百七の夜   (2003 5 17)     遺棄

 さっそく忘れてしまった。

百六の夜   (2003 5 16)     飛びすぎてゆくもの

 時間もそうだが、アイデアとか文章とかは書きとめておかないとすぐ散り散りにとびちってしまう。


百五の夜   (2003 5 15)     I 氏

 あの大嘘吐きのペテン師の恩知らずの詐欺師の顔をもう一度見たい。
人を裏切り、だました最低の男だ。くだんの金でさくらの里とかいう介護グループホームを開いたらしい。

百四の夜   (2003 5 14)     才

 わたしは反感を買う才があるようだ。歯に衣きせぬ物言い、妥協せず昂然としているところ、可愛くないところばかり。でもいまさら代えるわけにもいかない。

百三の夜   (2003 5 13)     敵意

 シャンソンのレッスンでひとりずつ歌ったあと、なんだか居心地がわるかった。新参ですこし目立ち過ぎたのだ。今月でやめようと思う。個人レッスンをしてくださるいい先生をさがそう。どうか出会いに恵まれますように。
オランダのチョコレートを楽しみにしていたのに先生は忘れていた。実はこれがレッスンをやめるほんとうの理由である。

百二の夜   (2003 5 12)     問題

 あの方ははわたしに敵意を持っているのかなあ。司会に最後に語ってくれとうながされた時、なんだか私が語ることが時間的に迷惑のような態度だった。それでこの顔の皮の厚いわたしも集中できなくて惨憺たるありさまだった。ことばだけは出てくる。それがこんなに空しいなんて.....失敗したと思う。時間など気にしないでおはなしのなかに惹きこんでしまえばよかった。プロとはそういうものだ。聞き手に呑まれてしまってはだめだ。

百一の夜   (2003 5 12)     子どもごごろ

 まだみずみずしかったころ、こころに誓ったことがある。ひとつは非凡なる凡人でありたいということ、これはもちろん国木田独歩に触発されたのである。いまじぶんをふりかえるに当時思った非凡.....世俗に惑わされず精神的に高い境地にある人間....にはなっていない.....きわめて個性的な人間にはなったかもしれない。もうひとつなにがあっても年はとってもこれだけは失うまいと思った子どものこころ....はどこかの隅に押し込まれ忘れてしまっていた。

百の夜   (2003 5 11)       母の日

 かずみさんから20000円もらった。惣から赤いハートのカップ、娘たちからネックレス、ゆうがた、わか菜とコートダジュールで歌う。ソプラノの方の低音域がひろがり、裏の声の高音域が広がりコントロールできるようになっていたのでおどろいた。緩やかなカーブを描くのではなく階段状に上達するのだ。わか菜もうまくなった・帰ったらかずみさんと惣がいない。TELしたら「母の日だからラーメン食べてきた」というので可笑しかった。結局いただいたお金でひさびさに寿司をとる。

九十九の夜   (2003 5 10)    回心

 からだが軽い。

九十八の夜   (2003 5  9)    転回

 朝、直訴した。午後、移管の連絡、良かった。
みうさんのHPのリンク紹介を見て、HPはUPした以上自分のためだけのものではないと深く反省。 もっと語る、呼びかけるものにしようと思う。

九十七の夜   (2003 5  8)     かも知れない

 こどものためなら がんばれるかもしれない。そんなに悪いことばかりではないのかも知れない。あすは晴れるかもしれない。誰かからメールがくるかも知れない。大きな白い翼の輝く鳥がふわりと舞い降りるかも知れない。みずみずしい欅の若葉が風と戯れ、空に歓びの声をあげ葉裏をひるがえすのを見るかもしれない。靴を鳴らして少年たちが走り過ぎるかもしれない。あすは......5月の陽光が幾千の煌く粒子となって降りそそぐかもしれない。今はもういないひとの愛のように  ....わたしの掌のうえに 


九十六の夜   (2003 5  7)     雨も降らず

 野原のクローバがぐったりしていた。埼玉への移管について20日も返事が来ず、イライラが頂点に達している。かずみさんなんかキライとときどきつぶやく。こういうときは誰も好きじゃない。人間なんて最低!!くそったれとひとりごつこんなときは、誰よりも自分が嫌いなのだ。

九十五の夜   (2003 5  6)     春の終り

 藤の花がさくころは、春が凛とした清澄さを失い、草いきれと重い大気と微熱のなかに融け崩れてゆくもの思わしい季節だ。頭のなかも鬱蒼としてきて目の奥は熱をはらみ、気持ちもすぐれない。倦怠と息苦しさで横になっても身の置き所がない。

九十四の夜   (2003 5  5 )    諍い

 ・・・・・・そうになった。飲んで箍が外れるひとは酒をのむべきではない。そのうえにMがわたしについての愚痴をこぼしているのが下でそのまま聞こえてしまった。まずいなと思ったが凍りついたようにしばらく聞いていた。階段を昇って、「みんな聞こえていたわよ」と言ったら、それからちょっとした諍いの場になった。息子がおかあさん冷静にねと真顔で合図し、わたしは酔っているひととまっとうな話はできないから帰るというと、そこでまた揉めた。

 つまるところSはわたしがひとから後ろ指さされるような隙を見せるのがいやだという。このせりふどこで聞いたことがある。「でも完全な人間なんていないのよ」と返す。わたしはああこういうことだったかと醒めた気持ちだった。わたしに直接言えないということはわたしがそれほど怖いのかしら、そういう気持ちにさせた責任があるとはそのときは思わなかった。それでもシゴトの愚痴を懇親の集まりで話すのはタブーじゃないかと思う。気にいらないことがあれば直接話せばいいし、話し合ってもだめならその時はやめればいい。それは再々言っていることだ。内情を知らない者に話しても責任のあることは言えはすまい。8月の繰り返しだ。声高に叫ぶあの声がまだ耳に残っている。

 わたしはアドバイスはするけれど、口は挟まない。お節介かも知れないがバックアップできることは兄弟に対してしてきたつもりだし見返りを求めた覚えもない。最後には仲直りし妹はわたしに謝り、弟は駅まで徒歩で荷物を持って送ってきてくれた。しかし、一度出たことばはまったくなかったことにはならない。
 
九十三の夜   (2003 5  4 )    バドリ

 昔、父がバドミントンのことをバドリといった。「バドリをしようよ」とよく私たちを誘った。「しょうがないなぁ」とわたしたちは父につきあってヤマコの裏の空き地でバドミントンをした。父はおかしなひとでだれにでもへんてこなあだ名をつけ、テーマソングまで作ってひとり悦に入っていた。恥ずかしくてとても書けないのもあるけれどたとえば長男の弟には「おひろい」とか小柱とか。
 このごろ、わたしは父に少し似てきたらしい。おかしな歌をつくっては歌っている。今日はひさしぶりに家族でバドリをしておもしろかった。


九十二の夜   (2003 5  3 )    春巻

 ケヴィンとのんびり散歩をしながら、芦刈の練習をしていたら、帽子を被っていたのにひりひり日焼けの兆候、顔にパックを貼ってドーナツを揚げていると、娘たちが「おかあさん、なんで春巻の皮を顔につけているの?」

九十一の夜   (2003 5  2 )    肉体改造

 総合体育館でウェイトトレーニングを始める。一回で850g減少。肉体的ならびに頭脳の老いを感じる今日このごろ、さて歯止めをかけることができるだろうか!?それより継続できるかなぁ??

九十の夜   (2003 5  1 )     牛人

 久喜座の例会、朗読の練習をした。あまり誉めないサワダさんが「いいねぇ、これでいいじゃないか」と云ってくれたのでほっとした。内心どきどきしていた。これはこれでもう少しふくらますとして、「わたしがちいさかったときに」...それよりたいへんなのはHP........

八十九の夜   (2003 4 30 )    続々ディアドラ

 春の嵐、風と雨に弄られる木々の若葉を見ていた。想像のなかでディアドラを追ってゆくうち、ノイシュは実にいい男であるような気がしてきた。ノイシュはエリンの地をふたつに裂く戦いを、多くの血が流されるであろうという運命を避けるために努力をしたのだと思う。ただ勇猛だけでなくいたづらに血を流すことの無意味さを知り、それを逃れようとしたのだと思う。予言と出会い、彷徨の一部がまとまった。

八十八の夜   (2003 4  29)    続ディアドラ

 プロローグとエピローグができた。あとはエピソードが4つあればよい。出生の予言、ノイシュとの出会い、彷徨、最後の戦い。アイルランドの花々を調べてみた。フューシャ、きんぽうげ、はりえにしだ....

八十七の夜   (2003 4  28)    わたしのディアドラ

 修おじさんからディアドリーのことで問い合わせがあった。符号のようにディアドラのことを今日考えていた。わたしのディアドラは運命に翻弄される薄幸な絶世の美女ではない。彼女は自らのさだめを撰びとるのだ。ノイシュを愛し、愛のために死ぬというさだめを。微笑みながら彼女は死ぬだろう。けれどノイシュにとってディアドラはさだめではない。ノイシュは男として恋だけに生き、恋に殉じるわけにはいかない。騎士としての誇りと義務がノイシュの行動の根底にはある。この物語は男と女の物語であり、男同士の友情の物語であり、生と死と愛と罪の織り成す物語であり、すなわち重層的な三角関係の物語なのだ。
 
八十六の夜   (2003 4  27)   選挙U

 投票所は北小だった。体育館のウラ、かずみさんが指差すほうを見たら敷き詰めたブロックが盛り上がっている。沈んだところもある。相当に沈下している。うちのほうはそういった兆候はまだないが工事もはじめのうちだから手を抜かずに地盤改良工事をしたということかしら?くわばら、くわばら.....やっぱり液状化しそうである。ついでに近くのYご夫妻と遭ってしまった。こちらも宿縁である。


八十五の夜   (2003 4  26)   選挙

 選挙カーのなかにチョコレートが一袋あって、ときおりつまみながら窓から叫ぶ。今日の面子は青木さんと竹山さんでふたりとも絶叫型、マイクを放さないタイプなので、最初は失敗したな もう疲れるなぁと乗らなかったが、そのうち燃えてきた。最後のほうはカミガカリ的渾身のノリでした。それにしても遊説中二度も井尾さんと遭遇するとは、彼女との縁は思ったとおり深いのだ。つくづくあきれた顔をしていたから明日にもTELがくるだろう。

八十四の夜   (2003 4  25)   衣装

 琴の糸に送金しようと銀行に行ったが時間に間に合わなかった。6月の朗読会の衣装に縮緬の黒白の絞りを頼んでおいたのだ。語りでも歌でも衣装を考えるのは格別のことだ。もし丈高く、細身であるなら 黒のドレス一枚あれば事足りるのだが.....ショールにアクセサリで何通りにも着こなせる。それでもステージでなくては着られない衣装もある。このあいだ越谷の駅ビルで求めた東南アジアの民族衣装などは黒の着物スリーブで赤い半襟が前後にある着物のようなかたちで、久喜で着たらのけぞられそうだが、舞台なら映えそうだった。
 歌の方はみなさん本格的なドレスが多い。コルセットで締め上げないととても入りそうにないし、絞めたら歌えないし、さぁ困ったこと。ジュディオングのエーゲ海風ドレスでも作ろうか、そして置き場で孔雀に羽を何本かもらって頭に挿すことにでもしよう。

八十三の夜   (2003 4  24)   草の丈

 ケヴィンと散歩にいくたびに裏の草地の雑草が高くなってゆく。真夜中音をたてて 先端が夜に向かって伸びてゆくのだろう。草の丈が伸びるとともに春も爛けてゆく。
 この広い広い草地は住宅公団の持ち物である。公団は売って不良債権の処理をしたいのだろうが、民間に売るよりもっていてもらいたい。というのもこのあたり地盤がよくないのだ。ペーパードレン工法で固めてあるようだが、もとが沼地の二束三文の土地だから、東海地震でもあれば、液状化現象が起こるかもしれない。
 最近調整池の隣にできたマンションの施工会社の監督は、舗装は2年もたないだろうといっていたそうだ。

八十二の夜   (2003 4  23)   破局

 ひさびさに年下の友人にあった瞬間、きれいになったのに驚いた。肌も瞳も澄んで、からだの内から光を放っていて、その光が皮膚をとおして透いてみえるようだった。「結婚したの?   それとも 破局したの?」とわたしは思わず聞いて、居合わせたふたりの顰蹙を買った。5月には結婚するはずのふたりだったのだ。
 けれど少したって 観念したようにその子がいうには「別れたんです」女って不思議だ。別れても美しくなる。

八十一の夜   (2003 4  22)    チョコレート

 毎日 食べずにいられない。チョコレートには傷をふさぎ肉を盛り上げる効能があるのだそうだ。こんなに食べたいのはたぶん 胃にあいた穴をふさぐためにからだが欲しているんだわ。


八十の夜   (2003 4  21)     作家

 誰がすきといって、アーシュラ・K・ルグインが一番好き。シムノンもいいけど、エンターティンメントはことごとく生きる力を、人生への肯定をひとに与えるべきだと思っている。シムノンの世界は勇気がないと降りていけない。ひとの闇、深い深い淵、そこに微かな救いへの予兆はあるけれど、わたしはめったにシムノンを開こうとはしない。悪夢が待っているから......

