魚菜王国いわて

反捕鯨は米国の政治的思惑?

2002年4月1日付「週間水産新聞」より、記事を抜粋、紹介します。
見事な記事です。

来月、注目のIWC下関会議
 商業捕鯨の再開を
  ミンククジラ異常繁殖、サンマなどに影響
IWC(国際捕鯨委員会)が管理するすべての鯨種の商業捕鯨一時停止が決議された時、同時に、90年までにクジラ資源を包括的に評価し捕鯨禁止を見なすことも決定されました。
その後、IWC科学委員会は、南極海のミンククジラは少なくとも76万頭以上、オホーツク海・北西太平洋系のミンククジラは2万5千頭以上存在するという見解を打ち出しています。
いずれも”少なく見積もって・・・”という過小評価です。南極海のミンククジラについては「絶滅の危機」どころか百年前の十倍近くにまで増えており、同委員会の管理方式によれば、年間2千頭ずつ捕獲しても資源量に影響がない数値です。
クジラはその体の大きさから、大量の海洋生物を食べています。IWC下関会議推進協議会によると、クジラが世界の海で1年間に食べる海洋生物の量は、3億〜5億トンで、世界の年間漁獲量約9千万トンの3〜5倍に当たります。
増え続けているミンククジラも、オキアミやイカナゴ、サンマ、シシャモ、ニシン、イワシ、サバ、タラ、スルメイカなどの水産資源を餌としていることが分かっています。
資源水準の低いシロナガスクジラと、異常繁殖しているミンククジラを混同し「クジラ類」とひとくくりにして保護することは、かえって生態系のバランスを崩してしまうことなのだということも見逃せません。
クジラ類最大のシロナガスクジラは体長30メートル以上、鯨油生産効率が良く、鯨油採取を目的とする欧米各国の捕鯨船団によって集中的に捕獲され、乱獲によって資源が激減しました。成熟するまで10年前後かかり、出産は2〜3年に1回と繁殖力が弱いことも要因です。
これに対してミンククジラは体長11メートルと小型で、生産効率が悪いことから鯨油目的の捕鯨対象にはほとんどなっていませんでした。6〜7年で成熟しほぼ1年に1回出産します。他の大型鯨類に比べて繁殖力が強く、南氷洋ではシロナガスクジラ激減で生じた空白を埋めるほど異常繁殖しました。
個々の資源量の違いを無視した「すべての商業捕鯨禁止」がミンククジラの異常繁殖を放置し、餌場を失ったシロナガスクジラなどの大型鯨類の資源回復を阻害しているという説を、数多くの科学者が唱え警告を発しています。
「クジラは絶滅の危機にひんしている」という主張の論拠は崩れ、クジラ類全体をひとくくりにした保護が海の生態系バランスを崩していることも明らかになりました。
「商業捕鯨の一時停止」決議からちょうど20年がたちました。ミンククジラの資源管理については、科学的な方法が完成しつつあり、反捕鯨国の科学者も正しいと認めています。
シロナガスクジラのように、乱獲によって絶滅の危機に追いやってはならないことを、世界の捕鯨国は痛感しています。5月のIWC下関会議を契機に、資源の適正評価に基づく商業捕鯨再開が強く望まれます。

