魚菜王国いわて

末広町のあゆみ

第1部 -街の歴史と名の由来-

[縄文・弥生時代 -アサリや蛤のすみか-]
 宮古周辺の丘陵には、崎山遺跡や近内中村遺跡など、縄文・弥生の遺跡は数多くありますが、末広町をはじめ中心市街地はその殆どが現在よりも深く入り込んだ宮古湾の入り江の中で、アサリや蛤のすみかでした。

[鎌倉・室町時代 -河口の砂州-]
 中世になると、閉伊川沿いの花輪や千徳などの小高い山に城柵を築く豪族が現れ、横山八幡のお宮も創建されましたが、末広町一帯は、山口川と閉伊川が交わる河口の砂州でした。

[江戸時代 -葦や茅の生い茂る湿地-]
 今の小沢や沢田横町地区の山沿いに自然発生的に住居が立ち並び、また南部藩の代官所が置かれたことから、宮古(旧町内を指します)は、花輪千徳に代わる閉伊地方の中心地となりました。
 宮古は慶長 年(1634年)の大津波により壊滅的な被害を受けましたが、翌年復興の視察に訪れた南部藩主が、今の本町を中心に町割り(現在の都市計画)をつくり、その後横町・新町・向町・田町などの街並みが出来ました。なお、江戸後期の記録によると宮古の軒数は166、鍬ケ崎は242とありますので、往時は鍬ケ崎が江戸松前間の海上交通の要衛として宮古を上回る賑わいがあったことが伺えます。
 しかし末広町中央通の商店街一帯にはまだ人家はなく、田圃と葦や茅の生い茂る湿地でした。

[明治時代 -まだ田圃のど真ん中-]
 明治となり代官所の代わりに郡役所が置かれ、宮古は下閉伊郡の中心として益々繁栄しました。明治22年には町制が施行され、人口5192人の宮古町となりました(鍬ケ崎町は3635人)。一方末広町は道といえばあぜ道しかない一面田圃の中でまだ深い眠りのなかでした。
 なお当時は郡役所、町役場、裁判所、警察署、郵便局といった主要な行政機関は全て今の市役所より東の地区(旧舘、愛宕)にあり、商いの中心は本町、新町地区でした。

[大正時代 -町が産声を上げた-]
 そして大正に入り、同13年に宮古町(当時の人口9193人)と鍬ケ崎町(5387人)との合町が実現し、宮古は名実ともに下閉伊郡の拠点として栄える基礎が築かれました。(ちなみに、山口村・千徳村・磯鶏村と合併して市制が施行されたのは、さらに時代が下った昭和16年です)
 さて、私たちの末広町が生まれたのはちょうどその頃のことで、大正9年に着工した国鉄山田線(開通は昭和9年)の駅が現在地に設定されたのを受けて、それまで幾久屋町(現在の大通一丁目、カネボウ付近)で止まっていた道路が、大正14年頃に駅を経由して舘合まで開通したのが契機でした。
 瞬く間に道路沿いの田圃が埋め立てられ、今の花の木通り等の肋骨道路も作られ、街並みが形成されました。
 角川の日本地名辞典には「大正15年、一面の田圃、湿地を埋め立てて末広町として設定した」とあります。また郷土史家の花坂蔵之助氏はさらに細かく「末広町と名付けられたのは、大正15年5月から11月までの間」と推定しています。
 いずれにしても大正15年(1926年、因みに昭和はこの年の12月から始まる)に、昭和の時代とほぼ同時に産声を上げたこの町に、当時の地主達が集まって、町勢が末広がりに栄えることを願って、「末広町」と名付けたのは間違いないところでしょう。

[昭和/戦前-瞬く間に県内でも有数の商店街]
 その後、昭和2年の宮古港重要港湾指定とそれに続く港湾整備、待望の昭和9年の国鉄山田線の開通、そして昭和11年の田老鉱山開業に始まり、ラサ工業・大同鉄鋼(後の日本電工)・岩手窯業(日立浜、今はない)といった大工場の進出が相次ぎ、宮古は北日本有数の臨海工業都市として一層の発展を遂げました。
 こうして宮古全体は好景気に沸きその波に上手く乗ったのが新興商店街である末広町でした。盛岡をはじめ県内各地はおろか県外からも進取の気概に満ちた我らが先達たちが続々と末広町に乗り込んで来て、瞬く間に県内でも有数の商店街を作り上げたのです。
 先の郷土史家の花坂蔵之助氏は、これを捉えて「末広町は一朝にしてできた町」と表現しています。正に言い得て妙、そのとおり末広町は大正末期から昭和初期にかけてのわずか十数年足らずの間に、田圃の中から忽然と出現した街なのです。
 しかし昭和デモクラシーの時代から、日華事変・太平洋戦争と続く軍歌の鳴り響く時代へと移り、店頭から商品が姿を消し商業活動はままならなくなっていきました。後年末広町の近代化の大きな障壁となった幅員20mの軍用道路計画が作られたのは昭和17年です。

