魚菜王国いわて

自由と平等の勘違い(人口と資源-3)

フランスで起きた暴動
昨年、フランスで暴動が繰り返されました。
最近報道されないので、以下のリンクを参考にしてください。

フランスの暴動 ―欧州の移民社会とフランスのジレンマ―」(「JIIA -日本国際問題研究所-」)

この出来事は、移民にしてみれば、フランスへ行けばみな平等に暮らせる、という錯覚があったからだと思います。
なにしろ、フランス人権宣言に代表されるように、自由と平等の両立をしようとする国ですから。
しかし、そんなものは、幻想にすぎません。
移民たちは、自由に移民できる国には、「自由と平等」がきっと“保障”されていると、勘違いしているのです。

「自由」と「平等」
ここで、フランス人権宣言の「人は生まれながらにして自由かつ平等の権利をもっている。」の「自由」と「平等」を別個に考えてみます。
「自由」は、自立して初めて獲得できる権利なのです(詳しくは「漁師のつぶやき」参照)。
しかし、自立というのも、なかなか難しい。
大人になって自立したと思っても、部分的な自由しか得られず、ということは、完璧な自由などどこにもありません。
ましてや「平等」は、「自由」よりもっと厄介だ。
人間以外の生物界には、福祉や平等といったものがないから、個体が自立し、死ぬも生きるも誰のせいにもできません。
だから、それらは自由に暮らしていると言っていいと思います。
ところが、人間社会は、福祉の濫用を社会全体でやっているため、子供にあると思われる「平等」という権利すら、生まれる前から親が勝手に放棄してしまっています。
生物界の掟」のR・ドーキンスの記述からちょっと考えてみます。

ある夫婦が自分たちで養い切れる以上の子供を作ったとすると、国家、つまりその個体群のうち当の夫婦以外の部分が断固介入して、過剰な分の子供たちを健康に生存させようとするのである。
(「そんなバカな!」p185)

冷たいと思われるかもしれない文章ですが、これなど、親の養えない子供は、生まれてくる時点で、すでに平等の権利など持っていないことを暗に示しています。
親が子育ての義務を果たすことができない、つまり義務を放棄しているから、その子供の平等の権利というのは認めらない。
R・ドーキンスは、自然の法則を言っているのですから、そういうことになります。

そして、神様の世界でさえも、ユダヤ教はイスラエル人の肩を持ち、キリスト教やイスラム教は信じる者のだけの肩をもっています。
神様でさえ、私たちを平等には扱っていません。

「差別」という言葉に惑わされる
「差別」という言葉があります。
これは、相手を罵倒する場合にもよく使われます。
「それは差別だ!」とか「差別するな!」とか、普通の人が言われると、思わずたじろいでしまいますし、周りで聞いている人も、「差別」と口に出した人に肩を持ってしまいます。
しかし、「生物界の掟」で書いたように、実際には順位制というのがあり、それでうまくやっています。
人間も比較優位という判断を用いて、社会の中で生きています。
これを「差別だ!」と勘違いするバカ者もいて、これはホント、困ったというしかありません。
このような人は、現実を理解しない平等主義者に多いようです。
よく考えてもらいたいです。

そもそも「平等の権利」というものがあるのでしょうか。
このヒントは、「漁師のつぶやき」で紹介した「リバータリアニズム入門」という本に書いてあります(「『リバータリアニズム入門』の続き」を参照してわかるかもしれない)。
そこには、それぞれが、権利を有することこそ、「平等」なのであって、その権利の行使するかしないか、あるいは行使できるかできないかは、おのおのの能力にかかっている、とふうに書いてあります。
普通に考えてみても、「平等」という言葉を、完璧に信じている人はいないと思います。「権利の平等」はあっても「平等の権利」というのはない、と考えたほうがいいですね。
最初からそう考えていれば、フランスの暴動なんてものは、起こりません。

「格差」と老後の平等
今国会をみれば、小泉首相に対して、今度は「格差」を追求しはじめました。
資本主義(自由主義)経済体制である日本で、「格差」があるのは、当たり前!
その穴埋めとして、税金を集め、それで所得再分配をしている。
首相答弁のとおり、それが正解。
あんなものをいちいち突付いているのは、時間がもったいないですよ。

「オギャー」と産声を出す以前から、親は子供の将来を考え、他の親と競争しているのです。
もうすでに、そこには、「平等」なんてものは存在しません。
R・ドーキンスが記述したとおり、子供が真っ当に勉強する環境を提供できないのは、親のせいであり、国のせいではない(この記述は誤解されかねませんが、親があまりにも国に頼りすぎているから、こう書いてちょうどいいと思います)。
人間も、生まれた時点で、すでに厳然たる競争社会にいるのです。

逆に老後(老後の基準ももっと上げるべき)になったら、その時こそ、公的社会制度(年金などの社会保障)において「平等」であるべきなのです。
「たださえ厳しい競争社会を卒業したんだから、あとは、みんなでうまくやっていこう」という気持ちを、今の国会議員たちは、なぜ持てないのでしょう。
自民党案の議員年金などは、まったく私たちをバカにしている。
国民年金受給年齢になったら、あんなもの受け取るべきではなく、私たちと同じ年金を受け取るべきだ。
この考えに基づけば、老後の年金額は、すべての国民は同じであるべきなのです。
成功した人は、それなりに蓄えがあるのだから、公的なものが平等であっても、成功しなかった人よりは、結構な生活ができます。

「老後であろうとも、人間も死ぬまで、競争するのだ」という意見があるかもしれません。
それならば、最初から年金制度などなくてもいいはずです。
これをはっきり示さないところに、政治家連中の悪意を見出すことができます。
この欲たかりのジジィどもめが!

競争社会では「格差」は当たり前。
老後社会こそ「平等」を。
(2006年2月19日)

トップへ