七百八十八の昼  2005.4.30  テ-マは揺らぎ

 ”ハウルの動く城”は宮崎アニメのなかでベストかもしれない。もう一度観たいと切実に思った。実際構成上の破綻はあるのだが、そんなことはどうでもよかった。混沌の心地よさ、物語に引き込まれてゆく快感、ナウシカもラピュタも千と千尋も外側から物語世界へ視線を向けていたのだが ハウルでは物語のなかに空気のように自分もいるような気がした。

 宮崎アニメでは呪いと飛翔と愛による救いがキーワードである。千はハクにかけられた呪いを解き、両親にかけられた呪いを解く。ソフィーもカルシファーとかかしのカブと自分自身にかけられた呪いを解いてゆく。器量に自信のないソフィーが自分では気づかない強さ、ひたむきさ、やさしさでみなをしあわせにしてゆくのだ。ファンタジーでの魔法や呪いは比喩だから、現実界でいえばトラウマといってもいいかもしれない。だが呪いが悪いわけでもない。逆説的にいえば呪い・トラウマを解消してゆく過程でひとは本来の輝かしい自分になるのだから.....

  ハウルはソフィーを護るために闘うが、腕におどろおどろしい羽毛が生えてゆきついには異形の鳥の姿となる。このあたりアシタカのあざなどを思い出したりする。闘うことは美しくない、良きことではないのだ、たとえ愛する者を護る戦いであってさえ。ソフィーを護るために強くなったのに、ソフィーは「ハウルは強くなってはだめなの。弱くならなくては....」という。闘うことをやめ、ふたりが愛しあうことから国同士の戦争もおさまる。この映画は観るひとによって受けとめ方がちがうだろう、賛否がわかれるだろう。

 わたしはハウルが息子と重なり、ソフィーが娘と重なり、憲法9条の問題も透けてみえるし 欲望とトラウマと老いと小汚い部屋、充足と癒しと花々と居心地よく整えられた部屋、闘うことの意味、暮らすことの意味とバームクーヘンみたいな多重世界に浮かんでいるようだった。

 さて、そこで感じたのは揺らぎだった。今回は声高に平和を環境破壊をテーマに掲げているのではない。ひとびとが逃げ惑うシーンはあっても傷ついたりはしていない。しかしナウシカでの巨神兵による火の七日間の破壊が荘厳でさえあったのに、今回の戦闘シーンは美しくなかった。主題においても揺らぎはあるが、登場人物ひとりひとりの揺らぎがある。

 ハウルは髪の色も印象もくるくる変わる、怪鳥になってからも変化する。ソフィーは十代の少女から90代の老婆までそのときどきで変化する。つまりこのふたりのことにソフィーの変化は単純な直線だけではない、揺らぎなのだ。いはば心のありようが外観を変えるのだ。荒地の魔女も強大な力を持つ妖艶な........といってよいだろうか  年増から無害な?老婆に変化する。火の精霊カルシファーもかかしも。

 それゆえ声を担当する役者の力量の見せところでもあるのだが、この混沌をそのまま観客に手渡すこと、これは宮崎アニメの変化かもしれない。ナウシカやラピュタから受け取るものは100人が100人そう変わらないだろうが、この作品をどう判断するか、なにを感じ取るか観る者の感性や考え方に委ねられている部分が大きいのだ。

 すなわち 圧倒的な作品世界を求め、酔わせてほしいと言う人には向かない。作品は見るひとの心のなかで虹のように多彩なそれぞれのものがたりとなるだろう。語り手としてはここで思案である。メッセージを伝える、ひとつのものがたり世界を伝える。しかし わたしが望む語りは それぞれの心に響いて過去や未来と反響しあい、そのひとの魂のなかで再生がおこなわれ、普遍的で且つ固有のものがたりとなること。ものがたりは実は完結しない。語り手は創り手というより本質的にはむしろ仲介者なのではないか。

 語りと声はほとんどひとつのものだ。カタリにおいては映像はなく、ことばの持つ力、魔力によってのみひとをものがたりにいざなう、ものがたりを支える。聞き手の世界からエナジーを受けてより物語は豊穣となる。さて、ここでも揺らぎ....うまくいえないがかっちりした発声ではだめなのだ。息吹、揺らぎ、間、飛翔、どうすれば......どうすれば..........考えることは必要だが考えるだけでは先へ進まない。



七百八十七の昼  2005.4.29  塞翁が馬

 今朝になってようやく 小泉家大集合旅行会お知らせのメールを送信することができた。4時に起きて、散歩に行ったりどうでもいいことをさんざんしたあげく のことだ。それから封書で送るひと向けにワードで原稿をつくったりした。修叔父や通叔母はさぞかし気をもんだことだろう。でも、わたしにこんな細かいことをさせるのはどだい無理だと思う。企画はできるが切ったり貼ったりするのはもともと苦手で、会社でも火を噴きながら 泣き泣きやっているのである。

 それでも 懸案のことがかたづいたのでうきうき さぁエリザベートを観にゆこうとしたら、チケットがない。会社に忘れてきたのだ。それからすったもんだして 髪も洗わずアクセサリもつけずタクシーで1時半に東京宝塚劇場に着きやれやれ間に合ったと安心したら、受付のもぎり壌が怪訝な顔、「あと30分で終わります」というのだ。!休日は11時開演であることを忘れてた。フィナーレだけは観て、このまま帰るのも空しいので食事をしたあとみゆき座で「ハウルの動く城」を観ることにした。

 お花畑のところから涙がとめどなくにじんだ。地の底から水が湧き出すようにしずかにゆっくりと........ハウルの声が沁みとおる......ひとの声はなんと大きな力を持つことか.....やはらかな声 ゆらぐ声 息づく声 魂のいろあいを声はのせてゆく この映画の声は役者でなければ勤まるまい。加藤治子さんも美輪明宏さんも賠償智恵子さんもいくつになられたのか......声は最後の最後まで衰えない器官であるそうな.....まだ時間がある。聲だけでひとの心に響くそんな語り手になりたい。

 
七百八十六の昼  2005.4.28   いけないこと

  2月11日のことだ。真夏の夜の夢の稽古にいく途中、大宮駅のホームでわたしは40代のいかにも管理職といった駅員さんに「おそれいりますが、西武新宿線に乗るにはどこで乗り換えたらいいでしょうか」とたずねた。するとふいと横を向いたままかえってきた言葉は「さぁ 行ったことがないのでわかりませんね 」 まさか聞き間違いだろうともう一度訊くとやはり上を見上げながら「行ったことがないのでわかりません」そこにはプロ意識なんてカケラもなく ある違和感 病的なものがあった。

 JRだけでなく西武線 東武線 ときには秩父線ものるわたしはおっちょこちょいでよく切符を落とす。改札の前でポケットやバッグをひっくりかえしてもみつからないとあきらめて 「すみませんが切符を落としてしまって..」と駅員さんにどこから乗ったか申告する。規則では運賃を再度支払うのだが、ここ三年くらいは「いいですよ」といって通してくださることが多い。JRの駅員さんにも親切な方はいるが、すこししおたれた茶色の制服の東武線の駅員さんのほうが人間のあったかみを感じるように思う。JRの駅員さんはパイロットかとみまがうような立派な制服を着ているのだけれど。

 今回の事故はJRがコストダウンのためにしてきたことの結果ではないかと思う。JRは社員をひいてはお客をたいせつにすることを忘れているのではないか。徹底した人間の削減でホームには駅員はいない、窓口もひとりしかいない、そのせいか車内に忘れ物をしてTELしても、なかなかみつからないし出てきたとしても遠くの駅まで取りに行かなくてはならない。定期の切り替え時などは長蛇の列。当然、駅員さんたちもたいへんだろう。サービスとはなにか?ひとの心に添うことだ。あの若い運転手さんは乗客の安全を考える余裕なんてなかった。オーバーランと遅れたことで再教育を受けるのがただ恐かったのだろう。

 平和なくらし、ささやかな家庭のしあわせが突然断ち切られてしまう。そんなことが明るい朝に降りかかってくる、天気雨のように 通り雨のように。

 真夏の夜の夢の妖精の女王ティテーニアの台詞を思い出す。「こうしたいけないことが幾度も幾度も起こるのはみなわたしたちの.....が元なのよ。わたしたちがその親であり因でもあるのよ」きのうの真夏日にしても地球温暖化......わたしたちがもとなのだ。災厄の多くはひとの心のあさましさ、もっと多くもっと快適にもっと便利にという他のひとびとや生き物や木や水や大地をないがしろにした心の負の部分から生じるのではあるまいか。

 大宮駅のエピソードにはつづきがある。憤懣やるかたないわたしは発車寸前、ドアから叫んだ。「駅員さぁん  もっと勉強しましょうね」



七百八十六の昼  2005.4.27  炭焼き

 茨城県では炭を焼く許可がでた。明日は群馬県に会社の者が行き許可がとれるか確認する。そうしてかずみさんは炭を焼く......といっても材料は伐採伐根材、リサイクル事業の一環で釜は石や土ではなくステンレスである。わたしは実際のところ、めんどうである。はじめたら必死こいてやりますが、借入金を増やしたくない。ステンレスの釜は薫蒸して焼くので、石の釜と違って法外の値なのだ。

 しかたないなぁ かずみさんの夢だから....埼玉県で許可がとれればよいのだが、埼玉ときたら規制、規制、環境部長は埼玉県ではできませんと断言した。県や国の規制や許可はどう決まるかといえば、クレーム、トラブルなのだそうだ。すなわち先を見ることで決めるのでなく、どちらのほうがクレームやトラブルが少ないかが判断の基準であり、木のリサイクルが進むとしたら、木材チップの不法投棄、発火などの問題が燎原の火のように燃え盛るのを待つしかないというわけ.......
 役人は概ね問題さえ起こさなければ昇進もし、退職金もいただけるわけで......定年後2年はやめた時の職階に応じて天下りその他勤め先も用意されている。(実は亡くなった父は県の公務員だったから今思えば我が家もその恩恵に浴したわけだが...).....なかには進取の気を持ち、構造改革、機構改革をしようと望むひともいるのだろうが 組織そのものが保守的だし 努力しないで食ってゆけるから.....問題はそこにあるのだろうなぁ.....税金はあまり払ってはいけないのだ。



七百八十五の昼  2005.4.26  民話

 驟雨のあと、夕暮れ時に中央幼稚園で新年度の打ち合わせをした。足掛け3年になるが、幼稚園のほうからおはなし会の打ち合わせと言われたのははじめてで 熱意を感じてうれしかった。

 やさしい園長先生はおるすで三人の先生たちと歓談した。それぞれが希望を出されたが民話をという要望が多かった。誰でもしっているものを...という希望にわたしは民話というものは語り継がれるうちにひとの心をとおりすこしずつ変化してゆくものであることを伝え、できるだけ原典にちかいものを再話してよいなら ぜひさせていただきましょうとおはなしした。

 民話を語るのは好きではなかった。デフォルメされた人物設定、おじいさん、おばあさんばかりでおとなが出てこない理由もあり、自然描写、心理の裏打ちがなく ひっかかりとっかかりがなく わたしのような語り手には向かないと思っていた。けれども松谷さんの再話には心ひかれたのだから、自分で再話できないわけもなかろう。そろそろ枯れてもきたから、ころあいかも知れず、おもしろく且つ苦しいチャレンジになるだろう。

 水のおはなしに感動して.....という先生のことばに、環境の汚染とひとのこころはつながっているように思うので、できれば今後も環境に関連したおはなしをしたいと伝えた。これも新しいチャレンジ、あたらしい民話となりえるかもしれない。

 夕刻 定例の連絡会、先週は紛糾してそれがみごとに一夜にして十二指腸潰瘍をこしらえたのだが、今回はまぁ 無事だった。語り手のわたしですら ひとに伝えることのなんとむつかしいことか....ひとの心のげに不可解なこと......



七百八十四の昼  2005.4.25  万緑

 かずみさんと群馬の藤岡へ行く。藤岡といっても埼玉よりのちいさな町の方だ。県道沿いに廃工場があってかずみさんの次なるターゲットに向って、そこを足がかりにというわけだ。つまり、これはわたしに阿吽の呼吸で「かぁちゃん どう思う?おれはここでやりたいよ」といっているので、わたしはそれに答えを出さなくてはならない。

 あぁイブよ、あなたはなんで知恵の実なんぞに手をお出しなさった?香しくみずみずしい果実は手をさしのべればほかにいくらもあったでしょうに......そのおかげで子孫は日々の悩みや無限につづく労働の奴隷になってしまったのですよ

 帰り とおりすがりに見た渡良瀬遊水地、利根川は満々と水を湛え悠々と流れる、滴る緑、いよいよ万緑の季節、命の燃え盛る季節がくる。けれども、わたしは命の繁茂するこのときにこそ魔が潜むような気がする。”万緑や死は一弾を以て足る”という句を残した俳人がいたが、万物の命が萌え光みちるこの季節は、また翳り濃く死にももっとも近い季節のような気がする。
 

七百八十三の昼  2005.4.24 スバル・バンケット

 スバル・バンケットはワインや料理や音楽を楽しむ集まりで通算27回目だという。代表のSさんはDTPの会社をなさりながら多才な趣味人である。ピンクとオレンジとグレーという考えられない色彩のさすがにセンスの良いプログラムだった。その時々でメンバーが違うらしいが今日は戸田天文同好会の方々が多かった。ワインはジェイコブズクリーク、シャトー・ボタンサック1996、シャトー・カロン・セギュール1976年でこのカロン・セギュールを目当てに参加した方もいたようだ。音楽はSさんのギター・ソロ タンゴ・アン・スカイ他、Mさんの独奏、ピアノ・ソナタ 作品10-1ベートーヴェン アンサンブル クラスター・コンソートによるコラール他...それにわたしの語りだった。

 おとなのための語りは端座して緊張して聞くようなものではない....と思う。飲み物や食べ物を楽しみながら......もっともわたしは小心なので語りが終るまでは楽しめないが....豊かなひとときを過ごすのがいい。このスバル・バンケットはそういう意味でもとても素敵な会だった。"すっかり物語の世界にはまってしまった"とか"語りはこういうものなのですね"...ということばにわたしもうれしかったけれど、誘ってくださったジュピターさんに悲しいことがあって参加されなかったのでジュピターさんの気持ちを思うと切なかった。同じようにピアノの発表会の語りのお誘いもいただいているので、それも楽しみなのだけれど......。
 
 五時、叔父叔母と小泉家 第一回大集合旅行会の打ち合わせ、結局ゲームの段取り、連絡などなどわたしがすることになりそうだ。世代の引継ぎ、受け渡しのために必要なことと思う。ここで絆を固めないと叔父叔母たちがこの世から退場したあと一族は散り々になってしまうだろう。


七百八十ニの昼  2005.4.23 あした

 朝7:30頃から10:00までが一番仕事の能率があがることに気がついた。夜中まで会社にいてもぼうっとしてなかなか進まない。ビジョンは浮かんでくるけれど。ひとは機械や紙に向って何時間も集中できるようにはつくられていないのだ。仕事のやりかたを変えてみよう。

 きのうふたたびのレッスンで刈谷先生は芸の基本は脱力だと言った。要はばかになることなのだそうだ。ひとはからだの一箇所しか集中できなのだそうだ。腹、のど、顔....からだのどこか一箇所。けれど もしいわゆる入魂の状態だったら恣意的にどこに力を込めるか選択しなくても自然にギアが入る状態になるのではないか.....

 朝刊にKという俳優のことばがあった。真剣に役柄に取り組んでいたある時、天からなにかが降ってきた....神さまが応援してくれる、おれは名優になれる....と思ったのだそうだ。わたしが語りや芝居から離れられないのはまさにそう、天からなにかが降ってくるからだ。聞き手に向っていながら天とを希求している....そのときを代弁というのか、依り座というのかよくわからない。けれど聞き手に語りながらひとはそのつぎ、共有の喜びも天とつながるその結果に過ぎない。

 ダンスのレッスン 先生がはりきっていてバレーのエチュードのあとたてつづけに6曲踊ったらくたくた...踊るというか先生の振りにあわせているだけだからとても入魂にはならない。ターンが多く、ターンをすると前が見えないから次の振りがワンテンポ遅れる。10代.20代についてゆくのは息がきれる。かっこよく踊れたら楽しいだろうと思うけど....と思いつつレッスンを増やしてみようかしら。
 あした、プラネットでなにを語る?忙しくて新作がまにあわなかった。


七百八十一の昼  2005.4.22 ひと模様

 ビジネスも人間関係に尽きる。その濃さに、ときどき事務所から飛び出したくなる。事務所にいると奥さん...と幾度呼びかけられることだろう。わたしはそう呼ばれるとき半ば記号である。なぜならたいていの場合、工事コードとか会社コード書式とか発注とかささいな用件なのだ。森洋子という人格はほんど無用であり、80%はわたしに聞かずともそれぞれがよく考えるなり調べるなりすればわかることだ。

 けれどもそのなかにつながりを持つとか共有しようとかいう思いもあってのことだから、それがいやだというのではないのだが、自分の仕事が進まない。雑用の連鎖のなかに新しい種子をみつける。より無駄を省く、ロスをなくす、この効率化の果てになにがくるのか?会社の存続を賭けた戦いではある。利益を出すこと、利益を努力に応じて配分すること。ロスをなくした余剰の力を営業に新規分野に投入する、休日を増やす。それが表向きのたてまえだが、そのために社内がきしむとしたら.....

 敬は「毎日忙しく追い立てられて30万の月給をもらうなら、おれはのんびり10万の暮らしをするほうを選ぶ」といった。

 それでも、前に進むしかない.....あなたにはわからないよ。


七百八十の昼  2005.4.21  レッスン三題

 朝、事務所に.....そして10時、カタリカタリの例会。今日のエクササイズは”三匹のやぎのがらがらどん”と”てぶくろ”のどちらかを語りでする。発声練習のあと雪女のなかからイメージレッスンをした。最初、出だしをそのまま語ったのと、広葉樹の芽吹く里山の細い山道をのぼってゆく樵をイメージして語ってもらったのと同じ「武蔵の国のある村に、茂作、蓑吉というふたりのきこりが住んでいた....」この短いセンテンスがまったく違っていた。震えがくるほどに。それから課題、7人のそれぞれの語りはことばに尽くせぬほどおもしろかった。地の文と台詞の立て方はそれぞれの取り組み方でかなり差がある。繰り帰しについてはそれぞれがよく研究していた。声の大小、高低。緩急、テンポ、すでに緩急まで自分のものにしているひともいる。

 誠実さ、優しさがにじみ出る語り、なんともいえないおかしみのある語り、最後にみなで講評をした。ひとりとても真面目な方で調子、一定のリズムがついているひとがいたので、気をつけるように云ったのだが、そのタイミングが悪かったかと気になった。練習しすぎるとなぞってしまう。芝居と同じで語りも一回一回ものがたりを生きるのだと思う。学びあう、研鑽しあうのはお互いを信頼して愛していないとできない。自分の語りは自分ではわからないから、聞き手や仲間の感想がたよりである。真摯に伝えられるか真摯に受け止められるか、このさじ加減は語るよりむつかしい。

 1時、ひさびさに刈谷先生のレッスン、二ヶ月のブランクがあったにもかかわらず発声が安定したねとほめてくださった。自分でも芯の通った、無理のない声が出ている感じがうれしかった。”真夏の夜の夢”の7日間はむだではなかったのだ。低い声と高い声は実は連動しているように思う。イジーアスの声、声を呑まずに前に押し出す.....の成果である。では、語りでは....?  .24日ジュピターさんからお誘いがあってスタジオプラネットで語ることになっているのだが.語りの発声がどう変わったかジュピターさんに感想を聞いてみよう。

 1時30分、行政事務所の川崎さんと許可のことで打ち合わせして盛り上がる。お嬢さんといってもよいような可憐な外見に似合わず仕事を良く知っている方で、こういう女性が増えているのだろうなぁと心強い。並みの男の人よりずっと信頼できるのだ。銀行、取引先、保険会社、つぎつぎの来客でごったがえす。最後に業者さんを呼んで大型標識工事の支払いをしておしまい。

 7時30分久喜座の練習日、ことしはじめての参加だった。10月の朗読劇”あらしのあとに”の一部から四部の読み合わせ、初見だったがガブ、メイ、ト書きのナレーションの三通りをさせていただいた。新人がふたりきていてひとりは小学校で読み聞かせをしている方、もうひとりは日曜日の羽生の語り発表会に出ていた方だった。これは偶然ではないと思う。11時まで代表と若手のなkまと三人でビッグボーイで語り合ったが、スープバーだけでねばるのはいささか気がひけた。


七百八十の昼  2005.4.20   支払日

 今日は労務の支払日、かずみさんと三和に行くはずだったのが延びたので、細かいことがいくつか片付いた。安全協力会の会費集金方法の変更の通知を80社の取引先に送付する。年間休日予定を労務事務所に送る。増資の議事録を会計事務所に送る。封筒の印刷、名刺の印刷、たまった伝票の処理.......夕方は社員さんの数人と面談....伝える、受けとめる、伝える、受けとめる、この繰り帰しが会社をすこしずつ変えてゆくと信じる。



七百七十九の夜  2005.4.19  あのころはフリードリヒがいた

 トムの会の例会にと思ったが仕事でどうしてもゆけず、やっと図書館に着いたらもうだれもいなかった。児童室で一冊の本を手に取り小さな青い椅子に座って読み出した。”あのころはフリードリヒがいた.....”ドイツ人の少年とユダヤの少年フリードリヒの15年間がドイツ人の少年の目をとおして淡々と語られる。ふたりは1週間しか出生日が違わず同じアパートで育ち、家族ぐるみの温かいつきあいをしていた。しかしヒトラーがあらわれ、ユダヤ人たちは一歩一歩追い詰められてゆく。ユダヤ人は公務員になってはならない。映画館へ行ってはならない、ペットを飼ってはならない、ドイツ人の異性との交際禁止....ユダヤ人とは人種ではない。ユダヤ教を信奉するひとびとのことだ。ドイツ人の家庭では生活のため党に入党する。フリードリヒの家では職を失い、暴徒に家を叩き壊され、略奪され、母は死に父はラビを匿ったことを密告され連行される。そしてフリードリヒは........

 町からきた少女というやはり戦争時のこどもたちを描いた名作があった。ほんとうによい児童書はおとなにとっても熱い砂漠のオアシスのようだ。あのころはフリードリヒがいた...が胸を打つのは、徹底した客観的な描写であるのにそこにフリードリヒが優しく希望に満ち正義感にあふれ、いたずらもするごくふつうの少年がいるからだ。そして抗いようの無い力に押しつぶされてゆくからだ。隣人であるドイツ人一家はできるだけのことをしたが自分たちを守るためにフリードリヒを見捨てざるを得なかった。

 いまでも抑圧されているひとびとは大勢いる。イラク人であるからというだけで殺された何万ものひとびとのことも忘れてはならない。そしてわたしはイラクで殺された日本人青年のことを、政府からも同胞からも見殺しにされた青年のこともなぜか思い出してしまったのだった。


七百七十八の夜  2005.4.18  小川行き

 朝、あたふたとお弁当をつくるが、まりがいないとダシがどこにあるかもわからない。わか菜ガ学校に行く時間には間に合わなかった。きょうは小川町でお葬式があるので、途中下車して届けることにした。

 本町小のおはなし会、まだ二年生になったばかりの子どもたちにわたしの持ってきたおはなしはむつかしいように思ったので、手遊びキャベツの中からのあと”のら犬ウィリー”を読んだ。マークシーモントのこの絵本は研究セミナーで取り上げた本だ。さっきまでのざわめきはどこへやら教室は水を打ったようにしんと鎮まる。こどもたちの視線が見詰める。あぁ絵本もいいなぁと思う。それからまどみちおさんの詩、マツを読む。ぼくのポチが死んだのに......マツはさわさわという詩。先生が会議で遅くなるようなので、最後にジャックとどろぼうをする。こどもたちがぽんとはじける。楽しかった。山をのぼり山をくだり(もともとは丘)谷をわたりのところで川をわたり...という子がいてこんどはそうしようと思った。

 事務所によって手配をして、喪服に着替え小川に向った。途中川越市駅で降りお弁当を届け、小川町まで東上線で40分、森林公園を過ぎると新緑の山に山櫻のほのかな色、小川町で降りる年配のひとびとの顔立ちを見ると懐かしい秩父の顔だ。両親は秩父の出だから昔は夏ともなれば長逗留をしたものだ。けれど女学生の顔はと見ると今どきのギャル、東京より若干顔は丸いが、アイラインを目の際にいれ、短めのスカートは全国共通なのだろう。土地のいろもすこしずつ薄まってみなおなじ色に染まってゆく。

 タクシーで自性寺に向う。山のふところ、こじんまりとした寺だが、本堂は立派だった。見るともなしに境内に目をやるとはらはら櫻のはなびらが散ってゆく。昔、秩父ことばで葬式を”終い”といった。いつか誰にもくる今生の別れ、葬式に列するたびに引き締まる想いがするのはいづれくる自分の”終い”に思い至るからであろう。泣き、笑い、愛しみ、憎み 過ぎゆきて なにもかも流して死んでゆけるものならば.........

 今日父君を見送られた方は、亡くなられたあと父君が会いに見えたという。それは不思議に40代の姿であったそうな...微笑んでいる遺影も40代のお顔でわたしは胸を打たれた。千の昼、千の夜も残すところ222回、生きるとは自分との戦い以外のなにものでもない。222の昼と夜のあいだにわたしはどこまで行くことができるだろう。


七百七十七の夜  2005.4.17  浮野の里・星の王子様

 ひさしぶりの休日というのに朝から会社に行ってシュレッダー作業、なんでもとっておく性分だから平成3年の賃金台帳から振込み用紙もファイルまでとってある。税法上は7年分保存しておけばよいし、4月から個人情報保護法ができたから余計なものをとっておかないほうがいいのである。25年のあいだに雇員、社員、バイトを含め数百人のひとが来て去っていった。それぞれのひとに思い出があるがもう忘れよう、捨ててしまおう。縁があればまた会うこともあろう。

 ゆっくり喫茶店でコーヒーを飲み、花束をふたつ用意して語りの発表会に出かけた。朝、忘れているのでは..と友人から催促のTEL、例によって、忘れていた。羽生と加須はどう繋がっているのかわからない、地理はまったく守備範囲外でぐるぐる回った末、暗幕を張った会場についたのは第二部がはじまったあと...南京玉すだれもおはなしも逃してしまった。演劇を取り入れた語りとはどういうものだろうと総身で聞いていたが、4つのお話しを聞いたかぎりでは聞き手に聞くこと、感じる以外のことは求めないのかなと思った。勢いはあるし、なにかわからないけれど引き付けられるものもある。ただ手振り、身振り、声の大小はものがたりの必然があってのことで、とってつけたようなのは見ていて痛ましかった。最後に大道芸、犀の河原を聞いて、そういえば日本の話術のなかでも大道芸、香具師の口上、娘義太夫などはみごとに廃ってしまった。ストリートテラーを目指すわたしにとっても、研究の余地があると思った。

 帰り、高速の側道から浮野の里に立ち寄った。トランクにはドラえもんのポケットよろしく、ござからお風呂セットから缶コーヒー一箱、日傘、砂浜でつかうパラソルまで積み込んでいる。テントや焜炉もそのうち用意しよう、一番必要なのは椅子かもしれない。とりあえず、日傘をさして茣蓙を抱えて、細い街道を歩く、カラスノエンドウ、タンポポが咲き乱れている。道の両脇の水路の水面に浮かぶ花筏の隙間から葦の新芽が顔を出している。しらかし、しい、くぬぎ、がまずみ、広葉樹の瑞々しい芽吹きのいろを楽しみながら歩く。こうした場所は日本中どこにもあったのだ、ついこのあいだまでは.......

 広葉樹のなかにいるととてもやすらかな気持ちになる。一番太い椎の木の根方に茣蓙をしいて横になる、西日を避けて日傘を置く。あぁ いい気持ちだ、風はさわさわ、梢のあいだから仰ぐ水色の空、視界を過る鳥の翳、幻の白い月、思わず語ってしまうのは芦刈の歌.......聞いてくれるのは空と木と風

 帰り道、とぼとぼ歩きながらたしかにどこかで見たことがあると振り返った自分の姿、黄色の髪、アイスブルーのシルクのセーター、淡い緑がかったグレーのスラックス、そして頸にまいた青い長いスカーフ、そうだ、星の王子さま!!ファンのひとには叱られてしまいそうだが、思わず笑ってしまった。

 



七百七十七の朝  2005.4.17  えにし

 きのうは熊谷セナラの現場の舗装だった。朝からはじまったが、電気屋さんが大看板のケーブルを埋設していないとかで手間取り、夕方4時には奥の既存の駐車場の舗装しか終っていなかった。新設の広い駐車場はこれからである。カッターもラインも運搬も、自分の仕事が終ると指示もしないのに熊谷に集結した。こういうときうちの会社はすごいなぁと思う。うれしくなる。10時近くまでかかって舗装はおわった。

 わたしはみんな大好きだ。それぞれの家庭にそれぞれの事情がある。みんな家族のしあわせ、自分のしあわせのために一生懸命だ。わたしはみんなのことを心配して余計なことを言ったりする。でも、わたしができる最大のことは生活の糧を得る手立てである会社を存続させること、みんなが生き生きと遣り甲斐のある仕事の場であるよう心を砕くこと。

 こうして寄り集まってきてくれたひとたちとは深いえにしがあるのだろう。どうかここにいるあいだ、またよしや他所に行かれてもそれぞれの方がしあわせでありますように。


七百七十六の昼  2005.4.16  絆

 十年以上のながいあいだ、仕事のうえでわたしを支えてくれた宏子さんから手紙をいただいた。宏子さんは事情もあって三年前から湯河原にいる。昨年の修善寺の語りの祭りのとき会いにいきたいと思っていたのだが、会えなかった。実は数日前、宏子さんの医療保険をまだかけ続けていたことがわかって、宏子さんのことをおもっていた矢先だった。

 手紙にはこのホームページに目をとおしてくださっていると書かれていた。数年前、おとうさまが亡くなられたとき、大阪に住む妹さんの電話番号だけを頼りにわたしが葬儀に参列したこと......そのときはわからなかった気持ちが今理解できたと書かれていた。わたしの脳裏にも新幹線から梅田で乗り継ぎタクシーとコンビニで尋ね尋ね斎場にたどり着いたあの日のこと、お父様の遺影がよみがえってきた。遠く離れて住む宏子さんが日々のわたしの想い、語りや平和への気持ちを千の昼から汲んでくださっていること、長いときを越えて、気持ちが通じあうことの不思議、そして毎日のようにこのページに立ち寄ってくださるかたがたの日々、季節ごとの移ろい、そのなかでひとすじの白い糸のように紡がれつながってゆくたいせつなもの  .......わたしは目が熱くなった。ありがとう、宏子さん、ありがとう、わたしの知らない、よく知っているみなさま。


七百七十五の昼  2005.4.15  お別れ

 4月の給料日は一番たいへんだ。人数も金額も多い。はじめてネットバンキングで振り込んだが外部ファイルで送れないので一件一件手打ち、アルバイトさんはキャッシュで、住民税納付は窓口だから手間は以前よりかかって、一日翻弄された。そのなかで早川さんが前回の連絡会を踏まえてかいがいしく空き缶、空きボトル、危険物などの置き場をつくってくれた。日一日事務所が整然としてゆくのがうれしい。去年の秋から書類整理など社内の整理につとめてきたのだが....三時過ぎなった電話のベル....税務署からだった。10数年ぶりの税務調査、不法なことはしていない...だいたい儲かっていなし...けれど税調となると嫌なものである。歯医者に行くようなものだ。

 今日は銀行で長年窓口をしていた方が転勤なのですこし花を届けようと思っていたのだが、つぎつぎ帰ってくるバイトのひとに支払いをしているうち手紙を書いただけで終ってしまった。


七百七十五の昼  2005.4.14  花見

 昨日、高崎の帰りに熊谷セナラの現場に寄ったがこの現場がどうもあやういように見えた。統制がとれてないように見えたしヘルメットをかぶっているのはうちの人間だけ、現場はちらかっていて事故がおきてもおかしくないように見えた。もともとギリギリの金額で受けたと聞いてはいかが、どうみても最低900万から1000万くらいはかかりそうな現場なのだ。気にかかって、現場担当者に出来高、進捗、予算消化をはじいてもらったのだが案の定苦戦である。外注業者さんとしっかり金額の打ち合わせをして確認をとるように担当者に伝えた。工期は18日、予算は舗装で尽きそうなのでカッターや安全施設課などにも声をかけ応援を頼んだ。
  そして夜は2月3月の繁忙期の打ち上げもかねての花見だった。工業団地の桜並木、提灯のしたで花見をしているのはわたしたちばかりであったが、三日月さえて桜花を照らし、残花はらはらと散りこぼれる美しい夜だった。大きなドラム缶でつくった炉がふたつ、焼き鳥、焼肉、枝豆、おむすび 焼きそば おしんこ 差し入れのかずかず、馴染みの業者さん、ちいさな子どもたち大きな子どもたちもやってきて賑やかな夜だった。

 わたしは夜まで社員さんや外注さんや業者さんのひとりひとりと語りあった。こんなとき、語りをしていて芝居をしていてよかったと思う。伝えるすべを知ること、こころに届くように話せるすべを知ることはしあわせなことだ。それがひとりひとりの暮らしを変えていく波になってゆくとしたら、それこそ醍醐味ではないか、舞台にこだわることがあろうか.....でも.........

 今日は久喜座の練習日だった。...たぶん秋の朗読会のキャストが決まる。公募もしているらしいから今年一度しか行ってないわたしに出番はないだろう。それでもいい、明日は給料日、夜中二時とりあえず終えてドトゥールでコーヒー。


七百七十四の昼  2005.4.13  ダイヤモンド・リター

 かずみさんが一緒にきてくれというので高崎に出かけた。この日は昨日の連絡会につづいて朝8時から営業会議もあって、活発な意見があった。忙しいときより暇な時期のほうが会議は必要である。ことにうちの会社の営業は非力であって、それぞれの認識も甘く営業力もない。よく言えばこれからである。

 内容的にもルート営業というか懇意のお客のところによって仕事をもらう、TELで呼ばれて得意先に伺うという受身の営業なのだ。受注が落ちている原因についてそれぞれに分析してもらった。曰く専務が辞めた影響、受注先の仕事量が減った、見積もりを出しても他社と太刀打ちができなかった。....しかしそれでも食っていかねばならない。給料が減っては、まして会社がなくなっては困るでしょう...どうしますか?