 ルグインでは闇の左手がもっとも好きな作品だ。根底にあるのは無償の愛である。己をなげうつ究極の愛である。男女でさえない、地球人でさえない。...反逆者エストラーベン    そしてゲド戦記 もうすぐ第五巻を読むことができる。


八十の夜   (2003 4  20)    命日

 今日はかずみさんのほんとうのおかあさんの命日、わたしは忘れていた。そして去年シビックのシズカが廃車になった日。シズカはわたしの母でもあった。わたしの隠れ家、わたしの子宮だった。わたしは何度シズカのなかで泣いただろう。滂沱の涙を流しただろう。虚けたように座っていただろう。闇雲に走っただろう。シズカはただの車だった。けれどシズカに魂があったのをわたしは知っている。別れる数日前からラジオがなにもしないのにつくようになった。最後の日はずっとなりつづけていた。しゃべることのできないシズカの別れのことばだった。

七十九の夜   (2003 4  19)  蚊帳

 蝿帳と書くのだろうか。網戸のついた小さい戸棚がむかしはどの家にもあった。残り物のおかずだとか調味料とかをしまっておいたのだ。夜は蚊帳を吊った。最初の蚊帳は緑色でごわごわしていた。二つ目のは白と水色のぼかしで吊るところの青い房がついていて、涼しげだった。初夏、初めて蚊帳を吊る日はうれしくて何度も何度も出たり入ったりして叱られた。ぷ〜んと蚊が迷い込んでくるとパチンパチン叩き潰すまで大騒ぎだった.ハエも蚊もちょうちょもトンボも、たくさんいた子どもの数より数倍も多く空を飛んだり野原を飛んだりしていた。シジミチョウ、モンシロチョウ、モンキチョウ、クロアゲハ、燐光を放つ蛾。シオカラトンボ、ムギワラトンボ。今はハエもいない。ちょうちょもいない。

七十八の夜   (2003 4  18)  ジェニファ

 もう40年もまえ、枇杷の木と欅が茂る家に住んでいた。ある日枇杷の木の下の薄暗がりに白い犬がいた。今思うと、とてもシロに似ていた。背は白にベージュがかっていて尾はふさふさしていて、鼻筋が通っていた。サムエドという種類の犬が近いかもしれない。

 母が飼うことを許してくれなかったので、わたしたち兄弟はこっそり内緒でジェニファにごはんや牛乳を与えた。おさだおばちゃんもやっていたようだ。ジェニファという名はそのころフジテレビで月曜から金曜の午後3時から放映していたテレビ名画座の映画からとった。”奥様は魔女”というとてもロマンティックで美しい映画だった。後年、同名のテレビシリーズがあったがタイトル以外なんの関連もない。美しい魔女が人間の男に恋してしまう、そのヒロインの名がジェニファ.....朝露と銀色の蜘蛛の巣とピンクの薔薇のように美しい名前だと....11.2の少女だったわたしは思ったのだ。

 ジェニファは仔犬を生んだ。たぶん父が処分してしまったのだろう。ジェニファはやさしいやさしい犬だった。わたしは宵闇のなか、声をしのばせて「ジェニファ、ジェニファ」と呼んだ。するとひっそり風のようにジェニファは青い闇のなかからすがたをあらわすのだった。けれど、ある日いくら呼んでもジェニファは来なかった。犬殺しがきていたと聞いてわたしたちは胸がしめつけられるような気がして、手分けして探したり小首をあつめて相談したりしたけれどジェニファのすがたを見ることはもうなかった。


七十七の夜   (2003 4  17)  水曜日

 ケビンがこの家に来たのは3年前かなぁ。片手に乗るくらいちいちゃくて絹糸のようになめらかでふんわりしてた。彼はたちまちうち中のアイドルになったけれど、わたしは表立ってそんなにはかわいがらなかった。なぜってシロがいたから...シロがいつも耳をそばだて、みんながケビン、ケビンとかわいがるのを聞いている気配がわたしには感じられた。シロは嫉妬深い、つまり愛情深い犬だった。ああシロ、今でもおまえを思うとわたしの目には涙がにじんでくるよ。

 シロがきた一年後に子どもたちと権現堂の堤にお花見に行ったとき、痩せこけた二匹の犬に出会った。一匹は白く毛の巻いた大きな犬でもう一匹は茶の日本犬だった。惣二郎が「おかあさんお願いだからあの犬をうちで飼って」と大つぶの涙をぽとぽと落として泣いた。茶の犬はちょっとなつかしそうにこっちを見た。一目で最近まで飼われていた犬とわかった。よごれた白い犬はおまえはあっちに行きな、オレはいいんだよというように後ろを一二度振り返って遠ざかっていった。そしてわたしたちはその犬にチャコと名づけ家に連れて帰った。

 けれどシロはチャコをよくいじめた。自分のえさを食べるまえにチャコのえさを食べてしまう。みながチャコをかわいがるとフウフウ怒る。チャコは二年を待たずに家から姿をけした。シロはそれから妙にさびしそうだった。
 だからわたしはケビンになにか与えるときはシロにも必ずあたえるようにして、シロのまえではケビンをかわいがることを避けつづけた。嫉妬という感情、親の愛をはかりにかけて1匁でも妹や弟のほうが多いと感じたときの切ない焼け付くような気持ちを今でもはっきり覚えているから、わたしがそうした感情から自由になったのはつい最近のことだから、いはば長女のようなシロの気持ちをないがしろにはできなかったのだ。

 シロが死んでから、わたしはケビンと寝る。ケビンを散歩にも仕事にも連れてゆく。シロをかわいがらなかったぶん、シロへの負い目のぶん、ケビンに返している。そうしてこれが大事なことなのだが、わたしはとてもしあわせなのだ。シロ、シロ おまえはわたしにとっても大きなプレゼントを置いていってくれたんだよ。

七十六の夜   (2003 4  16)  火曜日

 櫻井先生が不登校児であった、おかあさまをどれだけ心配させたかわからないと聞いたとき、わたしは晴天の霹靂というのもそう違わないほどたまげ、すこししてほっとしたような納得したような気がした。先生のなかにある自由奔放、時にこどもみたいな移り気、こんなこと書いたら叱られてしまうかなぁ...そんなところがあったからわたしはこんなにも先生に惹かれたのだと思う。それと同時にいいんだ...不登校は普通のこと、ちょっとはずれて風変わりで やさしくて 不羈不抜で ずぼらだったりしたら なってあたりまえじゃないかって うれしかった。

 月曜日の朝、学校へ行くことがどんなに重荷だったか忘れたわけではない。やっていない宿題、エベレスト登頂よりむつかしそうな提出物の山。給食当番、班行動、体育の跳び箱、鉄棒.....友達付き合い、おばかな男子たち、いじめ、やっかみ、愚かな教師......学校はほんとにうざったい場所だった。夢はあった。通学路には秘密の小道があり、学校の櫻の古木の洞には蝙蝠が棲み、氷川神社の境内は真夏でもひんやる鬱蒼としていた。ほんとうの影と光と...おとなの世界の戯画めいた人間関係もすでに始まっていて厳然とした階級や身分が存在した。勉強のできる子、いい家の子、クラスからはみでた子、腕力だけはある子、ずるがしこいのやはしっこいのや、あっちへいったりこっちへいったりこうもりみたいな子もいた。
 わたしはといえば、”先生”の子というだけで当時は特別の存在ではあったのだ。なぜってそのころはまだ、先生たちは聖職という尻尾をまだひきずっていて世間的には尊敬を受けるステータスにあったのだから。けれど同時にわたしは半端者、どこにも属さない居場所がないひとりだった。クラス替えは最大の通過点だった。自分がかろうじて生きてゆくためにはくじ運と少しばかりの度胸が必要だった。
 よくも小学校の六年間を」生き延びてこられたものだと、今になってもそう思う。

七十四の夜   (2003 4  14)    日曜日

 かずみさん、「おそばを食べに山に行こう」といったのにひとりでどこかに行ってしまった。昼すぎまで掃除に精を出して夕方わか菜と近くのコートダジュールに行った。カラオケを歌いまくり、あっというまに3時間。あっこれはきのうのことね。そのときすでに具合がわるかったのだが、春休みどこにもつれていってもらえなかったわか菜がかわいそうだったのだ。それもあって。月曜は胃も痛いし。階段も上れずただ寝ていた。

七十三の夜   (2003 4  13)    繋ぐ

 やっと一週間が終わった。惣はつかれきったようで昼まで起きなかった。わたしも困憊した。午後からPCをつないでもらった。これで惣もわか菜
もネットや音楽を好きなようにできる。贅沢かもしれないが子どもにチャンスは与えられるだけ手渡したい。あとは本人の夢と実現しようとする強い意志である。夜、惣が「俺たち、コワイ家族だね」といった。食事のあと、みなそれぞれがパソコンにむかってカタカタ.....さぁ今度は団欒もかんがえよう。かずみさんがひとりぼっちになってしまうもの。

七十四の夜   (2003 4  12)    まりと...

 金曜日、まりと一日過ごす。車で郵便局や事務所や体育館、病にもいった。ケヴィンもいっしょである。わたしは母としてまりが歩き出すのを見届けたい。背を押してやりたい。まりのなかに眠っている芽を目覚めさせたい。この子は大きな潜在的力を持っている。生命力の強さは4人のうちで1番だろう。それが地の底に捕らえられてどうにも伸びることができない。その苛立ち、悲しみがわたしにはよくわかるのだが、どうにもできない。いっしょにひとつずつやってみよう。HPの技はもうまりが上だ。たった3ヶ月で。これからマシントレーニング。そして外へでてゆく自信ができたらいっしょにDTPを学びに外へ行こう。

七十三の夜   (2003 4  11)    恋

 惣が「5組はぼくのものだ」といった。真意は不明だが、クラスに根をおろすことができたようだ。よかった。三人の友人ができてメール交換をしている。新学期前夜、眠れなかったという。留年をして、新一年生といっしょになるのに 平静でいられないのはあたりまえのことだろう。いつかあとで、留年をしたことが豊かな人生をおくるきっかけになったと思えればいい。

 夏からTEL、恋は確実に進行している。というより夏が恋にどっぷり浸かって流されて溺れかけているといったところ。恋の手練手管のはなしになった。

七十二の夜   (2003 4  10)    保護者会

 役員決めでひとりのおとうさんの強力な意見により、今日 出席していないひとのなかからアミダで決めた。わたしは全員でくじ引きに手をあげたがひとりだけだった。欠席裁判のようでちょっと後味が悪かったが、出なければ役員にならずにすむというのも公平ではない。ときにはこのやり方も必要かもしれない。

七十一の夜   (2003 4  9 )    アメリ

 アメリを見た。まさにフランス映画。

七十の夜   (2003 4  8 )    風を感じたい

  風を感じたいと末娘がいうのでまりとケヴィンと出かけた。青毛堀についたとたん大粒の雨、風ばかりか雨も大いに感じるはめになり、早々に退散。濡れながらガストに潜伏。午後のお茶をいただく。新作のケーキは不味かった。デザートはデニーズかな。テーブル備え付けのゲームでロマンス占いをしたが,末っ子は数あるディズニーのお姫様キャラのうちポカホンタスだったのでおかんむり。つたやでビデオを5本借りた。ドニー・ダーコは面白かった。主演の俳優は頭も切れそうだし演技もよかったけど、高校生役で演技が上手いと思わせるのはそれだけで失敗だ。初々しさがほしいところ、けれどこれはおばさんの見解で娘はたいそう気に入ったらしい。ドリュー・バリモアがプロデュースした映画で本人も脇役で出演。ちょっと盛り込みすぎたかもしれない。夕方 井尾さんがそうじを手伝ってくれた。悲惨なキッチンだが天板の人口大理石のもようが見えるまで回復。今日不要な衣類、本など資源ごみをリヤカー2台分くらい出した。まりの羽布団とカバーリングを新調する。あとかずみさんの折りたたみベッド、娘たちのイス、惣のフトンカバー、リビングのカーテン。わたしのパソコン、4月は物入りである。


六十九の夜   (2003 4  7 )   踏絵

 ブッシュの戦争でひとつだけよかったと思えるのは、たとえばテレビ局、たとえば友人、そして語り手,(先生は別よ) 対応の仕方で信じられるとか頷けるとか見えたこと。フジテレビのなんとかなどはひどかった。コメンテーターも政府御用達。そして語り手たちには唖然とした。ひとにはそれぞれ考え方がある。けれど 友人を選ぶのは私の勝手というものだ。


六十八の夜   (2003 4  6 )   国税

  わたしはイケナイことをした。Dさんに国税が入ったと聞いて快哉をさけんだのだ。悪いことはできないね。なにをしたかは知らないが やりそうなひとだしあこぎなことはしてきたと思う。2月20日来の鬱憤が晴れた。神さま、どうかお許しください。

六十七の夜   (2003 4  5 )   約束

 HPはわたしにとって約束のようなものだなぁ。 祈りのようなものだなぁ。 ここにこうして文字にして記してゆくと想いはひそかに力を蓄え、いつか望みはかなうような気がする。それで わたしは恥ずかしげもなくあえて書くことをしているのだろう。祈りをこめて呪文を唱えるように 幾度もいくども 自分に言い聞かせるのだろう。

 
六十六の夜   (2003 4  4 )   帳

 毎日日記をつけていて、そのうえにこのごろは裏の日記も書いているというのに.どうして、なお書くことがあるのだろう。上手下手はべつにして書くことも話すこととおなじように空気のようになってきたのかしら。

 一年半まえ、日記を書き始めたころ、わたしにはひとつ目論見があった。いずれ小説を書くためのエチュードとして日記を書くつもりだったのだ。語りもこのサイトも目的はよりよく生きることすなわちよりよく死ぬためにある。けれども語り尽くせぬこと、HPでは書き得ぬことがあって、その余は創作しかないように思った。恋愛小説である。闇にあかあかと呼吸する燠火のように、未だ燃え尽きることなくたぎる想いがわたしのうちにある。語るたびに記すたびにすこしずつすこしずつ灰の色が濃くなり、埋み火は色を喪ってゆくのであるけれど。

