魚菜王国いわて

小栗豊後守忠順

1860年2月13日の正午。日米修好通商条約の批准書と、アメリカ大統領宛ての国書をだずさえた77名の遣米使節団は、ペリー提督の旗艦でもあったポーハタン号に乗り、ホノルル港に到着したことが記されている。
この遣米使節団の派遣を決定したのは、大老井伊直弼であった。
直弼が推挙した使節団の監察、小栗豊後守忠順は、上陸するや、自分たちのことが逸早く西洋式新聞によって報道されていたのを知り、カルチャー・ショックを受けた。しかし、それから立ち直ると、直ちに新聞社の訪問を希望した。
そこにはフレスという印刷機が置かれおり、一台で一日千八百枚もの新聞の製作が可能であることを、自らの目で確かめていった。
新聞にかぎらず、その後も、艦船、鉄道、水道、電灯といった近代産業に着目し、一刻も早くこれらの近代文明を日本に移植せねばならぬと考えた。
一般の有識者であれば、ここまでは当然考えつくところであるが、小栗はさらに、それを起こすために必要な巨額の資金をいかに調達するかという点まで、思いめぐらしていた。
そして、コンペニー(株式会社)というすぐれたシステムの存在することを発見したのである。
商業や経済だけに限らず、政治においても、入れ札(選挙)によってリーダーを決めるという議会政治の仕組みについても研究し、同僚の使節が議会を見学して、まるで「魚河岸」のようなものだと一笑に付したのとは対照的に、日本の近代化にとっては、その導入こそ不可欠なものと確信していた。
小栗は帰国後、1867年には、東インド会社と対抗しうるような巨大な「兵庫商社」という名の、日本で最初の株式会社を設立している。
さらに、「鉄は国家なり」との信念kら、勝海舟は300年かかると言い、西郷隆盛は100年は早いと言った東洋一の「製鉄所」を、わずか4年足らずで横須賀に完成させるという、離れ技をやってのけたであった。
資源と市場を求めて、列強が世界中を植民地化しようとしていた時期にあって、ほとんど唯一、日本のみが植民地とならずに、おくればせながら近代国家の仲間入りができたのは、それこそ奇蹟と言えるかも知れない。
(「日米開戦の真実」p3)

(2003年12月21日作成)

リンク元