 民間と官公庁への営業をどう組み込むか? そこで先だってつくった行動予定ボードを活用してもらう、前日に行き先のルートをつくり、官公庁、新規、最近冬眠している顧客の掘り起こしをする。水道工事指定店をとる。子会社の本店を設立する。わたしの奥の手は歩合給、五月より新規、掘り起こしのポイントを三倍にする。努力するひとには報いるということだ。

 高崎の工業団地に訪ねたのはダイヤモンド・リターという会社だった。中間処理を自力でとり、さまざまな処理機械、整然としたラインをつくったが倒産したのだという。相手をしてくださったのはダブルのブレザーを召した見るからに紳士だった。社長は42歳の女性だそうだ。素人ながら一生懸命勉強して志高く始めたものの仕事がとれず、二年で清算の憂き目憂き目に会い、連帯保証人それぞれが自己破産の手続き中という。

 ロゴと社名が気になってうかがったところ、リターというのはロンドンで使われているゴミ箱のこと、Lの文字おが蓋をあけたグリーンの洒落たゴミ箱になっていてその中に磨かれたダイヤモンドの図がこの会社のロゴだった。うちと同じだ....わたしは胸をつかれた。捨てられるゴミのリサイクルをして有価のものに換え、それで社会に還元しようというのがそもそもリサイクルをはじめたきっかけだったのだ。
 わが社も丸三年苦闘を重ねた。社会がリサイクルにたいしてまだまだ無関心であり、行政の対応があまりにも守りにまわっていて、誠実に努力している業者の方を見ようとしない。規制ばかりできたるべきリサイクル社会への展望がない。負けないぞと思った。ダイヤモンド・リターの思いも無念も引き継ごう、それをも力にして先へ進もう。


七百七十三の昼  2005.4.12  宝塚

 川口リリアで宝塚公演のチケットを売っていたので思わず買ってしまった。パンフレットを見たら4月、5月の東京公演が”エリザベート”と知って見たくなり、ピアなど検索してみたが当然完売である。しかたがないのでオケピとかチケット....とかを探し回っている。時もあろうに中ニの春に父に連れられて観た虹のオルゴール工場でわたしは宝塚にはまった。実際に見たことのない友人たちも宝塚フリークにしてしまうくらい過激なファンだった。

 当時菊田一夫さんの全盛時代でシャングリラ、砂に描こうよ、花のオランダ坂などなど名作がおおかった。その痕跡はディアドラを語ったとき、ドルイド僧カズヴァスに残っている。シャングリラで美吉佐久子演じる大臣ブルボンの声がまだ耳に残っていたのだ。淀かほる、春日野八千代も出演していた花の舞台で一番印象に残ったのは那智わたるの翻る黒いマントと美吉佐久子さんの渋い演技だった。たしかその演技でなにか賞をいただかれたと記憶している。

 宝塚というとばかにするひともいるがエンターティンメントとしてはかなりのものだ。観客を酔わせる、そしてそのサービス精神、チケットがたちまち完売になる所以である。さて、チケットはとれるかしら.....エリザベートは白鳥城の城主狂気のルートヴィヒ2世の従妹、深く柔らかい声の響きはごく控えめながら、情熱の波が内にこもっているようでした、と詩人のルーマニア王妃が語ったハプスブルグ家の皇妃だった。類稀な美貌と悲劇的な死で伝説となった。
 これは語りになるだろうか。



七百七十ニの昼  2005.4.11  花散らし

 きのう 川口までルナ・マンドリーノの定期演奏会に行った。鋳物の町だった川口は近代的都市に様変わりしていた。駅からリリアまで徒歩1分、エントランスのポピーが風に揺れ、期待に浮き立つ気分...お客さまはこんな風に楽しみにきてくださるのだ....と思った。演奏会は母校の伝統そのもの....真面目で格式があって、すこうし説教の匂いがして澄ましているけどあたたかみもある...といったところ.....妖精の森....新世界、ジュピターなど聞き応えがあった。昔 半年にも満たないあいだ、わたしもマンドリンクラブに籍を置いていたのだった。ロビーで知り人の姿を探したが見当たらなかった。

 今日は春日部にでかけた。櫻は雨に打たれ、樺色を帯びてきた、もうすぐ蘂の雨が降る。すると季節は緑一色、息詰まるような万緑となる。なにかカタレル?カタリタイ......”死霊の戀”と”残照”のテキストはまとまっていて、あとは語る気持ちになればいいのだが、なにか....もっと違うもっと激しくてもっと慄くおはなしが語りたい。

 支払いは済んだがまだ気の遠くなるような仕事の山だ。それなのにわたしはここにいない。ここにいないひとを想い、ここにないものを願っている。


七百七十一の昼  2005.4.10  今年の花・ストリートテラー



 いちどきに咲いたせいか櫻がことのほか美しい。朝5時前に起きて、むすめたちと櫻を見にいった。久喜の簡易裁判所の老木の艶なること、手毬のような花房が幾千とたわわに咲き誇っている。吹き寄せられたはなびらは湿気を含んで想いのほか重く紅のいろがあざやかだった。双の掌にとって風にのせると音もなくひらひらと地に落ちた。

 吉羽公園に行くと、薄紅の枝垂れた櫻と花芯に紅を刷いたソメイヨシノの白と若葉のいろが目に染むようだった。ほのかな櫻の香りが風にのってふわり漂う。昔、少女のころ夢を見た....空を振り仰ぐと櫻のはなびらと金粉が雪のように舞い降りてきて あたりが馥郁と櫻の香につつまれる夢、静かで満ちたりてしあわせな夢。

 かえりにデニーズで朝食をとった。かずみさんとわたしの夢は引退してちいさな車にポン煎餅の機械をのせて、あちこちちいさな旅をすること。かずみさんはポン煎餅を焼く、わたしは買いにくる子どもたちにおはなしをする。もちろん買わない子にも聞いてもらう。ストリーテラーじゃなくてストリートテラー....それが年取ってしたいこと。

 今年は平穏に櫻を見ることが出来た。けれども狂おしい思いでみたときより美しさは減じてしまった。そういうものなのだろう。だれからかくちづけされたように手の甲がとつぜん熱くなる。こうしてすこしずつ解き放たれてゆくのだろう.....そうだコーヒーカップを手にわたしは思いだす。このところ、わたしのうちに’ある’不在を感じることがたまたまあったのだ。それまでたしかにそよともせずひっそり身の内に根付いていたものが空白になった感覚.....どなたかが自由になられて天に昇られたのか......けれどもそれはそれでどうでもよいことなのだ。来年も見ることができようかと櫻を送るたびに想うのだが、ひとはつとめつとめてのちは委ねるしかない。どのように栄華を極めようと名を残そうと摘みとられるは神の意思である。

 わたしは語りのことになるとついむきになってしまう。だれがどのように語ろうといいではないか......自分自身が悔いのない語りができれば.......悔いのない日々を送ることができれば.......これは今年の櫻の賜物かもしれない。まだ燃える火のように語れよう....しんと鎮まった水のように語れよう.......いつか老いてたわいないものがたりを淡々と語れよう日まで......まだ間がある。



七百七十の昼  2005.4.8  いったい....

 助っ人を頼んで会社の掃除をした。外回りからトイレ、屋内たっぷり二時間かかかった。それからはじめてインターネットバンキングで11日の振込みをした。本来ならファイル伝送で会計ソフトからダイレクトに入れられるのだが、銀行マスターの支店コードの設定がめちゃくちゃだったので今回は一件一件手入力をした。一桁間違えたり、振込先を間違えたりしたらどうしようといささか緊張した。

 あいまにおはなし会に行った。さまざまなことがあったので三ヶ月ぶりだった。木の芽がいっせいに芽吹いて欅もやはらかな萌黄というか梅光茶の薄い衣をまとっているようだ。天気がいいせいかこどもたちの人数は少なかった。今日のメンバーは四人で読み聞かせがみっつ、おはなしがふたつ......ねずみと小判の民話を聞いて、わたしははっとした。上手くなった...けれども......この妙につるりとした感じはなんだろう。.....おはなしはよく思い出せないのだが、会話の手振りと調子だけが印象に残る。

 壌さんがワークショップの受講者のひとりに言ったことばを思い出す。「あなたは、芝居をする自分が目的になっている、それは今正さないとたいへんなことだよ」そして2/11に槇村さんから注意された「一箇所うたっているところがあります。うまくなるとそうなり勝ちですが、一箇所でもうたってしまうと全体がうそに聞こえてしまうのです」....

 おわったあと 「上手くなったね」と気心の知れたその方に云ったら「森さんがほんとうに言いたいことはそうじゃないでしょう。目がそう云ってるよ」というのでわたしの感じた危惧を話すと「わたしにとって語りは子どもたちと親しくなるための手段だからそれでいいのよ」という答だった。わたしはその方の語りから響いてくるものが好きだったし、ともに影響しあっていきたいと願っていたからその言葉に絶句してしまい.....「ほんとうにそう思っているなら、これ以上話すことはないね」と云って別れた。

 伝えることってなんだろう.......共有することってなんだろう.......与えることでも表現することでもない。こどもはこちらが心をひらけばすぐと心をひらいてくれる。はにかみながらおずおずの子も、飛びついてくる子もいて、ひとりずつ抱きしめてやれたらと思うけど、それができないから ひとりひとりのこころに届くようにおはなしをする。

 語りをすることも細い道をひとりで行くようなところがあって、気がつかずに迷い道にはいってしまうことは間々あるのだ。いったいほんとうにこれでいいのか........研究セミナーで技を教えてくれないことがあの頃は不満だったけれど、テクニックというものは知らず知らずついてくるのだった。そして上手くなることで失うこと、陥穽に落ちることのなんと多いことだろう。わたしは、わたしの語りは五年前、乳母櫻をはじめて語ったそのときよりゆたかになっているだろうか、瑞々しさを失ってはいないだろうか、謙虚さをなくしてはいないだろうか........イメージを伝える努力より外側のことに気をとられてはいないだろうか。

 あした もういちどTELしてみよう.......



七百六十九の昼  2005.4.8  空に

 ヨハネ・パウロ二世の葬儀に100万のひとびとが別れを惜しんだ。ヨハネ・パウロ二世は不屈の方だった。優しい方だった。世界の平和のために自ら行動された真の聖職者であった。それをみな知っていたゆえ、あのように多くのひとびとが参列したのだろう。法王の肉体は木の棺に眠る、魂は天に還る。

 地上に未だいるわれらは、平和のためになにを為せばいい?それはおそらく簡単なことだ。諍いの種を蒔かず、しあわせな家庭を築き、より良き為政者を選択し 身土不二 身近な大地でとれる食物を食し エネルギーの無駄を排し、そして伝えること、発信しつづけること。.......小さな場所で。

 経済のために、一部のひとの利得のために、宗教間の争いのためにひとがこどもたちが無残に殺されるのを見るのはいやだと伝えること。見て見ぬ振りをしないこと。極東に住むわれらと世界のすみずみは固く固く結びついている。地球で一番早く朝をむかえるわれらが平和の礎になれたら......と思う。

 

七百六十八の昼  2005.4.7  満ちる

 四月とも思えぬ温かさに櫻は早満開となった。咲き満ちる櫻は完璧に過ぎて,息が苦しくなる、泣きたくなる。早朝の櫻がおそらくもっとも美しい...けれど近寄り難い。陽がのぼると櫻は薄桃色に染まる。わたしが一番好きなのは夕暮れの櫻、風景に溶けて沈んでしんとしている......はらはら零れる花びら........そして散り加減、老残の櫻......若葉が萌え、すこしみすぼらしくなってそれでも咲いている一輪、二輪....それもやはり 泣きたくなる。


七百六十七の昼  2005.4.6  入学式

 わか菜が時間を間違えたので、めづらしく1時間も前に川越についてしまった。流儀を変えるのは居心地がわるいので、マックでお茶を飲んで、ぴったりの時刻になった。11クラスの担任が新入生の名前を読み上げる。しおん...ののか......ゆりあ.......美しい響きの名前が多かった。るか......もありました。読み上げる先生によって響いてくるイメージが異なる。後に先生の紹介を聞くと、いいなと思ったのはふたりとも国語の先生で、これは偶然ではあるまい。ひごろことばを大切にしているからであろうか。

 生徒の退場のあと、新学期恒例の理事選出があり、わたしたちの地区は4人のうちから2人選出なのだそうだ。一昨年は息子の学校で理事だったのでどのようなものか...(空前絶後だった)知っていたので、仕事の都合でどうしてもできませんといったがアミダでと押し切られ、当たってしまった。納得がいかず、理事長に話に行ったら、出てきたのは強面の校長先生であった。女子高の校長というよりは....組の......という貫禄。事情を話したところ、数分後関係者が陳謝され白紙になった。話してみるものではある。

 日中の暑さで櫻は一気に開き、家の裏の桜並木も一日にして五分咲きから八分咲き......無印良品のピンクレモネードを手に白々と浮き上がる櫻、水面に身を屈めた舞姫のような夜の櫻を観た



七百六十六の昼  2005.4.5  伝説

 滝沢修のあの芝居....とか奈良岡朋子のとか....伝説の芝居を観たひとの話を聞くとつくづくうらやましい。舞台は一回こっきり、空気感や観客の相や天候、アンサンブル、体調、心持ちなどで日々変わってゆく。ひとつとして同じ芝居はない。そのなかで たった一回の機会で名演にめぐり合えるのは 僥倖というしかない。わたしは壌さんの芝居でいままで魂を揺さぶられるのには出あったことはないが、座の公演で「動物園物語」(第三回 井上裕朗 ・ 北田理道出演)には打ちのめされた。

 片岡さんが語りには小さな場所が似合うと言ったのはけだし名言で、実は芝居だって小さな小屋で役者の汗が飛び散るような場所で観るのがほんものだと想うが、他人の耳もそうだったけれど、どうして小さい小屋ではああいう救いの無いストーリーばかりやりたがるのだろう。もしかしたら実は涙も笑いもある数々の名演が東京周辺のそこここで演じられているのかも知れず、しかし、これも出会えるとしたら僥倖そのものである。

 一回こっきりのそのチャンスに、聞いたひとたちが、あぁ今日はここにきて、聞いてよかったと感じてくださるような語りがしたい。ステージであっても、学校であっても、図書館であっても。

 二ヶ月振りの全体会、テーマは基本に帰ろうということ。挨拶、声をかける、整理整頓、書類をきちんとつくって出すべき時に出す、工事NOは取引先に必ず伝える。

七百六十五の昼  2005.4.4  プロとアマの間

 「プロ」と「アマ」の違いをひとことでいうなら、そのことによって金銭を得ているかどうかだと思う。アマチュアであってもお金をいただくことはあって、たとえば先刻の芝居「真夏の夜の夢」もそうだし劇団の前座としてやそうでない場合の語りをするとき、またリサイタル「夏物語」もチケット代はいただいた。それでもう一歩進めると「プロ」とはそのことによって生活の資を得ているひとを指すのだろうか。

 実は「真夏の夜の夢」の時こんなことがあった。劇団、照明、小道具、大道具、衣装に携わったひとびとがたまたま土曜の公演を見て、「あれは絶対見たほうがいい」「自分たちが忘れてしまったものがそこにある」と周囲に洩らし、日曜日に少なからぬ業界の人たちが観にきてくれたのだ。打ち上げの日にそうした方々の言葉を聴いたところによると、一様に楽しかった、客席と舞台が一体になるあんな芝居がしたい、芝居の原点を観た想いだ...という感想だった。土曜日の観客のかたがたからも笑ってそして泣いた...とか芝居はよく観るけれどこんなに心を動かされたのは久しぶりです...と直接耳にした。

 .......上手い下手がひとの心を動かすのではない。一途さ、志なのかなぁと思う。わたしは語りや芝居を生活の資にしようとは思わないが、聞き手や観客に時間とチケット代をいただく以上のなにかを差し出せたらと切に願う。そしてつれづれの生活のなかにぽっと燈を灯すような、あたためあえるような奇跡のような時間が共に持てたらそれだけでいいのかなぁと思う。そのために努力は惜しむまいと思う。

 もし結婚する前、少なくとも30代の頃に語りや芝居に出会っていたなら、本気でプロになりたい、結果は別としても一切を賭けたいと思ったかもしれない。あまりに覚醒していて陶酔と区別しがたい名状しがたい一瞬に出会うためになんでもしようと思ったかもしれない。しかし、それはプロであれ、アマであれ精進によって大きなステージ、小さなステージの差があっても辿りつけない場所ではないと思う。世襲の古典芸能のように幼時から叩き込まれた型を身につける術はないが、謙虚に耳を澄まし努めるなら天の声に重なる一瞬は必ずあると思う。


七百六十四の昼  2005.4.3  硝子

 親戚の法事がてら 伊香保に寄った。夕刻 雨で灰色に煙る竹久夢二記念館を訪ねた。最初に以前にはなかった義山楼(ぎゃまんろう)で明治大正の和ガラスを観た。案内の婦人に導かれて橋をわたり築山から落ちる小川の音を模したという滝を右手に見て古風な硝子の玄関燈の灯された扉のなかに入る。襖がするすると開き目の前に水色、薔薇色、黄色、若草色の硝子のコップやコンポートが幅10米高さ2米の棚一面に並んでいる。乳白色の背景は自然光を採り入れてあり、夕刻のこの時間がもっとも美しく硝子の色が見えるのだという。わたしたち三人のためだけに供された、ただただ美しい夢幻のいろあいだった。

 それからオルゴール館に行き、百年以上前の磨きこまれた木製のキャビネットから流れる深い音色に耳を傾ける。ラルゴがよかった。帰ろうとすると呼び止められ、教会の聖堂のような小ホールでピアノの演奏を聴かせていただいた。.....宵待ち草。よい時間だった。取り戻せないものはある。時間を惜しみなくかけることで磨かれた職人の技、時を越えて生き残った実に100年前は生活の一部であったろう硝子の器、電灯のかさ、ランプのシェード、オルゴール、今のわたしたちの暮らしのなかでどれだけのものが時の流れに耐え得るのだろう


七百六十三の昼  2005.4.2  おばちゃんのかいまき

 まりがひどい頭痛がするというので看病をして、ついでに眉をととのえてやった。黒々とした凛々しい眉が年頃の娘らしくなった。午後仕事に行って夜はダンスのレッスン、やればできる、スマップでもラテン系でも、一年前とは段違いにからだが動くようになった。娘のためにつきあいではじめたダンスが今は楽しみになったのだ。

 夜 リビングに布団をひろげ、まりといっしょに手をつないで寝た。寝具を運ぶのはたいへんだったので、押入れの布団袋から長らく使っていなかったかい巻きを二枚だしてふたりで一枚ずつ着た。肩の丸みを、かい巻きがすっぽりくるんでくれ、一枚でも充分温かかった。「いい綿と真綿をうんといれたからぬくかんべぇよ」 おさだおばちゃんの声がよみがえってくる。そうだね、おばちゃん うんとぬくいよ。......娘の掌のやわらかさとぬくもりにほっと安心して、わたしはすぐ眠りについた。


七百六十ニの昼  2005.4.1  贈り物

 美しい日だった。風が光っていた。日ざしはあかるく空気はかるく、祝福されたように息をすることも生きることも苦にならなくて、思うことがなんでもかなうような気がした。会社に着くと会計事務所の又さんが見えていた。よりによって一番忙しい日、でもこの日に又さんがきたのは符号のように思えた。

 2.3月は通常の二倍、三倍の伝票がまわる、電話も多いし日日の仕事で手一杯で新しいことに着手するゆとりがない。4月は好機であるし、皆の気持ちがほっとして弛緩しないためにも新たな問いかけ、新たな企画を打ち出してゆかねばならないのだ。

 仕入れは新しいシステムでほぼ仕上がった。売り上げ、請求書の作成も新しいシステムでできれば、その余力で本来目指す経理の業務、予測できる経理、戦略的経理へと歩を進めることができるかもしれない。また、土木も実行予算作成、自社歩掛かりへと進度を速めたい。そして活きた営業活動へ向けて、営業実績への評価、給与へのバック、現場社員への達成度評価、事務職員、ひとり親方、パートアルバイトへのバックも考えてゆきたい。その雛形をつくってもらった。わたしの考えていたポイント制に近いものだった。

 企業はひとでなりたちひとで決まる。ひとりひとりが意欲を持って生き生きと仕事ができるようにすること、明確なビジョンを持つこと、資金の確保が経営者の役割と思う。ホワイトボードに全社員の予定を前日に書き込んでもらうよう準備を整えようと思う。それはひとりひとりが計画を立てて仕事をすることにつながり、適正な配置によってムダを省くよすがともなるだろう。

 九時過ぎて家に着くとハッピーバースディ!!の声。55本のろうそくを立てたケーキ、淡いピンクの生クリームにハート型に切った苺がならんでいる。手作りのご馳走とプレゼントは化粧ポーチとペンケース、さすがに母に必要なものを知っている!でも一番うれしかったのはアネモネと白いスイトピーの花束、そしてケーキに標された”魂の語り手”ということば....今はまだ恥ずかしいしこそばゆいけれど、そう、わたしは時間をかけて魂の語り手を目指そう。そして子どもたちにかずみさんにいただいた以上のものを返そう.....自分の誕生日を心底うれしいと感じられるのはひさびさのことで、しあわせな春の夜はゆっくりと更けていった。



七百六十一の昼  2005.3. 31 晦日

 年度末という恒例のお祭りも今日で終る。完了検査も済みつぎつぎと売り上げ伝票がまわってくる。三月の売り上げは6000万までは届かなかった。昨年が7400くらいだから20%は落ちているがカッターもラインも社員がひとりずつ減っているので善戦したといえるだろう。あしたから新しい年度がはじまる。

 ふとみると会社の築山に白椿、白梅、紅梅、ゆすら梅?そして石榴の花、風にはなびらが舞い散る。


七百六十の昼  2005.3. 30   ヨアケチカク

 20時間労働をして夜明けちかく、会社を出たら月が煌々と照り映えていた。夜更けまではあかりの灯っていると理科大も今日は暗闇に沈んでいる。家について冷えたからだをストーブで温めているうち眠り込んでしまったらしい。朝おなかが痛くて目覚めたら低温火傷で水ぶくれができていた。どらえもんみたいだわと思った。


七百五十九の昼  2005.3. 29  衣装

 娘のために駐輪場の契約にいったところ、そこはもともと呉服屋さんで先代が亡くなったために、呉服屋のほうはたたむというので 安売りをしていた。めぼしいものは売れてしまっていたが 小紋と塩瀬の帯と絽の着物など買った。お稽古と本番で着物を着るうち、ふだんでも着てみたくなったのだ。

 真夏の夜の夢の衣装は蜷川さんの芝居の衣装を担当している方が面倒みてくださったのだそうだ。ヒポリタの打ちかけは蜷川版真夏の夜の夢で白石加代子さんが実際に着たものだという。衣装の力は観客をものがたりの世界に誘うのに、そして役者や語り手自身をその世界に生きるものとするのにも大きな意味がある。もっとも黒子に徹しきって全身黒づくめというのもわるくはない。

 浦和で叔父叔母と落ち合い、5月の親族の集まりの打ち合わせをした。結局鬼怒川で老若34名があつまることになった


七百五十八の昼  2005.3. 28   24本のろうそく

 ふと、気がつくと外股で歩いている、歩幅も大きい。イジーアスが抜けていないのだ。芝居がすんだあとはしばらく演じた役の属性が消えない。時が経っても沈殿してどこかに残り続ける気がする。睥睨する目、わたしはたぶん以前より貫禄がついたかもしれない。

 壌さんは危険が伴うのでひとつの役が終ったらリセットしなければならないといったが、本気でその役になりきったらそれは無理だ。それに.......もしかしてその役の属性とはわたしのなかにもともとあって、それが役を通して表面に顕れ出たのかもしれず、そのほうが納得いく気がする。

 ともあれ、わたしはそのイジーアスの属性を利用することにした、これからが正念場である。わたしは仕事で語りや芝居で今まで培ってきた力を生かすのだ。ひとに訴え伝え共有する力を.....会社のためにかずみさんや家族や社員さんたちのために使うのだ。

 夜、昨日出来なかった息子の誕生日の祝をした。手巻き寿司にまりがつくっれくれた鰯のつみれ汁がたいそう美味しかった。チーズにワインならぬチューハイでほろ酔い加減、わたしは焼酎のほうがワインより好きかもしれない。24本のろうそくがゆらめいた。ひとつひとつがみんな君の人生だねっていって......17本目からは一緒に.....なつかしい歌を思い出す。わたしは渾身の力で家族を愛する、生れ変ろうと思う。4月1日の誕生日をしおに........
ほんとうに愛するとはどういうことか.....それを知るためにひとは地上におかれたのだ、たぶん。

 それは語りをするより芝居をするよりむつかしい。しかし、これからの年月、許された年月のうちに わたしの努力しだいで それは語りや芝居にかえってくるだろう。より深く、やさしくつつみこむように.....という確かな予感もあって、そっと背を押してくれるのだ。櫻の蕾もふくらんで今年はいつもより平静に花の咲くのを待っていられる気がする。あなたはいまどこにいますか?会える日が一日一日近づいています。つい先のことかもしれない、ずっと先のことかもしれないけれど。どうかそれまで地上でわたしがわたしの役目を果たせるよう見守ってください。



七百五十七の昼  2005.3. 27 その2  語りと芝居のあいだに

 赤坂見附のさくら水産での打ち上げで、わたしは壌さんに「伝えたい思いを台詞に込めるのはどうすればいいのですか」と訊ねた。すると壌さんは「役者は少しうまくなるとそう考えるが、それは違う。思い込みというのは思いを込めるということです。台詞に忠実に、胸に秘めたものは自然とにじみ出る。作者のほうがずっと上なのだから伝えようと思わなくていい。」 「わたしは30代に浅利慶太にそれを叩き込まれました」というようなことを云われた。もしかしてニュアンスが違っていたら申し訳ないが脚本の世界に忠実に......どこかで聞いたことがある、何度もと思ったら、Oの会で朗読を学んでいる友人のことばだった。

 演出家は神である、作品世界(演出家が思っている)を成立させるために絶大な力を持つ、役者はそのためのコマである。それは極めて当然のことと思う。しかし語り手はといえば己が作品世界をまた自分の世界を聞き手に伝えるのだ。壌さんはたぶんテキストなしの語りがあること、語り手自身が作者である語りをご存知ないなと感じた。役者とは天との共同作業だと言われたが、私は語り手も天を代弁すると思っている。代弁するというより天につかっていただくのだと感じている。メッセージを前面に押し出さないで聞き手と楽しみながらものがたりを共有しながら伝える。それは民話の歴史が連綿と伝えてきたことでもあるのではなかろうか。

 わたしが今回芝居を通して学んだのは、発声と滑稽だった。本番まであわせて正味7日間の参加、7日間の夢のなかで、如実に見たのは客がどの場面で笑うかということ、笑わせようと意図しない巧まずした素人の一本調子に客席は沸く。謹厳実直を絵に描いたようなひとが似合わぬ間の抜けたことをいうと笑う。つまり観客はギャップの大きさに笑うのだ。しかしそれは半ばは通常使える手ではない。いわば今回の状況、素人の発表会であるからできるのだ。ふつうに使えそうなのは間によるギャップである。さて、これをどう身につけるか。発声についていえば、語りではストッパーをはずし大音声になる必要はほとんどない。ただキャパがあればニュアンスを伝えやすくはなるだろうか。芝居畑、朗読畑の語りはそれぞれ特徴がある。ほんとうをいえばわたしは双方ともこれはという語りを聞いたことがない。

 さて、どうするか............芝居も語りも家族を犠牲にしてやるようなものではない。埼芸の川村さんが初舞台を観ていってくださった「森はおもしろい役者だ。一度かぎりでやめないで役者を続けなさい」ということばをたよりにいつかチャンスと自分の環境がゆるしてくれるようになるのを待とう。シェークスピアを坪内逍遥訳で演ずるのは三十年来の画期的なことであるらしく、その坪内訳の格調と流麗が素人芝居で観客につたわったのは奇跡に近いことだが、それはそれで尊重するとして、今の生きていることば、美しいことばで伝える芝居がしたい。心臓につきささることばで。沁み込むことばで。

 
 そして許される範囲で、今年は語りを細々でもつづけよう。志を胸底にしまいもっと深めよう、果敢に自分への挑戦をつづけよう、痛む足を引き摺り、夜中久喜の街を歩きながら思ったのはそんなことだった。

 
七百五十六の昼  2005.3. 27  ごめんね

 朝、かずみさんを会社に送りがてら、会社の駐車場のそうじをし、ライン班を送り出した。朝の清掃は気持ちを明るくする。その勢いで青山に向う。開演前の舞台に立ちひとりで幾度も、幾度も台詞をいってみる。ロビーに出ると外のざわめきが聞こえる。1時間も前からお客さんが並んで待っているのだ。急遽1時15分に開場となる。

 5分押しで一ベルが鳴る。わたしは今日は休憩後の出なので2時間まるまる出待ちでこれはこれで集中を持続するのがたいへんだ。出演をしない間皆は舞台の袖で見ているが、わたしはひとりで楽屋で練習をする。ここの楽屋はモニターがないので音だけが聞こえるのだが、台詞はきのうよりはっきりしているのに、客席の反応が鈍いように思う。

 休憩のとき、壌さんが顔を出しいつになく厳しい声で「集中が足りない!もっとことばを粒立たせて....お客を逃がしている」という。みんな一挙に強張った顔になる。袖で出を待っているとスタッフのひとたちが「やっぱり....」「きのうと全然違う」「二日芝居だ、恐いね」とかひそひそ声で話している。二日芝居とは初日が開けて、緊張がとけて緩い芝居になることをいうらしい。

 心臓の音がドッキンドッキン聞こえるようだ。壌さんかえってプレッシャーキツイですと思った。出る、うまくいったが、最後......一生懸命、一生懸命、御覧に供しようとかわいそうなほど苦心して暗誦した彼らのこころざしだけが、たかがおなぐさみにになるくらいのもので......と云ってしまった。伝えたい思いが迸ってしまったようだった。やってしまった...と壇上で職人たちの芝居と踊りを見ていると、確かに昨日より精彩がなかった。

 それでも、カーテンコールには温かい拍手があり、ロビーでの送り出しでは人波がなかなか去らなかった。「作者の方ですか?」と云われたのはよほどえらそうに見えたのだろう。壌さんに「すみませんでした」と頭を下げると「よかったよ」といってくれたのでほっとした。

 打ち上げは出演者、スタッフ合わせて大いにわいた。最初そのなかには入れず涙がとめどなく流れたのは、四月 座・シェークスピアに申し込んだ後起こったさまざまなことが思い出されたせいかもしれない。かずみさんが倒れ、ダイワのことやさまざまなことが次から次へ振りかかった.....それはまだ続いている。今回も納得のいく芝居ができなかったからかもしれない。かみさまが降りてきてくださらなかった、それが最大の理由だろう。そしてもうひとつ、ここで一旦やめようと決めたからと思う。芝居はおもしろい。さまざまな年輪のさまざまないろあいのひとたちとめぐりあい、ひとつの芝居をいっしょに作り出す,あったかくてスリリングな日々がそこにある、だが今はそのときではない。夜中も過ぎ、おずおずドアをあけて気づいた。そうだ、今日は息子の誕生日だった。忘れていてごめんね。


七百五十五の昼  2005.3. 26  舞台

 焼きたてのパン。コーヒー、フルーツやシリアルやヨーグルト....ホテルの朝食は美味しかった。ぐっすり眠れたし 一泊したのは正解だった。食事をとっているのはほとんど外国の方だった。アイコンタクトはとれる微笑みは交わせるけれど、会話できたらもっといいなと思った。チェックアウトしてコンビニで昼食を買い、赤坂御苑前を歩く。思い切り大声で歌ってみる。道行くひとのことなど考えない、自分のなかにあるストッパーをはずすのだ。今日は声を押すことに専心しようと決めた。 1持間も前なのにみな早々と来ていた。今日は楽しもうね、間違えても気にしないでつなごうねと声をかけた。

 わたしの衣装は素襖というのだそうだ。これっきり一生着そうもない衣装だが、きっちり着付けてもらうと気持ちがシャンとする。客入りの前の舞台、ニ幕のリハーサルの前に舞台で立ち位置を確認する。何歩でハーミアを追うか、何歩でライサンダーに詰め寄るか、からだをどう開くか 私の役イジーアスは大公の老臣、一幕はじめの狂言回しのようなもので、登場人物の説明といままでのなりゆきを説明する台詞である...ここでトントンとゆかないと芝居のテンポに影響する。

 客入り、一ベル、ニベル、心臓が高鳴る。細かい芝居は抜きにして、声を.....テンポよく芝居は進む、みんないままでで最上のできだ。つっかえてばかりいたひとも見違えるようだしヘレナがおもしろい。それより職人がおもしろい。お客さんの反応は上々だった。後半劇中劇でよく笑ってくださった。もっともほとんど身内のあたたかい、壌さんによれば味方のお客さんではあるが、元気をもらいましたという感想が多かった。スタッフのひとりに「楽しくて元気が出ればいいのかもしれない」と云ったら、「いやシェークスピアのなかにメッセージがあるんじゃないですか」、仲間のひとりは「逍遥の訳はむつかしいし、1/3はわからないだろうけれど、格調のあることばを聞いているだけでいいのよね」と云った。

 わたしはこんなことを考えていた。ほとんどが素人で声もおずおず出していたくらいだったのに、みんなほんとうに弾けてすてきになった。それぞれがよりそのひとらしくなったし、前に踏み出して生き生きしてきたような気がする。わたしは出席率10%だったけれど、それでも多くのものを得た。芝居をするのは生き方の勉強みたいだ。それでは語りはなにかといえば、自分の検証かな。どちらにも共通するのは夢、希望、美しさ、温かさを伝え、共有すること。さぁ、あしたは難題のフィロストレート......今日のリハーサルでは見事に噛みそしてすべり散々だった。あすもベストを尽くそう。 


七百五十四の昼  2005.3. 25  青山にて

 場当たりは出演者が絶対遅れてはいけないのだが、銀行に印鑑は忘れるし、白足袋や襦袢の用意、化粧品をなくしたので一式揃えたりして、大幅に遅刻してしまった。ついでにかなりナーバスになっていた。しばらく休んでいたので、仲間たちとの仲が疎遠になっていたし、2/11のこともあって、もし芝居に出ているときになにかあったらと恐かったのだ。

 テンションが低いせいもあったのか、帰り際壌さんに眼鏡をどうしようか尋ねた時、「声を呑んでいるから聞き取りにくい、イジーアスが怒っているときの声を標準にして」と云われた。ホテルへの道すがら、声を出しながら歩いた。なにかのはずみにとんでもない声が出た。ひとは知らず知らず声をセーブしているという。犬のケヴィンでさえ、あの小さいからだで人を威嚇する声が出せるのだから、出ないはずがない。

 結局ひとつ先の外苑前まで歩いた。行き過ぎたことに気づいて青山センチュリーホテルに向う。なかなかいいホテルだ。清潔なベッドにからだを投げ出して、テレビのスイッチをつけイラン戦を見たがすぐ眠り込んでしまった。



七百五十三の昼  2005.3. 24  明日は

 
 最後のお稽古に行こうとしたら、仕事でばたばたして行きはぐってしまった。ライン工事は最後の大詰めである。今日アルバイトにふたり休まれたので、1班はふたりで動いている、あまりかわいそうなのであちこち電話して社内にから応援をかき集めた。泣いても笑っても月曜日でおわる。もちろん芝居も27日で終るのだが、なにかあって後悔しないように伝票もすべてまわし、できることはみな片付けた。

 こんなに見せられる芝居になるとも思っていなかったので、声もかけていなかったが、櫻井先生がきてくださるとのこと、ほかに4.5人声をかけたが、急なことでみな、なぜもっと早く云ってくれないのという返事ばかり。明日は劇場のそばのホテルにとまることにした。あとはじたばたしたってどうともならない。4日の稽古で舞台に立つなんて無謀だけれど、5ヶ月も稽古してきた仲間の足をひっぱらないようにつとめよう。それから後のことは語りも仕事もなにかもゆっくり考えよう。なんとかなる。



七百五十ニの昼  2005.3. 23  稽古場

 午後から和田の集会所に稽古に行った。毎日のように稽古場が変わる。西荻が本拠地だからだいたいそのあたりなのだが、わたしは東京人ではなく稀代の方向音痴なのでたどりつくまでがたいへんだ。たいていなにか忘れてくるので(家にも稽古場にも)今日はお稽古着も化粧品もなくすっぴんである。それなのにちらしの写真をとるはめになった。あとでトイレの鏡で見たら髪はボウボウ憔悴したようなむくんだような顔をしていてがっかりした。

  20日、壌さんはこんなことを云った。自分は今度の芝居をこのように考えていた、1番目のステージは素人が楽しんでやる芝居、2番目のステージは観客にも充分楽しんでもらえる芝居、3番目はシェークスピアを上演するにあたってひとつの新しい可能性を示したもの.....最初は1番目のステージくらいかなと思っていたのだが.2.3日前からこれは2番目のステージに行くかもしれない、もしかしたら3番目のステージも夢ではない........

 みんな疲れ切っているが、稽古を重ねるたびに余分なものが削ぎ落とされ、地のもの 意図するものが浮かび上がってくるようだ。演出っておもしろいだろうなぁと思う。フィロストレートは荒削りながら はじめて台詞をつっかえずにまた、納得のいくようにできた。動きはまだまだ......しかし 疲れた。


七百五十一の昼  2005.3. 22  まっしろ

 中央幼稚園の年少さんおはなし会、ソーディーソーディーの歌の文句がどうしても出ない、真っ白.......ぼけてしまったのかもしれない。急遽 ふくらし粉ったら ふくらし粉っ♪と歌ったらたいそう受けた。子どもたちも大きな声で唱和してくる。よし今度からこれにしよう!労務支払日なので稽古はあきらめた。


七百五十の昼  2005.3. 21  志誠(こころざし)

 芝居の上手い下手は背筋を見てもわかる。安心して見ていられるひとはぐにゃぐにゃしない。ムダな動きがないのだ。台詞も同様で余分な振幅がない。見ていると壌さんの指摘はそんなところが多い。修正を重ねてゆくとみるみるうちに骨格が鮮明になり、芝居のすじがはっきりしてくる。職人のシーンで時間を食った。壌さんが吼えた。前回の稽古の台詞をなぞるのはやめよう、ひとつひとつの場面で毎回生きるということ。なぞるな! 壌さんが職人たちのなかにはいる、途端に生き生きと楽しげになる。これは語りにも通じる.....幾度も繰り返し語った話は語り手自身、先がわかってしまう。するとそれは聞き手にも通じる。今、この今はかってなく、これからもない唯一無二の一瞬、この今を生きるのだ。

 そして無味乾燥に思えたフィロストレートの台詞の底にあるものが見えた、いや、御前それはおやめあそばせ わたくし 一見いたしましたがたわいもないつまらぬものでございます、まったく。 ただ、御前に供しようために 一生懸命 かわいそうなくらい苦心いたしております彼らの誠志(こころざし)だけが、たかがおなぐさみになるくらいのもので........

 志誠(こころざし)だけが.......そうこの芝居もほかの芝居も語りも、よりよいものを高いものを楽しみを共しようとする無謀にも見えるこころざしだけが.......



七百四十九の昼  2005.3. 20  衣装

 朝から芝居の稽古に行った。新宿で丸の内線に乗り換え、中野坂上から和田に向った。タクシーで集会室に着くと、目もあやな衣装が配られていた。着物に袴、ヒポリタは打ちかけ、シーシヤスは袍 チテーニアはじめ妖精たちは薄物をなびかせ、職人たちは威勢良く尻をからげている。真夏の夜の夢を和物で?と思ったが違和感もなく、いろあいも美しかった。

 壌さんが見えたのでみんな気合が入っておもしろかった。通しで見てようやく話のすじがわかった。室内のよどんだ空気に辟易して休憩時間に外に行くと、タバコを喫いに出た壌さんと会った。指を上げて合図している、なんだろうと近づくと「芝居上手いね」と言う。上手いなんていわないで「芝居 すきなの」といってほしいななどと思っていた。わたしはイジーアスとして生きていればいいのだ。娘に裏切られた父親はそうむつかしくはないが、フィロストレートにはまいった。台詞がぶっとんでしまった。必然性のない台詞なのである。

 壌さんにフィロストレートの位置を聞くと「シーシヤスの執事で、身分はイジーヤスのほうが上だがイジーヤスよりずっと大公のおそばに近くシーシヤスともざっくばらんに話せるひとだという。考えてみよう。まだ、同窓会から一週間しかたっていないなんて嘘みたいだ。わたしは今になってあのときの疲労感のわけがわかったような気がした。みんな...語り手会の精鋭ですら、語りの持つ可能性の深さ、豊かさを理解してはいないのでは........ということ.........楽しいだけでもいい.......しかし自分のパターンにとらわれず果敢に挑戦してほしいひとがたくさんいる....もっと、もっと賭けて、トライして...........