 このまま待っていようか。降る時が想いの火の色を消して、薄い水色の煙になって空に還ってゆくのを見送っていようか。それとも書いてみようか、降る雨に吹く風に消されて、跡形もなくならぬうちに、男と女がであい、背を向けて愛し合い、すこしずつ 融けていって 長い時の果てに 真実を見出すものがたりを 躊躇いながら 記してみようか。


六十五の夜   (2003 4  4 )   春心

 移り気なのは春の陽気か秋の空か......今日は朝からころころ心が変わって、声も変わって、わたしのなかに何人ものひとがいるみたい。

六十四の夜   (2003 4  3 )   別れ

 研究セミナーの矢野さんがセミナーをやめるという。メールで理由を聞いてもよくわからない。他で習っている先生が「二股かけるのはやめてほしい」と矢野さんに言ったというのだが、そんなことでやめるようなひとではないのだ。わたしはすこし痛かった。セミナーはヨヨギの青少年センターで宿泊なので、矢野さんの部屋で幾夜か明かした。修学旅行のように、少女時代のように。矢野さんは少女みたいな生活感のないひとで、感性そのまま生きているようなところがあった。わたしはこのごろ少し疲れてきていて、もう振り回されるのはいやだなと身勝手にも思っていたので、わたしの気持ちが矢野さんに届いてしまったのか...とガラスの切っ先が肌に触れたような血が滲んだような気がした。

六十三の夜   (2003 4  2 )   花冷え

 朝からしとどの雨、一日かたづけものをしていた。埃のように溜まってゆく衣類や書籍や雑多な生活の道具、パンフレット、手紙のたぐい。日々の暮らしの汚れをすこしずつ吸着してその分愛着がわいた品々を潔く処分する。馴れ合いを断ち切るように、心残りなく吹きつける風に立ち向かってゆけるように。

六十二の夜   (2003 4  1 )   櫻

 今年も櫻が咲きはじめた。早く咲いてしまえばいいと思う。どうか咲かないでこのままでと願う。満開になったらなったで、一刻も早く散ってしまってと望み、一方で散るのを惜しむ、このこころの振れようはなんだろう。外へ出るのが厭だ。家の前には桜並木がつづいているから否応なく見なくてはならない。美しい、この世のものとは思えぬ櫻、 けれど部屋にいても気配がする、淡く濃く官能がたゆとうようだ、躰の奥底で呼応する熱を帯びてゆらめく想いのような名残のような胸騒ぎのような.....もう二度と帰らない懐かしい痛みのような愛のような......櫻の季節 わたしは気がふれている。

六十一の夜   (2003 3 31 )   劃

 「1000の昼と夜」を文字通り昼と夜にわけた。ここには地下室からしか入れない。ここまで来てくれるひとはそれだけの執念があるか、それともサイト内を彷徨って偶然きてしまったかのどちらかであろうと思う。毒があるかもしれない、醜い目を背けたくなるこころのありようを具間見せてしまうかもしれない。けれどすべてよしとしよう。

 わたしは数日あるひとを恨み、その思いで自ら躰の内部に孔を穿っていたのだ。ひとの仕組みは不思議だ。祈りとともに光が差し、恨みも憎しみも消えてしまった。そのひとが主人のためにくれたアガリクスきのこが突然脳裏に浮かび上がってきて、悪いひとではない....のだという気持ちになった。そしてわたしはでき得る限りのことを尽くす。

六十の夜   (2003 3 30 )   眠る

 なんとか入院しないですむかもしれない。

六十五の昼   (2003 3  29)  縋る

 細い一筋の糸でもいいのだ、絶望から這い上がるためには、ほら一縷の....というように。私が陥っているのは人間性への懐疑、戦時下であることも背景にあろうが、信じていたひとに裏切られた、このことが直接の原因の深い懐疑である。わたしの愛するひとたちがないがしろにされた、その痛みである。そしてそのことを防ぎ得なかった自分への苛立ちと悔恨。このようなことに振り回され、笑顔をわすれ、青ざめている自分への情けなさである。これらの咎はわたしを蟲のように食い尽くす。
 早く、このことを笑える日がくるように。  夏樹、おとうさん、おさだおばちゃん、そして......どうかわたしを見ていて、背中を押して。 自信と生きる喜びが甦ってくるように......

 五十九の夜   (2003 3  29)  戀

 戀と憎しみは存外似ているかもしれない。灼けつくようにそのひとのことばかり考えている。ひりひりとその不在を感じる。会えるものならこうもいおう、ああもしようと白昼夢を見るようだ。戀も憎しみも対象がなくなれば想いも消える?いえ、消えはしない。その想いは自分のうちから生じるものだからだ。愛は他者にむかい、その成長をわがことよりも希う。けれど戀も憎しみも対象を自分のものとしない限り終わらない。食いつくさなければ終らない。いつもいつも飢えている、乾いている。永遠に我が物とすることなどできはしないから。

 わたしはことさら自分を食い尽くすようなことをしているのだ、今。それを愛ゆえ....と錯覚している。憎しみに喰らわれるまえに、この場所で必要とされていることを忘れてはならない。本質に、今なさねばならないことにしっかと目を瞠り、細心の注意と大胆さをもって対峙しなければならない。道はひらけるだろう。それができるのは、ここではわたししかいないのだ。


五十八の夜   (2003 3  28)  黄色の空

 あらゆるものに八つ当たりしている。なにもかもいやだ。大塚商会の営業の杉田さんとか、うちの子とか、中学の先生とか、つっけんどんに返事したりして、判を押すのを先延ばししたりして意地悪してみる。カラーコピー機の料金体系はいやらしいけど今さら変更を迫ってもどうなるものでもない。そうじをしないからって子どもを怒鳴ったって自分の部屋はと問われれば応えるすべはなし、けれど子どもたちはわたしが怒り狂っている理由を知っているのでくちごたえもしない。それからいじいじ考えている。講座の共催はもうやめたとか、セミナーもうやめちゃおうか(振り回されるのに疲れた、けれど一人相撲と云えないこともない。わたしが語りや語り手に多くを求めすぎなのだと思う。他のひとにとって語りはただの語りなのだ、さほど聖なるものではない。金銭に換算できうる程度のものなのだ)とかPTAですこし暴れちゃおうかな(会費の使い方がいささか不透明なのでバランスシートをよく見ると隠れているものが見える)とか玉子やペンキぶつけたらどうなるかとか物騒なことも考えてみる。うん、人間不幸だとたしかにひとも不幸にしたくなる。ストレスたまってる。これはなんとかしないと大爆発。わたしはふだんはわりといいひとで頼まれたことはなんでもやるけれど、たまに爆発すると手がつけられない。

 そのなかできのうはデイケアセンターに行った。時間ぴったりについてキャベツのなかからぁ♪とみんなで歌って手遊びをした。それからかさじぞうと赤頭巾ちゃんをした。おかしなとりあわせだが、同じところに8ヶ月もひとりで通うとレパートリーも種切れである。このごろ気心も知れてきて時間があっという間に経ってしまう。いつまで続けられるだろうか。これも自分との競争である。

 なんとか気を取り直して 歩いてみよう。

六十四の昼   (2003 3  27)   突風

 今日は長男の誕生日だった。22年前やはりこんな風の強い日、息子は生まれた。大きな産声をあげて飛び出してきた。この世に、理不尽で、非道で、空しい闘いに明け暮れるこの世に。  彼は競争など俺には関係ないよといわないばかりに、友人たちと遊び、バイトをし日々を暮らしている、親の心配など知らぬげに。

 受け取るべきものを ひとは受け取るのだとわかっている。けれどもただただ、悲しい。イラクの戦争が、いえそれよりもっとみのまわりのことが。信頼を裏切られたことが。想いが通じなかったことが。TELをしても、FAXをしても答がないことが。自分でなすべきことから逃げ、それをなんとも思わずひとにおしつけてゆくひとの気持ちが。

 わたしは1年前、ドアをひらいてくれないそのひとのために、窓から語りつづけたことがある。知るかぎりのものがたりを心に届くように。乳母桜、雪女、ディアドラ、月の夜晒し.....わたしはどうすればよいのだろう。どうやってこの気持ちをかたづければよいのだろう。なにをすればいいのだろう。この憤り、悲しさを忘れるために。
 
五十七の夜   (2003 3  26)   生きる道

 銀座の中野先生のところへ行く。方策もみつからないので、上野駅で本を立ち読みした。「ぼくの生きる道」 と「エンジェル」。「ぼくの生きる道」はこのクールで一番心に残るドラマだった。グッドラックはちょっとね。キムタクもソロソロ考えた方がいいね。
それより途中で打ち切られてしまったけど「メーセージ」はなかなかの佳作だった。

 「エンジェル」は石田衣良の作。衣良といえば大島弓子の「バナナブレッドのプディング」だが、それはさておいてエンジェルの最後に 〜いつまでもつづく競争、途中で投げ出すことのできない空しい生の始まりにうぶ声をあげた〜 なんか全然ちがうかな  みたいなことが書いてあって今日はことさら身に沁みた。  ラポッポのパイを並んで買って帰った。

五十六の夜   (2003 3  25)   椿

 道ばたに赤い椿が手折られて落ちていた。もう萎れていたけれど拾い上げて家に持ち帰り活けようとして忘れていた。夕食のとき、誰が挿したのだろう。グラスによりかかるように小さな赤い椿。よろこびがこみあげてきて、わたしはおもわず笑った。

 劣化ウラン弾は核廃棄物で作られるため猛毒があり白血病、癌などを引き起こす。湾岸戦争で使われた劣化ウラン弾は英米軍あわせて950,000発(劣化ウラン約320トン分)が広範囲に使われた。イラクではこどもの癌が戦後3,4倍になった。先天性異常を持つ新生児の誕生も目立つ。国連決議に基づく米国、日本などの対イラク経済制裁による医薬品不足や医 療設備の不備などで充分な治療ができない。皮肉なことに地上戦に加わった米軍兵士も436,000人が放射能汚染地帯に入り、劣化ウラン粒子の吸入などで被曝したとされ る。
 


 昨年7月までに、湾岸戦争に参加した退役米軍人579,000人のうち、251,000人(約43%)が退役軍人省に治療を求め、 182,000人(約31%)が病気や傷害に伴う「疾病・障害」補償を請求した。病名は白血病、肺がん、腎臓(じんぞう)や肝臓の慢 性疾患、気管支障害、慢性的けん怠感、皮膚斑点(はんてん)、関節痛などである。これまでに少なくとも9,600人以上が亡くなり、湾岸戦争後に生まれた彼らの子どもたちの間には、先天性障害を抱えた子も多 い。また、同じ症状は湾岸戦争参加の英国兵にも表れている。


 先天性異常を持って生まれた赤ちゃんの穿たれた穴としかみえない目や口を、兵器を作ってもうけている愚かな人たちはどう見るのだろう。腕がなくても、足がなくても、肉塊にしか見えなくともいのちはいとおしい。抱きしめたい。ひとの思い上がり、飽くなき欲望がこの子たちを天使にした。世界はもう気付くべきだ。目覚めなくてなんでひとの尊厳があろう。ジャングルのジャッカルやハイエナよりひとは同類に過酷なことをする。そして酒を飲んだり笑いあったりできるのだ。今回、米軍はクラスター爆弾や劣化ウラン弾などは使わないだろうか?

 ひとの行方を探している。探し方はいろいろある。生きていればなにがしかの痕跡は残るものなのだ。仮に私が失踪するとしたら.....?名前は変えるだろう。もちろん住民票は移さない。土地も建物も持たない。電話は携帯で....過去の知り合いには決してかけない。そうすると部屋とか借りるのはむつかしい。住み込みで働くしかないか......
 二男の担任から2ヶ月振りの電話。自分の体面のことしか考えていないのが電話の声から伝わってきて、苦痛だった。必要な時にはかけてこないのに今日にかぎってどうしても話したいという。子どものことを愛せなくてもよいが、担任としてやるべき最低のことはしてもらいたい。県立高校の教員は玉石混交である。涙がでるほど、生徒を考えてくれる先生もいれば、自分の趣味に生きる人、マニュアル型(最近多いようだ)人生に倦怠を感じていてそれがあからさまに見える人など教えることに熱意の感じられない先生も多い。先生も生きる目的がつかめていないのだろうし、生徒と生徒をとりまく環境の変化に立ち尽くしているといったところなのだろう。

 

五十五の夜   (2003 3  24)   白壁に夕日、太陽はくまなく地を照らす

 一部二部の講座が終ったのは4:30、目眩がして動けなかった。しばらくシートを倒して車のなかから壁に落ちるオレンジ色の夕日のいろを見ていた。新しい風は吹くだろうか。読み聞かせから一歩を踏み出すひとはいるだろうか。 アンケートには 「私の語りを語りたい」 「こころを磨いてゆきたい」「ゾクゾクした。持ち帰ってみんなに伝えたい」などなど。これだけで終らせてはならないと思う。種を蒔いた。水をやり、添木をしてまっすぐのびてゆけるよう、わたしのできることをしよう。
 イラクのうえに爆弾が落とされている今、語りの講座を開くことには意味がある。語り手はいのちに光を与えられる、ひとつひとつの命を愛おしみ、生きるせつなさと喜びを語ることができる。....想いがあれば。  そうして心をひらいて語り合えることができるなら争いは最小に抑えられよう。ひとの心には闇がひそむ。しかし本来ひとは光に、あかるい方向に向かってゆこうという盲目的な意思を持って生まれたのだ。憎悪や利欲に曇らさなければひとは知らず知らず、隣人を愛し良きことをなすように他者を思いやるようにできていると思う。わたしたちが生きるということは、曇りを拭いながら、汚濁の世を歩いて行くことだと思う。

