百七十二の昼       (2003 7  21)     明日

 いつか あしたはなくなる。わたしはもうめざめない。
 

百七十一の昼       (2003 7  20)     育てる

 PTAの集まりに学校へいったら、深閑としている。どうやら 時間をまちがえたらしい。もうおわってしまってだれもいない。それではとどんぐりに行ってコーヒーとケーキを頼んだ。日曜の昼下がり つぎからつぎへお客さんがくる。驚いたことにそのほとんどが夫婦の客なのだ。そしてそのほとんどがケーキもオーダーしていた。ちょっとうらやましくなって早々に退散。

 それから市場に行って買い物をして、うちにつくともうかずみさんが帰っている。卵や茄子や胡瓜の収穫がテーブルのうえに山になっている。かずみさんが育てたみごとな茄子のよごし、茄子いため、胡瓜の梅酢揉み、豆鯵のから揚げ、和牛をさっと焼いたもの、湯がいたおくらと生若布のサラダ、それに枝豆、これが今夜のメニュー。

 刈谷先生のことを考えていた。きのう先生に罵倒されてはじめて、わたしは一歩踏み込んだ表現をしたのではないかということ。先生は昔演劇を目指したことがあって、自分の知っていることはみな教えてあげよう、(わたしの)成長を楽しみにしているとおっしゃったことなど・・・・

 臆病なわたしは大仰なひとり芝居になるのではという危惧から、少人数での語りの枠から踏み出せないでいた。壌さんに押し出され、刈谷先生に突き飛ばされてようやく舞台の上での語りはどう違うかわかり始めた気がする。いつかどなたかに語りの演出をお願いできたらと思う。自分ではどうしても見えないこともある。でもほんとうはやはり学校の教室で語るのが一番好きだ。

 夏から夏休みがとれそうなので遊びに行くとTELがあった。

 
百七十の昼       (2003 7  19)     ポルターガイスト

 朝 わか菜がキャンプに行くので送って行った。近くの神社にお参りして、それから刈谷先生のところへ回る。万全を期すため発声を15分して自信をつけてと思ったのだが、突然ここで語っていくように云われた。先生の前では初めてだし、出来上がっているものを今さらここでダメ出しされてもと不安だったが つつじの娘だけ語った。案の定さんざんだった。観客の目にものがたりが浮かぶようにするには、まったくもの足りないというのだ。

 刈谷先生のなにも付け足すなという意味がよくわからない。先日そういわれたので抑え目にすると叱られる。先生の模範演技はオペラ的なかなり誇張されたものだ。ひとり芝居といっていい。わたしが悩むのはまさにそのあたりで、なぜなら語りはひとり芝居ではないからだ。しかし舞台のうえで、学校の教室で語るように語ってもものがたりは見えないということもわかっている。

 どこが違うか、どこまでできるか、境界が悩ましいところなのだ。あくまでも聞き手に想像の余地を残す、ここがひとり芝居で自分の解釈を押し付けるのとは違うと思っている。「これではプロにはなれないよ、いつまでも二流のままだ」とほとんど罵倒されて先生のところを辞した。さすがに悔しくて階段から駐車場までおもいっきり大声でカタリカタリを歌いながら歩いた。先生の耳に届いたと思う。

 会場につくと仕込みの真っ最中、今日は時間がないので場当たり稽古もできなかった。照明さんに客席のライトをあまり落とさないように、スポットライトもつけないようにお願いする。聞き手の顔が見えないと語れない。モノローグだと見えなくてもまったくかまわないのだが。

 開演まで、まだ時間があったので駐車場の車のなかで発声のやり直し、今日はじめて自分の声が鼓膜を振動させ共鳴しているのを感じた。ひととおりさらって、衣装に着替えてもう出番だった。直前になるともう怖くない。集中が高まってきてピンと張り詰めている。澤田さんにうなづいて花道から緞帳前に進む。今日は幸手商業高校のPTAの貸切だがあいにく祭りと雨にたたられてか130くらいの入りのようだ。はじめに語りを聴いたことがある方は?と尋ねたら2人しかいなかった。語り甲斐があるというものだ。

 つつじの娘、はじまるとすぐ躰が震え出す。立ち続けていられるだろうかと思った。客席がよく見える。トークも交えて30分弱、あっという間だった。
おわりの挨拶で、PTAの会長さんが「語りというものをはじめて聴いたが、目をつむって聴いていると一瞬のうちに違う人物になって目の前に情景が浮かんでくる、とても不思議な感じがした.....」と云われた。澤田さんもよかったよといってくださったし、埼芸の河村さんも終演後、楽屋に見えて顔を見るなり「よくなったじゃないか!」と云ってくださったのでうれしかった。辛口のレイコさんは芦刈の歌をもうすこし声を張ってほしかったといってくれた。歌は自分の作曲だし手探りでやっているので意見を云っていただいてほんとうによかった。

 久喜座の芝居のほうは台詞は2.3行飛ぶし、絶句が2箇所、照明も電圧が落ちて、ポルターガイスト状態だったので自分の出来をあまり喜べなかったが打ち上げは大層盛り上がった。新しい脚本がいつできるか聴いたら、今年は選挙が多く、澤田さんは選挙管理委員会の長なのでむつかしいということだった。それで11月の公演は高校生の文集いのち」をもとにした朗読劇や語りが候補のあがった。楽しみだ。

 終わったのでおあずけにしていたランドリーを見た。窪塚くんも小雪さんもよかった。
 かずみさんfが2万円くれた。財布はすっからぴんだったからうれしい。今日はなんていい日!!


百六十九の昼       (2003 7  18)    明日

 いよいよ本番.....


百六十八の昼       (2003 7  17)    オーガンジー

 舞台とかの直前はたいがいそうなのだが、なんとなくなにも手につかない。からだとこころがふわふわしてしっかり繋がっていない感じ。
 公募していた市民企画事業でおはなしdingdongの語りの企画が5件のうち2件採用された、庄司さんにTELして相談した。
 ニコールキッドマンOthersを見た。
夜、久喜座の練習、座員の前で演目を語る。観客のまえより緊張する。

伊勢丹のクレアランス、オーガンジーのジャケットを買ってしまった。それにしても客の入りがすくないように思えた。

 夏からアイスクリ−ムのお中元がきた。おとなになったなぁ.....と感慨深かった。一日のうちに24個のシューアイスは消えた。夏樹さんの作品をUPしようかと夏と相談した。夏は母親である夏樹さん、(わたしのレクイエムでは....ほんとうのペンネームは岩崎一樹という)の日記を読んでいたのだという。....今日もるかから愛してるよ....と云われた......と書いてあったそうな。わたしはそんなにあのひとに、愛してるって云ったりしたのだろうか。


百六十七の昼       (2003 7  16)    掃除

 朝、学校に行った。ほかに3人のおかあさんがみえた。こどもたちと雑巾をしぼり。机を寄せ、掃除をした。奇妙なことに子どもたちは自分の分担以外はなにもしようとはしない。ふつうの子がそうなのだ。拭く当番の子は机を寄せもせずおしゃべりしたりつくねんとしている。そうじなどどこ吹く風という子たちもいた。ベランダには10人くらい女子がたむろしている。他のクラスの子達がベランダづたいに入り込んでいるのだ。電線にならぶすずめのようだ。
 そうじが終わったあと中庭でわたしたち4人と他クラス2人帰る気にもなれず、6人がとにかくあきらめないで働きかけようと話し合った。

 刈谷先生のレッスン、終り間際に先生が「あなたは歌でも朗読でも余分なものを付け足そうとするところがある」といわれた。先生がおっしゃるのは余計な力を、感情を入れるなということなのだろう。曲は作曲家に任せて、この時代のこの歌を歌えばよい....ということだろうか。それは一見東京子ども図書館の語り手額縁論に近いように感じる。

 イタリア古典歌曲の歌唱を通して得た、理性によって抑制しつつ細い細いガケップチの道を辿るように忠実に楽譜を再現しようとする表現の醍醐味はわたし自身忘れがたい。ほうすけや絵のない絵本を語ったことはまだまだ半端ではあるが声楽で得たことを語りで試みたのかもしれない。

 わたしは刈谷先生のことばに翻弄されそうになる。だがどうしても納得できないものがあるのだ。その物語を作者の意図を忠実に再現しようとなぞるのではなくて、また自分の独創をのせようというのでもなくて、心を空にして委ねること。自然に自分のこころを通して語ること。霊感はあると思うのだ。けれどそれには十分な練習がもちろん必要だ。先生に看破されたようにわたしはやっつけ仕事ばっかりだ。「それでは大成しないよ,歌の方はわたしがプロ並に仕上げるけどね」....と最後のダメ出し、かなりめげた。

 7月全体会議  いい雰囲気だった。されど未収金が増加している、7月回収をめざす。


百六十六の昼       (2003 7  15)    青い花・荒れた教室

 このページの壁紙を新調した。青い花の写真を切り抜く、ピクセルを消しこむ作業は根気がいる。7種類のお花の切り抜きをして淡いブルーで半透明に色を塗って、何度も試したら朝の3時、枠線はどうやっても透明化されないのであきらめた。朝、さすがに不調であった。

 ゆうべ突然わか菜が授業参観と保護者会があるというので午後仕事のあと出かけた。コンピュータールームでの授業であったが、どうもおかしい。澱んだ雰囲気、一部の生徒はふらふら出歩いている。授業の終盤、コンピューターを切るように先生が指示しても、数人がアクセスをやめない。何度も何度も....先生は注意する。こどもたちが先生の指示をこれほど無視することは今まで見なかった。

 不審に思いながら集会室にいくと校長先生をはじめ先生方の表情が緊張している。話を聞くうちようやくわけがわかった。今や学校では先生が指揮権を喪っているらしい。一部の生徒の動きに一般の生徒も引きずられているというのだ。わたしは不覚にもまったくしらないでいたのだが、7/1に緊急のPTAの集まりがあり7月は終日オープン授業参観を行っているという。そういえばわか菜が学校に行きたくないとよくいうようになっていた。先生たちも子どもたちの変化に戸惑い為すすべなく自信を失っているように見える。子どもとコミュニケーションがとれていないのだ、言葉が力をなくしている。

 教室でクラス懇談の席上もっと深刻な事態がわかった。教室のそうじは先生とひとりの生徒だけでしているというのだ。おかあさんの視線がそうじグループの当番表に集まる。4つのグループがありなぜかひとりずつ役割分担がきっちり決まっている。ほうきが無いという理由でと掃除をさぼり、ほうきを新しくするとすぐに無くなるのだという。このクラスだけでなく学年全体がそうなのだという。いじめられているこどもさんも複数いるという。わたしはもはや先生にお任せしていればいいという状況ではない。家に帰ってこどもと話し合い、また有志だけでも朝、先生とともに校門でこどもたちに言葉かけや掃除をいっしょにしたほうがいいのではないかと発言した。2学期からそのような動きもあるらしい。活発な意見が出て、終わったのは5時だった。

 子どもたちに何かが起きている?じわじわ不安がひろがる。家に帰ってわか菜を堅く抱きしめ、「たいへんだったのね」と囁いたら、ぎゅっとしがみついてきて「おかあさん、たいへんだったの。学校へ行きたくない」と言った。わたしにできることはないだろうか。

百六十五の昼       (2003 7  14)    豚さんとワッフル

 おととい 娘が「おかあさん 料理うまいよね」といったのでそれからせっせと料理をしている。豚もおだてりゃ木に登るのである。朝、苅谷先生のレッスンに行った。聞き手がふたりいたので(わたしは観客がいると張り切るタイプなのだ)MAXでカタリカタリを歌ったら、先生はびっくりしたようだった。プロの片鱗が見えたと褒めてくださったので、すっかり気をよくして、そのまま幸手公民館に下見にいった。19日にここで語りをするのだ。声が通るか見せていただきたいと頼むと係りの方がわたしが聞いていますからと最後列にすわってくださったのでつつじの娘を語った。音響効果のいいホールで気持ちよく声が出る。聴いていた係りの方もおそうじのおばさんもとても喜んでくださって話し込んでしまった。わたしのまわりにはほめ上手が多い。このままいくとどんな高い木にでも登れていまいそう。

 それから仕事をすこししてやっぱり銀座ゼミに走る。イメージトレーニングで過去を遡り、2.3歳のころ住んでいた高砂小学校の校庭にいる。櫻の木の下はひんやりしている。小鳥がピチュ ピチュと囀っている。校舎のほうからこどもたちのざわめきが聞こえる。わたしはしゃがんで小石をならべている。するとむこうからだれかがちかずいてくる。用務員のおじいさんだ。わたしにほおずりする。おひげのあとがザラザラしている。懐かしさとなんともいえない切なさが押し寄せてきて涙があふれてくる。そうだ、そうだったんだ、おじいさんはわたしにおはなしをしてくれた。水のみ場が高くて手が届かないのでいつもだっこしてくれた。とても高いところから声がする。

 ことばではなくてこころで感じたことを語る。  わたしは長いこと忘れていたわたしをいとおしんでくれたおじいさんのことを思い出した。帰りに銀座ゼミの申し込みをした。そしてMotherleafで待望の紅茶とワッフル、櫻井先生と素敵な午後。


百六十四の昼       (2003 7  13)    さとうしお

 きのう 県立図書館のおはなし会で”とっつこう、ひっつこう”を話した。図書館ではお話会がおわったあとボランティアのわたしたちにお茶とお菓子をだしてくださる。きのうは麦茶とフィナンシェとハーゲンダッツのアイスクリーム。もうしわけなくて今度こそ旅行にいったらおみやげを買ってこようと思う。川越図書館が閉館になったので、パネルシアターのセットが三つもきていた。つかわせていただけるのはうれしいけれど、川越のひとたちはさびしい想いをしているだろう。

 夕べ土屋知事とピーチのことを検索したらあまり県政の私物化がひどいのでがっかりしてしまった。櫻の里とやらに1億5000万もかけたのなら図書館を残してくれればよかったのにと残念でならない。国を興すも県を興すも教育が一番大切だと思う。土屋知事は外遊やサッカースタジアムなどには熱心だった。県債も2兆円を超えた。これは国がりそなにつぎこんだ額をこえている。

 知事の任期は二期が限界、多選は禁止すべきなのではないかしら。前知事畑和も晩節を汚してしまった。権力と腐敗は背中合わせである。目の前にうちでの小槌がぶらさがっていれば使いたくなるは人情、よほど清廉潔白でなければ誘惑に対抗しがたいと思う。ピーチの最近の写真をよくよく見たら、あのころの華奢で繊細な面影はかけらもなくなっていた。知事の娘でなかったらあんなふうにはならないですんだだろうに。

 夜、アメリカ版リングを見た。日本の方が怖かったし哀しみがあったように感じた。おなかがすいたので。冷凍パイ皮を焼いてお砂糖をたっぷりかけ、シュガーパイ....ひとくち食べたら...!!砂糖と塩を間違えていた。


百六十三の昼       (2003 7  12)    つなぐ...

 物語の特性のひとつは「つなぐ」ことである。物語による情動体験が話者と聴き手をつなぎ、過去と現在、未来をもつなぎ、個人の体験を多数へとつなぎ、意識と無意識をつなぎ、さまざまな「つなぎ」をしてくれる......と河合隼雄は書いている。
 話者を語り手に置き換えると、わたしたち語り手がいかに大きな可能性をこの手に持っているか見えてきて、たじろぐ想いさえする。死と生をつなぎ、神とひとをもつなぐとさえいえるかもしれない。

 きのう ジュンク堂へ行った。ケルト関連の本を数冊見て、一冊求めた。ケルトは黄昏の一族、今は辺境の地に追いやられているけれど、夢みるひと、失われた美しきものを追うひと、夕空の果て、海の涯に自分が本来の自分でいられる王国があることを信じたいひとはみなケルトの末裔でもあるのだろう。


百六十二の昼       (2003 7  11)    桃子

 夜なべに三冊読んだ、澤田ふじ子の「討たれざる者」江國香織の「つめたいよるに」あと祥伝社のアンソロジー、アンソロジーはやはり粒揃いとはいえなかった。小池真理子は短編のツボを心得ているなぁと思った。つめたいよるに...はハードカバーでずいぶんまえに買ってデュークだけははっきり覚えている。夕べ読んだなかでも併載されている温かなお皿よりはつめたいよるにのほうがずっとよかった。”いつか、ずっと”は輪廻転生のはなし、草之丞もデュークもスイートラバーズも幽霊話だった。江國さんのものがたりは生と死がまじかにとなりあっていた幼年時代ととても近いところにあって惹かれるのだが、ほんのすこし甘すぎるようで、恥ずかしいようななつかしいような気がしてその後、新作は読んでいなかった。
 ところが、きのうは”桃子”に打たれた。デビュー作なのだろうか。少女と守りをまかされた修行僧の恋。とても奇妙な、けれどなるべくしてなって、そういう結末しかありえない結末だった。あまさはなかった。

 
百六十一の昼       (2003 7  10)   日々

 
 次男の学校の学年主任と担任の先生のお気持ちに感謝、申し訳なさでいっぱいだった。ほんとうに惣のことを案じてくださる気持ちが伝わってきてわたしをも気遣ってくださって涙がこぼれた。、わたしも彼が卒業できるようもっと力を尽くそうと思う。誰にたいしても、後悔はしないように、それは究極のところ、わたしの 己に甘い わたし自身への戒めである。

 支払い完了、給与振込み準備完了、融資残高確認。車両入れ替え資金準備OK。やはり自分自身と時代の波とのこれからが戦いだ。楽しみながら最善を尽くそう。

 アンソロジーと短編集ばかり4冊買った。今夜はPCはおしまい。

百六十の昼       (2003 7  9)     ランチ

 仲地さんをランチにさそってまるひろ寿司に行ったが満員なので、ほかで刺身定食をいただいた。コーヒー・フルーツ付き1000円だった。銀行でいおさんと会った。どうしてこんなにと思うくらいよく出会う。こんどは井尾さんとランチしよう。午後は仕事、給与の設定替えが全部すみ、京和組さんがエイトテックさんに支払ってくれて、足掛け2年かかったがこれで一件落着、ほっとする。その他懸案のことがひとつずつすんでいって積み木の箱のなかに積み木のひとつひとつをきっちりしまうことができたように気持ちがいい。会議のあと給与計算もすんだ。ファームバンキングにしなくてもよかったかもしれない。うちの場合ほとんどメリットはないようだ。

 ひるまえはASKの旧友にTELで召集をかける。12月に集まって3年振りの発表会をしようというのだ。連絡がついたひとはみな元気な声が聞けてうれしかった。中野さん、稲葉さん、新井さん、橋本さん、わたし、まだ連絡がつかない方は3人、先生もはいってくださるから、全員あつまればまた九つの物語。あすはジュンク堂、伊勢丹、須原屋をまわって必要な書籍を発注し用事をすませよう。

 杉原さんにTELをわすれないこと。関根さんにTEL、シャンソンの先生にTEL、橋本さんカラオケの約束。ケヴィンの美容院とわたしの美容院の予約。10日高校わっ明日だった!!、12日図書館でとっつこう、ひっつこうを語る・一柳で納涼会、13日は練習のあいまにわたしがちいさかったときに、つつじのむすめ、芦刈を語る。14日刈谷先生レッスン、15日全体会、16日杉戸土木事務所、会社案内、デジカメを決めて購入。常務の写真撮影。語りの関係のデータベースをつくること。ロールアップカーテンの取り付け。


百五十九の昼       (2003 7  8)   伝えたい想い

 第二火曜日ははトムの会とおはなしの森とシャンソンと連絡会がバッティング?している。それに公演前で久喜座の練習もありだからどこかに義理を欠くことになる。つかれていたし北野たけし監督の映画をビデオで見ていたので、トムの会の例会に終り間際に着いた。行ってよかった。甲斐さんがバンクーバーに二年行かれることになったのだ。わたしは甲斐さんの透明で優しくて芯のある佇まいがすきだった。この方が語られるようになったらどんなにいいだろうと思っていたのですこしがっかりした。

 けれども甲斐さんのご家族にとってはまたとないチャンスであろうし、かわりにトムの会に入会した太田小の杉山さんもすてきな方だった。櫻井先生の講座のことを紹介する。時間をいただいたのでわたしがちいさかったときに....を語らせていただいた。淡々と肩の力を抜いて語った。舞台の語りと少人数での語りは異なるものだ。舞台では聞き手の目が見えない。まったくべつのものとして考えないと本来の語りが大きく粗くなってしまう。ただうまくなればいいのではないことが身に沁みて痛感されるようになった。トムの会のメンバーはたしかに上手くなったけれど、これでいいのだろうかという危惧も感じる。伝えたいという、のっぴきならない想いで語るのと語りたいわたしがいて語る、つまり語ること自体が目的であるのは天地ほどの差がある。上手下手はそれにくらべればたいした問題ではない。若いおかあさんたちから語り手を育てたい。

 けれど、とどのつまりは市民芸術祭でやはり語ることになった。1300の椅子に向かってさて何をする!?
午後はひたすら仕事。7/19の衣装は決まる、問題は語りだ。


百五十八の昼       (2003 7  7)    とっつこうか

 今日も駅まで走った。なんでいつもこう走るのかなぁとおもいながら階段を駆け上がる。今日から銀座のゼミ、庄司さんはいつのまにか櫻井先生の声にひかれお人柄にひかれていっしょにゼミの見学をすることになった。はじめ先生の「とっつこうか、ひっつこうか」を聞いてあとひとりずつ語ってゆく。先生から示唆をいただいたり、他のひとのを聞くことでひとりひとりの語りがどんどん深くなってゆくことを実感、これが学びあうことかと思う。今日は語りに今まで縁がなかった方が多くてそのかたがたの響く声、響きあうこころがとても新鮮だった。

 このたびの企画をしているADOREの浅井さんは目元の愛くるしい生き生きした女性である。演劇に携わっていたという経歴を彷彿とさせる語りだった。受講生のひとりのSさんは日本語教師という仕事柄かひとつひとつのことばをじっくり吟味しているのがよくわかった。また「とっつこうかぁ〜〜ひっつこうかぁ〜〜」が実に魅力的で語りを10年、20年しているひともうかうかできないだろうな...と感じた。もちろんわたしも心が騒いだ。実はなにかおもしろい出会いがあるという予感がしてやってきたのだが的中という感じなのだ。
 
 銀座ゼミからちょっと目が離せないかもしれない。歌舞伎座のすぐ前、となりは紅茶専門の喫茶店MotherLeafでわたしはスコーンをいただいたが焼きたてのワッフルの香ばしい匂いも忘れられない。近いうちにまたいってしまいそうだ。櫻井先生はリサイタルのチケットをご自分のPCでつくって持ってみえた。薔薇の花がとても素敵だった。こういう先生の前向きでなににでも向かってゆくところがとても好きだ。わたしは70歳になってもあんな風にいられるかしら?と思う。語りにしたところでたとえあと30年続けても先生のようには語れない。浅井さんはわたしを評して味があるといった。そういえば味があるってこのごろほかでもいわれたようだ。風格とか味わいは努力すれば出せようが、品格は出せまいとしみじみ思ったことだった。今日はおはなしをふたつ語れるようになった。櫻井先生にお願いごとをして、グリーングリーンや勇気ひとつをともにしての作詞がわれらの片岡先生ひかるさまと知ってほんとうにうれしい実り多い一日だった。





 久喜に帰って6時、事務所、道場、ヨーカ堂を回って帰宅は9:00.



