魚菜王国いわて

真珠湾に関する3件の読書

歴史は、真実が明らかにされていくにしたがって、どんどん変わってしまいます。
さらに、歴史評価については、180度変わります。
単純な自然科学の進歩、スポーツの歴史などには、権力による恣意的な介入はそれほど影響はなく、それらの史実は、時代が進んでもそれほど変化はありませんが、社会科学的なものの歴史、特に政治分野の歴史は、各国の戦略による情報の非公開という手段などでねじ曲げられています。
それゆえ、現時点で判明している部分でしか、歴史を語ることができず、せっかく労して出版した本が、まったくの愚作になってしまうこともままあるようです。
今回、日本の真珠湾攻撃に関する2つの本と1つの記事を読んで、それを感じました。

最初に、新井喜美夫著「日米開戦の真実」を読み、その後、ロバート・B・スティネット著「真珠湾の真実」を読みました。
さらに「文藝春秋」2003年12月号の記事です。
「日米開戦の真実」と「真珠湾の真実」は、日本では同時期に出版されて、前者は2001年7月11日、後者は2001年6月30日です。
おそらく、米国での「真珠湾の真実」出版は、かなり早いと思われます。
「真珠湾の真実」を読み終えて感じたことは、最初に読んだ「日米開戦の真実」という本があまりに古い、という印象を拭えない、ということです。
しかし、日本側の歴史評価は一致するところもあり、背景事情、そして、冒頭の「はじめに」で小栗豊後守忠順の行動を記述したあたりは、「真珠湾の真実」の最後にある中西輝政京都大学教授の解説と同じように、今の日本に対する願望を語っているように思われます。

「日米開戦の真実」では、日本側の舵の取り方で日米戦争は回避できた、あるいは米側もそう望んだフシがある、としていますが、これは違っています。
また、「ハル・ノート」の解釈の仕方でも、日米開戦は回避できた、とも書いていますが、それも全く違います。
さらに、日本の無線封鎖は事実と違いますし、ルーズベルトが真珠湾攻撃を知らなかった、というのも事実と違います。
しかし、対米覚書、いわゆる「宣戦布告」の解釈をめぐっては、「文藝春秋」の記事に通じるところがあり、これについては後述します。

今日は「真珠湾の真実」を主に紹介します。
最初にアーサー・マッカラムの「海軍情報部長あて覚書」(←ファイル消失)をご覧ください。
著者は、これを「マッカラムの戦争挑発行動八項目覚書」と呼んでいます。
事実、これは、挑発そのものであり、しかも、アメリカはこれを実行しています。
この文書には、時のルーズベルトの指紋も残っています。
挑発行動の具体例は、次の記述です。

1941年3月から7月にかけて、ホワイトハウスの記録によると、ルーズベルトは国際法を無視して、ある任務部隊を、そのようなポップアップ(挑発)巡洋艦3隻として日本海域に派遣していた。最も挑発的な行動の一つは、瀬戸内海への主要接近水路である豊後水道への出撃であった。豊後水道は九州と四国との間に横たわり、1941年には日本帝国海軍お気に入りの行動海域であった。
日本海軍省は東京駐在のジョセフ・グルー米国大使に、次のように抗議した。「7月31日の夜(豊後水道)宿毛湾に錨泊中の日本艦艇は、東方から豊後水道に接近するプロベラ音を捕らえた。日本海軍の当直駆逐艦が探知して、船体を黒く塗装した2隻の巡洋艦を発見した。2隻の巡洋艦は日本海軍の当直駆逐艦が向かっていくと、煙幕に隠れて南方寄りの方向に見えなくなった」
そして、この抗議文書は「日本海軍将校は、それらの船がアメリカ合衆国巡洋艦であったと信じている」との文言で締めくくられていた。
D項目の挑発行為はきわめて危険で、真珠湾で受けたに近いアメリカの水兵の死傷者をもたらす可能性もあった。しかし、ポップアップ巡洋艦の巡航中、結局のところ、発砲事件は1件も生起しなかった。一項目の挑発行為が取り上げられただけではなく、日本を挑発するためにマッカラムの提案のすべてが実施された。
(「真珠湾の真実」p28)