 そしてわたしも、わたししか語れないものがたりを語ろう。


五十四の夜   (2003 3  23)   心に響く語りの講座

 とうとう、この日がきた。三年前からの夢がかなって、この街に先生をお呼びして語りの講座をひらくことができるのだけれど、こんなにいろいろなことが山津浪のように押し寄せてくる時と重なるなんて夢にも思わなかった。アンケート、名簿、案内板。用意は整った。明日はこうべをあげて、笑顔を忘れないで。

五十三の夜   (2003 3  22)   イマジン

 娘たちとイマジンを歌った。想像してごらん、世界中のひとびとが手をつないでいるところを.......イラクへの爆撃を自分のことのように心配して行動を起こし始めたひとが友人のなかにも大勢いる。メールをおくる、はがきを投函する、署名を集める、HPで平和を呼びかける、方法はさまざまだけれどネットはわたしたちに勇気と力を与えてくれる。非戦の集会に10000人以上のひとが集まった。あきらめないで働きかけよう、世界はわたしたちのささやかな勇気で変わるかもしれない。世界を創られた神さまもきっとそれを喜ばれるだろう。

五十二の夜   (2003 3  21)   空襲

 太平洋戦争が終って、わたしは生まれた。それなのに防空壕に隠れたり、裸電球に覆いをかぶせたり、空襲に怯えたりした記憶があるような気がする。本をたくさん読んだから? 映画やテレビで見たこと? 想像力があることはときには辛いことだ。実際に起こるより前に、実際よりずうっと強く感じてしまう、痛みも苦しみも。だから幼いころは歯医者も注射もからっきしの意気地なしだった。
 おとなになって痛みを強く感じることは、喜びや美しさもやはり強く感じる、賜物なのだとわかった。そうだ、ひとの痛みを感じることができるのはそれは、ひとつの能力だ。眠れない日もあるけれど......戦争が終るまでイタイ日はつづく。


五十一の夜   (2003 3  20)   闇

 ひとのこころには闇がひそむ、それはいたしかたないことだ。光の影には闇があるのだから。しかしひとは闇があることを知ってコントロールしようとする。これは理性であり知性でもあるが、人間には本源から発する光や善に向かう力もあったはずだ。為政者や力を持つものがこのコントロールを失い、野心や利権、保身やおよそ命や正義とかけ離れたものによって動かされているとしたら、地上は薄明の世界となってしまう。
 フセインは愚かである。けれどもブッシュも過ちを犯そうとしている、ブレア首相も、小泉さんも、他者のうえに爆弾を落としておいて自分の上に落とすなといえはしない。ブッシュもブレアもテロを容認したのと同じだ。憎しみは憎しみを呼ぶだけだ。9・11のテロはなぜ起こったか、考えれば自明の理だ。戦争は国家による犯罪、個人が殺人をすれば断罪されるのに、国家なら大量破壊、殺戮が許されるのか。

 どうか、みなさん日本も加わって、貧しいひとやこどもたちのうえに爆弾を落としているのを忘れないで。あなたができることを.....おねがいします。
そして、語り手の方々、今こそ 語るべき時なのです。

六十三の昼 (2003 3  20)  心霊写真

 新水会の写真が届いた。時子さんの肩の上には確かに手があった。怖いなぁ。今日は娘と岩槻の登記所に行く。途中慈恩寺でお参り、二男のためにお札を奉納した。登記所で吃驚!  

六十二の昼 (2003 3  19)  まっすぐ

 霞ヶ関は様変わりしていた。国にはお金があるから高価な大理石の壁を高い天上まで張り巡らすこともできる。公共の建物が立派な国はえてして国民の住居が貧弱であるらしい。日本しかり。ロシアしかり。イタリヤはその逆である。でもわたしは昔の東京地裁のレリーフや黒光りする重厚な階段、ごみごみしているが熱気に満ちた地下食堂が好きだった。中野先生と落ち合うことができなくて直接12Fまで行った。........さんはあいかわらず紳士に見えた。この件は2年前に折込済みなので、和解にしても勝訴にしても思わぬ収入ではある。相手に誠意があればここまではこなかったと思う。

 銀行、登記所、学校に行く、夜連絡会。部門別管理と日次決算をなぜ時間をかけてまでするのか、問うたが案の定理解とはほど遠かった。意味も目的もわからずするとどうしても本筋からずれてしまう。12月の土木と運搬は日次決算の労務がひどく抜けていたので日次と実績では全くちがった結果になった。二桁以上ちがったら、しないほうがマシである。仕切りなおしてやるしかない。加須プラントは管理部で入力することにした。

 なぜ日次決算をするか?実績が出るのはよく月半ばなので、途中の予算管理を現場及び営業にしっかり把握してもらうためである。これは経理がやったところで身にはならない。うちの人間はひとが作った資料などめくら判を押すだけだった。

 いいことがひとつあった。大起さんから「初めてラインを頼んだが、思っていた以上のできで、仕事をして実に楽しかった、ありがとう」とTELがあったのだそうだ。お客さまにここまで喜んでもらえたら本望である。思わず涙がでた。

 国会議員さんにイラクの問題についてメールを送った。


六十一の昼 (2003 3  18)  それでも できることを

 夕べ、新聞社やテレビ局その他に戦争反対のメールを送りつづけた。なにもしないであきらめるのはいやだから.......不可避であろうと それでも できることをしよう......イラクのひとびとのために  世界のために  アメリカのために  自分のために
 少なくてもネットでわたしたちは意思を示すことはできる。

もし、このHPを読んで下さって 戦争に反対の方がおられましたら どうかお願いです。あなたができるなにかをしてください。

 http://www.geocities.com/ceasefire_anet/action.htm
(アクション先のリストです)

今日は東京地裁、梅村に起こした裁判の結果が出る日、そして学校に行く。決着をつける日だ。 早.....さんにTEL、最後まで責任を持つことを確認してもらう。大......さんに確認、大森2回目請求。

 
六十の昼 (2003 3  17)    リチャード・フランクリン 絶望

 35歳の若さで飛行機事故で亡くなったリチャード・フランクリンの絵がほしい。光と闇を封じ込めた、強いまなざしの少女の絵。

 イラクへの攻撃が秒読みの段階、石油産業、軍需産業との癒着、利権、金、中東蔑視、イスラエルとの関係、宗教戦争、選挙へのもくろみ、グロテスクなこんなことでイラクは新兵器の実験場となる。ピンポイント爆撃でもひとは死ぬ。住む場所を追われ難民となる。イラク戦争が終結したとしても肥え太った軍需産業は次なる贄を求めつづける。アメリカはなんと矛盾を抱え込んだ国だろう。そしてアメリカが望むのは世界の実質上の覇者なのだ。アメリカの矛盾は世界の矛盾だ。共和党が政権をとり戦争を起こし、民主党がやめて経済を立て直す。成長しない国だ。日本の現状を見ればアメリカを笑うことはできないが、すくなくともあれほどの悪は他国に及ぼしていない、せいぜい海老の養殖や熱帯雨林の乱伐による環境破壊、あとODAのバラ撒きでよその政府に腐敗をもたらすくらいだ。それとももっとあるのかしら。

五十九の昼 (2003 3  16)  引越し

 今日は久喜座の引越し、小道具、大道具を加須のプレハブに運んだ。妙に右手がだるいと思って、一回目を運び終えて車の中で軍手をはずしてみたら。爪が三本割れていた。人差し指から血が出ていて見たら急に痛くなった。短く切りそろえておけばよかった。家に帰って爪をついでに足のも切って手当てをしていたら、ケヴィンがわたしの爪を食べていた。カルシウムがたりないのか、究極の愛なのか微妙である。

 見る夢さえも重い。わたしばかりでなく、ひとは理解されたいのだ。それでいいんだよと肩をたたいてもしくは肩を抱いてほしいのだ。自分の決断に自信が持てればよいのだが、薄闇のなかをボートをこいで進んでゆく先に自信が100パーセントあるわけではない。そしてボートに乗っているのは愛するひとたちでもちろんわたしを100パーセント信じているはずもないと思う。でもわたしは愛しているよ、あなたがたをみな、それだけは信じてほしい.....といってもわかるわけないか。
 所詮、こうと思った道を選択するしかないのだ。そして死守して結果は軽やかに受け取る。誰のせいでもない。すべてひとは自分のなしたことの結果を受け取る。人生は至極公平なものだ。さて、この10日は家庭も会社も正念場。

五十八の昼 (2003 3  15)  それぞれの女

 ミュージカルの娼婦役で注目されたらしいマルシァが次回作のインタヴューで「今までは歌をうたうとき、自分のココロで歌っていた。このごろそれぞれの女の心で歌えるようになった」と語っていた。マルシァは開眼したのだなと思った。市原悦子さんは好きな役者だけれど、いつも市原悦子さん。市村正親さんもそう。大楠道代さんとか、それぞれの女になれる俳優さんは、顔も名前も不思議と浮かんでこない。役のイメージの方が強いからではないかな。劇団でもほとんどのひとは曳き出しひとつで勝負している。それは演じる私がいるからだ。私をカラにして役になる、それが役者なのだ。市村さんは市村正親を演じていて熱狂的ファンもいるけれど、わたしは自分が役者ならそれではつまらないと思う。他の人格になりきって、職業やひととなりだけでなくどのように育ち、どのようなトラウマを抱えているのかその人物の過去さえも観るひとに感じ取ってもらえるような役者になりたい。ただしそれには肉体とワザを鍛えることが必要になる。いれものを大きくしいくつかの色の声を出せるように練磨し細部の動作を美しくできるようにする、そうしなければ.......が宿っても思うように動かない。

 語りをしても、ものがたりそのものになる。語り口もおのずと変わる。そうすると舞台の神さまが降りてきて私は後方に引っ込んでじっと見ている。この、私がどこにいるかが問題なのだ。私が語るのか、私といういれものをなにかにあけわたしてなにものかに語らしめるよう最善を尽くすのかということ。そしてたぶんこのあたりが語り手のほとんどのひとに理解されないであろうところでもある。芸とはなにか、ワザとはなにか、楽しければいいのか、楽しければいいのだ、もちろん、けれどそのうえになにか、なにか......日記で自分を棄てる、我を棄てるということがキーワードになっているようだ。もうすこし考えてみたい。
 
五十七の昼 (2003 3  14)  地球人

 長堀小におはなしに行った。小さな小学校なので二年は2クラスしかない。1組のおはなしの時間がおわったあとも楽しい余韻が漂っていて5.6人が図書館に残っていた。「先生は何座なの?」わたしが牡羊座だというと、ひとりの男の子が星の図鑑のページを繰って,天球図のなかから牡羊座をさがしてくれた。赤色巨星やブラックホールのことも知っていた。するとほかの子が「先生、ヒロは半分中国人なんだよ」「こっからここまでが中国人、あとの半分が日本人」といって体の半分に指で縦に線をひいた。「この子は半分アメリカ人だよ。」といって今度はとなりの女の子を指差した。云われて見るとエキゾチックな顔立ちをしている。日本も多民族国家になりつあるのか......「わたしは、日本で生まれたんだから日本人」その子がむきになって云った。「なあんだ、みんな地球人じゃないの」わたしがいうと「そうだ、地球で生まれたから、みんな地球人」ということになった。ヒロは利発な子だった。希咲も綾音もみんな。
犯罪が増えるから中国人はこなくてもいい...とわたしは最近広言していて、今日はそのことを恥じた。

 介護ボランティアの更新のため市役所に云った。今年は語りたいはなしではなく、聞いてもらうはなしをしよう。そしていっしょに参加できる遊びや語りを企画しよう。Nさんが階段から落ちて入院。工事NO別管理の画面をつくってみる。夜、事務所でまたもや争い。


  五十六の昼 (2003 3  13)  息子の恋人

 長男にガールフレンドができたのは中3の夏祭りの夜だった。爾来7年間に袖ふれあう以上の恋人は3人いたようだ。今つきあっているちかちゃんとはもう4年になる。すらりとスタイルのいい、気性のさっぱりしたお嬢さんで、なぜむさくるしいうちの息子と縁がきれずにいるのか、なぞである。息子は男であるが腰まで届く髪の持ち主で行動はかなりユニーク、洋服は着たきり雀、見かけにまったくこだわらない。強いて取り柄といえばこのあたりでは名の知れたゲーマーであることくらい。勝手気まま、自由奔放に生きている。はっきりいって、親泣かせである。
 その朝寝坊の息子がおととい、5:30に起きてでかけていった。帰ってから聞くと、日払いのわりのいいバイトがあったので横浜まで行ったという。わりがいいって、いくらもらえるの? 「交通費込みで8000円」 交通費はいくら? 「1500円 」時間は?「8:30から5:00」 通勤時間までいれると?「6:00から8:00」それじゃぁ時給600円にもならないね。「そうなの?」 そうよ。 「でも、いいんだ、ホワイトデーのプレゼント買えるから」 おかあさんには?「チョコレートくれないもの」  ...そうか聞くだけ損した。
 息子に恋人ができてから、不思議なもので あまりかまわなくなった。自分のものではなくなった感じがした。ちいさいころは息子は恋人だった。

 品川の京和さんの事務所に支払いの打ち合わせに行った。東京の真ん中は腹の立つタクシーにも出会うけれど、品川駅のタクシーの運転手さんはいいひとばかりだ。さて支払いについて答は4/10に出るとのこと。工事が終ってから一年になるので決着がつきますように。給与振込みの手続きが終ってほっとする。