百五十八の昼       (2003 7  6)   どこへ

 姪がくることになっている。普通の生活をしている子だからあまり激しいカルチャーショックにあわせないように朝から大掃除をする。CDをかけると快調に作業は進む。わかなはバンプ、まりは6.70年代のI'm not in loveとか.....懐かしいというか切ない気分が押し寄せてくる。
 結局、姪はこないことになり、掃除は途中で自然消滅。3時頃、実家に行く弟夫婦二組と妹と母の誕生日を祝った。行く前からつかれてつかれて自分のからだではないようだった。

 わたしにとって表現は己がすることではないようだ。あったもの、あるべきもの 美しいもの、伝えなくてはならないものを 己を媒体として伝えることなのだ.。ミケランジェロのように叡智に導かれて?いいえ 導かれるというと主体はミケランジェロにある。なにしろ彼は天才だもの。わたしはほんの少し自分のなにかをつけたしてあとは自分のからだをお貸ししているだけに近い。つまり、わたし自身はそこにいなくなればなるほどよい。だが使われるということは物理的にはわたしの力の範囲ということになる。心向き、声量、技量、など今のわたしのMAXが表現の限界なのだ。つまりそれらを高めることがなにものかがわたしをつかいやすくなるということになり、ひいては表現を豊かにしてゆくことにつながるのだと思う。


百五十七の昼       (2003 7  5)   中野区立図書館

 朝、刈谷先生のところへ駆けつける。ドタバタ息せききってドアを開けたら先生に叱られた。平常心を持ってレッスンしなさいとおっしゃった。発声は掴んできたねとおことばがあった。カタリカタリは自分でもびっくりした。すこしばかりだけれどプロっぽくなってきたのだ。毎日でも練習に来たいが、次回は14日。

 庄司さんと11時の待ち合わせ、中野区立図書館のお話会に行く約束をしたのだ。駅に着くと11時2分前、「ヤバイ、間に合わないかも!!」と叫んだら庄司さんが目の前でわらっていた。1時間で中野に着いた。90分も時間があったので駅前の喫茶店で食事をする。ミックスサンドイッチとカフェラテがたいそう美味しかった。落ち着いた店内にいるのは女性客ばかり。いかにも一人暮らし風のお年寄りがボックスの隅で本を読んでいたりする。

 中野図書館の設備は....さすが東京。 地下には多目的ホール、キッズのためのストリートダンスだって、それに音楽用のスタジオが二部屋、ギャラリーまであった!!
 
 おはなしの部屋は寒河江の図書館よりは小さかったけどちゃんと階段状になっている。末吉さん 大間知さん 須山さん 研究セミナーの仲間もいた。あふれるばかりのこどもたちそしてあふれるばかりの語り手たち....どうやら中野図書館は語り手のメッカ・巡礼の地である。おはなしのろうそくに灯をつけて、末吉さんのあ「豆子と魔物」がかわいかった。須山さんの「わらの牛」がおもしろかった。おみやげの手遊びを持って帰る。庄司さんと語れてよかった。当面おはなしdingdongは庄司さんと二人三脚。語りをひろめるために、語り手を招く、さまざまな語りを紹介し、基礎的な講座を開くなどしてゆきたいと思っている。

 夜夕食のしたくをしたあと、久喜座の稽古場へ、人数がすくないので、洋子と夢乃と茂男をかけもち、楽しかった。


百五十六の昼       (2003 7  4)   束の間の光芒から.....

 昼頃、新しく作った会社概要を持って会社に行く。すぐ帰ろうとして結局そのまま食事もしないで夜8時まで仕事をしてしまった。仕事は実は芝居より語りよりおもしろい。運搬は確実に進化しつつある。あたらしい日報と会議が効を奏し、それぞれが数字に敏感になってきた。営業3人と話をする。仕事はコミュニケーションに尽きると思う。有機的に組織が生き生きと活動するために末端までの意思の伝達、また末端から中枢への外部内部からの刺激の伝達は不可欠である。得意先、仕入先についても実際に会話をする、そのなかで情報をキャッチしまたこちらの気持ちを有効にかつ友好的に伝えること、これは商売の要諦である。今日は何人のひとと話しをかわし、メールを送り手紙を書いたことだろう。何人の社員を誉め激励しまた注意を喚起しただろう。このような積み重ねは確実に数字を押し上げる。そしてそのことを知っている事実がわたしを勇気づけてくれる。

 それに反して芝居や語りはその結果を自分自身では聞くことも見ることもできないのだ。もちろん、テープやビデオはあるし、見たひと聞いたひとから感想をいただくことはあるけれど、プロと違って即数字に表れるということはない。いはば自己満足の世界である。ずうっと上昇し続けるという保証もない。いつかピークが訪れる、その後は下降するのみだ。はじめた頃のたぎる想いは技術はなくてもひとを惹きつけるものである。わざを身につけ徐々に円熟し、その後急速に磁力を失ってしまうひとの多いこと。

 文学者にしても若書きのみずみずしさはあり、歌手にデビュー時の鮮烈がある。絵画などは一度名を成してしまえば、マンネリも画風といえなくもないが、ピカソの変遷、ダ・ヴィンチの執念のように対象に迫る素描を見ると、変わらないことなどありえないと思うのだ。この違いは、大成する者とつかの間光芒を放って消えてゆくものの違いはどこにあるのだろう。

 わたしは語り手として果たして進化しているのだろうか。人間としてはどうだろう。こどものころのまっすぐなまなざしを失った以上のものを体得したのだろうか。魂に重さはほんのすこししかないという。とすればその価値基準はあたたかさ、透明さなのだろうか。わたしは胸をはってかって旅立ったところへ還れるのだろうか。果たして3年前の雪女からわたしはどう変わり得たのだろう。

 ひびきあういのちとことばに出たとき、わたしを打ちのめしたのは実はこのようなことだった。あのとき語りの神様は降りていらっしゃらなかった。わざでは格段に進歩した。けれどひとを感動させるのはそのようなものではない。身近な語り手のひとりが「語っているあいだわたし、ずっと震えていたの」と言ったそのことばに打ちのめされたのだ。あの日輝くばかりの震えるような語りがふたつあって、そのひとつは先生だったのだけれど、わたしは想いだけは誰にも負けたくなかった。

 奢っているように聞こえるだろうか。三年前、やはりわたしも震え続けていた。なにものかがわたしになにかを伝えさせようとしていた。負託をいただいてそれだからここまでこられたのだ。歌や仕事やDTPなどははたとえ50パーセントでも70パーセントのできでもそれなりの達成感やよろこびがあるのだけれど、語りはゼロかすべて、感動のない語り、みずみずしさのない語りをするくらいなら、抜け殻のような語りをするくらいなら、やめてしまうほうがいい。

 7月の舞台まであと2週間、それまで自分を高めつづけよう。1時間20分の芝居、そのまえの30分という時間をわたしひとりの語りに託してくれた澤田さんに答えるためにも。


百五十六の昼       (2003 7  3)  ダイエット

 朝、刈谷先生のレッスン、1回15分にして回数を増やそうとおっしゃった。先生にはほぼ同じ手間だけれど、わたしにとってはその方が身になる。ありがたいことである。声は出る。さほど聞き苦しくない程度になった。あなたの持ち味はスケールの大きさだから、声量を最低そのくらいは出しなさいとおっしゃった。スケールの大きさ?ただからだが大きいってこと??かしら。

 刈谷先生の教室は東武線の踏み切りのそばにある。新鮮な野菜と果物のお店が道路を隔てた向こう側にあってこのごろおじさんと顔なじみになった。すごい声だねと言われてしまった。ギョ...!!すいかとメロンと玉蜀黍を買ってそのままどんぐりへ行く。潰瘍なのだけど....というと深煎りした豆で薄めにいれてくれた。浅煎りより胃によいそうで聞かないとわからないものだ。古本屋で求め、車につんでいた皆川博子の”死の泉”と大島弓子のつるばらつるばら、ダイエットを持ち込み、わたしがちいさかったときにを胸に落とす。たぶんもうすぐ語れる。

 ダイエットを読む。両親の離婚から居場所を失い、喪失感を食物で体を満たすことで埋めていた福子、ある日友人にボーイフレンドができる。福子は過酷なダイエットで美しく変身しファンクラブまでできる。福子は友人のボーイフレンドの気持ちを確かめるため再び極度の肥満になる。安心した福子は再びダイエットをするが食べ物をからだが受け付けなくなり、病院に運ばれる。友人は気がつく。福子は実は友人とボーイフレンドを両親とみなしていたのだ。あの子はまだ5歳のままなの、わたしは福子を育てなおすことにする。手伝ってね。と友人はボーイフレンドに言う。福子は友人がつくってきてくれたクッキーを食べ物を美味しいと思って口にするのははじめてだわとつぶやきながらベッドのなかでかじるのだった。

 わたしは大島さんから綿の国星以来、見捨てられたような気がしていたが、実は大島弓子の世界はそのあと甘やかではないが滋味のあるホンモノへ結実したのだと今日はじめて思った。ほんとをいうとないてしまった。一樹さんの忘れ形見リョウも夏も摂食障害である。まりもその傾向があるかもしれない。わたしもかってそうだった。ひとは精妙な生き物である。食べ物だけではうまく生きられない。無償のなにかがひとを救いうるのだ。
大島弓子論の続編を書きたくなった。

 銀座ゼミについて問い合わせてみる。とうきょうはとおいけど、なにかがありそうな予感はする。わたしは頭で考える頭脳型ではない。超感覚派であるが第六感に裏切られることはそうはない。


百八の夜   (2003 7  2)  肉ジャガ バーゲン オーガンジー

  試験が終わったわか菜と約束とおりバーゲンに出かけた。はじめは新宿、原宿へと遠大な計画を立てていたのだが、結局疲れるから大宮 でいいと近場ですませることになった。はじめそごうに行ったがなにもみつからず、丸井に河岸をかえる。おゥ!!はいった途端ふたりとも色めきたった。片端からショップをのぞく。アズノーアズという店でマネキンが着ていた今年はやりのアシンメトリー異素材を重ねたひらひらした黒のスカートを見てふたりは顔を見合わせる 。

 コレだ!!いくつかトップをあわせてみてガーゼ素材のパステルのブラウスに決定、そのあとバッツというショップもおもしろかった。紗に蜘蛛の巣が刺繍してあるフリフリのベストとかどうやらわかなもわたしと同じくらいの趣味のレベルである。似ているのねといったら、そんなに似てないと気に入らない様子。わたしもオリーブグリーンのアシンメトリーレイヤードスカートを買う。素材は綿トレーヨンでかろやかなこと!!普通サイズ若い子向けのショップなので若干、いやかなりキツイが努力目標にしよう。

 実はこのごろ散財している....といってもバブルの頃は恥ずかしながら一日10万円洋服を買ったこともあった。、(当時、わたしは語りも知らなかったからストレスを買い物で紛らわすというありがちなパターンに嵌まっていたのだった)今はお金もないし4900円の薔薇色型押しプリ−ツのアンサンブル(結構きれいである)とか3500円の黒のレースのロングスカートで喜んでいるのだからかわいいものだ。まりに「おかあさん、趣味が変わったのね。こういうのを着るとは思わなかった」といわれてしまった。先週新宿に行ったとき、小田急の下の地下街が取り壊しになるらしく法外に安いバーゲンをしていたので飛びついたのだが、元値もさして高価なものではない。でも楽しんで着れば(着らられればだけど)いいと思う。

 7月の舞台のために緋色と薔薇色のオーガンジーを重ねたショールも実は買ってしまった。平安時代はもみじ重ねとか 微妙な色あいを重ねて美しさを競った。今年の流行も重ねることらしい。タンクトップを重ね着する勇気はないが薔薇色から艶のある紅色が透けて遠目にはつつじの花のように見えないかと期待をこめている。8月の発表会の衣装はどうしよう。オペラのアリアやカンツォーネを歌うのでみなさんお姫様のようなドレスなのだ。といってもお姫さまはちょっと無理、魔女ならなれるかもしれないけれど。
古い留袖でロングドレスをあつらえようとしたのだが間に合いそうもない。
あぁ 5キロやせれば 着られるドレスがいくつかあるのだけれど。


 マンマで軽い食事をして帰ったら、まりはなにもしていない。大慌てで夕食準備、いただい掘りたてのじゃがいもと玉ねぎで肉じゃが、かずみさんがとってきたうちの畑の茄子炒め、うちの鶏の産んでくれた卵のオムレツ、とろろ汁、漬物、サラダ、お味噌汁、30分である。料理は手早いが、片付けものは遅い。それにしても美味しかった。


百五十六の昼         (2003 7  2)  生まれる

 つつじの娘は息づきはじめた。そしてディアドラも目覚めようとしている。鼓動が聞こえる。運命に生き、愛に生き、殉じたデイアドラの吐息を感じる。とても3月まで待てはしない。

 比佐女のようにおとなしやかな女より、血潮たぎる女のほうが想いがこもる。わたしが比佐女だったらどうしただろう。比佐女は安穏な暮らしに未練があったのだろうか。直方の心を慮ったのだろうか。わたしだったら半身は車を降りて、直方を追いたかった。たとえ野垂れ死にをしても添い遂げたかった。直方も逃げた。愛のために?自らを棄てることで?あぁ、だから芦刈は客観的に語れるのだ。直方にも比佐女にも自己犠牲の曖昧さがある。
 わたしのディアドラは実に冷静で理知的である。彼女は運命を予見している。にもかかわらず敵地に赴かねばならぬ。滅びに向かって踏み出すしかない。しかし最後に自ら死を選ぶことでディアドラはさだめを覆し我が物とするのではないか。ディアドラはコノール王の元へ帰りウシュナハの三兄弟の命乞いさえできたのではないか。しかしディアドラにその選択肢はなかった。意思とみるか宿命とみるかで物語の解釈は大きく変わる。わたしはディアドラは宿命をなお我が意志で選択したのだと思いたい。運命に流された女ではない。自問自答しながら進んでゆく。そこに現代につながる共鳴しうるものがたりの余地がでてくると思う。

百五十五の昼         (2003 7  1)  花時計

 春日部プラザ、生協のカルチャーセンターに呼んでいただき語りをした。花時計というお店で山田さんたちと食事をしてプラザに行く。聞き手は2、30人白一点あとは女性だった。私バージョンのジャックと泥棒を最初にして、つつじの娘、芦刈  トークもまじえて40分くらい。終わったあとコーヒーとケーキをいただいておしゃべり。みなさん、語りがこのようなものとは思わなかったとおっしゃった。楽しんでいただけてよかった。いい聞き手とであい、いい語りをさせていただいたあとは、なんてしあわせなのだろう。きのうのからだの重さが嘘のようだ。清められた感じがする。かえりに和田さんのお庭を見せていただいた。ロベリアがまだみずみずしく咲いていた。種まきをずらしてこれが最後の花だという。ピンクの可憐なスプレーのミニ薔薇、名をバレリーナという。それから大銀流という観葉植物が美しかった。

 澤田さんから7月公演の前座の語り3つしてほしいとメールがあった。北公民館はすりばち状の客席150〜200人くらいのホールである。すりばち状だとなにかが降りやすいような気がする。なにか思うこと以上のことが起きそうな予感がする。そのために精進を重ねようときょうはしみじみと思ったことだった。junさんのメールの文字が木魂する。創ることは狂うこと。

 土木運搬合同会議ならびに連絡会、6月は信じがたいほど利益があった。

百五十四の昼         (2003 6 30)  六月尽く

 体調が芳しくない。地に引きずり込まれそうだ。


百五十三の昼         (2003 6 29)  プラネタリウム

 おはなしねっとウィングの総会に行く。講話をされた岸本先生は母の友人で長年国語教育に尽くされた方だ。お会いしたのははじめてだが、付け焼刃ではない誠実さ、にじみ出てくるやさしさ、人生観の深さにひきつけられた。
 先だっての文部省の改定で国語教育は根底から方針が変わったというのだ。それは理解より表現にまず力点を置くということで、国語教育を通して子どもたちが思ったことをひとに伝え、自分で決断し、ひいては生きる力を高めることをめざした壮大な試みなのだった。理解よりまず感動がたいせつだとは自明の理でそれでは今までの国語教育のあり方は語彙や漢字を知るようないはば知識を蓄積することに重きが置かれていたのだろうか。
 ともあれ岸本先生がおっしゃられたことは、語りをしながらわたしが感じてきたことと重なって、これからの子どもたちへの語りの可能性に目ざまされた思いがした。わたしは自分で語ることより、いつかそこから子どもたちにしろおとなにしろ聞き手が語り手になるような試みをしたい、そうすることで役立ちたいと思っている。岸本先生は現在の読み聞かせの全国的な実態も述べられたが、およそ半数の小学校で実施されているという、しかし語りについてはその資料では言及されず、包括されている可能性もないではないがさみしかった。

 終わってPTAの会食に走り、そのあとわかなとプラネタリウムに行って満天の星のなかに浮かんでいるうち眠ってしまった。チョコレートパフェをいただいて帰った。

百五十三の昼         (2003 6 28)  しるし

 夜明け前、junさんのことを考えていたらカキコミがあった。きのうは宇都宮線のなかで19歳で逝ったなおのことを思っていたら、朝叔父から電話があった。10時過ぎにはとのさんから9月の九州行きのことでTELがあり「るかちゃん、語ってくれないかい?」かっちゃんの声も聞けて九州行きは素敵なことになりそうだ。 ゆうべは粒よりのさくらんぼを贈ってくれたおとうとにお礼の電話をしたらちょっとたまらなくなるような返事がかえってきた。洋子さんが水野家の要なのだから、あなたはたくさんのひとのしあわせにかかわっているのだからからだをたいせつにしなくてはいけないみたいなことだ。わたしは弟がそんなふうに思っているとは知らなくて不意打ちを食ったみたいにつかの間黙してしまった。それでいもうとともうひとりのおとうとに話しをした。深いはなしができてそれから兄弟姉妹で7/6に母の誕生を祝う集まりをひらくことのなった。あたたかさもやさしさも波のように伝わってゆく。ゆるやかにおだやかに気遣いながら生きていきたい。

 それと同じように、とげとげしさも冷たさも伝播するのだと思う。語り手はしるしを持って生まれたのではないかしら。目には見えないけれど額に輝くしるしがあるのではないかと信じたい。愛と感謝と生と死とわたしたちの世界の美しいことば、うつくしい事物をつたえてゆく努めを担っているのだと信じたい。

 なおのものがたりをカタチにしようと思う。無性になにか描きたい。
ところでバルバラ異界、イヴの夢?展開が身逃がせない。たまには毒も必要なのでコーラを買ってみたりする。


百五十二の昼         (2003 6 27)  ポーリーヌの肖像

 三時をまわってから新宿に向かった。新宿駅に着いて、警察署を尋ねると始めのひとは西口という。すこし心配になってキオスクで聞くと南口という。南口の改札で尋ねると今度は東口という。構内を駆け回り、交番にも聞いて、青梅街道に出た。なんだ、ここはイラク戦争反対のデモのしんがりでこどもの写真を掲げて歩いたところだ。最初の角を左に曲がると弱者泣かせの歩道橋である。膝の悪いわたしは弱者なのである。さて振り仰ぐとなんと都庁のツインタワー!むかし一樹さんと跋扈していた頃、このあたりは石ころだらけで渺々と風が吹くなぁんにもない場所だった。気がつくと新宿警察は目の前に会って、わたしは愛想のないおじさんから一週間ぶりにハンドバックを取り戻した。中を見たら一万円札一枚とディオールの口紅が一本なくなっていた。不思議である??