 フィロストレートの台詞の意味がすこしわかってきた、いつだって根底にあるのは愛、慈しみ、思いやりである。



七百四十八の昼  2005.3. 19  礎

 語り手はまず自らを癒すのである。ひとは綻びを傷口を抱えて生きている。自覚せるものも自覚されざるトラウマもひとのいのちを多かれ少なかれ損なうのだ。ゆえにひとは無意識のうちに綻びをつくろい、傷口を癒そうとする。
 
 それにはさまざまな方法がある。自尊心を回復するためのさまざまな試み、愛されようとすること、罰せられようとすること、無意識下で反復される失敗.......語り手の場合は意識するしないにかかわらずものがたりを選択し語ることそのものがが自らを癒す試みなのだ。親子をテーマにしたことを語るひとは多い。そして戀、しあわせな結婚というテーマ、兄弟、生と死などなど、こうして語り続けてゆくうちに不思議な作用がおこる。ものがたりのなかで生きなおすといったらいいだろうか、知らず知らず 疼くような灼けつくような痛みがやわらいでゆくのだ。

 研究セミナーのライフストーリーの講義で「語りは癒しではいけないのですか?」という問いにたいして片岡講師は「癒しではゼロでしょう?」と答えた。そのことばはわたしの内に沈み、折にふれ鮮明に甦ってきた。なぜ癒しではいけない?

 はじめて語った雪女をはじめとして、月の夜晒し、つつじの娘、芦刈の歌、ディアドラ........愛のものがたりを語らずにはおれなかった理由をわたしは知っている。そして、昨年の「夏物語」でフランス窓から、弥陀ヶ原心中、おとうちゃまへを語りおえたとき、わたしはとても軽く自由になった気がした。これからほんとうの語り手になれるのだと思った。

 自らを癒すために語ったものがたりは、語り手の核となり礎となる。なぜなら語り手の悩み苦しみは、また喜びはそのまま聞き手の悩みや喜びに重なるから....ひとはおなじようなことで胸をいため、泣き、笑ってきたのである。物語を聞くことで聞き手もまた生きなおすのだ。

 語り手たちの会が天性のストーリーテラーである櫻井先生を代表として掲げ、詩人としての透徹した視点と感性をその手に有し理論的裏づけを兼ね備えた片岡先生を副代表として擁していることはしあわせである。わたしは今研究セミナーの三年間を懐かしく思い出す。あんなに休むのではなかったなぁ。片岡先生の示唆したことばが松明のように行く手を照らす。...そう語り手は自らを癒すことで終ってはならない。語り手には使命がある。語り手は過去と未来をつなぎ、たとえちいさくとも闇に光を投げかけるのだ。そして代弁する。

 

七百四十七の昼  2005.3. 18  夢のあとさき

 わたしは.....語ることで世界を変えられる....と思っていた、本気で。すくなくとも語り手が自分のまわりをほんのり照らせば、世界が堕ちてゆくのをすこしは食い止められるのでは....と思っていた。ばかだなぁ.........妄想だと笑いつつ涙がこぼれてる。

 理想家がひとり理想をなくすたび、世界が暗くなるのだってだれか言ってた?ひとり語り手をふやすまでにひとつの戦争で何万人も死んで、種が何万種も滅びる。こどもたちは、化粧に身をやつし、殺しあったりもする。

 間に合わないな、わたしはほかにすべきことがある。もっと有効な方法がある。2月11日のことはあれは偶然だろうか、きのうのことは偶然だろうか。片岡先生、わたしは予兆ではありません。変革は間に合いそうにありません。わたしは花のように語りたかった、雪のように、森のように、滅び行く種の最後の一頭のように吼えたかった。


七百四十六の昼  2005.3. 17 先へ

 娘の入学説明会、とんぼ返りでカタリカタリの例会、時間は少ないがしまってきた。みなおめず臆せず、ライフストーリーを語れるようになった。はじめてのひとにはテーブルを囲んで、世間話風に語ってもらう。前回語ったひとは場所を設けて語りとして語る。どこが違うと思いますかという問いかけに、「客観性です」と応えたひとがいた。そう、斜め上から見ている感じ、この客観的に見るというのは語りすべてにいえるポジションである、ことばは熱く、また涼やかにしみとおるようであっても、魂から湧き出ずることばであっても、それをどこかで見ている別の自分がいる。世阿弥も同じようなことを書いていた。

 娘を置いてきてしまった。駅に探しにいったが、もういない。ひたすら仕事をした。

七百四十五の夜  2005.3. 16 誤解

 ここはわたしにとっての真実を書く場所だと思っている。日々の悩みや泣いたり笑ったり考えたり......ここでわたしは考えをまとめ整理し、翌朝つぎの一歩を踏み出してきた。つぎの朝考え方、捉え方が変わってしまうこともあるけれど、自分としては連綿とつながっている。けれどもその日だけ読んでくれるひとがいたら、誤解もあるかもしれないなと思う。

 友人からメールがきて、「洋子っちがそんなに虚しさを残したのかと思うと辛かったですね」とあった。日曜日の同窓会にわたしが感じたことを書いたことで友人を傷つけてしまったようだ。幼稚園やデイケアで語るのはわたしもほとんど楽しい話だし楽しいのがいけないなんてひとことも書いていない。つまらないとも書いていない。語り継がれた話がわるいとか創作がうえだと書いた覚えもない。自分のなかに生きているおはなしを生きていることばで語ってほしい。わたしはなかまたちに求めたいのだ。求めすぎだろうか。みんなの力量やセンス、技術をもっと生かしてほしい。もったいないと思う。

 ひかる仙人の「変革の時はくる」というメッセージが夜の闇をこえて手元に届いた。いつか みんなにもわたしの気持ちを理解してもらえる時がくると思う。少なくともわたしは望みをひとつ実現させた。4年前、研究セミナーで初めて語った語り「おさだ叔母ちゃん」あのときひかる仙人はわたしが語るあいだほとんど眠っていた。わたしはそのとき語りながら誓ったのだ。いつか仙人を絶対眠らせない語りを語ろう....日曜日わたしはずうっと仙人を観察していた。ひかる仙人はずっと目を開けていた。うとうともしなかった。そう、望みはきっとかなう、いつかかなう。ずっと願い努力を続けるならきっと。

 これからも率直に書いてしまうだろう、なかば懼れながら......そうやって自分を焚き付けて歩くのだ。妥協はしない、前に進めないから。



七百四十五の昼  2005.3. 16 浜田山にて

 仕事も一山越えたので、夜 「真夏の夜の夢」の稽古にでかけた。気がつけば、本番10日前、はじめての稽古参加である。スタッフのまどかちゃんにずいぶんと心配かけたことと思う。まどかちゃんに一幕一場の動きをつけてもらった。最初の登場は娘ハーミヤを追っての疾走である。台詞は入れてきたが動きが入ると飛んでしまう。このイジーヤスの台詞は登場人物の紹介とこれまでの経緯を観客に知らせる重要な台詞だ。

 壌さんが見えて、ダブルキャストの相手の方から練習が始まったので、わたしは観客としての目線で動きを確認することができた。わたしの番がきてすこしどきどきしたが、一回でOKが出た。壌さんが「森さん、いいよ。動きがあって............で」壌さんはめったにほめない方なのでほっとした。稽古はあと数回あるし、なんとかなりそうだ。ずうっと稽古のことが頸のまわりにぶらさがったように気になっていたが、とても練習に出られる状態ではなかった。ほとんど毎晩9時から夜中の帰宅だったのだもの。

 あの夜、救急車のなかで、出演はするまいと決心したのに、とうとう断れなかった。それはわたしの弱さである。この芝居に出ることが語りのうえでも収穫になる予感がしたし、仲間たちとここで別れるのも辛い気がした。仕事は朝早く行って、穴をあけないようにし夜の練習にできるだけ出よう、草月ホールで2500円のチケットだからお客さんをがっかりさせないようにいい芝居をしたい。


七百四十四の昼  2005.3. 15 朝焼け

 東の空が薔薇色に染まったころ、ひと段落して、セコムをロックし外に出たらかずみさんが車のなかで寝ていた。一声かわして家に帰った。 雲はやさしい菫色、空は薄青、刻々と変化してゆく空のいろ、家につくころには金色の光がさしそめ新しい一日がはじまる。

 末っ子の卒業式、それはわたしにとっても中学の子の親としての卒業だった。たのしいことはポプラ祭の合唱コンクールしか思い出せない。こどもたちにとって中学時代は内的自分と向き合う、外世界と向き合う葛藤と格闘の時代であり、それをつぶさに見ているのは決して楽なことではなかった。

 今日は給与の支払いがあったので、こどもたちのことばを聞きたいと後ろ髪をひかれつつ会場をあとにした。駐車場でさきほど受付でわたされた封筒をひらいてみた。鉛筆の走り書き......

 お母さまへ 卒業ありがとうございます。もう15歳です。もうあの日から15年ですよ。かあさん。この最後の一年は考えることばかりしていました。ずっと考えてた。........なんで生きてるのかなってことです。お母さんと話していてもそういうの多かったしね。わたしはなぜここにいて、なにをすべきかなのか。そうやって考えているうちに時間がないことに気づいた。....だから山村女子に行ってきます。私 うれしかったです。お母さん、わたしに学校を選ばせてくれたでしょ。....たぶん心配してると思います。だけどだいじょうぶですよ。.やりたいことがあるの、たくさんだよ。夢があるの。だから行くんです。ね、夢ってやるべきことでしょ? そうでしょ お母さんはこれからも伝えることをするんだよね。お母さんから伝えてもらったことがたくさんあるよ。ねぇいろいろ気づいたんだよ。そしてそのことがこの後に絶対つながってゆくんです、死ぬまでね。あいかわらず学校はウザイですが、それだけでもよかった、三年間生きてて。......
ありがとうございました。


 ...ありがとう
あぁやっと親にしてもらえたんだね、お母さんも。25年かかって......
語り手としてほんとうに語らねばならないのは家族にたいしてではないかと気づいてから、この数ヶ月、折に触れあなたたちたちと話してきました。伝わっても伝わらなくても扉をノックしつづけようと思ってた。そして今日わたしも勇気をいただきました。これからも、ずっと歩いてゆけそうです。自分を信じて、愛して、生きていることに感謝して、手をさしのべて、夢に向って......
ありがとう。


七百四十三の昼  2005.3. 14 一夜過ぎて

 同窓会にわたしは過大な期待を抱いていたのだろう。思い出せば花束のようにそれぞれのものがたりがひとりひとりの今を語っていた。誰かが云っていた。「語りを聞くと、そのひとがどんな一年を過ごしたかわかるね」

 たとえ、どんな悲惨などんな苦渋に満ちた物語でも語り手はその底にある美しいものを語るのだと思う。なぜならひとは元来美しいものだから。悪意やねたみそねみ、醜いものをわたしは語るまいと思う。けれどなにもかも忘れて腹を抱え、笑える語りができたら、その語り手はその場に見えない花々を咲かせたのだとも思う。今にわたしも、そのような語りをしたい。

 もうすぐ7時、これから仕事に戻る。今夜は夜更けまでかかりそうだ。Sさんが息子の退院祝いの花篭を送ってくださった。こぼれんばかりのオランダの黄のチューリップ、大好きな青のデルフィニウム、小さな白い花.......思いもよらず涙が溢れてわたしを狼狽させた。


七百四十ニの昼  2005.3. 13 一年後

 語り手たちの会研究セミナー第二期の卒業発表会から一年、今日はその同窓会があった。新宿駅で偶然スタッフの曲田さんとであって、風花の舞う新宿の高層ビル街を歩いた。会場のあるNSビルは近未来的蜂の巣のような高層の建物で天井は低くなにがしか威圧感があった。こういう生き物の気配のない無機的なところで語りをするのはそぐはない気もしたけれど会場をさがすのはたいへんなことだったのだろう。

 ひさかたぶりに三年間をともにした友人たちの顔を見られたのはうれしいことだったが、なんとなく気がのらなかった。18人が順番に語りわたしは水のおはなしをした。 最後に片岡先生の講評があり、インパクトを感じた語りはどれだったかという口頭のアンケートに水のおはなしは7票をいただいた。次点は2票だったからたとえなににしろ聞き手の心に届いたのであろうし、一石を投じるつもりでこの話を語ったのだから効果はあったのだが、あとで残ったのはなんともいえない虚しさだった。

 「水のおはなし」はその後聞き手と交流し語り合ったとき、喜びを感じるのだが、そうでないとフラストレーションが籠る。あぁ、語りたい、もっとと思う。思いのたけを聞き手の心に響かせたいと思う。..........そのうえにみなの語り、たしかにうまくなった。語り口のなめらかさ、確かさ.......しかし、わたしたちはいったいなにを三年間学んできたのだ? 語りの本質は? 語り手は創り手だったはずでは........暗記したものがたりを語るだけではさびしい。うわべだけ撫ぜるのはもういい もっと叩いて、わたしの魂に響かせて、わたしはそういう語りを聞きたいのだ。

 帰り、みなと別れてわたしは呆然と新宿駅の雑踏のなかを歩いた。徒労感に打ちのめされ参加したことをすでに後悔していた。一年前、菅野さんにボールを投げたのはわたしだから来ないわけにはいかなかったし、とても楽しみにもしていたのだけれど、みなととても遠いところにいるような気がした。わたしはわたしの志を持って歩く。今日と同じような会ならもう行かない。せめて一夜ともに過ごせたらと思う。

 気分がよくないのは朝から食事をとっていないせいもあったのかもしれない。久喜についてカフェでBLTサンドとカフェラテをいただいたら少し気分がよくなった。語りを長年している人、語りに浸かっているひとは語りをこういうものだと限定しすぎているのではないかと考えているうち、ではわたしはと思い至った。カタリはジャズと同じインプロヴィゼーションである。元来即興のものである。それを支えるのは深い洞察力、技術、知識、感性.....根底にあるのは生きること、愛すること..カタリも同じだ。もっと自由にしていいのかもしれない。わたしもまた枷に捕らわれているのかもしれない。

 もっと学びたい   もっと先に進みたい  いろいろなことができそうだ........きっとできる、きっと........。



七百四十一の昼  2005.3. 12 お披露目

 朝から洗面所と風呂場は順番待ちでごった返していた。6人がそれぞれしたくをするので大騒ぎである。当の本人が一番のんびりしていた。折れそうな細身に黒のジャケット、白のシャツ、黒と白の縞のタイを無造作に結んで、しかしボトムは穴のあいたジーンズ、シャツの胸元から黒と白のTシャツ。「関ジャニ系、一歩間違うとホストだね...」.と娘のコメント。

 12人の席が用意されていた。それぞれの家族の紹介のあと、ワインで乾杯してフルコース。同席したわたしの母も飛んでいるが(ネモさんはルカママという)向こうのおばあさまも半端ではないようす、20歳で駆け落ちなさったという。どうやら浦和にお住まいのようで、会話がはずんだ。3時間の会食の最後に、出席したひとからふたりへ祝いのことばをいただき、ふたりから返礼と誓いのことばがあり、会は終った。笑いと涙の温かい門出を祝う会だった。最後に写真撮影をした。肩の荷が下りたようにほっとした。

 夜ダンスのレッスン、バレーの基礎、ストレッチ、ダンスはジャニーズ特集でファンタスティーボ、友だち、それからレスポアール、最後にマッサージ、久しぶりに汗をかいてすっきりした。事務所に寄って娘たちふたりに手伝ってもらって伝票整理などをした。それから灯油を買いに行きカラオケに繰り出した。1ヶ月ぶりに約束を果たせてほっとした。日本語と英語とイタリア語が飛び交いダンスまでして憂さ晴らし.....わか菜が「おかあさん、いろいろあってたいへんだね」とポツリ。

 事務所での社員さんとの会話とか聞いて身にしむところがあったのだろう...そうたいへんだけどね、おかあさんはギブアップはしない。おまえたちがいてくれるもの......ひとつずつ、ひとつずつ、階段を上る。気が遠くなるような長い階段、すこし青空が見える。



七百四十の昼  2005.3. 11 辞退

 一昨日県立高校の辞退をしたい旨担任にTELしたが繋がらず、早朝、TELのベル、先生は激昂していた。県立高校は辞退してはいけない規則だという。校長先生と話してくれといわれ、2時に学校に向う。

 校長と担任、娘とわたし、おふたりとも苦々しく思っておられるようで緊張した空気のなか、今までの経緯の説明と謝罪をした。小学校での語りの話や1月の市民芸術祭で聞いてくださったこと、などから空気はほぐれて、娘が気持ちを話すと先生は激励までしてくださった。ありがたいことである。

 県立高校に辞退の理由書を提出することになったが、書式があるということはときにはそういうこともあるのだろうか。

 雨の夕方、まりの買い物につきあう。あすは次男の結納がわりの食事会がひらかれるのだ。大宮のマルイで娘ははじめてのパンプスを買った。丸みをおびたベージュのやさしいかたち.....それから流行りのカーディガンを買い、出掛けに長男から偶然聞いたキクチタケオ?のショップが6Fにあったのでジャケットをプレゼントに包んでもらった。敬が着なければわたしでも着られる。今、はやりの裁ち放しで、10年前なら気違いざただが試着したら格好よかった。

 それから、引き出物の亀屋の最中と花嫁さんへのブーケ、小さい花束をふたつ青山フラワーで準備した。4人のこどもたちのそれぞれにとって4月は新しい旅立ちとなる予感がする。桜の花芽も膨らんできた。先生、春はもうすぐですね。



七百三十九の昼  2005.3. 10 向かない

 1000円合わなくたってそれがどうだというんだろう......とわたしは思うが、1円合わなくても気持ちが悪いというのが経理で、わたしはつくづく経理には向かない。今日は支払日で50件の振込みうち手形4通と格闘してうんざり。.....疲れ果てた。560円合わなかったが、原因を突き止めたひとが鬼の頸をとったように喜んでいた。

 昔、働いていたハッサンから国際電話「ヨウコサン、タスケテクダサイ」といわれてもどうすればいい。わたしもタスケテほしい


七百三十八の昼  2005.3. 9  真紅
 
 「おかあさん、何日同じ服を着ているの」と娘、そういえば高山から帰ってずっと黒のジョッパーズにグリーンのレッグヲーマー、1月に静岡で友人にあって以来、緑のアイテムに目が行く。友人ときたら、椅子もタオルも靴も髪も緑である。わたしは緑も好きだが今度は髪を真っ赤にしたいと思っている。服も靴もみんな真紅、あぁ 大分 疲れてるに違いない。

 朝出掛けに幽霊を見た10の話を読んだ。 水門にてが秀逸だった。早く帰ろう、帰ろうと思いながら結局11時、夜中に池袋ウェストパークを見た。窪塚くんのタカシが最高。


七百三十七の昼  2005.3. 8  幽霊を見た10の話

 印鑑証明をとりに行った。めづらしくカードが三枚揃っていたので法務局で会社のをとり、市役所で夫と自分のをとる手続きをして、待合のかたすみに本のコーナーがあるのに気がついた。 古びた本にタイトルを読む前から磁力でもあるように手が吸い寄せられた。それはフィリパ・ピアス の「幽霊を見た10の話」でたちまちものがたりに没入した。 結局、印鑑が見つからなかったので印鑑証明のカードはもとの!印鑑で作り直した。前回印鑑証明をとったときも実印がなかったので改印したのが3ヶ月経ってもとに戻ったのである。なんとなくめでたい。

 フィリパ・ピアスをこのままにするのはしのびがたかったので、黙ってお借りした。10のものがたりにはひとつとて水準の低いものはなかった。夜、昔仲人をしたご夫婦に問題がおきているようなので、奥さんを呼びだした。かわいいこどもたちに恵まれながら、遊び歩いているらしい。フィリパ、ピアスを車においてきたことが悔やまれたが、台本を覚えたり食事をしたりしながら、待つこと1時間。かさかさした渇いた肌、目をあわせようとしない彷徨う視線、「なんの話かわかっています」という。はじめはあなたの気持ちもわかるのよ...と穏やかに話したが、次第にエスカレートしてしまい「不倫はわからないようにするものよ、まわりのひとにどんな思いをさせているかわかっているの」「あなたは母親なのよ」などと詰問してしまった。

 まったく伝わらなかった空しさに自分も含めて嫌悪感に打ちひしがれて本を読む気にもならなかった。


七百三十六の昼  2005.3. 7  ふたたび

 本町小の朝のおはなし会、6年3組の教室に入った瞬間、水のおはなしをしようと思った。ここ数年、ことに六年生は変わった。モアモアした煙のようなものが教室に充満しているような感じがするときがある。12歳といえば清新の気が匂うようであっていいはずなのに.......。

 地球の今を、砂漠化と温暖化を話した、こんこんと湧き出た水の結晶はダイヤモンドの輝きを持つが、ひとの棲む街を流れてゆくうちに、水が悪夢のように変わってゆくのを見てもらった。そしてひとの体内を流れる水を、ことばが水に与える影響を見てもらった。

 図書ボランティアのひとりからこんな話を聞いた。「前月、みずのおはなしを聞いて感動したので、この春から幼稚園の先生になるひとたちのクラスで水からの伝言を読みました。若いひとたちの心に響いたようです。こどもたちを前にしたときの気持ちの持ち方がきっと変わるでしょう」、ある方はあれ以来、水を入れたペットボトルにありがとうという字を貼っているという。すこしずつ伝わってゆく、変わってゆく。

 娘が結局私立を選んだので、あちこちにTELしたり入学金を納めたり、図書ボラの反省会に出て、お客さまと会社で話した。わたしはことばで、魂からのことばで家や自分の子どもたちや会社やまわりのひとびとに伝えて、すこしでも状況を変えてゆけたらと思う。まず自分のまわりから誤解をなくして、理解しあって.....学校で語り、幼稚園で語り.......デイケアで語り、たいせつなことを伝えよう。

 自らの暮らしを変えることだ、それがわずかな変化でも、つもりつもってゆくだろう、仮にひとりの力で自分のまわりの見えない界、水の一滴、ひと掬いの空気しかきれいにできないとしても、輪をひろげてゆけば次代に託す環境や連綿と受け継いできた人類の資産がわたしたちが受け継いだままこれ以上損なわれないようにしてゆけるかもしれない。夢のようなことだが、やってみる価値はある。



七百三十五の昼  2005.3. 6  進路

 息子と結婚するお嬢さんの家と我が家で12日の土曜日に顔合わせの会食をすることにしたので、娘のジャケットを買いにマルイに出かけた、アズノーアズでオレンジがかったピンクのパイル地の可愛いジャケットを見つけた。Tシャツにでもなんでもブーケがついているのが 今年の流行だ。クリーム色の地に鳥のプリントのジプシーみたいなスカートをみつけてこれだと思ったが試着したところ......あきらめた。買い物のあと、二女は県立も受かったのだが、進路を決めかねているようだったので食事をしながら「自分を信じて、どちらに行きたいか決めなさい」というようなことを話した。


七百三十四の昼  2005.3. 5  目に見えない

 昨年の11月のことである.。事務員募集の求人広告を見たさんが面接に見え、わたしはかずみさんからさんの採用の決定を任された。男性の事務員を求めていたのではないのだが面接の折のAさんの様子が気になって悩んだすえ、携帯からTELをかけた。ヨーカ堂の駐車場でもう夜の九時をまわっていた。TELをかけるにはギリギリの時間である。ところが出たのはもうひとりのAさんだった。同じ苗字なので間違えたのである。間違えた素振りは見せず「事務所にお立ち寄りください」とあたりさわりのない話をして、もう一度さんにかけなおした。

 この夜のTELからふたつのことが起こった。さんの入社、そしてしばらく縁が切れていたもうひとりのAさんが足しげく会社に訪れるようになり、総額4000万以上の仕事をもってきてくれたのである。さんは緻密な性格で県や13市の入札参加の書類をすべてつくりこみフォルダーにおさめ、配車や仕入れ関係になくてはならないひとになっている。今日さんとこれからのことを話した。Aさんに期待していること、この会社をもっとよくしていきたい、そのために配車や基幹業務だけでなく、会社のシステムを構築するために力を借りたいこと。

 それから、会社を訪れたもうひとりのAさんと腹を割って話をした。営業の面で現場の面でAさんはうちの会社に関わっていきたいそうだ。会社というのはそこに所属するひとの人間力の集積である。経理のFさんが与信(会社の信用度)についてセミナーで聞いたことを話してくれた。会社の与信は目に見えないもの、会社の雰囲気、社員のやる気、会社のルールが守られているか、現場の整理整頓が行き届いているかなどで計れるというのだ。

 それはうすうすわたしも感じていたことなので我が意を得た思いであった。社内でもルールが守られ、入力がされ書類がきちんと出て、在庫などの整理ができている部門は利益率が高い。遅れている部門は収益が低いか赤字である。取引先でも雰囲気のいい会社、応対のいい会社、支払いのしっかりしている会社は内容がいい。あたりまえのようだが、目に見えないものがかたちに数字にあらわれてくるのだ。わたしはさんをなんとかしてあげたくて、TELをかけた。その気持ちがふたりのひとを呼び、これからの会社を変えてゆく呼び水になるかもしれない。まだ目には見えないが、もとからいてがんばっているひとたちの力と新しい人、新しい力が組んで会社を動かしていくかもしれない。もううねりははじまっているかもしれない。ひとりで闘っているのではない。そう思ったら力がわいてきた。


七百三十三の昼  2005.3. 4  できること

 水のおはなしはかなり大きな反響を呼んだ。もうすこし拡げ深めていけないだろうか。地球表面の70パーセントは水に覆われている。水の総量の97パーセントは海にあり、残りの3%のほとんどが極冠にあり、川などの淡水はわずか0.2lに過ぎない。ひとの体内を洗い流す水は淡水であり、動植物の渇きを癒すも淡水である。今世紀が水の世紀と云われ、資源としての水の争奪戦が行われるだろうといわれる所以である。

 ものがたりも文学も芸術も重要だが、本来それらはなんのためにあるのか。たとえばアーサー・ミラーは「芸術は社会の変革に役立つべきだ」「道義に無関心な芸術は矛盾である」と再々述べている。ミラーの活躍した時代、水はふんだんにあったわけで、環境は危機的状況にあると認識されていたわけではない。もちろん、ひとの心の闇は今に始まったことではなく、究極ひとのゆがみ、我がことばかりを思う狭量さが現在の環境の危機を招いてしまったのだけれど、今なにが必要かといったら、心もさりながら現在の地球のエコバランスの崩れを招いたものが人間であるということ、まだ遅くはないのだ、ひとりひとりが認識することで変わり得るということをまずひとびとに伝えることではないか。この事態を招いた当の人間ばかりでなくすべての動植物の生存と存続の危機なのである。わたしたちの母船地球号が危ないのだ。

 自分が変わる。水のはなしだけでなく、気息奄々の植物や、(建築家によると木材の質さえも弱くなっているそうである)年間4万種も絶滅している動植物のかわりに語れるのではないか。そのことが子どもたちの今は暗い未来をすこし、ほんの少し変えてゆけるのではないか。......学んで資料をそろえて地球の今の物語を語ってみよう。それはわたしにできることのひとつであり、語り手として地上の美しきもの、風や草花や川の流れや森、蝶や虫たち、キャンプに遊れた北のきつねや狸たちへの感謝と未来の子どもたちへ向けたメッセージである。



七百三十ニの昼  2005.3. 3  雛の節句

 雛の節句の由来は....一説にはひとのからだの包み気枯れを紙のひとがたに託して川に流したものとか。雛人形はながらく押入れに入れたままお内裏さまもながいこと日の目を見ていない。申し訳ないことである。

 雪の南アルプスの美しさも視界には入っても、心までは届かなかった。わたしはこのままでいいのだろうか。学校やデイケアで よきこと、美しきこと、やさしきことをことだまやものがたりにたくして伝えていって、そんなことで間に合うのだろうか。

 流れてゆくのはひとがたではない。生身の人間が水に流され、火に焼かれる。戦争だけではなく、地の底で何か大きなうねりが起こっている。人類の繁栄のために微妙な自然のエコバランスは崩され、人間ばかりでなく生きとし生けるものが頼っている大気や温度や水や土壌、緑が日々汚され温度は上がり砂漠化は進むばかり。次の世代は先人のツケに大いに苦しむこととなろう。

 わたしになにができるだろう、どうすればいいのだろう。語ることのまえにするべきことがあるのではないだろうか。


七百三十ニの昼  2005.3. 2  トラブル

 今日はトラブル続出だった。配車の予定が3件入っていなくて、受注先から「まだ、来ないが」とTELがきた。うち2件は自社の施工ではなく外注にだしたもので、2件はすぐ対応できたのだが、夜間工事でお客様に迷惑をかけてしまった。なんと替わりに出した外注の車の運転手が酔っていて帰ってしまたのである。

 わたしはあいにく高山に行く夜行バスの中だった。すぐ指示を出して、お詫びと無料でしごとをする旨伝えさせたが、もうその会社から仕事は来ないかもしれない。カッターもラインも施工会社は山ほどあるから、ミスしたり断ったりしたらもう終わりである。

 それにしても、滅多にないことが三件も同日に起こるとは....偶然ではあるまい。



七百三十一の昼  2005.3.1    春まだき

 月が替わったのに空気は冷たい。日ざしは明るいのに風はコートを突き通るようだ。夕べ息子の許婚のりさちゃんがきた。可愛い子だが世代間のギャップがありすぎてどうも理解できない。長男の恋人のちかちゃんとは通じるものがあったのだけれど、りさちゃんはひっかかりがないのだ。これから少しずつ絆ができるかしら。

 朝、マッチが来た。「又働かせてください」という。ほんの数日前「続かないのでやめます」とやめたばかりの子だ。マッチはふつうのひとの数倍物覚えがよくなくて、やっとひとつ覚えても一日休むと忘れてしまう。やめるといってまた働かせて...とやってきたのも今度が二度目で、だからやめたときは「まぁ、仕方ないか」とせっかく教えてきたのにと思う反面、みなほっとしたようだった。

 マッチに「大事なことをその時の気分でかんたんに口にしてはいけないのよ。一度でたことばはもとには戻らない」「もう一度みんなに頼んであげるけど、これでおわりよ、みんながいいよといったら今度こそ、いっしょうけんめい仕事をからだで覚えるのよ」「.....からだで覚える」「そうよ、からだに覚えさせるのよ」「.....覚えさせる」 マッチは相手の語尾を繰り返すくせがある。それからマッチとお茶をのんで話した。25というのにむしょうに自分の子のようにかわいい、なぜだかわからないが.......なんとか育てたいと思う。

 それからM銀行の支店長と新しい担当がきた。「お宅とはパートナーとしてやっていけないと思うので、もう来ないでください」と云ったのにもかかわらず。それから新しいアルバイトのN君の面接、大手のB銀行の営業と話をした。配車のことで話術のありったけをつかってうちの都合のいい時間にしてもらう。「いい声だから仕方がないな」とのんでくれる。正直、女としての武器もつかう。顔は見えないから、20代か40代まで声も表情も使い分ける。こんなことに技術をつかっていいのかな。いいのだ、もちろん、生きるためにはなんだってOKだし、ここがわたしの舞台。

 下請けの若い社長と話をする。なんど言ってもわからない。じかにうちの元請と話をつけようとするのだ。わたしは粋がっているばかな男はマジきらいである。社員さんたちのひとりひとりに話す、伝える。「仕事を片付けるために請求事務や支払い事務をするのではない。一円でも多く売り上げ、一円でも支払いを少なくするように考えながらするのです」するとそのひとは支払いを値切ると勘ちがいしたようだった。それ以前の問題なのだ。請求が起きる以前の。どうやって伝えたらいいのだろう。事務に、営業に、現場に、どうやって伝え、相手から情報を得て、よりよい形にすればいい?

 入出金シュミレーションを見たらぞくぞくした。一月の売り上げの下降がはっきり数字に表れている。2月一月分の日報の整理をはじめる。現場の帰りがおそいので毎晩9時過ぎだ。疲れてくるとわたしはこころのすみでかずみさんのことをすこしきらいになる。憎むという感情は愛することの裏返しだ。あなたは好きなことばかり、そうしてわたしに最後はみな押し付ける。わたしにどうしろというの。あなたの望みのためにわたしは働きたい。でもときどき夢のように思う。わたしはなにをしているのだろう。これは夢に違いない。



七百三十一の昼  2005.2.28     夢のなか

 「もうイヤだ」と悲鳴をあげているわたしと「なるようにしかならないわ」と醒めているわたしがいる。物理的に不可能な仕事量だ。やりたいことだけできたらいいのだけど、そうはいかないし isoも文書管理もまったく進まない。日報処理さえできない。家はめちゃくちゃで歯は年末にとれたまま。

 それでも会社は動いている。ひとりひとりの努力によって.....ラインもカッターも帰りは9時を回っていた。みな目をまっかにしてがんばっている。年度末とは年に一度のお祭りなのだ。なにも考えまい。できることをひとつずつ、それだけ。ストーブの前で気を失ったように眠った。泥の眠り....一瞬、花々が香ったような、しんとした森の匂いがしたような気がした。



......の夜   2005.2.27   苦心のあと

      

      

      背景を合成したりして.....安曇野に収集運搬車!?
      朝鮮人民共和国の合成技術より落ちるかも.....


七百三十一の昼  2005.2.27  お葬式

 お数珠がみつからない。黒い布の葬式用バッグも黒のストッキングもかずみさんの黒の靴下も、筆ペンすらない。毎日修羅場でうちのなかは収集がつかなくなっているのだ。5人で待ち合わせ、会社で乗り合わせて羽生まで行く。

 斎場の段取りはよしとはいえないが供されたコーヒーが美味しかった。社員さんの奥様と話した。この方はリストラにあいハローワークからうちの会社に縁あって入社したばかりであった。地元では大きな会社で工事部長までした方だから以前は内勤が多かったようで現場で実際に監督することとか慣れないことが多いようだとのこと、それでも仕事ができることに張り合いがあって毎日のことを奥様に話されるとのことだった。わたしも気遣いが足りなかった、こちらからもっと話しかけようと思った。

 「安らかに逝かれましたか」と問うと頷かれたので、「孝養を尽くされましたね、お疲れ様でした」とねぎらうと感極まられたようすだった。男の身で仕事帰り、病院にまわり、食事の世話までされたようだ。新しい会社とて気兼ねしながら病院に急いだのだろう。わたしも同じ身だったので、気持ちはよくわかったから連絡会もあえてしなかった。

 ご友人の弔辞が秀逸だった。声といいエピソードといい、個人を偲ぶ気持ちがせつせつと伝わってきた。警察勤務のご長男がされた遺族のことばも抑制したなかで、父への思いと参集した列席者への感謝が胸を打った。地域に生きた83年の生涯、妻を愛おしみ、病気の回復を祈って妻の詠んだダンボール箱4つ分の俳句を編んで句集をつくったエピソード、先立たれ一年半ののちに後を追ったこと.......わたしたちのことも重ね合わせ、どちらが先立つのだろう、どのように送り、送られるのだろうと思いを馳せた。わたしは....かずみさんを置いてゆくのはいやだ......と思った。

 葬式や結婚式に出席すると自分の歩いてきた道.....これからのことを考える。まっすぐ、一歩ずつ、たいせつにと思う。


七百三十の昼  2005.2.26  家庭の不幸

 社員さんのご尊父が亡くなられたので、花輪や生花の手配をしたり、惣の部屋を掃除したりして出発が遅れ、病院の手違いもあって退院したのはお昼をまわってしまった。惣は事故に遭ったとき身に着けていたジーンズを洗濯したことで機嫌がわるかった。「100人のうち98人の母親が事故のときのジーンズを洗うわよ、棄ててしまいたいくらいだわ」としまいには私も怒ってしまい、命が助かったというのに過ぎてしまえば、母の気持ちよりよりジーンズの方が大事なんだと昂ってしまった。まだ、まだ子どもなのだ。

 帰り、地中海倶楽部でランチ、若いから結納はなしにとの先様の申し出もあり、食事会をする予定でいたのを3月半ば地中海倶楽部にお願いすることにした。今日はわたしは牡蠣のグラタン、鰆、菜の花、サラダとミネストローネ、パンにコーヒー、ゆっくり食事をとるというあたりまえのことがこんなに充たされることなのかとあらためて思った。

 9時まで仕事、長年一緒に働いてきた社員さんの家庭の事情を聞き、身につまされた。それぞれの家庭のそれぞれの不幸、トルストイは幸福な家庭は似ているが、不幸な家庭はそれぞれ異なる...とか言っていたけれど、不幸の根本もそう違うわけではない。不足なのだ。健康、、お金、そして気持ち.....そのなかでなにが辛いといって家族の気持ちが通じ合わないことほど苦しい辛いことはないと思う。希望を棄てないで努力し辛抱するしかない。そういえばこのひとは人間に深みと丸みが出てきたなと思っていた矢先だった。不幸はひとを磨く砥石でもあるのだろう。


.......の夜   2005.2.25   歌いたい、語りたい

 今日は末っ子の県立高校面接の日だった。意気揚々と帰ってきた。「わたし、面接なら30分あってもいい、5分では短すぎるわ 」とのこと。受験から開放されてしきりに「遊びにゆこうよ」と誘うのだが母は忙しくて遊ぶところではありません。自損事故なので、社会保険を使わせてもらおうとしたら社会保険庁の許可が必要なのだ。さもないとたった3日分の請求書が144万円!!

