魚菜王国いわて

中西輝政京都大学教授の解説

解説(抜粋)
    中西輝政(京都大学教授)

(冒頭略)
このスティネットの本に関し最初に述べておかねばならないのは、ルーズベルトが刻々と真珠湾に迫る日本の機動部隊の動きを知っていたことを厖大な史料を掲げて実証しつつも、ルーズベルトが日本による「卑劣な不意討ち」を演出してアメリカを大戦へと導いていったことは正しかった、という結論をスティネットが出していることである。それは、民主主義を擁護し友邦イギリスの苦境を救うために、アメリカは何としてもヨーロッパの戦いに参戦しなければならなかったのであり、戦争を嫌う大多数のアメリカ国民の迷妄を覚ますためには、まさに格好の時期にドイツとの同盟に踏み切った日本を体系的に挑発していって「最初の一発」を射たせる陰謀を企てたことは「疑いなく正しい選択」であったのだから、真実を堂々と明かせばよいのだ、という立場で一貫している。このことがまた間接的に本書の信憑性を高めているが、何といっても本書の最大のメリットは、「マッカラム覚書」など数多くの”動かぬ証拠”、つまりこれまで未発掘だった多くの極秘史料を発掘しつつ、同時に従来全く見過ごされてきた多くの重要な事実を丹念につなぎ合わせて、かつてなく総合的でしかも緻密きわまる論証によって全篇が貫かれている、という点だ。著者はジョージ・ブッシュ中尉(のち1989?92年の間、米大統領)の下でアメリカ海軍の軍人として戦い、十度も戦闘功労勲章を受けて大統領特別感状にも輝いた第二次大戦の英雄であり、1986年に『オークランド・トリビューン』紙の記者をやめたあと、この十数年ひたすら「真珠湾の真実」を求めてその研究に従事してきた人物であり、またその間、日米戦争についてBBCなどの主要メディアでアドバイザーを務めてきた大戦史の権威の一人である。
こうした経歴の持ち主が満を期して出版した本書は、「情報の自由法」(FOIA,Freedom of Information Act)の活用によって、これまで推測ないし噂の域を出ていなかった問題と生存する証人へのインタビューの繰り返しによって、厖大な史料を示して事実を確定していゆく。本書の注の各ページが示すように、その精緻をきわめた手法には圧倒される思いだ。
(中略)
日本はあの戦争でマッカッサーやニミッツ、ハルゼーらに敗れたのではない。
彼らは対日戦において、ごく限られた役割しか果たさなかった「端役」にすぎない。彼らはそれを知っていたら絶対に負けるはずのない完璧な事前情報に基づいてほとんど自明の作戦を命じたにすぎない、という意味で本質的に「端役」だったのである。またフォードやGEのアセンブリー・ラインに象徴される「アメリカの物量」が戦争の主役であったわけでもない。物量が戦争の決め手にならないことは多くの戦史が証明している。戦争は所詮、人間がするものなのである。
あの戦争において、究極的かつ決定的な意味で日本を撃破した主役は、ローレンス・サフォードやジョゼフ・ロシュフォート、あるいはウィリアム・フリードマンやアグネス・ドリスコルら、大戦中日本の外交・海軍暗号のほぼ完璧な解読を可能にした人々であった。こんなことは今や二十世紀戦争史のいわば「常識」なのだが、日本の読者の中で、これらの名に通暁している人は果たしてどれほどの数であろう。イデオロギー的に歪んだ歴史書や、ずっと以前に書かれた古い戦記ものしか読まず「八月が来るたびにあの戦争を考える」と言いながら、その実相の一番の核心部分について、なぜ日本人はこれほど無関心でいられるのだろうか。欧州外交史の研究を通じて、欧米人がこうした秘密情報問題に示すきわめて熱心で真摯な知的関心を見てきた私には、全く理解できない現象である。