 若いおまわりさんから教わった帰り道、安田生命の壁面がギャラリーになっていてガラスがはめ込まれ、ミレーのレプリカが幾枚か展示されていた。やっぱりレプリカと、最後の絵の前に立ったとき、はっとした。ポーリーヌの肖像、ミレーの最も不遇の時代の妻の肖像である。正面3/4胸のところで手を重ねたモナリザと同じような構図であるが、表情といい目といい実に魅力的な絵であった。そこにはひとりの女性の輝き、人生がとどめられていた。立っている場所を移動してみるがどこに立ってもポーリーヌに凝視められているように感じた。

 画家の描いたものは時代を超えて生命を持ち得る。さて、語り手は....わたしの望みはこどもたちが大きくなって、どこかのおばさんがおはなしをしてくれた、おもしろくてこわくてわくわくどきどきしたっけと思い出してくれること、人生のとってもヤバイ局面に立ったとき、ふと立ち止まったり、勇気付けられたりしてくれたらいいなぁ....とこれは夢のような望み。

 今日はこれだけではなく なかなかおもしろい日でした・眠いのでもうおやすみなさい。




百五十一の昼         (2003 6 26)  薔薇色の

 娘たちが部屋の引越しをするというので、わたしも箪笥の整理をはじめた。スパンコールやビーズで煌く紫のストール、毛皮の帽子、婚礼のときの手編みの白いレースの手袋、霞のような黒のレースの手袋、首の後ろでとめるレースとオーガンジー、新妻のころのエプロン、こんなものがというようなこまごまとしたものがでてきて整理が進まない。黒いつややかなエナメルのバッグは30年近くたつというのに金具も今買ったばかりのように輝いている。贈ってくださったひとはとうに幽界にいってしまった。

 ほかの挽き出しをあけると薔薇色のランジェリー、しばらく身につけることもない。コレットのシェリのなかで....まっしろな下着はわかいむすめのもの、わたしは薔薇色がすき...そんな台詞にひかれて薔薇色のランジェリーをあつめたときがあったのだ。

 女の挽き出しは歴史のようなものだ。ひとつひとつに身につけた時の浮き立つような心持や、ときめきや哀しみがこもっている。自分の手で始末できるうちにいつか処分してしまおう。今はまだそっとしまっておきたいけれど。


百五十の昼         (2003 6 25)   眠る

 うつらうつら 眠っていた。ふとんはこざっぱり かわいていてあたらしいタオルケットが気持ちよかった。ときどき目覚めて つつじの娘など 口走っていたような。 友人から電話がきておしゃべりもしたような。 夕暮れ 書き溜めた詩を プリントしたら 23篇もあって うれしくなった。詩集を出してみようかな。12年前のちょうどいまころ 死んでしまった子、この世の空気にふれもしないでいってしまったあの子のかわりに。


百四十九の昼       (2003 6 24)    バッタリ

 4時ころからイタクテイタクテ、ひとはイタイだけでまっとうな思考もできない生き物だった。会社のこともこどものこともどこかにしまう。痛みで風景が遠のいてゆく。歩いて米雄さんのところへ行く。注射を打ってもらってやっと家に帰り、前後不覚で5:00まで寝ていた。めがねがどこかへいってしまった。

百四十八の昼       (2003 6 23)    一歩手前

 先月 寒河江に行った24日からちょうど一ヶ月、あわただしいひとつきだった。ステージの上に二度、おはなし会が6回くらい、勉強会が三つ、レッスンが5回、仕事とPTA 31の昼とすこしの夜とスペシャルを3つ詩を7つくらいUP 1.700万円 自損事故1、接触事故1、盗難1
たくさんのひとと会い、語り、聞いていただき、笑い、泣き、絶望し、たちあがった一ヶ月、友人たちとこころ結んだ豊かな一ヶ月。

 あぁ すこしやすもう...家のそうじをしようと楽しみにしていたのだが そんなに甘くはなかった。8時から小学校のおはなし会と打ち合わせ。事務所は弟夫婦が旅行のため人手がたりない。

 8:00に学校に行く。今日のおはなしは3年2組 本町学級のこどもたちもきていた。テンポを普通学級にあわせるしかなかったので終わったあと本町学級担当の園部先生に謝りに行ったら、先生はとても楽しかったと喜んでくださった。さて、本町学級でこどもたちと遊ぶことができますように。

 ここのおはなし会を6年前たちあげたおかあさんたちはこの春、みなOBになった。運営を若いおかあさんたちに譲ったのである。なんだってその渦中でぐいぐい目的に向かっていくほうが風当たりは強くてもおもしろいのにきまっている。こころなしか手持ち無沙汰な、さびしそうな感じがOBのあいだに漂っていて、さぁ語りに引き込んでみんなでわいわいやるのは今がチャンス!!なのだ。そこで庄司さんを中野図書館のおはなし会の見学に誘ってみた。原田さんをタンデムテリングの相方に誘った。この一年は語りを広め、根ずかせる潮時と思う。

  銀行からTEL、バックに入っていた通帳を手がかりに新宿警察から連絡があったという。さっそく警察に連絡するとお金はなくなっていたが商品券がそのまま残っていたという。わたしは商品券のことなどすっかり忘れていた。でも戻ってくるのはうれしい。化粧品といえば青いきらきらした化粧惑星のコンパクト(1500円くらいの代物)と資生堂の200円のアイブロウとディオールの口紅が2本だけだが、ないと困るのである。

 明日も弟夫婦は旅行で留守、事務所は空っぽ、忙しい一日になりそうだ。眩暈がする。



百四十七の昼       (2003 6 22)    飛ぶ教室

  朝、D棟のさくらで朝食。アメリカンブレックファースト、旅行みたいでうきうきした。昼はセンター棟のお気に入りの喫茶室、ここはいつもジャズがながれている。実はひとりでぼっ-としするつもりだったのだが、みんなもきて手遊び歌をそれぞれ披露し大収穫になった。今回、講義は楽しかった、櫻井講師と片岡講師の掛け合いは絶妙である。お互いに相手をよく知り、信頼しあっていなければこうはいかないだろう。
 この日、ふたりのひとがべつべつに森さんががんばるならわたしもがんばると言いにきてくれた。うれしかった。わたしもみんながだいすきだ。これまでさぼってばかりいたので、こんなに長くセミナーにいたのは初めてである。
 帰り、新宿駅でバッグのことを尋ねたが所在はわからない。出てこないだろうが化粧品と化粧ポーチにしまっておいた歯がもったいなかった。久喜駅についたらジーンズの細い子が三人ライブをしていた。歌とギターをしばらく聞いておひねりをギターケースに入れてくる。いつかわたしもこんなふうに、流しで語りや歌などしてみたい。

百四十六の昼       (2003 6 21)    再び、災難

 セミナーに遅刻しないよう必死で急いだ。やっと青少年センターに着いた。!!?左腕に絡めたはずのバッグがない。守衛さんにボストンを預けて1時間ほど探したが駅にもない。村田さんにお金を借りて急場をしのぐ。

 夜語りで雪女を語る。台詞に想いをこめる。山形で残雪を見て表現を思い切りかえてみたのだ。地の文は多少目をつぶる。喧しい議論となった。最後の「それは私....」に続くせりふの前に所作があったほうがよいとか悲痛な感じが足りない...というのもあった。けれど今日はわたしはこれでいい、もちろん100パーセント満足のいく語りではないが、村田さんと恒吉さんがよかったと言ってくれたし。
 先生とおしゃべりできて楽しかった。ふとんをかけないで寝ていたという。どんな格好で寝ていたのやら。

百四十五の昼       (2003 6 20)    ドカン!!

 これでだめならキーを取り替えようとガケップチの心境でさがしたら、車のキーはソファの下から出てきた。さっそく銀行に走ったところ支店長さんに呼び止められる。朗読会のことが読売新聞に載っているというのだ。コーヒーをいただいて新聞もいただいて、さて大急ぎで家に帰ろうとして、駐車場で赤い車にぶつけてしまった。もちろんこれはわたしが悪い。お詫びしてさっそく保険の高橋さんにTELして気がついた。持ち主は知らないでもない行政書士事務所さんだったのだ。すぐに事務所にtelする。さて高橋さんに言われて自分の車を見るとうしろのバンパーが見るもむざんにへこんでいた。ないしょで直せるかしら。

 ぶつけたのは二日ほど、潰瘍の痛みで眠れなかったせいかもしれない。ところが昨日おととい休んだ惣を学校に送っていったら 米雄さんの病院に行くまでもなく夕方には楽になってしまった。午後は会計事務所の又さんと8月の決算の打ち合わせ、建設仮勘定がかなり計上されているので、利益が実際より膨らみがちであるが妥当な線に落ち着きそうではある。6.7.8月を待たないとわからないがとりあえず方針がまとまってほっとする。

 加藤さんから7月に2回、語りの依頼が入った。センターと青葉である。だんだん自前の語りの場が広がってゆくのはうれしい。梅も漬けられた。夜わかなと車をとめて音楽を聴いていた。道の両側の街路樹が赤みを帯びた暗い空の向こうまでどこまでも続いているような気がした。


百四十四の昼       (2003 6 19)   カギ

 朝、十二指腸潰瘍になっていた。車のカギはまだでてこない。しかたがないので惣の自転車で会社に行く。水田が青々とひろがり、白い蝶がひらひら、甘やかな花の匂いを深々と吸う。こどものころはこんなに大地の近くにいたのだ。草の匂い、ありの行列、汗ばんだひたいを過ぎる風、すこし力が湧いてくる。

 お客さまは残土券を買いにきてくださった同業の方だった。490万円分売れた。銀行からの融資も決まったし、わたしも心積もりのことはあらかた片付いた。あとは会社のHPだけ、明日は会計事務所の又さんがくる。又さんの好きなお菓子を用意しておこう。それにしても カギはどこにいったのだろう。


百四十三の昼       (2003 6 18)   つつじの娘

 明け方、telの音で目を覚ます。受話器にようやく手をのばすと夏だった。切羽詰った声だ。体が不調らしい、生理が不順なのだという。「心配ないと思うけど病院に行きなさい。そうすれば安心でしょう。行ったら結果を連絡してね」と言うと「わかった。いってみる、起こしちゃってごめんね」とtelは切れた。夏は友人の忘れ形見で、自分ではどうしようもないなにかがおきたとき、telがくる。この春、夏は恋をしていて、そのときはよく彼のことを聞かされた。どう聞いてもいい相手ではないような気がした。酒の勢いで遊ばれたとしか思えなかった。結局男は夏の気持ちの激しさにたじろいで逃げたのだ。
 telが切れたあと目がさえてしまって、まだ起きるのには早いし、手じかにあったつつじの娘を読み出した。若者に会いたい一心で五つの山を越えて会いにゆく娘の激しい目が夏と重なり、若いころ、吹きすさぶ風に押されるように恋しいひとのもとに奔った自分の姿とも重なり、娘へのいとしさがやがていとわしさに変わった若者に崖から突き落とされる哀れな娘の話がすとんとこころに入って、朝にはもう語っていた。

 今日は大仕事だった。例によって出掛けにジャケットの裾はほつれているし、車のキーは見つからないし、銀行による間もないので、娘に3000円借りてタクシーででかける。ホームの隅で化粧するというみっともないありさまだった。しかしもって行った資料をさほど使うでもなく質問に答える形で話は無事終って夕方には先方からOKの電話があったらしい。わたしはそんなこととはしらないでコヤマでアレクサンダーを頼んでぼんやりしていた。そのくらいのご褒美はいいような気がした。ブランデーをいれたコーヒーの上に白い生クリームの層が浮かんでいる。ほんとうはラム酒のほうがおいしい。隣の二人連れは小説書きの先生とその弟子のようだった。

 ジュンク堂に寄ってセミナーの仲間の久美ちゃんの顔をみていこうとしたが、やすみだったので店内を回ってみる。サラ・ウォーターズがおもしろそうだ。あとイアン・マキューアンの贖罪とか、ちいさな白い鳥も思った以上だし、カポーティーの旧作を春樹さんが訳しているのもわかってうずうずするけれどなにしろお金がないので、シムノンのリコ兄弟だけ買って帰った。かずみさんがたまごをたくさん、梅を山のようにとってきてくれたので洗ったり、水に漬けたり、あしたは梅漬けで忙しい。


百四十二の昼       (2003 6 17)   怖い夢・やさしい声

 朝方、おはなしの会をふたつかけもちしている怖い夢を見た。わたしは語らないのだが、ひとつの会の休憩時間に飛び出して走ると、案外近くに次の会場があって、何人かのひとと親しく話をした。向こうに三田村さんもいた。夢のせいか、そんなわけないけど、今日は膝がいたいのでおはなしの森はおやすみした。理由ができてすこしほっとしたかもしれない。かくのようにひとはアリバイを必要とするのだ。

 惣がひとりでさっさと食事をして学校に行ってしまった。夕べ夜中にいっしょうけんめい背中を押したりマッサージしたからか...とうれしかった。今夜もがんばろう。わか菜が今日は行きたくなさそう・・・である。食事をつくり、洗濯をし話を聞いてやるほかに、親としてもっと大切なことがあるのだった。うちは明るい家で始終笑い声が絶えないのだけれど、それだけでも足りないのだった。

 ライン課が雨で全員休みで全体会ができないというTELがあって、またまたほっとする。しかし明日は大勝負の日なのだ。14日の夜中、「いっそ語りはやめて歌に転向しようかな」とぐちをこぼしたら、惣がいったものだ。「洋子、逃げるのか!?」やさしい声だった。


百四十一の昼       (2003 6 16)   あさりと給与支払い日

 アルバイトさんの給与分の現金をおろして買い物をしたあと4;00頃会社に行く。6/14のショックからまだ立ち直れず、遅くなったので体裁をつくろうため駐車場の草取りなどする。だんだんおもしろくなって、ふとライン車のフロントガラスを見たら、飲み物のパックや缶が転がっていた。思わず「汚いね」と担当の社員に単刀直入に言ってしまった。

 帰ろうとしたら車の奥からちいさなちいさな囁くような声がする。さっき買ったあさりの音だった。苦しいのかなぁ。わたしは生きた蟹やあさりなどを料理につかうのは苦手である。切り身とか調理したものを求めても命を喰らっていることには変わりはないのだけれど。だからといって菜食主義者にもなりきれはしないのだけれど。

 結局酒蒸しにした。どうか早くすみますようにと強火にした。新じゃがを茹で、みず菜とホタテとベーコンとトマトのサラダをつくり、茄子を炒め、漬物を切る。おいしかった。

 
百四十の昼       (2003 6 15)    夢の名残

 トースターにパンを入れたまま忘れていたり、フライパンにティッシュを入れて火にかけたり、今日もネジがいくつか外れている。滅多にないことだが、リビングのソファで足をのばして寝そべっていたら、眠り込んでしまった。夢は見なかった。目覚めてかずみさんがつくった茄子で茄子いびりをこしらえ、かずみさんがつくった肥料をつかってつくっていただいたジャガイモで肉じゃがをこしらえる。かずみさんはうちの会社の解体工事の廃材や伐採ばっこん工事の木を細かく砕いてそれを原料に肥料をつくっているのだ。そしてそれを今はただでわけてあげている。それで化学肥料も農薬も使わない有機野菜をつくっている方から野菜がいただける。とてもすてきなギブアンドテークだ。でもかずみさんは見返りなんて期待していない。あのひとはほんっといいひとでわたしはまったく勝ち目がない。ときどき泣きたくなるくらいだ。お漬物は糠を足したら微妙に味が落ちたが、おいしいお昼をいただいた。

 わか菜とちかくのダジュールに行く。カラオケである。あややからはじまって元ちとせ、中島みゆき、ひばり、はるみ、ももえ、そのあいまにシャンソンとカンツォーネ、東海林太郎、尾崎豊、”さくら”と”卒業”歌っていたらまた泣いてしまった。シャンソンもカンツォーネも現世の愛、振り向いてくれない悲しい恋の歌が多い。それにたいして日本の巷で歌われるような歌の歌詞にはっととさせられることがある。たとえば尾崎の卒業は、ただ学校からの卒業ではない。どうしようも超えられない檻は学校の塀ではない。ちかごろでは森直太郎のさくら....さくら、さくら今咲き誇る せつなにちりゆく さだめとしって......さくら、さくら ただ舞い落ちれ いつか うまれかわる ときを信じ.....

 わたしはある経験から再生、転生を信じている、魂の不滅がひとにとってしあわせなことがどうかはわからない。おろかなわたしの気持ちからいえば、死んでそれっきりのほうがあとくされがなくていいし、それだったらそれで生きようも変わってくるから目一杯好きなことして羽目をはずして死ぬだろうな。けれどやはりひとが再生を重ねなくてはならないのはおおいなる意思の仕組まれたことであろうと思うし、そのおかたがいますとしてひとに無用なことをなされることはないと思うのだ。

 わたしは、かってどこかでこの世のほかで、かずみさんとあっていたのだろうと思う。なぜなら......なぜなら.....一度だけのえにしなら.......今生であのような遭い方をしたはずがない。いつかあのひとはいってしまう、それともわたしが先に行く...?そしてふたたび転生し再生してもわたしたちにはもう相手が誰なのか、どこで会い、どんなに愛したかわからないのだ。わか菜も惣もまぁも敬もみんなみんな.....だからこころを尽くして生きなければならない。わたしは愛するひとをうしなうたびにいつも心に誓ってきた。けれどしばらくわすれていたような気がする。そしてわたしがなぜ、語りをしようとしたかも、いつか忘れていた。わたしを取り戻すための手立てばかりではないのだった。綯われた糸のようにそのこととうらはらに伝えなければならないことがあって、それを夕べの櫻井先生の語りは突然気づかせてくれた。

 ちょうど三週間のあいだに、わたしはみっつのものがたりを自分に課して、仕事のあいまのそのものがたりとの時間はすこしの苦痛とおおきな喜びのないまぜになったものだった。そしてもがたりは人前で語られたあとわたしから澱のようなものを持ち去ってくれるのだった。芦刈はあの日から語っていない。あのあとたしかにわたしはたとえようもなくしあわせであった。牛人が終わったあと、救いようのないものがたりなのになぜあんなにこころかるくしあわせになれたのだろう。フランス国王の玉座のあと、なぜ物足りない感じがしたのだろう。それは評価がどうということではないような気がする。ものがたりを生き切ったかどうか.....とすれば、もういちど語ってみよう。ものがたりを悔いなく生きてみよう。そうして、わたしは心底語りたいものがたりを新たに語ることにしよう。さねとうさんの巻頭のことばはひとつの示唆を与えてくれる。一調、二機、三声
  

 きょうは武蔵境での交流会で帰りが遅くなるので、朝サンドウィッチと夕食の小鯵のマリネをつくる。櫻井先生が個人的に指導している6つの教室が一堂に会しての響きあういのちとことばの交流会なのだ。
 武蔵境の駅で村田さんとばったり会ってほっとする。会場に着きパンフを手に取るとライアの演奏の次、語りではわたしの出番が一番初めだった。なんだか落ち着かない。フランス国の玉座のはなしが一日漬けだからと思う。ぎりぎりまで迷っていたが、語り出す。鍵となることばを出すべきところで他のことばと置き換えるというミスがあった。そして終盤、破綻しかけたがまとめるだけはまとめた。ガンジス川のほうは走ってしまった。そして最後いささか力で押してしまった。語りの神様は降りてこなかった。

 それぞれが個性的な語りだった。櫻井先生の指導が教義を押し付けることでなくひとりひとりを伸ばすものであることがよくわかる。長い名の息子に徴兵検査をかぶせた青木さんの語りと安房直子さんの原作で語った村田さんが出色だった。

 最後の櫻井先生の語りは、ギリシャ神話からエロスとプシュケ・・・深いところからなんと明るく軽やかに語られたことだろう。その声の響きの心地よかったことだろう。ゆったりと合間にウィットのきいた警句を交えて語られ、それはそれで追随を許さないものであったけれど、終りに神格化したプシュケについて其の名の謂いが魂であること、魂が幾多の困難や苦痛や哀しみの洗礼をうけて神格を持ってゆくのだと語られたとき、わたしは圧倒され、涙がこみ上げてくるのを抑えることができなかったのである。こんな風にかろやかに真髄が語られうるのだった。死も血の流れることも必要ないのだった。わたしには考えも及ばないことだった。すこしは 山をのぼってきたと思っていたのに その向こうには何倍も高い山が聳え立っていたのだった。いまさらながら、先生についてゆける幸せを想った。

 わたしは自分に驕りがあったと思う。わざではないといいながらなにが大切か本質を見誤っていたところがある。たった一日の練習でもひとまえで語ることができるということをみせようとした。そこですでに間違っている、自己目的化しているのだ。演出の川村さんや澤田さんらから誉められたからといって図に乗っていた。

 帰り ASKのひとやセミナーのひとと話した。Aさんは嫁のはなしをBさんはおひめさまがプシュケのように課題を成し遂げるはなしばかりを語っている、語らずにおれないと言っていた。それぞれ、こだわりがあるのだ。語りとは語るひとにとって癒しであり側面はやはりプシュケのように課題の成就でなのである。

 一方でなぜフランス国の玉座のはなしで祖母から女に語り直したか、あのはなしのテーマはわたしにとってなにか 理解できた。女は予言を聞いて息子のうえに新しいナポレオンを重ねたというところが実はそうなのだ。つり革につかまっていると涙がわいてくる。はやく一刻も早く見るべきことは見て、するべきことをして、語り尽くしてゴールにたどり着きたかったわたしがいた。そんなにかんたんなことではなかった。ふわふわ雲を踏むように歩いて、寄り道をして、精算の必要もないのに機械の前にならび、家に帰ったのは11時。今日はうなだれていても、あさってには立ち上がろう。


百三十八の昼       (2003 6 13)   収穫

 近頃 採れたての野菜をよくいただく。うちの会社の有機肥料でつくった蕪や大根、レタスをいただいたときはほんとうにうれしかった。すこしは世のためになっているのだもの。大きなのも小指の先ほどのもあって、もったいなくて葉は湯がいて軽く炒って酒やしょうゆで濃い目に味付けしたら美味しかったし、根のほうはうんとちいさいものも漬物にした。毎日大皿いっぱい 糠漬けを出す。相応の年にようやくなったのか おいしい漬物はなによりのご馳走だ。らっきょうも今日漬けた。