 保険がつかえることになってほっとして入院代を銀行に下ろしに行ったら、通帳も印鑑もない。しかたがないから帰ってきたら銀行からTEL。「奥さん、たいへんです 1000万円 おろされましたよ」 飛び上がったら担当のひとがわたしをかついだのだ。小切手帳と印鑑を銀行に置き忘れたらしい。相当疲れてるみたい。i
タウンページの原稿は結局夜中になった。できばえはよかったら見てください。3/15から 埼玉 ライン 区画線工事で検索できます。

 明日の夜はひさびさにカラオケに繰り出せるかしら。カラオケをばかにするひともいるが、オペラだってドイツ歌曲だってシャンソン、アニソンなんでもござれ お酒も料理も取り寄せられちゃう しもじもの娯楽の王なのである。  くすんでなにせうぞ 一期は夢よ、いざくるえ である。 


七百二十九の昼  2005.2.25  やさしさ

 息子の入院で気がつかされたことがある。ほんとうのイタサは当事者しかわからない。時にことばは素通りしてゆく。気遣うひとの明るいことばにかえって傷つく自分に驚く。こころからのことばはひびいてくるが、ことばだけではわからない。まなざしやカタチになることでなくてはつたわらない。富士山の写真を送ってくれた友人がいる。うれしかった。息子に手紙をくれたひとがいる。うれしかった。そしてメールをくれたひとがいた。うれしかった。掲示板で励ましてくれた方たち、ありがとう!

 惣はわたしたちにとってたいせつな子どもだから、夫のかずみさんのときよりわたし自身のときより、ひとのことばやひとの思いやりに喜んだり傷ついたりしている。かずみさんもきっとそうだと思う。

 あしたは退院。


七百二十八の昼  2005.2.24  子どもの目

 朝、太田小のおはなし会。こどもたちに水のおはなしをした。子どもたちから元気をもらった。語ることでわたしは力をいただいている。事務所で電話の応対をしながら、見積もり書、注文書、名刺を作成する。A銀行にもう営業にこないでくれるよう電話をかける。B銀行に融資の話を断る。F機械の営業を呼んで話す。うちは今まで解体の古材をチップにするF機械の初号機を二台買った。F機械はうちのプラントを客に見せたり、ビデオを見せたりして3千万の機械を100台売ったのだそうだ。ところがうちは4年目にはいったというのに依然としてリサイクル部門は赤字である。

 感謝状と記念品の時計をもらったが、そんなものをもらっても仕方がない。F機械がうちを真にパートナーと思っているのか利用しているだけなのかはっきりしてほしかった。実は次の機械の試作が進行中なのである。F機械の営業の話ではチップで儲かっている会社はないとのこと、さもありなんである。どのようなかたちでバックアップしてくれるか、答えをくれるよう頼んだ。

 日本ではまだ木材のリサイクルは商売にはならない。国の法的体制が整っていないのだ。家を解体した古材や伐採材をてまひまかけてチップにし肥料にし、おいしい白菜や大根ができたとしても、それはボランティアのようなもので金にはならない。企業は利益を生み出さなければやっていけない。

 それであと3ヶ月、努力に努力を重ねることにした。きのう東部環境でうちの営業があったという埼玉県の環境部長にこちらの言い分を聞いてもらう、環境にやさしい工事を売り物に解体工事を受注するよう努力する。。経費をできるだけ節約する。原価と売り上げ構成の分析をする。以上から収益の改善を図り、改善しないなら撤退する。さぁこれからiタウンページの原稿をつくろう。広告を出して呼びかけよう。



七百二十七の昼  2005.2.23  戦闘

 惣の左腕は肩まで上がるようになった。医師から2.3ヶ月待って治らないようなら手術と言われたが、このまま回復がすすめば手術なしでも治るかもしれない。デイケアのおはなし会は休ませていただいた。図書館も児童センターも..だ。とてもイタイがしかたがない。

 明日はF機械と交渉、いや戦闘である。わたしは一歩もひかない。それはかずみさんのためにもなるのだ...会社のためにもと言い聞かせつつ....オニババへの道を歩く。せめて化粧をし、身支度を整え、水仙の一輪も挿しておこう。



七百二十六の昼  2005.2.22  日ざし

 天井に水の明るさ来て二月 このあいだ亡くなられた俳人の桂 信子さんの句を思い起こさせるような春の日差しだった。

 どことなく傷みはじめし春の家 明るい日ざしのなかでは家はみすぼらしく見える。息子も帰ってくるし、掃除をしたり手を入れたりしなくては...いずれ先様も見えるだろう。

 花の咲く一日前のさくらの樹  そしてさくらはもうすぐ咲く。今年のさくらはさぞ美しかろう、爛漫のさくらを...わたしはどのような気持ちで迎えるのだろう。



七百二十五の昼  2005.2.21  炭

 惣の退院が決まったとのこと、今週の土か日は退院できそうだ。当初聞いていたより半分の日数でとてもうれしい。本人はもっとうれしそうだ。今日はテイクアウトのカップのソフトクリームとケーキとポテトを差し入れた。それから新しいふつうのパジャマと資生堂のブラシとドライシャンプー....。前回クリーム色の地に小さなふくろう模様のプリントのパジャマを買っていったら、「この病院でこういうパジャマを着ているのはひとりしかいないでしょう」...と兄に云った由、我がままが出始めれば退院は近い。

 それはそれでよいことなのだが、かずみさんの新しいプロジェクトが進行中......ひさびさにプラントに行ったら 、大きく様変わりして炭焼き釜を置く20坪ありそうなコンクリートの台ができていた。いつものように相談などしてくれない。既成事実の積み重ねで押し通すつもりなのね.....といささか冷ややかな思いであった。わたしは納得できないことにGOサインは出さない。


     ・・・  の夜    2005.2.20    泡

 夜8時、見舞い時間終了のチャイムをすこし過ぎて日赤病院のほの暗い廊下、幾度か父子連れに出くわした。いつもわたしが後になるので顔は見えないが、黒のダウンジャケットを着た若い父が幼い娘と寄り添って歩いている。父親の左手は娘の肩、つややかな髪のうえに置かれている。

 今日は少女の顔を見ることができた。3,4歳の色白の少女の髪は最初思っていた漆黒ではなく栗色だった。なんだかうれしくなって、駅までの道をタクシーをつかわずはじめて歩いた。ゆっくりゆっくり歩を進めると、寒さのなかに微かな緩み、春の兆しが感じられる。

 ずっと立っていたのでさすがに疲れて久喜駅でモスに寄った。そういえば一年前の初夏、自治医大にかずみさんを見舞ったあと、よくこの店でひとやすみしたものだった。とりあえず、わたしの手の届くところにふたりはいる。今一度のチャンスが与えられたのだ。愛するとはどういうことか知るチャンス...わたしはカフェラテのクリーミィな泡をスプーンですくって思わず微笑んだ。


七百二十四の昼  2005.2.20  ねこ新聞

 毎日新聞が好きである。書評の本の取り上げ方とか書評そのものも心惹かれて、書店で求めようとするともうタイトルを忘れてしまったりする。でも、たいていは書評を読んだだけで読了した気分になる。コラムもよい。わたしのお気に入りは著名人が書く「わたしとおかあさん」、そして月に一二度出る猫新聞のなかのエッセイ、このなかには時々掘り出し物がある。

 好みからいうと小説家のより映画監督や漫画家のが味わいがある。実は今日発見をした。刈谷先生のレッスンのあとかずみさんと買い出しをして、かずみさんてば、重いスーパーの袋をふたつ提げて駐車場へと横断中、転んでしまった。そして「オレはもう二度と買い物なんかしないぞ」とわたしに宣言した。というわけで日曜の午後半月分の新聞の山と格闘してねこ新聞を探していたら、なんのことはない、ネットのなかにコラムの山があったのである。さぁ これはネタになります。

 夜、雪女を語ってみる。部屋の天井が黒く透いて、雪が舞い落ちる。嘘と思われるかもしれないが、ほんとうなのだ。しきりなしに雪が舞い散るなかで語ると、もう以前の雪女ではない。.....同じであるはずはない。眠りにつくまでのあいだ、夜ごと、一話ずつ語ってみよう.....芦刈もディアドラも.....弥陀ヶ原心中も。


..........の夜  2005.2.19  霙

 半月ぶりに会った友人に「ご主人はどう.....?」と尋ねられ、問わず語りに息子の事故のことを話したら、しばらくの沈黙のあと 「神さまに愛されているのね」とつぶやいた。わたしはひとこともかえせなかった。重いとも軽いとも温かいともいえぬしんとした感じが残った。...思い出す。若い頃惹かれたことばに「絶望の涙とともにパンを食べたひとだけがあなたを知っています。......神さま」


七百二十三の昼  2005.2.19 

 一週間経った。息子のばかりでなく私の内臓が切り取られたような気がする。息子の左腕だけでなく、あれ依頼 わたしの膝はとてもおかしい。病院にはいるとことにおかしい。わたしのからだを支えられないのだ。時に痙攣したりする。

 かずみさんのときにはわたしがかわりたい....と思った。今度、息子の痛みはわたしのからだへこころへ直にくる。母とはこんなに弱いものかと思う。

 けれど、わたしの闘いはわたし自身に向けたものだ。このたびのわたしがわたしに課した孤独な戦いは....。ダイワのように相手があるほうがずっと楽だ。わたしはつづけられるだろうか。否やはないのだ。

 この世で遣り残すことのないように.....この一回限りの中空に投げかけた弧は掛け替えのないチャンスなのだから。  子どもたちを育てなおそうと思う。事故にしてもなににしても偶然はありえない。育てなおすといっても正面向き合って話すこと、語ること。わたしの実践、生活によって伝えること。「ルカ、生活することよ」 30年前、夏樹はわたしにそう言った。

 その生活するということばが夏樹にとってなにを意味したのか、今は問うすべもない。夏樹はとうに彼岸を越えた。....しかし真に生活してきたかと自分に問うたとして、わたしはイエスと応えられはしないのだ。たしかに日々目覚め、食事をし、働き、子を育て その他さまざまなことに関わってきたのだけれど.......これは生活といえるのだろうか。

 すべてが夢のような......夢のなかで起こったことのような....灰色の濃淡の霧のなかを彷徨っているような..........もういちど やりなおす どうやって



七百二十二の昼  2005.2.18   おわりの雪

 本屋で立ち読みをした。おわりの雪........ぼくとママは声をたてずに泣いた、
そうすることになれていたから。.......端整な自然描写、一人称の丹念な心理描写、フランス伝統の美しい小説だった。まだ、わたしにも本が読めるじゃない?ちかごろは美しいことばの美しい小説が少なくなった。

 白い枕に散らばる髪、菫色の目蓋、蒼みを帯びた額、細い鼻梁、どこかで見たデスマスクに似ている、美しいデスマスク.....数刻前別れた息子の顔。

 昼食を食べなかった気がして、名物の大判焼きを買ってみる。伊勢丹のなかを食べながら歩いていると、叔父とランチにお寿司をいただいたことを思い出す。食べたことを忘れるなんてアルツハイマーだわ........と思う。

 読み終わって、結局買わずに帰る。



七百二十二の昼  2005.2.17  ライフストーリー
 
 月の第二週から三週、10日の支払い、給与が終ってカタリカタリの勉強会がある週が一番しんどい月の峠である。カタリカタリの前日は、眠れなかったりする。それは鋼鉄の心臓にあるまじきことだが、それだけ賭けるものが多いのだろう。

 今日はライフストリーの第二回、、最初に母音についてのエクササイズ、母音だけが響きを伝えるので母音の発声はたいせつである。母音だけで話してみる。次に母音だけで、伝えようとして話してみる。すると....伝わる。出だしについて、押す発声と引く発声でやってみる。「わかった!やっとわかった。そういうことだったんですね。」Hさんのうれしそうな声。

 そしてライフストーリーを順番に語ってもらう。おもしろい!!語り口といい切り口といい個性がすなおに出ている。母のこと、父のこと、兄弟のこと、自分のことと重なり合って、涙がにじむ。「ねぇ 作文と小説はどこが違う?」 「作文は起きたことを順に並べていって......」 そう、みなさんは自分のライフストーリーからなにを伝えたいのですか? ......そうか伝えるんですね。 エピソードを重ねて、そこになにかがほしい、エッセンスが、煌めくものが色褪せないものが。

 伝える......ライフストーリーはエクササイズとして実に多くのものを示唆する。語りの原点だからであり、自己開示だからであり、感覚の再現の故である。自分のものがたりであるから、語り手の語り口は自然で肩に力がはいっていない。

 次回は余分なものを一切削ぎ落として、伝えたいものを明確にして、語ってもらうことにした。

 会社に帰ると戦場だった。夜病院へ...。


七百二十一の昼  2005.2.16  雪の日

 銀行の駐車場、フロントガラスに雪が舞い降り滲んでとけて、しずくがまとまりながら流れとなってくだってゆくのをあきもせず眺めていた。わたしたちも空の高みから地上に降って寄り添って地に帰る、そしてまた..天に還る...雪と似たようなものだ。家族というもっともちいさなユニットが愛しあって暮らせたら、そんなあたりまえのことが 平和につながってゆくのかもしれない.......いや愛ということばではなく気遣うって言葉のほうか近いような気がした。おたがいに相手の立場を思いやること、心配すること.........おさだおばちゃんのことばを思い出す。子ォがいとおしい、子ォを苦にする......そのひとの苦しみを自分のことに感じること.......苦しみをともに苦しみ、いとおしみいやすこと、よりそうこと。

 わたしはかずみさんがいてくれたから、子どもたちがいてくれたからここまで歩いてこられた。なにも知らずとも寄り添ってくれる小さな手、大きなせなか....そして寄り添うこと、護ることで強くなった。為し得なかったこと、してあげられなかったことをこれからひとつずつ果たしてゆこう、寄り添うように見守るように........。

 昼近くなって、櫻井先生がおはなし会をなさるひまわり幼稚園に急いだ。なつかしい道。幼い惣とまりとわかなと草をれんげやクローバを摘み摘み歩いた道、雪の舞う渡り廊下で窓ガラス越しに先生のおだやかな微笑と踊るような手、指先からぽっぽっと花が空中に咲くのを見た。先生方が身じろぎもしないで聞いている...子どもたちも聞いている.

 そのあと、久喜幸手線沿いのレストランでわたしは今までおはなしできなかったことまで先生に話した。語り手としてしたいこと。セラピーとしての語りの可能性について、代弁者として、語ることのできないひとたちの替わりに語りたいということ、オリジナルを語りたいこと。語りを学ぶこと、ひとにものがたりを伝えようとすることは、自分を知り生きるすべを知ることだったこと、それはひとを愛することを知ることであり、今わたしは地域の子どもたちよりデイケアのお年寄りより自分の家族に語らねばならないと感じていること......伝えようとしなければ消えていってしまう、伝えなければならないこと、人がながいながい年月、口伝えにしてきたたいせつなことを文字にだけではなく生きたことばで魂に彫るのだ。ひとを育てるとは半ばはそういうことなのだと思う。

 わたしは櫻井先生に出あい語りを通して生がいかな豊穣なものか知ったのだと思う。若い日闇のなかを彷徨い、信仰ですら得ることかなわなかったレゾンレートル、わたしがこの世に存在する理由さえ。ゆえにわたしが先生へ感謝のしるしとしてできることは語り手を育てることしかないのだ。静かな午後だった。

 駅にお送りしたあと白岡中央病院に急いだ。日赤からスキャンした写真を返すよう預かったのと、最初に息子をみてくれた、日赤まで救急車に同乗してくれた若い医師に診立てが正しかったこと、心から感謝をしていることを伝えたかった。手紙にしたため受付に託した。思っていても伝えようとしなければ伝わりはしない。わたし自身伝えていただくとうれしいから、感謝や喜びはできるだけ伝えようと思う。

 夜 かずみさんと病院に行った。そのとき語られたこと、あったことはここには書けない。喜びはひとを輝かせる。 が、苦しみはひとを純化し、研ぎ澄まし、彫り上げる。わたしはこの夜の息子の顔を死ぬまで忘れまい。けれどわたしたちは周囲をはばかりながら笑い転げたりもしたのだ。



七百二十の昼  2005.2.15  会社にて

 ひとが多い日は、そのひとたちに効率よく働いていただくための段取りが必要で、さもないと人件費をムダに捨てることになってしまう。自ら、今なにをなすべきか理解し動けるようになったらもう育てるのは終ったも同然だ。その差配はよほど手がかかるので、ひとに頼むより自分でやったほうがよっぽど早いことがある。今日もそんな日で人数が多いために給料振込みがかえって間際になってしまった。そこへ、労災の知らせがあり、(結果は捻挫だったのだが)急な当日の仕事の変更があり、アクシデントが重なって連絡に忙しく、結果振込みが間に合わなかった。現金をおろしてきて対処したのだが、トラブルの多い長い一日だった。

 きのう行けなかったのでなんとか病院へ行こうとあせるばかり、5時頃脱け出して走った。病室にはいなくてナースステーションで聞くと整形外科という。しばらくして戻ってきたのだが.........。

 会社に帰って夜中まで仕事をした。


七百十九の昼  2005.2.914  朝には

 朝になれば立ち上がる、しだいにからだも馴れて動き出す。TELや防寒着の発注や請求書を書くことやそうしたことが日常に戻してくれる。

 バレンタインデーにチョコレートを贈らないなんて十何年なかったことだ。かずみさんがもらったゴディバのチョコは苦かった。


七百十八の昼  2005.2.913  階段で

 大宮駅のコンコースで函館物産展が開かれていた。賑々しい幟、平台の上にはクッキーや海産物、毛がにや松前漬、塩ラーメンなどが所狭しと積まれている。心臓を掴まれたようだった。生きているって食うことなんだ。食うために生きているんだ。猥雑で赤裸々な世の中で食ってゆくこと。あの子は生きている.....また食うことができる...繊細な指が太くなり透明な額にしわが走り華奢な腰に脂肪がついておじさんになったとしても生きてるほうがいい。たとえ夢が失われてさえ生きているほうがいい。心臓から勢いよく血液が送り出されるのを感じてわたしは一瞬眩暈がした。

 病院で夕方立っているのも辛くて、家に帰ると昏睡したように眠った。



七百十七の昼  2005.2.912  細い指

 息子を喪うかもしれないと思ったとき、この繊細な美しい指先が失われてしまうのだろうかと哀しかった。白いシーツの下の細い指をまさぐり撫でさすりわたしは声をかけ続けた。ウェディングドレスを着せてあげるのよ、おかあさん、赤ちゃんを抱っこするのを楽しみにしているのよ。痛みに耐えながら息子は頷いた。

 緊急手術が終わり、息子の腹腔に溢れていた血液を見せられた。青みがかかったきれいな色だった。良質なルビーの色と称されるピジョンブラッドにすこし似ていた。摘出した千切れた脾臓も見せられた。

 わたしは一年も経たない前、かずみさんを喪いそうになったのだけれど、あのときとはまったく違う痛みだった。からだの芯を引き裂かれそうな鈍痛、わたしは終始冷静だったがそれは麻痺していただけなのかもしれない。息子は少年から一歩出たか出ないかの夏草のようなみずみずしさを持ち、さぁこれから伸びてゆこうという、まさにその時であったからかもしれないし、母親というものは子どもになにかあったとき凍りついてしまうのかもしれない。



七百十六の昼  2005.2.911  声で

 発声を変えたら生き方が変わった、これは壌さんのことば、生き方を変えたら発声が変わった、これはまきむらさんのことば.....昨日井荻の四民で開かれた台詞のレクチャーはとても有意義だった。発声の不思議....これについてはまた後日後日書こうと思うが、声楽で再々言われた声を前に出すという意味がようやくわかった。どういうときに声をのむのかも.......最近、語るときに感じていた違和感のわけも.....わたしの台詞に歌っている箇所がひとつあり、一箇所でもあると全体がうそに聞こえてしまう....というまきむらさんの指摘にわたしは頷いた。そうだ、武骨でも一音一音をたいせつにイメージを伝えるという石を積むようなつつましい取り組みを捨ててはならない。心地よくなってはならない。語りとは聞き手とのあいだのベールを裂いて聞き手の魂にに伝えるのだから。

 夜、ことは起こった。わたしは救急車のなかにいて驚くほど平静だった。明け方息子を取り戻した。目に沁みる朝焼けの赤。



七百十五の昼  2005.2.910  伝えること

 支払いが終った!! 入金が遅れている会社に片端からTELをかけ、民事再生をする得意先の弁護士に提出する書類などをHさんに任せ、会議の資料をつくる。Sさんはお昼休みをつかって事務用品の戸棚を整理してくれたし、きのうは瞬く間に支払い予定をまとめてくれた。新生管理部は仕事師の集団だ。さぁこれからなにができる!?楽しみだ。

 会議でわたしはことばを通してひとに伝える者として、電話の応対や得意先、協力業者との応対について話した。自分の位置をつねに確認すること。馴れ合いに陥らず、お友だちにならず、節度を保ちなお、言うべきことはきちんということ、それにはこちらも約束をきちんと守ること。要点を的確に相手に伝えだらだら長話は避けること。

 日報のパソコン入力は経理の負担軽減のためにするのではなく、自分のいる部門や自分の現在の姿を明確にするためにしているのだということ。日報を打つことが仕事の終わりでなく、そこからはじまるのだということ。システムをもっと生かし必要なデータを出し問題点を認識しロスをなくしていってほしいこと。そして1月と2月10日までの各部門、各工事の損益表をわたし説明した。これは日々の日報入力の結果である。1月は休みも多いし、決してよい数字ではなかった。

 原点にもどり、ひとりひとりが出すべき書類をきちんと回す、発注の時は業者にコードや工事NOを伝える、納品の期日を確認し、納品予定のホワイトボードに書き込む...来客の予定、仕事の受注は必ず会社に連絡する。そうしたことでトラブルを防いだり、ロスをなくしたり、相手に不快な思いをさせずにすむ。そのうえに管理部の雑用は減りわたしたちはもっと前向きの仕事に取り組むことができる。

 語り手として持てる力のありったけを尽くして伝えようとしたけれど、こころの隅で話しすぎてはいけない、もっとみなに語らせなさい.....と声がする。ほんとうはわたしが話すよりももっとみなに話してもらうほうがいいのだ。会社の未来について語りあいたかった。けれど、インフルエンザで子どもが寝ているからと言われればそれはちょっと違うよねと思っても、会議を急がねばならない。いまはまだ我慢しよう。

 誰しも家族のために働いている......しかし、しかしだ....会社がなくなったらどうする!?地方交付税の大幅削減は建築業界を直撃する。4月からさらなる生き残り競争がはじまる。否もう始まっている。公共事業の目減り分を民間で補おうとするならコストダウンが必要なのだ、そして新たな地平を求めんとすれば、それなりの知恵と戦略と覚醒、そして資金の確保が必要なのだ。

 夜帰ると部屋は冷たく灯油がない。娘ふたりを連れて終夜営業のスタンドに行き、ドトゥールで温かいカフェモカをのんだ。真夜中の12時も過ぎたというのに徘徊しているひとは多い。24時間開いているスーパーに寄るとほんのすこしはずれたようないかがわしい匂いを漂わせたひとたちが、ことばも交わさず黙々と陳列棚のあいだを泳いでいた。わたしたちもあのように不可思議な目をして歩いているのだろうか?駐車場でトラブルが起きたようだ。わたしのシビックは不穏な形相のひとびとと車のあいだをするりと抜けてアスファルトの道を走った。

 家について駐車場に駐めたまま車内でむすめたちと語らった。15の末娘は「わたしは大学に進みたい。バンプのうたを聞いておかあさんの話を聞いてわたしも伝えることをしてゆきたいと思ったの」と突然言う。4人の子どものなかで将来に向けた明確な意思表示をしたのはこの子がはじめてだった。「料理をつくること、絵を描くこと なにかを編むことも伝えることだと思うけれど、わか菜はおかあさんとおなじようにことばで伝えたいんだね」....ごくあたりまえのことのように思われたがなにかほっとした温かいものに満たされわたしはつぶやいた。

 それからいろいろ話すうちに長女は「おかあさんはいつも自分の考えが正しいと思っているのよ」と言い出して、それはわたしの胸を突いた。そう、わたしは自分を信じたい、正しいと信じなければ歩いてゆけはしないのだもの.......ほんとうに正しいかどうか100パーセントの確信はないが、まわりのひとたちをしあわせにするためにわたしにできることがあると信じなければ、どうやって伝えられよう歩き続けられよう.......

 30年の時を超えて、あの夜が凍るように冷たい絶望の夜が甦ってきた。あの夜、わたしはどうやって浦和から領家の家まで歩いてきたのだろう。閉ざされた家に入ることはできなかった。帰る場所もなく見捨てられた廃屋の自転車置き場にわたしはいた。凍えてかがみ込んでいるわたしの眼前に曼荼羅......中空を飛翔するいくつもの燃え盛る炎の円環、中心に仏、回りを取り囲む名も知らぬ異形の生き物の顔......炎がゴウゴウと燃え盛り熱風が顔を打つかと思われた..........

 あの夜もわたしは死んだのだ。そうして生還するまで二年のまどろみ...苦痛に満ちた夢の日々が必要だった.....かずみさんに会うまでの........

 早朝、長女はなにごともなかったように晴れやかな顔でかずみさんのために朝食と弁当をしつらえてくれた。この子はだいじょうぶ、いまはまだ自分の力が信じられずに明日に背を向けているけれど、きっと歩き出す......
強くて優しい気持ちを持っている.....みずみずしい響くこころを持っている........
きっとなにがあっても立ち上がれる.......今まで歩いてきたわたしたちの子どもなのだもの..........




七百十四の昼  2005.2.9  ふたつのおはなし会

 中央幼稚園のおはなし会に出かけるところにTELがなった。除堀のデイケアのおはなし会が午後にあるという担当の福田さんの確認のTELだった、すっかり忘れていた。担当者もわたしについて学習なさっているなと思った。

 幼稚園のおはなし会の内容は、朝自然に組みあがった。最初におはなしのろうそくに灯をともした。それから手遊び、幼稚園から依頼のあった赤頭巾ちゃんと水のおはなし.....遊戯室はおかあさんたちでいっぱい......よく考えればあたりまえなのだが、幼い子たちもおおぜいいて焦った。いったいなにがはじまるのだろうという決して温かいともいえないたくさんの顔......上がるのはひさしぶりだった。...そうだ、語りを聞いたこともなく、読み聞かせが好きだとも言えないひとたちってこんな風に最初は固いのだった。

 水のおはなしのあと、ヒロシマの風から二題.....ろうそくを消すために出てきていただいたおかあさんのうちひとりは今日がお誕生日だった。大きな拍手が沸いた。40分の会が終ってアルバイトさんの面接があるので早々に退散しようとしたら駐車場でまだ若いおかあさんが「水のおはなしを聞いてなみだが出ました。こどもに乱暴なことをかけることもあって...すまなかったと思いました」とはなしかけてくれた。なんとか語れてよかった。語り手はおたおたしていたが、おはなしに力があったればである。

 なぜ支払日の前日という忙しい日におはなし会をふたつも組んでいたのだろう、そういえば1/31、2/1もそうだったと自分にあきれながら午後は除堀へ....迷子になりながらなんとかたどり着く...デイケアは場所によってメンバーの生活振りとか個性とか雰囲気とかずいぶん違う。ここは久喜でもはずれなので牧歌的でほとんどが家族といっしょに暮らしている。歌、手遊び.....わたしにとっては急だったので赤頭巾ちゃんと水のおはなし....をバージョンを変えてしてみた。ひとしきり水のはなしに花が咲き、お茶のみしてこんどはいろいろゲームをして笑い転げた。一時間のおはなし会。

 夜はテレビでサッカー観戦....なんてストレスがたまる試合!勝てばよいのだけどジーコさんの采配には疑問があるなぁ。。。


七百十三の昼  2005.2.8  一山、二山

 きのう運転ができず、車を事務所に置いてきたので、パートさんに拾っていってもらった。ふたり面接をした。それから新しい方ふたりの社会保険の手続き、N邸外壁工事の下請けOさんと話し合い支払額を決めこれで約半年かかったN邸のリホーム関連4件の工事が完了した。

 今年度の土木建築工事35件をチェックし請求漏れがないか確認、システム崩壊のため苦心惨憺したA社の請求書を送付、Yさんがきてくれたので仕事ははかどったが、さて支払い決定処理をしようとしたところ、前月繰越がすべてマイナス表示というあり得べからざる事態となった。パナックにTELしたところこちらのミスというが、前月と同じことをして、しかも更新をかけているのに前月繰越が変わるはずがない。バグとしか考えられない。10日の支払いに間に合うだろうか。

 銀行にきのう作った一覧を持ってゆき即つなぎ資金OKとなったが、あとでゆっくり受注工事一覧を確認したところ、エクセルの数式がはずれていたりであちこち間違っていた。ちょっと恥ずかしい、明日さりげなく差し替えてもらおう。

 夜八時半、4台トラックを連ねて北千住駅ビルの夜間工事に出発した。トラックの色とりどりのランプが美しく壮観で血が沸きたつようだ。かずみさんと営業のKさんといっしょに見送った。誇らしかった。ひさしぶりに来たパートさんが会社の雰囲気がかわった、みなの目の色が変わったと言ってくれ、わたしも内心そう感じていたのでうれしかった。最近は来客も多く、賑やかで活気がある、それぞれが以前より明確な意思を持って働いているように見える。

 まだまだ遠いがすこしずつわたしの夢に近づいてゆく、どうか、確実にいくつもの山を越えてゆけますように、社員、雇員ひとりひとりが己が力に気づきその力を発揮できますように。この会社が地域の一翼を荷い、事あるときには事態と社会の要請に応えることができますように、どうかそれまでわたしに力をお与えください。....神さま。


七百十ニの昼  2005.2.7   雪女

 朝、本町小のおはなし会は6年2組、同じ学年は同じおはなしがいいのだろうかとすこし考えたが、その日自分が語りたいという熱い想いがあることもたいせつかと思い雪女を語ることにした。

 六年生も年々ことに男子は幼くなっているように感じる。多少心配だったが、子どもたちはぐんぐんものがたりの世界に入ってきてくれた。途中から聞かれた担任の先生も「胸が熱くなりました」と言ってくださった。雪女はほんとうにひさしぶりに語ったが美しいものがたりである。ハーンが日本の風土からこのものがたりを拾い上げ、昇華してくれたことに心から感謝したい。

 新聞折込チラシに募集の広告を入れていたので、終了後急ぎ帰った。反響は電話二本、それからハローワークからひとり、あとふたりはアルバイトをとりたい。それからいつものように戦争がはじまり夕刻、わずか三ミリの段差に躓き転んで、したたかもともと悪い右ひざを打った。しばらく立ち上がれなかったが、入出金シュミレーションから、来月半ば資金ショートしそうなことがわかったので、銀行に提出する受注工事一覧を作成、受注残が一億以上あるのでほっとした。しかし無理に仕事をしたせいか夜には歩けなくなって二階にも上れず日記の更新ができなかった。

  

七百十一の昼  2005.2.6   新水会

 朝、刈谷先生のレッスン、発声を誉められたが、歌では叱られた。フォンダメントを使うな品がないとか、鏡の前で研究するんだよあなたはどうせしないだろうけど.......とか散々だった。確かに家では練習していないから言葉もない。イタリア語のアエイオウは日本語のアエイオウとは口の形から違うのでそれを強制しなければいい発音にはならない。オペラとなると刈谷先生は妥協しないからイタリア語を習わないとだめかもしれない。新人のカウンターテナーの青年がわたしの次だった。聞いてみたかったが今日は予定があるので家に帰った。

 食料を市場で買い込み、したくをして新水会が開かれる大宮に向う。ほんとうは今日はまなびすと久喜でトムの会のおはなし会があるのだがはじめて欠席した。おはなし会がつづいて疲れたせいもあるが、新水会に出たかったのである。新水会はたしか亡き父の命名で、水野家と父の姉お仁叔母さんが嫁いだ新井家と合同の新年会である。ここでひとりひとりが過ぎた一年あったことこれからの一年の抱負を語るのだがひとりひとりのやわらかな自然な語り口は語り手としてのわたしにとって一歩を踏み出すもとになった。

 気がついたら二時間も遅刻していて着いてすぐ出番だった。それからお酒を酌み交わし、美味しい料理をいただき旧交をあたためた。歴史に詳しい福の助さんが亡くなっていた。三九三叔父も淳ちゃんも来なかった。かずみさんが転院したことから、A病院を紹介してくれた米雄さんにわたしが勝手に気まずい気持ちになっていてそれが解けてほっとした。父の弟の康次おじさんが寄っていかないかといってくれたので東大宮に叔父の家に立ち寄った。従弟のひろしは大手のミサワやナショナルで腕利きの営業をしていたが、血管腫でたおれ、右の耳のあたりの皮膚を切り取る手術をした。頭の皮膚をひっぱってつける大きな手術でまだ耳がない。

 ダイワの事件の時、業界のことなどを聞いので、ひろしに直接結果の報告をしたかったし、弟のようなひろしのことが気がかりでもあったのだが包帯もとれ植皮のためあたまに埋め込んでいたボール?もとれ髪もふさふさして元気そうだった。おじさんは打ちたてゆでたてのうどんをわたしに食べさせようと寒風のなか自転車でうどん屋まで行ってくれた。そのうどんはすこし固かったが食え食えというので無理に飲み込んだ。おじさんは父によく似た薄い目の色でわたしをじっと見詰め「洋子、なにもかも自分ひとりで背負い込むな、なにかあったら叔父さんが行ってやるからな」と二度繰り返した。わたしはたとえ何があっても叔父に心配かけることはするまいと思いながら、胸が熱くなった。



七百十の昼  2005.2.5   立ち往生

 新しいシステムの仕入れのところで月の更新をプログラムに入れてもらった。入力ミスがあったりすると過去のデータがすべて変わって しまうためにとった処置だが、急いで大幅な返還をしたためシステムに異常が発生し請求書はでないし、データは一部消え、外注の入力もできない。立ち往生である。

 わたしは電話の応対のほとんどをしている....というのはそれが会社の外に向けた窓口であり、顔であり、また現在の会社の状況や流れがわかるもっとも大切な部署であると信じているからなのだが、それと配車に忙殺されてほかの仕事が手につかない、すべてが細切れになってしまう。応対については。..来たたお客さんはひとりも逃さない自信がある(なにしろ語り手だから)のだが.....たまってゆく仕事の山を見るとゾクゾクしてくる。肩はこるしどうしよう...果たしてうまくいくのかすこし暗かった。

 
 今日はダンスの日だった。うちのむすめふたりと音楽大学を出たきれいなお嬢さんふたりとわたしの五人が生徒の贅沢なレッスン.....最初はバレーの基礎...ピルエットらしきものが今日はできた! 踊りは先生が希望と名づけた素敵な(美しく踊れれば)のと、ピンクレディーのペッパー警部とはUFO!とかした。体のキレが格段によくなったのは毎日事務所のなかを駆け回っているからかもしれない。働け、働け...ということである。

 帰りセブンイレブンでジュースを買って大通りを渡り終わったらプシュップシュっという呟きとともに車が止まった。ガス欠だった。ガソリンがないと車は走れないのねとむすめたちと納得して、出入りのスタンドにTELしたが九時も過ぎもう出ないのでかずみさんにSOS。。。商談中の桶川から戻ってくれることになったが、自助努力もしなくてはと300Mほど離れたセルフのスタンドにわか菜と歩いた。満天の星、一面の田圃、人っ子ひとりいない凍るような寒さのなかイタリア歌曲を最大ボリュームで歌ってみた。

 スタンドでおにいさんがジュースの空き缶を洗ってガソリンをつめてくれているところにかずみさんが着た。親切なおにいさんに109円のガソリン代とお茶代を置いて家に帰った。わたしのガソリンはさしづめ愛かな......とうしろからしっかりついてきてくれるかずみさんのことを思ったりした。




七百九の昼  2005.2.4   木の芽張る立つの日

 春とは木の芽が張るというのが語源だそうだ。冬は木の根殖ゆ、秋はタナツアキだったと思うが意味はわすれてしまった。一年中でもっとも寒いときが立春の日というのは昔は不思議な気がしたが、おもてにあらわれる以前に水面下や地下ではエネルギーが躍動しているのだ。一番苦しい絶望したくなるようなときは実は目には見えずとも希望がふくらみつつある時でもあるのだろう。

 きのう12月からきているAさんと面談した、Aさんはこころに傷を負われ、はじめて面接にきたときは暗く弱弱しかったが、別人のように明るくなられた。わたしは特に要求もせずしばらくは彼を見護っていたが、この日をしおに正社員として働いてもらうことにした。いつまでかわからないがAさんの時満ちるまではわたしのおもに営業業務の片腕になってくれるだろう。経理は安心して任せておけるSさんがいるし、時を同じくして土木一級のMさんが見えた。というわけで昨年正社員が5人減ったが次男も社員として働くので、正社員が3人増えた。強力なメンバーである。今は一番苦しいときなのだけれど、うねりははじまっている、必ず伸びてゆく。いまはまだ固い木の芽がやがて緑したたる葉をおいしげらすように、その日を夢見て 土台を固めてゆこう。 


七百八の昼  2005.2.3   きょうのこと

 座のまどかちゃんと連絡がついて座・シェークスピアで3/26のイジーヤスと27日の........役をすることになった。わたしの都合のいい日に稽古をつけてくれるというので、仕事にさわりもなくできそうだ。ほっとした。

 きょうは営業会議ができなかった。入札した仕事の打ち合わせがあったのだがそのメンバーは正直いささか不安である。しかし心配してもしょうがない。KY、日報、相殺伝票など取り揃え取り揃え、最善を尽くすのみ。

