魚菜王国いわて

人口、移民、グローバリゼーション(抜粋)

ハーマン・E・ディリ

(以上省略)

多くの人々が将来の避けられない潮流と考えているグローバリゼーションは、しばしばインターナショナリゼーション(国際化)と混同さているが、実際にはこの二つはまったく異なる。国際化とは、国際貿易、国際関係、条約、同盟などの重要性の増大を意味する。国際とは、もちろん国々のあいだのことである。国々のあいだの関係がますます必要かつ重要になっている今日でも、基礎的な単位は国である。グローバリゼーションとは、おもに貿易と資本移動の自由化により、さらに移住の規制緩和または自由化により、多数の国民経済をひとつのグローバル経済に統合することを意味する。それは事実上、経済目的のための国境の抹消である。インターナショナルという語はインターリージョナル(地域間)に置き換えられる。

“integration”(統合)という語は、単一、完全、全体を意味する“integer”という語に由来する。統合とは一つの完全体に合体することである。完全体は一つしか存在しえないので、全世界的経済統合は論理的には国民経済の崩壊を意味する。諺にあるように、オムレツを作るには、いくつかの卵を割らなくてはならない。世界規模のオムレツを作り上げるには、国という卵を壊さなくてはならない。国民経済崩壊にともなうコストを計算することなしに、全世界的統合の利点ばかりを強調するのは誤っている。

(中略)

リカードとアダム・スミスの古典的な19世紀型ビジョンにおいては、国家共同体は国内労働者と国内資本の両方を擁する。両階級は協力して(紛争がつきものだったが)一国の財貨を生産し、次に国際市場において、他の諸国がそれぞれの国内の資本と労働力とをもって生産した財貨と競争した。これが前に定義した通りのいわゆる「国際化」であった。

しかし、21世紀のグローバル化された世界では、資本と財貨が国のあいだを自由に移動する。そして、資本、あるいは少なくとも通貨はほとんど何の労もなく、電子的に移転できる。しかし、、自由な資本移動は、財貨の自由貿易を擁護するリカードの比較優位論を完全に覆してしまう。なぜなら、比較優位論は資本(およびその他の生産要素)が国のあいだを移動しないことを明確に不可欠の前提としているからである。グローバル化された新しいシステムのもとでは、資本は生産コストがもっとも低い国に流れる、すなわち絶対的優位を追求する傾向がある。

(中略)

より深刻な問題として、もしグローバリゼーションが自由な移住を公然と奨励する政策をともなうとすれば、どうなるだろうか。自由貿易支持者の中にも、そのような政策の過激な世界主義(コスモポリタニズム)には疑問を抱く人々がいるかもしれない。おそらく彼らは、そうした政策が所得水準の大きく異なる世界の諸地域のあいだの大量移住を導き、立ち入り自由の「共有地の悲劇」を生み出すに違いないことを認識しているのだろう。送り出し国と受け入れ国の両方の社会が受ける歪みは甚大であろう。制限されない移住に直面したとき、国家共同体は最低賃金、福祉プログラム、医療保障、公立学校システムなどを、いかにして維持することができるだろうか。もし、市民がまったく自由に外国に移住できるなら、国家は自国の犯罪者や脱税者をどうやって罰することができるか。実際のところ、国家にとって、福祉プログラム、慈善病院、刑務所を運営するよりも、貧困者、病人、犯罪者の外国移住を奨励したほうがずっと安上がりなのではないか、と考える人もいよう(キューバのフィデル・カストロはまさにこれを実行し、1980年に刑務所を開放した。彼の政策は囚人とその他の人々の外国移住を促進し、これがアメリカへの「マリエリート」〔キューバ政府が許したフロリダへの亡命者・避難民〕の移住の波を導いた)。

加えて、これは合理的な疑問だが、もし市民の外国移住が自由なら、各国は自国民への教育投資の果実をいかにして確実に収穫できるだろうか。自由な外国移住と打ち続く「頭脳流失」に直面した国々は、国民への教育投資を続けるだろうか。もし膨大な移民の圧力が自国内の教育資源を続けるだろうか。海外に移住して本国に送金する若者は良い投資対象になりうるというとき、その国は自国の出生率を下げる努力を続けるだろうか。実際、この状況は出生率の上昇を導きかねない(もとより、海外移住が自由なら、その国は人口をコントロールすることができず、したがって出生抑制などという、やっかいな問題について議論する必要もないということになる)。

このような懐疑論は、世界共同体に対する国家主義的な反対のように聞こえるかもしれない。しかし、そうではない。主旨は、世界共同体という概念は「共同体の共同体」として捉えるべきだということである。すなわち、実際の共同体の歴史的ルーツを欠いたコスモポリタン的な世界政府ではなく、国家共同体の連合として考えるべきである。「国境なき世界」というのはセンチメンタルな歌のフレーズとしては心を打つが、共同体や政策は国境なしには存在しえない。

(以下省略)

(「WORLD・WATCH」2005年9/10月号p51)

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