このアメリカ巡洋艦の行動は、記録には3回あり、挑発行動の一例にすぎません。
挑発行動にはイギリスも参加しています。
その後いろいろあって、山本五十六海軍大将は真珠湾攻撃を立案します。
しかし、その情報はすぐに漏れていました。
引用します。

山本が信頼している海軍将校たちに真珠湾攻撃計画を打ち明けて間もなく、東京の米国大使館に真珠湾攻撃が漏れた。大使館の三等書記官マックス・W・ビショップがある日、ナショナル・シティ・バンク・オブ・ニューヨークの東京支店で、日本円をドルに両替しようと窓口に並んでいた。肩を叩かれ振り向くと、ペルーの日本駐在公使リカルド・リベラ・シュライバー博士が立っていた。ビショップを壁の入りくんだところに行くよう促したのでついていくと、シュライバーが「奇抜な」情報を教えてくれた。
「アメリカと対立した場合、日本は軍事的資産をすべて投入して、真珠湾を攻撃することを計画している」
ビショップはシュライバーを信用していた。彼はシュライバーに以前何度か会っており、ペルー公使館の他の館員を交えてゴルフをしたこともあった。ビショップはこの会話が完全に内緒話として語られたとして、次のように述べている。
「銀行の片隅で話をすることは決して珍しいことではないし、外交官は誰でも情報を集めるのが仕事である」
ビショップは昼休みを早めに切り上げ、米大使館へ急いで戻って、本国の国務省あて秘密情報を用意した。ジョゼフ・グルー大使がこれを承認した。午後6時までにこの電報は解読不可能といわれる国務省暗号システムで暗号化され、通りを挟んだところにある電信局から無線電信でワシントンへ送られた。
翌1月27日の朝、国務長官コーデル・ハルがこれに目を通した。
「ペルー人の本職の同僚の一人が本職のスタッフの一人に、アメリカと対立した場合、日本は軍事的資産をすべて投入して真珠湾を奇襲するとの情報を、一人の日本人の情報源を含む複数の情報源から入手したと語った。彼はこの計画を奇抜だと感じたが、実は複数の情報筋から伝わってきたので、急いでこの情報を伝達することにした、と付け加えた。グルー」
ハルはグルーからの電報の写しを陸軍情報部と海軍情報部(ONI)に配布した。アーサー・マッカラムはONIとして見解を述べるよう求められたが、たちまち窮地に陥った。彼の戦争挑発行動八項目覚書に述べてあるとおり、ハワイ攻撃は望むところだった。日本で育った若者として、彼は日本人が奇襲を好む傾向があることを知っていた。マッカラムが5歳半だった1904年2月、日本の水雷艇隊が旅順港外のロシア艦隊を奇襲した。日本の待伏せ奇襲攻撃により、ロシア艦隊が損傷を受けたことを知って、世界中がびっくりした。
マッカラムはこの歴史的事件を覚えていた。彼の意見では、グルーの電報は挑発戦略の有効性を証明していた。しかし、マッカラムは米艦隊のハワイ駐留が日本を戦争に引き込みつつあることを太平洋艦隊に警告する代わり、グルーから送られてきた情報を「噂」として、割り引いて聞いた。1941年2月1日、マッカラムは太平洋艦隊司令長官に就任したばかりのハズバンド・E・キンメル大将に自分の見解を述べた。
「海軍情報部のこの情報を全く信用していない。そのうえ、日本陸海軍の現在の配備と使用とに関する既知のデータから、真珠湾への(日本軍の)移動が差し迫ってもいなければ、予見しうる将来、計画されてもいない」
(「真珠湾の真実」p68)