 あしたはわたしは語り手たちの会関係では デビューのようなものだ。研究セミナー以外の方は知らないと思うから。今日ようやく休みをとって練習してみたが、馴染まない。夕食時も近くなって喫茶店に行く。日常とはなれていないとまとまらないのだ。目のまえにものがたりが浮かび、わたしは泣きたくなった。母親の想いがしみこんでくる。玉座が月の光に照らされている。このおはなしも雪女やほうすけのようにわたしのものがたりになる予感がする。仕上げにあと3日ほしかったけれどよしとしよう。聞き手の力をお借りして語らせていただこう。

 社会福祉課の斉藤課長の紹介で、7/1 春日部で語ることに決まった。聞き手は4.50代の女性たち、楽しみである。その方はこのあいだの朗読会にも見えていたそうだ。朗読会では金剛寺さんも紹介してくださって、そんなことから語りの場が増えていくとうれしい。7月は久喜座の前座もあって、あたらしい語り、境地をめざしたい。楽しんでいただきたい。夏休みに怪談の会でも開けないかなぁ。

 
百三十七の昼       (2003 6 12)   着物

 朝6時から給与計算、銀行に持ち込んでコーヒーをご馳走になり、さて加須まで用事があるのだが、車でゆく気になれず東武線に乗ってしまう。加須の駅前通りは広々として街路樹にも街燈にも心くばりが感じられる。だが商店街は閑散としている。人気があるのは洋服のリフォーム屋さんと高野団子のチェーン店だけ。市役所に着くと打って変わってひとが大勢いる、それも圧倒的に来所者より市役所に勤務しているひとが多い。官が民間より元気があるなんて、おかしなことだ。日本の景気も相当重症だと結局来た意味もなく駅に戻った。

 電車の時間待ちをしていて、つい吸い寄せられるように着物の出店を覗き込んでしまった。レンタルの処分品、リサイクル品、安価な化繊の品など眺めて、ふと手がとまった。黒の留袖である。意匠が斬新なのだ。柄は花鳥風月ではなく、花は花でもアールヌーボー的なデザインで色もベージュ、茶、沈んだ金の色、お店の人の話では、昭和初期の、図柄からデザインさせた注文品であろうとのことだった。背には文様はなくて左右に裾模様がそれも裏にも同じ模様が入っている。職人の技である。今これだけの物を作ったどれだけかかることだろう。紋は見たことのない桐の紋。なおして黒のロングドレスにしてみたいと思った。それでその着物は今、車のなかである。それがとてもしあわせな気分にしてくれる。値段は...14800円という破格の安さであった。

百三十六の昼       (2003 6 11)   イメージ

 苅田先生のレッスン 出るはずがないと思っていた高いシの音が出た。おなかからポンプで押し出すように、笑顔をわすれないで  イメージする。それだけで音がでる。

 タイヤ交換のため、車のなかをそうじした。ハンドバック3個、傘3本
、海のパラソル1本、サンダルと靴3足。本8冊、童話2冊、アクセスのビデオ14巻、フォルダー2冊、インドシルク、タイの巻きスカート、タピストリ2、コ−ト2、トレーニングウェア、バロックパールのイヤリング(壊れてる)、CD2 その他もろもろがでてきた。
 車のなかはほとんど部屋である。

百三十五の昼       (2003 6 10)   サンジャンの......

 梅雨が近いので欲をかいて洗濯をする。
 今日は10日、支払日で銀行に行く。このあいだ 窓口のおねえさんに一言苦言を呈してから、前より絆が深くなった感じがする。ふたりのことばがビジネスライクでなくぬくもりを持ったような気がするのはわたしだけだろうか。ひとはこころから相手のことを思い量って話せば たいていはわかりあえる。
 トムの会の例会、Fatcatをはじめて語ってみたが なにかが足りない。研究の余地が大いにある。秋山さんの語り ふくよかになった。橋本さんもうるおいが感じられる。今日も楽しい例会だった。

 
 嬉族inに着いたら もう発声練習は終わっていた。わたしは実は発声がなにより好きなのだ。"サンジャンのわたしの恋人"はいままでで一番気持ちがはいる。ご夫君の詩なので先生も格別の思いいれがあるようだ。これも楽しい会だった。
 須原屋によって本を求め、伊勢丹で牛スジ、新鮮なめばるなど求める。事務所にまわって連絡会、今日早朝清河寺の現場でユンボが盗難にあった。小山で発見されたがすでにバラされていたという。それを受けてセキュリティの確認、すぐ駐車場の車を調べてもらったがロックされカギもかけられているのはわずか2台、6台はカギつき全開という体たらくであった。各セクションで緊急に会議を開き対策を検討するよう指示。以前にもユンボは一台盗まれたが外国へ船で運ぶらしい。恐ろしい世の中である。



百三十四の昼       (2003 6  9)   石榴の花

 会社の築山に石榴の古木がある。解体現場で抜根したのを持ってきて植え、根付いたのだ。石榴はそう高くはならないというけれどゆうにわたしの背の倍ほどある。人知れずあかい花を咲かせ人知れず実らせて鳥たちが啄ばんでゆく。実はるびーのように沈んだ紅色なのに、こんなにも花は朱の色だったのだ。悲しいほど朱い花の色を見ていたら 人を恋慕ったむかしのことなど思い出した。

 とてもしあわせな日だった。きのう 拙いなりに精一杯語れたし 聞いてくださった方の目のなかにこたえがあったから。よかったとか、情景が浮かんできたとおっしゃっていただければ舞い上がってしまうけど....上手いといわれてもそんなにうれしくない。..板さんが「立っているだけでその本の世界に聞き手をいざなう読み手がいる。あなたはそういう読み手だ」といってくださって、ああ、そうかそうなのだなあと自分の居場所が見つかったようにほっとした。こどもたちの目のなかに聞き手の目の中に夢見る光があるとき、わたしは胸を打たれる。痛いような喜びがある。精進をしようとは思うけど、ただ上手くなろうとは思わない。聞き手をねじ伏せようと思うな、賞賛されようとは決して思うな。こどものときのように、あたらしい本、母が図書館で借りてきてくれた本を読むときのわくわくする喜びを、おばちゃんからこわい話を聞くときの背筋が凍るようなそれでも聞きたくてしかたがなかった興奮を忘れまい。

 俳優の壌さんはワークショップでたくさんの宝物をわたしにくれた。自己目的化するな、祈りや魂を裸で提示せよ、ひとの心を波動で動かせ、これは役者ばかりでなく語り手にもあてはまると思う。訓練は感動を損なうこともあるのではないかともおっしゃっていて、わたしも語りや朗読を練習しすぎるとものがたりのみずみずしさが薄れるような気がしていたから、そんなに練習はしない。ただ10日くらいはその世界に浸かっているらしくて終わったあと、それはわかるのだ。ほっておくとそのまま引きずってしまうから、仕事に打ち込んだり早々とつぎのはなしに取り掛かる。つぎはアンデルセンの絵のない絵本が14日。ところが本が見つからなくてあたらしいはなしに取り掛かれない。思い立ってそうじをしたら、オシャンやマビノギオンや夏星と黒岳の国とか出てきて、昔から惹かれるものはそう変わってはいないのだとわかった。キリスト教に異教の神として駆追された古代の伝説の神々や英雄の冒険譚には狭義の善悪を超えたはるかな地平があって、それだから幻想も闇と光のあわいに目もあやな色彩をともなって生き生きと存在したのだ。善と悪はたしかにある。しかしそれはこの限られた時間のなかにのみ在るのではないのだ。キリストも釈迦もご自身ではなにも書き残されなかった。使徒や弟子の書いたものはいわば再話である。真実はどこにあるのだろう。世界はまだ謎に充ちている。


百三十三の昼       (2003 6  8)   牛人

 玄関に所在なく置いてあった赤い東南アジアの甕と燭台を持ってゆく。朗読会の会場のアクセントにするためである。岡安さんがお願いしていた丈高いススキをとってきてくださり、活けたらなかなかよかった。
 昨夜、やはり語り手として朗読しようと思った。語りも歌も芝居も朗読も祈りのようなものだと思った。牛人の世界は暗い。不条理の闇に翻弄される存在である人間....それでもいい。このまま感じたままで。

 始まる。破綻しそうになりながら細い細い道を通って、ものがたりは進む。ひとつの世界を手繰り寄せ聞き手を引き込む、これは力仕事だ。身体が熱い。トランス状態になる。これは悪いことではない。手がテキストが細かく震えだす。....わたしはかまわないけど見るひとが心配するかと思い意思で抑える。練習のときとは異なり、豎牛が叔孫に 過酷な仕打ちをしたあと、淑孫の夢のあたりで声量を落とす。気は落としてないつもり.....最後の餓えて死んだ...も思い入れはしない。
 ネモさんと板さんがきてくれた。うれしかった。板さんにアドバイスをいただいた。
 混沌と磐石の重さの闇の世界から抜け出て 開放感で空を突き抜けそうだ。たとえはどうかと思うが十月十日のあと、一つ身になったような開放感だ。語りではこんなにも感じないのだけど芝居や朗読は格別で不思議ではある。

 さてサンジャンのわたしの恋人を火曜日までに自分のものにしなくてはならない。そして土曜日までにアンデルセンの新しいおはなしをひとつ.....

百三十二の昼       (2003 6  7)   リハーサル

 今日はリハーサル  つぼに野草を入れたら.....



百三十一の昼       (2003 6  6)  ライ麦畑

 キコキコ音がするのでトミタにいって車をみてもらった。今のところは大丈夫そう、予定より1時間遅れて、浦和のガロでカットとメッシュをしてもらう。派手目にケバくしてねといったのに、まぁおとなしいものだ。それから伊勢丹でアシンメトリーのスカートを探したが短めばかり、サマーブーツもない。めがねを頼んだ。ここのめがねはほんとうに顔になじみ目にもしっくりくる。昨夜のドタバタでめがねを変えないとバーストどころではなくなるという危機感を感じたわけである。

 まりに頼まれたキャッチャーインザライを求めたところ、知の再発見双書というおもしろ気なシリーズが出ていた。あとで検索してみよう。昔風ジャパネスクのプリント生地を配した黒のTシャツを娘のプレゼントに買う。新鮮な感じである。それから和紙とアスパラとお刺身とえぼ鯛のひらきなど買って家に帰った。夜マトリクスを見た。前思ったほどおもしろくはなかった。見ながら買ってきた和紙で牛人のテキストの装丁をする。曲田さん、橋本さんとTELでおしゃべりできてよかった。

 知の再発見双書検索してみた。エトルリア文明、ヒエログリフ、シャーマンの世界 トマス・ハーディと作家たち H・ジェームスの曖昧性 アーサー王伝説 聖なる大地 ケルト人などなどおもしろそうだ。後の三冊はケルト関連 。


百三十の昼       (2003 6  5 )     バースト

 午後、長さんと嘱託契約。、わたしはわずか3回しか練習に参加していないので、夜朗読の練習に行った。ところが帰りに寄ったスーパーで縁石に乗り上げて前輪がバースト。おまわりさんがおっとり刀できてくれたが、為すすべなくクレーン車を呼ぶはめになった。帰りついたのは11時を回っていて、なにも考えないで寝た。

百二十九の昼       (2003 6  4)    なぜ


 駅前駐輪場の申し込みをする。どんぐりでコーヒーを飲みながらマクドナルドさんのおはなし、Fat cat  空を持ち上げる話 を筆記してみる。語れそうだ。サイシンに行く、事務所で清河寺の日報をエクセルでつくる。これも集計できるようにする。清河寺の打ち合わせ、社長、折原、アベ、新井、そしてわたし。立て替え金の集計。今日も帰りは9時。
 日曜のストーリーシャワーディからずっと考えている。先生とTELでおはなししたことからも気になることがある。語りのおもしろさのひとつは即興性だ。本来ライブなのだ。聞き手との交流や風や気分で、その場でおはなしは変わりうるものだし、変わらないっておかしい。同じはなしを同じように語る、100回も200回も練習する。努力はかうが、おはなしが化石みたいになってみずみずしさを失ってしまうような気がする。練習は必要だし演出があってもよいけれど心が自由でないと霊感がおりてこない。聞き手をいざなうのだ。たんぽぽの丘へ.....昼なおくらい森のなかに....


百二十八の昼       (2003 6  3)    手紙

 寒河江の太田みささんからお手紙をいただいた。住所がわからなくて出せなかったのでうれしかった。すぐ返事を書いた。
 サイシンで場所と消しゴムを借りて、市民企画講座の申込書をまとめる。企画などまだ白紙なのだが鉛筆を持つとサラサラ書けてしまう。中央公民館に届けて、次男の三者面談 中間の結果、惨憺たるものであった。
 清河寺の契約書を作成。残土券を300万円分つくる。3:00に相手先の社長が契約と支払いにみえる。まだお若い。運搬の新しい日報の形式を3つつくる。収集とリサイクルとにわけ、チップから製品にいたるまで在庫を自動計算できるようにする。
 連絡会 先月の損益 売り上げは思ったよりは伸びたが 利益の確保はカッターだけだった。ラインは悪くないが労務比率が40パーセントント近い。よって純利益は........。
 今後の課題は1に労務比率の改善、2に現場が始まるまえに現場、営業、経理で話し合うこと。
 
百二十七の昼       (2003 6  2)    アースシーの風

 朝 ゲド戦記の第五巻”アースシーの風”を読了。

 第一巻を読んだ時、わたしはとても若かった。自分が何物でどこから来たのか。どこへ向かっていくのか。なにを知り、なにを為すためにここにいるのか。疑問符で身もこころも一杯だった。どこにだれに尋ねたらいいかわからなかった。ゲドの戦いはわたし自身の戦いと重なっていた。ゲドが真の名ハイタカを知ったころ、わたしもひとつの道、もう戻ることのできない道を選択していた。二巻でテナーがゲドの助けを借りてアチュアンの墓所の暗闇から逃がれたころ、わたしも伴侶とめぐり合った。いまもわたしはエレス・アクベの腕環を模したブレスレットを身につけている。ハイタカが渾身の力で最後の戦いに勝利し代償にその力を失ったころ、わたしは勝ち目のありそうもないいつ果てるとも思えぬ戦いをしていた。そしていくつかの山を越えたあと 第四巻”帰還”が出版された。これで終り?なんて中途半端な終わり方!テハヌーは好きになれなかった。ゲドを主人公の座から追いやったからである。
 アースシーの風は書かれるべくして書かれたものがたりである。テハヌーがなぜハイタカとテナーのもとへきたのかようやくわかった。第三巻での謎が解かれた。生と死、若さと老い、光と闇、男と女、魔法と現そみ、相対するものがひとつに合わさる大いなる円環。長い長い旅は終り、風は吹き抜ける。ゲド戦記はファンタジーの限界さえ超えた。読み終えて、わたしは少し泣いた。透きとおった歓喜の声をあげて黄金の竜となり天上に昇っていったテハヌーを想い、地上で地に足をつけ一日一日ゆたかな時を寄り添い過ごすであろうテナーとハイタカを想い、ユリとともに塵となることを選んだハンノキを想い、誇り高いセセラクとレバンネンを想い、そしてわたしの短くて長くて重くてそれでも祝福されていた年月を想い、これからかずみさんと過ごす日々を想って わたしはすこしだけ泣いた。

百二十六の昼       (2003 6  1)    シャワーディ

 朝 刈谷先生のレッスン 突然 軽々と苦もなく声が出る。「それだよ、それ」 「よく覚えているんだよ。正しい発声をしていれば一日歌っていても疲れはしないんだよ。」 カラダの奥から歓びが湧き上がってくる。声を出すだけでこんなに幸せになれるなんて不思議だ。カタリ、カタリ ラストの繰り返し部分、高いシの音が発表会までにらくらく出るかしら。七面鳥の絞め殺されるような音なのだ、今は。

 午後 かずみさんの顔色を見ながら「図書館にいってくる」といってすっぴんの普段着で家を出る。このごろお出かけがかさんでかずみさんは機嫌がわるい。もう二時、おはなしシャワーデイは始まっている時間だ。茗荷谷駅からタクシーでフォレスト・ヒルに着いたのは三時、ちょうど一部が終わったところだった。村田さんやセミナーのメンバーと挨拶をかわし さて第二部、マクドナルドさんが特別に話してくださった。Fatcat ついでにペロリみたいなおはなしだけどマクドナルドさんの表情やしぐさがかわいかった。持ち帰って学校でおはなししたら子どもたちが喜ぶだろうとうれしかった。末吉さんとのコンビネーションもよくてとてもよかった。

 盛り上がったあとだから次の方ははやりにくかったと思う。エリナーファージョンの”ぼたんいんこ”ファージョンは好きな作家だけれど、語り口にすこしくせがあって ものがたりにはいるのに躓く感じがする。主人公のスーザンをもうすこし際立たせてほしかった。なぜスーザンのくじがさずかりものなのか、スーザンが果たしてしあわせになったかどうかもわからなかった。これは初歩的な問題である。帰りみち 感想を話し合った方もわからなかったといっていたが、漏れ聞くところによれば、体調が優れなかったようだ、次回に期待したい。

 ”座頭の木” 同じ語り手さんでなんどか聞いた。やわらかいやさしい語り口でたんたんと語る民話。でもこれはほんとうに民話なのかなと思う。お菓子みたいだ。夢のようなおはなしの奥には座頭にならなければならなかった、ふるさとを遠く離れて死ななければならなかった男の運命、そしてつかの間のこども時代のあとの過酷であったであろうこどもたちの行く末が透けてみえてほしかった。わたしの勝手な思い込みかもしれないが、たのしいトークのできる方なのでもっと自由に語られたら 美貌のかただからどんなに素敵だろうと思う。。

 福島の語り手さんの「おこり地蔵」 直裁すぎて個人的には好きなはなしではない、そのうえに迫真の演技で息を引き取る子どもの息遣いまでなさるので次第に苦しくなってだんだん下を向いてしまった。語り手さんも会場の雰囲気を察知なさったのか、予定にはない民話をひとつなさった。なぜ犬が4本足になったかというおはなし、これがおもしろくて方言の語り口ともあいまって爆笑の渦。方言の語りにはとてもかなわない。おこり地蔵については、語りは芝居ではないし戦争はしてはいけない残酷なものなのだというメッセージが強すぎるとかえって聞き手は引いてしまうと思う。

 次は”透沈香”ことばの遊びは底が割れてしまうとつまらない。アナウンサーの教本にういろう売りはあるからあまりおもしろくなかった。覚えるエネルギーがあるのなら、叙情の世界が語れる方なのだからおはなしで真っ向勝負してほしかった。暗記したものを呼び起こそうと笑顔はあったが目が笑っていなくて、もっと楽しまれたらよかったかもしれない。

 最後はマクドナルドさん 空をもちあげたはなし これが白眉だった。学校で図書館で語ってみたい。素晴らしいおみやげをありがとう!!  今日、出演なさったのはそれぞれ 実力も個性もある方々で手ごたえがあった。でもやっぱりマクドナルドさん!!笑顔がすてきだ。人生を肯定している。それが根底にある。そしてありあまる愛情かしらね。語りが上手い下手を見せる、新奇なものを見せる聞かせるものではないということ、押し付けるものではないということがしみじみわかった。

 なんど語っても聞いても楽しい語りができたらどんなにいいだろう。幸せな語り手をめざそう。けれどとりあえず、宿題をしてしまうこと。今 この胸に眠って語られるのを待っているおはなしに光をあたえること。

 おみやげに31のアイスクリームを買って帰った。かずみさんは笑っていた。

 



百二十五の昼       (2003 5   31 )   謎

 朝、かっちゃんからtel,はなしがはずんで それから庄司さんが迎えにきてくれて コムギ屋に行く。市役所通りに新しくできたカフェである。語りのライブができそう.....さて庄司さんは語りをしたいという、すぐ幼い子や小学生に持ってゆける、たとえば手袋人形やおはなしができるようになりたいという。そして語りを小学校の読み聞かせのなかまそして市内へとひろげたいという。さあ、いよいよだ。さて、わたしになにができるだろう。まず公民館から返事がきてから考えるとして、これから風が流れそう。風をつかまえよう。
 家にかえってすぐ矢野目さんのご主人の車に乗せてもらって埼芸のゆきやこんこんを観に行く。おもしろかった。しかしなんといっても観るより演るほうがもっとおもしろい。上手い下手じゃない、観たあとほっとしたり、ああきてよかったと聞き手、観客が感じてくれたらその語りや歌や芝居は成功といえるのではないか.....壌さんが芝居では人生の肯定を伝えたい、劇場は愛の場だと言った。(ところでびっくりしたことに壌さんは矢野目さんのお嬢さんの大学のサークルの講師でもあった。)などとかんがえていたら次女がほかのことで「心があればいいってものじゃない」という。それもそうではあるけれど。

 先々週あたりから綱渡りのような日々、あすはストーリーシャワーディとポコアポコ。来週は朗読会、読売の埼玉版に載っていたそうだ。そして末、10日、15日の支払い、14日のいのちと愛のおはなし会、21.22のセミナー、そして7/27は秋黄昏て......
 