 来客とTELに明け暮れ、一日かかって62通の請求書を封筒詰めした。建設自慢のセットアップ、写真店との打ち合わせ、銀行に出す書類、注文書、住民税の報告、日報の整理、給与、社保手続き、2/10支払いの請求書チェックなどなにもなにもできなかった。仕事はたまる一方だ。みんなほんとうにわかっている?このままでいいと思う?夜伝票だけはチェックして、気がついたらもう夜中も一時.....うんざりして仕事もなにかもいやだった。きのうのことがまだわだかまっている。日報が出ているところを見るとOさんにとってそうむつかしいことではなかったのだろう。「わたしにはできないんだから、わたしはあなたとは違うんだからいっしょにしないでくださいよ」という怒鳴り声がまだ耳に残っている。

 62通の請求書はため息のように深夜のポストにドサっと落ちた。食料もないので24時間営業のスーパーでカートをからころ押しながら歩いた。わたしは....かずみさんを少し憎んでいた。あなたがすきだからわたしはこんな思いをしている.....わたしは長男をその愚かさのために.....娘をその弱さゆえに憎んだ...おまえたちを愛しているからわたしはこんなに辛い....陳列棚の萎れたほうれん草がひからびたような干物が、プラスティックのまがい物のようなスゥイートピーマンが世界中のすべてがいとわしい。

 それはわたしがわたしを嫌いだから、皮肉に満ちたことばを誰彼になげかける容赦のない真実を回りじゅうに投げつけるわたしが許し難いから、世界はわたしを受け入れてはくれないのだ。いつもは飛びついてくるケヴィンも姿を見せなかった。わたしは買ってきたカップヌードルを思い切り壁に投げつけた。



七百七の昼  2005.2.2   きのうのこと

 昨夜やすむ前に千の昼を書いて更新したはずなのに朝起きたら真っ白だった。 なにを書いたかも記憶がなく、真っ白......夢だったのかもしれない。カタリカタリのことや会社で営業のOさんとやりあったことでかなり傷ついているわたしがいる。今日の営業会議で話し合おう。カタリカタリも次の例会で......わたしは語り手ではないか。コミュニケーション....伝えること、分かち合うことのプロではないか......この気持ちが状況.わかってもらえないならやめてほしい....ではではわたしのしてきたことに意味はない。
 
 竹内さんから息子の結婚のお祝いレターをいただいた。ありがとう、竹内さん、うれしかったよ。わたしもはげまされたよ、あなたのことばに.....ジュピターさんからもメールをいただいた。みんな歩いている。



七百六の昼  2005.2.1   反響

 今日は年少さんのおはなし会、5分前に着き園長先生とおはなしした。きのうのおはなし会の反響が高かったのだそうだ。先生方も感動してくださったそうだが子どもたちが家に帰って「森さんがきてね...」「おはなしがおもしろかった」 とかおかあさんに話したのだという。それはほんとうにうれしかった。急遽2/9におかあさんと子どもたちといっしょにおはなしをすることになった。できれば年間計画にもとづいておはなし会がしたいこと、カタリカタリのメンバーもいっしょに語らせていただきたいこともお願いした。

 今日はそれぞれのクラスですこしずつかえながらしたおはなしがうまくいったのでうれしかった。帰りトムの会の例会がある県立図書館に6日のまなびすと久喜のおはなし会に出られないことを伝えにいった。

 その席でカタリカタリのメンバーに幼稚園のことを話すと「忙しいので活動はできません」という。「できるかたがやりたい方が参加してくれればいいのよ」というと「わたしは発表会にも出ません。勉強したいだけです。」??あれ、それではなんのために参加しているのだろうと思った。発表会は学びの総まとめである。そのメンバーは前回の例会は欠席だった。わたしは前回参加したひとたちの心意気は感じたしそれには応えようと思っているが、無理にひっぱるつもりは毛頭ない。ひとは求め努力しただけのものは受けとる。わたしは手助けをするだけである。メンバーのなかですでに差がつきはじめているが、志すもの、求めるものの深さによってますます差は開くだろうし、再三話しているがやりたくなければ無理に参加する必要はないのである。....でもなにか求めるものがあるのだろうなぁ
.......テクニックとかそういうことを求めたって意味はないのだけれど......すこし様子を見ることにしよう。わたしは櫻井先生に育てられた。そのわたしができることは語ることで子どもたちのこころに種を蒔くこと、夢見ること、やさしさ、、楽しさ、喜び....そして人類が民族が引き継いで膨大な遺産のほんの一部を伝えることであり、語り手を育てることである。うわべだけ語る語り手ではない。聞き手の魂を揺さぶるほんものの語り手をひとりでもふたりでも残すことなのだ。わたしは踏み台でよい。

 いい気分は北風とともに飛んでしまい、コンビニの駐車場で考えこんでいたら、隣の車のドアが風に煽られわたしの車に大きな音をたててぶつかった。いただいた名刺を見ると裏の東京理科大の教授だった。夜全体会議......疲れたとは言うまい。


七百五の昼  2005.1.31   おはなし会で

 朝のおはなし会が9:40に始まることに気づいたのは9:30、慌てて飛び出し幼稚園に着いたのはぴったり9:40、それから一クラス25分〜30分で3クラス廻った。クラスの雰囲気で多少内容は変えたが、大旅行、水のおはなし、自由の鳥は必ず入れた。水のおはなしは水からの伝言を幼児向けにしたのだが、ぶっつけ本番だったので、3回目にはいいかたちができていた。おはなしは成長し語り手も成長する。

 水のおはなしでは汚いことばがからだのなかの水を汚してしまうという内容なのでつぎの自由の鳥の途中でわたしははたと困った。狩人が悪態をつく場面、おめぇきれいなナリに似合わねいきったない声だなぁとか、うるさいっていってるのがわからないのか...とか言えなかったのである。また、そこは以前から気になってもいたので、ことばもものがたりもすこしずつ変わっていき、やはり3つ目のクラスでいい流れになった。大空いっぱいに舞う黄金の翼の鳥、その鳥たちが金色に輝くひとすじのリボンとなって西の空に消えてゆく情景が今日は自分の目にはっきり見えた。 

 反省事項@時間の確認は前夜にA交流は大事だが、幼児の場合収集がつかなくなるので、注意する。交流はしても流されないで主導することBクラスの雰囲気はしっかり掴み、なにか抱えた子どもがいるクラスはおはなし前に緊張をほぐすプログラムを付け加える。櫻井先生のようにプログラムを記録することはとても重要である。またできれば年間プログラムをつくりたい。こどもたちの成長や季節にあわせたおはなしを語りたい C今日は少しく欲張りすぎたプログラムだったメーンのおはなしはひとつにしぼったほうがよいし、前後を考えたプログラムにすること。

 会社で銀行の支店長さんと打ち合わせ、W興行さんと打ち合わせNさんが建築代金の残り全額300余万円円を払ってくださった。先日会社更生法を申請した老舗のT建設さんから今後のことについてTEL、うちは7万ばかりひっかかった。かずみさんも手伝ってくれて終ったのは夜10時...さぁ がんばるぞ.......


七百四の昼  2005.1.30   それは....

 それは天から花が降ってきたようだった。息子が結婚することになった。一条の光が射してきたようだった。この子は自分のために生きるのは容易くはないだろうがたいせつなものを護るためになら生きてゆけるだろう。



七百三の昼  2005.1.29   ひとは

 カタリカタリで若いおかあさんに語りの根っこから教えることをはじめて、わたしは企業の根本が教育にあることを覚ったのだった。ひとはひとりでも育つけれど、まっすぐ早く育てるには手を添えることや見守ることや、いとおしむことが必要なのだ。そうしてひとを育てることでひとははじめてひとになってゆくような気がした。

 今日、会社の業務とシステムの見直しをしていた。わたしのいる管理部はおよそ4つの業務で成り立っている。経理、営業、総務、その他....の四つの業務はそれぞれが大きく維持すること、管理すること、企画することの3つに分けられる。経理でいえば維持とは請求業務、支払い業務であり、管理とは入出金シュミレーション、集金予定表、未収売掛金の回収等であり、企画とは年間予算計画、中長期の資金繰り、新しい会計ソフトに転換することである。

 今している構造改革は業務のなかで維持する部分のムダを省き、余力を管理チェックに向けトラブルの排除や見直しすべき点を明確にし、現場にフィードバックする。そして未来に向けた企画を立て循環させ会社全体をらせん状に向上させてゆくことだ。それに不可欠なのが、社員ひとりひとりの教育、下請け業者の教育、そしてもうひとつ......いささかはばかられることがある。

 教育とはなんだろう....自分の今の姿にきづくこと、あるべき目標を持つこと、その目標に到達したときの達成感がひとをつぎなる目標に駆り立てるのだが名誉そして金銭という実利も必要である。これらの一連の流れをシステム化する、それもカタチだけでなく血の通ったものにしたい....こうして無い知恵をしぼって夜は更けてゆく


七百ニの昼  2005.1.28   書きたくて

 語りたくてしかたがないときや芝居をしたいとき、書きたいとき、なにか無性に描いたり貼ったりしたいとき...........は交互におとづれる。いまは書きたい。



七百一の昼  2005.1.27   時は過ぎ行く

 いつのまにか700を越えていた。千の昼、千の夜の前にも日記のようなものは書いていたので、通算すると千はもう超えているかもしれない。記念すべき第一回は2001年9月16日のことだった。


 パソコンをはじめたのは、昨年の4月のことでした。ワープロはおろか携帯の留守録もさわれない私が、おおかたの予想に反してのめりこんでしまいました。そしてジャーン・・昨日ポスターがはじめてうれたんです。A3ノビ35枚地元の劇団の「山月記・慟哭」めっちゃうれしかった。
もちろん御代はインク代にしっぽがはえたくらい。家族でパフェ食べたらなくなりましたけど・・・ 

  この劇団とは昨年の11月、そして今年の3月前座をさせていただいて以来のご縁です。そんなことから12月2日に代役で出演させていただくことになりました。ジャジャ〜ン おくればせながら 大物新人女優デビュー!!
しかし「わたしは女優、アクトレス♪」と歌っていると家族みながわらう。なぜなんだ?? 前歯が3本ないからってわらわなくてもいいじゃない!?

       

 今も以前も書いていることはほとんど実際に起こっていることだ。だが文体は変わったし、世界のこと、外側のことは、ほとんど書かなくなった。わたしはいつか自分の確認のために書くようになったのだ。限られた時間に行けるところまで辿りつくために先を急がねばならないと感じたから......。この世のありようを憂い、傾れゆくのを身を持って半歩なりとも踏み留めようとするなら、まず自分を変えてゆくしかない。今は足跡を振り返るよゆうはない。もうすこし、もうすこし、この足をとられそうな砂地をぬけ、みずみずしいみどりの草の予感がするところまでゆけたら.........もう一度振り返ってもみよう。

 31日と1日の中央幼稚園のおはなし会をどうしようか.....問題点はその都度きちんと記録していないこと。そしておはなし、手遊びのリストをつくっていないこと。子ども向けの新しいおはなしをつくっていないこと。デイケア向け、特殊学級向けのプログラム、エクササイズを考案すること。時間がほしい。浦和物語のつづきが書きたい。1000冊の本を、大島弓子論の二部を、途中まで書いた童話のつづきを書きたい。部屋のシステム化、家具の入れ替え、HPの模様替え....映画を見たい......でも今一番必要なのは歯医者に行って歯を入れてもらうこと。三年前と同じだった。


七百の昼   2005.1..26       16時間

 会計事務所の又さんと打ち合わせ、財務を誰がどのように入力するか、について。会社の現状と今後について。気がついたら16時間会社にいる。だんだん企画が進行して、望んでいたカタチが顕わになってくる。


六百九十九の昼   2005.1..25  引継ぎの夜

 辞めることになっていたYさんは10年以上、この会社にいたのだ。生き字引みたいに何でも知っていて、わたしはなにかというとYさんに聞いていた。.....というか聞かないとなにひとつわからなかった。会社の住所も社員さんの振込先も会社の許可番号も........なにか腑に落ちない感じがずっとあったのだが任せておけば安心だし、楽だし、ことを荒立てててもとそのまま時間が過ぎてしまった。わたしは肝心なところだけ掴んでいればあとは彼女がうまく取り仕切ってくれ、数日会社に行かない日さえあったのだ。

 さて、引継ぎをする段になって、まったく進まない。なにか引き継ぎをしたくない理由でもあるのだろうか、未練があるのだろうかと思っていたのだが、今日わかった。仕事を引き渡すのは整理がついていればそう難しいことではない。Yさんは確かに仕事はよくできたが、自分の懐のなかですべてやっていたのだ。からだで覚えていたといってもいい。だから引き渡すものなどなかった。わたしははじめて納得した。仕事とは自分だけわかっていればいいのではなく、いつなにがあっても他のひとに手渡せるようにすべきものなのだ。

 そこでというわけではないのだが、今日は12月から取り組んでいたファイリングの総仕上げをした。金庫、キャビネット、オープン書架に入れるものをセキュリテーと重要度の程度を決める。ファイルはグループにわけて、それぞれのケースに入れる。

 気が遠くなるような仕事量で帰ったら12時近かった。そのうえ家に帰ってもストーブに火はなく、乾いた洗濯ものはたたまれず、洗った靴下はまだ洗濯機のなか。茶碗はシンクに沈んでいる。そこで雷.....を落とし深夜というのに怒鳴ったあと、灯油を買いに行った。



六百九十八の昼   2005.1..24  おさだおばちゃん

 本町小のおはなし会にかけつけたら、4年3組にはすでに読み手がいる?!面食らって、準備室に戻って再度ノートを見たら.....今日は森蓉子さんの日だったのだ。笑いをかみ殺しながら教室に戻り、後ろから特学のこどもたちと入って、読み聞かせを聞いた。本はゆずちゃんともうひとつ......聞き手になるのは新鮮だった。

 求められたので感想をのべた。神さんから途中佳境で子どもが出入りして、興をそがれたりしたときどうしたらいいか?という質問があった、ケースバイケースだが、ただ本を読むために行っているのか、子どもたちを愛して行くのか、それさえ自分の位置が決まっていればそのときの判断はできるのではないかと答えた。

 Hさんが他のおかあさんに「わたしは森さんの語りが大好きで、せっかく今日見えているので、聞いてください」と言ってくれたので「水からの伝言」を語った。それからもろもろで盛り上がり、そのおはなしをぜひこどもたちにしてください。とおかあさんから頼まれた。Hさんと特学で語りをしたいと話し合った。

 こうして新都心の会場についたのはぴったり11時、みっつ語った。最後に「おさだおばちゃん」........おばちゃんはここからそう遠くない、与野駅の向こう口の赤山通り近くの若葉荘という古びたアパートに、七年前までたしかに住んでいたのだ。そして、これを書いている25日はおばちゃんの命日である。天国のおばちゃん、生きるのは容易じゃぁないけど. 洋子はきちい気になってがんばっています。

 わか菜合格、ばんざい!!


六百九十七の昼   2005.1..23  レッスン室から

 今日はわか菜の山村女子高校の入試であった。学校に着くまでふたつ乗り換えがある。親に似て天然にはずれたところがある子なので、心配で川越まで電車でおくっていった。私立の入試が集中しているのか駅もターミナルも中学生であふれているが、さすがに親に付き添われている子は少ない。「他人のフリしてみる?」とすこし離れて歩いた。川越市駅で肩を叩いて別れた。

 それからUターンして、刈谷先生のレッスン。響くのは母音だけだということ。日本語は母音と子音がわかちがたいが、輝かせるのは母音である。高音を出す時は低い位置を意識し、低音を発するときは高い位置を意識する。こんななんでもないことで音が変わる。高音が安定する。高音を出すには助走が必要だ。前のフレーズで張っていないと出ない。そしてつねに自分の位置をキープする。丹念に音をひろってゆくと、ほんとうにオペラらしくなってゆく。声を出すという単純なことひとつに、どれだけの鍵が隠されていることか、ひとの五官を磨く、それぞれの達人に学べたらどんなに新しい発見があるだろう。「先生、むつかしくてそこがおもしろいです」といったら刈谷先生は我が意を得たりばかりに笑っていた。

 フジ子・ヘミングさんのことをネットで調べたら、「祈り」ということばに釘つけになった。フジ子さんは演奏中も神さまに祈っている...と書いてあった。そうか......タカさんも朝晩神さまに祈っていた。わたしもなにかにつけて祈る、語るときは必ず神さまに祈っている。......語りそのものが祈りのようなものだと思っている。皮相なことに気をとられて恥ずかしかった。あすは本町小と新都心で語る。


六百九十六の昼   2005.1..22  ふたたびフジ子・へミング

 十年前買い求め箪笥のこやしになっていた絞りの帯揚げ....牡丹色と藤色のをスカーフのように革のコートの下にふわり巻いてみたらとてもきれいだった。そのせいか、染めた淡いくしゃくしゃの髪のせいか、またふたりの友人から「フジ子・ヘミング!!」と言われ複雑な気分だった。フジ子・ヘミングさんは偉大なピアニストだけれど、ボヘミアンのようなすこし気の触れたような神がかりと乞食が溶け合った風な感じがして、えっ!?わたしはあんなふうに常軌を逸した感じがするの?あんなにふくよかなの?......と身の程知らずにもがっかりしたのだ。

 そういえば、中島敦夫人のタカさんもそういう感じがあったとタカさんを知るひとから聞いたことがある。わたしはタカさんの語り、おとうちゃまのことを語ったときもタカさんにそっくりだと言われたのだった。スーツの暮らしに戻れれば少なくともボヘミアンには見えないだろうがもう窮屈な暮らしはできそうもない。唯一の解決方法は痩せることだ。

 今日は今年はじめて座・シェークスピアの練習にいったが、西荻のがざびぃはひとっこひとりいない。練習場所を間違えたようだ。しかたがないので、パンを齧りながら、三月うさぎ?だったかしら、いや三月の羊?ひさQさんのお店によってまだ開店前なのにカフェオレを淹れていただいた。美味しかった。それから帰って仕事、半日遠回りをしたが荻窪のプラットホームの陽だまりで真っ白な富士山を見て、近くにお住まいの櫻井先生に思いを馳せ、電車のなかでイジーアスの台詞も覚えてしまったから良しとしよう。

 ダンスのレッスンは乙女さんが今日は乗っていて、楽しかった。踊った!!という感じ。まりが「おかあさんが先生を誉めたから.....先生も乗っちゃったのじゃない」という。乙女さんのダンスは切れがよくて、ほんとうにカッコいいのである。が、誉めるというのはものごとを容易く、安くする魔法である。もっと使うことにしよう。わたしも今日は気分よく踊れた。おととい、NYシティバレー団のエクササイズをしたせいか?週に三度エクササイズをしたら、痩せられるし体もキレルようになる!?きっとなる。



六百九十五の昼   2005.1..21  なにかが...

 浦和で叔父、叔母と会い従妹会の打ち合わせをした。母の出た小泉一族は関東近辺に散らばっている。従姉弟は全部で15人、母は8人兄弟だから生産性は低いと言わざるを得ない。そのうちのひとり直弘は、花のさかりに去ってもうこの世にいない。いつか直のことを書きたいと思っている。ところでなぜ従姉弟会かというと叔父叔母の高齢化と、従妹のひとりがドイツから帰省することに併せたのだ。

 このまま櫛の歯の抜けるように叔父叔母が川を渡ってしまえば、残されたものたちは風に吹かれた木の葉のようにちりぢりになってしまうだろう。時は5月、場所は鬼怒川、次回の打ち合わせまでに出欠の確認、住所アドレス等の確認をすることにした。わたしに声がかかるのは従姉弟たちのなかで一番先に生まれ、一番濃密な時間を叔父叔母とともにしたからであろう。

 スタジオオーナーの友人とまた偶然会った。彼女は1/31伊豆へ旅立つ。いけるものなら同道したいが中央幼稚園の語りが両日とも入っているのでかなわない。セラピーのことは仔細があって書けないのだが、わたしのなかでは確実になにかが変わった。曇りがすこしとれ、優柔不断なわたしがきっぱりとしてきたように思う。あけがた、24日に語るおさだおばちゃんの話に気持ちを合わせていたら、幼年時代の思い出が鮮明になっているのに驚いた。それには、カタリカタリの例会のこととも関わっているやも知れないが.......記憶が遡るのを妨げていた重しがとれたせいかもしれない。


六百九十四の昼   2005.1..20  幼年期への旅

 カタリカタリの例会....三時まで寝付けずどのように二時間の勉強会を組み立てようか考えた。この5年間学んだものをすべて惜しみなくメンバーに伝えようとわたしは決めたのだ。 清水の舞台から飛び降りる覚悟でASKの朗読講座に申し込み、櫻井先生にであったのはちょうど五年前の今頃だった。受講料は7.8万だったのか、それはわたしにとって大金だったけれど、そこから目くるめく世界がひろがっていった。

 ASKの二期、三期をそのまま受講して、語り手たちの会に入会し、目白ゼミに通い、銀座ゼミに通い 語り手たちの会の研究セミナーの三年を経て、久喜座や刈谷先生、壌さんと出あいさまざまな方から教えを受けてここまできた。そして一方ではこの道は自分と出あい、知ってゆく過程でもあった。語ってきたたくさんのものがたりや、聞き手のかたがたがわたしをいざなってくださった。文字とおり豊穣の森だった。

 掌に溢れるほど、身にあまるほどたいせつなものをいただいたから、わたしはそれをカタリカタリのみなさんやデイケアのひとたちやこどもたちにおかえししようと思う。語りをつたえることで世界をほんのすこしやさしくあかるくする....それはわたしにできるささやかな感謝のしるしである。

 まずはじめに、読み聞かせが絵本の世界にとどまざるを得ない限界を持つのに比して、語りがどれほど広い地平を持つかといこと、テーマ、ものがたりが無限大であること、民族や人類の歴史、古今の文学、市井のひとびとの暮らしにまでおよぶこと。またその方法も発声について、歌、芝居、落語、狂言 あらゆる手がかりがあること、そしてその深さ、語りつづけることは自分を知る旅であり、それぞれが語りについて求めるものを、それぞれが時間や想いを購っただけうけとれるのだろうというようなことを話した。

 そこで、語りについてまなびたい目標を各自に語ってもらった。黒板に整理してみると、レパートリーをふやす、発声、声を磨くなどとともに自分らしく、自分を知るというような項目が多かった。すこし影響を与えてしまったかもしれない。それから幼年期に旅をして、風と太陽と草の匂い、花の匂い、とても懐かしい大切なひとの呼ぶ声を聞いてもらった。ここでは2.3分しかたっていないのに、とても遠くに行ってきたようだ。みなの旅のようすを聞いてわたしたちは心から笑いすこし泣いた。わたしも語った。次回はライフストーリーを語っていただく。このドアをあけたあと、みなの語りは深く、輝きをますだろう。

 次男の18歳の誕生日、わたしはベルパロッソのチョコレートケーキ、かずみさんも大きなショートケーキを買ってきて、ホールのケーキがふたつも!!
18本のろうそくをたて、ハッピバースディ!!
 今も細いが幼いころも華奢で軽い子だった。くるくる巻き毛が細い頚すじにかかり、ハーフですか?と言われたものだ。優しさと頑なさと併せもつ子だった。ストーブの前に横たわる息子の髪をそっと撫でる。なんて大きくなったんだろう........!

 


六百九十三の昼   2005.1..19  安堵

 家の者が寒くて暖房なしにはいられまいと思い 朝 灯油を買いに走った。すぐ会社に行くはずが、ストーブをつけたら、娘たちと話しこんでしまった。わか菜の好きなバンド.の藤原さんが「自分(のめざすもの)には最果てがない」と云ったことについて、森山直太郎さんが「さくらはほんとうに歌いたいものではなかった」と云ったことについて、ケミストリの歌はうまくなったのに、なぜデビューの頃のように心に響かないのか...ということについて......

 音楽をするひとたちは、ただ自分たちが歌いたいものを歌えばいいのではあるまい......古今東西、伝えたいことはとてもシンプルで、そう変わりはしないのではないかということ、生きること、死ぬこと、愛、切なさ、美しさ、雄々しさ、儚さ、真実、見上げること、手をさしのべること、あこがれること、倒れても立ち上がること

........そうして、歌はひとを奮い立たせ、慰め、称えてきた。オペラが高尚で歌謡曲が卑俗などということはない。それぞれが拠ってたつところがあり、受け止めるひとたちがいる。歌い手は自分の志を持って当然だが、より多くの聞き手を求めるなら喩えはわるいが階段を降りなければなるまい。娯楽のなかに真をこめるのがむつかしく且つ望ましい道かと思う。やさしい言葉ではるかな地平、高みを目指すのだ.....伝えるためには技術が必要だが、ほんとうに大切なことはそれではない。

 こんなことを話しているうち、家を出たのはお昼ちかく、実は会社に行くことがすこししんどかったのだと気づいたのは、着いてからだった。昼休みというのに、駐車場の落ち葉を掃き清めている事務の藤田さんを見たらうれしくなって、鬱屈した気分も消え、いっしょに掃除をした。午後、三井三菱の秋山さんがお願いしていた、会社の財務の評価表ときのう預けた決算書を持ってみえ、内容を見たらかなりよかったのでほっとした。アクサ生命の担当者はいい提案を持ってきてくれたし、さぁ がんばろう。 

 「座」のまどかちゃんに真夏の夜の夢の変更した台本のFAXもたのんだ。スタートは遅れたが仕切りなおして22日の練習、そしてみんなといっしょに、3月の大団円へ。明日はカタリカタリの例会、24日はブリランテ武蔵野でステージ。



六百九十ニの昼   2005.1.18  富士山

 二時間かけて会社のそうじをした。部屋のすみにほこりと塵、小さな紙くずが舞っていたので気になってしかたがなかったのだ。今日のパートの事務員さんはそうじが好きな方なのでわたしが着くまでにはもう始めてくれていた。

 朝 晴れていると会社に行く途中 理科大の広大な敷地の脇にさしかかったとき、富士山が見える。真っ白に輝いて、はるか遠くのはずなのにとても大きく見える。喜びと懐かしさにわたしのこころはふるえる。どうしてなのかわからない。

 このごろ、人材も増え、それはいいことには違いないが、事務所はひとでいっぱいだ。そしてわたしは雑用に追われ、なんだか心配になる。これでいいんだろうか。連絡会の内容もみんなに伝わっているんだろうか。誰もノートさえ持ってこない。遅く帰ったら、ガスストーブは故障し灯油はなく、寒しいような気持ちで早く寝た。娘のこしらえた夕食はとびきり美味しかったけれど。


六百九十一の昼   2005.1.17 セーター

 朝、本町小のおはなし会、すっかりわすれていて、朝メールを見て気がついた。危機一髪だった。今月はすでに県立図書館のおはなし会をうっかり落としてしまった。一月中にあと三つのおはなし会、ひとつひとつをたいせつにしなくてはと思う。帰り際、図書ボラのおかあさんのひとりが「森さん、中学生の子どもが感動していました。一番前に座っていたんです」と声をかけてくださった。

 きのう、最前列で同じジャージを着てすずめのように仲良く一列に並んでいた子たちだ...。小学校でわたしのはなしを聞いてくれたことがある子なのだろう。その子は中学を出、高校や大学も出て、結婚したあともわたしが語ったものがたりや詩を覚えていてくれるだろうか。いや、忘れてしまってもいい。ものがたりを忘れてもわたしの声を忘れても、遠いさきにその子が苦しいことがあったとき、悲しいことがあったとき、ときめきのように勇気のようにゆらめきが一瞬たちのぼりさえすれば......ほんのすこしのあこがれや夢でひとは歩きつづけることができるのだから。

 空があまり美しくて怖くなる。懐かしいすこし色褪せた水色の空にたなびく白い雲、日は壁をあたため梢に揺れる葉が暖かいいろあいの壁に優しい蔭を落としている。いつかどこかで見た風景、世界はこんなに静かで美しい。菫色や薔薇色にそまった雲、黄金色に縁取られて燃え上がらんばかりの夕雲、人間が滅んでも誰ひとり見るものがなくても、おそらく世界は変わることなくつづいてゆくだろう。

 上等のセーターが一枚ほしいなあ、わたしをそおっとくるんでくれる軽くてふんわりあったかいのがいいなぁ。



六百九十の昼   2005.1.16   市民芸術祭にて

 贖罪について朝まで考えていたせいで、目が覚めたのは12時をとうに回っていた。食事をすませ、洗髪をして、衣装はとりあえずいくつか紙袋に入れ久喜文化会館につくと、すぐリハーサル、そして本番まであと10分......あせりもせず、衣装はもんぺと割烹着、はだしにした。

 きのうまで、どのように語ろうか決まってもいなかった。ただ漠然と大ホールではあるし、役者としての語りをしようか.....ピンマイクでどの程度セーブしなくてはならないだろうかなどと考えていたが、本番直前は迷いのカケラもなく、ステージの前こんなに落ち着いていいのかと思うほど心は静かだった。

 スポットライトが眩しくなにも見えない。「第二楽章ヒロシマの風のなかから詩を二編、書かれた方の代わりに語らせていただきます。聞いてください」.......わたしはわたしであってわたしでなく、風が吹き、月が煌々と中空にあり、空をツバメが飛んでゆく........焼け跡にころがるひしゃげたやかん、それを撫でさすると子どもたちの顔がすがたや匂いがせまって、震えた。

 終ったあとしばらく呆然としていた。今までさまざまな場所で語ってきたけれど、一切の後悔もないことはめづらしかった。それがどう聞いてくださる方に伝わったか、不安はないではなかったが、喫茶室で女性がふたり意を決したように近づいてみえて、「感動しました。迫真の語りでした。わたしたちの学校にきてもらえませんか」と言ってくださり、荷が降ろせたようにうれしかった。認めていただくのは背中を押していただくと同じだ。こうして種を蒔いてゆく、聞いていただき、語りを知っていただき、語るひとを増やしてゆく....それは世界をかえゆくわたしのささやかな方法のひとつであり、感謝のカタチであり、贖罪の道である。

 家に帰ったらわか菜が「おかあさん、悲哀に満ちた顔をしている」と言う。まだ子どもを失くした大勢の母親がわたしのうちにいるようだった。


六百八十九の昼   2005.1.15  贖罪

 刈谷先生の声楽レッスンの新年初日、雨は降っていたが浮き立つ気持ちでドアを開けた。先生はにこやかに迎えてくださった。発声で同じ一点に声をあてる緊張感がすきだ。自分の声に集中する...鏡を見て表情のほんのすこしの変化で声がゆらめくのがわかる。

 先生はマリア・カラスを不世出の歌手だとおっしゃる。女優であり歌手であったと、あのようなひとはもう出ないだろう...と、オナシスともしカラスが出会わなかったら、歌手生命は延びたのだろうか。いや、マリア・カラスは天は与えた栄光も悲しみも充分に受け取り味わったのだと思う。

 わたしは今まで先生の演技についての考え方にはついていけなかった。壌さんのいう貼り付け演技で本質的なものではないと思っていた。が、歌っているときはもう演技をしてはいけない。芝居とは呼吸そのものであるという先生のことばに、おなじことを異なる場所から光をあてているのではないかと気づいたのだ。そして腹式呼吸とはなにかはじめてわかったように思った。今年のレッスンも楽しく苦しく実りあるものになりそうである。

 午後から市民文化祭のリハーサルだった。橋本さんに誘われた参加も回数を重ね、今年は4回目である。照明や音声のスタッフは市が委嘱しているのだろうが、顔なじみになって なにかと相談に乗ってくれたり便宜を図ったり調整してくださるので、とても助かった。昨年からは戦争のない世界のためにというテーマにしぼってみた。それで今年、橋本さんはおてだまひとつ......集団疎開でおてだまのなかの大豆を食べた話、わたしは吉永小百合さんが編んだ第二楽章ヒロシマの風から二編語る。リハーサルのあと、別れがたく、文化会館の喫茶室でながいこと語り合った。

 夜明けちかく、始まった昔の映画に引き込まれてしまった。奇妙な味わいの映画でテーマはカソリックの贖罪である。「ひとにはそれぞれ贖罪の道がある」そのことばが心にすっぽり嵌まって、とつおいつ過ぎ去ったことなど思っていたが、この映画のように現世犯した罪への贖罪であるなら、したことの結果、購わなくてはならぬものは自分の身に自然と降りかかるのではないか........よいことも悪いこともそれが世間的にあからさまにならなくても、己が知っている、それだけでさまざまなことが降りかかる。カタチをとって顕れることもストレスやトラウマとして現れることもある

 けれどそのうえに前世、前々世の罪がある。わたしはいくつかのわたしの身に起こったことから、ひとは生れかわり死にかわりしてゆくのだと確信しているのだけれど、そのときどきに犯した罪も清算されなければならないのだろうと感じている。もしかしたら、そうした罪の結果が今の悩み、悲しみの原因となっているのかも知れぬ。
 ふと、わたしがしている、語りのボランティアやその他の無償の行為はわたしなりの贖罪の道なのではないか......理性ではなく、もっと深いところからの隠された意志ではないか...と思った。それだからデイケアや学校で語るたびに、わたしはすこしずつ軽くなってゆくのではないだろうか。そうであってもなくてもありがたいことである。

 


六百八十八の昼   2005.1.14  この道

 この道のさきには なにか、なにかがあろうよ

 みんな、みんなでゆこうよ.....


             金子みすずさんの詩から

 明日はリハーサル



六百八十七の昼   2005.1.13  光る道

 朝日に輝くアスファルトの道を走る。太田小 4年4組のクラスで手遊び 「ほうすけ」と詩を二編。子どもたちの視線がまっすぐ向ってくる。終ったあと先生がすばらしかったです。と廊下にきてくださったのだが、おはなしもですが声が.....とおっしゃられたので、素直に喜んでいいのかちょっと考えてしまった。発声にはこころを砕いているけれど、感動したら声のことなんか気にならないんじゃないかしら。

 校内をぐるっと廻ってきたら、「森さん!」と声をかけられた。最初はだれだかわからなくてそうしたときのならいで、話しながら記憶をたぐっていたら、15年前 長男がお世話になった増岡先生だった。今若葉のクラスの担任だという。若葉といえば、カタリカタリのメンバーが読み聞かせにきているクラスだった。こんど遊びにきてくださいとおっしゃったので、手遊びやおはなしを持っていってみたいと思った。そこへさきほどの4組の担任が見えて、母のお知り合いだとわかり、世間は狭いものだと痛感した。それとも精緻なレース編みのように、会うべくして会っているのかもしれない。

 仕事は大いにはかどったが、夜 家に着くと、きのう山村女子に送ったわか菜の入学願書のなかに振り込み書が抜けていたという連絡があったよし、家中さがしたが見つからない。受験できなかったらどうしようとわが身のおっちょこちょいが身に沁みる。



六百八十六の昼   2005.1.12  奔って

 なにかに背を押されて奔っている。生きてる感じがする。思うに任せないことも山ほどあるが、それでもおおむねあるべき方向に向っている ただわたしのちいさな願いや営みのためでなく なにかの力が働いて わたしはその大きな奔流のなかで自分の荷う一部分をさせていただいているような気がする だからなにがおきても覆されない安定があるのだ。

 あす おはなし会 こどもたちにあえる とてもうれしい。

 


六百八十五の昼   2005.1.11 泣きたくなる時

 支払日 50件の振込みの手続きがうまくいかなくて、銀行で1:30の締め切りが
過ぎてしまった。実務を任せきりにしていたので、自分ですると、計算が合わなかったり、振込先がわからなかったり悲惨このうえない。銀行のカウンターで必死で振り込み書の修正をしているところに銀行の次長がやってきて「もう時間です」と冷たいそぶりでわたしのそばに立っているので「手伝ってくださるならありがたいのですが、手伝ってくださらないなら気が散るので向こうへいってください」と思わず言ってしまった。ネットで振り込み続きをするはずが今回は見合わせのだが次回は必ず、必ず。

 夜九時も過ぎて やれやれ 帰ろうと駐車場に出たら、車の窓ガラスが凍っている。ホースで水をかけて溶かそうとしたら ホースの中も氷ついたのか、蛇口でホースがはねて顔に冷たい水しぶき。こんなときは泣きたくなる。

 あとで笑い話になるときもくるだろう。ケヴィンが寝息をたてながらわたしの寝床を暖めてくれている。今日は早くといってももうすぐ2時だが やすむことにしよう。

 16日は市民文化祭、15そのリハーサル 朝歌のレッスン、夜ダンスのレッスン 15.16午後から夏夢の稽古 13日 太田小 18日トムの会 20日カタリカタリ 21日道場と5月従妹会の打ち合わせ 24日 本町小 幼稚園3クラス ガールスカウト総会で語り  。


六百八十四の昼   2005.1.10 山口屋の昼、サンマルクの夜
 

フランス窓から

 たしの育った町浦和は起伏の多い表情豊かな土地柄だった。浦和駅の西口を降り、南に向かってゆるやかな坂道を下って登って1キロほど歩くと、正面に高さ3メートルもあろうか、修道院のような鉄柵の門につきあたる。わたしは三年のあいだこの坂道を通った。門を入ると鬱蒼とした桜並木に添うように明治時代に立てられた旧校舎が建っている。風雪にさらされたやはらかな木の色に白の漆喰の壁、天井は高く冬は石炭のストーブを焚いてもなかなか部屋が暖まらなかった。それでもわたしは一年生に割り当てられたこの旧校舎がすきだった。机のかども磨り減って丸くなった階段教室があった。それはもう使われなくなった音楽室で、そっと中に入ると明治、大正、昭和の時代の波のなかで、みずみずしい時を過ごした。数多の少女たちの淡い影が、埃とともにたゆとうているような気がした。
 一年二組の教室は二階の東の端にあって縦に開くフランス窓が、校庭に面した東側に四つ、北側にひとつ並んでいる。奇妙なことに明るい窓に背をむけてわたしたちは授業を受けるのだった。新学期の喧騒もすぎ、それぞれの友人関係も認知され教室に倦怠の気が漂い出した頃と思う。わたしの耳にひとつの聲が砂に沁み込む水のようにのようにしみいるようになったのは.........それからわたしは授業時間も休み時間も耳を澄ましてただひとつの聲を追った。その聲を聞くと灼けつくような痛みに似たなにかが癒される気がした.中略....

