魚菜王国いわて

生物界の掟(人口と資源-2)

自然淘汰の世界は厳しい
漁師のつぶやき」にある「セルフィッシュ・ジーン」を読むと、あらゆる細胞は、常に自身を常にコピーし増殖していくように、プログラムされている、というのがわかります。
常に自己増殖しようとするのが、生命の本質。。
セルフィッシュ・ジーンの戦略で、人間は、最初からSexを好きになるように、(肉体的にも精神的にも)快感を伴わせてあるのです。
例外を除いて、まず、男も女もSexをして、自分のコピーを増やしたい。

ここで、法律に縛られず(つまり、一夫一妻という制約を考えないで)、チンパンジー社会のような乱婚制、つまり、好きな人と好きなだけ、しかも誰とでも構わずSexをし、自分のコピーを増やしていく、という条件で考えます。
この場合、男と女では、戦略がかなり違ってきます。
男が自分のコピーを増やすには、ただただ複数の女との間で、Sexの回数を増やせさえすればいい。
ところが、女の場合、子供を生む数が限られていて、しかも一人前に育てなければ自分のコピーは増やせません。
ましてや出産は命がけ。
しかも子育てには、経済的な状況もからんできます。
ということは、“いい男”を選んでSexし、できた自分のコピーを確実に育てる、という戦略に出るしかないのです。
“いい男”の条件として、カッコよく、頭もよく、経済的にも金持ち。
「コピーを増やすだけなら、“カッコいい”は条件にならないじゃないか!」と、お叱りを受けそうですが、竹内久美子先生の著書を読んだ方は、すでにご存知です。
「カッコいい」男というのは、すでに遺伝子的に優れているのです。
まあ、そんなわけで、女は常に男を選び、逆に言えば、男は選ばれる立場でしかないのです。

女にとって、子のことを考えれば、どうしてもいい遺伝子がほしい。
となると、結果、一夫多妻制へ移行します。
経済的にも恵まれている“いい男”なら、ハレムを形成し、“いい男”の遺伝子は、代々遺伝し保存される。
いわゆる男の淘汰が始まります。
何となく、男にとって残酷な話になりますが、人間以外の生物界では、すでに起こっていることなので、本当に残酷な話なのかどうか・・・・。

こう書くと、女性陣は、安心しているかもしれませんが、実は、女も大変です。
引用します。

ほとんどの動物ではメスに発情周期がある。メスは発情したことをオスに知らせる。発情のタイミングはメスごとにたいてい違っており、オスを巡ってメスどうしが争うということはほとんどない。オスとしては、メスの発情を見逃さないよう注意するだけでよいのである(もっともオスは、メスを獲得するためのオスどうしの闘争、獲得したメスを取られないための防衛といったものにエネルギーを注いでいる)。
ところが人間の場合、事情は一変してしまう。女は発情周期を失い、いわば発情しっ放しの状態になっているのだ。他の動物とは違い、ほぼいつでも受け入れ可能な生理状態にあるのである(それどころか女は、自分の排卵を自覚することさえできない)。
その結果、人間の一夫多妻社会ではどういうことが起きるのか―。男は何人、何十人(?)といる自分の妻のうち、今夜はさてどの女のところへ行こうかなと毎夜の選択を迫られるようになる。こうして女に対し、他の動物では考えられないような強い淘汰圧が働いてしまうのだ。厳しい淘汰圧にさらされる彼女たちは、女としてますます磨かれる(もちろん進化的に)。一夫一妻社会の女たちとは、まるで別の生き物であるかのように進化したとしても不思議はないのである。
(「賭博と国家と男と女」p136)

結局、男も女も、“いい男”と“いい女”にならなくちゃ、生き残れない、ということになります。
しかし、女の選択はいい男ばかりとは限りませんから、一夫一妻もたくさんできます。
いずれにしても、女が男を選ぶ、男は女に選ばれる、というのが、大原則です。
「男はやっぱり大変だぁ」と思われるかもしれませんが、日本では一夫一妻制ですから、モテない男の人はご安心を!

でも、これを裏返して考えると、現在生き残っている男と女は、何かしら魅力のある男を女が選んだ結果ですので、各人にそれなりの魅力を遺伝的にも持っているはずです。

慰めになったかなあ?