百二十四の昼       (2003 5   30)    至福

 朝、会社からサイシン、市来崎氏の件支払い、郵便局PL保険支払い、それから息子の高校の広報理事会、成り行きで副部長を引き受けてしまった。かずみさんにしかられそうなので内緒にしておこう。話があちらこちらへ飛んでなかなか本題が進まない。ついに書記を買って出て議事を整理進行させ結局予定時間15分前、3時間45分かけて終了。そうそうたる面々だった。白一点、60才くらいか艱難辛苦を乗り越えてきたらしいFさん、スナックを3軒経営していたという派手やかでおおらかなKさん、まっとうな主婦のSさん、細心な部長Yさん、それにわたし。なにかできそう、わくわくしてしまいそうである。
 会社で残土受け入れの契約書の文面を作成、残土券の表を285枚分印刷する。帰りは9:00.だった。

 明実さんからメールが届いていた。書こう書こうと思っていたのでうれしかった。わたしが山形にいたころ、明実さんは青森で津軽三味線を聞いていたのだった。奏者が巫女か口寄せのようだった。表現者として至福のなかにいる奏者と時をわかちあえてしあわせだったと明実さんは書いている。....けれどその奏者も聞き手がいればこそ神がかり的な演奏ができるのだろう。このサイトにきてくださるかたがたのなかにはユングに惹かれている方が何人かいて、実はわたしもそうなのだ。語りとは、わたしのなかの混沌....からやはり聞き手の深奥にもあるこだまのように太古から受け継がれてきた遠い記憶へとものがたりをとおしてメッセージを届かせる試みのような気がする。ひとはひとりひとりなすべきなにかを背負ってここにいるのだが、人類が共通して気づかなければならないこともあるのではないだろうか。それらのいはば過去から未来へのメッセージはは神話、伝説やむかしがたりのなかにひっそり埋もれている。


百二十三の昼       (2003 5   29)    写真

 常務の現場 喜び橋に 写真を撮りにいった。ヘルメットをかぶらないで入ってはいけないとかずみさんから言われていたのだが かまわず作りかけの新しい橋に入ってしまった。下を見るとやっぱり怖い。

 サイシンでコーヒーをごちそうになる。2時間くらいいて それから市役所の生涯学習課に市民提案講座についてたずねに行く。語りの講座が開けるかどうかだが、一回10000円の謝礼ではかえってむつかしかろうと二の足を踏んでいたのだ。市から援助をいただくとそれ以上お金を集めることはできないし、それ相応の講師を呼ぶには交通費込みの10000円では若干無理がある。どちらにしても期限は過ぎてしまったので、OKが出るかで無いか運否天賦?ということ。
 ついでに6/8の中島敦朗読会にお誘いしたらもうちらしはまわっていて市長もみえるらしい。とたんに動悸が激しくなった。まだまだかわいいものだ。

百二十二の昼       (2003 5   28)    細い道

 刈谷先生のレッスン、クラシックの発声は細い細い一点に照準を合わせる。からだの低いところから出す。鼻腔発声、頭蓋骨に響かせる。ポジションを崩さない。
 さて8/24は発表会。先生は華やかなカンツォーネにしようとおっしゃる。「カタリ、カタリはどうですか」と聞いたらそれにしようということになった。本来はテノールの歌でラストの高音が果たしてでるかどうか........先生のほうが張り切って「ぜったい大丈夫だよ、早速はじめよう6/1はどう?」ということになった。

 プラントに写真をとりにゆく。ご近所の方が見えていた。かずみさんてばリサイクル品の木製のプランターやらできあがった堆肥やらご近所の方に差し上げているのである。わたしはケチだからできない。けれど そうやって地元の認知され愛されてゆければいいと思う。


百二十一の昼       (2003 5   27)    うたって

 午後、シャンソン教室に行く。車のキーが見つからなくて30分遅れてしまった。毎度のことである。今日を限りにしようとでかけたら、終り間際に先生が わたしが来る前にみんなと相談して一月かけて一曲仕上げるようにやり方を変えました とおっしゃった。前回提言したことを気に掛けてくださったのだ。暮れには発表会もしましょうとおまけもついて、さて言い出した本人がここでやめるわけにはいかなくなってしまった。異端者には使い道もある。わたしはとのさんにいわれたようにきれいに歌おうとはしないで、クラシックの反動もあり、想いを搾り出すように歌っているのだけど、他のメンバーの歌もすこし変わってきたようだ。
 須原屋によって絵本を見た。”屋根裏部屋のお人形”これはきっと.......からヒントを得たのかと思った。でもかわいいお話、”まちんと””つつじのむすめ”この三冊涙しながら見ていたわたしはいったい......。つつじの娘とケルトの神話を買った。電車のなかでひさびさにむさぼるように読んだ。なかにはキリスト教が伝わったために歪曲されたとおぼしき物語もあって再話しなおして語ってみたいと思った。ディアドラにしたところでディアドラとノイシュの墓から生えてきたいちいが教会の上でひとつになるというのである。2000年も前にキリスト教の教会が辺境のアイルランドにあったとは思えない。

 ケルト民族が わたしの愛するカエサルの書いたガリア戦記のガリア人とは知らなかった。ケルト人はヨーロッパにあまねくいて魂の不滅を信じるがゆえに死を恐れず実に勇猛果敢に戦ったようだ。大陸のケルト人はヨーロッパの母体ともなり、島のケルト人は島であったがゆえに比較的に古の形態を残したらしい。ケルトのひとの信じる常若の国は西方にあるという。これは古神道をかじっているものにとってはなかなか興味深い発見であった。なぜケルトに惹かれるのか、なぜ出自がアイルランドの作家の書くものに惹かれるのか、偶然ではない、必然である。魂のふるさとが同じなのだ。

 夜 会社で連絡会。カッター、ライン標識OK、土木悲惨、運搬まぁまぁ ただし労務比率高し。土木 担当者に売り上げを達成することを意識に乗せるよう求める。営業に必ず月初に目標を確認すること、一挙に大魚を吊り上げようとしないで、地道に身の丈にあったシゴトをとることを求める。


百二十の昼        (2003 5   26)    本町小

 朝のおはなし会、3年3組でさっそくキャベツぅのなかかぁら♪をしておはなしをふたつ。母の日にプレゼントした?と聞いたら 男の子がふたり目をキラキラさせて、その日はおかあさんになにもさせないでおとうさんとお掃除もしてごはんもつくったとか話してくれた。補助の仲間が先生が「すごい...」と呟いていたとあとで教えてくれた。

 今日は打ち合わせもあってあたらしく仲間にはいるおかあさんや新しい担当の先生も見えた。指名されたので語りについて櫻井先生から授かったこと、自分の目と耳と心で知ったことをおはなしした。
 村野さんや庄司さんやもとからのなかまと話をするのが楽しくて食事まで一緒にデニーズに行った。寒河江の余韻でしあわせが続いていたのでひととこころを開いて語るってそうだ、こういうことだと思った。この仲間たちともっと今までより豊かな時間が持てそうに思った。なにか事業をたちあげようと盛り上がり時間を忘れて気がついたら3時、それで浦和の絵の展覧会はあきらめた。

 うちへ帰ったらめまいがして厚子さんから脅かされたこともあって、高校の面談はあきらめてTELして横になっていたが、夕食はがんばって山うどのてんぷら、小えびの掻き揚げ、サラダ、鯵のフライ、ぜんまいとお揚げの煮付けなどをこしらえた。

百十九の昼        (2003 5   25)    新しく

 早朝、ホテル裏の雑木林...ひとりで語り続けた。ぶなの木が聞いてくれた。ものがたりが変わる。語りたくて、語りたくて滾る想いを抑えがたい。ぶなの森を知ったので、太田さんたちを知ったので、ものがたりが深くなる、ことばがいのちを持ってゆらめく。
 午後 寒河江図書館でおはなし会、その後交流会。聞き手におと......なが多いので驚く。夕刻名残惜しんで寒河江を立つ。離れがたかった。会えてよかった。櫻井先生と絆が深まった。わたしの一部を寒河江においてきてしまった。

百十八の昼        (2003 5   24)    ぶな林

 山形に向かう。新幹線つばさ105に間に合って先生はじめみんなを安心させる。となりの席のおじさまと長年の友のように語る。山形の語り手たちのみなさんがむかえにきてくださる。寒河江に着く。ネーチャーセンターに向かう。藤、桐、、やまぼうし、こぶし、うつぎ知らない花がたくさん咲いている。残雪のなかをハイキング、途中リタイヤする。ひとりでぶなの林に座っていた。懐かしくやすらかだった。若葉が煌いている。雪解けの水がさらさら音をたてて走ってゆく。水芭蕉のが群生している。
 宿で夜語り、山形の語り手は雪のように素直に黒い土のように骨太に語られた。わたしは芦刈を語った。きょうはじめて納得のいく芦刈になった。聞き手のみなさんと寒河江の風のおかげかもしれない。二次会で手遊びを所望したら太田さんがいくつか披露してくださった。おおらかな懐の深い方だ。豊かな子供時代を送られたのだろう。こどものときそのままに歌ってくださり、みなで楽しい時間を過ごした。夜、ひとりでお風呂のなかで語った。誰か聞いている気配がした。朝の散歩のとき、お風呂の近くに墓地があった、 聞きにきてくださったのかも知れない。


百十七の昼        (2003 5   23)    絶版

 別役 実さんの童話集もみな絶版、黒い郵便船のなかの空中ブランコ乗りのキキと 名のない猫ともうひとつ おはなしが読みたかった。このごろ 絶版が多い。ディアドラ関係とルグインのアースシーの風は届いた。でもほしい本のリストはまだいっぱい。

 とらこと長電話、ちょっと元気がない。毛づくろいしてしっぽをピンとあげて昂然と闊歩するとらこに復活しなさい。イオさんは三日にあげずTEL攻め、乗ってしゃべるわたしもわたし。きのうデイケアセンターで加藤さんと再会!...おかげでというわけじゃないけれど、なら梨とりをはじめて語って、三郎に剣を持たせるのをすっかり忘れてしまい、大蛇と沼のなかで格闘させてしまった。いやはやこれぞ再話だ。みんなみんななにかにむかって一生懸命歩いてる。

百十六の昼        (2003 5   22)    小・民話考

 三者面談のあと、図書館に行く。偶然津谷さんの再話集 ”月の光でさらさっしゃい”を見つけた。童心社の若いひとの童話シリーズの一冊だった。”わたしがちいさかったときに”と”光る砂漠”がわたしの本棚にもある。懐かしさがこみあげて手にとった。雪娘など胸に迫るものがあった。縞男....もおもしろかった。衝撃だった。

 わたしは民話は自分では語らないし人が語るのもよほどのひとでないかぎり聞きたいとは思わない。どこか小奇麗に刈り込んだまたは砂糖菓子のような、つくりものめいた民話は、それはそれひとつのものがたりと考えればよいのだが、民話と銘打たれると引いてしまう。民話とはもっと生命力に満ちた猥雑なそのなかに残酷と美しさ、生と死をたたえたものではないかと思う。わたしが語る唯一の民話は松谷みよ子さんの再話”月の夜さらし”だった。

 一度、語り手たちの会のメンバーの語り、会津弁の語りを聞いたことがある。方言を持たない都市の語り手であるわたしにあのような土俗的な力ある語りができようか。それでも津田さんの再話は勢いと生命力がある、一度は語ってみたいと思ってアマゾンやクロネコのブックサービスを検索してみたものの 絶版になっていた。


百十五の昼        (2003 5   21)  眠る意思

 サイシンで支店長さんと石川さんとお化け話をした。でるわ、でるわ、おっかない話、不思議な話、ちょっと笑っちゃう話。亡くなったひとより生きてるひとのほうがこわい、という落ちであった。マジで怖い話の特集を組もうかなぁ、どなたかこわい話があったら教えてください。
 
 会計事務所の又さんがきて今年は落とせる不良債権がないからと決算の納税について心配していた。八月決算のことを今から心配してもまだどんな目が出るかわからない。そのときはその時、と笑ったが、夕方いすずさんにきてもらって、10月法改正で車の入れ替えをしなくてはならないのを6.7.8月に前倒しすることにした。車検の分散もあるが、諸費用1台あたり4.50万と1台/一月15〜20万の減価償却費を計上できるからである。
 売り上げは欲しいし分不相応に利益が出ては納税費用を捻出するのがたいへんだし、悩ましいことこのうえない。栄養はとりたいがダイエットしたいおねえさんの気分。贅沢な悩みですがと又さんが言っていた。それでもダメ出しで営業にシゴトをもっととるように、現場に人間ノムダを省くように指示する。効率の追求ばかりがいいとは思わないが、生き残りをかけて最大限の努力はしよう。

 このところ シゴトの帰りがおそいので、居眠りシナガラキ-ボードを打っている、体が眠りたいと意思表示をしている。



百十四の昼        (2003 5   20)  無意識

 車のキーが見つからないので一日、家のそうじをした。タクシーでケヴィンを動物病院に連れて行った。トリミングをしてもらって、前のケヴィンとは別犬になった。

 ひとの脳で使われている部分はたかだか10%に過ぎない、。無意識の領域は暗い海のように果てしがない。語りたい衝動はこの暗い海から発している。そしてやはり聞き手の無意識の領域に届けることを希求する。

 無意識の領域にはいったいなにがあるのだろう。、ひとつは今生の過去におけるすでに忘れられてしまった記憶、もうひとつは過去生からこだまする記憶、そしてひと、人類としての共通の記憶である。

 無意識の領域にあるものについて、意識の上で伝えるために必要なのはイメージする力だ。題材は自分がイメージを強く感じる、心底語りたい、描きたい、表現したいものならなんでもいい。なぜならものがたりを伝えるのではないからだ。ものがたりを借りてその奥にある真実を伝えたいのだ。
 それは近代の合理性、効率性の追求、いわゆる科学的なるものの考え方によって喪われ損傷した全的な自己の復元、すなわち生き生きと生きることであり、ひとが魂の奥底に抱くありうべきひとの姿と文明の甦りへの眼差しであり試みなのだ。

 語ること、語りを聞くことで癒されるのはそれぞれが抱えるトラウマが、ものがたりを通して共有され受けとめられること、そして共感と理解によって語る場が原初の共同体に近い愛の磁場を持つものに変わるからではあるまいか。そのうえに語りはただ個々の人生の癒しだけではない、はるかな地平を抱卵する。しかし、それは語り手ひとりひとりのこころざしにかかっている。


百十三の昼        (2003 5   19)  迷走

 朝6:30に家を出て、箱根ターンパイクまではよかったのだ。十国峠のドライブインで鶯笛を商っているおじさんに道を聞いたのが間違いのもとだった。伊豆スカイラインの玄山で下りるところを冷川までいってしまって、それから迷走がはじまった。伊東方面に向かったものの、天城から浄蓮の滝を経て下田にくだり、再び熱海を目指した。途中”和むら”で磯料理をいただき、目的地についた時はすでに4:00をまわっていた。

 さて帰途、 あいにく終日の曇天であったのが 富士のお山の裾野から黄色の光がひろがり、やれうれしと思ったもつかの間、下りに入るや十国峠は深い霧に包まれてしまった。20メートル先は立ち込める霧に遮られ、ガードレールの向こうは白い闇が重なるばかり、奈落の底にいるのやら天上にいるのやら....結局小田原に下りるはずが湯河原の海沿いの道に下ってしまった。

 迷いながらもかずみさんと末っ子と三人の道中は楽しかったのだが.....実に、わたしたちは似たもの夫婦であったのだ。事前の準備もなく、道に迷っても行け行けどんどん、行き着くところまで突っ走るという行動パターンがね。ぜんぜん合理的でない、感覚的な 明日のことは風任せといういい加減なスタイルでよくここまでやってきたものだと かずみさんの横顔を見ながらわらってしまった。かずみさんは振り返らない。わたしは途中でヤバイと思うと手をひっぱって強引に下生え生い茂るわき道を切り開き切り開き活路を求めてきた。あたって砕けろ ただ心意気だけが武器だった。

 お互い嫌気もささず 助け合ってこられたのは根底に似たところがあったからかと思う。それとも次第に溶け合って似てきてしまったのかもしれない。力に自信があったから、のしてこられたのだが、これからはこうはいくまい。道を間違えたと思ったら、引き返すのも勇気。万が一 その行く手に目を瞠るような風景が広がっていようとも、川のせせらぎが滴る湧き水が気をそそろうとも。

 藤、桐、アカシヤ、えんじゅ(たぶん)、ミモザ(もしかして)の花々が目を楽しませてくれた。箱根の鶯はとりわけ鳴く声がさえざえとしていた。浄蓮の滝のジェラートがおいしかった。和むらのキャベツと笊豆腐が美味しかった。ただしタレよりは生姜とねぎの薬味で食したかったけれど。

 おや、寄り道したからおもしろかったのかしら。もちろん早く着くことが人生の極意ではないし、正確な人生などというものはありはしない。苦も楽も存分に味わい泣いたり笑ったりして ああおもしろかった...バイバイとお別れしたいものだ。、



百十二の昼        (2003 5   18)  パターン

 じっくりひとをみていると、ものごとの対応にそのひと固有のパターンがあることに最近気づいた。なんども同じあやまちを繰り返すのは傍からみれば不可思議で、なんでわからないのだろうとどやしたくなるものだが、当の本人にしてみれば、選択肢などはないのである。道はただ一本目の前にあって、それを進むしかないのだ。
 このパターンを規定しているものはいったいなんなのだろう。教養、視野、知恵、環境 それだけではない。無意識の領域に促されて反応し行動を起こしているような気がする。無意識の領域とはなにか。
眠くなったので今日はここでおしまい。あしたは熱海です。

百十一の昼        (2003 5   17)  背中

 もうずいぶんと昔、NHKで越路吹雪のシャンソンの特別番組があった。ドラマティックリサイタルというタイトルだったかもしれない。背も露わな衣装もすばらしかったし、歌もよかった。けれどわたしの目を奪ったのは越路吹雪の背中だった。肩甲骨が浮き出ているとか背骨がくっきりと影を落としている...というような背中ではなかった。脂の乗った、もう少しで目を背けたくなるような、でも見ずにはいられない熟しきった女の背中だった。あの背に匹敵するといえば山岸涼子の妖精王にでてくるクイーンマブの妖艶な背中しか思い浮かばない。
 男は背中で語るとかいうけれど、わたしは男の背中に惚れては失敗すると思った。男の後姿に駆け寄り、抱きしめたいとしたら、それは男の敗残や落剥もしくは弱さにこころを惹かれている兆しがある。滅び行くものに惹かれるさがはありがちなものであるが、男は前を向いていくのがいい。といって忘れがたい男の背にわたしはこころを残してきたのだった。

百十の昼        (2003 5   16)  転生

 ケルト、現在のアイルランドは書き文字がなかった。ひとびとは口承でものがたりを伝えた。6.7世紀にキリスト教の僧侶がケルトの神話などを文字にして残したのだが、その際、キリスト教の教理にあわないものは切り捨てられたらしい.。ともかく残された文献からケルトのひとたちは魂の不滅、転生を信じていたと思われるのだ。浅学なので断言はできないが古代宗教、また神話などでは転生はごくふつうに語られる。わたしの通った教会では転生はなく、ひとびとは塵になり大天使ミカエル!?の吹く喇叭の音で甦る。原始キリスト教ではどうであろう。

 転生に(厳密にいうとたとえば女性が女性に生まれ変わることは再生といい、異性にまた動物などに生まれ変わることを転生というのだそうだ)にこだわるのは、わたしは体験から自分が転生したと確信しているからである。それもあって、科学でも近代宗教!?でもない古代のあるいは先住民族の神話にそのことがごくにあたりまえ書かれているという事実にとても惹かれる。古代の神話には共通したキーワードもいくつかある。たとえば宇宙樹、地殻変動・洪水による終末論の残片などすこしずつ探ってみたい。

 さて、ケルトの神話によれば死はながい生のなかのひとつの期間に過ぎない。死後の世界は、人間の時間、空間の限界を超越したところに存在し、すばらしき人々は穢れを知らず煩悩もない。しかし(生者であって)訪れたひとは帰って物質的世界に触れるととたんに老い衰え塵に帰してしまう。ただし冥府は多くの異なった視点がある共存地域であるようなので至上の天国ばかりではないようだ。

 ならばディアドラとノイシュは来世を誓えばすむことではないかと思ったりして   ものがたりを見直さなければならなくなる.....さて、どうする?


百九の昼        (2003 5   15)  長い日

 サイシンに給与振込みに行って支店長に声をかけられた。コーヒーをいただきながらおはなしする。気にかかっていたことがふたつ解決する。プラントを見にいってくださるようお願いする。語りの会を開くのにどうかとべにはなのホールのパンフレットを持ってきてくださった。ついに省力化のためファームバンキングを取り入れることにする。
 東京海上の高橋さんと担当のかたにきてもらって、社長、営業、現場代人に請負賠償ならびにPL保険の適用範囲の説明をしてもらう。清華寺の造成について心してかかってもらうためである。それから全体会議。4月の損益3年推移と5月きのうまでの実績と予測。日次決算の車の損料を下げる。10月の法改正?に備え、いすずの小野寺さんと火曜日打ち合わせ。リョウのおばさんと父親に手紙を書くこと。


百八の昼        (2003 5   14)  雨の音が聞こえる...