このように、マッカラムは心の中では喜んではいても、真実をハワイのキンメルに対し、攻撃されるまで、教えることは決してなかったのです。
ハワイのキンメル大将とショート中将には一貫して、日本の真珠湾攻撃の事前情報を全く伝えなかった。
それゆえ、彼らは、何ら防衛行動・迎撃行動に出なかった。
このあたりは、鈴木明さんもラジオライフのコラム「波」に書いています
攻撃前のアメリカは、表面上日本への石油禁輸を行っていますが、実は、密輸は大目にみていた。
それも、日本の戦争準備を促すため。
複数局の無線傍受、それに伴う無線方位からの位置情報、暗号解読すべてにおいて、アメリカは日本の真珠湾攻撃を事前に知っていて、とにかく日本に奇襲攻撃してほしかった。
そして、在ハワイ米軍、住民の犠牲を覚悟で攻撃された。
しかも、「宣戦布告遅れ」というオマケまでついてきた。
これにて、「リメンバー・パールハーバー」の名文句で、日本は卑怯者とされ、アメリカは、喜んで開戦に踏み切ります。

どうして、アメリカは、日本に攻撃してほしかったか?
当時ドイツの脅威が大きく、日本よりもドイツのほうが気がかりだった。
ところが、アメリカ国民は戦争をしたくなかった。
その国民の支持を取り付けるために、日本に奇襲攻撃をしてほしかった。
自国を攻撃されれば、世論は一気に開戦へと傾きます。
「真珠湾の真実」の解説で、中西輝政京都大学教授が指摘している通り、日本がドイツ・イタリアと三国同盟を結んだ時点で、日本の命運は決まっていたようです。
ぜひ、この中西教授の解説を読んでほしいです。
日本の指導者たるものへのお叱りと見てとれます。
ルーズベルトの、国民からの支持の獲得法は、まさにその国の最高の指導者たるものを示していますが、それに比べ、日本の小泉首相のイラク自衛隊派遣において、国民に対する支持獲得策は、全くもって皆無です。

次に、「文藝春秋」2003年12月号の、斉藤充功(みつのり)さんの「真珠湾の『騙まし討ち』の新事実」と題する記事ですが、何と「最後通牒の通告遅れ」という外務省史上最大の不手際が、新庄健吉陸軍主計大佐の葬儀に、野村・来栖両大使が出席していたからではないか?という内容のものです。
「宣戦布告」という重要な役目ならば、部下のものを葬儀に行かせればよかったのに、と思うのが普通です。
ここからは、私の考察です。

実は両大使は、日本から送られた最後の対米覚書を、「宣戦布告」とは思わなかったのではないかと、私は感じています。
その記述を最初にあげた「日米開戦の真実」に見出すことができます。
この著者は、最後の対米覚書に、「最後通牒」を表す文章が欠けていたと指摘していますが、しかし、その欠落部分は、原文ではあったらしい。
その記述を引用します。

事実、当時、外務省にあって本文案の起草に当たっていた山本熊一アメリカ局長は、東京裁判での法廷において、次のように証言している。
「対米覚書の第十四部の末尾には、確か、・・・よって、将来において、発生すべき一切の事態に関しては、合衆国政府において、その責に任ずべきものなる旨を、茲に合衆国政府に対し、厳粛に通告するものなり、といった内容の文言をもって、締めくくったはずであった」
もしも、この山本局長の証言のとおりであったならば、これこそハーグ条約にかかげられているごとく、きわめて明瞭な「宣戦通告」となっている。
(「日米開戦の真実」p124)

曖昧な覚書を読んだ両大使は、「葬儀はすぐ終わるであろうから」、という楽観的な考えから、「覚書を持参して葬儀に出席し、その後に国務省に持っていく」、という段取りだったのでしょう。
この覚書の重要さを、それほど認識していなかったのかもしれません。
しかし、さまざまな資料がアメリカの情報公開に伴ってどんどん出てくるでしょうから、歴史はいずれ明らかになり、またそれによって歴史評価も変わるでしょう。
私が書いた考察は、テキトーに頭から捨ててください。
(2003年12月21日)