少子化は止まる?
日本のみならず、アメリカ以外の先進国では、人口が減りつつあります。
しかし、少子化を心配している方々は、安心なされ。
次の世代では、少子化は止まります。
現代社会では、女性があらゆる分野へ進出し、女性の生き方に多様性が生まれました。
子を産むよりも、自分のしたいことをする人、社会貢献の活動をする人、いろいろさまざまです。
これを遺伝的に考えます。

子をたくさん産みたい、つまり子沢山遺伝子は、順調に生き残ります。
一方、「子を産まなくてもいいや」という人の遺伝子は、当然、途絶えることになります。
これで、この世代では、人口が減ることになります。
が、次の世代には、子沢山遺伝子を持った人ばかり残りますから、その世代では、子供がたくさん生まれます。
ありゃ、大変!
これを代々考えれば、そんな遺伝子ばかりじゃ、人口が爆発してしまいます(簡単に書きましたが、本当はもっと複雑です「そんなバカな!」p181「出生率は低下しない」参照))。
実際には、子沢山遺伝子だって、全部が全部、引き継がれるわけではありません。
自分の兄弟姉妹を見ればわかるとおり、千差万別です。
さらに、その人の思考というものは、生後の環境的要因に左右されますから、遺伝子的要因だけでは、人口爆発は引き起こさないと思います。

一夫多妻制は人口問題を解決する
先ほどの引用にあるとおり、人間の女は、常に発情しっ放しですから、男にとって、「いつSexしたら、自分のコピーを作れるんだ?」ということになります。
これはこれは、コピーを作ろうという目的でいえば、深刻な問題となります。
大体はわかっていても、なにぶん難しい。
一夫一妻制でも、子沢山の人もいれば、恵まれない人もいます。
これが一夫多妻制になると、どうなるか。
一人の男が毎晩(?)相手を変えてSexするとなると、コピーを作る確率は、一夫一妻制に比較すればずっと落ちます。
天皇家の過去の例をちょっと引きます。

一人の男が何人もの女をキープしていると、一人だけの場合に比べ、どうしても女一人当たりの“交尾”回数が減る。妊娠の可能性が低下する。従って女一人当たりの子の数も減るし、正室が男子を産むチャンスも減るというわけだ。
(「賭博と国家と男と女」p133)

となると、女一人あたりの出産数は、一夫一妻制に比べると、一夫多妻制のほうが小さくなります。
しかも、ハレムの中に先ほどの子沢山遺伝子がいたとしても、“交尾”回数が減りますから、当然子供を作る確率は小さくなります。
結果、理論上、一夫多妻制は人口抑制効果が認められ、一夫一妻制は人口爆発を引き起こす可能性が大きいのです(イスラム世界は当初、一夫多妻制でしたが、さまざまな神学解釈がなされ、現在では、一夫一妻制が多いようです。そのため現在のイスラム世界では、人口が急増中なのかもしれません)。

福祉が人口抑制を邪魔する
今度は、動物、しかも人間に最も近いといわれるチンパンジーにちょっと視点を移します。
チンパンジー社会は乱婚制(つまりメスは、「来るもの拒まず」)で、男としては、自分のコピーを残すには非常に厳しい環境にあります。
しかし、発情期がわかっていますから、オスが誰であろうと、メスは確実に妊娠し子供を産みます。
人間のメスと比べて、チンパンジーのメス1頭が産む数は、はるかに多い。
なのに、チンパンジーの人口(個体数)の、爆発的増加はありません。
なぜでしょう?
はっきりいえば、チンパンジー(人間以外)には、「平等」とか「福祉」というものがないからです。

「同種同士の殺し合いをするのは人間だけだ」という言葉を聞いたことがあると思いますが、これはウソ。
「子殺しをするのは人間だけだ」というのも、真っ赤なウソ。
チンパンジー社会では、メスが移籍したりした場合などに子殺しが起こっていて、しかもその殺した子の肉まで食べるほどです。
チンパンジーに限らず、おサルさんの世界では、いろいろと争っています。