五十五の昼 (2003 3  12)  甘やかな苦痛または連環

 
ちかごろ新手のSM文学がはやりであるが、行為の描写だけなら、ネットでどうしようもないおばかなサイトはいくつもあるし、パルプのむだというものだ。ネットはなにが入っているかわからない巨大な闇鍋ではあるが、木を伐らないで情報が伝達できるという利点はある。ところでいかがわしいと思われているSM,これがなかなか文明論にもなり得るし、人間を知るいい手がかりにもなるのだ。たとえば平素の自分の行動を相手別に自虐的または他虐的に分類してみるとおもしろい。わたしはかなり強い攻撃性を持っているが、それがどんなときに内に向かうかといえば、愛の強さによるのだ。相手を軽蔑しきっているか、以前に強い痛みを相手から受けていたときは、そのひとを傷つけてもさほど意に介さず、爽快でさえあったりする。告白すると無知な人間は好きではない。この知は知識の知ではない。鈍磨した感受性といったらいいか、けれどそういう自分はどうかといえばあまり自信はない。いい加減であるし、たいした人間ではない。

 ひとは愛する者のために苦しむ、愛する者が貶められたとき、愛する者にいささかの疑念を抱くとき、愛する者の身が傷つくとき、その痛みは己のことよりもっと強く身を灼く。貶めるに至らしめた、疑念を抱いた、傷つくのに気付かなかった自分が許し難く、煩悶する。しかしこれはいささかの甘味を伴った苦痛である。だって愛ゆえなのだから。
 昔から謎だったのは、ひとが苦しむのを見ていられない自分が許せない、これは自己愛じゃないのということ。究極の愛とは己以上に他者を愛すること、己を棄て愛する者の成長を希うこと、(あれ、これでこいねがうと読むのか、知らなかった。)つまり自分をまっとうすることではないのね。これはマゾだよね。自分を棄てる快感。
 わたしはちかごろ仕事やなにかでささくれだっていて、ひとを罵倒することもけっこうあったりする。これもある種サディスティックな快感だけれど、勝利感と堕ちてゆく自分へのこうなんともいえない憐憫とのないまぜになった気持ちがあって、裏返せばこれもマゾ。宗教的悦楽、
神を受け入れるために己を空しくする、これもマゾ。やっぱりマゾの方がワンランク上みたい。この己を棄てるというのは本来の自己ではない。いわば欲望、我、割れ、狭義の我を棄ておおいなるものとひとつになる。そこに至る鍵が他者への愛というわけか。

 さて、サディズムは、エロス(生の本能)の表れであり、マゾヒズムはタナトス(死の本能)の表れである。タナトス、死の本能は、〈生〉を苦痛とし、自己の辿って来た生を逆行し、ついには生命以前の原始的な状態を終着点とする還元的・破壊的な方向性であり、自己を破壊しないために、そのエネルギーを外部に向けて他を破壊する。(以上1000冊の本からコピーアンドペースト).....とすると
サディズムとは自己保存の本能なのか。

 
昔話もそのあたりと関連がないだろうか。昔話には「死して生きよ」という発展の法則が描かれている。生は死を内包する。生と死は対立するものではない。生の本能そのものが転化すると死の本能になる。あともうひとつは、近代的我......有限な一回限りの孤立した存在から古代的我........回帰する全的な存在の我に......これが昔話の重要な法則のひとつなのだが、生と死、個と全、有限の時間と無限の時間、ポイントは二元論じゃないということか。回帰せよ。......、求めるものがライトUPされてきたかな。すきまだらけだが連環が成った。

 戦争も人類の自己破壊欲求の現れである。人類は物質的幸福を求めて何世紀かをひた走ってきたが、結果母なる大地を海を汚し、永い永い進化の結果の動植物を何千種も絶滅させ、オゾン層さえ穴だらけ、経済はお先真っ暗、文明は袋小路からにっちもさっちも動けない末期的状態にある。今までとは全く違う新たな価値観を見出さなければ、残念ながら遠からず崩壊してゆくだろう。もちろんそのまえにわたしは死んでしまうけど。もしや戦争は新生のための必要悪なのか。いや、そんなことはない。まだ人類には可能性がある。レミングのように盲目的に種族保存のために破滅へ向かう、そんな悲惨なことになるはずがない。

 さて、生と死の本能のバランスをもっと危なげなくとる方法がひとつある。それは笑うことなのだ。自分を笑う、ひとを笑う、えらそげで愚かな人類を憫う。たとえば、正義を下すために神に選ばれたと自負しているブッシュさんが、プレッツェルをのどに詰まらせて、あわや窒息するところだったなんて可笑しいよね。泣く行為の第一歩は同一視、笑うというのは、自己を相対化しなくてはできない。このどうしようもない人間というもの、おばかな、だけどかわいい自分を笑いのめすことで、辛さを相対化し乗り越えられる。
 でも、ロンブーなんかは好きじゃない。ひとを玩具にしているから。みんな笑いたいだろうなぁ。わたしも「がはは」と屈託なく笑いたい。語りをしている究極の目標はひとを笑わせることなのだ。でもそこに行き着くまえに、まだまだしなくてはならぬことがある。

五十四の昼 (2003 3  11)  支払いすんで

 10日の支払いがすんだ。今日は午後から浦和。嬉族inでシャンソンの練習に参加した。つまらないことだけどクラシックとの違いはなんとなくわかった。波の大きさと不定期性とツートト、トトツーの違いかな。歌っているうち体が熱くなった、これから楽しみである。帰りカフェに寄って、スバルで耳袋という江戸時代の怪奇小説ショートショートとLANのパソコン本を買った。机の引出しから貸し金庫の鍵が4年ぶりででてきたし、京和さんと話し合いの日程が決まった。早朝、薔薇色に染まった冨士山を見たせいかもしれない。冨士山を見るとどうして胸が高鳴るのだろう。


五十三の昼 (2003 3  10)  太郎くんの赤ちゃん

 昼から事務所に行ってバリバリ仕事をしていたら、春の憂いなどどこへやら。やっぱりこれだ。内側に向かってわが身を侵食しないように、外へ外へ、たくさんのひとと話を交わして、笑顔をかわして、これが生きてるってこと。夜事務所にトヨタの太郎くんがくる。同じ団地で幼稚園のころから見ていた子だ。甘えん坊だったのにいつのまにかおとなになった。帰ろうとして外に出るとかすかに赤ちゃんの泣き声がする。捨て子かしらと思って探したら車のなかであかちゃんがないていた。たてるようになったばかり、おいでというとわたしにたおれるようにからだをあづけてくる。かわいい。ちいさくてやわらかであたたかい。おかおがなみだとおはなでぬれている。太郎くんの赤ちゃん...抱き上げてほおずりして事務所に戻る。いいな、いいな、わたしにも赤ちゃんがいたのだ、ずいぶん遠いむかし....ああ、もう一度若くなりたいとは思わないが、赤ちゃんを抱きたい、母親になりたい。赤ちゃんのためだけの胸の隙間があるのだ、ほかのものではどうにも埋められない隙間がわたしの胸にもまだある。

 「たるから生まれた話」を書き終える。シュトルムかなにかにそんなタイトルがなかったかしら。研究セミナーの宿題は長い名の息子の再話だったが、まったくのオリジナルになってしまった。あすはシャンソン教室、今夜は眠れない?

五十の夜   (2003 3  9)  なぜかはわからないけれど

 ひそひそ痛む、春がちかづく頃始まって、爛けて夏が兆すまでつづく懐かしいような痛み。人を傷つける致命的なひとことを口走りそうで怖い。けれど、そうなったらそうなったでいいような、みんな壊れてしまってもいいような、凶暴ななにかがわたしのなかでうづ巻いている。すでにわたしは揺さぶられていくつかの言葉を吐き散らしてしまい、そのことでなおのこと苦しい。この負のエネルギーのベクトルを変えられるとよいが。
 
 再話という。再話はいくどか試みた。けれどテキストを変えることをしないでその制限のなかで、表現によってものがたりに光をあてるほうが今はおもしろい。光の方向、いろあい、強弱、影、ものがたりはいく通りにも変容する。風が吹いている。こんな夜、風の音を聞きながら眠れずにいるひとに安息がおとずれるように。


五十二の昼 (2003 3  8) 春

 ......の外に出たとき、夕暮れの空はシンフォニーのように美しかった。淡いピンクと菫色と白とブルーの雲の波、太陽が沈む寸前の西の空は金色、わたしと娘はガストでお茶をしながら、次第に深みを帯びてゆく空の青色を眺めていた。絢爛の幕は降り、今はまた雨、春はもろ手をひろげて、地にひそむ諸々のいのちの目覚めをうながしている。春にこの躰をゆだねよう。くさぐさのことはわすれて、大地と空のあいだの交歓のなかにいよう。風と新緑に染まり、花々の憂いをこころに沈め、少女の頃のように、あかしのようなほてりを身内に感じながら、この春こそは。

五十一の昼 (2003 3  7) わざ

 セミナーのメンバーのなかではTさんの語りが好きだ。おはなしと語り手の距離感がほどよくて心地よい。リズムがある。けれどもセミナーのはじめの頃「おはなしと誠実に向かい合いたい」というTさんのことばにかさかさ違和感があった。わたしにとっておはなしは外側にあるなにかでなく自分のなかにすでにあるものだったから。

 「私は叡智に導かれて,あらかじめ石のなかに潜んでいた芸術作品を鑿と槌で取り出しているに過ぎない」これはミケランジェロの残したことばである。これとおなじことが語りにもいえはしないか。絵本でも文学でも民話でもいい、物語を選択する、ものがたりは身の内奥に沈んでなにかと結びつく、そのものがたりを語ることで浮きあがらせ生命を与えるのだ。浮かび上がるものは千年、二千年の命を持つ大理石の像ではなく、陽炎のような、雨上がりの匂いのような、儚いつかのまの物語であるけれど、そして語り手はそれを聞き手のイメージの力を借りて織り成すのであるけれど。ピエタをダビデ像を見るひとの目に去来するものがあるように、ものがたりもひとのこころに触れ、流れ、ひたひたと寄せきて、思い起こさせる。幼き日にすがったやはらかな手、青い闇、愛しい、いとおしいと囁く声、いにしえの目くるめく想い、風に揺れる梢、さんざめく銀河、手をつたう冷たい水、流れ流れてここにいるわたしたちのありようを ちいさく哀しいそれでいて健気なひとの営みを。

 大理石の塊から匂いたつ青年を彫りだすのも、ものがたりに生命をあたえるのもわざの力である。けれどこれはただ人知、人力によるのではない。ミケランジェロの言にもあるように
叡智に導かれることなしではかなわぬことなのだ。表現という、見えないもののなかから美しきもの善きものをかたちに甦らせ現すという行いには霊感が強く関わっているのだ。わたしは幾人かの表現者にインタビューを試みた。そして信頼するひとびとから 同じような洞察と畏れの声を聞いた。


四十九の夜そして五十の昼 (2003 3  6)   夜と昼 アルテ

 わたしにとって語りは趣味ではなく、アクセサリーではなく、ボランティアでもなく、ひとのためにすることではない。生きることそのものにかぎりなく近い。.......と夕べ書いた物を見て、思わず笑ってしまった。重たい!!昔友人が夜と昼ではおなじことを考えても結論が違うといっていたのを思い出す。ひとは生(なま)物だが、それにしても恥ずかしい。
 興味深いことに気付いた。わたしはものがたりの世界ではなく語り手のなかの乾き、不在のようなものに感応していたみたい。....それで求められてもいないのに勝手に思い入れをしていたのだ。今回の騒動もその衝動が発端だった。先にひとの気持ちを汲んで、行動を起こしあとから自分の理由づけをしたのかもしれない。
 沈黙は金、雄弁は銀というが、その時代銀のほうが価値が高かったからで、沈黙が賢人のすることという意味ではない。ジュリアス・シーザー、ヒットラー、チャーチル、名だたる政治家は皆、雄弁家だった。あれは理性とは違う、情念に近いものに訴える。たとえ詭弁であってもかまわない、沈黙の群集は熱狂し、一体感に燃え上がるというわけだ。語る...というのは騙るの謂もあるわけだし、多数のひとを扇動することも可能なのだ。活字となるとそこに理性が介在する。客観的に判断することが容易になる。
 さて、語りはひとの知に訴えるものではないことが、納得されたが、ここでふたたび「カウンセリングかアート」かという観点から考えてみる。固有の体験を語る、もしくはおはなしのうえに固有の体験をのせて語るとき、語りは癒しすなわちカウンセリングになり得る。自分の裸にある秘めたものが現され、他者に受け止められるので、語り手にとって癒しとなるのだ。けれど、これは炉辺、井戸端でのおしゃべりの延長上にある。語り手によって固有の体験、物語が
普遍化されるとき、はじめて聞き手にとっても癒しとなるのではないか。物語は変容する。この変容に不可欠なのが、ひとつは語り手の人間性への洞察そして世界観であり、もうひとつはアルテ(わざ)なのではあるまいか。語り手は実に癒し手になりうる。しかし知らずしてまた意図して扇動家、騙り屋にもなり得るのだ。志を高く持つことと不断にわざを磨き続けることによって、語り手は清明な水晶の柱のように、燃え上がる火柱のように、周囲を明るく照らすことさえできよう。「カウンセリングかアートか」これは末吉さんの命題、わたしにとっては「個の癒しから普遍的な癒しへ」となる。セミナーは講義そのものより、参加し、語り、他の語り手との確執、交流のなかに刺激がある。いつも終って一週間ほどは触発されたことからつぎつぎと生まれるものがあってうれしい。明日は表現のわざそして表現者が得るものについて考えてみたい。
 今日プラグインの田中さんが会社のパソコンの保存装置をつくりに見えたので思い切ってわたしのパソコンの移し変えも頼んだ。80ギガ、500くらい、DVDつき、20インチ液晶、これでフォトショップとペイントショップ、イラストレータでいろいろ遊べる。宙子はうちにおく。長いこと、過酷なおしごとをさせてしまった。
 