[昭和20〜30年代-戦後の地域経済を支える-]
 宮古は藤原地区を除き大きな戦災を蒙らずに終戦を迎えたものの、人心にもたらした戦争の傷跡はかなりのものでした。しかし昭和22年頃には、戦争引揚者救済として末広町中屋家が提供した土地(現プラザカワトク)に数十店も軒を連ねたマーケットが生まれ、当時の宮古で最も活況を呈した場所となりました。
 だがまだ戦争の傷が癒えぬ昭和23年9月、前年のカサリン台風に続く超大型のアイオン台風により閉伊川がまたもや氾濫し、宮古の市街地は濁流に飲み込まれ、正に壊滅的な打撃を受けました。そして内陸との唯一の交通手段ともいえる国鉄山田線は各所で寸断され、同29年まで不通となり、その間宮古は陸の孤島と化しました。
 しかし、こうした度重なる災害にも拘わらず末広町は不死鳥の如く蘇り、昭和25年には「すずらん燈」を町内各所に設置して町に希望の明かりを灯し、さらには昭和30年からは七夕祭りを導入して町に活気を呼び戻しました。

[昭和40〜60年代 -高度経済成長時の繁栄そして低迷-]
 さらに時代は進み、日本全体が高度経済成長の波に乗る中、我が末広町も負けず劣らずに繁栄を続け、一番商店街として地域の経済を支えました。なお全長400mの長い通りの中で「一番街」「    」「駅前マーケット」等の名称で組織をつくり互いに競い合ってきましたが、昭和  年に「末広町振興会」として町内の組織を一本化しました。またわが町が正式に「八幡沖」から「末広町」に町名変更になったのは、昭和40年7月1日のことです。
 また単なる買い物のみならず市民にも潤いを提供しようと、独自の祭り(末広町フライ旗祭り/昭和50年から?)や歩行者天国などを開催したり、市や市民のイベントに積極的に協力し、街には人が溢れ賑わいました。
 昭和59年に沿岸住民の悲願であった三陸鉄道が開通した結果、商圏は広がりを見せました。しかし当時日本中を吹き荒れたバブルの嵐は何ら関係なく通り過ぎたものの、大型店やロードサイド店への顧客流出は年々増加し、平成3年の県立宮古病院の移転により来街者は激減し、商店街の衰退が顕著となりました。
 自らの手で街を作り上げた私たちの先達は、戦後もお上の手を借りずに、街路灯を設置し道路をコンクリート舗装化するなど街の近代化を進めました。
 しかし急ごしらえの商店街は、戦後20年30年を経過して綻びが見え始め、特に歩車道の区分すらない狭い道路は商店街の発展の妨げとなりましたが、都市計画事業は何ら動きのないままでした。

[昭和50年代]
 そこで、昭和51年には任意組織の末広町振興会を法人化した「宮古市末広町商店街振興組合」を設立し、新しい時代の波に対応しうる商店街の近代化をめざしました。そして昭和56年振興組合の総会において、都市計画道路の幅員を20mから16mに縮小する案が決議され、早速市議会において陳情採択されました。
 その後、昭和60年には「沿道環境調査」を行い、翌61年に「商業近代化計画」を立案し商店街近代化へ向かって走り始めましたが、同年宮古市が幅員18m案を提示し、計画は暗礁に乗り上げ、分厚い資料の山ができただけで、全て画餅に帰してしまいました。

[平成]
 平成に入り、県立宮古病院の移転等もあり来街者は激減し、商店街の近代化は待ったなしの状況に至りました。

<末広町長期ビジョン作成と特定商業集積整備法に基づく調査>

 平成4年、商店街及び市役所が一体となって「末広町長期ビジョン」を策定し、近代化へ向けて新たな一歩を踏み出しました。それが翌年の「特定商業集積整備法」の調査に繋がり、また懸案の都市計画道路の変更方針が決定しました。「特定商業集積整備法に基づく調査」は1年間に亘り、その結果、将来の宮古市の商業集積候補地区は末広町を中心とする既存商店街とする旨を明確に設定しました。