 惣のことは惣に任せて今日から早く家を出ることにした。8:00に事務所に行った。アルバイトの新田さんのこと、運搬の日報、埋め立ての保険など懸案を片付ける。
 不思議な一日だった。ふたりの友人が習っている語りの先生が実は志を同じくするひとだと知った。まだ返事はしないで時が満ちるのを待とう。人生は緻密に織り上げられたタピストリのようだ。あるべき場所に糸が置かれ経糸、横糸が交叉するうち運命が織り上げられる。さまざまなひとがいてふれあい、愛し合い、憎み嫉妬し、野心と日々のつつましやかな営みとそれでもかなたへ向かう眼差しと...こうして織り上げられる時代をこえた絵巻の織り手は誰なのか、わたしたちは一筋の糸でしかなくてひとつの終焉そして混沌にむかうのみだ。
後上さんの事務所でうちあげに出席する。そのあと図書館でケルトとインディアンについて調べる。

 眠くて倒れそう、つづきはあとで......ケルトの死生観、 死後の国、転生など


百七の昼        (2003 5   13)  イメージ

 声楽の勉強はなぜ個人レッスンなのか.....よくわかった、シャンソンの集団のレッスンには実がないと思う。今日は2曲、”目を閉じて”と”愛の賛歌” けれど曲のうえを撫でているだけ。自信過剰だと思われようがまだ4回目のわたしの歌がたぶん一番シャンソンになっている。それは譜面のかなたにイメージを掴んで歌っているからにすぎないのだが。

 習い事はなにをするにしても 一流の先生につくのが早道だ。一流というのは現役としてそうである必要はない。豊かな人間性、深い洞察力、器質的なものの熟知、的確な伝達能力、教えることへの情熱。

 きのうの刈谷先生のレッスン 声は深いところから出すそして軽く。 響かせる。 やわらかく。 倍音 頭音 脳味噌が入ってないイメージ。一箇所にあてる。 イメージは大切だなぁ。高温が頭の上から出るとイメージすれば出るから不思議。途中で声をとどまらせようとイメージすればとどまるから不思議 。 シャンソンや語りにも応用が利きそうだ。モスでお茶それから事務所に帰って会議。難問山積。


百六の昼        (2003 5   12)  ファンタジー

 ファンタジーの王国に入る鍵は”こどものこころ”である。おとなになってもこどものこころを持ちつづけていられるひとに、魅惑に満ちた懐かしくさえある世界の扉は開かれている。
 フィリパ・ピアスは「トムは真夜中の庭で」のあとがきでこう述べている。
ハティはおばあさんになって、思い出のなかにふたたびじぶんの過去を生きはじめたときに、トムをちゃんと見ることができた。完全にみとめあった瞬間に、ハティはむかしのままの少女として、トムの抱擁を受けるのである。おばあさんは、じぶんのなかに子どもをもっていた。私たちはみんな、じぶんのなかに子どもを持っているのだ。

百五の昼        (2003 5   11)  ノンフィクション・
                           フィクション・ファンタジー

 母の日、娘たちからチャームがたくさんついたネックレスのプレゼント。午後は本棚から沢木耕太郎、海老沢泰久、佐木隆三......のノンフィクションを出して読んだ。むかしは日に何冊も本を読んだものだが、ちかごろは絶えて読まない。ひとは入力するより出力するほうが快感なのではと思う。貯めるより消費、食べるよりエネルギーの消費である。歌う、踊る、語る、書く、描く、働く、運動することのほうが読む、聞く、見る、観るよりも充実がある。わたしにかぎっていえば何十年も溜め込んできたので、今は消化そして昇華しエネルギーを放出するときなのだ。

 ノンフィクションはたとえは適切とはいえないが、ある種の再話である。事実に自分を乗せて表現する。だから時代や人物はゆるがせない。また題材の鮮度もあるので歴史に耐えうるノンフィクションはそう多くはない。そして刺激的なできごとに触発されることが多いから、おおむね暗い。トルーマン・カポーティーが冷血を書いたあと、しばらく筆を折っていたのも、あまりに深い人間の闇に飲み込まれた所以であろう。

 さて、フィクションである小説が決定的に異なるのは、時代、場所、人物のすべてを虚構でなおかつ血肉が通い、息吹さえ感じるものとして構築しなければならないという点である。ノンフィクションまた紀行の作家として名を成した沢木耕太郎もフィクションでは時代背景に齟齬をきたし自滅した。たとえば戦後を舞台にするなら、電車や路線の名称、運賃、家屋のかたち、家族の形態、郵便事情、配給事情、学校のありよう、婦人のファッション、占領政策、貨幣価値など史実に即した情報を知ったうえでなければ、小説世界は破綻する。

 ただしフィクションにおいて唯一、史実を考慮しないでいい分野がある。それがサイエンスフィクションとファンタジーである。背景を無視するのではなくこれこそ想像力を駆使して、ひとつの則の支配する時空間をつくりあげるのだ。事実に拘束されないということは逆に作者のイメージが豊穣であるか貧しいか、その精神性の高さをも審らかにする。ファンタジーはこどものためだけの読み物ではない。いな、こどももおとなも、ひとつの魂をもつものとしてその庭に遊び深淵、真理を覗い知ることのできる開かれた場所なのだ。ただし入り口は広いがそこに入る者の持つ鍵によって見える範囲は異なる。これはただ年齢によるのではない。

 ピーターパン(ケンジントン公園のピーターも小さな白い鳥も)はおとなのために書かれたものがたりだった。ディズニーはピーターをただの小英雄にしてしまったけれど、ピーターの魅力はそんなところにあるのではない。生まれてすぐゆりかごから逃げ出したピーターは、本来いるべき場所に帰りたくても帰れない、おとなになることを拒絶しているのではなくほのかに希求しているのだが、現実と向こう岸とのあわいに棲まざるを得ないのだ。ピーターの抱える矛盾はそのままわたしたちの選択であり矛盾である。憧れを知り、あこがれのままに飛び立とうとする。けれど一度選んだらもう元へは戻れない。成熟とは老いることである。老いを知らないピーターはだから成熟もしない。自分の身に起きたこと、痛いことも裏切られたこともすぐに忘れてしまう。究極の成熟である死も知らないかわりに。
 ピーターは幸せな少年だろうか!?真のファンタジーはふわふわした夢のようなものではなく実は苦いものなのだ。

 ナルニア国物語、指輪物語、ゲド戦記、ものがたりの奥に語られているのは重さは別にして闇との戦い、それも内部にある闇との戦いではあるまいか。まことの闇は外にあるのではない。内なる闇と巨大な闇は深く繋がっている。光と闇、生と死の秘密、この世の成り立ちの秘密が仄見える。登場人物は選択しなければならない。そして 果を受けとらなくてはならない。このように良質のファンタジーは物事の本質を時代や場所を超えてわたしたちに示してくれるものがたりなのだ。

 ゲド戦記のアースシーの風をまだ読んではいないことを付け加える。ハリーポッターについては読み始めたもののすぐ放棄した。それはこどもにとって楽しい読み物であるかもしれないが、香気とわたしが真のファンタジーの条件と信じてやまないものが感じられなかったのである。イギリスのファンタジーの系譜について、いつかまとめてみたいと思っている。


百四の昼        (2003 5   10)   かたりかたり

 県立図書館でおはなし会 今日の担当の方ははじめておはなし会をなさるそうで「どきどきしています」とおっしゃっていた。キャベツの手遊びをして絵本が二冊「おかえし」がおもしろくて わたしは声をあげて笑ってしまった。「わたしのワンピース」ではうさちゃんが空を飛ぶとき本を動かすと ほんとうに自分も空を飛んでいるような気がした。こどもたちもおとなたちもとってもたのしそうだった。

 事務所で給与計算、5月からようやく総報酬制になるので設定の変更をする。今までは月額による算定だから賞与のないひとにとっては不公平このうえなかった。しかし これで得をするのは やはり お国でしょう。年金ももらえるものやらわからない。

 リョウがひさびさにきて、パソコンをいじっていった。なんだかうれしい。


百三の昼        (2003 5   9)    再び

 さぁ 今日から新しい日、自分が選んだ道だから水溜りも石ころも路傍にゆれる矢車草の滴る青も、なにもかも受け止めよう。振り返らないで前に進もう。
 
百二の昼        (2003 5   8)    携帯

 末娘の誕生日、リビングのカーテンをかけかえた。白地にブルーの花模様のカーテンをかけると部屋の温度が2.3度下がったように感じた。玄関の絵もミュシャの桜草から羽に代える。バタバタと夕方から準備をする。生協の駐車場で当の娘と大人同士のような会話をした。わたしの話を聞いてくれた後で、5日、弟の家の1Fでみな聞いてしまった、泣いてしまったと聞いて熱いほど痛かった。可哀相なことをした。それで惣の様子もおかしかったのだ。親のことを悪くいわれることほどこどもにとって辛いことはない。

 この子は幼いころからあどけなさはそのままで大人びたこどもで、いい話し相手になった。4歳のときのこと。福島からの新幹線だったか特急だったかのなかで「おかあさん、女として生まれてしあわせだったの。おかあさんは男として生まれたほうがよかったのではないの」と問われて絶句した記憶がある。携帯がほしくて一ヶ月以上さわいでいたのをかずみさんがバースディプレゼントにくれたものだから、うれしくてほお擦りしたりしていた。わたしはカーテンをとりに行ったついでにパソコン机の安いのを見つけて(2999円!)一ヶ月振りでセットした。床の上ではやはり疲れる。これで明日からいよいよHPつくりにとりかかれる。

 惣を学校に送ったかえりにどんぐりに行った。モカを頼んだ。牛人をテキストなしで語ってみる。ほぼ入っている。当日には語りでもできるだろう。しかし今度は朗読でしてみよう。ディアドラも何冊かの発注したテキストが届くのを待たずにあらかたかたちができた。あとは戦いの場面、ほんの数行だけ。18〜20分くらいにはなりそうだ。ことばが熱く立ち上ってゆらめくようにものがたりが命を持つのを待っている。


   ことばと

 劇団埼芸 の森元さんから封筒が一通....中に手紙と「雪やこんこん」のチケットとちらしとお金が入っていた。お礼をいただけるとは思わなかったが番傘の素材集を買うのに散財したのでうれしかった。ちらしにはスタッフのなかにわたしの名ものせてあって、それがわたしをしあわせな気分にしてくれた。番傘の赤が深い色でなく緋色になってしまったけれど、原稿とさほど遜色なく仕上がっていてうれしい。感謝を表すのにありがとうということばと、気持ちを形にするモノやお金などと共に差し出せるということはなかなかできないものだ。埼芸の座長さんや森元さんの器量を感じ、わたしもかくありたいと思ったことだった。

 5/24.25に行く山形行きの帰途の切符の座席指定をとりに緑の窓口に行く。事務所それから市役所、銀行などあちこちをまわって、機嫌が悪いときのならいで率直すぎるほど率直な物言いをした。周囲のことなど目をくれず自分の気持ちを伝えるのは実に簡単である。言葉数はいらない。話術もいらない。受け止めたひとは目を見開きあっけにとられ毒気を抜かれたかおをしている。知ったことではない、そんなにいつも気を遣ってはいられない。最後に再び駅、自転車置き場の順番が一年待ってようやくきたのだ。自転車置き場の管理人さんがいいひとで、問わず語りに話すと、「おくさん、そうわるいことばかりじゃない、いいこともあるからがんばりなさい」といたく同情され励まされて家に帰る。


百の昼         (2003 5   6)    春爛ける

 大台に乗った。夜とあわせるともうすぐ200になる。千の昼と夜は最初思ったように遠い遠い先のことでもなさそうだ。
 麦茶を沸かすようになってもう5日、もうすでに梅雨の兆し。長いながい冬のあと、春はあっというまに去ってしまう。

 宮部みゆきの「あやし」ことのほかおもしろかった。


九十九の昼      (2003 5   5)    愛惜

 兄弟4人が母を囲んで集う日だった。気が進まないまま昼過ぎでかけた。もう佳境で、私以外はワインに一家言があるので、それぞれ持参のワインの薀蓄を傾けてにぎやかだった。カリフォルニア産よりフランスのきりっとしたワインが好きだ。でもお酒はそんなに好きではないし、酒を飲むひとがやわらかになるのは好ましいけれど解け崩れるのは好きではない。

 チーズと自家製のパンとスモークサーモンのマリネ、母が炊いた蕗がおいしかった。自閉症の甥、リョータの語彙がとても豊かになっていて、満面の笑顔がかわいかった。ソーシャン、ソーシャンとわたしの息子を慕って追いかけてくる。タクヤは大人びて静かに笑って大人たちと話しを交わしている。あの反逆児はどこに行ってしまったのだ?ひとのこころを試すようにきついしゃくるような目で見あげていたタク、かと思うと屈託のない高声で笑い転げていたタク、不機嫌で手をつけられないかと思うと急に優しくなって微笑っていたタク、アンジョンハンによく似た甘いマスクの背の高い少年はわたしの愛したタクではない。webの海に消えてしまったチャコみたいにタクはどこかに行ってしまった。死でも失踪でもない別れもあるのだ。

 帰りは北浦和駅まで歩いた。娘は赤い華奢なかかとの高いサンダルをスニーカーに履き替えた。13歳の少女のはじめての赤い靴、これから少女は幾度胸をときめかせて新しい靴を履きおろすのだろう。

 天王川は暗渠になり、その上は遊歩道として整備されていた。遊歩道を歩き、三角山の側を通ると三角山はコンクリートに固められ、駐車場になっていた。月だけが変わりなく照らしている。なだらかな坂道の両側は瀟洒なマンションが立ち並ぶ。鬱蒼とした竹やぶは跡形もない。老夫婦が住んでいた古い平屋、紫の花が咲き乱れていたその庭もとうに姿を消していた。昔のありさまをしのび切なく思うのは、過ぎし日の自分への愛着なのだろうか。わたしはここで日々をおくった。毎日どきどきしながら懼れ夢みて、そしてこの街を逃れて自由に生きたいと望んだ。わたしは自由になり、代償として抱いてきたヤサシイものたちを失い、世故にたけ、幾分かの強靭さを身につけた。けれどもこの愛惜はなんだろう。なぜわたしは泣きたいのだろう。戻れるものならあの暗い夜に還りたいと痛切に思ったのだろう。北浦和の駅につづく裏道、今はきれいに化粧煉瓦が敷き詰められ、白い灯りが照らしているそこで、わたしは一瞬、懐かしいどぶの匂いを嗅いだ気がした。
 

九十八の昼      (2003 5   4)    新緑

 かずみさんが新緑のなかに行こうよ....というのでむすめたちと4人で栃木まで足をのばした。さらさら水が流れる渓流の傍、かずみさんはさっそく炭を熾す。わたしは草地に寝そべっている。せせらぎの音がここちよく耳に響く。青い草と花の匂いがむせるようだ。梢をとおして空がひろがる。鳥が視界を横切ってゆく。草を吹き抜ける風はわたしの額にもかるく触れてゆく。知らぬまに唇からことばが零れでる。ものがたりの世界が眼裏に蜃気楼のようにたちのぼり、草地はたちまちディアドラとノイシュが寄り添うアルパの地となり、杉が覆いかぶさる小道を蓑吉が背に薪を負って足早に過ぎ去る。目を瞑ると光と影が躍る。

 肉が焼けたからおいでという声に、呼び戻されて森の中。青いけむりが空に昇ってゆき、空の下でとる食事の美味しいこと。ケヴィンは野生に帰り
走り回り、かずみさんも野生に還ってしまった。ひとは安全で快適な暮らしと引き換えに多くのものを喪ったのだ。けれど森の暮らし、生と死が拮抗している場所に戻ろうとて、それは無理なことだろう。

 たくさんの生き物を贄にして、大地や水や空気を汚してわたしたちの文化は、近代的生活は成り立っている。ホピの予言のようにいずれわたしたちや子孫がそのつけをからだで支払わなければならぬとしても、今は生活のなかで、喪われてゆくもの、木々や動物やひとびとの痛みに思いをはせながら、自分の暮らしを最小の悪にとどめようと地道な努力をつづけるしかない。


九十七の昼      (2003 5   3)    憲法記念日

 窪塚洋介は興味深い俳優だ。ピンポンと狂気の櫻、テレビでは漂流教室と池袋ウェストパークを見た。努力ももちろんしているのだろうが演技者の多くが望んでも得られぬ、巫覡に遠くないすなわち降りてくるものを依らせる天分を持っているように思われる。狂気の櫻を演じてから、少し壊れたそうだが、あのような演技者であればそういうこともあるだろう。もし悪魔が神を演じるとしたら神の属性を自分の物にするであろうとどこかで読んだが、素人劇団にいるわたしでさえ、娘たちから「おかあさんは光太郎の恋に出てから変わってしまった」と言われる。がさつで品がなくなったらしい。このつぎは「この、エロじじい!!」と叫んだりしない上流夫人の役がこないかしら。

 さて次男が窪塚くんを好きなので、そういえば魔界転生が本棚のどこかにあったと探してみた。上巻だけはあった。沢田研二が天草四郎を演じた頃買って読んだのだが下巻は紛失したらしい。次男は一日読みふけっていた。

 かずみさんは鶏小屋と畑、次女はギターのレッスンのあと知らない街を歩き、長女は終日テレビの前で過ごし、わたしはケヴィンと散歩、牛人の朗読とシャンソンの練習、午後は本棚で見つけた幻想小説を読んで過ごした。小松左京の待つ女、川端康成の片腕などがおもしろかった。それから武田泰淳が中島敦の評論をしているなかで中島敦が中国古典のなかで惹かれていったのが実に父親を息子が殺す、息子が父親を憎むというテーマであったと述べていることに目を洗われる思いがした。
 そして中島敦の文学の基調をなすひとつが牛人の一節....真っ黒な原始の混沌に根をはやした、世界の厳しい悪意といったようなものへの懼れ
.....と読みすすむうち納得させられるものがあった。朗読を重ねていくうちについぞ力が入ってしまった部分と重なったからである。

 こうして休日は静かに過ぎていった。


九十六の昼      (2003 5   2)    響くことば

 TOPページの窓に掲げたのは朝日新聞に掲載された憲法前文の特集記事のなかの10代の前文である。作家池澤夏樹さん、翻訳家であり語り手でもある池田香代子さんの訳もいっしょに並んでいたけれど、わたしは女子中学生が書いたことばにこころを打たれた。  愛されなくても。/遊べなくても。/助けられなくても。/愛そう。/守ろう。  のところで泣きたくなった。つい先日も埼玉の中学生がイラクの子どもたちのことを書いた文章を読んで、心臓をぎゅっと掴まれたような気がした。若い子たちのみずみずしい伸び行く若葉のようなことばを見ると、今時の子たちはと、心配することもないのかなとほっとする。
 一方でインディアンのホピ族の長老のことばにもこころを打たれた。オーストラリアの先住民族アボリジニを検索していて見つけたのだ。アボリジニも書き文字を持たない。狩猟採取民族は分かち合うことが自明の民であり、自然界の一切に精霊が宿ると信じ、畏れを知る民である。自然と調和して生きよ....ということであろう。
 ホピ族の予言によれば ひとのとどまることを知らない欲望のために、母なる地球が病みこのままでは破滅にいたる。そこで今までにも起こったことがあるが、欲望に生きるひとびとはすべてのものをつくりたもうた造物主によって地上から一掃されるというのである。戦い、未曾有の飢餓、天変地異のために......それをなんとか止めようとして、ホピ族の長老は予言を国連に届けた。
 インディアンの土地を収奪した、アメリカの白人はどのような顔で受け取ったのであろう。ホピの予言には甘い舌やフォークのように先が分かれた舌を持った他の民族(バハンマ)が自分たちを支配し 暮らしを変えさせようとするであろうということまで伝えられていた。
 日本でもまた、明治政府によって先住民族アイヌが土地を奪われ、教育、同化の名のもとに何万年も続いた文化さえ奪われたことを忘れてはなるまい。アボリジニもインディアンもアイヌも響くことばを持っていた。それは神や自然への畏敬が根底にあるからではないかという気がする。ひとびとが地球に住んでいるのではない。ひとは地球に生かされているうちのひとつの種族に過ぎないのだ。
 わたしは民話より神話を語ってゆきたい。神と自然とひとびとのこころが今よりずっと近くにあったころのものがたりを、約束と成就の物語を語り継いでいこう。民話とは畢竟、あるべきことあるべき姿ををよりわかりやすく噛み砕いて伝えたことがその始まりではなかったかと思う。

九十五の昼      (2003 5   1)    降る

 櫻の花が散り、蘂の雨が降り、道を紅色に染めた。それから雨が降り、日の光が降り注ぎ、いつか薄紅も紅も色を喪って、土に還ろうとしている。早いものだ。この時を待ってようやくわたしは玄関やガレージや道路を掃き清めた。花びらも蘂も母なる櫻の木の根元へ戻した。来年ふたたび甦ってくるように.....堀にそって桜並木が続いているけれど、わたしの家の前の櫻はとりわけ幹が太く枝ぶりが立派であるように感じる。夏の暑い日は夕べに水を撒き、期限の過ぎた牛乳や草木灰を撒いたりもする。それよりよく声をかける。ありがとうとかきれいだね...とか。櫻が喜んでいるかどうか...それはわからない。けれど、おそらくわたしが彼岸にいって後も、この櫻はなおも見事な花を咲かせ続けるだろう。


九十四の昼      (2003 4  30)    夢に

 四月も終り。そう、四月は生まれ月のせいもあってか、過去にいろいろなことがありすぎるほどあったし、こども時代も親になっても忙しい月なので、この年になるまで気がつかなかった。な・ん・て美しい四月、一年中で一番美しい月かもしれない。

 末日なので支払いが忙しかった。午前中は郊外まで車を走らせて再話に励む。午後、セミナー、語り手たちの会会費、交流会会費、衣装代を振り込んだら、山形の交通費を忘れてしまった。かずみさんの新しいベッドの布団カバーを買って、ようやくロールアップカーテンの寸法をニトリに伝えて、マシントレーニング用にNEWバランス?とかの運動靴を買って、数ヶ月預けっ放しのミュシャ「羽」をとりにいった。事務所で書類整理、予定表をつくって罪悪感を紛らわす。そしてわたしの夜がはじまる。