加筆
「真珠湾」のアメリカの対日戦略は、対ドイツ開戦に向けて、日本を利用するために、マッカラムによって考案されたものです。
つまり、「アメリカ国民の世論をどう導かせるか」という方法論ために。
私は小泉首相とルーズベルト大統領を比較して、ルーズベルトを一応持ち上げましたが、それが正当なものかどうか、というのは別問題です。
真珠湾のように、あるいは、中西教授が紹介している、チャーチルがコヴェントリー市民を犠牲にしたように、自分の国の軍隊、国民を犠牲にしてまで、戦争を有利に展開しようとする行為は、果てして許されるべき行為なのか?
もしこれが許されるのならば、利用された犠牲になった人々は、とても民主政国家の国民とは言えないでしょう。
アメリカ政府は、「真珠湾」に関する重要な史料、文書、無線日誌の類を公開せず、すべて隠しています。
どうして隠しているのか?
それはやはり、「戦争をやらせる」「攻撃を知っていて犠牲をいとわない」という行為を許されるべきものではない、と考えているからです。
中西教授は、解説の最後のほうで、「戦争責任」に少し触れていますが、これらの真珠湾の事実が「戦争責任」の所在を大きく変えることになり、すなわち、ここにも、アメリカが真珠湾の真実を隠す理由があります。
彼らは、きっと、「戦争責任」を自覚しているのでしょう。

9.11テロの関しても、アメリカ政府は、事前にテロが起きるのを知っていて、やらせたのではないか?と疑う人もいます(私もその一人ですが)が、もしそれが真実であるならば、これは「真珠湾」と同じ構造です。
この9.11テロの報復としてアフガニスタンが攻撃され、その延長上にイラク攻撃があり、現在に至っています。
先日、リビアのカダフィ大佐がアメリカに「降伏」し、北朝鮮にも「降伏」するように促すインタビューがありました。
これらを単純に見る人は、「これでアメリカのイラク攻撃は正解だった」と言うでしょうが、これは結果論でしかありません。
カダフィの「降伏」を予測することは誰もできなかった(予測した人、いるのかなあ?いないと思うけど、いたりして)。
これほどのイラク戦争の長期化を、戦争当事者のアメリカ自身も予測できなかったのと同じように。
イラクの先行きはものすごく不透明で、先に解決するはずのアフガニスタンですら、ますます不安定になりそうですから、これらの「結果」はどう解釈されるのか?
歴史上の評価は「結果」で下されますが、その「結果」は誰も予測できません。
したがって、一部の「結果」が良かったからといって、決して戦争が正当化されることはないのです。

中西教授は、情報戦で日本が負けたから日米戦争で簡単に敗戦したのだ、と結論を出しています。
彼は、情報獲得の重要性を強調し、戦略立案の際、最も必要なものがその情報である、と指摘しています。
90年代の金融危機などは、日米戦争後の「第二の敗戦」と揶揄され、そこにも、「真珠湾」と同じ構造のアメリカの戦略にはまった、ということを見出すことができます。
誤解されるまでもなく、決して戦争戦略のことだけを指しているのではないのでしょう。
すなわち、「日本はすでに情報戦の時点で負けている。よって日本政府はもっとしっかり情報収集せよ。そして本当の国益のために戦略をたてよ!」ということです。
(2003年12月25日)

加筆U
私は以上のように、中西輝政さんのことを書いてますが、彼をネット検索すると「新しい歴史教科書を作る会」の理事であることが出てきます。
私はその「新しい歴史教科書を作る会」で出した教科書や彼の出版物を読んでいませんから、それが良いか悪いかはわかりません。
一般には敬遠されています。
その会の行動の良し悪しに関わらず、良いを思われる文章は、評価されるべきだと思いますし、また、悪い面は切り捨てて良い面だけを吸収していく、という立場で、いろいろなことを考えていくことこそ、この情報氾濫時代のもとで、情報獲得者にとって必要なことと思っています。
その選別の判断は、情報獲得者の責任であることは言うまでもなく、その判断によって行われた行動もまた、誰の責任にすることもできません。
すなわち、私がこのように書いて失敗してもすべて私の責任で、また他の人がこのサイトを見て行動を起こしたとしても、それは、私の責任ではなくその人の責任だと思います。
情報社会において、自己責任とは、そういうものなのでしょう。
「お前がこう書いたから、お前のせいだ」というような責任の押し付け合いが氾濫すれば、ネット上の言論すべてが問題視され、やがてボランティア(アマチュア)のサイトは、すべて消滅する破目になります。
(2004年1月16日)



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