ハヌマンラングールというサルの世界では、ハレム社会を築かれていて、オス1頭が5〜10頭のメスを従えています。
当然あぶれたオスがいるわけで、あぶれオスの仲間は、常に、ハレムのリーダーの座を狙っています。
ハレムのリーダーが変わるとどうなるか?
ここでも子殺しが起きます。
子ザルは皆殺し。
なぜか?
メスは、子の授乳中には、発情しないからです。
発情しなくては、Sexできない。
ということは、自分のコピーを増やすことができないのです。
これはオスにとって、大問題。
そこでメスが発情するようにするため、子殺しをします。
自分の子を殺されたメスは、早い場合、3日もたたないうちに、わが子を殺したオスに尻を向け、発情したことを知らせます。
「何とまあ」と思う人もいるかもしれませんが、これは、メスにとっても、自分のコピーを増やすための行動なのです(子殺しについては「浮気人類進化論」第3章「きびしい社会」参照)。

すごい淘汰圧ですね。
「福祉」の「ふ」の字もありません。
ここで、「セルフィッシュ・ジーン」を世に知らしめたR・ドーキンスの記述を、引用します。

子をたくさん産みすぎる個体が不利をこうむるのは、個体群全体がそのために絶滅してしまうからではなく端的に彼らの子のうち生き残れるものの数が少ないからなのである。過剰な数の子供を産ませるのにあずかる遺伝子群は、これらをかかえた子供たちがほとんど成熟しえないため、次代に多数伝達されることがないというわけである。しかし、現代の文明人の間では、家族の大きさが、個々の親たちが調達しうる限られた諸資源によってはもはや制限されないという事態が生じている。ある夫婦が自分たちで養い切れる以上の子供を作ったとすると、国家、つまりその個体群のうち当の夫婦以外の部分が断固介入して、過剰な分の子供たちを健康に生存させようとするのである。物質的資源を一切持たぬ夫婦が、多数の子を女性の生理限界まで産み育てようとしても、実際のところこれを阻止する手段はないのだ。しかしそもそも福祉国家というものはきわめて不自然なしろものである。自然状態では、養い切れる数以上の子をかかえた親は孫をたくさん持つことができず、したがって彼らの遺伝子が将来の世代に引き継がれることはない。自然界には福祉国家など存在しないので、産子数に対して利他的な自制を加える必要などないのである。自制を知らぬ放縦をもたらす遺伝子は、すべてただちに罰を受ける。その遺伝子を内臓した子供たちは飢えてしまうからである。われわれ人間は、過剰な人数をかかえた家族の子供らを餓死するにまかせるような昔の利己的な流儀にたち帰りたいとは望まない。だからこそわれわれは、家族を経済的な自給自足単位とすることを廃止して、その代わりに国家を経済単位にしたのである。しかし、子供に対する生活保障の特権は決して濫用されるべきものではないのである」
(「そんなバカな!」p185)

「愛があれば何でもできる」とかいうセンチメンタルなセリフは、R・ドーキンスや竹内久美子さんたちのような、社会生物学に関わっている人たちには、鼻で笑われます。
そして、「君は子供作れる環境にあるのか?」とズケズケ言われかねません。
うかうかSexもできませんね(笑)。

さきほど、人間以外の動物の子殺しを紹介しましたが、人間の子殺しは、生物界の掟に反しています。
決して同じにしてはなりません。
人間の子殺しは、自分の子供を親が殺しています。
これは、自分の遺伝子のコピーを残し、自己増殖しようという生命の本質を否定しています。
このような親たちには、子供を作る資格などなく、子供を作るためにSexに快感を与えたというセルフィッシュ・ジーンの策略を悪用していると言えます。
この罰は重い。
懲役刑などでは軽すぎる。
男は去勢すべきです(笑)。
女はどうしましょう?(笑)

神様は遺伝子に支配されている
セルフィッシュ・ジーン」でちょっとだけ「神」について触れていますが、引用した著書「そんなバカな!」には、利己的遺伝子(=セルフィッシュ・ジーン)は、自己複製のために、「神」というミームを作り利用したということが書かれています。

「われこそが神だ!」と主張する一神教の神様たちが、世界中になぜ複数いるのか。
この答えは、「神というミームを複数作っておけば、全部が一度に滅びないだろう。しかし、完璧に一神教にすれば、せっかく作った神というミーム自体が滅びてしまうかもしれない」という理由で、利己的遺伝子が選択したことにあります。
これなら、納得できます。
神様は意地悪ではなかった。
すべては利己的遺伝子の策略だったのです。

