魚菜王国いわて

みやこ人の人の良さの起源?

宮古人は商売が下手、だとよく言われますが、これは、あきらめの良さに関係あるんじゃないかなあ、と私は思ったりします。
お人よしというのかなあ?
私の目に映る宮古人の中の商売上手は、ちょっと意地悪な人とか、図々しい人とか、そんな人が多いような・・・。
というわけで、私の独断で、迷解析(?)します。

これは父(69歳)から聞いた話ですが、宮古に、創生期の鱒縄の船がたくさんあった頃、全部が木製の船でした。
宮古にも、何箇所か新造船を作ったところがあり、今思えば、欠陥の船がたくさんあったとのこと。
例えば、出港する前から、長靴をはかなければ歩けないほどデッキに海水が乗っていたり、船が傾いてもなかなか戻ってこない船とか、時化になると船員室にアカ(浸水した海水)が入り、船が傾いた方向が風下になるから、そっち側の戸を開けて、みんなでバケツで排水したとか。
鱒縄にしろ、マグロ縄にしろ、当時の乗組員は本当に命懸けで航海に出たようです。

昭和一桁や10年代生まれの宮古の漁師さんに聞いてみると、「あの時にあの航海を休んだお陰で、今、生き残っている」という人がなんと多いことか!
その休んだ航海に、乗っていくべき船が遭難して、全員絶望という事態になったりして、今宮古にいる漁師さんというのは、本当に“生き残り”なのです。

それでも船乗りは絶えなかったのは、宮古に職業がなかったからであり、役所関係、漁業関係以外は、ほとんど都会へと出て行き、宮古にいる場合、就職機会はなかなかありませんから、当然飯を食うためには船乗りになるしかなかった。
そんなわけで、半分「あきらめ」て、船に乗ったのでしょう。
この「あきらめ」は、その辺の簡単な「あきらめ」とは違います。
八方塞の状態で自分の命を懸けた「あきらめ」であり、それゆえに、わざわざ「遭難するかもしれない」船に乗っていったのです。
所詮、人は、自分の意志でどうにでもなれるわけでもなく、なすがままにしか生きられないのだ、という自然の掟(自然法)に素直に従うしかなかった。

この「あきらめ」の中に、宮古人の人の良さを見出せます。
宮古の人は、どちらかといえば、対立局面では引っ込みます。
控えめにすることに美意識を感じる、とは誰も考えていないと思いますが、どうしてか、宮古人は引きます。
そんな局面では、「なんだか商売にならなくなったから、やめっか」というようなことを言い出します。
そのくせ自分のやるべき仕事となると、寝ないで頑張るんですから、対外的に戦略がなさ過ぎるといいますか、どうも人が良すぎるといいますか、表現に困ってしまいます。
対外的な圧力には「あきらめ」、内の仕事は「頑張る」。
これは、前時代の“遭難するかもしれない”という自然に対する「あきらめ」と、そんな中でも船に乗ったらしっかり仕事を「頑張る」という構図と、オーバーラップして見えます。
そんなわけで、宮古人の人の良さの起源は、漁師の自然に対する「あきらめ」にあるんじゃないかなあと思っています。

「魚菜王国いわて」(←ファイル消失)で紹介した、「きっちゃん」さんの投稿文の、できれば遺恨を残したくない、という感情は、ある意味、宮古人の人の良さを物語るものだと私は思っています。
また、今年の正月の同級会で、大船渡に嫁いだ同級生と話をしました。
彼女も、宮古人の人の良さを、向こうに行ってから実感したといいます。
県南のほうへ行くと、対立局面では、なかなか相手は譲らないんだそうです。

この対立局面での“引く”構造のことから、「だっけ〜、みやごはダメなんだ〜」と言われそうですが、私はこんな宮古人が好きですね。
もちろん、“引かない”人もいます。
例えば、私のような(笑)。
でも、一般的といいますか、まあ学問的(?笑)といいますか、平均的といいますか、宮古人は人がいいです。
そして、どうせなら、ず〜と宮古は拓けないで、田舎のままでいてほしい(と思うのは私だけでしょうけど。でも充分に開けすぎたような・・・)し、人の良さも永久的であってほしいと思います。

疲れるから、もう都会へは行きたくないし、宮古もこれ以上栄えなくていい。
今住んでいる人たちが変わらずに、みんなうまくやっていけばそれでいいじゃないか。
漁師仲間や農家の人たち、中学時代の悪ガキたち、根っから宮古にしか住めない人、そんな人たちとうまい酒を飲みうまいものを食べ、、ワイワイやりたい。
私の望みはただそれだけです。
(2005年2月5日)



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