あらためてグローバリストの支配する国である、ということが証明された。
できれば日本は、アメリカのように海外搾取だけをする国にだけは、なってほしくない。

すでにグローバリスト的な仕事についている人もいるだろうし、成り行き上、嫌でも仕事をしなくてはならないこともあると思う。
人間誰もが、自分が生きるためにどうしても働かなければならないし、自分の意思の通りにできないこともある。
これは仕方がない。
しかし、二者択一の場面に遭遇したときに、できるだけ、グローバリストの手先になるような選択はしないでほしい。

「漁師のつぶやき」では、政治思想や主義を紹介し、それから派生するいろいろな考えを書いてきたが、とにかく、故郷や自分の住んでいる地域を愛するということは、既出の社会問題を解決でき得る基本的な考えであることは確かだ。
「宮古」という地名を、別の地名「○○」と置きかえて考えても、同程度の田舎なら当てはまると思う。

日本が、岩手が、宮古が、いくらバカにされ、非難されようが、私は、日本のことを、岩手のことを、宮古のことを想い、考え、応援する。

私は日本人であり、岩手人であり、宮古人である。
(2005年2月25日)

トップへ