 お仁伯母さんの夢を見たのはもう10日も前のこと、伯母さんはひとりで古い家にいた。余所行きの着物に袖を通してでかけようとするおばちゃんにわたしは「縁側のガラス戸をあけていっては物騒だ、近頃空き巣が多いようだから」などと声をかけている。20代の身軽なわたしは真っ白な洗濯物をとりこんで畳みながらおばちゃんと二言三言話をする。何を話したかよく覚えていない。おばちゃんが亡くなったのは、24年も前だった。夢を見て以来、いつも おばちゃんがわたしのそばにいるみたいだ。


九十三の昼      (2003 4  29)    新緑

 冬、裸木に雪が積もっているのを 一瞬 櫻の花の満開と見間違って息を呑んだことがある。今度は新緑の葉が白々と月光に透けているのを花と見て仰天した。

九十二の昼      (2003 4  28-U)  打ち上げ

 例年、打ち上げはお花見をかねて、4月のはじめごろ、菖蒲工業団地の櫻並木の下で開くのだが、道交法の改正もあり今年は会社でバーベキューをした。生ビールの道具を借りてきて、根岸さんに焼き鳥を焼いてもらいドラム缶をたてに斬って作った焜炉を3台ならべて、肉だの野菜だの焼きそばだのそれぞれ焼いた。わたしはゆうがた行ってお結びと浅漬け、トン汁、果物を用意した。焜炉のまわりに椅子をならべてわいわいがやがや。福田さんが後上さんのトップ当選を喜んでくれた。仲地さんもきた。アルバイトの男の子と女の子はどうやらとてもいい関係であるらしい。幸福感がこちらにまでつたわってくる。去年生まれたマサル君のジュニアハヤトがかわいかった。わたしたちが仲人をしたタカユキさんのこども、アリサとセイヤもかわいかった。そのうちアベちゃんちの4兄弟にカイちゃんワタナベ君の子もきて大賑わい。こっちではパイオニアさんたちやママダさんがB級グルメ論議やらバイアグラで盛り上がっている。のべ50人くらいきてくれた。
 不況だけど助け合ってがんばろうと励ましあった。みんなが挨拶して(ちいちゃい子もみんなごちそうさまでしたといいにきてくれた)帰ったあとで社長と専務とこれだけのひとがうちの会社で食ってるんだから、子どもたちもこれから育っていくんだからがんばらなくちゃあだねと責任を噛みしめているようす。バーベキューの合間に、末の支払いと10日の支払い予定を組む。一月、一月、一歩、一歩進む。あまり先は見ないで、足元を見て進む。


九十一の昼      (2003 4  28)  魂鎮め

 池田香代子さんが「語りは亡くなったひとの供養のために語るのだ」とおっしゃったと櫻井先生のHPで見て、すこし違うと思った。
 なぜ語るか、それは亡くなった者への鎮魂のためだけではないと思う。否むしろ生き残ったものたちの魂を鎮め、生き続けるために語るのだ。愛別離苦の世にもまして、命を食らわねば生きてゆけないわたしたちは生きるだけで罪を重ねてゆく。その苦しみのなかで はかなく散った者たち、精一杯戦って死んでいった者たちを語ることは、その生が闇のなかで光輝いていたと死者を称揚することであり、抱いたのち空へ放つことであり、残ったものたちがみずからの生をよしとして受け止め歩き続けるためのものでなくてはならない。けっして甘美に追憶することでも感傷にふけることでもない。
 わたしは「おさだおばちゃん」を語り、いつか夏樹のことを語り、サライのことを語るだろう、けれど悲しみはしない。悲しむとしたら、かのひとたちの生を貶めることになろうから。生きることのいとしさとせつなさを共有し、そこにもかしこにも、過去にもそして未来にも、勇気をもってひたむきにたゆまず歩くひとびとがおおぜいいたことを、これからもいることを確かめるために、生きるために語るのだ。



九十の昼      (2003 4  27)   基地

 「茄子の苗を植えているから誰か手伝いによこしてくれ」とかずみさんからTELがきて、子どもたちを乗せおにぎりを差し入れに持って置き場に行った。久方ぶりに置き場を見たらあいた口がふさがらない。「これは、これはかずみさんの....」絶句していたら、わかなが「基地だね」そう、まさに子どもがつくるのを夢見るような基地だった。古ぼけたラジオがガーガー音楽番組を流し、そこら中に解体現場から持ってきた家具やら冷蔵庫やらショーケースが積み木のように迷路をつくり、犬がいてうこっけいがいて鶏がいて孔雀が2M以上もある羽を広げていて悪い夢を見ているようだった。

 かずみさんたら、「ほらさくらんぼがこんなに実ってるよ、こっちがグミでこれはキウイ、蕗にタラの芽」と自慢そうににこにこ、「あなた、こんなに散らかしておいたらご近所に迷惑よ」わたしはぷんぷん、かずみさんは「だいじょうぶだよ、もうすぐかたづけるよ」と上の空、息子を手伝いに残してそうそうに逃げ出した。喫茶店でケーキとコーヒーと妄想だか迷想だかを楽しんで迎えにいったらふたりともいなかった。

 夕方、投票の帰り ケヴィンをつれてふたりでプラントに行った。というよりかずみさんてばわたしに見せたくてしかたがないのね。わりときれいに片付いていてこちらは徐々にプラントの体裁が整いつつある。かずみさんの見果てぬ夢だ。それから県が造成した加須の広大な工業団地のなか、車を奔らせた。まったく売れてないのでどこまでも続く草原のようだ。それからケヴィンを放して、岸辺にそって咲いている菜の花の芽を摘んで歩いた。すみれ色から淡いオレンジの朧な空が全天見わたせる、真っ赤な夕日はゆっくり地平線にしずんでゆく、不思議な光景だ。子どもたちはてんでにみち連れをみつけて歩いて行き、これからはこうしてふたりで歩くことがふえてゆくのだろう。


八十九の昼    (2003 4  26)    おもしろかった

 うぐいすはおもしろかった。同乗したプロのウグイスさんがわたしのアナウンスを「聞いていてゾクゾクした、今まで他のひとのを上手いと思ったことはないのだけど。あなたのが一番気持ちが届くと思う。わたしのはただ大声で怒鳴っているだけです」といった。けれどもわたしもこの方から学んだことがある。営業のにおいもいささか語調にちらつくのだがつねに心が開いていて、車の外のようすを見ながらのアナウンスが臨機応変だった。プロとはなにかも考えさせられた。彼女は一週間コンディションを整え、最良のアナウンスができるよう心掛けてきたようだ。きのう終わったあとカラオ

 候補の方針、政策を理解し、賛同を得、票を得るためにことばをつむぎ、届けようとする。朗読や語りをするのと根本的には変わらない。作者のかわりに候補者がいて、そのイメージを代弁する。後上さんの街頭演説が心を打つのは、そこに紛れもない子どもたちと日本、そして地域の現状を憂い、思うことをなさねばならぬという意思が、当選したいという私欲をはるかに超えて感じられたからである。そしてそれだからこそ心をこめてうぐいすができた。後上さんの思いにわたしの思いが重なった。プロのひとと違うところといえばただひとつ、子どもたちへの愛がつけたしではなく営業用ではなく自分の心からのものだったという一点、聞かされているひとへの想い、そうしてそれを伝えるわざを語り手としてすこしばかり手にしていただけである。プロは仮に信じていなくても、そのようになりきる努力をするということ、最善を尽くすということであろう。

 わたしはうぐいすで語りをしたわけで、聞き手の姿が見えなくても、アイコンタクトができなくても聞き手への愛情と伝えたいメッセージがありさえすれば語りはできるのだった。畑や庭や路上から手を振ってくれるひともいて、そうすると声に力が出る。とてもいい勉強になった。後上さんが上位当選できますように......それにしてもつかれた。

 おとといから中島敦の「牛人」の練習にはいる。6/8が中島敦朗読会であるがこれもおもしろい。他のふたりは和服だそうで美女三人の競艶になるか、ならないか.....わたしは面倒だし中国の話だから和服は着ない。黒のロングスカートと上は白と黒の絞りでインド翡翠のネックレスを二連掛けようかと思う。6/14の響きあうことばといのちでは「わたしがちいさかったときに」を語らせていただく。もし山形でおはなしする機会があれば「芦刈」、セミナーでは自分史から。さもなければ「風のばら」、小川未明の時計も一度語ってみたい。

 本町小では3年生に楽しいおはなし、5年生にはできれば「わたしがちいさかったときに」図書館と児童センターはまだ決めていない。

 語りたい.....声を出すことの意味、いささかのわざ、信じて伝えたいこと、ささやかではあるけれど、試みて試みて自分の手で掴んだ今のわたしの語りを聞いていただきたい 魂に響く語りを語りたい。


八十八の昼    (2003 4  25)    門前の小僧

 久喜市議会議員候補者後上民子さんの演説カーに乗って3日。後上さんは一日15箇所以上の街頭演説会をしている。何度も何度も聞いているうちに門前のなんとやらで何が今市政に国の政治に求められているかみえてきた。市民の最大の要望は総合病院の建設であるが、年間予算207億円の久喜市にとってそれは容易ならざる課題であり、そのことは今後みなで検討するとしてと後上さんはいう。

 「子どもたちの教育こそが急務であり、20人学級の実現にむけて、財源の確保をすべきである。学級崩壊の原因は勉強がわかりすぎてつまらない子どもと勉強がわからない子どもによることが多い。一律に40人同じ教科書でひとりの先生が教えることには無理がある。税収は不況により減少しておりなにもかも総花的にできる時代ではない。継続事業の見直しを図り、市民のみなさんも痛みをわかちあうことがあるかもしれないので、市は市の財政の状態、継続事業の状態をもっとわかりやすいかたちで公開し共有し、市民も含めて論議をすべきではないか。
 今日本は不況にあえぎ、基幹産業は労賃の安い東南アジアに生産の拠点を移している。日本はこれからどうやって生きてゆくのか。新しい産業を生むためにも子どもたちが夢を持って生き生きと学べる場所があり独創性を発揮してゆくことがたいせつである。そしてわたしたちの老後を支えるのはこの子どもたちなのである。」

 これが後上さんの主張のすべてではない。またこのことだけですべて解決できるとも思わない。後上さんが例にあげた北欧でも、家庭の崩壊は進んでいるし若者についての問題がないわけでもないのだ。しかし地方の自治体で後上さんのようになすべきことを地道にこつこつ勉強し政策立案している議員がいる、まだまだ日本も捨てたものでもないかなと思った。見直して問題点をみつけて、新たなあるべき姿をめざして、できることから一歩一歩行動していく、実現してゆく。それしか道はない、国でも地方自治体でも中小企業でも。

 わたしは実は母への義理立てといささかでも語りの勉強になるかという期待とでウグイスを引き受けたのだが、自分のすべきことを受け止め、あきらめないで 歩きつづける女性に出会えて、うれしかった。後上さんの主張や政治家としての生き方に賛同してボランティアをしている多くのひとたちといっしょに働けて幸せだった。さぁ 後二日 がんばりましょう。


八十七の昼    (2003 4  24)    あした

 あしたが今日になる、今日がきのうになる、気が遠くなるほどつづいていた日めくりカレンダー、いつか来なくなるあした

八十六の昼    (2003 4  23)    野田さん

 中村会計の又さんが見えた。バカ言って笑って長さんの書類作って、そうそうに退散....今日も浦和に行く。去年の四月、妹の紹介で美容室はガロスタイリスト野田さんのところが行きつけになった。鷲宮のコンフュールモンパリの岩田さんのところへ4年くらい通ったのだが突然独立していなくなってしまってから しばらく不自由をした。

 美容院は歯医者と同じくらい女にとってはたいせつだ。口の中も髪もよほど信頼していないと触らせるのはいやでしょう? 岩田くんはパッキンで背が高くて ソフトなくすぐるような声の持ち主だった。ん..?そういえば呑んべでボディービルダーのところが野田さんと共通している。野田さんはよく切れる剃刀みたいな話し方をする。そしてふたりとも仕事にこだわりがある。店内も白くて無機的で無駄な装飾がなく美容院ぽくはない。わたしの居心地のいい場所はこういうところなのかな。

 ガロにはもうひとついいところがある。DMのデザインがドキっとするほどいい。それからアシスタントの若い子もスタイリストも多い。きゃしゃでもやしのように頼りなかった浅野くんが、シャキっと骨太になって髪も白と黒のツートーンで別人のようになっていた。でもはにかむような笑顔はそのままだ。「試験受かったの?」と聞いたら黙って下をむいてしまった。落っこちたらしい......やはり女性のアシの吉野さんの話によると今はスタイリストになるまで人にもよるけど4年はかかるらしい。なかなかの試練である。去年の浅野くんのように新人がはいっていた。背中をまるめて自信がなさそうにしているので「イイ男なんだから背筋伸ばしてみたら...」といったらシャンとしてうれしそうに髪を流してくれた。どうやらお流しもはじめてのようだ。

 パーマの待ち時間、本を読みながら、鏡を通してきびきび働くひとに目をやるのは とてもおもしろい。スタイリストは技術と話術が武器だけれど、それぞれの個性が際立って見ていて飽きないのだ。ひとり気になるひとがいる。ガタイのいい腕も一番いい人で、数をこなすとか売り上げとかより、髪をつくるのが心底好きなのだと思う。アシスタントにはあまりやらせない。野田さんとは対照的で一度 任せてみたいけど やっぱりまずいだろうな。ともあれ、吉野さん・浅野くん・あの子がどう成長してゆくか当分ガロから目が離せない。

  
八十六の昼    (2003 4  22)    絵本

 シャンソンのレッスン、”目を閉じて”   眸を閉じてくちづけしましょう だまって 甘い香りにつつまれていましょう♪  そのあとグッディーズカフェ、妹が焼いたりんごと胡桃のケーキを一切れ袋にいれてもらい、、ロイヤルパインズホテルの裏を食べながら歩いた。お菓子の好きなパリ娘みたいに若かったなら絵になるけれど、センチュリーの若いガードマンさんが笑っていた。

 須原屋の裏口から入って地下一階のカウンターを覗いてみたが叔父さんの姿は見えない。三階の絵本売り場にいってみた。新しい絵本がたくさんでている。「魔女になりたかった妖精」、「月光公園」などきれいな絵の絵本をみていた。後者は長野まゆみさんの絵に似ている。もっとやはらかでやさしい。おとなむけに語ってみたくなった。だってだってのおばあさん、かようびのよるなど他の方が語られたり読まれたりして心に残った本を自分の目で読み直してみた。絵本の部屋なら一日中だっていたいけれど、今日は会社の全体会なので駅に急いだ。

八十五の昼    (2003 4  21)    月曜日

 どこをどうしてもCATARI”CATARI”がアップロードできない。朝までビルダーの再インストールをしたり宙子から古いファイルをコピーをしたり、さんざんやってみてあきらめた。今日は選挙カーのウグイス嬢をする約束の日、8時10分前に事務所に入って、いざ出陣。ことばがつぎからつぎへと出てきてキャッチフレーズも適当に脚色してしまい、候補者からご注意を受ける。家のなかで聞いている方に届くように心をこめてことばを届ける。
 鈴木補佐に浦和に移管させていただきたい旨お願いする。ほっとした。労務費の支払い。3月の日報のまとめ、営業日報の分析、立て替え金の集計、入札用封筒の作成、関口労務士への書類作成、給与の修正、今日は仕事が片付いた。
 櫻井先生からメールが届いていた。先生もきのう代々木にいらしたのだ。胸のなかに大きな木が立っていて白い花がたくさん咲いているような、なつかしさがこみあげてくるような気がして、わたしは思わず目を瞑った。やはり、やはりわたしは先生のあとならついていけるような気がする。

八十四の昼    (2003 4  20)    日曜日

 心に響く語りの講座のアンケートをまとめていくうちに、このままにしてはいけない、講座に参加した方の、生まれて間もないやはらかな緑の葉のような語りへの思いを捨て置いてはいけないという気持ちがわたしをしめつけた。もう自分だけ語ればよいのではない。すこしだけ先を歩いているわたしには、若いひとたちをこんこんと水の湧く泉に、涼やかな木陰に、満天の星のもとにいざなう義務というのでもないが 心おどるつとめがあるのではないか。わたしにも櫻井先生がいらしたのだ。
 セミナーやNPOやおはなしの森や仕事関係や雑多な書類を十いくつかファイルにまとめた。なかにおはなしの種を集めたファイルがあって、とりどりのおはなしが、時がいたってわたしの口から語られる日をまっている。

http://www.toshiba-emi.co.jp/norahjones/

八十三の昼    (2003 4  19)    デモ

 渋谷に行った。反戦パレードに参加するために。なにしろ方向音痴なので公園通りをとことこ歩いていたら運良くデモ隊と遭遇し、最後尾について歩いた。直径70cmくらいの黄色い麦藁帽子にイラクの子どもの写真を下げて歩いた。パレードといえば、若者たちが鳴り物入りでミッキーマウスマーチの替え歌を歌って歩いている。なんだかそぐわない感じでわたしは写真が風に飛ばないように手でおさえながら歩いた。

 渋谷から原宿通り、街路樹はまだみずみずしく、歩道からあふれそうなほど見かけはしあわせそうなひとびとが街を闊歩している、みんなものめづらしそうにデモを眺めている。わたしたちなんかほんのひとしずくだ。ノドンが飛んできたら、東海地震がおきたらこのひとたちの幾分かは血にまみれて死ぬんだなぁとぼんやり考えていた。すべての交差点におまわりさんが仏頂面をして立っている。「ねぇ、おまわりさん、こどもが死ぬのはいやですよね」と聞くと うなづいてくれるおまわりさんもいた。

 このごろ、おかゆばかりでふらふらするし足は痛いし、キダムサーカスの前を通るころはもうくたくたで代々木公園に着いたときはほっとした。わたしはイラクの死んだ子どもたちを悼み、失われた手足、失われた家庭の幸せを悲しむために歩いた。3月20日からのこのやりきれない思いに今日でキリをつけて、語り手としてなすべきことをしよう。戦争のむなしさや痛ましさ、そのなかにもある人間の尊厳についてのものがたりを語ってゆこう。、愛とささやかな幸せと夢見ることのしあわせを語ってゆこう。


八十二の昼    (2003 4  18)    進む
 
 やせ我慢も限界になったので米雄さんの病院に行った。患者さんがたくさんいた。久しぶりに知人にあって話を聞いたら、お孫さんが本町学級に通っているという。

 本町小にはおはなしに行っているが本町学級はガードが固くてなかなかはいれない。発達の早い遅いもそれぞれの個性と思うが、学校側は恥ずかしい、外部にさらしたくないと感じているようだ。
 きのう庄司さんから本町小のおはなしのスケジュールが決まったと連絡があった。わたしの語りのときは、お手伝いがすぐ決まるのだそうだ。おかあさんがたもおはなしが好きに違いない。「心に響く語りの講座の反響をむだにしたくないね」といったら、「櫻井先生ならもっと講義をうけてみたい。ほんとうに上品な方ね」庄司さんも先生のファンになったようだ。来週中に会合を持つことにした。

 来週といえば選挙、母が後上民子さんの選挙対策委員長をしていることもあり、うぐいす嬢!!を引き受けていたのだが、一度も打ち合わせに出ていなかったので選挙事務所をのぞく。民子さんは市政に対し実に熱心に勉強していて特に子どもたちの将来に強い関心を抱いている。選挙もただ連呼するのではなく一日に十数か所ミニ講演会をこなすのだ。担当日の場所を確認してかえる。
 
 会社で連絡会。現在の売り上げ状況、四月の見とおし、いずれもよい状況。受注も堅調で建築で3000万。残土造成で2000万、コンクリート舗装で
2500万くらい。残土については明日契約、他もうちで施工することはほぼ決まった。営業は見積もりで今週四月とは思えぬ忙しさだ。ゼネコン大手の県外の工事についてはサイシン支店長のサジェストもあり逃げることにした。入札についてはたたきあいになることが必死で、地元だけは赤字になってもとれと社長の号令。それぞれが自分のすべきことを把握し、それに向かって進み、お互いに助け合う体制ができつつある。もうすこしでわたしがいなくなっても大丈夫になるだろう。

 久喜座の中村さんから6/10の中島敦朗読会の連絡。小林さん山月記と
もうひとつ軽いのと、わたしの牛人だそうだ。「練習してますか」と聞かれてまったくしていないともいえず、思わず一回...と答えた。24日の練習には必ず来てください。と強い口調でダメ出し。

 さぁ、来週は進め、進め!!