世界の神様」の中で、最も利己的遺伝子の謀略に従っているのは、イエス・キリストです。
パンと魚の奇蹟を起こし、信仰するもの全員の命を救おうとしていますから。
笑えるのは、何といってもギリシャ神話のゼウス。
どんどん浮気をして、たくさん自分の遺伝子を残すくせに、「人間どもは増えすぎて、食糧不足が起きてしまう」とし、トロイア戦争を起こしたりして、ゼウスはかなりいい加減な神様です。

順位制は常識
人間に最も近いといわれるチンパンジー社会の過酷さをちょっとだけ紹介しましたが、そのチンパンジーは順位社会を形成しています。
ニホンザルの世界にも、ボスザルがいるのは小学生でも知っています。
自然界に順位制があるのは、常識なのです。

動物に順位という概念が発見されたのは、ニワトリが最初である。ノルウェーのT・シェルデラップ=エッベという人が1910年代に見つけた。
(「賭博と国家と男と女」p73)

ニワトリの世界でも、いろいろと争って順位が決まることはわかっています。
なぜか、一番最初に決まった順位が覆されることがないのだそうです。
ニワトリだって、成長しますし、衰えたりします。
それなら、実力のあるものが、高順位になってもおかしくない。
不思議ですよね。
その後、ニワトリの順位制に対する研究は次々と引き継がれ、なぜ順位制を維持するのか、という疑問の答えが見つかりました。
A・M・グールの研究では、メンドリ7羽を用い、メンバーチェンジを強制的に行う群れと、メンバーチェンジを行わない群れ、個室にいるメンドリとを、餌の消費量、体重、産卵数で比較しました。
結果は、メンバーチェンジを行った群れが、すべてにおいて劣った数字が出ています。
メンバーチェンジを行うということは、その都度、順位決定戦が行われるわけで、結果から、そのストレスの大きいことがわかります。

もし、低順位にいるせいで餓死寸前という状態に追い込まれたなら、そのときにはメンドリは下克上を考えるだろう。何しろ死んで元々である。彼女は命がけで上位の者に立ち向かっていく。あるいは群れを離れ、“離れメンドリ”となって生きていこうとするかもしれない。しかし、現実にそういうことがあまり起きないのは、低順位でいることがそれほど不利なことではないからである。それよりも群れを離れて暮らす危険、順位をひっくり返すためのエネルギーの方がよほど重大なことなのだ。
(前掲書p79)

平等主義者たちは、このような順位制を認めるかどうかはわかりませんが、とにかく人間以外の社会では、順位を決めていることが普通なわけです。
確かに「平等」の主張もわかりますが、何事も行き過ぎれば良いことはなく、「平等」の主張のし過ぎも同様です。
比較優位の判断もやはり順位制をともないます。

順位制は一見不公平なもののように思えるが、実は案外そうでもないのである。“貧富の差”は確かに存在する。けれども皆が皆、それなりに幸福を追求することは可能である。動物の集団を広く眺めてみると、よほどの血縁集団が単なる無名な群れでない限り、たいていは順位制社会を作っている。序列を決めないことの不利益、能率の悪さの方がはるかに深刻だからである。
(中略)
顔を覚えたり、個体を識別する能力を持つ動物が集まると、そこには自ずと順位が出来上がる。順位制の持つ意味は、無駄な争いを避けるということにあるが、争いは暴力的なものとは限らない。たとえば相手が譲ってくれるまでじっと待つというハト派的な争い。こういう争ではケガはしなくても時間が無駄になる。順位を決めていればそういう無駄もないというわけである。
順位制は争いによる結果ではない。支配の論理でもない。そこにあるのは、実のところせめぎあう利己的遺伝子(セルフィッシュ・ジーン)の損得勘定だけなのだ。順位制とは、それぞれがそれぞれの利己心を追求するための出発点であると見るべきであろう。
(前掲書p79)

熟練した仕事場では「比較優位の原則」にしたがって、各自に仕事を割り振ります。
おのおの能力は違いますから、さまざまな分野で得意な仕事というものがあります。
また、何をやってもできる人、逆にできない人。
いくら何でもできるといっても、1人で何でもできるわけではありません。
そこで、それぞれを比較し、より効率的に仕事ができるように、人を割り振ります(これが比較優位)。
したがって、比較する時点で、すでに順位が決めてしまっている。
このように活きている現場では、他の動物と同じように、実は人間も順位制に従っているのです。
これをいちいち「平等じゃない」という人はいませんよね。
順位制は、口に出さないだけで、本当はみんなが自然に認め合っているのです。
(2006年2月18日)

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