<都市計画道路変更決定と再開発準備組合結成>

 その後、平成6年6月に宮古市都市計画審議会で幅員を20mから17mに都市計画道路の計画変更が承認され、翌年県の審議会で正式に決定されました。50年もの長い間の足枷がようやく消え、「宮古市も重い腰を上げて商店街の近代化に着手するのも間もない」と私たちは希望に沸きました。
 また同年近代化の気運が高まる中で、末広町の中央部に再開発ビルを建設する構想が関係地権者の間で持ち上がり、商店街近代化の先導役となるべく再開発準備組合が結成され、念願の核店鋪建設に向けて始動を始めました。その後、国の補助を受けて大規模な調査を行い、後年の宮古市拠点地区整備計画でも重点施設と位置付けられましたが、再開発は都市計画事業であり、市の全体計画と同一歩調をとらなけばならず、後述の事情等で現在まで凍結状態になったままです。

<地方拠点都市地域の指定と調査及び事業の凍結>

 宮古市は平成6年9月に地方拠点都市地域の指定を受けました。ところが、街の近代化の促進に資すると思われたこの「地方拠点都市指定」は、逆にブレーキをかける結果となってしまいまた。前年の調査結果を活用することなく、またも委員会が結成され一から調査が始められ、その間末広町関連の各種事業は中断しました。無用な歳月と金を費やし、宮古市拠点地区整備計画が私たち一般市民に示されたのは平成8年10月でした。同計画は阪神大震災の教訓で防災を意識した大規模なものとなり、また中心商店街だけでなく小山田地区や出崎地区の整備計画も一緒に提案されました。
 その後、宮古市から区画整理型の事業手法の提示を受け、私たちは一日でも早い事業着手を願って商業者のみならず地域住民全てを対象に説明会や懇談会を積極的に開催し意見調整を行いました。
 しかしそれらの会合もなぜか平成9年夏には全て休止し、以来一度も開かれていません。協議の再会を何度も求めましたが正式な回答はなく、事業の全面的な見直しとの風聞が聞こえてくるのみでした。

<TMOと中心市街地活性化法>

 それにもめげすに末広町は南部繁樹氏(平成4年以来の交流、現在TMOのエキスパートとして全国的に著名)を講師に招き、全国に先駆けて「タウンマネージメント/TMO」の勉強を重ねました。
その後、商店街の空洞化対策は国の重要課題として国会でも取り上げられ、平成10年に「中心市街地活性化法」が制定され、TMOが一躍時の言葉となり、全国の都市が中心商店街の再生に向けて取り組み始めました。しかしながら宮古市は取り組みが遅く、平成13年3月に同基本計画は全国379番目でようやくできました。だが残念ながら宮古市の腰は重いだけでなく引けており、本来行政の責任としてなすべき都市基盤(歩道・公営駐車場他)すら積極的に整備する様子は見えません。

[現在 無為無策なままついに大型店も撤退を始めたが…]

 平成13年2月にTMO構想ができ、現在は平成15年度の事業構想について商工会議所を中心に、商店街と一般市民も交えて策定中です。
 振り返りますと、近年の末広町近代化事業はことごとく節目の年に首長選挙が当り、現職が落選を繰り返し、その度にそれまでの積み重ねが水泡に帰すという、悪夢の循環でした。平成6年に都市計画変更決定がなされてからでさえ8年もの無為な歳月が流れ、その間商店街の地盤沈下は深刻化し、今や危機的な状況に至っています。
 宮古市は他方面では全国で何番目を誇る迅速さがありながら、なぜ商業・商店街整備となるとこうも遅いのか? 郊外には多額の投資を惜しまないのに、中心市街地にはなぜ渋るのか?……。
 しかし無為無策は決して行政だけでなく、私たち商店街関係者も、いくら国の施策とはいえ宮古市が事業主体だからとはいえ、あまりにも受け身であり過ぎました。自分らの街のことならもっと主体的かつ積極的に行動すべきでした。また、商店街の問題は宮古市全体の問題と認識するなら、より広範囲の人々に呼び掛け理解と協力を仰ぐべきでした。
 無論、まだ末広町を含む中心市街地は消滅したわけではありません。この長期の不況下ではつい二の足を踏みがちですが、工夫次第でまだまだできる。かけ声だけでない、官民一体・市民一体となった末広町の再生を切に願うのは私たちだけではないでしょう。

<平成9年末広町新年会(1/23)配布資料を加筆訂正(H14/8/31)>

末広町商店街振興組合のサイト(←リンク切れ)

リンク元