八十一の昼    (2003 4  17)    吉凶相半ば

 痛くて眠れず、夢遊病者みたいにふらふらしていたが、会社案内の印刷を頼まれていたので変更部分のデータをとりに事務所に5時頃でかけた。プリンタの能力ってパソコンによるのだってやっとわかった。印刷の早いこと。びっくりである。惣が送っていってというので運転に気が進まないもののでかけたところ、交差点で接触。

 相手のジープはそのままいってしまったので、わたしもそのまま駅まで送ったが、あんのじょうバンパーにひどいすりきず。そのうえ裁判の時間も聞き違えていて地裁には行けず。中野先生もわたしが行かないので機嫌が悪かったがTELで打ち合わせして、ともかく和解成立。2年ぶりで話はついたがお金をもらいおわるまであと2年。

 アジア雑貨の店でシルバーのネックレスを買う。浦和の道場にかえる決意を固める。

八十の昼     (2003 4  16)     アルツハイマーの兆候

1物忘れ 2言葉がでてこない 3どこにものを置いたかわすれる 4計算ができない 5ひとの顔を忘れる 6日付を忘れる。もう4つも◎だわ  やばいわ やばいわ

 潰瘍の痛みで死にそうだった。痛いと機嫌がわるくなるので子どもたちが辟易するほど怒鳴ったり怒ったり。もとはといえば半分は子どもたちの心配なのだから、カイザルのものはカイザルへ...だ...と我ながら物悲しい理屈をつける。抗潰瘍薬はどうやらアルツハイマ−症と因果関係があるらしい。「おかあさんがボケたら橋の下へ捨てるよ」...とまりが言った。わたしもかずみさんに「ボケたら捨てちゃうからボケないでね」といった。それで大笑い。こんなにつまらないことでゲラゲラ大笑いする家族もないと思う。


七十九の昼   (2003 4  15)    雨

 路上に散らばった櫻の花びらを掃き集めて、櫻の木の根元に返す。淡いほのかな薄紅の色もやがて褐色に変わり地に戻る。かえっておいで、また来年も。櫻が散ると、わたしは心底ほっとする。これで今年も終わった。

七十八の昼   (2003 4  14)   手紙

 疲れがどっと出たようで、風邪と潰瘍で動けず。長女がつくってくれた野菜たっぷりのすいとんがおいしかった。Junさんのメールがわたしをあたためてくれた。気にかかっていた櫻井先生とみうさんへのメールを送った。病気のときは体温が低くてエナジーも活性しないようで、なんだか暗いメールだった。ごめんなさい。

七十七の昼   (2003 4  13)   ランらんらん

 プラグインの田中さんがきた! 2週間お待たせして(なにしろそうじに手間取った)新しいパソコンをつなぐ。これでVaionote二台、NECデスクトップ二台、MacとSotecの計6台のLANになった。19インチの液晶はかなり大きい。アスロン2400なのでDTPやパソコン絵画に不自由なく取り組める。いみじくも横尾忠則さんが語っていたように、いよいよ「プロとアマの差がない時代に突入した」のである。といってももちろん差はあるが、水彩などのテクニックがなくてもイメージを絵にすることができる。子供のようにわくわくする。フラッシュとビルダー7とフォトショップ6をインストールする。
 パソコンは表現の幅を広げうる道具であり、自分の可能性を開くパートナーである。こどもたちもできればメールやチャットやネットだけでなく、自分の感性を表現してほしい。わかなはものがたりを書いているらしいが見せてもらえないので残念である。
 京和組さんにTEL、まだ解決しない。


七十六の昼   (2003 4  12)   北朝鮮からアメリカへ

 テポドンのことではない。洗面所と浴室の4つの照明、階段の3つの照明、リビングも二階の寝室も電球が切れてしばらく暗い生活をしていたのだが、今日クリプトン球と蛍光灯を買ってきて付け替えた。まばゆいほどの明るさで歓声がわいた。うちの場合、電球が切れると半年はそのまま、主婦であるわたしの無精である。いっしょにビルダーの7、二男にバイオのノートを買った。あすLANにする予定。

 給ふりの手続きをし、娘とレストランでランチをいただいて、体育館を覗いた。手ほどきをうけて、マシントレーニングをはじめることに決める。蓮田病院に長原さんのお見舞いに行った。今日一カ月振りで地に足をつけ歩くことができたそうだ。

七十五の昼   (2003 4  11)   還る

 とりあえず 生活を変えてみようと 早起きをして午前中、精一杯動いてみようとしているが、これがたいへんである。3日にして疲れ果てた。どうやら昼過ぎから元気になって夜は目がらんらんという生活が染み付いてしまったようだ。

 今日はとてもハッピーである。1.2.3月の前年比を出してみてびっくり!!概算であるが売上が55パーセントの減、ところが純利益が22パーセント!!前年の純利益を30パーセントも超えた。ひとりひとりの原価意識が高くなった表れ....にしてもうれしい。うれしくて踊りだしそうである。この厳しい時期にこの数字はみんなの協力と努力の賜物なのだ。そしてそれこそが先の見えない世を生き延びるパスポートなのだ。

 末っ子の保護者会に行く。何人かおかあさま方に挨拶された。娘は可愛いお嬢さんらしく振舞っているらしい。ちかごろ顔をみるたび「携帯、携帯、買っておかあさん」「もう7割こえているんだから」とせがむので先生にうかがったら携帯を持っているのはまだ半分に満たないとのこと、家に帰って告げると「○○○(先生の名前)しめる!!」と叫ぶなかなかのお嬢さんである。今「はい、なんでしょうか?学校好きですよ」と寝言を言った。学校ではそれなり苦労しているのかもしれない。

七十四の昼   (2003 4  10)   北星余市高校

 「ひとは変われる。20や30や40であきらめたりするな。おまえたちはおれの夢だ。どんな人生でもいいから熱く生きろ!もしなんかあったら帰ってこい」って言ってもらえる生徒はしあわせだ。そして云えちゃう先生も幸せだ。

七十三の昼   (2003 4  9 )  連絡会

 3月はすべての部門で目標を達成した。その反省と感想を各自から。日次決算累計と財務の損益との比較、カッター、ラインは損料の単価を修正し実勢の損益に合わせる。標識は仕入れ伺いの徹底、土木は材料と労務、労務外注のモレのないようにする。運搬は地代家賃ならびに機械損料を月初に計上する。
 4月の目標の確認、問題点の把握。折原さんが見違えたように生き返った。野口さんも阿部さんも視点が広く鋭くなった。楽しみである。


七十二の昼   (2003 4  8 )  アメリカのスタイル

 少女時代、アメリカは海の向こうの夢の国だった。豊かな地 民主主義の国 努力が報われ夢がかなう国だった。水色とピンクの壁紙 緑の芝生 週末ごとのパーティー アイスクリームにピザの宅配 サマーキャンプ ダブルデート わたしたちはアメリカ文化を飢えた豚のようにがつがつ模倣し呑み込んだ。「パパはなんでも知っている」「うちのママは世界一」アメリカのホームドラマは明るく知的で豊かな生活と思いやりとユーモアで満ちていた。

 そしてケネディーの時代、わたしたちはどんなにか国民にこびない若々しい指導者を持つアメリカを羨んだことだろう。しかし長い長いベトナム戦争を通してわたしたちはあまり素朴にアメリカを信じすぎたことに気付くのだ。そしてアシェンデ政権の転覆に及んで大きな懐疑を抱くにいたる。

 それでも、それでもアメリカは友邦であった。たとえ肝心なところでは日本をつんぼ桟敷において恥じをかかせようと、つねに貧乏くじをひかせようと心の隅では正義がないわけではない、いざとなったらアメリカほど たよりになる国はない、仕方ない,多少のことは目をつぶろうとしてきた。

 もうすぐ イラクは降伏する。ベトナム戦争の失敗からアメリカは学習し、戦争のスマートなやり方を身につけてきたのだ。大量の先進兵器の使用、情報操作、自国の国民さえ当然のように欺き 偽の証拠さえ用意するだろう。親米国、親イスラエルの傀儡政権を立て復興の権益を当然の権利のように我が物とし なんでもいいなりのわが国に金を出させる。国連は都合のいい時だけ利用する。そして 720万人の産軍複合体を食わせるため、ちかじか また戦争の火種をまくのだろう。

 日本には長い誇り得る歴史がある。アメリカの消費文明のあとを追っかけているうちに忘れてしまいはしたが、江戸時代、排泄物から灰にいたるまでほとんど100パーセントのリサイクル文明をすでに有していたのだ。戦争に負けて卑屈にすぎたのではないだろうか。間違いを糺ば日本はアメリカとはちがった方法で世界に貢献しうるのではないだろうか。アメリカの財布、アメリカの犬にはなりたくない。


七十一の昼   (2003 4  7 )  櫻が咲いてゐる

 今日、みうさんとおはなしができた。純子さんに,明実さんにメールが送れた。わたしは自分のためにホームページをひらき、自分を知るために書きつづけてきた。 こころに残ったこと、こころに残ったひとを 千の昼、夜や浦和物語に。

 こんなわがままなサイトなのに 賜物のように出会いがある。みうさんとおはなししたといっても声を聞いたわけではない。掲示板のやりとりでなにかあたたかいものが翳めていった、そんな気がしただけ。すみれちゃんやとのさんや先生やネモさんの部屋を.....そっと覗いてみる。掲示板に書き込みをしてもしなくても、今日も元気みたい。ほっとして一日が終る。

 櫻が咲いてゐる。雪のように白く、夢のように儚く、もうすぐ風に吹かれて散ってしまう。


七十の昼   (2003 4  6 )   デァドラ

 「ウシュナの子」と「デァドリー」の発注をした。おととい 喫茶店でデァドラの大まかなプロットが頭に浮かんだので、いよいよ再話を試みようと思う。わくわくする。デァドラの愛というよりは戦いのものがたりになると思う。わたしの夢とそれから語りへ誘ってくださった櫻井先生へのご恩返しの意味をこめて、悔いのないものにしたい。

六十九の昼   (2003 4  5 )  World Peace Now

 今日 日比谷で非戦の静かなパレードがあった。とても行きたかったけれど、この雨だし、わたしは足が覚束ないので行くことはあきらめた。家でできることをすることにした。

 イラクでは非戦闘員がすでに600名から700名亡くなっている。その数十倍も傷を負ったひとがいるだろう。こどもたちも死んでいる。たいしたことはないというひともいるだろう。けれどこれは人間による無辜のひとの殺人である。アルジャジーラのHPはハッカーの攻撃を受け、一時的に不通になった。そこには殺されたこどもたちの写真が、殺された米兵の写真が掲載されていた。たとえ残酷でも目を背けてはならない。

 戦争はむごいものだ。花火のようなピンポイント爆弾でカタがすむような簡単なものではない。破壊は一瞬にすぎる、しかし戦争が終っても復興への道は簡単ではない。湾岸戦争以来、イラクのこどもたちの死亡率は2.5倍に跳ね上がった。もっともっと死んでゆくだろう。腕のなかでこどもが冷たくなってゆく、足をもがれ、頭を吹き飛ばされたこどもが死んでゆく。それを目の当たりに見て、泣かない人間がいるだろうか。

  ひとは動物にない能力を与えられた。そのひとつは想像力である。今日、冷たい雨の降るなか、歩いたひとびとはその能力が失われていないひとびとなのだと思う。戦争は国家の為す最大の犯罪であり、わたしたちこそその国家を成すひとつぶの砂、ただし声も出せる、キーを打つ指も持つ、考えることのできる砂である。為すべきことをしたい。

六十八の昼   (2003 4  4 )  Torako My Love.

 きのうとらこが久喜に来た。偶然アウトルックを開いたら北小に来るというので2:30に正門前で落ち合うことにした。急いで歩いて出かけた。遅刻するとうるさいので走った。車の鍵がみつからなかったのである。それからふたりでお茶を飲みながら近況報告。わたしのかなり悲惨な状況を話したら、にべもなく「あんたはなにがあってもダイジョウブだよ」という。暗示の力は恐ろしいものだ。なんだかたいしたこともないような気がしてきた。

 折原さんと腹を割って話した。仕事上で意見の食い違いもあったが今までのことは水に流し協力しあってプロジェクトの立ち上げに全力を尽くすことになった。役割の分担を明確にし連絡をとりあう。折原さんの仕事への一途な思いもわかったし、わたしの気持ちも幾分かは理解してもらえたと思う。結果を踏まえ大徳さんとも近日中に話し合うことにして連絡した。サイシンに行って印鑑を忘れ、ケガの功名で支店長さん、次席さん、担当さんと話ができてよかった。印鑑の変更は今回で4回目だそうだ。会社のはなくならないが個人のはなぜなくなってしまうのだろう。お金をおろしたくない深層心理のなせるわざか。日記をまとめて書くのは邪道である。昼と夜もあるので前後がわからなくなってしまった。

六十七の昼   (2003 4  3 )   気・息・語り

 声は息という。刈谷先生のレッスンでは思いもかけぬことに気付かせていただくことがある。息づかいということばがあるが、声の抑揚とかリズム、間などみな息の使い方ひとつである。これをわたしたちは、日常なんのコントロールもなく、しているのだ。注意深く聞いていると相手のこころの状態、動きがよくわかる。ビジネスでトラブルが起きるとわたしは話し合いの席上に小型のテープレコーダーをもってゆくことがある。あとで聞いてみると、会話のときには気がつかなかったことがよく見える。ひとはあまり嘘はつけないものなのだ。何かを隠そうとしたり嘘をつくとき、ひとはたいてい少し早口になる。まれにはゆっくりになる。

 はなしが飛んだが、息は気に通じる。気持ちの気、メを火に変えるとより鮮明になるのだが、魂にも通じる。声について間合い、強弱、緩急など学ぶことはできよう。けれども、畢竟語りの本質は、人生で磨くのである。声の出る源は魂であって魂を磨く学校はどこにもない。だからこそ、わたしは語りから離れられないのだ。ものがたりを伝えるのではない、ものがたりを通して生きることの真実、わたしたちが置かれている世の秘儀、すなわち生と死、喜びと悲しみ、愛と憎しみ、あまねく光とその影たる闇、この美しい朝と夜、花々と木々の揺らぎと風と波とを、生きとし生けるものの営みをわかちあうのが語りだと思っている。道は遥けく彼方である。
 
 レッスンの帰り、車を駐めてケヴィンと青毛堀の堤 1キロはつづく桜並木を歩いた。青毛の地名の由来は青々と作物が繁茂するところからと聞いたことがある。作業着の青年がふたり、ゴザを河原にしいて昼寝をしていた。老人が折りたたみのいすに腰をかけてクレパスで風景を描いていた。100いろもある使い込まれたクレパスはしだいに画用紙に櫻と土手の緑を映し出してゆく。

 気がつくと、ついこのあいだまで枯草色一色だった土手もやはらかな若草色に染まりそこここに菜の花の黄があざやかだ。行き交うひとも今日ばかりは微笑をかわしながら ゆったり歩を進めている、そうしてこんなにひとが歩いているのに、櫻の木の下はしんと鎮まっている。

六十六の昼  (2003 4  2 )  伸びる

 ひとはいくつになっても伸びてゆけるものだ。会社の経営をしていて何が一番おもしろいかといえば会社を支えているひとりひとりの成長である。弟とは葛藤がなかったといえば嘘になる。同族会社というのはバランスをとるのがむつかしい。親族は力にもなるが、それ以外の社員のやる気を削ぐ要因ともなるからだ。それゆえあえて緊張感のある関係をとってきたのであるけれど、最近の内面の充実は客観的に見てもわかるし、自分の置かれている立場を理解し最善を尽くそうとする姿勢は姉としてもとてもうれしい。よくここまできてくれたと思う。
 これから新時代を創れるかどうかは彼の肩にかかる度合いも大きいのだ。一つの指標として今年の3月の成果は、売上ベースとしては標識が若干落ちたものの、内容は現在の社会情勢下では、善戦したと思う。アルバイトの質もよかったそうだ。求人案内アイデムに載せるコピーの内容によって、面接に来る人間の質が違うような気がする。今年のコピーは「青い空、真っ白なライン」だった。

六十五の昼   (2003.4.1)   黄水仙

 4月1日  今日はわたしの誕生日だった。かずみさんが一抱えもありそうなほどの水仙の花束を摘んできてくれた。甘い香りがした。清河寺の現場でいづれ埋め立てられてしまう花たちである。これが最後の花、抱きしめて花瓶に活ける。家族で食事に行った。こどもたちに語りかけた。


 「おかあさんは朝ねぼうで口うるさいおかあさんだけど、おまえたちのことをほんとうに愛しているの。そして幸せな人生を送ってほしいと心から願っています。しあわせな人生って、お金持ちになることでも有名になることでもなく、ひとことでいうなら、死ぬときがきたとき、しあわせだった、自分はやりたいこともみなやったし、いい人生だったって思えることじゃないかと思う。

 こんなことを突然いいだして、みんなびっくりしているでしょう。お母さんすこし心配になったの。もしかしたらあと一年で死んでしまうかもしれない、あと三年かもしれない。もしかしたらあと三十年、いえ100年生きられるかもしれないけどね。 おかあさんはおまえたちが自分の足で歩き出すのを見てから死にたい。ふたつ約束してちょうだい。ひとつは夢を、今年かなえたいことを決めておかあさんに教えてほしい。そしてその夢をかなえるため精一杯努力をしてほしい。

 惣二郎、おまえはこの一年ほんとうにがんばったね。惣二郎は自分のことをまだまだダメだと思っているかもしれないけれど、そんなことはない。惣二郎は必ずやり遂げられるよ。そしておまえには周囲のひとの助けがきっとある。 まりえ、あなたも自分に自信がなくてあたしなんかどうせ....と思っているようだけれど。おまえのなかにはおまえの気がつかないとても強い力が眠っている。それは明るいほうへ向かってゆくとても強い力、いつかきっとわかる。おかあさんを信じてね。わかな、おまえは類稀なバランス感覚を持っている。おかあさんはおまえのことはぜんぜん心配していません。ただし整理整頓を忘れないこと。

 おかあさんの夢はほんとうの語り手になること、そしておまえたちが歩いてゆくのを見守りながら、おとうさんの手助けをすることなの、もうひとつの約束はおとうさんをみんなで手伝って助けてほしい。おとうさんの夢のために。家族なのだから。
さあ、それでは一カ月後に自分の夢を教えてね。」

 わたしは一カ月余り、まっすぐな気持ちではなかった。かずみさんのことが理解できなくて苦しかった。笑顔も減って子どもを叱ってばかりいた。リビングで不安と痛みのなかで、思わず祈っていた。そうしたら急にあたりが明るくなった気がした。不安も疑いも消えて、躰のつらさや潰瘍の痛みもどこかへいってしまった。天国も地獄も考えひとつの隣り合わせなのだとわかったような気がする。わたしはまた悩んだり考え込んだりするかもしれない。けれどまた立ち上がれるだろう。かずみさんに会えてそあわせだった。これから渾身の力でもって かずみさんの夢をかなえるために努力しようと思う。

2003,3,29       (くらいあかるい昼)

 とらこが心配してTELをくれた。そうね、HPは公開されているものだから、牙をむき出してはいけないかもしれないね。でも、自分に嘘はつけないし、さぁどうしよう。

 夏からまたTEL、20日、22日、夏は今恋しているのだ。それで新しい恋のあいての癖とか仕事振りとか、たずねてきたようすとか、誰かに話したくてしょうがないのだ。
夏の母は私の友人だった。もう、この世にはいない。

 夏は去年辛い恋をした。ダイスケというその青年は夏の先輩と結婚してしまった。夏が恋の相談をしていたその先輩はいつのまにかダイスケにちかづきこころを射止めてしまったのだ。うちに泊りにきたとき、まだ名の無いケヴィンをだいて「ダイスケにしよう」とせがんだ夏。「こんどつれてくるから会ってね」とはしゃいだ夏。どんなに苦しかっただろう。

 もしかしたらまた傷つくかもしれない。それでも夏は、また恋をするのだろうな。あこがれと自分のみずみずしい思いを受け止めてくれる胸を探しつづけるのだろうな。辿り着いたとして、ほんとうはそこからはじまる。うち棄ててはならない愛と責任のながい旅がそこからはじまる。

2003,3,29    (暝い重い夜、そして曙光が )
 
 わたしはCATARI'CATARI'のパート2をスタートした時、匿名性を棄てた。心積もりでは虚構とはいわないまでももっと現実から距離をおいてものごとを客観的に綴っていこうとしたのだが、あにはからず より先鋭的に自分のなかに埋没してしまったようだ。

 仮に虚構で押したとしても 私を現実に知るひとはそうは見ないかもしれない。その奥にあるほんとうらしきことを推し量ろうとするだろう。また事実をありのまま書いてしまえば、現実にさまざまな影響を及ぼす。具体的なことを述べずにありようや真実の気持ちを伝えようとすると生き生きと伝えることはむつかしく 想念上の葛藤でしか書きようがない。

 
 けれども、みなが寝静まった夜 その日感じたことから自分の内の小道をたどり、謎をとくように考えのあれこれをほぐしたりまとめたりして一つの結論を導き出してゆく作業は実に楽しかった。わたしはじっさい後半は読んでくださるみなさんのことはあまり考えてはいなかったと思う。だがノートに書き綴るのとはちがってむこうにみなさんがいてくださったからつづけてこられたのだ。心から感謝します。

 ホームページにはさまざまなかたちがある。櫻井先生やとのさんのHPは啓蒙とサービス、ネモ船長のHPは道しるべのような気がする。ほら山にいくとたくさんの行き先を打ちつけた道標があるでしょう。自分にとって、きてくれるひとにとっての座標軸でもあった。わたしのもそう、ここでたくさんのひとに会えた。でも予定調和のおだやかな世界はわたしには向いてはいない。掲示板では本音はいえない。

 CATARI'CATARI'はわたしの生のすぐ隣にあった。そしてわたしはとてもたくさんのきらきらした忘れていたことを思い出した。生きることがどんなことか 残された時間なにに向かっていけばよいのか見えてきた。しかし次第に生のオモテとウラが逆転してきたのも事実だ。わたしは徐々に現実の生活よりHP上の想念上のなかに比重を移してしまったようだ。

 3月も半ばを過ぎて矢継ぎ早に、家族のうえにさまざまなことがおしよせてきた。それは時代の流れと無関係ではなく外側(他者)から善意であったり悪意であったり、うねるように大きな力が押し寄せてきて我が家の脆弱な部分を侵食するように起きたことなのだが、わたしが直面しているのは実は外側のことではないのだ。

 わたしはほんとうに家族のひとりひとりを真実愛してきたのだろうか。痛みに耐えて横になっているとケヴィンが心配そうになめてくれる。娘が背中から抱いてくれる。かずみさんはプリンやミルクやワッフルを買ってきてくれる。語りを棄てる事はないけれど、わたしにはすることがある。   

 水は深く地下水脈を流れる、野や街を流れるばかりが川ではない.......