四十九の昼 (2003 3  5)  光る風

 おはなしねっとの交流会に行く。各校の状況がわかって興味深かった。校長先生の心ひとつで積み重ねてきたことがくずれてしまう。「この学校の子は甘やかされている。ひとりで読む力をつけた方がいい」これで40人以上のおかあさんたちが関わってきた朝の読み聞かせが半減してしまうのだ。けれども養護学級に入れたといういい知らせもあった。わたしも一番いきたいところだったが、学校のなかでもなぜかガードが固い。
 代表の許可をいただいて3/23の紹介をした。時間がおしていたので、語りはできなかった。顔なじみのおかあさんたちがあとでがっかりしていたが、またチャンスはある。K小の方と話ができた。心が開いているいい話し方だなと思っていたら、ひまわり幼稚園の父兄だった。ひまわり幼稚園はうちでも下の三人が通ったこどもたちはどろんこ、まっくろわんぱく揃いの、生き残りをかけたジャングルみたいな幼稚園であった。おかあさんたちもさばけたあったかいひとが多かった。
 ふたりのおかあさんと食事をしながら話をした。わたしは300円しかポケットになくてうどんをいただいた。語りについてもりあがったが、ぽつりと「語りって両刃の剣だと思うんですよね」とKさんがいう。「どうして?」「絵本だと気が紛れるけど、嫌いな語りだとずっと聞いているのはキツイ」「何人かの先生の話を聴いたけれど、それで踏み切れなかった」....確かにそうだと思った。わたしはからだが受け付けない語りは聞き逃してしまう。ストーリーも覚えていないことがよくある。耳のなかに入れるのが苦痛だからだ。10人語り手がいてふたりはだめだからKさんの気持ちはよくわかる。櫻井先生の講義なら大丈夫、けれど誰が語ってもいいというのではないなあ。ほんとうに人間性があらわになるのだもの、相性もあるのだろうか。はんぱな語りなら確かに読み聞かせのほうが救われるかもしれない。

 夕方、児童センターに語りに行った。手遊び、語り、読み聞かせ、5ヶ月くらいの子がいっしょうけんめいあおむしでたよのきゃべつの手をして可愛かった。いい会だった。きのうの煩悶がほどけてとけてらくになった。

四十八の夜 (2003 3  4)  逃げたい

 Yちゃんがでてくる。きのうの声と全然違う戦闘モード、我が家は今週一杯こどもの学年末試験、わたしはせめて息子の最後の戦いを見守りたいし、実印がどこかへ散歩にいっちゃったし、春の寒風は冬の風よりよほど身にしむ。

 これでもう2日、なにも手につかないまま無駄に過ごしてしまった.。いくつになっても鉄の心臓といわれてさえ、傷つくことはある。わたしはセミナーの内容について自分のために意見を述べたつもりではなかった。勇気を出して提言したのはいくつか意見があり、それが反映されたほうがみなのためになる、不満をもつひとがやめることもなくみなで続けてゆけると考えたからである。結局は混乱をまねき余計なことをしただけだった。けれど世話役さんからあなたはひとりでセミナーを変えようとしているといわれ、考えて考えているうちに語りになにを求めているかはっきりみえてきた。先生はここでしか語りについて学べないとおっしゃった。でも目指すものが見える今、学ぶことは他でもできると思う。セミナーにこだわる理由は愛惜の念とほかにすこし、考えることにも疲れてしまった。やめてしまったらおたがいに傷口は残るかしら。

 絵ノない絵本の感想を三人からいただいた。三人とも表現という言葉をつかわれたのがうれしかった。その表現を深めるための努力をしてきたから。恒吉さんが伝えようという気持ちが痛いほど伝わってきたよといってくれてうれしかった。そう、いままでセミナーでわたしは自分のカタルシスのための語りをしてきたのだ。変わったことにみんな気付いてくれる、こうしてみんなで磨き合っていけたらどんなにいいだろう。あした、長堀小で語る、そのあとOKが出れば、読み聞かせネットで語る。
 
四十七の夜 (2003 3  3)  白くま

 朝、TELではなばなしいけんかをしてしまった。おたがいに語りへの気持ちはひとなみ以上にあるというのに。こんな日は白くまを食べて、ふとんのなかで泣くしかない。

四十六の夜 (2003 3  2)  ホワイトハウスにプレッツェルじゃなくてメールを

 キリスト教原理主義者がイスラエル右派と結びついていて、ブッシュさんがその原理主義者たちに頭があがらないのだということを初めて知った。ただイラクの石油の権益を考えていただけではなく、宗教戦争だったのだ。原理主義者は中東で戦争が起こり、それが終結したときキリストが復活し千年王国を打ち立てると信じているそうだ。オームとさほど変わらない精神構造だ。このままでは愚かな大統領の聖戦の名のもと、またも大量破壊が起き、わたしたちのような名もない多くのひとびとのいのちが奪われ、子どもたちが泣くのだ。それを世界は手をつかねて見ているしかないのかなぁ。それにしてもアメリカは目先の利益のことしか考えないからビンラディンやフセインに援助をあたえ、そのあと敵に回すというような愚かなことを繰り返す。なんと炭そ菌、ボツリヌス菌のような生物兵器のもとになるようなものまでイラクに売っていた、実に経済至上主義の国家なのだ。なにかできることはないかなぁ 戦争はいけない。そうだ
ホワイトハウスにメールを送ろう!!

四十五の夜 (2003 3  1)  春を呼ぶ嵐

 昼前、刈谷先生のところへいった。今日からニーナ、発声の水準で歌うこと。午後研究セミナーに行く。一昨日から働きかけをしたことに応えて、2年間の感想と今後への要望をセミナー生が話す場所をいただいた。ほっとした。かなり率直な意見も出た。多分全員が最終年度の更新をするだろう。内容も変わってゆくだろう。

 なぜ語るのか、なぜ癒されるのか、立っている場所がみな違いすぎて目眩がする。
語りが三輪車のひともいれば、乗用車のひともいて、空翔かける翼のひともいる、足そのもののひともいる、背負っているひともいる。
 わたしはなにをしている。徒にコップの水を掻き回しただけか。
 聞き手との魂の交流によって癒されるのか、必要とされていることに癒されるのかいいえそれもまったくないわけではないが、表現すること自体でも癒されるのだ。末吉さんが話したカウンセリングとアートについてのことばがのどに突き刺さった骨のように存在を主張している。客観的に構築することと主体としての関わりから語りをする。ふたつのあいだでわたしも揺れ動いている。刈谷先生はは客観的に完成度の高いものを差し出せという。けれど自分のこころからわきあがるものでなくてどうして人の心に響かせることができよう、ものがたりに自分の人生をのせてつつましく差し出す、それは再話といっていいのではないか、自分の表現という新たな照明でものがたりを照らし出す、それも再話、先生のおっしゃるストーリーテラーはストーリークリエイターにつながりはしないか。

 おだやかな常識人の語りが、えてしてさほどおもしろくないのはひとつのことを示唆している。セミナーを見回してみても、多少ズレているひとがわたしを含めて何人かいて、そのひとたちの語りのほうが惹き付けられるような気がする。それは傷をもっていて、その傷口の痛みを癒そう、焼け付くような不在を感じていて、それを埋めよう復活させようという無意識の願いが語ることの根底にあり、その願いが聞くひとのこころに沁みるのではないか。
 わたしがセミナーに望むのはまず本質的なこと、最初の「なぜ語るか」が語りを続けてゆくうちにどのように深化してきたのか、語っていくうち、語り手自身と聞き手になにが起きたか。次によりわかりやすくひとのこころをうつための具体的な技術論である。そして方法論としては学びあうこと。自分たちから踏み込もうとせず、ただ講師の話を聞くだけで、どうして豊かな果実を手にできようか。耳があり口がある。わたしたちは語り手なのだ。
 3/23については、参った。飛んでいる相方と孔だらけのわたしというコンビで、さてどうなるのだろう。

四十八の昼 (2003 2 28)   コップの中に嵐も吹けば太陽も微笑む

 太田小。朝のおはなし会学校中さまよってやっと6年1組の教室に辿り着いた。終ったあとおかあさんたちに3/23の講座のお誘いをする。三年前、先生に出会えたことで、わたしの人生はかわった。風が吹き、泉は湧き、花は咲きこぼれた。花々はやがて枯れる。泉も枯れるかもしれない。けれどもわたしの生は終らない。

 2月も今日で終わりだ。3日も少なくて仕事量はいつもの月より多いから、経理の仕事は目が回るようである。思うようにははかどらなかった。今日は担当者別出来高一覧表をつくったのが収穫。地上の星、林康子さんのイタリヤ歌曲集、由香利さんのシャンソンのCDを求めた。そしてセミナーは嵐が吹くかもしれない。けれどきっと仙女たちはみんなで虹をわたるだろう。


四十七の昼 (2003 2 27)   絶句

 今日デイケアセンターで うさぎとかめの後日談と芦刈ともうひとつ色話を語った。
芦刈の時、左近少将の想い人となった比佐女が、落魄し芦刈に身をやつした直方と再会するくだりで、突然比佐女の感情、翻って直方の気持ちがわたしを掴んで、芦刈の歌が歌えなくなってしまった。わたしは2/2に芦刈を語って以来、ほんとうに比佐女の想い、直方の想いにこころを寄せてはいなかった。ただ字面を追っていただけなのだろう。だから、比佐女の持って行き場のない気持ちに揺り動かされ、打ちのめされたのだ。
......この失敗をトムの会の山田さんに話したら、「そうじゃなくて、想いがあまり強かったのじゃない?なにかに触れてそれでまっしろになることってあるよ」と云われた。そういえば、語れなくなったことは今までにもあった。カイアス王、あれは今も終らないわたしのものがたりだから.......。 !!わたしは芦刈の前、導入の語りでかずみさんとわたしのなれ初め、そして今のことも語ったのだ。そうだったのか、それで想いが溢れてしまったのだ。自分が感情に支配されてしまうのは語り手として誇れることではない。恥ずべきことと思う。表現とは感情の吐露とはかけ離れたところにあるものだ。
静かな水面、しんと澄んだそこになにかが降りてくる。まだまだだなぁ、デイケアセンターのかたがたに申し訳なかった。けれど、強がっていてもそんなことであふれる自分の痛みがすこうし いとおしくもあって、そっと抱いていようと思った。

 仕事がいっぱいいっぱいだ。久喜座に顔だけ出した。

四十六の昼 (2003 2 26)   天使が降りてくる

 シャンソニエ嬉族INに行った。7年間続けたことが今日で終わったので自分へのご褒美。ライブは池田かず子さんと荒井由美子さん、曲目はリヨン駅、さくらんぼの実る頃、つる、淡きあかりに、毛皮のマリー、それぞれのテーブル、ひまわり、地上の星、ポルトガルの四月、わたしの意思、あきれた歌、サンスーシー通りで、私の孤独、愛はあなたのよう、ラ・クンパルシータ、ヘッドライトなど。
 池田さんが歌うとわたしの手のパンフレットが細かく振動する。あたたかさが波のようにわたしを包む。中島みゆきもしっかりシャンソンになっていて、わたしはヘッドライトを聞いて泣けてしまった。
 由美子さんは美しい歌姫だけれど、年を聞いてびっくり、わたしより年上なのだ。思わず、「あなたは八百比丘尼なの!?」と叫んでしまった。表現について話をした。自分が歌うのとは違って、なにかに歌わされているような気がすることはありませんか?と聞いたら「天使が降りてくる...ことがたまにあります」自分は空中に浮かんでそれを見ているのだという。それはわたしが語りで感じていることと同じなのだ。またかず子さんは「わたしが歌って、お客様から返って、そこになにかがたちのぼる」といった。それもまた、語りにこよなく近い。思ったとおり、語りと歌は姉妹のようだ。

四十四の夜 (2003 2 25 )  霞立つ

 朝の光のなかで、大地から一面に白く靄がたちのぼっていた。それは白い波のようにも見え、精霊の裳裾のようにも見えた。
 疲れたなぁ。弱音を吐きたくはないが、今日は2、3度、目眩のような一瞬意識が遠のくような感じがあった。プラントの建設が進んでいる。かずみさんの最後の新規プロジェクトになるのかしら。いいえ、あのひとはこどものように、どこまでも草原を駆けてゆくのだろう。そしてわたしはエプロンで手を拭き吹き、あとを追いかけてゆくというわけだ。エプロン姿ならまだしも。ここ2日はすっぴんで、もんぺ姿で髪振り乱しかけまわっている。ぜんぜん美しくない。今日も銀行二箇所行って、朝から食べていないことに気付いて、モスバーガーにそのままのかっこうで入った。クラムチャウダーとフレッシュバーガーを飲み込むように平らげて、こんなすがた、端から見たらどうだろう。人間、馴れてしまえば、なにもコワイことない。お金をくれない会社の社長と部長と担当者と電話でMAXで怒鳴りあった。訴えてやると叫んでガチャンと切った。Kホンダという会社である。明日はらう、来月払うと言われてもう、三年になる。明日、担当者が代金を持参するそうだ。キョウワグミとの話し合いは進んでいない。れほぼてとブシュウに文書を送らなくては。かずみさん、あなたが自分の夢にむかって進んでゆくとき、わたしは徐々にオニババになってゆくかもしれない。それでもいい?わたしを愛していますか?運搬のコードを作って入力した。けっこう実務もできるようになった。Yちゃんが入院したことは彼女にとってたいへんなことだったが、任せっぱなしにしていたところ、不備なところが見えてきて整理もついてきた。うちの経理は云ってはなんだが最強である。


