魚菜王国いわて

「京都に原爆を投下せよ」

こういう話を聞いたことありませんか?

「京都は文化財などがたくさんあるから、アメリカは京都を攻撃しなかった」
「だからアメリカ人は尊敬される文明人だ」

私の場合、これを誰から聞いたのか、すでに記憶にないんですが、全国的には、やはりあった話のようです。
この尊敬されるべきアメリカ人とは、一般的には「ウォーナー博士」であるとされ、京都への攻撃阻止、そして、日本の文化財保護を働きかけた、とされていました。
そのウォーナー博士の記念碑も、次の6つがあるようです。

法隆寺、桜井公園(奈良県桜井市)、霊山歴史館(京都市)、茨城大学五浦美術文化研究所、勝常寺(福島県)、JR鎌倉駅前。

「ウォーナー・リスト」
日本の文化財を救ったという「ウォーナー伝説」は、俗にいう「ウォーナー・リスト」に根拠があったとされ、その正式名称は、「陸軍動員部隊便覧(M354-17A)民事ハンドブック 日本 17A:文化施設」というものです。
このハンドブックは、アメリカのロバーツ委員会で作成されたものであり、ランドン・ウォーナーは、この委員会に、途中から参加しました。
ロバーツ委員会の目的は、占領地の文化財の保護と返還にあり、「保護」とは、枢軸国によって略奪された文化財と占領地の文化財の両方の保護であり、また、「返還」とは、略奪された文化財の返還、さらに、その文化財が破壊や紛失のために返還が不可能になった場合、占領地すなわち枢軸国の文化財での弁償することも含みます。
そのため、文化財リストは、略奪された文化財と、さらに、「弁償」分を補うための枢軸国文化財の両方が作成されるわけです。
そのうちの日本文化財リストが「ウォーナー・リスト」にあたり、ウォーナーは、単にこのリストを作成しただけであって(ウォーナーは中国、朝鮮、タイのリストも作成)、京都攻撃阻止を働きかけたわけではなかったのです。
「ウォーナーリスト」には、*印でその文化財の重要度が示されていて、略奪文化財弁償用の基準がつけられていました。
この「ウォーナー・リスト」が、空襲と何の関係もなかった例を、次に引用します。

米軍による爆撃によって焼失した日本の文化財は、国宝293件、史蹟名勝天然記念物44件、重要美術品134件であり、合計471件もが灰になったという。先の「ウォーナー・リスト」には15の城が掲載されているが、このうち、名古屋城天守閣、首里城、青葉城など8つもの城が戦火で焼失している。全国に無数といってよいほど多数存在する城のうち、リストに掲載されたのはそのうちの代表的なもの15に過ぎないにもかかわらず、その半数が爆撃によって失われたのである。逆に「ウォーナー・リスト」に記載されなかった彦根城、富山城、丸岡城などの名城は爆撃をうけていない。これでは、爆撃を制限するためのリストであるどころか、爆撃の目標にするためのリストだったのではないかと考えざるを得ないほどである。
また、「ウォーナー・リスト」が実際に何の役に立ったかについては、戦後、占領軍兵士たちが日本を観光してまわる際のガイドブックとして重宝がられたと言われている。
(「日本の古都はなぜ空襲を免れたか」p66)

京都に原爆を投下せよ!
何と!京都が、原爆投下の第1候補だったのです。

アメリカの戦略爆撃調査団の報告書(No.66)は、この点について次のように記している。
「原爆の攻撃目標はワシントンからの秘密指令によって他のいかなる形式の攻撃からも一切除外されていて、原爆の使用に対する効果だけを得られるほとんど無傷の地域であった。」
[USSBS,Final Report No.66:The Strategic Air Operation of Very Heavy bombardment in the War against Japan,1946.]
これで明らかなように、原爆投下目標の<予約>とは、原爆投下用に残しておかれることである。言い換えれば、原爆の威力を測定するために、他のあらゆる形式の爆撃も禁止して無傷の状態にしておくことだったのである。
つまり、原爆投下目標に選ばれた都市には、ワシントンから<原爆禁止命令>が出されていたというのである。
次の文章はその一例である。
これはアメリカ軍統合参謀長会議が、南西太平洋方面軍最高司令官・マッカーサー将軍(Douglas MacArthur)、太平洋方面軍総司令官・ニミッツ提督(Chester W. Nimitz)、第20航空軍司令官・アーノルド大将(Henry H. Arnold)に出した6月30日付の指令である。
「新しい指令が統合参謀長会議によって発せられないかぎり、貴官指揮下のいかなる部隊も、京都・広島・小倉・新潟を攻撃してはならない。
右の指令を実行するのに必要な最小限の者たちだけの知識にとどめておくこと。」
[MED・TS]
これこそ、まぎれもなく原爆投下目標に対する通常爆撃の禁止命令であった。これらの都市はこうして原爆投下用に<予約>されていたのである。
(前掲書p97)

京都は原爆“実験”に最適である、とするグローブス少将と、戦後世界を念頭においた国家戦略上、京都案に反対するスチムソン長官とが、最後まで対立します。
アーノルド大将もグローブスに賛成しますが、トルーマン大統領は、戦後のロシアの影響力を考慮したスチムソンを支持し、京都は目標から除外されました。
2発の原爆に対し、予備目標も一つずつ選ぶ必要があったので、この時に初めて、長崎が目標となります。
この時点での攻撃目標は、広島、小倉、新潟、長崎。
長崎に実際に投下されたことを考えると、京都の代わりに長崎が不幸を背負ったと言えます。

