魚菜王国いわて

岩手県の「あるべき地方の姿」を読んで

岩手県のWebサイト「銀河系いわて情報スクエア」にある「あるべき地方の姿」(←リンク切れ)を読み、その感想を書きます。
特筆すべきことはまず、ナショナル・ミニマム、シビル・ミニマム、ローカル・オプティマムを言及している点です。
そしてもう一つは、地方共同税を提言していることです。

ナショナル・ミニマム、シビル・ミニマムとは、「あるべき地方の姿」報告書で、次のように表現しています。

「ナショナル・ミニマム:国家が国民に対して保障する最低限の生活水準」
「シビル・ミニマム:地域特性を反映し、地域住民にとって最低限必要な公共サービス水準」

私のサイトでは、このことを「国または自治体は住民の面倒をどこまでみるべきか」(←ファイル消失)と長ったらしく書いています。
この二つの言葉は非常に便利です。
また、ローカル・オプティマムとは

「ローカル・オプティマム:地域住民のニーズや、地域の創意工夫を反映した公共サービスで、受益と負担の関係から地域住民が自主的に選択」

とあり、この三者を考え、サービスの分類を行ったうえで、地方分権をどう進めたらよいかについて書いています。
結局は財源が最も大きな問題であり、そこで地方共同税を提言しています。
現在は、地方交付税交付金という形で、国から地方へと配分されています。
その税財源を国税ではなく、初めから、地方共同税という形で徴収するわけです。
日本国中、一律同様に税を徴収すると、人口がたくさんあって企業がたくさんある地方が税収は多くなり、それをそのまま、その地方だけの歳出にあてると、地方間の格差が非常に大きくなります。
そこで地方交付税がそれを調整するために使われてきました。
報告書でも地方交付税を

「地方団体間の財源不均衡を調整する財政調整機能があるとともに、一定水準の行政サービスを全国どこの地方公共団体でも提供することができる財源保障制度である」

としています。
目的は同じですが、税の徴収のあり方を考え直し、地方の自立を促すために地方共同税が提言されています。
地方共同税を執行する場合、単純な調整方法で税を配分すれば、利益誘導の入り込む余地がなくなると言えるでしょう。

地方分権を考えるには、このナショナル・ミニマム、シビル・ミニマムの二つの分類をどうすべきか、が最も重要であり、「小さな政府」を考える人間は、ナショナル・ミニマム、シビルミニマムを、できるだけ抑えるように考えます。
逆に福祉主義者は、両ミニマムを高くしたいわけです。
私のサイトでは、利益誘導を最大の問題としていますから、当然、ナショナル・ミニマムとシビル・ミニマムを比較する場合、シビル・ミニマムの方がより重要視され、シビル・ミニマムよりローカル・オプティマムのほうが重要視されます。
また、両方のミニマム、つまり、「最低限の生活水準」や「最低限必要な公共サービス水準」の設定も難しいですね。
最低限をどういう水準にするのか、これは「国または自治体は住民の面倒をどこまでみるべきか」(ファイル消失)そのものです。

しかし、です。
同時に、「がんばらない宣言いわて」(リンク切れ)のような地域独自の価値観を育てないと、今の社会問題は解決できません。
報告書には、その記述がみられません。
「あるべき地方の姿」とは、地方分権だけではないはずです。
また、報告書の政策決定プロセスは、別に変わったものではありません。
他の自治体との調整を書いていますが、政策間の整合性に触れておらず、なぜこれを考えないのか不思議です。
税の無駄遣いは、ここからくるものなのに!
そして、根本を考えるなら、住民の意見というのは、幸福追求権の限りない濫用へとつながります。

「評価」から「計画へのフィードバック」がなされるとしていますが、効果があるかどうかは疑問です。
ゆえ、よりローカル・オプティマムは、もっと深く掘り下げて検討すべきです。
財政の健全化を目指すためにも、何かプロジェクトを組む場合、債券発行などで先送りせず、「これによって、これぐらい増税になりますよ」、という具合に、住民に負担の意識を植え付けるようにしていかなければ、「評価」することは意味がなくなります。
さらに、分権は、自己責任が伴いますから、当然財政管理の責任は地方公共団体にあります。
彼らが、経営者として、どれだけ自分たちの報酬に対して、「自己評価」ができるか、ということも触れなければならないと思います。

今回の「あるべき地方の姿」報告書からは、分権の事務的なものだけが見えて、「姿」が見えてこないのが私の率直な感想です。
(2002年4月6日)



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