魚菜王国いわて

国境の存在目的(人口と資源-4)

私たちは「どうして国という区別や境界が必要なんだろうか?」とよく考えるものです。
人それぞれで、人種の違い、民族の違い、宗教の違いや言葉の違い、などなど。

試しに「国家とは」で検索にかけると、さまざまな論がでてきますが、どれもありきたりの論で、あまりおもしろくなくというか、「そうかあ」というだけで、それほど納得する答えにはなっていません。

現在では、経済活動の自由化で、国境なんて必要ないんじゃないかなあ、と考えたりすることもみなさんあると思います。
「世界連邦」「地球連邦」、SF的になりますが、「地球連合軍」とか。
でも、でも、そんなもの幻想で、夢の見過ぎです。

グローバリゼーションが合言葉となった現在、財貨と資本の国家間の移動は自由ですが、労働力の移動は前者に比較して自由ではありません。
もし、これが完全に自由になったら?

制限されない移住に直面したとき、国家共同体は最低賃金、福祉プログラム、医療保障、公立学校システムなどを、いかにして維持することができるだろうか。もし、市民がまったく自由に外国に移住できるなら、国家は自国の犯罪者や脱税者をどうやって罰することができるか。
(「WORLD・WATCH」2005年9/10月号p53)

つまり、賃金の安い労働力が賃金の高い国へ移動した場合などを考えれば、最低賃金など維持できなくなります。
そうなると、高賃金をもらっていた人たちは、低賃金に甘んじるか、失業という事態になり、これらは、背後に控える福祉システムに大きな負荷をかけることにもなります。
最悪の場合、福祉は崩壊します。
したがって貧民層は拡大し、日本のような裕福な国ですら、スラムが各地に形成されるようになります。
自由と平等の勘違い」からは、フランスへ移民した人たちが勘違いをしていたことがわかります。
こんなことが頻繁に起こったら、いくら平等主義者や福祉主義者でも、たまったものではないでしょう。
当然、その国の政府にとってもよいものではなく、次に引く問題もでてきます。

もし市民の外国移住が自由なら、各国は自国民への教育投資の果実をいかにして確実に収穫できるだろうか。自由な外国移住と打ち続く「頭脳流失」に直面した国々は、国民への教育投資を続けるだろうか。
(前掲書p53)

こうなると末期的ですよね。
せっかく教育にカネをかけても、簡単に移住されたら、もう教育予算など要りません。
そんなわけで、国という枠組みを無視した、人々の自由移動は良い結果を生みません(労働力だけでなく、資本の自由移動も基本的には同じこと)。

右翼みたいな人たちは、国家を語るとき、日本民族がどうのこうのと民族主義を唱えますが、それは、左翼的な、平等主義、民主勢力を納得させることはできません。
ところが、あらゆるモノの国境なき自由移動を考えれば、国境や複数国家の必要性が見えてきます。
強者は国境があろうとなかろうと、生きていくことができます。
一方弱者にとって、完全な自由経済のもとで生き抜くことは難しく、スラム、ダンボール社会があちこちで形成されることになります。
弱者を救済するために、現在の福祉システムが絶対に必要であるとするならば、国境、国家は必要なのです。
これならば、平等主義者らも納得します。
そして、国家の役割を考えるならば、労働力の自由移動も否定すべきなのです(つまり、移民についても、厳しい条件を加えることは必須事項です)。

なお、今回のシリーズを書くにあたって、そのきっかけとなった論文の一部を紹介したいと思います(全文を読みたい場合は、買って読んでください)。
その論文からの引用をすでにしてありますが、読んでみても損はないと思います。
下記のリンクを参照ください。

人口、移民、グローバリゼーション

「WORLD・WATCH」2005年9/10月号は、人口問題特集を組んでいて、いろいろな視点から見た論文が掲載されてあります。
その中でも、この論文は優れたものだと思います。
もし移住が完全に自由であるならば、問題の人口増加国は人口抑制を気にしなくなるでしょう。
どんどん移住させればいいんですから。
一方、移民を受け入れる国は人口抑制が急務となり、もともといた国民に対し、中国みたいな“一人っ子政策”を実施せざるを得ません。
移民受入国が人口抑制策をとらない場合、さらなる世界人口は爆発的増加を遂げることになります。
この観点からもみても、この論文の重要さが認識されると思います。
(2006年2月20日)

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