魚菜王国いわて

年金制度のあるべき姿

「中央公論」2004年4月号に、榊原英資氏が書いた「日本型国家社会主義『年金・郵貯』を清算せよ」との題名で寄稿した論文があります。
内容は、それらの資金の金融機能と財政機能の両方から検証し、国家予算を緊縮している割に、これらの資金運用の面からみれば、逆にビッグガヴァメント化している、と指摘しています。
私は、ここで、年金のみを取り上げます。
ちょっとわかりにくいとは思いますが、少し長く引用します。

実は、日本の社会保険制度の最大の問題点は、その民間保険的金融機能(個々人のリスクに応じて計算された保険料を払い、その積立金を基礎に事故や満期の時に保険金を受けとる金融商品としての性格)と、所得を再分配するという財政的機能が明確に分離されていないことなのである。多くの国民は、社会保険の民間保険的金融機能に注目させられ、払い込んだ保険料は民間保険の場合と同様、ある意味で自分の持ち分と錯覚させられている。たとえば年金の場合、日本の制度は、修正積立方式と呼ばれているが、これは金融と財政という視点からすると、その双方の色彩をもっているものだ。日本以外の先進国のほとんどは賦課方式といって純粋に財政的な仕組みで、保険料は事実上の税金として現役世代から徴収され(たとえば、米国では社会保障税と呼ばれている)、それが退職世代に保険金として支払われている。これは、まさに世代間所得再分配で、政府の財政機能そのものである。しかし、日本の場合、厚生年金・国民年金・共済年金を合計すると190兆円を越す積立金が存在し、それをさまざまなかたちで運用するという業務を国が行っている。しかし、積立金は積み立てた被保険者の将来の保険金をカバーするほど大きなものではなく(厚生年金で1999年度ベースで積立金不足は530兆円)、徴収される保険料の大部分は現在の年金の給付に充てられている。つまり修正賦課方式といっても、事実上、賦課方式に近いものになっているのだ。
(「中央公論」2004年4月号p63)

榊原氏は結論として、年金は金融機能をすべてなくし、賦課方式、つまり、完全に同時代の世代間で、年金の収支をはかるべきだとしています。
その背景には金融機能面、つまり運用面での業績に見込みのないことがあげられ、過去の財政投融資資金運用部の杜撰な運用をみても、彼のいうことは正解だと思います。
また、最近では、厚生省の内部でも、この資金を流用して、変なものに使ったりした疑惑が持たれています。
これは、榊原氏の言うとおり、民間保険的金融機能と財政的機能が明確にされていないことから起こりうることではないでしょうか。
ここまで官僚を信用できないのは、恥ずかしいかぎりです。
彼らは恥ずかしくないんでしょうか。

この賦課方式というのは、実は、このサイトの基本的なテキスト部分である「政治」のページで、「公的年金制度について」(←ファイル消失)と題して、このことに触れています。
私は、年金の民間保険的金融機能を最初から考えてませんし、年金の運用なんて信用してませんでした。
例えば、以前の民間の年金(今はどうなっているのか知りません)では、途中で死んでも、元金は戻ってきたはずですが、国民年金は途中で死ねば、ほんの見舞金しか戻ってきません。
それゆえ、「本当は民間の年金は国民年金に比べればかなり有利だよ」と、生保の担当者は、コソっと教えてくれました。
この違いは何か?
途中で死んだ時に支払われない部分の国民年金の資金はどこへ消えるのか?
どうして、民間は、そういうことができたのか?
これらを考えると、この国民年金、いや厚生省がらみの資金というのは、まともな運用がなされていなかったではないかと、当時から思っています。
また、年金発足当時、保険料を払わなくても、最初の年金受給者は、小額ながら年金をもらったと聞きます。
ということは、年金制度はやはり、世代間で生活を補いあうという思想のもとで運営されるべきものだった。
それゆえ、賦課方式が、最も道理にかなったものだと言わざるをえません。

現在、国民年金を支払わない人が、かなりいるといいます。
このことは、高額受給者を抱える厚生年金よりも、年金運営上、深刻な問題らしく、国民年金と厚生年金を一緒にした場合、国民年金のほうが足を引っ張るとさえ言われています。
ここで、年金を、同時代の世代間の助け合いという位置づけを浸透させ、全面的に年金は財政機能のみとし、不足分は、国の税財源から補填することを明記する。
それでもって信用度が増せば、きっと滞納者も支払うようになるでしょう(と書いておきますが、若い人たちは本当のところ、どう考えているのでしょうか?)。
(2004年4月12日)



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