 
 今日、浦和で彼の友人Dと会った。わたしがフランス窓のある校舎で彼女の聲に体中を耳にして聞き入ってからもう40年近くの時が過ぎ去った。わたしはこのエピソードを長いこと胸の奥で忘れがたく思っていた。なぜなら........

........今振り返ればあれはわたしがひとを戀うることを知ったはじまりであったのだ。そして戀とはそのひとを通して天上をあくがれるまなざしそのものではなかろうか。遠い記憶のあの聲にはかすかな諦念と自分の担わねばならぬものはすべて引き受けようという、不屈の意志がこもっていた。あれからわたしは谺を追うように、やはりひっそり諦めの滲んだ掠れた聲を、弱みを見せることを潔しとしない、けれど優しい声を群集のなかから聞き分けて耳を澄ました。それは老いていたり、若かったり、女であったり、男であったりしたのだけれど、あの時ほどの澄み透った気持にはなれなかったように思う。


........このようにその聲は地下を流れる水脈のように.伴奏のように微かにわたしの奥底を脈々と流れつづけていたのだ。.....わたしは「フランス窓から」をリサイタル夏物語で語り、リサイタルを開いたスタジオのオーナーの助けで、友人Dと再会を果たし記憶の深みに沈んでいた聲をふたたび耳にすることができた。それからあらたに今度はほんとうにふたりのものがたりがはじまったのだ。わたしの内部では40年の月日が連綿と流れていたが、彼女にとってはつい先日はじまったばかりのことである。それぞれのライフスタイルと方法がある。この溝に橋を架けるのは辛抱つよくことばをかわし合うしかない。おたがいがおたがいを理解しあうには双方から歩み寄りこころをひらくことしかなく、うつそみを何百キロもの距離を越えて運ぶしかないのだった。しかしそれは発見につぐ発見でたぶんわたしたちはおおいにわくわくすることになるだろう。

 

 10月、はじめて彼女からバランスセラピーを受けてより 長い時の呪縛を超えて解き放たれあふれ出た想いのような記憶のような愛しく切ないものたちをなんと呼ぼう。記憶というにはそっけなくトラウマと称するにはいとおしい。こうしていちどに溢れてきたのは、彼女のセラピストとしてのスキル、包容力、わたしの彼女への欠けること無い全き信頼のほかに、日ごろわたしが語りやHPをUPすることで、セルフ・セラピーをつづけてきていたことと無関係ではあるまいと思う。時は至ったのだ。

 およそ語るということの根底には自らを癒そう、あるべき自分にかえろうという希求がこもっていたと知ったのはあとのことである。暗闇のなかでかすかなあかりをめざしてがむしゃらに歩いてきた4年間だった。八雲のものがたり、松谷さんの再話を手がかりにたくした語ったものがたりは語るたびに練り絹を一枚一枚はぐようにわたしをかるくしてくれた。それは聞き手とものがたりを共有することで可能となったのである。しかしわたしはそれをセラピーになり得ると知ってしたわけではない。そのことで聞き手を利用としようなどとは思いもしなかったし、昇華されたものがたりは聞き手をも清めるのだと信ずるに足るものがあるのだ。

 借りてきたものがたりを自分のこころに落とし込み、わたしのからだとこころをとおして語ることから、やがて深化して 自分のからだやこころから湧きいづるものがたりを己自身のことばで語るという方向に進んでいったのは思えば自明のことであった。それと並行してはじめた芝居はそのままひとのいのちを生きるという本質のところからわたしの語りに多くの示唆を付与してくれた。語りはおもしろい。けれど本来の目的はなにか忘れてはなるまい。生きること より良く生きること 死というひとつの終わりそして始まりに向って わたしを投げかける..........縁あるひとたちと愛しみあい 響きあいながら  わかちあいながら........
この世で.....本来の私自身への回帰.をできうる限り果たすということ......
語りも芝居もそれ自体が目的ではない。....

 それがわかっているなら 自分だけでなくより直截にひとを救えるという可能性にかけてみたい。新しい年のあたらしい標がひとつ見える。

 夜 サンマルクでまりえの成人の日を祝った。



六百八十三の昼   2005.1.9 たいせつなこと

 大切なひとがひとりいると、そのひとが遠くにあってもちかくにあっても、ちいさなあかりが灯っているようだ。想うとき、こころがあたたまって、顔も花がひらくようにほころぶ。けれどもあかりが揺らいだり暗くなったりすると、わたしのこころも震える。ちいさいこどもなら抱きしめることもできる。お菓子をあげることも、本を読んであげることもできる。しかし思春期も過ぎたひとには添うてあげることさえできないことがある。見ているしかないときもある。痛いことがわかっているとき、身を切るように辛い。大切なひとや大切なものがあるというのはそういうこと、とても切ないことなのだ。

 父が亡くなったのは7月23日、暑い暑い日だった。その日の朝の晴れやかな空も、夕暮れの空いっぱいに広がった燃えるような茜の雲の色もはっきり覚えているのに、それが何年のことだったか思い出せない。末弟が結婚し、妹に待望の赤ちゃんが生まれた年だからもう10年になるのだろうか。父の死期を知っていたわたしは父が心置きなく旅立てるよう努めた。淡々と確実に末弟のことも妹のことも蔭で手を尽くしたのだった。亡くなる一週間前、最後の入院の前日、わたしは父に呼ばれた。「おまえがしっかりしていればこの家は大丈夫だよ」そういってわたしの手を握った。......あたたかい手。わたしは父のことばに応えようと自分に鞭打つような日もあったのだけれど、1/3、兄弟会の日、託された荷を降ろすことに決めた。

 その翌日、おとうさん、わたしは封印していたことを思い出したのです。おとうさんとおかあさんはよく諍いをました。わたしたち兄弟はあいだにはいっておろおろし、安心して住まっていた家が脆くも崩れたような居場所のない不安のなかにいたのだけれど、どんなときもたとえ、おとうさんに理がなく不甲斐なく思える時であってさえ、少女のわたしは心のなかで、あなたの味方でした。、教師の仕事に追われおとうさんの世話などできそうもない母に代わりわたしはちいさな妻のように、おとうさんが心地よく過ごせるよう努めたのでした。おとうさんの靴を磨くことも丹前を用意することも密かな喜びでした。

 すこしずつ固く閉ざされていた記憶が綻びはじめる。遠い過去と今が呼応する。あの日、父との約束に関わることを弟が知らずに揶揄したために、わたしは周囲が驚くほど激昂したのだ。そして父から託されたことを放棄する自分が許し難かったから、あれほど悲しかったのだ。これは偶然だろうか。感情が再現されるということは、トラウマが消えることを意味するのだろうか。それとも始まりに過ぎないのだろうか。



六百八十ニの昼   2005.1.8  寒い日

 あと318日、11月の終わりを待たずに1000の昼となる。そのあとはどうしようかなぁ......1000の夜を書く? 目的が遂げられれば続ける必要はない。そうしたらわたしはどこかで小さな隠れ家をこしらえて、そこでちいさなものがたりを書くかもしれない。以前からあたためていた小説を書くかもしれない。わたしと誰かの救済のために.......そしてフォトショップやイラストレーターをつかって作品をつくるかもしれない。この魔法の杖を捨てることはできないだろう。瞬時にひとのこころへ届く魔法....果てしない大海原をはしり たったひとしずくの水と出会う不思議.....
今、あなたのもとへわたしのことばは、わたしの想いは届いていますか?


六百八十一の昼   2005.1.7 ひと

 仕事が動き出した。ひとが動き出した。

六百八十の昼   2005.1.6 巫女

 会社がはじまる。鷲宮神社で恒例の祈願をする。匂やかな巫女さんが鈴を振りながら舞う。神道では振ることで命を甦らせる。魂振りということばがあるが、語りもひとのこころに響かせることで、生命に新しい息吹を吹き込み、命を輝かせることができるのだと信じている。

 ひとの生とはそれ自体がひとつの固有の病そのものである。わたしたちはこの世で自分の病と向き合って、愛することはなにかを学ぶためにこの地上に落とされたのだとわたしは感じている。自分とその病と向き合い本来の己に戻るすべをそれぞれは知らずに模索している。ひととのかかわりなくしてひとはおのれを高められはしないのだけれど、他に方法がないわけでもない。我を忘れてただひたむきにひとつのことをすることと教えられたことがある。

 わたしは語ることから、実に多くを学んだ。ひとりひとりの語りがいかに如実にそのひとを現しているかということ、隠しようもない魂のいろあいは上手下手とはかかわりなくそこにあった。語り手は語りのなかでひとの命を生きることができる、聞き手の命を取り込むことさえできる。いのちあることばはなんという力を持っていることだろう。

 しかし、わたしがもし安寧のなかにいたら、全きしあわせのなかにいたら、わたしは語っていただろうか。わたしが語ることにかように惹かれたのは生き直すことができたから.......ではなかったろうか。知らぬうちに傷つき絶え絶えになって、叫び声さえたてられなくなっていても、語ることでみずみずしい命を取り戻すことができることを知っていたからではあるまいか。それは生命が揺らぐことで本来の力を取り戻す自然治癒力の延長にありながらより能動的な試みのようにも思われた。

 それでも、より直截にひとを救えるのであれば..........。
 

六百七十九の昼   2005.1.5 どこに

 朝、雨の音がした。意識が波のように満ちたり引いたりした。友人が仕事に行く前に辞した。狩野川の土手まで送ってくれた友人を姿が消えるまで見送った。朝日に輝く雪の峰、富士を背に歩いた。わたしはどこにいるのだろう。足を踏みしめて歩いているのにここにはいない。新幹線で帰京し、久喜に戻り、夕食の準備など用事をすませてふたたび浦和に行く。

 会田さんに会うことができた。夜、伊勢丹の呉服市で着物に手を通す、大島はいい。からだにすっと馴染んで軽くて、目をつけたのは高価なものが多かったが、なかにビンテージの派手な縞があった。3月の真夏の夜の夢にいいかもしれない。わたしはどこにいるのだろう。

 頑張ってはいけないと言われても。それではどうしたら....いい?ストレスがあるからここまで来られた。自分を焚き付けて火を灯して歩いてきた。友人は「これでひとつトラウマが消えたね」と云った。そうかもしれない、軽くなったかもしれない。ストレッサー(ストレスの要因)が消えてもストレスの記憶は残るのだという。夕べ、わたしのなかに幼いわたしがいた。でも、その幼いたくさんのわたしや記憶を抱いて生きてはいけないのだろうか。

 余分な荷は捨てよう。過剰な自負やおせっかいはもうやめよう。けれどわたしをわたしたらしめているものを捨ててもいいのだろうか。



六百七十八の昼   2005.1.4. 伊豆へ

 友人に会いに行った。伊豆長岡には3時頃着いた。ふたりで家まで歩いた。136号線をわたり、狩野川に架った長い橋を風に逆らってわたる。雲ひとつない水色の空のようにからだも透きとおるようだ。わたしたちは狩野川の土手を歩く。足がすこし不自由なわたしに友人は気遣うように歩調を緩めて先を歩く。やがて川の右手に富士山が見える!いつも見るのとは反対側の中腹の抉れたそれでも目にあざやかな雪を被った富士、歩きながら顔が冷たいと手をやれば、知らぬ間に頬がぬれていた。富士山を見ると揺さぶられる。

 宿舎はホテルサンバレーが買い取った郵政省の宿舎だったという三階建ての白い建物だった。三階の一番奥のドアにはリースがかかっていた。ドアをあけて中に案内されるとなにか懐かしい感じがした。築30年とは思えぬほど手入れが行き届いた部屋は、30年前足しげく訪れた中野坂上の郵政省の官舎に造りがよく似ている。一樹と尋ねた広川氏の部屋だった。

 わたしは奇妙な偶然を思った。30年前わたしは一樹と出あい、一夜のうちに階段をくだりわたしの奥底のたどり着き、身をかがめたのだった。ちいさな泉があってそこに映っていたのはわたし、わたしの定めだった。そして今日わたしが彼女を訪ねたのは、やはりわたし自身の目から隠されている自分を知るためでもあったのだ。

 すこし上ずった声でとりとめのない小鳥のような会話をした。とても心惹かれた一脚の椅子、三宅一生の服、ALKAの靴。それは長い年月をかけて培われたひとつのスタイルでわたしは彼女の生活のスタイルを眺めるのが、ひとつひとつの説明を逐一聞くのがとても楽しかった。夕食の鍋は秋田風にセリの根がダシに入ってからだの芯から温まるようだった。

 そして時が満ち、会話は核心にはいってゆく。わたしはバランスセラピーについてもっと知ることになった。キネシオロジーを知っているだろうか?それは身体のある筋肉が、精神的なストレスに反応して緩んでしまうという特性を利用し、それらの筋肉の反射を調べながら、様々な療法を使い分けながら心身の不調を解消していく総合療法である。

 ではバランスセラピーの理論はというと、脳幹→筋肉はトラウマを記憶するということに気づいたことから、心を癒すのでなく、物理的にからだの緊張を解かせる方法で肉体だけでなく精神の苦痛もやわらげるということにあるようだ。(わたしはまど門口にたったばかりであるので興味のある方ははバランスセラピーのHPを見てください)

 人間は肉体的な危機であれ、精神的な苦痛であれ、同じ反応を示すという。脈拍は上がり、血圧、血糖値もあがる。闘うか逃げるか戦闘状態を強いられる。大昔においては闘いに勝つ、または(死なないで)逃げることができたとき、、緊張は緩和されたが、現代においては不断の緊張を強いられて、ゴムの伸びきった状態....ストレスでいっぱいになっている。そこから不定愁訴、病、不登校、犯罪などがいはば症状としておきる。なぜおきるかといえば、それ自体がからだとこころのバランスをとるための症状なのである。

 からだからこころへ...この図式は今まで虐げられてきた、精神から見て地位が低いと思われていた肉体の復権でもある。わたしがもっと知りたいと思った直接の理由は、10月修善寺の語りの祭の前日再会したとき、友人から受けたバランスセラピーの体験からだった。...そして胃の痛むわたしのためにダ友人は隣室でバランスセラピーを施してくれた。

 足頸、足の指、背中に手が置かれる。あたたかい。いつしか眼前に夜桜が浮かんだ。びっくりするほど大きい花房......淡い黄色味を帯びた燭光のような....白熱灯のような眩しい光、そしてそれは突然きた。涙が止まらない。いやだ。恥ずかしいじゃないか

.....わたしは泣いた....おかあさん、おかあさんと母を求めながら.......なぜこうなったのかわからない....母のことがいまだにわたしのトラウマであったなんて.......押し殺した慟哭だった......そして父のこと....おとうさん、おとうさん.....わたしは意識のそこでなぜかずみさんを選んだのかわかったように思った。....もう疲れてしまったの.....わたしは死にたかったずっと、ずっと.....友人が手を握ってくれていて、わたしは井戸のなかに落ちたように眠りに落ち込んだ。




六百七十七の昼   2005.1.3  吼える

 年頭の兄弟会に妹の懇請に負けてでかけたが、予感とおり悲惨な結果だった。もう数年来、一触即発の気配はあって、昨年はそれが爆発し二度といかないと誓ったのに、なんのことはない。

 兄弟というのは不自由なものだ。同じ血が流れてなにを考えているかおおよそのことは読めるのだが、その濃さが災いする。客観的に見られない。わたしの兄弟の場合ことばで切りあいをするのはこどものころ鬩ぎあって育った延長のようなものだ。お互いの技量はわかっているから、深手を負わないように致命傷を負わせないように切り結んでいるのだが、お酒がはいると制御が甘くなるのだ。わたしのほかの三人はワイン通でもある。

 父から家のことを託された重さと長女であるという責任から、今まで兄弟にことがあればなにをさておいてもかけつけたつもりである。それがいつのまにかわたしの過剰な自負となり、兄弟たちは負担に感じるようになったのかもしれない。けれどそれだから長女はいやだ...と言われればそれまでである。思い切り怒ってしまった。惣におじさんが謝ったときおかあさんも矛を収めてもよかったのじゃないと言われたが、まことの籠ってないことばなど紙くずに等しい。もう長女という看板は下ろしてもおとうさんは叱りはしないだろう。末弟夫婦が会社にいたこと、やめたことが影を落としているのだから、しばらく冷却時間を置こうと思う。

 






六百七十六の昼   2005.1.2  猿

 キェー キェーと聞きなれない声がした。かずみさんがかけすが山から餌を探して下りてきたのだろうというのでガラス戸を開けてみると小猿が窓の下にチョンと座っていた。すぐに母猿が出てきて紅い顔で威嚇する。それがいいことかはわからないが蜜柑をなげてやった。猿も餌がないのだろう。

 早めに宿を出、神林に向うが途中にあった、天川神社という神社が気になって参拝する。鳥居をくぐり一の御柱、弐の御柱の間をぬける。神域に染みひとつない青空、真っ白に降り積もった雪は氷結した粒がキラキラ輝いてこちらも穢れひとつない。時折杉の梢から雪の結晶が燦と舞い落ちる。

 昨夜、かずみさんの背を力をこめて流した。疵のある足を丁寧にマッサージした。かずみさんの夢のためにわたしはできるかぎりのことをしよう。帰る道、左に真っ白な浅間山が噴煙をあげていた。やがてはるか左に馬耳山、そして右手遠く富士山.......山は美しい。天をさしている山は祈りそのものだ。

          

 

六百七十五の昼   2005.1.1  つらら

 朝、母の歓声が響いた。窓の外はつららの列......一晩で50センチも雪が積もった。ここはかけ流しのほんものの温泉で一日目は一回だけ、それも5分か10分という温泉の作法も知らず、夜中に2時間もはいっていたわたしは湯あたりで具合がわるくうとうと過ごした。だが忘れはしないものだ。芦刈の歌もディアドラも雪女も....湯殿にたちのぼり葦の原に吹く風....初秋の日ざし.....澄み渡った空......も、きんぽうげの咲き乱れる野も、エリンの岸辺に打ち寄せる波も眼前に浮かぶのだった。もちろん転がるように小雪舞う山の道を駆け下りる樵のすがたも........

 語り手として今年はどこまでゆけるだろう。深く.....高く.......細い道をゆく......誰の真似もせず、妥協もせず、わたししか語れないものがたりを......この世にないひと、この世にないものから託されたものがたりを語る。






六百七十四の昼   2004.12.31  雪のなか

 午後、長野渋温泉に向った。高速に乗るとすぐ雪が降り出し視界が見えない。立ち往生したり追突したりしている車を横目で見ながらP・Aでチェーンを装着、かずみさんと惣が苦心しながら取り付けるのを母とわたしは傘をさし掛けて応援するだけだった。食事をする時間を惜しんでおむすびをほうばりながら先へ進む。横殴りの雪のなか車の列は遅々として進まない。チェーンをつけても自損事故、追突自己が随所で見受けられた。人間の工学技術の粋を尽くしてつくられた高速でも自然の前ではこうも無力である。結局尋ね尋ねて着いたのは九時近かった。夕食もそこそこに部屋でやすんだ。

 こたつでうたたねをしながらなんの感慨もなく2004年は過ぎ去った。


六百七十三の昼   2004.12.30  街で

 かずみさんたちはもちつきをしている。わたしは三台のパソコンをつかって賃金台帳や源泉徴収簿を打ち出したり、封筒や名刺を印刷したり、出勤簿をつけたりした。会社には11台のパソコンがありそれぞれにペットネームをつけている。トリトンとかプルートーとか星の名前が多い。わたしのパソコンは海.......自宅のは風である。初めてのコンピューターはその頃はPCではなかったが雪という名前だった。雪の日にきたのである。10年以上前のことだが、それがきっかけで会社は大きく変わった。

 およそ3年ごとにシステムアップをしてきて、今度のはかなり大きい改革である。結果良しとでるかどうかまだわからないが、振込みも来年からネットですることにした。銀行に行く時間が惜しいのと煩雑な作業を減らすためである。いよいよ来年は文書管理に手をつける。大掃除をすこし手伝って3時3分前に銀行に滑り込み、わたしが今年最後の客となった。「今年はお世話になりました。良い年をお迎えください」と大音声でみなさんに挨拶した。

 そのまま電車に乗って.浦和のガロに向う。真っ赤なホンダのジャンパーにモンペというスタイルだが、もう恥ずかしくなんかないのである。ガロで今日は杉山さんにパーマをかけてもらった。杉山さんは指先で髪と語っているような技術者だ。杉山さんにしてもらうと3ヶ月はスタイルが崩れない。美容院でリセットして、伊勢丹でお年賀やお衣装を買い、母にもちと歳暮を届け新年の準備は終った。浦和駅の前の雑踏で若者が路上ライブをしていた。師走のこととて立ち止まるひともなかったが、わたしもそのうち路上ライブ、パフォーマンスをしようと心に誓った。弾く、歌う、語る......後戻りできないように広言してしまおう。4月からギターのレッスンをはじめる。

 明日から渋温泉。この一年、みなさまほんとうにありがとうございました。さまざまなことがありましたが、千の昼、千の夜をかきつづることで、わたしは自分を見詰め歩いてこられたように思います。どうかよい年越しを.........
新しい年が平らかでありますように.........


六百七十ニの昼   2004.12.29  ギリギリ

 銀行、郵便局、買い物。雑用が多い。時間がもったいない。だれかわたしの代わりに動いてくれる人がいれば、もっと大切なことに時間がさけるのにと歯噛みする思いのときがある。それも信頼できるひとがほしい。ほんとうに信頼できる人間が何人いるだろう。ひとは弱いものだし、融通が利く人間は使いやすいが実は両刃の剣で危険を含んでいるのだ。気をつけなければ不正がまかり通る。不正を許すのは相手を罪に落とすことである。来年はモラルのレベルをあげ、曖昧さをなくし、信賞必罰を徹底しようと思う。

 M建設来社、未収金は年内に回収予定だったが半分持参、残りは一月末まで待ってくれとのこと、仕方がない。この会社は3000万くらい負債があるらしいが他の会社には払ってないらしい、払わなければ、また、手形を切らなければ、業績が悪かろうと倒産はしないのだから、ある意味たいしたものだ。それではなぜうちに払ってくれるのかというと尻尾をぎゅっと掴んでいるせいもあるし、たんにわたしがおっかないのである。女もかっこつけなければ誰が相手でも怖ろしいことなどなんにもない、対等に男に伍していけるのだ。もう一週間も風呂にも入らず、4日同じ洋服を着ている。だんだん男だか女だかわからない風貌になってくる。

 下請けのO建築と打ち合わせ、建築に関しては社内のシステムが脆弱で、なにかとトラブルのもとになる。なるべく早く情報をキャッチして有効な手を打つこと。Oさんは仕事がさほど上手いというのでも、安くもないが男気がある。口下手なひとがよくそうであるように辛抱強く待っていてくれる。石神井の現場ではなにしろ1/3できあがって一銭も貰ってないし、社長は入院しているのだからどんなにか心配したと思うがくちひとつ言わなかった。自治医大で医者団から病状の説明を受け、真っ白になって部屋から出てきたとき、心配のあまり病院にかけつけたOさんとばったり出くわした。Oさんも事情を察したようで強張った顔をしていたが「お金をとるにはいろいろな方法がある。大丈夫、必ずもらうから辛抱して待っていてくれ」というと、そのとおり待ってくれた。

 「今年は世話になりましたね」とねぎらうと「こっちこそお世話になりました。奥さんはすごい力を持っている」といわれたが、ダイワから三千万お金をもらったことをさすのか、かずみさんの足が助かったことをさすのかわからなかった。両方かもしれないが、それはわたしの力ではない。夜、打ち上げをした。年末調整をわたし、いただいたお歳暮をアミダ籤でわけた。とうとう大掃除ができなかったので、明日もそうじと請求書の残りをする。

 幼稚園から来年のおはなし会の依頼がくる。個人で受けているおはなし会をいよいよカタリカタリに開放しようと思う。これも執着を捨てることのひとつである。あぁ、芝居がしたい....全身全霊で語りたい、仕事はきらいではないが。これだけではわたしは生きていけない。クビのあたりまで液体の詰まった壜みたいだ。観たり聞いたりするほど想いがつのって爆発しそうだ。わたしのからだ、わたしのことば、わたしの魂を空間にゆだねることができたなら...........透明になれる.........だれか聞いて.....受け止めて



六百七十一の昼   2004.12.28  忘年会

 「雪椿」で会社の忘年会。


六百七十の昼   2004.12.27  ジュリエット

 めまぐるしい一日、なんとか6:30に日生劇場にすべり込む 。嵐のようなロミオとジュリエット、スタンディングオーベーション止まず。後記述。

  劇場を去る時。あちこちで「今日はよかったね」「今日のを観られてよかった」と言う声を聞いた。幾度も観劇を重ねるひとが多いのだろう。若いみずみずしいロミオとジュリエットだった。舞台は中央を取り囲むように三段に組まれている。両袖が階段になっている。奥とサイド、いくつものドアともなる壁面には、愛に死んだ100人以上の顔写真が貼られている。極めてシンプルなセットは瞬時にキャピレット家の舞踏会の広間、僧院、バルコニー、墓所となる。ロミオは2Mもある壁面を軽々とよじ登り、飛び降り、片手でぶら下がり 縦横無人に駆け巡る。転げ回り、床に身をなげ 煩悶し、神父に抱擁する。ジュリエットも他の出演者もとにかく駆け回り、客席を疾走し、台詞は矢のように飛び交い、意味を聞き取ろうとすると疲れるので そのまま身をまかせることにした。

 熱い緊密な舞台だった。熱気漲る集中した舞台だった。これは「ロミオとジュリエット」のひとつのカタチと思う。声の力を感じた。しなやかな体の美しさが語るのだった。わたしが聞きたかった.....静かに、あれは、あの窓の光は......を藤原竜也はなんと楽しげに口にしたことだろう、いや、あつかましすぎる 俺に話しかけているのではない......のくだりでは客席に向かい呼びかける......

 制約はないのだ、なにをしてもよいのだ。.......ことばはよく聞き取れないジュリエットの台詞にその響きだけでわたしは二度戦慄した。心臓が掴まれるようだった。マキューシオの饒舌、パリスの静、ロレンス神父の叡智と弱さ、乳母の愛と狡猾、くっきり書割した描写、それはきっちり構築された舞台であった。だが、ここまで........蜷川ワールドを観せられている.....それが酩酊の底で滓のようにある.......もっとゆらめく芝居にならないか.....きらきら絢爛でなく.....相即挿入....舞台と観客のひとりひとりのものがたりが溶け合うような芝居が見たい。

 芝居は観るよりするほうがぜったい いい。


六百六十九の昼   2004.12.26  今年

 クリスマスプレゼントの洋服を一緒に買う約束をしていたので午後、長男と買い物に行く。選ぶのに時間がかかるのは、わたしに似たのだろうか。帰りに伽麦屋で食事をした。23歳の長男はフリーターである。今、7月から通いはじめた教習所もようやく年末になってやる気がおきたらしく仮免をとったばかり、まぁ 三年寝たろうの亜種である。

 話すつもりはなかったのだが、食事を終えて、「今年の漫画ではプルートーがよかったね」などと会話するうち、本音で語ってしまった。「おかあさんは3つし残していることがある。ひとつは会社のこと。もうひとつは4人の子どもたちの自立を見届けること。もうひとつは語りや芝居で自分の納得できる場所まで行きたいということ.......」「おかあさんは4人の子どものそれぞれがみな誇るに足るものを持っていると信じている。ひとを大切にする気持ち、正しいものへの共感、審美眼、想像力.....もっと自分に自信を持っていいんだよ。」「今日限り、子ども扱いはしないから、できればおとうさんの片腕になってほしい。無理にとは言わない。もしそれがいやなら、自分のやりたい道で働き、あなたしかしかしわわせにできないひとをしあわせにしてほしい。ひとは自分のためにしあわせになることはできはしない。ひとをしあわせにしようとするなかで気がつくとしあわせになっている。」

 わたしはしあわせである。今年 なにをしたらいいか気づいた。語りや芝居をする自由な時間は極端に減ったが、気がつくとかずみさんが病に倒れる前より、納得できる語り.....交流が持てるようになった気がする。生きることは......はだしで歩くことに似ている。灼熱の大地や泥の海、切り立った山道もある、草原もあるし花畑もあるけれど、辛いときほど一途に歩くことに集中する。一歩、一歩が重なって山を越え、砂漠を越え、川を渡る。気がつくと丘のうえ、歩いてきた道筋が見える。先はまだ見えない。


六百六十八の昼   2004.12.25  クリスマス

 今日は大宮開成高校の個人相談会だった。仕事を休んでわか菜と学校に向った。そこで起きたことはクリスマスの今日は書くまい。 わたしたちと机をはさんだ相談員のおそらくは地位のありそうな先生の話を聞いて、この学校を受験することはやめたほうがいいと感じ、いうべきことをいい席を立った。外に出るときわか菜が小声で「おかあさん、カッコイイ」と云った。わか菜も同じ気持ちだったという。

 大宮のマルイで家族へのプレゼントを選んだ。かずみさんにバルーのジャケット、惣のPPFM2のジーンズとベルト、わか菜にアズノーアズのジーンズ、わたしにもアズノーアズのインクブルーのドレス。まりにTsumori chisatoの財布、なかにカードとすこし大目のお小遣い、感謝の気持ちを込めて.....まりが夜毎心をこめて糖尿病メニューをこしらえてくれなければ、こんなに早い回復はなかったろう。

 久喜に戻って会社で仕事をした。こころなしかみんなの顔が輝いている。みなが帰ってから、家でディナーの準備、パエリアらしきもの、野菜スープ、前菜、チキンやサラダ、そしてプレゼント交換。わたしはわか菜からグッチの香水、まりから前からほしかった大島弓子さんのダリヤの帯をもらった。わたしを右の手首に香水を落とし馥郁たる香りを楽しみながら本を開いた。大島さんの最高峰であろう。甘く切なく苦く優しいものがたりのかずかず、一度に味わい尽くすには苦しくてわたしは惜しみながらページをめくった。

 良い夜だった。プレゼントをわたたひとも受け取ったひとも幸せそうだった。クリスマスの晩、わたしたちはケーキを食べることもアイスクリームのことさえ忘れてしまったのだ。どうか、わたしたちが幸せなように世界のひとたちが幸せでありますように......地には平和を.....


六百六十七の昼   2004.12.24  執着

 わたしは情が深い......とおもう。悪女の深情け....というか、男でも女でもとことんつきあう。死に水をとるまでつきあう。絆をバッサリ断ち切ることが苦手でそのため泥沼でもがくことになる。

 このたびの会社での軋轢もそんなところが響いている。事務をしている方がふたり、辞めるという意思表示があったとき、わたしは焦り、なんとかとめようとした。結局ずるずる引き摺り十二指腸潰瘍になった。二週間ほど前のこと、もう執着はやめようと決意し、それぞれの判断にまかせ、ふたりがやめることを前提に心の準備をしたら、風が変わった。おふたりとも辞めたいというのではなかったのである。

 きのう結論がでた。管理部に関わるひとはわたしを除いて5人、ひとりには辞めていただき、ひとりは残り、見習いのひとりがやめ、あとふたりとはこれから話し合いをする。やめる方ともやめない方ともじっくり話し合った。どこで長い混乱が生じたかといえば、うちは家族的な会社なので、仕事以外にのつながりがあり、仕事レベル以外の感情レベルでお互いを評価し、甘えがあったように思う。わたしは経営にたずさわるが、それが同じ土俵でもみあってしまった。苦い教訓である。

 わたしは逃げていた。正面から問題を見て解決しようとしなかった。今年のうちに解決でき、それぞれが新しい気持ちで自分と向き合い、手を携えて会社の業務に取り組めば景色は変わってゆくだろう。去ってゆくひとともこれで終るわけでもない。わたしにはまだ捨てる執着がある。それは子どものことと.......

 

六百六十六の昼   2004.12.23  小江戸

 仕事に毎日通うようになってから休日のうれしさは格別である。今朝も早くから鳥のように歌っていた。ケヴィンは両足のあいだに顔を埋め聞く振りをしているのか声が耳にはいらないようにしているのか、子どもたちはコメントもなし。長女と、わか菜と滑り止めに家庭教師の先生が奨めてくれた山村女子高校にでかけることにした。帰りに小江戸と呼ばれた川越を散策しようというのだ。
 
 女三人でかけるので大騒ぎでしたくして洗濯してゴミだしをして電車に乗った。大宮から埼京線に乗り換えるとすぐに車窓の景色は変わってゆく。川が見える。山が見える。一面の田園のそこここに民家が固まって点在している。寄り添って生きている人間のよりどころではあるが自然のなかで人間の建てた家は醜く見える。地球にとって疥癬みたいなものなのだろう。

 川越から乗り換えてひとつめ川越市駅から学校は徒歩5分、茶色の瓦が日に輝いている、なにか懐かしい感じのする学校だった、先生はとても熱心でわか菜は校舎をあとにする頃にはこの学校にしたいと言い出していた。近い公立のほうが安心だし学資もかからない、が私立のほうが先生方が熱心である。さぁどうしたものか.....