反捕鯨に米国の政治的意図
捕鯨に反対する国には、鯨食文化がありません。「クジラ愛護」の急先鋒は米国です。
かつて鯨油採取を目的にクジラを乱獲、鯨油を絞った後の死体を大量に廃棄し、シロナガスクジラを絶滅の危機に追いやった一員の米国が、なぜ「クジラ愛護」を唱えるのでしょうか。
その起源としては、76年にストックホルムで開かれた国連人間環境会議での、米国による「商業捕鯨10年間凍結」提案が有名です。
60年から70年代の環境破壊や公害問題への対策協議を目的に開かれた会議では、ベトナム戦争で米軍が兵器として大量に散布した「枯れ葉剤(猛毒ダイオキシン)」や無差別じゅうたん爆撃による大規模な環境と人間の破壊に対し非難が集中するはずでした。開催国スウェーデンのパルメ首相(当時)もそう予告していました。
窮地に立たされた米国は、各国の耳目を「ベトナム」から別の問題へそらす作戦にでました。それが「捕鯨問題」です。「世論操作のウルトラC」ともいわれています。
「絶滅の危機にあるクジラ1頭を守れなくて、どうして地球と人類を守れるか。米国の政治的最高レベルからの提案だ」として「商業捕鯨10年間凍結」案を議題に割り込ませ、採択を強行したのです。
暴力的かつ漫画的でさえある米国の作戦ですが、会場の外で「反捕鯨」デモを繰り広げた環境保護団体の組織化や、当初は捕鯨禁止に反対していたカナダ、ノルウェー、アイスランドなどの国々を政治力で抱き込み、「ウルトラC」を成功させました。
米国の国連会議の10日後に開かれたIWC年次総会でも同様の提案を行いましたが「科学的正当性に欠ける」と否決されました。しかし、米国内で「反捕鯨」は「環境保護」のシンボルに祭り上げられていました。
当時のニクソン大統領は、ベトナム戦争をめぐる非難をかわし、間近に控えた大統領選挙で大票田となる環境保護団体の支持を得るために「反捕鯨」を掲げました。「米政府はクジラを救うなど、環境保護に貢献している」と。現在でも、米国の選挙戦では「反捕鯨」が集票効果の高い政策アピールとして使われているといいます。
水産庁は84年、IWC決議への「異議申し立て」をしたことがあります。そのとき米国は「異議申し立てを行えば、制裁措置として日本の米200海里内での漁獲を全面禁止する」と恫喝しました。
漁獲割当を”人質”に取られた日本は「魚を取るか、クジラを取るか」の二者択一を迫られ、異議申し立てを撤回しました。しかし、結局、数年後には米200海里内の漁獲割当をゼロにされてしまいました。
その後、日米政府間で行われた捕鯨協議の末、まさしく政治力の違いだけによって、日本の南極海捕鯨は87年3月限りで、沿岸捕鯨は88年3月限りで撤退を余儀なくされました。
世界には多様な食糧生産手段がありますが、捕鯨だけがやり玉に挙げられている背景には「反捕鯨」を掲げる国の政治的思惑が大きく働いているということは、もはら通説となっています。
その反面、商業捕鯨の再開を悲願とする産業、食文化の担い手が多く存在することや、その意見はあまり知られていません。5月に下関で開かれるIWC総会が、この現状を覆すための”転機”となることがもとめられています。

捕鯨国だった米国
1853年、黒船が三浦半島の浦賀に開国を迫って来航しました。目的は米国捕鯨船団の補給基地として日本を活用しようというものでした。意外と知られていない事実です。
当時、米国の捕鯨船団は、日本近海にまで足を伸ばしていました。基地はハワイでした。今でこそ観光のメッカとなっていますが、ハワイは捕鯨基地だったのです。これもあまり知られていない事実です。鯨油の工場が建ち並び、油臭い島だったといいます。
欧米人はクジラ肉を下等なものとして食さず、もっぱら鯨油にしていました。街灯の燃料などとして使っていたのです。ヒゲは傘の骨にしていました。
船団は、長期航海となる日本近海での操業に際し、水や食料などを補給する必要に迫られていました。捕鯨業界は政治力があり、米国政府に黒船(軍艦)による圧力を迫ったのです。
捕鯨反対の世界的な潮流を作った米国は、立派な捕鯨国だったわけです。電気の発達で鯨油が必要でなくなったために、捕鯨から撤退しただけのことです。伝統的にクジラ肉を食する、日本からすると、何とも理不尽な話です。
(2002年4月1日付「週間水産新聞」)
(2002年4月3日)



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