右に挙げた何人かの名前は、戦前から戦中にかけて米陸・海軍で日本の外交・軍事暗号の解読を中心に、秘密情報活動において画期的なプレークスルーを実現した人々で、彼らの功績の上に立って、開戦に至る外交交渉から真珠湾、ミッドウェー、ソロモン(ガダルカナルを含め)、マリアナ、レイテなど殆どあらゆる戦闘の重大局面で日本側の決定的な情報を事前に探知し尽し、史上類例のないあの圧倒的勝利をアメリカにもたらした原動力であった。
(中略)
第二次大戦中、イングランド中部コヴェントリー市に対するドイツ空軍の大空襲計画を事前に把んだ英首相ウィンストン・チャーチルは、予め対抗措置をとればドイツ側がイギリスによる暗号解読の事実を疑うことになると恐れ、イギリス政府としてはコヴェントリー市民にはいかなる警報も出さず、結局、数万の生命を犠牲に供したことは、今日ではよく知られた事実である。そしてこのことは今日に至るもイギリス人の大多数によって倫理的に正しい決断だったと容認されている。それほど暗号や秘密情報活動は、国家の生存や歴史の進路に決定的重要性をもつことが広く認識されているわけであり、それはまた戦時、平時の区別なく広く受け入れられている国際関係の常識ともなっているのである。
このこと一つをとっても、「情報」が国の存立に決定的に関わることを西欧人は骨の髄まで知り尽くしていることがよくわかる。そして、その上に立つ外交や安全保障の営みこそが本来、国家としての主要な関心であるべきで、さらにその上に立って初めて持続的な経済繁栄が可能になるのである。日本人は90年代の「バブル破綻」の背景などをもっとよく知ることにより、本来経済活動などとは比較にならないこうした情報・戦略・安保・外交のネクサスがもつ重要性に、もう一度、深く思いを馳せるべきなのではないか。
それにしても、1940年の秋にチャーチルやルーズベルトが「この戦争は勝てる」という見通しとその確実な手段をはっきり意識し始めたまさにそのとき、彼らの共通の敵ドイツとわざわざ同盟関係に入るという選択をした日本は何と「哀れな存在」であったことか。
本書の圧巻は、「日独伊三国同盟」の結成がなされた翌月の40年10月に、ルーズベルトの側近で同時に海軍情報部の極東課長でもあったアーサー・マッカラムが起草しルーズベルト政権によって採用されたと見られる「対日開戦促進計画」の文書である。
アメリカ国民の9割近くが欧州への参戦に反対、という当時のアメリカ国内の状況を踏まえて、いかにすれば国民が一致して対ドイツ参戦に向かえるか、このことが40年代の大統領選挙中もルーズベルトの脳裡を支配した最重要課題であった。マッカラムは本書で始めて大きな注目を浴びることになった人物だが、1898年長崎で生まれ、その後アメリカ海軍の若い士官として再び大正末期に日本に駐在し、宮中にも出入りが許されていたという。そして当時摂政宮殿下であった昭和天皇にもダンスを教えたことがあるという米海軍生え抜きの日本通であった。
苦境に立つ英国を救い、欧州の覇権と民主主義を擁護するため何としても欧州に参戦することでルーズベルトとその側近たちは早くから一致していた。それゆえマッカラムの文書には三国同盟結成をまたとない好機ととらえ、日本を極限まで追いつめ「暴発」させることによって「裏口から」欧州参戦を果たす、というアメリカの戦略目的をシステマティックに追求するため、どうすれば一番効果的に日本を「暴発」させられるか、日本を知り尽くした容赦のない戦略思考の上に立つ対日開戦促進の外交軍事戦略プログラムが、そこには実に体系的に盛り込まれている。
(中略)
歴史研究における、そして一般に国家のサバイバルにおける、秘密情報活動の決定的な重要性ということも、このことは「教訓」として示唆していよう。しかしそれは、単に技術的・政策的次元における情報の重要性にとどまらず、本格的な多極化の世界?それは経済のグローバリゼーションの中における政治の再国家化、つまり冷戦中のような「陣営」ではなく各国家に対して再び存立のための主張と自立が促される世界?を迎えようとする二十一世紀の国際社会で、この日本が誰の助けも得ることなく自立してゆかねばならない時代に、国のサバイバルにとって単なる軍事力や経済力だけではどうにもならない次元があるのだ、ということを今、骨身に刻んでおくことこそ、日本人にとって本書の最大の教訓だと言えるのではないか。