 市内観光のバスのチケットを買って、まずは喜多院へ....家光の乳母、大奥で権勢をほしいままにした春日の局の化粧の間があった。板張りの黒光りする廊下は氷のように冷たい。外で500羅漢を見る。羅漢さんのお顔を拝しつつ外周を廻ったが、内陣へ入ろうと踏み込んだ瞬間、どうしても入れない。重い圧がかかる....ここに入ってはいけないとすぐ退散した。境内で厄除け団子をいただいた。午後になって風が切るように冷たくなったが、風のあたらない陽だまりで緋毛氈にすわって食べるお団子は醤油がこげて香ばしくおいしかった。

  つぎに太田道灌が建てた川越城本丸を見学し、続いて美術館、博物館で静かな時間を過ごした。まりの希望で菓子屋横丁にまわり、駄菓子を買ったり、松本製菓のニッキ飴や「騙されたと思ってお買いなさい。国産のいもでほんとうに美味しいから」のことばに本場のホシイモも買った。家に帰って食べたら、ほんとうに美味しかった。そこで聞いた、喜多院近くのいちのやといううなぎやに行こうとしたが途中膝がいたくなって駅に向う。

 地元のひとは有名ないも......とやらには行かないそうだ。あとは魚屋という店が美味しいと聞いたので今度は寄ってみよう。今日は駅で大戸屋をみつけ、あたたかい食事をとった。大戸屋は手ごろで家庭的で好きである。わたしがゆくすえ一人暮らしをするようになって近くに大戸屋があったら、毎日食事をつくったりはしないだろう。川越はよい町だ。歴史があって、疥癬ではない建物がたくいさんあって、美味しいものもたくさんある。マルイで着た切りスズメの娘のセーターを求め、成城石井でチーズやサーモンやターキー、クリスマスのご馳走を買って、遅い帰還をした。娘たちとゆっくり話せてよかった。

六百六十五の昼   2004.12.22  石井くんのこと

 全体会議。面接。来客。領収書など整理。平成10年前のものはすべて処分する。 古い賃金台帳、かってわが社に存在した野球部の名簿、市内の野球大会で準優勝したのはまぐれとしか思えなかったけれど、いいチームだった。ピッチャーは背の高い石井君だった。

 いつもなにかに腹を立てているような顔をしていた。笑うとかわいかった。伸ばそうと資材係りという役につけた。ひょろひょろした高校中退のアルバイトの少年が社員になるとめきめき頭角をあらわしたくましくなった。昔の安全大会のビデオを見るとたよりなげにボソボソ意見を述べている。それが、一年後には、不遜とも思える態度で先輩たちにもバシバシ意見を言うようになった。なにが自信になったのだろう。

 あの頃、若い子たちが大勢いたけれど、わたしは石井君を見込んでいた。いつか会社の将来を託せたらと願っていた。けれど、彼は一年通信高校の日曜のクラスに通い、高校卒業の資格を手にし、去っていった。昨年、約束通り、結婚式に招待してくれたが、いつもなにか不穏なものを滾らせていた昔の面影はなく、穏やかな優しい青年がいるばかり。

 石井君が辞めてから、わたしは二年椅子をそのままにして待った。ちょうど二年後の平成8年6月30日...明け方夢を見た。石井君がしあわせそうに笑っている夢だった。青年に形容することばとも思えないがまさしく花のように微笑んでいた。そこでわたしは得心したはずなのだが、実はきのうまで待ち続けていたのかもしれない。

 中退金という制度がある。中小企業向けの退職金共済なのだが、わたしは10年とすこし、石井君の中退金を毎月毎月かけつづけてきたのだった。わたしはあの倣岸な怖いものなどなにもないという風情の少年が好きだったし、彼なら、きっと会社を揺るぎないものにしてくれるという確信があったのだろう。それはわたしを支えるか細い一筋の糸でもあったのだ。

 きのう、彼に手紙を書いた。中退金の事務手続きをとり、石井哲也の名のあるものは他の辞めていったひとたちのものといっしょに処分した。10年ぶりにわたしは風に向かって立っている。



六百六十四の昼   2004.12.21  ミラボー橋の下で

 今年も余すところ10日となった。確実にひとつずつやるべきことをかたづけよう。今日は会社でかけている保険の見直しをした。労災上乗せは二重三重にかけているが、医療保険までかける必要はあるのだろうか。節税、内部留保、退職金積み立ても兼ねているのだが、どうしたものか..........。

 時は過ぎてゆく、わたしは残る.......過ぎてゆくのは時なのか、わたしなのか.......覚醒してからの人生は気がつけば残り少ない......残された時間のなかでどこまでたどり着けよう....できれば残り香のあるうちに.....艶なるもの........戀なども語りたい......参加型の語りをつくってもみたい......自作の童話をパネルや絵本にしてみたい原初の神話.....天のものがたりを語りたい.......秩父事件を.....ひとびとの....地のものがたりを語りたい。 

 なにかを得るためには捨てねばならぬ。わたしはやはらかなとりとめのない...やさしさに似たみずみずしいものを喪ってゆくのだろう.......強い眼差し、あとには引かぬ強固な意志を手にするかわりに......それも詮無いことだけれど.....時間がほしい。


六百六十三の昼   2004.12.20  おばちゃん

 師走になると、おさだおばちゃんを思い出して鼻の奥がつんとする。ガレージの隅に漬物桶がひっそり置かれている。この桶はおばちゃんが長いこと使い込んで、師走になると塩や白菜や唐辛子持参で漬け込んでくれたのだ。ある日、おばちゃんは「洋子にこの桶くれべぇ」と云った。

 おばちゃんがあの世に行ってもう幾年たっただろう。おばちゃんとはけんかばかりした。弟の博志をかばってなぐられたこともあった。ある時などはほんとうに心底憎んだ。権威のあるものにへこへこするところもあったし、逆に啖呵を切ることあったし矛盾に満ちたひとだった。純なまっつぐなところと根性悪なところとキマイラのようだった。それでもおばちゃんは憎まれ口を叩きながらわたしのことを心配し愛しんでくれた。思い出すと涙がこぼれる。

 きのう川村さんは「芦刈の歌」がすきだといってくれた。澤田さんはほうすけや「おとうちゃまのこと」がきにいっているらしい。わたしは来年、ガールスカウト埼玉連盟の総会のあとで語るおはなしのなかに「おさだおばちゃん」を加えようと思う。その日は命日の翌日である。それから群馬で「秋黄昏て」の前座の語りをするときに、澤田さんや川村さんにおばちゃんの人生を受け止めてもらえたらと思う。澤田さんは脚本を書きなさいよ..と云うけれど、わたしにはまだ脚本は書けない。ただ切なく愛しい忘れ得ぬひとたちのエピソードを綴っておくことならできるだろう。

 会社で年賀状をつくった。日報の整理3日分、20日の支払いを済ませた。なにをしたか思い出せない雑事の山をひとつひとつ、かたづけてゆく。そのそばから新しい山がまた積まれてゆく。シーシュポスなのだ、人間はすべからく。頂上に荷い上げる石塊はけれど同じようで同じではない。

 刈谷先生の今年最後のレッスン、イタリア歌曲とオペラは散歩と駅伝くらい違う。オペラのアリアにはスピードと緊張があり、フォームを保ったまま疾走する。先生はスポーツもオペラも(語りも)フォームを崩してはだめだという。川村さんは語りはカタチではないという。まったく相反することを言っているようで実は違う角度から見ているだけのような気が、はじめてした。軟口蓋の天井を高くして発声する、落としてはならない。頬の筋肉を固め、美しい表情を保つ。からだもどうように無用な力を入れない。

 語りも自然体である。わたしにとって語りのフォームは自分を空にし余計な感情や我を入れないことにある。ものがたりに捧げる。ものがたりのいれものになる。(ものがたりは)魂やからだをとおってくるのだから、おのずと自分のいのちはにじみ出る。あえて自分を表現しようとする必要はない。そして天意、人のこころに添うものがたりであるなら、語り手といういれものは生き死にしたひとたちや、天上のはるかな懐かしいものに満たされることさえあるのだ。見えざるものと聞き手をつなぐ強靭でしなやかな一本の糸になり得るのだ。



六百六十ニの昼   2004.12.19   パンプスで

 具合がわるかったので座の練習は休んだ。開智高校の相談会も行かないで、わか菜の希望で23日に山村女子に行ってみることにした。むすめたちとネットの探検をし、ヴィンテージ(外国の古着)ノサイトでドレスやジュエリーを眺めて遊んだ。その影響だろうか。夕刻久喜座の忘年会、パッチワークのパンツにこのあいだ買った東欧のアンティークぽいラインストーンのイヤリングとネックレスをつけたらミスマッチといわれたので、黒のアシンメトリーのドレスにパンプス、盛装で居酒屋に行くことになってしまった。

 車を駐車場に入れて舗道を歩く。ピンヒールがロングドレスの裾を踏みそうだ。さすがに駅を通り抜けるときは恥ずかしかったけれど、冷たい風のなかを映画のヒロインみたいにドレスを翻して歩くのは気持ちがいい。埼芸の川村さんと中山さん、久喜座の澤田さん、江原さんたちがきていた。まだ半分しか集まっていない。光太郎の恋パート2の講評や演劇論、ベトナムで地元の役者で夕鶴をすることなど話はつきない。ひとことずつ話すなかでわたしは率直に、かずみさんの入院などで公演に参加できなかったことをみなさんに詫びた。

 往年の名優、滝沢修、奈良岡朋子、芥川比呂志の舞台をつぶさに観た話、みなが葬式で泣く場面で芥川はあかんべをしたが、それがなにより観客の胸を打ったのはなぜか.....栗原小巻の櫻の園での名演などを聞いた。5時間半もの忘年会のなかで、川村さんと澤田さんとこんこんとわたしに、外部で語りを学ぶ必要がどこにあるのか、みなで芝居をつくっていくなかできづいたものをそっと聞き手に差し出せばいいではないか、おばあさんたちや子どもたちに語ってゆくなかで学べるのではないかと話してくれた。語りはだれからか教えられるものではないという。おふたりとも、わたしの語りを認めてくださって、そういってくれるのがよくわかって、うれしいようなもったいないような気がして震えた。

 わたしは、久喜座が座付き作者を持っていることがどんなに意味があることかと思う。チェーホフだって井上ひさしだっていいけど、澤田さんの芝居、澤田さんのメッセージをエンターティンメントにくるんで、涙と笑いのなかで伝えてゆくのだ。久喜座は台詞はぬけるし、こけるし、上手「ではないけどあったかい。澤田さんはなぜ、芝居をしたいのかひとりひとりはよく考えてくれとも云った。わたしは天につながる感じがするから、芝居がしたい、だれかの命を生きることができるから、自分がいなくなるから芝居がしたい、そして仲間とみなで芝居をつくる、観客と場を共有する喜びのために芝居がしたい...........。

 8月、二度の公演、わたしは20分ほどの語りをすることになった。


六百六十一の昼   2004.12.18   違う

 わか菜の私立高校の説明会に行った。長女のときも受けたのだが偏差値があがっているのにびっくり.....、普通科は67〜56なのである。少子化により私立高校は冬の時代うを迎えるが、学校の取り組みしだいで伸びるところは伸びる。受験者4000人、倍率8倍だそうだ。

 懇意の尊敬する語り手さんのおはなし会だった。お弟子さんも大勢おられる方だった。最初の司会から軽い違和感があった。それから聖歌.......うわべだけの発声だった。おはなしはさすがにぐいぐい引き込んでいく。けれど、なにかが違う。上手いけれど.....響かない、刺さらない。前回聞いたとき、幼女の声に思わず泣いたが。今回はおなじおはなしでそらぞらしい感じがした。帰りながらなぜそうなのだろう。すっきりしない、あたたかくないのだろう....はたと思いあたったのは三人に共通する作られた感じだった。

 下手でもまっすぐなことば、語り手の魂そのものから滲むことばははひとをあたため、ひとの心に響く。なにをもって聞き手に接するか..........である。高ぶるのではない。が、矜持の高さ、格の高さは語りにあらわれる。そして寄り添うことはおもねるのではないのだ。 わたしはほんものをめざしたい...と心底思った。カタリカタリのことも思った。一緒に学んでいるひとは、どれほど質の高いレッスンをしているかわかってはいないだろう。わたしはひとを育てたいけれど、もっと自分を育てたい。なぜならメンバーのだれより熱い想いを抱いているのはわたしだから。

 そして、目指すはプロとして通用する語りであるが、語りを生活の資にはすまいとも思った。........わたしはそんなに強い人間ではないからだ。お金をいただくことでよりよいものを提供しようという思いも生まれようが、また、ある意味で語る自由を奪われるような足枷が纏わりつくような気もする。

 


六百六十の昼   2004.12.17   感謝状

 今日は介護保険が導入されデイケアサービスがはじまって5周年のセレモニーがクリスマス会とあわせて行われた。市長や議長、デイケアのスタッフ、市の職員、高齢者のみなさん、ボランティアで会場はいっぱいになった。そこでボランティアのひとりとして感謝状をいただいた。

 市内10箇所のデイケアのうち5つ顔を出しているので、知り合いがおおぜいいる。先日の太田小のグループから「先生。楽しかったね、今月はもう来ないの?早く来てよ」といわれうれしかった。楽しいエクササイズやおはなしをつくらなくては......。それから同じボランティアのマジシャンのご夫婦とお近づきになり簡単なマジックを教えていただいた。

 町でもふたりの方から声をかけられた。こちらが知らなくてもステージをみてくださったかたがたが声をかけてくださるのだ。もう悪いことはできないなぁ.....値切るのも.....怒鳴るのも....だんだん窮屈になるなぁ

 午後は浦和。未収金が回収できた。そして、今日は七回忌。



六百五十九の昼   2004.12.16  発表会

 朝、起きてPCのなかを覗いたら、もうひとりの事務員さんから体調がわるいので暫く休みたい旨のメールが届いていた。今日はふたりおやすみ、不慣れな方がふたり留守番となる。心配だがしかたがない、わたしは会場に向った、街路樹のプラタナスの根方に一叢の水仙が咲いていた。こんなに早く....風に吹かれてたよりない冬日に照らされて...これから冬がくるというのに。

 かざりつけ、セッティング、発声とゲームをして、はじめて語るメンバーの緊張をときほぐす。なかには語りを知ってまだ二ヶ月のメンバーもいるのだ。お客さまが見える.......ただでさえ忙しい師走にわたしたちのおはなし会に.......

 なにも言うことはない。みな素晴らしかった。自然でおおらかで、だれかが言ってくださったが、からだからにじみ出るような語りだった。最初は自分のリサイタルより緊張した。わたしは司会と三番目のおはなしだったが、会場が硬かったので、とっさに「第二楽章」(原爆詩)から参加型のおはなしにかえた。それから空気がかわったように思う。ことに後半は息もつかせぬおもしろさだった。7月ころ入った神さんが爆発した。神がかり的な語りだった。みな爆笑につぐ爆笑.....原田さん、庄司さんも最高の語りだった。そして佐々木さんも。

 研究セミナーのみなに聞かせても遜色ない語りの会だったと思う、語り手も聞き手もともに堪能したのしんだ。トムの会のかたがたは語りを知るがゆえにこそわかるのだろう。驚き、喜んでくださった。どのようなエクササイズをしているのか聞かれたので、テキストにたよったり、文字を暗記しないようにしていると答えた。そう、感覚を磨いたり、みんなでひとつのものがたりをつくったり、声の響きを確認したり、腹式呼吸の基礎をしたり、おおかみとあかずきんになりきったり、なんてたくさんのことをしてきたのだろう。櫻井先生においでいただいた講義では民話について学ばせていただいたし、創作手袋人形をつくったりパネルシアターをつくったり、走馬灯のように目に浮かぶ一年.....

 ひとは本来語るものなのだ。そして今日気づいたことがある。素直なひとはいい
。すなおなひとの語りがわたしはすきだなぁ。いいメンバーに恵まれている。このなkまたちと伸びてゆこう。わたしも負けないようにしよう。トムの会のひとたちが帰りがけに云ったように久喜を語りの町にしよう。



六百五十八の昼   2004.12.15  辻褄

 なんとか辻褄を合わせ、努力して成果をあげたときはそれに報いるという新しい給与体制の第一歩となった。1時半の給与振込み締め切りなのに、社会保険調整や給与を決めるのに手間取り、2時近く、窓口に頼み込んで振り込んでもらった。ほっとした。10日の支払いは見習いの事務員さんとわたしと銀行の担当さんとの合作つぎはぎだったが史上最悪、三軒の二重払い、二件の漏れという惨憺たるもので、古参の事務員さんふたりから「それ、見た事か」という雰囲気が伝わってきた...ように思う。ひがめかもしれないが。

 そう思われてもしかたがない。が、過払いは返してもらえるし、これで振込みはあきらめてネットをつかうことに決心がついた。「わたしにできる」やりかたに切り替えてゆこう。この日、事務員さんのひとりに12月でおわりにしましょうと話すことができて、ほっとした。もともと12月で辞めるとは本人が言っていたのだが、「会社が困るのは目に見えているので、このまま手伝いたい、ただし雇用保険はいただきたいので偽名で働かせてもらうことが条件だ」という申し出があったのである。ありがたいにはありがたいがなめられたものだ。労務事務所が入っているのに法律に反することができるだろうか。

 今日も夜中になったが、しだいに書類が整理されてきて気持ちがいい。帰ってすこしばかり練習。


六百五十七の昼   2004.12.14  生き残るひとは

 ガスター10のおかげで、暮らしている今日このごろ、トムの会に顔だけだし、銀行に行き 来客とTELと....ひとをつかうってあぁたいへんなことだ。かといってひとりではできないし、おととい11時も近くなって一昨年辞めたkさんにTELした。あいかわらずやさしい声だった。

 わたしはしばらく前Kさんのことばかり考えていたときがある。その時分思いが通じたように突然Kさんから手紙がきた。返事を書こう書こうと思いつつどうしてもかけなくて、とうとうはじめてTELをした。Kさんは今熱川のほうでマンションの管理人をしている。「こちらへきて、どんなに自分がよくしていただいていたかわかりました」とKさんは沁みるような声音でいった。...そうKさん、わたしも、あなたがどんなにたいへんだったかよくわかった....あなたのやさしさもよくわかった。

 それを告げて、すこし胸のつかえがとれた。ほっとした。佐々木さんの語りを聞いて、夕べ第二楽章から詩を二編、胸に納めた。カタリカタリの発表会で語ってみよう....

 逝ったひとは、もう戻れないから
 逝ったひとは叫ぶことができないから

 生き残ったひとはどうすればいい
 生き残ったひとはなにがわかればいい.......


 
六百五十六の昼   2004.12.13  溢れる

 午前中、わか菜を病院に連れていった。午後はカタリカタリの発表会のリハーサル。オーナメントや花かごでお部屋の飾りつけをして、はじまったのは1:40.前回よりずっとずっとよかった。飽きることがなかった....けれど最後の佐々木さんのぬくい山のきつねが出色だった。涙が溢れた....ものがたりも心に沁みたけれど、悩みながらつづけてきたカタリカタリの活動が無駄ではなかった。方向性は間違えていないと心の底から信じられたからである。

 無理にとはいわないが、自分を解き放ち、他者を受け入れる努力をしないでひとのこころを揺り動かせるはずはない。自然にそれができるひともいるし段階はさまざまであってよいが、ただ技術だけでたどりつけるところではなく、まして上手く語ろうとして届くような境地ではない。

 わたしも勇気をもらった、語りたくなった。溢れてきそうだ....ものがたりが..........

朝の誓いは、どこへやら、たいらに仕事をするはずが 帰ったのは夜中の1時、さぁ、どうしよう.....なにを語ろう......  



六百五十五の昼   2004.12.12   たいらに

 行きたいところ、やりたいことも多々あったが、なにもしないで子どもの話を聞いたり、テレビを見たりして一日を過ごした。カリブの海賊を見た。ジョニー.デップはすごい。ものがたりの登場人物そのものになる。隙間が一ミリもない。役者になるならあのような役者をめざしたいし、語り手としても、地の語り、台詞を含めてものがたりそのものになりたい。ものがたりごとに語り口調はかわっていくはずだ。もっともっと年がいって、語りばぁさんになって、存在感が増した頃、わたしが語るものがたりはわたしそのものとひとつにとけあう.......そういう語りができればいい。


 今週からもっとたいらに仕事だのなんだのしてみよう。13日、リハーサル、14日トムの会、連絡会、15日給料日、16日カタリカタリ発表会、17日、デイケアのクリスマス会...18.19 座......そして.....




六百五十四の昼   2004.12.11   図書館で

 きょうはやすむことにした。痛みがはんぱじゃなかった。朝、わずかな時間やすんで朦朧としたまま目覚めたら7:40、あわてて次男を起こしたが起きない。1時間半も押し問答してあきらめる..という最悪のパターン、桶川の現場に行って詫びた。親のわたしではわがままがでるから仕事の話は直接してもらうことにした。

 久喜座の澤田さんのご母堂の葬儀に遅れ、どうしようかと思ったが門送りだけでも....と出かけた。宮代は久喜とくらべておっとりした田園風景がつづき銀杏の黄色があざやかだった。澤田さんが住職を務める金剛寺は晩秋の風景にひっそり溶け込んでいた。空は青く、三人のこどもを育て上げ、気丈に生涯をおくったひとの終いに相応しく、哀しみだけでなく清らかな満ちたりた気もただよっていた。

 午後図書館でおはなし会、司書の服部さんのリクエストで「ハリーのクリスマス」を読み、最後に輪になってゲームをした。今週は4回のおはなし会、毎回これでいい...と100%いえることはないのだが、すこしずつすこしずつ、交流が深くなり、聞き手が一歩一歩踏み出してくださるようになり、それはわたしがすこしでも変わったからだろうか。




六百五十三の昼   2004.12.10   行きつ戻りつ

 10日の支払いが了る。声楽のレッスン、一日間違えていて、刈谷先生に叱られた。9日だったのだ。9日は午前中、銀行の岩田さんと振込み書の付け合せ、午後はデイケアであたまがいっぱい、2日潰瘍の痛みでほとんど眠れなかったから....ということもあるのだが、そんなことは理由にならないから謝るだけだった。夕方ふたたび先生はレッスンをみてくださった。こんどはご機嫌だった。

 かずみさんにも朝8時に行って5時に帰るような仕事をしろといわれたが、みんなが戻ってこないのに帰れるものでもない。潰瘍の原因はわかっているのだが、ひとがからんでいるから、解決がむつかしい。


六百五十ニの昼   2004.12.9   ふたたび

 青葉のデイケア......三年目になるので出しものがむつかしい。山下さんのWSでした手渡しゲームをした。輪になって右から順にハイっていいながら手を叩く、しだいに早く、それから今度は左手にむかってどしたの?とまわす。とちゅうで自由に向きをかえる。なかにはこんがらかってしまうひともいて大笑い。ところが、ところが、さすが人生の荒波越えた高齢者....ハイハイとかどしたのさとかことばがどんどん変わっていってまったくちがう遊びになる。みんなで熱くなってとても楽しかった。おはなしはおまけであった。夢のはなしでもりあがった。

 夜はしごと....どこまでつづくのだろう。



六百五十一の昼   2004.12.8   デイケアで 

 はじめて太田小のデイケアに行く日、間違えて青葉に行ってしまった。誰もいないのであせりまくって市役所にTELした。10分遅れて到着、ストーブのまわりで、手遊びから.....みなさんにとなりのひとと情報交換して、となりのひとの紹介をしてもらった。忘れちゃうから早くして...の声にみなで和気藹々と爆笑もまじえながら他己紹介をしてもらった。メンバーとボランティアさんと10人あまりのグループである。それからお茶をのんで、太郎と山賊をした。ジャックと泥棒の高齢者バージョンである。山をのぼり山をくだり、からだが熱くなって、みんなの鳴きまねがまぁおもしろくって指導員の加藤さんはじめ、笑いながら噴出すのをこらえながら大冒険をした。小判をもらったみんなのうれしそうだったこと......こんな楽しい語りがあるなんて知らなかったと年長のボランティアさんの声。

 帰り。教室の窓からみんなが両手をふって見送ってくれた。ちょっと自分の気持ちをかえるだけでこんなに違う、喜んでもらえる。わたしはひとつの輪でいいんだ、みんなと繋がってゆく.....ひとつになる....それは自分を無くすことのように見えてそうではない。喜びとほんとうに自分にであうこと。


六百五十の昼   2004.12.7   明日は

 夕べ、アベちゃんからSOSが入って夜会社に行った。アベちゃんはK建設から頼まれたH14年度工事の資料を出そうとしていたのだが旧システムが見つからなかったのだ。思ったとおりサーバーのなかにあった。あたたかい肉じゃがと赤飯をアベちゃんに届けられてよかった。すこし話をした。すると外が騒がしくなり、なにかと思って 倉庫に行くと、ライン班が夜勤に行くところだった。

 1時までわたしも仕事をすることにした。あべちゃんから頼まれていた名刺の作成、日報の整理、出勤簿の記入、健康診断の結果を社員ファイルに転記する。面白いほど仕事がはかどる。ひとりならば.......でも仕事はひとりでするものではない。せめぎあってぶつかりあって、それでもひとのために、ひとが楽になるようにするのだ。はたらくとははたを楽にすること.......なんだか胸のつかえがすこしとれた。夜働くひとがいて、事務所でパソコンに向うひとがいて、営業で頭を下げるひとがいて、会社は動いてゆく。

 ならば、みながはたらきやすいように、もうひとつ心がけよう。交わすことばに、手渡すひとつの仕事に想いをのせよう。譲るということにこだわらないで....自捨とは自分をなくすことではあるまい。ひとを活かす氣、.工夫..すると己も生きるのではないか?



六百四十九の昼   2004.12.6  迷い

 とことんひとに譲ることが譲りきることがわたしにできるだろうか........我を捨てることができるだろうか........執着さえ捨てれば苦しみはない。人間関係のなかで惑うこともない。朝、小学校のおはなし会....少女がひとり気になって.....浮いていることが一目で見てとれて......一年生のそのクラスで帰り際思わず肩を抱いてしまった。青とピンクのジャンパーのしたの思ったより華奢な骨組みが今も掌に残っている。
 


六百四十八の昼   2004.12.5  朝の虹

 名古屋にて東の空に太陽は昇り、北西の空に虹が昇った。台風一過の青い空、雲は奔る。子どもらはちいさな竜巻に吹き上げられた木の葉の渦を追って走り回る。子どもと風はなかよしだ。わたしはひろいひろい駐車場で歌をうたった。だれも聞いてはいないうた....


六百四十七の昼  2004.12.3   やっぱり

 チョコレートでは潰瘍は治らないようだ.....
     
六百四十六の昼  2004.12.2   パートU

 偏頭痛がひどく足から寒気があがってきて胃がイタクて、ここで倒れたらたいへんなことになる.....と必死で祈った。 銀行の駐車場でシートを倒して、携帯でだれに助けを求めよう、だれかの声を聞けば立ち上がれるだろうか...と逡巡していたら、呼び出し音がなった。ダリだった。池袋に向っているから、こないか...というTEL......このあいだのTELといい運命的なものを感じる......たちあがって銀行その他用事をすませた。ひとことのあたたかい声で疲れ果てていてもひとは立ち上がれるのだ。

 事務所に戻ると入出金予定ができあがっていた。予期したとおり、最初出された悲惨な状況とは遠く、給与を支払っても充分余力はあった。が、実際見たことでほっとした。心なしか頭痛も胃痛も軽くなった。結局、池袋で寺島さんに出会うことはできなかったが、8日に会う約束をした。

 夜、久喜座の例会に3ヶ月振りに行った。20日の光太郎の恋パートUが終ったところでみな顔が明るかった。結果としては出演を蹴ったようになり、溶け込むまでは居心地がよくなかったが、湯沢さんのフォロウがありがたかった。実はさきほど公演のビデオを見終わったところなのだが、いい脚本だった。動物園物語や自分の耳のように格別感受性の鋭い人間を描いているのではないのだが、テーマはやはり存在と救済である。生の苦痛そして生命の輝きである。

 澤田さんがわたしに書いてくれた役はいうなればリア王の長女ゴネリルだったおもしろい役だった。欲望と底にある寂しさ、サラ金から借りまくり装飾品で身を包んだ手前勝手ないやな女になって、なおわたしは観客を味方ににつけてみたかった。澤田さんに悪かったと思ったが、引き受けても結局諸般の事情から、投げ出さざるを得なかっただろう。これでよかったのだと思う。また、いつかチャンスはあるだろう。


六百四十五の昼  2004.12.1   赤毛

 時間がすこしあったので4ヶ月振りにガロ浦和店に寄った。野田さんがいた。髪が悲鳴をあげていますよ」ほんとうに蓬髪は梳くだけで痛い。痛んだ髪を切り、追い討ちをかけるように脱色してメッシュを入れる。こころのなかでごめんねという。オレンジとところどころ赤の派手な髪の色、戦闘色だ......と思った。

 概ね温和な性格...(と本人は思っている)けれど相手と気分しだいでい辛らつかつ攻撃的になりうる危険性があるから普段自重しているのだが。昨日は歯止めが利かなかった。もともと苦手なタイプで我慢(たぶん向こうも)していたのが、きのうはあまりうざったいのでドカンとやってしまった。「一度、おっしゃっていただけばわかりますよ。何度も言われると不愉快です」そして最大の侮蔑は無視である。やってしまったことはしょうがない。わたしは言わないがあちらはしゃべりまくりたぶん狭い社会で知れ渡るだろう。

 あぁ 赤毛ってそうだっけ、気短で爆発的なのだった。アイルランド万歳!! ??


六百四十四の昼  2004.11.30   ヤッホー

 と叫びたい衝動。M建設が50万円持参、今年の一月の工事の不良売り掛け債権の回収である。若い社長や盲目の会長と話してすこしずつ返してもらえるようになった。強引な手段をとったり、あきらめたりしないで話し合いで解決できるのはいいことである。ただしすこしばかりおどかしたことも事実.......

 その2、7.8.9.10の損益が出た。やはり、惨憺たるもの前年比25パーセント減だった。仕事もなかった、けれど会社の混乱が最大の原因だと思う。弟は7月末に辞めたが5月からやる気がないのはわかっていたし、社内が沈滞していた。一番のポイントは気力.....明るさ.....そこなのだ。.私自身真剣に取り組みだしたのが10月の末、結果ははっきりでている。新態勢のもと、みなのやる気が起こり活気がでてきた。11月の損益を新システムで出してみると、これホント!?と思うくらい、いい線いっている。もっとも、かかった費用が全部入力されているかいなかは請求書と照らし合わせてはっきりするし、値引きも起こるから正しい損益は一ヶ月待たないとわからない。

 これからなのだ、計画、実施、見直し、結果をフィードバックするの連環、これができれば理論上は螺旋を描いて上昇するのだが.......職務の見直し、文書管理の再構築、代価....流れをつくること......1日は浦和に行く日。

 夏夢のプログラム、夕日と夜のあいだの暗い森、絢爛?のイメージはあるのだが、時間がない。土曜日までにできるか.....今日は三社面談、私立を決めなければ.....北辰の申し込み......も....スーツを着て学校にきてくれと娘がいうので、昼食も食べずに着替えていった。20分も待たされたので廊下で歌を歌った。おかあさんはかっこいい...と娘に言われてホクホクしたが、夜は感性について激論を交わし、もっとひとに伝えようとしてギターをひきなさい......とこのあいだの発表会言わなかったことを言ってしまった。...で娘を泣かした。



六百四十三の昼  2004.11.29   昇ったり落ちたり

 今日、パナックのタガタさんがきた。文書管理ソフト文楽のインストールとシステムの手直し....やった!ようやく動き出した。すごい!即行損益が出る。そして土木も代価を入れながら実行を組んでいけば......歩係りも出る。それから見積もりを出すのが正しい成り行きだと思う。これで会社も変われる!!と喜んだのも束の間、わたしは現場のことがよくわからなくて歩係の出し方がよくわからないのだった。文書管理の方もファイルの作り直し...でジェットコースターのように高揚したり消沈したりしている。

 さて、きのうのマッキーことまきむらさんとの午後の逢瀬だが、話があっておもしろかった。まきむらさんはヒロシマにちんちん電車の鐘がなるのひとり芝居を上演してこられた。資金がなく今年はもうだめかなとあきらめようとすると、どこからか声がかかり、上演をつづけることができたという。蒔村さんの背をだれかが押しているのだ。芝居だとお金がかかるし、一度疲れたとき、芝居をしないで語ってみたら、イメージがわいたので今度は語ってみようか...と思っている...という蒔村さんのことばに頷くわたしだった。

 子どもたちになにを伝えたいかということでも話があってなんだか世界がひろがって明るくなる気分だった。気になったのは「森さんは語りをしていると聞いたので...........のロミオになるかと思ったが、とても自然なので......」というくだりで語り手ってそんな風に思われているのだろうか.....とちょっとがっかり.......結局2時間半おしゃべりして気が大きくなってグリーン車で帰った。それからひさしぶりに料理にウデを揮い、デザートに林檎のコンポートをつくったが。電動泡だて器もふつうの泡だて器もみつからず、次男に電動の4枚刃を手動で動かしてもらって生クリームをあわ立ててもらった。

 ブランデーを紅茶に入れて、Take5やLeftaloneやWork'in 仕上げにケルンコンサートを聞いた。仕事の合間の休日は前よりもっと中身が濃い感じ、いい一日だった。







六百四十ニの昼  2004.11.28   チケット

 二ヶ月振りに50歳からのシェークスピア...のワークショップに行った。夏夢の練習がはじまっている。11月の練習場所は国分寺の会議室で間違えてドアを開けたら壌さんとバッタリ目があった。頼んであった蜷川ロミオとジュリエットのチケット3枚がきていた。楽日の前日の27日、前から五番目のプラチナチケットである。読み合わせをしたがわたしは上の空で台詞がとんでもないところに飛んでしまいやる気のないのが露呈してしまった。正直 あまりおもしろくない。真夏の夜の夢っておもしろいと思ったことはないし、はっちゃけてドタバタやりたい放題しなければ素人の夏夢なんか.....と思った。胃がイタクなったのでコンビににチョコを買いに行っているあいだに壌さんはロミジュリの稽古に行ってしまった。

 あとで話をしましょう...といわれてたのでちょっとがっかりした。今日は以前お願いしてあったことの答えを聞きたかったのだ。稽古が終って打ちあわせがはじまった。衣装とか小道具の係りを決めた。休み時間に古着屋に行く話をしていたので仲間のひとりが森さんも..よと声をかけてくれた。休んでいたので2.3なにくれと気をつかってくれるひとがいる。ちらしやポスターの制作もみなさんのなかからと言われた。質問するとフルカラー!だという、つくってみようかな......と考えていたら、山下さんから1000人の劇場を借り切るのでそれだけで100万円かかる、単純計算で2500円のチケットをひとり40枚売るというような寝耳に水の話が出て、「ちょっと待ってください、わたしは40枚チケットを売る自信はありません。2500×40でひとり一律十万円の負担といわれても困るし、そういうことはメンバーと相談して決めてください」と意見をだした。すると一律に負担を強いることは考えていない。メディアに働きかけましょう。とにかく客を呼べる芝居にしましょう....という答えだった。月に一度しか行かないわたしが言うことではないが、はっきりすべきところは早いにこしたことはない。

 帰り際、その蒔村さんから声をかけられ、国分寺駅前、降りたとき目をつけていたARKホテルのカフェに誘った。壌さんから話を聞いてくれといわれたのだそうだ。.....わたしは来年の一月、第二楽章ヒロシマから「うめぼし」を語る予定だが、ガンスというヒロシマ弁の発音がわからなくて蒔村さんに聞きたいとも思っていた。蒔村さんはチンチン電車というひとり芝居を演じつづけている。テーマはヒロシマ......それで郷里がヒロシマの方ではないかと感じていたのだ。

     この項つづく

六百四十一の昼  2004.11.27   へこむ

 なにもかもうまくいきそうな時となんて無謀な無駄なことをしてるんだとへこむ時が交互にくる。システムがうまくいかない。パナックが送ってきたプログラムをインストールしたらシステムが動かない。前のバージョンをインストールしてもだめでインストールできなかったノート二台とわたしのしか使えない。みんな日報入力に困っている。わたしは針のむしろ。


六百四十の昼  2004.11.26    ストーブ

 灯油ファンヒーターを買ってきた。最新型である。ようやく酷寒から開放されると思ったら灯油がなかった。ベランダに居住しているテリーが寒くて千してある洗濯物を引っ張りおろして暖をとっているので、古い毛布をさがしてやった。すると、押入れのなかからガスファンヒーターと去年買った灯油ファンヒーターが出てきた。

 ヒーターが三つもあるのにつながらないし、灯油はないしで、これってまったくないより悲惨なんじゃないかと思う。

 ありったけのろうそくに灯をともして焔をながめていた。あたたかくはないが、あたまのなかがじんとなつかしいようなはばたいてゆくような気がして、鏡にうつる焔とろうそくの焔に囲まれ見詰めながらいくつかの物語を語ってみた。それからCDをかけて時は過ぎ行くだの、サンジャンのわたしの恋人など歌ってみた。

 ろうそく生活にみなが戻ったら?  地球温暖化は緩和するだろうか.......



