魚菜王国いわて

比較価値観

比較価値観。
私の勝手な造語です(たぶん)。

個人の価値観には、それぞれ違いがあり、生きていく主義やモノの考え方、趣味が、それぞれ違うのは言うまでもありません。
しかし、他に左右されない独自の価値観を持つということは、容易ではないようです。
もし、これが容易であるなら、この社会はもっといいはずなのですが。

「隣の芝生はきれいに見える(?)」って、誰が言ったか知りませんが、聞いたことがあります。
これは比較して言う言葉です。
自分の持っているもの、自分の作ったものなど、常に私たちは他と比較して、それが他よりも優れていれば満足するだろうし、不満であれば新しいものを購入するとか、創造するでしょう。
これが、人々を競争へと駆り立てる根源になっているのかもしれません。
「カネ」に勝る価値尺度は現在においてない、と思いますが、この「カネ」に対する比較価値観が最も問題です。
これが、あらゆる社会問題の引き金になっています。

まあ、ここでは学歴社会でも例に出しますか。

今は教育もカネだそうです。
この田舎では、無縁な方もたくさんいるでしょう。
私もまあ、テキトーに勉強して過ごしたほうですから、関係ないんですけど、世の親は、わが子に金銭的苦労を将来かけさせたくない、という親心から、幼稚園のころからカネをかけて教育し、いい大学を終わらせ、カネを稼げるところに就職させようとします。
ここで「金銭的苦労をかけたくない」というこの基準とは何か?
という問いに対して、やはり比較価値観、つまり、他と比較して、「金銭的苦労をかけたくない」だけなのです。
個人が自分なりに考えた固有の基準があるわけではない。

これを国という大枠で考えると、アメリカは、第三世界のような水準で生活したくない、日本もそうだ、ということにも当てはめることができます。
逆に、第三世界の人たちから見れば、先進国のような生活水準を望み、あれこれ注文をつけます。
このような比較価値観では、あらゆる問題は解決しません。
社会問題、経済紛争は、やはり人間の気持ちの中に問題がある、というほかありません。

比較価値観を否定する、ということは、身近に言うなら、「田舎の人が、テレビで見る都会の生活を欲しても、何の解決にもならない」「田舎ではその田舎なりの生活をしよう」、ということです。
これを無理にねじ曲げ、都会の生活をしようとするから、財政が破綻します(してますが)。
逆に、都会のように経済的優位にある人たちは、少数優位はよくない、と過去の歴史を反省して、生活レベルを下げるよう努力する。
地域ごとに、独自の生活様式を確立してあれば、つまり、多様性が豊かであれば、問題があっても他に学ぶことができますし、比較価値観で起きる争いもなくなるでしょう。

比較価値観を捨てて、独自の価値観を持つようにしましょう。
まあ、これも夢のような話ですが、・・・。
(2002年10月23日)



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