四十三の夜 (2003 2 24 )  研究セミナー

 久美ちゃんが夜までセミナーにいると云ってくれた。よかった。久美ちゃんはクリームのようになめらかな甘いことばかり口にするひとではない。苦いこともしょっぱいこともはっきりいう、ひとことでいえば裏がないひとだ。久美ちゃんも先生の語りを聞いて語り手になったのだ。
 セミナーが近づくとなんだか落ち着かない。行きたい。だが行きたくない気持もあって、ふたりのあいだで、行く?どうする?ねえ行こうよというメールのやりとりがある。なぜ行きたくないか分析すると、タブーに触れてしまいそうなのだが、セミナーはどこか遠回りをしているような感じがするのだ。必要でなさそうなことに時間をかけていてもっと時間をかけてほしいことにいかない。わたしたちには計り知れない目的があるのかもしれないけれど。あと人間関係がややこしい。それとあいまってスタッフのなかでもセミナーになにを求めるか、統一した意思にかけ不協和音さえあるような気がする。そのうえに敢えていうとわたしの求める語りと微妙に違う。たぶん私自身が異質なのだろう。先生とメンバーの何人かに会えることと夜語りしか楽しみはない。進級を賭けた息子の学年末試験の真っ最中だし、途中で帰ろうか、どうしよう。

四十二の夜 (2003 2 23 )  講演会

 河津桜が満開だそうだ。このあいだ、増田さんはわたしを誘いにきてくれたのだ。けれど、わたしが猛り狂って仕事をしているのを見て帰ってしまった。桜を見たい。桜に埋もれていたい。歌いたい。語りたい。ウルルン紀行で若手俳優がバリ島のガムランを地元のひとたちとともに演奏することを体験して、自分のなかに神様がいることに気がつかせてくれた....といっていたけれど、音楽や芝居そして語りなど芸能には神が在ますと思う。太古、神に捧げられたことから始まったことも無関係ではあるまい、すべてが祈りから始まった。だから歌いたい、語りたい、芝居をしたいのだろう。

 おはなしねっとウィング主催の講演会に行った。甲斐さんに会ったので3/23のちらしを太田小のおかあさんに配ってくださるようお願いした。講師は現役の司書さん。ご自分の読み聞かせより最後に聞かせてくれたストーリーテリングの方がずっとすてきだということに気付いているだろうか。達者な読み方、語り方だった。馴れていなくても真摯なほうがいい、好みからいえばわたしは甲斐さんや庄司さんの読み聞かせのほうがずっと好きだ。

 二時間の講演のなかで、要点はみっつ、絵本の読み聞かせで絵と文章をセットにしてそのうえに愛された記憶をたしてこどもは記憶しているということ。たとえばぐりとぐらではほとんどの子がかすてらではなくホットケーキとして記憶し、匂いの記述がないのにいい匂いがしたと覚えているということ。ストーリーテリングで聞かせたおはなしのケーキの挿絵をこどもに見せると、なあんだ、ぼくが考えていたケーキのほうがずっと大きくてすてきだ....とみながいうということ。(つまりこどもはことばではなくイメージとして受け止めている)「世界で一番美しいぼくの村」の読み聞かせで戦争はこんなに悲惨だと自分の考えを伝えようとしたのは間違いだった、おはなしをそのままわたせばいいのだと気がついたということ。そして、深くこころに響いたとき、こどもは寡黙になるということ.....これはほんとうだ。

 講師は最近、おかあさんがたが読み聞かせより、パネルシアターや人形劇にシフトしていることに憤慨していた。それでは本にむすびつかないという。けれど、なぜ本なのか。また、考えとして本のもっとも良い読み方はすべて信じないで疑いながら読むことだとおっしゃっていた、まさかそれは文学や児童書の読み方ではないだろうと思う。本を読むことはなぜ必要なのかといえば、想像力を豊かにし、さまざまな世界や考えのあることを知り、自分の世界観を持つにいたることではないか。その過程においてはかかれていることを信じ、その世界に浸らなければ豊かな読書体験にはならないであろう。

 絵本はわたしもすきだ。けれども読み聞かせより語り...ストーリーテリングのほうがよりこどものイメージ、内奥のチカラを呼び起すことができるのではないか。絵と文章がマッチしているよい絵本をさがしなさい....というアドバイスはアドバイスとして絵本のなかからさがさなくとも、こどものチカラを呼び起すものがたりは砂の数、星の数ほどある。そしてそれを伝える話し手、語り手は自分の感性やこころを磨くことがいちばんの近道のような気がする。技術は時間がかかってもあとからついてくる。伝えたい想い、ともに楽しみたい想いがあれば、そこから一歩が始まる。

 こころに響くものがたりを聞いたこどもはどうなるだろう。たぶんやさしくなる、すこしゆたかになる、かんがえるようになる....本を読みたいと感じるかもしれない   けれど本を読むことが到達点では断じてないのだ。たとえ本を一生のうち数冊しか読まなくても  己のためだけでなく 他者のしあわせのためにも生きた 実りある豊かな人生を送ったひとは、中島みゆきの地上の星は、あまたいたのだ。活字が発明されてどれだけの時間がたったというのだろう。

 ストーリーテリングが図書館からはじまったこと、本を読ませる前段階としてのストーリーテリングになってしまったことが、そもそも 不幸せなことだったような気もする。けれども図書館の司書さんたちは読み聞かせやストーリーテリングをただ仕事としてしているのではないと思う。そこには喜びがあると思う......語ることも到達点ではない。けれども、語ることはこの苦痛にみちた人生のなかで癒しとなりうる ひとはなぜ生きるのだろう、どこに行こうというのだろう それはわからない しかし語ることは生きることの肯定また死することの肯定につながり すなわちひとりひとりの人生そのものの肯定につながってゆく、そしてたまさか喜びそのものになる  それはどんなとき?語り手と聞き手がものがたりをともに生き、共感しているときだ あぁ生きるっていいなぁ しあわせだなぁって感じるときだ。ひとりひとりがあてがい扶持でない固有の、それでいてみなに愛され愛し豊かな生を生きるために、語りは力になりうるのだ。 

 公共の施設で商行為は禁止と聞いたが、関連の書物などの売り込みを講師はしてもいいのかしら。
 数日前、友人から語りで謝礼をいただくことがままあると聞いたけれど、それはいいのだろうか。わたしはボランティアとことさら考えたことはないのだけれど、個人的にはボランティアは金銭と別のところにありたい...と思う。身銭を切ってもいいと思う。金銭に換算できるのは些少のことだ、そんなことに関わると、大きな贈り物をのがしてしまうと思う。こころからの謝礼を受け取ることを悪いとは思わない。でもこどもたちに語ることで計り知れないよろこびをいただいている。そのよろこびを曇らせたくはない。もしいただけば、たとえば5000円の価値しかなくなってしまうような気がするのだ、究極こういうわたしのような考えがもっとも貪欲なのかもしれない。



四十一の夜 (2003 2 22 )  ケヴィン

 朝 おまえは ひさしぶりに マミィを起こしてくれたね 痛いほど尻尾をふって 恥ずかしくなるほどわたしの顔をなめて 起こしてくれたね それなのに マミィは起きられなくて 事務所にも行かずに横になっていた おまえのしあわせは いっしょに散歩に行くことだとわかっているのに ただ ぼんやり 過ごしてしまったね ごめんね

四十の夜 (2003 2 21 )   夜に

 仕事がはかどらない。雑用に追われているが、そのこまごました雑用が星間物質みたいなものなのだ。今に銀河系宇宙になったりするのだ。
 

三十九の夜 (2003 2 20 ) 叛乱

 深夜、ひとりでカラオケハウスにいた。なにも考えないで声を出すことに専念した。けれど思いが声になってほとばしる。雷鳴のように、激しい雨のように、奔流のように そうしてからだのなかがすこしずつ透明になってゆく、 逆巻き波立っていた水面に漣が走る、そして鎮まる。
 元ちとせを中心に尾崎や中島みゆきや高橋真梨子、都はるみ、美空ひばり、紫小唄や明治一代女まで30曲歌って外に出る。車のなかで夜明けを待つ。強風に車が揺れる。冴え冴えと月が耀く。いつのまにか眠っていた。東の空が白んできた。エンジンをかけて、日の出が見える場所に移動する。太陽がのぼる。
 

三十八の夜 (2003 2  19) 伸びる葉

  仕事を終えて10:00近くに家に着いた。桜の並木の下に瑞々しい緑の葉が伸びていた。14年前植えた水仙の球根が今年も忘れないで、芽を出したのだ。1個20円で50個買った、あの店ももうなく、売ってくれたおばあさんも亡くなったというのに、水仙は今年も蝋細工のように美しい花を咲かせてくれるのだろう。

三十七の夜 (2003 2  18) 小雪

  車を会社においてきてしまったので、自転車ででかける。自転車といってもタイヤが22インチほどの車戴用なので、ペダルを踏み込んでも思うように進まない。冷たい空気が顔をかすめてゆく、裸木が灰色の空に寒さにすくんだ枝を伸ばしている。畑も緑のかけらもなく寒々と凍えている。かさかさ小砂利を踏んで自転車は重たげに走る。家々の息遣いが見えるようだ。新しい家々はとりすましているけれど、古びた家はいながらにして多くを語ってくれる。住人のひととなり、暮し向き、匂いまでも。車からは見えないものが見える。車では通れない小道をみつけるとうれしくなって思わず首を振ってしまう。結局30分かかって会社についた。長い旅をしたような気分だった。すぐ車にのって同じ道を5分たらずで走りぬけた。車に乗れば早く楽に目的地に着くのだけれど、そのことでなにを失い、なにを得たのだろう。車で過ごすひとと、そうでないひとと人生観も語りも変わってくるだろうと思ったことだった。

 おはなしの森の例会でちらしを配る。Oさんとずうっと5ミリほどすれ違ったままでおはなしをした。わたしは語りをするひとの語りたいという衝動がどこから発しているのか知ってときおりはっとする。ぎょっとすることもある。それはいろあいは違うけどそれぞれ似通っている。復権といったらよいのか修復の試みといったらいいのか、回帰といったらいいのか失われたものを取り戻すための必死の手探りに似ている。けれどOさんの場合はよくはわからない。見えそうで見えない。

 夜 全体会議 仕入れを制するものが損益を制すると話した。書類の流れを滞りなくするための試みを明日までに。

四十五の昼 (2003 2  17) 光降る... 

 3年1組の教室は東の窓から射しこむ光で溢れていた。担任の先生がカーテンをひいてくださったが、白いカーテンを通してさえ光の強さが春の近いことを告げていた。今日でひととおり三年生へのおはなしが終る。そして今日は学年最後のおはなし会でもあった。そのことを知ったのは終ったあとだったのだけれど、今日は、ひとつ扉が開いたような気がする。きのう新水会でみなさんの語りを聞いたことがきっかけになった。肩の力がぬけて 自然におはなしができて 子どもたちの反応を見ながらこちらもそれに応えながら語れた。すこし先生の語りに似ていたかもしれない。そうすると子どもたちの心もゆったりと開いてくるようだ。見ていたおかあさんがこどもたちが本当に楽しそうだったと後で話してくれたけど 一番楽しかったのは たぶんわたしだ。しあわせだった。課題がひとつ、さいごに「おばあさんがビスケットをいちばんさきにあげたのはだれでしょう?」とこどもたちにたずねる、こたえは子リスということになっているけれど こたえはひとつでなくてよいのではないか、こどもたちのこころのなかに浮かんだものがたりはすこしずつちがっていいのかなと思った。

 一度家に帰って本町小の図書ボランティアの集まりに3/23のちらしをプリントして持ってゆく。ひとつ隣の席にいたKさんがとつとつと「うちの娘は森さんのおはなしが大好きで 学校であったことはほとんど話さないのだけど おはなしがあったときは身振りまでして楽しかったと話してくれる」と云ってくださった。読み聞かせの本だと絵にしばられてしまうけどおはなしはひとりひとりの子の世界がもっとひろがるようだとも....うれしかった。わたし以外はまだ読み聞かせでそれはそれですてきなことなのだけれど 語りをするひとがすこしずつふえるといいと思う。この会をたちあげる原動力となったSさんが3/23の講習会を楽しみにしている。躊躇っていたら 早くちらしをみなにわたしてとうながしてくれたので 代表のKさんにはなしてもらった。わたしのとても好きな方が「なんてきれいな文章でしょう」といってくださったので、それはほとんど先生の著書からですよと話した。 さぁ 種をまいた。芽が出るかしら?花が咲くかしら?明日はおはなしの森で勧誘、それから甲斐さんに太田小の読み聞かせのおかあさんにちらしを届けてくれるようお願いする。甲斐さんが高校の後輩であることもわかってとてもうれしい。甲斐さんは清潔な初々しい読み聞かせをする方で 甲斐さんが語ってくれる日がくることを わたしは心待ちにしていたのだ。甲斐さんも3/23 講習会を楽しみにしている。

四十四の昼 (2003 2  16) やさしい雨

 刈谷先生にはじめて誉められた。古典歌曲を歌うことは、細い橋の上をふみはずさないように注意深くそれでいて躊躇せず思い切りよく進んでゆくようなものだ。節制、そのなかに美しさがある。滋味がある。わたしが買ったCDのホセ・カレーラスは楽譜とおりに歌ってないことがわかった。半音も装飾音も無視している。それともロマン派かなにか別の楽譜があるのだろうか。次回から「ニーナ」に入る。