六百三十九の昼  2004.11.25      そのうちひとつ

 幻想文学はファンタジーの一分野でもある。ひとの手による作者の固有の世界である。しかし、それは神話、伝説、民話の大地から隆起した山脈なのだ。登場人物は神、妖精、天使、人狼 ありとあらゆる異形のもの、ありとあらゆる異質なもの.....裏側の見えざる世界と現実の散文的な世界のよじれた通路や、昼間と闇の隙間の黄昏時をとらえたようなものごとが書かれたものがたり.....のようにわたしは考えている。

 ゴシックや狂気や呪いをあつかったものはそう好きではない。負の部分、もうあきらめて闇へ堕ちてしまったのは読みたくはないのだ。

 一番さきに思い出すのはフィリパピアスの「トムは真夜中の庭で」 トムは時空を超えて少女とであう。夢の世界で少女は少年を追い越して成長しそれととものしだいに影がうすくなってゆく。そして、とうとう現実の世界でトムは........読んでいらっしゃる方はおわかりだろうけれど、ふたつの世界、現実と夢は重なり合い邂逅し抱きあう。そしてこの物語は少年の成長の物語でもある。

 ピアスは黄昏のうちでも太陽の光とぬくもりがまだ残っている時間の作家かもしれない。飛ぶ船、メアリ・ポピンズ、砂の妖精、しだいに日は翳りゆく。ガーナーの三部作やマクドナルドの美しい物語、そしてバリのピーターパン、指輪物語、ナルニヤ国......こうしてならべて見るとものがたりが作者の夢そのものであるのがわかる。

 おとな向けにはタニス・リーやジャック・フィニー、ゴーチェ、ブラッドベリ、ギャリコ、ネイサン、など数多の宝石のような作家やものがたりがあるけれど、そのうちひとつと問われればわたしは児童文学なら「トムは真夜中の庭で」  おとな向けならル・グインの作をとる。ゲド戦記やサイエンス・フィクション、なかでも「闇の左手」を。
 なぜならそこに生きる意志を感じるから、カーテンの蔭のクッションに顔を埋めて夢想にふけるより、たとえかなわぬとしても現実に抗い、見えないアルカディアをめざすことを願うから..........
 ふたつのものがたりに共通するのは、時空や性を超えた本質的な愛そのものだった。たぶん世の中を変えてゆくにはそれしかないのだろう。

 駄文を書いているうち、幻想文学は世をはかなむ者が読むのではない、現状にあきたらない者、不思議を信じる者、理想を求めるロマンチストの読み物であるような気持ちがしてきた。そうだ、まだ遅くはない。世界は変わり得る。

 

六百三十九の昼  2004.11.24    プリズム

 ネットの古本屋に頼んでおいた本が届いた。なんと九州の古本屋である。そこは創元やハヤカワの昔のファンタジーやゴシックロマンやミステリ専門の古本屋でどうやら店主の好みの品揃えをしているらしい。

 ネットが普及して、便利にはなった。わたしは新刊本の本屋より古本屋が好きであった。あの埃っぽい、西日こそふさわしい本屋で、わたしに囁きかける本たちを手にとるときめき.......知らない街に行くと探すのは古本屋と喫茶店、できればジャズ喫茶........足が不自由になってからは探し回ることもなくなったが、指先と背表紙がふれあう官能的とも いえる一瞬。憧れと痛みと暗闇と光が交叉する一瞬を愛する。

 ところでイギリス幻想文学必携を見ていたら、幻想文学の煌びやかな諸相のようにわたしが幻想文学にひかれるものも分光された光のように種々の相があるのだった。フェアリーのFeとは運命であるという。フェアリーとは駆逐され見捨てられた神々......キリスト教の一神ではなく、かって地上にはすべてのものに神が宿っているとされた。日本の八百万の神々もそうである。深山に行くと今でもある畏れと霊気を感じるのはわたしだけだろうか。話は変わるが、京都大学で国の後押しを受けてスピリチュアルエデュケーションについて研究がはじまるという。東京大学においては死後の世界?についての研究がはじまるかすでにはじまっているそうである。科学の名のもとに切り捨てられていた見えない世界にようやく目が向けられるということか.......されど霊的な.....ということばがなぜ使われないかこのあたりが味噌ではある。

 霊とは胡散臭いことのように思われているのだ。しかし人間から肉体をのぞけば残るは霊性である。心とはその働きに過ぎない。幻想文学とはわたしにとって宗教を抜きにして、見えない世界をみる鏡のようなものであった。再話者、作者というプリズムを通してあちら側を見る、ときには悪夢、ときには清新の極み.........であった。

 ブレイクの横溢こそ美しいも真実ならクリスマスキャロルのつましい幸せも真実だった。ドリアン・グレイの肖像のおぞましさと美、西風の賦の清新、タニス・リーの妖艶、失われた地平線や緑の館の桃源郷、革の漏斗や異次元を覗く家の嘔吐感、北風のうしろの国もブリジンガメンの魔法の宝石もみな幻想文学なのである。   この項つづく


 

六百三十八の昼  2004.11.23    一音

 朝 風呂のなかで発声をしてみた。通常の腹式の発声と倍音、反響する風呂場のなかでふたつの発声の特性が明確になる。ハイということばを発すると倍音の場合、音は一直線に進み壁に跳ね返り、金属的にさえ聞こえる。同じ音階で同じ強さの音を繰り返し発することができる、つまり安定している。....が抑揚をつけたりニュアンスをつけるのはむづかしい。腹式では倍音ほどクリアーな大きな声は出ない。しかしコントロールは可能である。倍音でコントロールできるようになれば舞台ではそれがいいのだろうが、語りでは押し付けがましく聞こえはしないか。あとでテープにとって聞いてみようと思った。

 午後はわかなの通っているユアギタースクールの発表会だった。おなじギターの音がこうも違う。ポツンポツン爪弾く初歩から中級者は旋律になってゆくのだが、上手下手に関わりなく、語りかけてくる音色とただの音とがあって、わたしは耳を澄まして聞き入っていた。しんと静まった深い森、さざなみ寄せる大河、夕暮れの群青にかわりゆく空、星辰が浮かんだ。壮麗な大伽藍が浮かぶこともあった。艶やかな音色にわたしの体内の弦が呼応する瞬間もあり、突然悲哀が圧し包みわたしをはるかな岸辺に運ぶ刹那もあった。

 主宰の関口久男さんのギターは一音、一音が透明だった。純粋な音がつらなる、音が置かれるその場所は唯一無二の場であってそこしかない。その場所に一音が置かれる。官能や叙情のつけいる隙間のない計算しつくされた場なのである。その心地よさ.........わたしは「訓練のたりないひとほど叙情に走り勝ちだ」という刈谷先生のことばを思いだしていた。

 音のつらなりが旋律である。音のつらなりがことばであり、ものがたりになる。ギター奏者は寡黙なひとが多いように思われた。ことばのかわりにギターの音色で、しかし伝えようとしているひとはごく僅かである。娘も含めてほとんどのひとが楽譜に縛られ、音を出しているに過ぎない。奏者とギターは別物なのだ。けれど先生方をのぞいてなかに3人こころに響く方がいて、そのうちのおひとりが偶然わたしのひとつ後ろに座っていらしたので終演後、声をかけた。

 酒井さんは50歳からはじめて6年ギターをなさったのだそうだ。わたしも50歳がすべてのはじまりだった。そして、来春で5年になる。ギターは度量の大きい楽器である。古典から民族音楽、ビートルズ、映画音楽、日本古謡まで奏者の努力しだいで弾きこなすことができる。語り手がギターを持ったら、音色はなにを語るだろう........幕間にホールと併設のプラネタリウムにむすめたちと足を運んだ。太陽が沈む。夕日は右下がりに沈むということをわたしは今日まで知らなかった。解説者の語りは心地よかった。ギターでも語りでも心地よいとうとうと眠ってしまう。あまり拙いと聞き逃すまいと耳をすまし、うまいけれど押し付けがましいとこれはもう苦痛の極み だから眠ってしまうのはあるていど巧者の語りである。その境目、心地よき緊張(弛緩と緊張)という段階に聞き手をいざなうのが、語り手の醍醐味なのではあるが、さすがと思わせた解説者は五島プラネタリウムで30年の経験をお持ちの方であった。むべなるかな。路は遙けく遠い。



六百三十七の昼  2004.11.22    叙事詩

 先週の土曜日から会社で個人面談をしている。今日もふたり、入社7年のOさんと20年のKさんと話した。ふたりとも緊張していた。実はわたしも緊張していた。じっさい、先週は面談のことがあたまを離れず気分が重かった。しかし会議で広言した以上やらないわけにはいかない。それに面談は今後の会社経営の基になる....とわたしの本能がささやく。....というわけでようよう勇気を奮い起こしてはじめたのだ。はじめは内心の不安を隠すためもあって一方的にしゃべっていた。やがて一呼吸おいて、水を向けるとみな一様にことばを選びながらぽつぽつ話しだす。ひとりひとりの生活のありよう、不安とかすかな希望、子どもや親のこと.....会社や周囲への不満や自分への懐疑........わたしがその方々に抱いていたことはあながち的を得ていないわけではなかった。不安は目や挙動に現れるから....しかし口をついて出たのは諦念をまじえてはいても、なお生な現実だった。「オレ、会社に入って、こんなことを話すのははじめてだな....」席を立つとき、目ばかりは20年前とかわらないKさんが呟いた。

 わたしはこのひとたちの望みに努力に報いたい...と心底思った。経営者とはその会社において生殺与奪の権限を持つ小さな神である。もちろん会社自体は社会に依存し、銀行、法律、官公庁にやはり与奪の機会を握られてはいるし、なんらかのかたちであっても社会に役立たない会社は存続を許されない。それでもなおかつ経営者は理念を掲げることを許される。ひとりひとりにその者にあった地位と生きがいを与え得る、旗印のもとに進む戦闘集団の長(おさ)なのだ。わたしはかずみさんと大きな冒険をはじめよう。さまざまな....制約のなかで理想をめざすのだ。

 午後Hさんご夫婦がみえた。12月からうちの会社の一員になる。傷を負われたHさんをわたしは見過ごすことができなかった。さて、なにがはじまる.....わくわくどきどき、生きているちいさな叙事詩の幕開けである。英雄譚になるだろうか。


六百三十六の昼  2004.11.21    お菓子の家・青い手帖

 友人の今井さんからお誘いのメールをいただいて、夜の羽生の町に出かけた。そのメールには有無を言わせぬようなところがあって、なにがあってもゆかなければという気持ちになったのである。会場のケーキ屋さんの場所も名前も知らなかったが何かの力に導かれるように”お菓子の家の夜語りの会”にたどりついた。

 今井さんのおはなしはO・ヘンリーの「パンのあだしごと」貧しい画家のために古いパンにバターを塗ってやったために起こった悲喜劇....知られたおはなしであるが、今井さんはぐいぐい聞き手をひっぱっていって飽きさせることがなかった。創作の「夢」イタリヤのおはなし「死人の恩返し」も楽しく聞き入った。不可思議をテーマにしたおはなしが多く、これが原点なのだなぁと思った。惜しむらくは息継ぎが苦しそうな方が見受けられたことで、つまり腹式で伝えよう伝えようとしているうちに酸欠状態に陥ってしまうのである。

 日本のことばでは発声は息遣いというのだそうだが、無理なくゆたかに声を出すには鍛錬しかない。朝方、刈谷先生のレッスンで「左脳をつかって歌うのです」と教えていただいた。歌謡曲やロックは右脳をつかって歌っているのだが、声楽ではコントロールと計算が必要なので、左脳と右脳と両方使わなくてはならない。語っているときはどうなのだろうか? ほとんど右脳の世界じゃないだろうか?発声については謎また謎である。座のW・S声のシリーズに参加してみようかと思っている。

 おはなし会で、今井さんの終わりのあいさつに心を打たれた。「さまざまなことが起こっている今日、一年前からの約束であったおはなし会にこうして参加できるということ、約束が果たせるということがどんなにしあわせであるか、今日しみじみと思いました。来年のおはなし会までにわたしたちは心をみがきます」というようなことを結びにされたのだが、おはなしがひとにつたわり、楽しいときをわかちあうために今井さんはわざを磨くとは言わなかった。

 わたしもつねづね、こころに響く語りをするためには畢竟魂を磨くしかないのだと感じていたから、帰り際今井さんの掌に思わず触れてしまった。帰り、スバルで青い手帖を買い求めた。時間をやりくりして望みが果たせるように.......語りたいものがたりのかずかずがわたしの胸のなかで生まれ出る泡のようにちいさな音をたてている。消滅ないようにふくらませよう、虹色にかがやかせよう。聞くひとのこころに飛んでゆくように。



六百三十六の昼  2004.11.20    黄昏 

 ダンセイニの幻想小説集は青土社から出版されたのを昭和50年に買っている。当時1800円というのはわたしにとっては大金だった。ブラックウッドやティークや指輪物語などもまるで飢えた獣のように買い集めた。ジャック・フィニーやゴーチェも好きだったが、イギリスの幻想文学が一番心地よかった。薄闇の小暗い世界、現実とありえない世界のはざまのトワイライトゾーン........決断を迫られることのないすべてよしの世界.....わたしは一日のうちのいくらかの時間をそうしたほの暗い場所で過ごさないと生きてゆけなかった。

 夏樹に押し出され、わたしは目くるめく白昼に現実のただなかに出てゆくのだが、そうしたなかでも洞窟のように太古につながる.....私自身の過去と世界の秘密につながる幻想の世界をどれだけ必要としたかわからない。そしてジャズと....わたしはこうして正気を保っていたのだ。わたしの選択した現実とは悪夢だった。不条理の、許し難い、血で血を洗う世界だった。けれど、そこでわたしはある意味のリストカットを続け、その痛みによって生とつながっていたことも事実である。なぜなら、その間、自殺しようという試みはしなかったのだから。現実といっても日常の耐え難い凡庸さを選ぶことはできなかった。実際はそこにも真実賭ける価値のあるものがひそんでいるのだけれど、若くおろかなわたしは立ち向かう勇気がなくて、あり得べからざる現実を選択し、結果悪夢のなかに生き、幻想文学の綾なすこれまた悪夢によって中和されていたのかもしれない。ケルト的なものの惹かれていたのは、わたしもまた北方の黄昏に生まれた者たちの末裔であったのだ。ロマンチストにとって死は救いである。絶対的なもの、大いなるものとの一体化であり卑小な己のカラから脱け出し、本源に還ることである。幻想文学、ケルト的なるものへの根底にあるのは死ぬことの許容、もっといえば憧憬であるように思う。そこでわたしは幻想文学に触れることで小さな死を繰り返し、また現実の界においても束の間抱きあう一瞬の死を繰り返すことによって、かろうじて絶対的な死の手から逃れることができたのだ。

 わたしが迷いこんでいた場所から致命的な傷を負うことなく戻ってこられたのはかずみさんに出遭ったから.......であり他の出会いがあったからなのだけれど......受け入れ難い状況にいることを余儀なくされたとき、幻想文学や童話の世界はどれだけふわりとわたしを包んでくれたことかと今にして思う。憑かれたように県立図書館の子ども室に通った小学生のときも二十歳過ぎの不安定な時期もそうだったのだと今驚きを持って思い返している。

 家庭にあっても、どこにいても ひとは逸れている。よるべなくひとりである。ひとりで生まれ来て、ひとりで死の門をくぐるしかない。だから語り伝えあい生きてゆくのだが どんなに愛していたところで 己が罪も己が運めも自分で担うしかないのだ。.....神話やメールヒェンや童話やおよそありえざるものがたりがなぜひとの心を捉えるかといえば、まさに生と死、光と闇、愛と美と滅び、この世のしくみが織り成され、生きたまま死んでいるような現実の生活、悪夢としか思えない現実を照らすあかしとなってくれるからではないだろうか。きっちり構築された格子のようなものをひとは好まない。混沌と忘却と生暖かい軟泥、ゆらめく水面  ほのかなあかり.......美しきものたち.........


 ....

六百三十五の昼  2004.11.19    妖精のやからに近きもの

 浦和を出たのは6時だった。新宿に着いてさて、京王新線がわからない。初台からオペラシティまで遠く感じた。ネモさん、板さん、坂井さん、あっちゃん、セミナーの仲間たちに会えた。三田村さんが案内してくれて一番前に座れた。

 近江楽堂は白い壁の音響のいいスペースで、櫻井先生は黒のレースにきらきら星が瞬いているようでとてもおきれいだった。ロード・ダンセイニの妖精族の娘は、二年前の夏、ハートフルフォーラムで聞かせていただいたことがある。しかし同じ物語かと思うほど雰囲気が違っていた。先生の声に沼地にちらちら燃える赤い火が浮かび上がる。朝の最初の光が沼地に差し込み、ひとすじの金の光が、沼地を一変させる 灰白色の霧が晴れ 青みをおびた水の色がどこまでも広がっている  緑の苔 そよぐ葦 空たかく小鳥がさえずる

 灰色の2フィートたらずの、妖精のやからに近い野生のものは焼け付くような願いを持った。神を拝したい 楽の音の意味を知りたい そのために魂がほしいと.....長老は諌めた。「魂など持てば、死ななくてはならなくなる」けれどちいさな野生のものの想いが強かったので、なかまたちはやはらかな蜘蛛の巣と露と小鳥のさえずりとこの沼地の美しいものを寄せ集めてほのかに輝く魂をつくってやった。野生のものに戻りたいときはこの魂をだれか必要なものに渡さなければならない。

 魂を得た野性のものはたちまち美しい娘になった。.......娘はこよなく好きな沼地を離れ 機械だらけの紡績の街で働くことになる。そこには美しいものなどひとつもない。娘ののどから沼地を戀うる歌がほとばしる、それを聞いたバリトン歌手の口ぞえで娘はプリマドンナ・マリア・ルシアーノ嬢としてコヴェントガーデンの舞台に立つ。そして歌い終えしんと鎮まった聴衆のなかに魂の必要な伯爵夫人をみつけ、灰色の魂を差し出す。

 その途端、プリマドンナのあでやかな衣装はくなくなと崩れ落ち、灰色のちいさなものが走り出すのを夕暮れに生まれた人たちは見たかもしれない。野生のものは歓喜に満ちて飛ぶように故郷の懐かしい沼地に帰る。冷たい沼地の底の軟泥にふれ、野生のものは満ちたりて浮かび上がり星影を踏んで踊りだす。

 ダンセイニはアイルランドが輩出した幻想作家である。探索の作家とも言われる、ダンセイニが野生のものに託し探索させたものはなんだったのか.....単なる機械文明への警鐘などではもちろんない。

 神話、童話は普遍的なるもの よきもの 美しきもの 光と闇 おそろしきものを寓意的に示すのだ。ひとには内なるあくがれがある。それがなにゆえに存するかは知らぬ。けれども わたしは野生のもののあこがれと探求と挫折と回帰のために泣いた。先生の声から紡ぎだされる世界はわたしのうちにひろがって、わたし自身のあこがれ、挫折、回帰に重なっていった。

 そうしてわたしは気づいた。おそらく先生も妖精のやからに近きもの、灰色の影をひきずるこのわたしさえも妖精のやからに近いもの........ひとはそれぞれの場でそれぞれがすべきことをしなければならない..........とすれば、わたしはあこがれをすこしずつすこしずつカタチにしてゆけばいい。美しきもの 儚きもの よきものを語り、生活の場をととのえ、伝えてゆく こと.......帰るときにはオペラシティのクリスマスツリーのイルミネーションに灯が点り緑と赤と金に輝いていた。人の世がどうか平らかであるように.........

 


六百三十四の昼  2004.11.19    氷雨に

 行かなくちゃ...と思う、がからだが拒否っている。動けない。マジ ヤバい。今日は浦和に、それから櫻井先生のコンサートに....その前に事務所に行かねば....行きたい......みなと会える。行きたくない。だれか、わたしに自信をください。これでいいのだと背中を押してください。



六百三十三の昼  2004.11.18    あるく

 雨が降っている。パラパラ勢いよくガレージの屋根に跳ね返って、しぶきをあげて流れて排水溝へと下ってゆくのだ。

 今日はカタリカタリの発表会のためのリハーサルだった。午後二時まで集会室にいた。しごとが気になったが、いつしか仕事のことは忘れていた。はじめたばかりのひとも半年勉強したひともみな一様に上手だった。なかには風格さえ漂わせるひともいた。....けれどわたしのこころはだんだん暗くなる。これでいいのかなぁ....楽しくて、上手で あたりさわりがなくて.........それだけでいいのかなぁ 生きていることはイタイからイタクないおはなしがいいのか......わたしはこころに響かない語りなんて.....語りじゃないと思う。

 みなに聞いてみたら、それぞれの場で手袋人形やパネルやおはなしをそれぞれにしているのだった。いっしょに学んだことが役にたっていないわけではない。しかし根っこはみな本なのだ。ここで学んでいるひとの読み聞かせが変わったからというので、櫻井先生の講習会に参加した方がいた。それだけでいいのだろうか。今はまだ過程なのだろうか。わたしは何をしたいのだろう。子どもたちにチャンスを......仲間をつくろう  種を蒔こう  ...と。  でも、もう振り捨ててもいい。数ではない。ついてきてくれるひとに伝えればいい。さもないとわたしが死んでしまう。
 夜中まで事務所にいた。わたしにできる?ほんとうに?
ISOの最終マニュアルをコンサルタントの三上さんに送った。1/7か1/31なら最終審査ができるという。システムの方はうまくいっていない。パナックの設定のミスで損益表が出ない。見積もり書も実行予算も注文書も出ない。もう煮詰まって大声で怒鳴りだしたい。とてもムダなことをしているような気がする。


六百三十ニの昼  2004.11.17    歩く

 あぁ もう仕事なんか...と思いながら歩く。今進めていることは中小企業にとってはかなり....の実験だ。もし、失敗に終ったら...と怖ろしくなることがある、ただ負担を強いているだけだったらと申し訳なくなることがある。でも、信じて進むしかない。求められている....のだから。祈りながら、確かめながら...。

 きのうパナックのタガタさんが来社、ほとんどうちの会社のためにオーダーされたと言えるほどソフトをカスタマイズしてくれた。その過程のなかでパナックにとっても今後の展開上利があったと思う。おとといはN行政事務所の所長が担当者と来社、土地を借りるとき、現地で確認してもらったはずなのに、今になって中間処理をとることはできなくはないが、むつかしいと、他の土地を探すことを示唆された。

 プロとしてそれはないと思う。うちはもう相当の投資をあの土地にしてしまったのだ。さぁ どうしようかな.......

 子どもたちを叱った。子どもたちに伝えたかった。なぜ、生まれたのか.....どうやって生きるのか.....ひとは死んでどこへゆくのか.....少なくとも目をそむけないでいてほしい。自問自答して自分なりの答えを見出してほしい。さもなくばほんとうに生きがいをもったしあわせな人生は送れまいと思う。しあわせに生き、あぁ生まれてよかったと心から思って死んでほしい。親としてのわたしにとってはそれこそが子どもに望むことである。


六百三十一の昼  2004.11.16    待つ

 ゆうべは、葉子さんからはずむような声のTELがあった。Oの会の朗読会で読んだ太宰治の「待つ」が評価されたのだという。そしてその朗読は葉子さんにとっても納得のいくものだったようだ。わたしは彼女の気持ちが痛いようにわかる。受け入れられるだろうか.....わたしのしているこの語り(朗読)...は果たして聞くひとにどう響くのだろう......はじまってしまえば、その世界にいて、聴く人のこころと満ち引きをしているのだが.........その前は暗中模索であって確固たるものなどないのだ。荒野でひとり......誰をあてにすることもなく杖ひとつだにない。だからこそ受け止めてもらえた喜びは尋常のものではないのだ。荒野で天上にたてかけられた梯子を手にしたようなものである。

 わたしは葉子さんに祝福を贈った。そう、あなたは努力を惜しまないひとだ。そして優しい。 自分自身に喝采を送れるしあわせな夜はそうはない。今宵抱きしめて、明日からまた歩きだしてください。いつかふたりの会を開けるように、わたしも精進しよう。

 「待つ」を開いてみる。これは一人称の語りにいいかもしれない。希望をそこにほのかに輝かせることができるなら.....わたしは聴いてくださる方の魂が開いていくような物語が語りたい。



六百三十の昼  2004.11.15     ギャル服

 きのう わか菜と浦和駅で待ち合わせをしていっしょに食事をしたあと、ギターの発表会のための服を見てあるいた。わかなはこの日二回目の校外テストで南浦和の会場まで送ったあと所用を済ませたわたしと落ち合ったのだ。この一年黒のシースルーやレースのいわゆるギャル服を選ぶ娘に内心ひやひやしながら、口ははさまずに好きなようにさせていた。

 けれど今日娘が選んだのはグレイのツイードの地に細かいピンクのドットのハーフパンツ。そして同じグレイの裾がラウンドで大きなボタンのついたトレーナーだった。それに濃灰色のブーツ、ブーツの中にピンクの靴したを覗かせ、トレーナーのしたもピンクを利かせたら、少女らしく清潔でかわいいだろう。

「 おかあさん、もうギャルぽいのは着たくなくなっちゃった」...........心配はいらない。子どもは成長してゆくのだ。



 六百二十九の昼  2004.11.14    鳥に

 先週、高山で心の奥底で死を願っている子どもがその学校では実に1/3いたと聞いたけれど、それは今にはじまったことではないだろうと思う。わたしもかってそうだった。なぜ生まれたのだろう。どうしてこの暗い絶望に満ちた世を明かりもなく歩いていけばよいのだろう、死んだらひとはどこにいくのだろう...と思い続けていた。

 はじめてひとは死ぬのだということを意識したのは、祖父が亡くなった6歳のことだった。その日家にいるとザリッザリッと足音がした。家の前の道路には砂利がひいてあったからその足音はあたりまえといえば、あたりまえなのだが、いつもより心に響き、瞬間おじいちゃんが死んだ!...と感じた。

 それは枯れた花や死んだザリガニを目の前で見るように明らかなことだった。そして「チチシシンダスグコイ」の電報を握り締め、わたしは留守番の叔母をさがして転がるように走った。当時読んだ二宮尊徳の伝記の影響もありそれから一年近く死の翳がわたしのまわりに重苦しく漂っていたのを思い出す。原山の焼き場に向う葬列に出会うと必ず親指を握り締めるようになったのもそれからのことだった。

 死にたいという呪縛から逃れたのは愛するものたちとめぐりあい、自分がこの世で幾ばくかのものを担っていると悟った、つまり親になってからのことである。そしてそこにいたる道のりで、信じられないことにわたしを必要とし、こよなく愛してくれる存在があると知ったことが、なぜ生まれたのかの直截な答えではなかったにしても、わたしがこの世にいることのがゆるされていいことなのだ......意味がないわけではないのだという驚きに満ちた実感につながっていたのだと思う。

 愛されるということはそれほど深いことである。


六百二十八の昼  2004.11.13   風に

 風の吹きすさぶ日だった。空気は凛と澄んで寒気が心地よくさえ思えた。裏手にある広大な理科大の敷地には葡萄園もあり沼地が自然のままに残されている。会社から車で外出するとき、葦の繁った沼地から一羽の真っ白な鳥が飛び立つのを見た。優美な細い頸をのばして真っ直ぐうす青色の空へ飛んでゆく。わたしは車をとめずにはおれなかった。

 白といっても、それは命をもったあたたかい白、上空の風を切ってくっきりと冬空に命のかたちを示していた。鷺であろうか。鳥だってその日その日の糧を得るのは決して楽ではあるまい。その嘴でちいさなものの命を貪ることもあるだろう。それでも、あのように美しい。知らずにわたしは泣いていた。




六百二十七の昼  2004.11.12  雨に

 秋の雨は寂しい。庭の石榴のひび割れた傷口に、つわぶきの黄色の花弁に、狂い咲きの哀れな梅の花に、しとしと 降りしきる。濡れた歩道に貼りついた枯葉、駐めておいた車のフロントガラスにも枯葉、夏の盛りの暑い日ざしを炎のような紅色に残して儚んでいるのか、まだ夢を見ているのか........

 ISOのマニュアルの改訂が終った。名刺を三人分つくった。10月の請求書を合わせはじめた。行方不明のコンテナの調査を始めた。気が遠くなりそうな仕事の山.....夜 みなが帰ったあとの事務所はしんと静まっている。そういうときこそ仕事がはかどるのだけど 昼の明るみでは見えないものたちが  そこここでひっそりわたしをみつめているようだ。

 おいで、おいで 夜と親しいものたち 薄闇のなかでしか生きられないくぐもったものたちよ わたしも永いこと そうだったのだよ 闇のなかでまどろんでいた ぼんやりした痛みに耐えていた 在ることは痛み 不在いことも痛み 逃れるすべもない  だから わたしの翳におはいり いっしょに耐えてゆこう 光もまた身を灼くけれど 堪えて 白くなって いつか陽のなかに出てゆけるように 。



六百二十六の昼  2004.11.11    心に

 給与振込み用紙を銀行に持ってゆく。ユニック車買い入れのための融資手続き終る。ひさびさに女性たちとカラオケに行った。楽しかった。歌を聴くとそのひとがすこしわかる。

 わたしはこの七日間を忘れまい。転機であったと思う。メールやホームページのフォントの大きさが変わったのはわたしがなにをなすべきか示していただいたのだ。大きな意味はまだよくはわからないが、実際に細かい実務をしてみてどれだけ無駄があるかもわかったし、いちばん衝撃だったのはそれは......

 ひとのこころはは自分のこころの合わせ鏡なのだということだった。その前の数ヶ月、疑心暗鬼で過ごしていた。事務所のなかがバラバラでいったい誰が誰とつながり、なにを考え、どう話しているのかわからず、いたずらに疑い恨んだりもしていた。

 けれど、ひとりひとりを批判しようとしないで寄り添うていけば、ひとはそれぞれの輝くものを見せてくれるのだ。自分の曇りを磨けばよいのだ。残された時間を無駄にすまい。


六百二十五の昼  2004.11.11    空に

 マニュアルの改訂はじまる。支払い終る。支払いは半端ではなく面倒だったので次回から大幅に簡略化することにした。自分でしてみないとわからない。

 さいたま市で開かれるガールスカウトの集まりで語りをしてほしいという依頼があった。夏物語にきてくださった井出先生がぜひ、みなさんに聞かせたいといってくださったのだそうだ。久喜の市民芸術祭に重ならないならうかがいたいと思う。芸術祭では「第二楽章」からうめぼし...ともうひとつ....語りになるか芝居に近いものになるかよくわからないのだが....。平和のために......市井の年寄りや子どもが戦争や災害で苦しむことのないように.......わたしができるささやかなことをさせていただきたい。

 すこしずつ前に、すこしずつ空に..........


六百二十四の昼  2004.11.10  夢に

 新しいシステムがとうとう最後のツメ、美子ちゃんがよくやってくれた。工事部、営業部が日報入力、すると売り上げ仕入れともにほぼ入力される。管理部の仕事は画期的に変わるだろう。チェックと請求書、支払い業務、あとはひとを育てるというほんとうに管理の仕事になってゆく。もちろん、すぐにとは行かない。当分並行稼動が必要である。作りこむ表もいくつもある。が....流れはできた。おそらく財務もある程度はできる。すなわち勘定科目をつかわないバカチョンシステムのできあがりである。いやらくらくシステムのほうがいいかもしれない。

 運用に運用を重ねれば、市販のソフトでもかなり使えるようになる。これはわたしが簿記が苦手であるためにいかに楽に簡単にできるか考え考えしたことと美子ちゃんの阿吽の呼吸がもたらしたのだ。以前のスマイルでも大塚商会の少しえらいひとから「ここまで使ってもらえるなんて考えもしなかった、感激しました。」と言われたことがあるけれど、文系もそう侮れないよ...と心のなかで言ってみる。

 なんだか空の上を歩いているようにふわふわした気分だ。一度は断ったISOの本審査を保留に戻した。一般土木と建築は無理と思うが、ラインとトビ.土工ならできるかもしれない...と気がついたのだ。残りは追加でとる方法もある。夜の全体会議で辞令の交付と今後の展開について話した。各部門をそれぞれ小さな会社としてマネージャーを置き、創意工夫で仕事をしてもらう。工事部も営業部も鏡を見るように自分の積み重ねてきた結果を数字に見ることができる。努力した人に対して会社は責任を持って応よう。

 夢に向って一歩踏み出した。



六百二十三の昼  2004.11.9   日は昇る

 きのう朝、小学校に語りにいった。教室には少なくとも3人の問題を抱えた子どもがいたと思う。いやほとんどの子どもが大なり、小なりなにかを抱えているのは間違いないのだが.....子どもは天使などではなく、ひとつの、魂を持つ人格なのだから。しかしその三人からくるものはもっと重いものだった。

 クラスに入ると一瞬で雰囲気がわかる。目線でその子どもの位置がわかる。先生の力量もある程度は....力量というよりどういう方針で接しているかはわかる。大旅行で1年2組の子どもたちは話の節々でよく笑った。こんなにこのおはなしで笑ってもらったのははじめてだった。ソーディーソーディものりがよかった。歌を作り変えて歌う子もいた。すこし課題である聞き手の子どもたちとの交流が深まった? けれど最初のうち子どもはちらちら先生の方を見ていたという。ほんとうに笑っていいのかな......まだお若い先生は終始たのしそうににこにこしていらしたけれど。最後にまどみちおさんの水は歌います...川を流れながら...を子どもたちを抱きいとおしむように語った。

 ISOでいえば、語りは予防措置になるのかもしれない。すでに起きてしまったトラブルは救えないにしても.......なかまと場を共有する.......おはなしの主人公とともに走る、歩く、苦難に立ち向かい乗り越える、決してあきらめない.......ひとをたいせつにする。そうだ、わたしは原点に還ろう。


 

六百二十三の昼  2004.11.8   回帰

 ISOノコンサルタント三上さん来社。昨日、高山で修正したマニュアルを見てもらう。予備審査で、弟がつくったマニュアルが会社の実態に全く合わないことがわかってしまった。わたしは途中から引き継いだので、わけがわからない代物だと思いながらISOが求めるものはこんなものなのだろうと思い込んでいた。

 ところがこんなものではなくて会社が現在していることを明確にし、ISOの要求項目の足りないところは補い、計画と実施と発注者の妥当性の確認を文書として残す。規則にのっとっていないところは是正するというシステムだった。知ったときは心臓がカクカクした。

 結果、マニュアルの全面改訂をしなくてはならない羽目となった。
12/7.、8の本審査は延期せざるを得ない。眠い。だが中途半端で妥協はすまい。会社の今後の発展につながる、社員教育や経営者としての資質を高める、環境保全に役立つシステムをサポートするISO認証となるよう基本から組みなおそう。




六百二十ニの昼  2004.11.7   朝焼け

 水色の空に白い精緻なレースをふわりひろげたような空、東の空が淡い薔薇色に染まり、山の端がオレンジに輝く。日がのぼる。

 朝日を見ると勇気がわいてくる。そしてひとのことばからも......アフガンのサヴァンさんは細身の青年だ。内乱の時、サヴァンさんは八人家族で一本のバナナを分け合った。それが一日の食事だったそうだ。サヴァンさんの声が深々としたビロードのようだ。いつまでも聞いていたい。早く祖国に帰って祖国の復興と未来のために働きたい...と云った。

 それから大阪の生徒指導の先生の話を聞いた。生徒指導の職務はストレスで三年持たないのだそうだ。子どもたちの状況を見詰めるのが辛くて十二指腸潰瘍で血を吐きながら授業をしたそうだ。信頼関係ができて生徒たちが誰にも話さなかった心のうちを泣きながら語るようになる。実に1/3の子どもたちが死にたい...と思って生きているという。

 なんのために生まれてきたのか....どうしたらいいのか.....死んだらどうなるのか.....それが子どもたちの疑問であるという。答えられるおとながどれだけいるだろうか......語りではひとは救えはしない......直截な答えはできない........このように生きたひとがいると語ることはできるが......目には見えないことを、ありうべからざることを語ることはできるが.....

 わたしはこれからもそうして語ってはゆくだろう.....不思議なおはなしを.....生と死を語ってゆくだろう.......けれども。.....もっとじかになにかできないだろうか....子どもたちにしてやれることはないのだろうか。幼い子たちにできることと思春期の子たちにできることは全く違う。

 

六百二十一の昼  2004.11.6   堂々めぐり

 支払い業務を自分でしてみる。請求書の山を部門ごとにわけ、経理用と現場用にわける。が、指定請求書ではない業者やコードを入れてこない業者が増えている。指定用紙でないとコピーをしてまわさなければならない。それから振り込み料を引いて振込み依頼書に記入するのが、イライラするほど面倒である。銀行の振込み書と支払い予定表の順序が違うから探すのがたいへんなのだ。こんなことやってられないと思う。登録をしなおすことにする。だいたい銀行は一件あたり840円という手数料をとりながらサービスがなってない。もっとお客に寄り添うべきではないか。うちなんか何十社と支払うから支払い手数料だって万単位なのだ。指定振込み用紙しか受け付けないなんてわがままだ。ファームバンキングにしようと思ったこともあるが、締め切りが早くなるし??振込み料だって安くなるわけじゃぁないのだ。基本料金が高いからといって、支払い先に負担もしてもらえはしない。とすれば自社の負担が増えてしまう。

.........わたしは経理には向かないと思う。どうみても夢見る文系のなれの果てである。対人折衝とか企画の方が性にあう。しかし自分でやってみて、もっと簡単にできるいくつかの方法は考えだせるような気がした。経理のウデの無いひとでもできるシステム.......業者を選別する....振込みの表を変える......支払い予定表のカタチを変える.....出面表をパソコンでつくる......楽しく仕事ができるようにしよう。

 プッチーニのわたしのおとうさんのレッスン.....いよいよオペラだ。声の不思議に打たれる。笑顔で口角を上げて歌うと声の音がちがう。質がちがう。維持し続けること。



六百二十の昼  2004.11.5  階段

 陽射しのおだやかな秋の一日、太陽に背を向けてほの暗い事務所のなか、机のあいだを走り回り、書類とパソコンに埋もれて過ごす。客もひっきりなしでTELの応対と打ちあわせできれぎれになる。

 ところが、神経はしんとして パズルの一片一片がひとりでに動き出して絵が浮かびでるようである。会社は変わらなくてはならない。その変わってゆくビジョンが見えてきたのだ。こうなったらおもしろくてたまらない。パナックのカスタマイズがあらかた終わり、日報画面で売り上げが打ち込める。画面上でその日の損益が部門ごとにようやく出てきた。これはまえのしステムでもできた。

 しかし、今度は売り上げ、仕入れの入力を現場でするのだ。各工事部門がそれぞれひとつの会社のようにマネージャーをあたまにおいて企画、施工、管理をする。そのうえで管理部はチェックとデータの分析とフィードバックをする。パナックで部門管理と損益を出す、試算表はスマイルだが部門管理はしないから、パナックで出した勘定科目の総額のリストを見て埋め込むだけでいい。

 ここでISOと繋がってゆく。職務を明確にする。書類の出し方、保管の場所を明らかにする。内部監査でお互いにチェックしあう。那須で2億の仕事の話、わたしはあまり乗り気ではないが、ものごとは動いてゆく。かずみさんは九州だ。リサイクルの話も動き出した。11/7を境になにかが変わる。目を見開いていよう。




六百十九の昼  2004.11.4  さんざん

 予備審査は死にそうだった。「この書類はどこですか?」「こちらの書類を持ってきてください」...であたふたと駆け回る。仕事が忙しくて部門の長はひとりもいない。かずみさんとAさんとわたしだけ。事務員さんもパートふたり。

 昼食の段取り、お茶の準備、TELの応対、無い書類を慌ててつくる。.....だがわたしはおかしくておかしくて途中噴出しそうだった。よりにもよってAさんがいる。書類を出さない、管理部の業務のブレーキだったAさん、それに弟がやめたあとつくっていったAさんの力量評価表を審査員のひとはAさんに見せてしまうのだもの。その評価ときたらかなりすごいものだったのでAさんはなぜこうなのか根拠がわからないといって目を白黒させていた。

 これは天の配剤に違いない。審査員と問答しているAさんを見てわたしは密かに思ったことだった。これで流れが変わればいいなぁ。わたしも変わる、Aさんも変わる。そうなればいいなぁ。

 はじめて派遣会社にひとを頼んだ。雇用については大きく社会の流れが変化している。派遣、外注、いろいろな形態があってもいい。核になる社員はそう多くなくていい。
 だが、おととい面接に見えたHさんに、昨夜浦和からの帰り 12月からよかったらとOKのTELをしたこと、........あまり気の毒だったのでそうせずにはいられなかったのだが..........今になってつくづくよかったと思った。役所の方なのでISOと指名参加などをお願いできそうである。これは少しよい兆しである。

 わたしはたぶん他にすることがある。それにしたって弟が作った品質マニュアルは大改訂しなくてはならないし、明日はパナックとの打ちあわせ、システムの仕上げである。銀行提出書類の作成もあるし、試練はつづく。

 ブッシュさんが再選されたのは世界にとっていいこととは思えない。このニュースはさんざんな木曜日の仕上げである。ミルクティをのんでおやすみなさい。あすはきっといいことがあるに違いない。

 山口さんとおとといのおはなし会のことでお話した。やっぱり山口さんとおしゃべりすると1時間コース.....


六百十八の昼  2004.11.3  迷い

 深い海の底はしんと鎮まっている。嵐が吹きすさび大波が荒れ狂うときでも。雷鳴がとどろき、黒雲が奔っても、そのうえには澄んだ空と清らかな月の光が照り映えている。目先のことに踊らされてはいけない。まがりかどにはいつも目印が用意されている。



六百十七の昼  2004.11.2  そして

 おまえがこの者たちにしたことはすべて....わたしにしてくれたことなのだよ
カーロ・カルーソー おまえが歌をうたうとき わたしはいつも おまえのそばにいたのだよ......このことばのためにものがたりはあった....
 
 いい会だった。それぞれの個性が花咲いたひさしぶりのおはなし会だった。
指摘のあったようにものがたりはすこし書き加えられた。震える手.....ひとすじの光

ものがたりがどのように聞くひとのこころに伝わったのかはわからない.......
....けれど.......これでいい 今回はこれで精一杯だ.......そして、わたしは前に進もう。

あさってはISOの予備審査。



※「ピーター・マクニールの世界」と「ある男」、ふたつの原稿が見つかった。




六百十六の昼  2004.11.1  さぁ

 静かな夜、平和な夜.....今日なすべきことを終えたよろこび。
カーロ・カルーソーがはじめてわたしのものがたりになった。 

あしたはおはなし会、