近年よく語られる「戦略なき日本」という問題の立て方は誤っており、それはまず何よりも「情報なき日本」という問題であり、二十一世紀を前に日本がまず覚悟を新たにし、見すえておかねばならないことは、客観的な情報と論理に基づく、冷厳な?それはごく当然の営みなのだが、この形容詞が必要なところがまさに戦後日本的と言うべきか?「合理主義の精神」の力強い回復であり、それが国際社会で生存するためには不可欠なものだということである。もはや、「島国で対外経験に乏しく、あいまいさを好む国民性ゆえに仕方がないのでは・・・」という悪しき文化決定論とは訣別しなければならない。先に「回復」と書いたように、そんな「哀れな日本」でさえ、明治の日本、あるいは戦国時代や蒙古襲来時(それは決して「神風」頼みではなかったし、一部の歴史家が言うような高麗三別抄勢力との連携によって回避できたものでもない)、さらには古代の白村江敗戦直後のギリギリの対外危機に際して、あるいは、あの鎖国中の江戸時代でさえ、「島国であいまいさを好む日本人」が、対外秘密情報をめぐって生存のための「合理精神」を大いに発揮したことを忘れてはならないだろう。
そして日本が二十一世紀に直面するかもしれない危機は、決してこれらの歴史的危機に劣るものではないように思われる。要は、「環境」と「本質」を混同し、”国民性”の名の下に厳しさを増す環境の中で適応のための不可欠の努力を怠ろうとする悪しき惰性と自己放棄が、戦後とくに近年の日本では広がっている、というにすぎないのである。その結果の一つが、「第二の敗戦」の名で呼ばれる90年代日本の金融危機と、それによる日本経済全体の崩落だった。そしてそれもまた、「情報戦」の敗北によるものであり、その底には生存のための国益の競争という国際社会の厳しさを忘れ、また生存のためには「こうすれば、こうなる」という論理に忠実であろうとする合理主義精神が、経済大国の達成感の中で大きく衰弱していたために起こったことであった。
(中略)
いずれにせよ、あの時点で「新秩序」のかけ声に押され「三国同盟」の締結へと向かった日本指導層のケタはずれの愚かさと、そうした苦しまぎれの失策へと導いた点で、コミンテルン戦略にのって支那事変の泥沼にはまり込むというとんでもない戦略的無能力の、この二つが大東亜戦争の「決定的な誤り」として二十一世紀に向けた「歴史の教訓」になってこざるを得ない。
そしてこの、「ケタはずれの愚かさ」の背景には、それ以前の日本にははっきりとあった民主主義の政治システムがすでに失われていたことが論じられなければならないだろう。なぜなら、たとえどんな欠陥をもった民主政治にせよ、およそ衆知を集めた公の政治が行われていれば、いかに情報や戦略が欠如していても、あれほどの愚策は犯さなかったはずだからである。またそれほど、国際情勢のごく皮相しか見ることなく”バスに乗り遅れるな”が合言葉とされて一気につき進んだ「三国同盟」の選択は日本の命運を決定的に狂わせた恐るべき失策だったのである。
繰り返すが、二十一世紀を迎える今日、日本があの戦争から学ぶべき何よりも大切な教訓は、この点にあることが銘記されねばならない。そしてこのように整理してゆくと、あの戦争をめぐる日本の「戦争責任」ということも、大きく様相が変わってくるはずである。
(以下省略)
(初出*「正論」平成12年10月号)
(「真珠湾の真実」p525)

(2003年12月21日作成)

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