魚菜王国いわて

「リバータリアニズム入門」の続き

この本の初版は、1998年であり、クリントン政権の時に書かれたようです。
クリントン以前の歴代政権の政策を例に出して説明しており、全部で11章からなります。

まずこのリバータリアニズムの根本になるものは、権利から発生しています。
第1章の冒頭と第3章から続けて引用します。
少し長いですが、これ以上でもこれ以下でもないもので、非常に根源的です。
これを基準にさまざまな社会に対する主義が導かれますので、我慢して読んでください。

リバータリアニズムとは、「個々の人間が、他人にも自分と同等の権利があるのだということを認めることを大前提とする。そのうえで、自分の選択した生き方であれ、それを自分の人生を生きる権利として有する」という思想である。
(中略)
リバータリアンは、「各人の人生、自由そして所有財産に対する権利」つまり、「政府が作られる以前から、人々が生まれながらにして持っている権利」をその人のものだと主張する思想である。リバータリアンの考え方によれば、すべての人間関係は、自発的なものでなければならず、法律によって禁じられるべき唯一の行為は、他者に対して強制力を行使しようとすること、つまり殺人、レイプ、略奪、誘拐、詐欺などの行為である。
たいていの人間は習慣的にこの倫理規制を信じて生きている。リバータリアンは、この規則の適用は、不変、かつ明確に行われなければならないとする。つまり、この倫理規制は、個人の行為に対するのとまったく同じように、政府が行うあれこれの行為に対しても適用されるべきだとする。政府は個人の権利を守り、また、個人に対して違法な力を行使しようとする第三者から個人を守るためにこそ存在するのである。他人の権利を侵害してもいない人々に対して、もし政府が強制力を行使するのであれば、この政府自体が、権利の侵害者になる。つまり、検閲、徴兵、価格統制、財産の没収などの、私たちの私的なあるいは経済的生活に対する規制による干渉といった政府の一切の行為を、リバータイアンは糾弾する。
(以上、「リバータリアニズム入門」p19)

すべての人は、自分自身、自分の肉体、自分の精神を所有しているため、人には生きる権利がある。故に、不当に他人の生命を奪うこと、すなわち、人を殺すことは、人に起こりうる最大の権利の侵害である。
(中略)
他方、政治的に左翼にいる人たちは、「生きる権利」という言葉で、人間の生活に必要なもの、たとえば食べ物や衣服、保護施設、医寮、さらに一日八時間労働や年に二週間の休暇など、を得る基本的権利のことだ、と主張する。しかし生きる権利が、そのようなことを意味するのだとすれば、それは、ある人が別の人に対し、自分にものを与えるように強要する権利があることを意味することになる。それは権利の平等を侵害する。女性哲学者のジュディス・ヤルビス・トムソンは書いた。「もし私が死にいたる病気にかかり、助かる唯一の方法が、ヘンリー・フォンダの冷たい手で私の熱っぽい眉毛に触ってもらうことだとしても、それでも私にはヘンリー・フォンダの冷たい手で私の熱っぽい眉毛に触ってもらう権利はないのだ」。俳優のヘンリー・フォンダに触ってもらう権利がないのだから、ヘンリー・フォンダの家に同居したり、あるいは彼のお金で食べ物を買ってもらったりする権利など、とうていあり得ない。それは彼に、自分の世話をやくことを強要し、彼の同意なしに彼の働き分を他の人が取ってしまうことを意味する。そうではないのだ。生きる権利とは、それぞれの人には自分の人生を促進し、豊かにするために自ら行動を起こす権利があることを意味するのであって、決して、自分の必要を他の人に世話するよう強いることではない。
(以上、前掲書p114)

私たちの世界に、財物の希少性という特徴がなければ、私たちは財産権なるものを必要としなかっただろう。すなわち、もし私たちが水や空気のように、欲するだけすべてを私たちが無限にもっているから、モノの配分に関する理論など私たちは必要としなかっただろう。財物の希少性は私たちの世界の基本的特徴である。ここで気をつけていただきたいが、希少性は何も貧困とか基本的な生活手段の欠落とかを意味するわけではない。希少性(scarcity value)とは、人間が欲するものは本質的には無限なのだが、私たちはそれらすべてを満たすほどには十分な生産資源を持ってはいないのだ、ということを意味している。自分自身の肉体、生命、時間こそは希少性である。生活に最低限必要なもの以外の物質への欲望を超越した禁欲主義者たちでさえ、すべてのもののなかで最高に基本的な希少性に直面するが、それが、自分の肉体、生命、時間である。祈りに時間を捧げているあいだは、手仕事をしたり聖書を読んだり、十分な仕事をしたりすることはできない。たとえ私たちの社会がいかに豊かでも、あるいは私たちがいかに物質的金銭的なものに無関心であるとしても、私たちは常に自分で選択しなくてはならない。それは、生産資源を活用するのは誰なのか、を決めるシステムを私たちが必要としていることを意味する。
(以上、前掲書p117)

自分のした行為の責任を引き受ける人々の能力を認めること。それは権利のまさに本質である。このことは、それら諸権利を人が実行するに際して、その人が他人の権利を侵害しないという最低限の条件に従う限り、人は「無責任」でいられる権利を持つのである。
(以上、前掲書p152)

以上を読んでもらえば、リバータリアニズムの基本的な思想が理解できると思います。
途中で「権利の平等」という言葉が出てきましたが、この「平等」とは?の問いにも明確に答えています。
成果、あるいは結果の平等を求めることは、誰でも否定できるしょう。
だって絶対に無理ですもの。
この平等を、ただひたすら追求する人はかなり変です。
で、さらに機会の平等も否定しています。
これに関しては、本を読んでいただければ分かります。
長くなるので、ここでは書きません。

平等とは、権利の平等のことであって、成果、あるいは結果の平等では決してない。
その権利というのも、政府が決めるあるは法律が決める権利ではなく、生まれながらに人間の持っている権利、すなわち自己所有権から生まれる諸権利であるのは、以上の引用から分かると思います。
権利とは?平等とは?という基本的なことから、この本には書かれています。
それから派生していって、戦争反対、人種差別反対、フェミニズムへの賛同となるわけです。

私は、このサイトの中で、憲法第13条の幸福追求権を否定していますが、これは適当ではないです。
改めてそう感じます。そう感じさせる文章をこの本に見つけてしまいました。

私たちの幸福を増強するのは、私たちの生活、自由、そして財産を擁護し、私たちが自分なりのやり方で幸福を追求する自由を認める、市民社会に居住する機会そのものなのである。私たちの幸福は、クライスラー社の救済やテレビ映像規制のためのVチップ導入や、政府による職業訓練プログラムのような、私たちが本来もつ権利を制限することを、明らかに制限を受けているはずの政府に与えることではない。視野の狭い批評家たちは、この福祉のための一般条項を拡大解釈しようとする。憲法前文の作成者たちは「全般にわたる福祉」という言葉によって、政府はいかなる特定の人や集団のためではなく、すべての人の利益のために行動しなければならないことを明らかにしたのだ、と。しかし今日、議会がやっていることといえば、すべて特定の人たちからカネを巻き上げて、別の特定の人々にそれを与えることなのである。
(以上、前掲書p202)

以上のことを読んでも「なるほど」と思えるものが出てくると思いますし、「入門」とあるからには分かりやすいはずです。
しっかり学校で学んだ方(そういう人はまずいないと思います)や自ら進んで勉強した方には不要?ですが、私のような半端知識の人間には各社会知識の基礎になるような本です。
ぜひ一読を!
(2003年7月30日)



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