魚菜王国いわて

デイヴィッド・ボウツ著、副島隆彦訳「リバータリアニズム入門」

最初にホームレスのことを少し。
都会へ行くほどいるホームレスですが、テレビという情報伝達媒体がなかったら、私などは、ホームレスの存在すら知らなかったかもしれません。
いや、その前に、テレビがなかったらば、あるいは、都会のサクセスストーリーという幻想が誇大に宣伝されなかったならば、日本の場合、ホームレスも発生しなかったかもしれません。
私はホームレスのことなんて全く知りませんし、別に知ろうとも思いません。
ただ、およそこんな具合にホームレスができたんだろうな、とは想像しますけども。
理想の生活を夢見すぎて挫折したり、運悪く不況の波に呑み込まれて借金だらけになったり(これとて等身大の自分を見ずに、目は上ばかり向き、夢をみていたんでしょうね)したんだろうな、って思ったりします。
本当に仕事をして再び社会復帰したいのなら、仕事を選ばずにがむしゃら働いてみたら?と思うのですが、私が、実際に、乗組員のなり手を捜しにホームレスに声を掛けたらどうなるのでしょう?
する気はないのですが、このことを複数の人に言ったら、「漁師になるくらいだったら、とっくの昔に職に就いているよ」ですって!
何と失礼な!
漁師ってそんなにひどい職業なんでしょうか?
まあ、聞き上手に聞くなら、「それほどやる気をなくしているんだろう」ってことにしておきます。

で、今日、突然ホームレスのことを書こう、と思い立った動機を書きます。
それは、デイヴィッド・ボウツ著、副島隆彦訳「リバータリアニズム入門」という本を読んでいたら、関連することが書かれていたので、つい思いつきました。

副島本の買い置きしておいたもので、これがなかなかのいい本なのです。
リバータリアニズムに限定しなくても、皆さんにオススメです。
当然に、リバータリアニズムのことを知りたい人には必携でしょう。
この本も復刻版であり、副島事務所でしか販売していません。
ほしい方はそちらへアクセスしてください。

最初に、「第7章 市民社会」の「慈善活動と相互扶助から福祉国家へ」から少し引用します。

チャールズ・マーレイが書いている「政府が地域共同体の中心的機能を肩代わりして勝手に奪い取ると、その役割を維持するための人々の活力の源泉を奪ってしまうだけでなく、もっと大きな社会参加の活力をも奪ってしまう。そして、やがて『政府や地方政府に何でもやらせておけばいい』という態度が習慣になってしまうのだ」。『幸福と優れた政府の追及』という著作のなかで、チャールズ・マーレイは、政府への依存心が、実際には人々の自発的行動の代用品の役目を果たしてしまっていることのいつかの症例を報告している。
(「リバータリアニズム入門」p233)

この本の中心的な主題が、この引用文に書かれており、それは、政府の積極的な行動すなわちケインズ主義的なもの、これはいわば、現在日本の政策そのものなんですが、手取り足取り政策が社会全体を無責任にしている、と批判し、本当の個人の権利とはどんなものか?政府とはどういうものか?ということを根本原理(何か宗教的で怖い感じがしますが、宗教ではありません)から説明しています。
ホームレスも、結局はケインズ主義政策が生んだもので、いわば犠牲者と言えるかもしれません。
たった一度の挫折で、そのままダンボール箱で生活し、それに甘んじる人もいる。
立ち直れないほどのタフさが、どうして市民社会になくなっているのかを問えば、そう考えざるを得ません。
政府の規制が、すべての自立心を奪い、依存心ばかり育てるようになっている。
「国が何かやってくれるはずだ」とか「市が何かやってくれるはずだ」とかよく聞くでしょう。
依存心の塊。
「くれるものは何でもほしい」。

ここでちょっと「エール」って言葉のことを書きます。
「エールを送る」とか耳にしますが、これ、実はもっと奥の深い言葉というか、尊厳があります。
先ほどの引用と同じ第7章の「慈善活動と相互扶助」から引用します。

歴史学者のジュディス・M・ベネットは、『過去と現在』誌の1992年2月号に中世から近代初期のイギリスで行われた「エール」について書いている。人々は集まって、酒を飲み、踊り、ゲームをし、そして、隣人を助けるために市価以上の代金を払ったという。たとえば、教会エールは、教区のための資金を集めるために、花嫁エールは、結婚を控えたカップルを援助するために、ヘルプ・エールは、困窮している仲間を助けるために行われた。ベネットは、「ふつうの人々が善行による自己の救済のためだけでなく、いかにして互いの面倒をみようとしていたか、を示す一つの例がエールである。またそれは、隣人や友人同士が危機や困難の時に、互いに助け合うための社会的組織であった」と書いている。
(以上、前掲書p223)
(かなり中略)
とりわけ慈善活動と相互扶助は、国家の肥大化によって、締め出されてしまった。ジュディス・ベネットは、「早くも13世紀に、教会と宮廷の役人が、民衆税金エールを禁じた」と書いている。
(以上、前掲書p230)

これを読んだら、ただ単に「エールを送る」なんて簡単に言えなくなりました。
この「エール」は、私たちの周りに身近に存在します。
たとえば冠婚葬祭のつけとどけなんて相互扶助の一つで、「エール」の一つでしょう。
「エール」というよりも、見栄でやる部分がかなりあるのでしょうけれど。

最後に、リバータリアンの主張、いや、ただ単純に頑張ろう!と考える人の主張を、端的に表す文章を引用して終わりにします。
同じ第7章の「人格の形成」からです。
ホームレスの皆さんに、そして、なるかもしれない人(特にケインズ主義を信じている人)に、このフラムの文章をよく噛みしめて読んでほしいです。

「死んだ正義」のなかで、評論家のデイヴィッド・フラムは次のように述べた。
若い時に自分がどんなに放蕩していても、どうせ政府が自分の老後と健康の面倒を見てくれるさ、と人々が考える時、どうして倹約などするだろうか。政府は自分の銀行預金を保証し、洪水にあったら家を建ててくれるし、植えるべき小麦の種もただでくれる。外国で戦争に巻き込まれても必ず助けにきてくれる。それなのにどうして節約などするのだ。まじめに働いたって怠け者にやるために給料の半分も税金でとられて、なぜ一生懸命働く気になどなるというのだ。たとえ麻薬にとりつかれても、それがおもしろくなくなったら、すぐに公立病院で治療してくれるのだから。正気でいるほうがずっと馬鹿らしい。
(前掲書p234)
(2003年7月26日)



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