さらなる原爆
米軍は、広島、長崎に原爆を投下する前に、「パンプキン爆弾」という爆弾で、原爆投下のリハーサルを行っています。
そして、長崎への原爆投下した後の8月14日、愛知県の春日井市や豊田市に、原爆リハーサルであるパンプキン爆弾投下を行いますが、これは明らかに京都を目標としたものです。
実は、原爆は2発だけではなく、7月の時点ですでに、長崎後の原爆投下作戦が、次から次へと練られていたのでした。

3発目以降を投下する予定であったことはグローブスの次の手紙でもわかる。7月19日、ロスアラモス研究所長オッペンハイマー博士宛の手紙でグローブスは次のように記している。
「当初の計画どおりに、最初のリトルボーイ(広島型原爆)と最初のファットマン(長崎型原爆)を投下することが必要であり、おそらくは2発目のファットマンを投下することが必要でしょう。計画された戦略的作戦と整合させるには、現在の態様で最良の状態にあるファットマンを3発ほどもたぶん投下しなければならないでしょう。」
[『資料・マンハッタン計画』]
ここでグローブスが言う「2発目のファットマン」こそ、3発目の原爆のことである。
(前掲書p203)

15日の終戦がなかったら、原爆列島でした。
引用文からは、4発目もあることがわかります。
恐ろしいですね。
一般のアメリカ人は、この事実を知っているのかしら?
同じアメリカ人が、「鯨がかわいそうだ」なんてよく言えるものです。

ウソをつくアメリカ
「ウォーナー伝説」は、日本人が勝手に美談に仕立てたものです。
が、アメリカは、この美談に便乗し、ウソをついています。
これは、日本人に「米軍美化」「米国美化」の洗脳教育を施す一環で、それを遂行する機関が、民間情報教育局(CIE)です。
以下が、そのCIEのヘンダーソン中佐のウソです。

《ウォーナー伝説》に直接に関わって、ヘンダーソンが残した記録は多くはないが、次の談話は数少ないもののうちの一つである。これは、1946年(昭和21)年1月4日、京都において新聞記者のインタビューに答えたものである。「京都はなぜ爆撃されなかったのか」という問いに次のように答えている。
「合衆国最高裁のロバーツ判事を長とし、日本美術を含む、ロバーツ委員会として知られる委員会は、世界の芸術品を保護するための、特別な諮問委員会であり、この委員会がその問題で重要な役割を果たしたのだ。」
[The Mainichi, 7 Jan. 1946.]
このヘンダーソンの談話は、ロバーツ委員会の目的について虚偽を述べているだけでなく、《ウォーナー伝説》の根拠を肯定したものである。
(前掲書p222)

CIEは表向きの機関であって、これは、本来の機関である民間検閲支隊(CCD)の「付加的」なものであったといいます。
CCDは検閲を通して、原爆報道などによるアメリカの悪いイメージを抑制するためのものであり、その実体を覆い隠すために、CIEが活躍したのです。
このような戦略となると、アメリカは上手ですねえ。
ずるがしこい!
記念碑まで建てたのに、「ウォーナー伝説」は真実ではなかった。
建てた人はきっと疲れたでしょう。
それにしても、桜井公園にウォーナーの記念碑が建てられた際、ウォーナーの賛歌まで作られた、というのは、もう、お笑いの域に達してしまいますね。

引用で示している「日本の古都はなぜ空襲を免れたか」の著者は、吉田守男さんという方で、大阪樟蔭女子大学教授です。
これは文庫本ですが、単行本は、1995年7月に、「京都に原爆を投下せよ」というショッキングな題名で発刊されています。
これに関する最初に公にされた論文は、1983年の「京都小空襲論」ですが、それにもかかわらず、「ウォーナー伝説」は消えなかったようです。
単行本発売後の2002年3月17日に、「天下」のNHKが、1970に制作した「ウォーナー・リストの戦後」という番組を再放送しました。
このNHKの放送に、筆者の吉田教授は唖然とし、再度、この文庫本を再刊したようです。

今日のは、ちょっと長いですが、もう少しお付き合いください。

棄てられる爆弾
米軍の攻撃は、主に、精密爆撃とジェノサイド(genocide 大量虐殺の意)爆撃に分けることができます。
初期は、精密爆撃がおもな戦法だったのですが、カーティス・ルメイがヨーロッパ戦線からグアム島へ転任したのを契機に、ジェノサイド爆撃へと戦法が変わります。
有名なB29による大量の爆弾投下が、たまに放映されたりしますね。
日本への爆弾投下量は16万トン、そのうち、B29の投下量は14万トンにもなります。
米軍機が、爆弾を持ち帰ることは極めて稀であったらしく、余った爆弾を火の海に投下しても意味がないので、帰路において、適当な目標を探して投下したり、本当にそのまま棄てられたりしました。
それゆえ、通常爆撃の禁止命令の出ていた原爆目標候補地にも、爆弾は何回か単発的に投下されています。
余った爆弾の最も犠牲になったのは、浜松市です。
カーティス・ルメイは次のように書いています。

この浜松ほどあわれな都市はほかになり。われわれのB29は、(日本の攻撃による)被爆やその他の事情を爆弾を投棄する場合、この浜松上空で搭載爆弾を処分するよう命ぜられていたのだ。
このため、このあわれな中都市は戦争の全期間を通じて、毎日のべつまくなしに爆雨を降らされ(ていたのだ)。
[C・ルメイ「私は成層圏の“かがやける爆撃王”だった」]
(前掲書p148)

どうして爆弾を持ち帰らずに、棄てたのでしょう?
普通の感覚なら、持ち帰って、次の攻撃に使用してもよさそうなもの。
この当時から、アメリカには爆弾が余っていて、「とにかく消費してほしい」という軍需産業の願いが通じていたのでしょう。
ここにも軍産複合体の姿が顔を出します。
(2004年6月15日)



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