 新水会に行った。恒例の親族の顔合わせが年に一度、大宮の清水苑で開かれる。各自が一年間の報告をするのがならいだが、これがほんとうにおもしろい。たくまぬユーモア、それぞれの語り口がかもしだす温かさ、拾数年続いている伝統もあるのだろうが、語り手として とても勉強になった。間合いである。聞き手からかえってくる反応を充分受け止める余裕である。さて、自分の番になって 声に力をこめないですぅっと語れた。間合いはもう少し。

 ジュンク堂でフラッシュ、DTP関連の本を買う。久美ちゃんはいなかった。伊勢丹にまわってかずみさんの誕生日の準備、TOPSのチョコケーキ、赤福も買った。荷物が重くてふーふーしながら帰った。夜もまた大宴会。


四十三の昼 (2003 2  15)  風はまだ冷たくて

 アルバイトの給与計算、給与振込みがすんだ。バレンタインデーのチョコもくばった。フランボアーズとピスタチオのチョコがピンクのいろあいもテイストもよかった。あと近くのドゥーヴルシェフのヨーグルト味の生チョコも美味しかった。入札参加のネットを通しての入力も終わった。娘に手伝ってもらってHPのリニューアルをした。負うた子に教えられになり、こそばゆいようなうれしいような。わたしを傷つけるのをやめよ?を覚えた。イタリア古典歌曲は無駄な情感を廃し、清潔に楽譜とおりに歌うのだそうだ。そればかりだとフラストレーションがたまるので ちとせの歌を歌っている。ハイヌミカゼが今は好き。ケミストリのセカンドアルバムを買って聴いたが今一感心しない。サザンのバラッドのベストアルバムでないかな。
 来週は全体会 NPOの勉強会 未収金 書類棚を整理 営業日報の自動集計ができるようにする。個人的には嬉族INでシャンソンを聞いてよければレッスンを始める。名簿を作成して講座の案内を送る。おはなしをひとつ覚える。うさぎとかめの後日談にしようかな。銀行で支店長さんとおはなし.....新しいビジネスノヒントだとかずみさんに報告したら、そういう仕事はもうあるよといわれ すこしがっかり。けれど まだうちでは営業してないしがんばろう。桶川の紅花亭?というところが語りをするのにいいのじゃないかという情報をいただく。

四十二の昼 (2003 2  14)  クロッカスはまだ?

 郵便局の駐車場、車のなかで とりとめないことを思いながら外を眺めていた。すると西日のあたる壁の陰から、わかい女性があらわれた。化粧っけのない潔い横顔をみたとき、おかあさんがこどもを待っているのだ...とわかった。視線は一点を見詰めている。 まっすぐな黒い髪を束ねたそのひとははずいぶん長いこと、心配と愛と誇りの入り混じったまなざしをして歩道に佇んでいたが、ひとこと「たける」と叫ぶとついと壁の陰に消えた。ほんとうは車のなかから声は聞こえなかった。けれど聞こえたような気がしたのだ。ほんのすこしたって、そのひとはふたたび弱い早春の光のなかに現れ、その手のさきに予想よりはるかに幼い二歳になったかならないかの男の子がいた。あのひとも家にかえって、幼い息子におはなしを聞かせるのだろうか。

三十六の夜 (2003 2  13) 水仙月

 出かけようとして、もう一度ふとんのなかにダイビング!!あぁ わたしはほんとはなまけものでいるのが好き、ふとんのなかで本を読んだり、ぼんやり考え事をしているのがね。生き急ぐように追われるように 仕事や語りやもろもろをやり過ぎた。もっとのんびり楽しんでやりたいね。
 朝、出掛けに惣が「つまらない..」「なにもいいことない...」 と言った。この子はガールフレンドといるよりは中学時代からの友人たちとスポーツをしたり、遊んだりするのが好きみたい。そのうちのひとりが今週の日曜日 引越しをした。家庭の事情もあって一人暮らしをするらしい。高校は中退してしまったようだ。立ち話をしながら煙草をすっている横顔はシャープで精悍だ。惣はなにか感じることがあったのかな。わたしはおろかな母親なので、ポケットのなかの一枚の千円札を「ちっさなしあわせあげる」 と惣に手渡した。

四十一の昼 (2003 2  12) 寒冴える

 しんしんと寒い日であった。今年は承認されれば、ここ久喜市で継続して語りの講習会を開いてゆきたいと思う。なんのために開きたいのかといえば、トムの会のためではない。敬愛している先生のためでなく、語り手たちの会のためでもない。ましてわたしの名をあげようというのではさらさらない。
 読み聞かせをしているおかあさんやおばさんたちに語りをもっと知ってもらいたい。そのうえで学校や幼稚園で語ってもらえたらと思う。こどもたちに伝えたいものが、想いがある、ながいながいこと語り伝えられてきたものがたり、あたらしいものがたり、それらを通してひとつひとつのいのちをいとおしむことの大切さを、美しいことばでひびきでつたえて共感してゆけたら....そのために講習会をひらきたい。わたしがそうであったように語り手にとって語ることは生き直すことでもあり、聞き手にとっては、いのちに光を、みずみずしさを甦らせること、それだけのちからを語りは持っているのだから。 

四十の昼 (2003 2  11)  氷雨

 派手にけんかする。長女が「わたし、もう我慢しないから」といったので「おかあさんもしない、あなたが我慢しないのはいいことだけど、約束は守りなさい、守れないならひとりで暮らすのね!!」 「おかあさんの育て方がわるいから、こうなったのよ」「.....」 !!★!!と罵倒しあった。たぶんそうして思いのたけをぶちまけるのはあの子にとって悪いことではないのだ。いつもわたしのリアクションを測っているのだもの。このごろ夜昼がはっきりしない。以前はそういうところはきちんとしていたのだが、HPを開いてからめちゃくちゃでケヴィンの散歩もしない。それもいいことなのか......
 ビルダーとエレメンツの簡単な手ほどきをしただけで自力でHPを立ち上げた。贔屓目かもしれないが、センスのあるサイトと思う。どこかで伸ばしてやりたい。顔色を伺いあったり、おたがいにもたれあうのはもう終わりにしたい。二女が絵を習いたいとい言い出した。これもできることなら叶えてやりたい。いい学校にやりたいとかそういう気持は今では砂ひとつぶほどもない。自分を表現するすべを知ることがどんなにひとに力を与えるか、そのことがこの世界のなりたちの秘密さえ垣間見せてくれることをわたしは知ってしまったから。
 蓮田の地中海クラブでディナーをいただいた。おいしかった。美味しい食事はつかのまではあるがひとをしあわせにしてくれる。

三十九の昼 (2003 2  10)  いのり・いのち

 朝4時にかずみさんから起こされて高速をひた走り、ひとと会った。それからトンボ返りでうちに戻って朝食のしたくをして小学校にゆく。今日は5年2組、静かなクラスだった。ホイマシペーターをしてもあまり元気がない。ほうすけを語った。視線が集まってくる。こころが集まってくる。ひとりひとりが自分のほうすけの世界を抱いてそれがわたしにかえって、ほうすけはちからをもってゆく。淡々と語ったのだが、三人くらい,目をおさえていた。わたしも震えた。終ったあとしんと声もなかった。

 今日も忙しく過ぎ、支払いを終え 手を加えた雪やこんこんを速達で送った。生協でラインの営業をしているのを見ていた末娘が「おかあさん、かっこよかった」とかずみさんに話していた。今のわたしはなんでもできる。それは自分を利するところから遠いところにいるからだ。ようやくここまできた。いのちを伸ばす、生き生きとさせる、ことばを語り行いをしてゆきたい、相手は10歳の少年少女であっても、56歳の叔父さんであっても。ひとを生かすことが己を生かすことになる。いのりはいのちにつながる。

三十五の夜 (2003 2  9)  夕日

 夕焼けの写真が一葉あったとして、それが朝日か夕日か区別がつくのかしら。わたしは朝早く、戸外に出ることがすくないのでよくわからない。車のなかで実に見事な夕日を眺めていたら、いつのまにか眠っていた。目覚めてどんぐりでコーヒーを飲んだ。どんぐりは久喜で一番美味しいコーヒーを淹れてくれる喫茶店である。北欧のプータローハウス、木の温もりのある店内にすわっていると、なにもかもわすれて空気のように意識がふわふわ漂っていいきもちになる。

 そういえば刈谷先生に叱られた。あなたは歌を本気で覚えようとしていない。なんでも器用にできるから、それがかえってさまたげになる...というようなこと。わたしは刈谷先生のヴォイストレーニングにいくとき、うれしくてうれしくてはちきれそうになってゆくのだ。けれどそれは声を出したいからで、たしかにイタリヤ語のなんだかわからない歌はあまり好きではない。クラシックの発声をしていると声が硬質になるような気がしたが、声に空気を混ぜるとやわらかくなるそうだ。うん、それでも 心に響く音は出せないような気がする。西洋の声楽で出す音はいい意味で濁りがない音、ストレートな音だ。わたしが出したいのは細い音が幾本も縒り合わさったような豊かな深い音。大地の響き、風の音、水のせせらぎに通じる音。

 埼芸さんの「雪やこんこん」のちらし好評だそうでよかった。ほっとした。重いのでメールに添付できないからHPに貼り付けて確認してもらった。こういうときHPは便利である。稽古場にTELしたら熱気が伝わってきた。すこしでも後押しできるよう、今夜 気になっているところの手直しをしよう。
 明日は支払日、朝本町小でおはなし会。きのうは県立図書館でおはなし会。火曜はたぶんおはなしの森、水曜は浦和、そして給料の支払い、入札参加の書類、今週は週末まで仕事がいっぱい。
 
三十四の夜 (2003 2  8)  涛々

 夜 かずみさんが「おれはおまえと結婚してほんとうによかったと思っているよ」としんみり言った。そんなことはない...わたしはいい妻ではない....と言いかけたが、黙ってかずみさんの気持を、そのことばの重みを受け取ることにした。わたしもあなたがだいすきです。あなたに会えてよかった。ホイットマンのいうようにあなたもわたしも大海のひとしずく。ふたりは会った、それがどんなしあわせなことであったか......。

三十九の昼 (2003 2  7)  続々

 セミナーの申し込みがあった。福島や新潟から久喜まで先生のセミナーに見えるのだ。その熱意に脱帽、けれどそれだけの甲斐はある講座である。

 ちらしのCDRとプリントアウトしたものを埼芸の川村さんに送った。ほっとした。実は今まではフォトドロウでつくっていたので、フォトショップで制作するのは初めて.....。いい度胸である。3日徹夜した。素材集めに一日半、プラグインの田中さんに2時間手ほどきを受けて、素材の加工にまず一晩、完成してWEBに保存して埼芸の森本さんに送ろうとしたらフリーズしてすべて徒労に帰した。今度は半日で仕上がったがまた同じミスをしてしまい、自分のおろかさを棚にあげ、そらこにあたりちらして、今度は二時間でできた!!どんなオバカでも3回同じことをやれば習熟するというもの。これはかみさまが下さったチャンスだったのだと今度はるんるん。

 友人たちからTELがくるがもうろうとおへんじしたのでよく覚えていない。会社の仕事は着々と整然と進行している。 さぁ今日も、あしたも........


 
三十八の昼 (2003 2  6)  昏々

 徹夜したが終らなかった。宙子はペンティアム以前なので処理速度が遅い。フォトショップでひとつかきだすのに何分もかかる。でもおかげでおもしろい表現の技法がいくつかわかった。500から1000くらいのpcが買えたら、デジタル絵画をしてみたい。今日は久喜座に行った。6月に中島敦の会で朗読をすることになった。わたしは牛人を読む。さて今日こそ仕上げよう。

三十七の昼 (2003 2  5)  きのうの続き

 それは先生の「ストーリーテラーはストーリークリエーター」という一文を読んでいて気付いたのだ。きのうまでわたしは先生の持論であるそのことばを、昔話や伝説の再話もしくはライフストーリー、つまりテキストのうえのこととしか考えていなかった。そうではなく語るうえでの表現のすべてをも含んでいたのだと、漸くわかった。
 大きな意味で、それは当然のように思われる。けれどもまた、カタチの残らないその場限りの踊り、歌、芝居、一瞬のインスピレーションによるそれらは創造というより祈りに近い場所にあるようにも思われる。それは弛まざる肉体の鍛錬なくしてはできない。けれどあとは創るというよりは任せればよいのではあるまいか。すでにあるもの、あったもの、けれど新たな一度限りのものが甦る、語り手はその媒介になればよいのではないか。みずからを解き放ち開け放すことによって......声と肉体を練磨することによって、感覚を研ぎ澄ますことによって......。

 とらこがひまだったので秋葉原までいっしょに行った。おたがいに相手の方向感覚をアテにしていたので 結果迷子になってしまい、地図を手におのぼりさんよろしくさまよった。6人の親切なひとに聞いてラオックスコンピューター館についたときには昼食をいただいたのにみかかわらずおなかがすいてしまった。。素材集を二点求めた。2時にはお茶とケーキとおしゃべりを楽しんだ。とらこといるとすぐおなかがすくのは不思議だ。春、金沢に行こうと約束した。夜、連絡会。1月の売上を見て唖然、呆然。

三十六の昼 (2003 2  4)  燦々

 そうか、わたしが思い描いている語りはこういうものだったのだ。テキストに縛られない、生々とした 闊達な 空気と風と光と湿度とその場にいるひとの息吹が溶け合った ものがたり 紡ぎだされるものがたりのわたしは依り座 その場かぎり たちのぼる蜃気楼のような、音楽のようなものがたり.....
わたしは御蔵、データベース、霊感が扉をひらく、ことばは魂に泌みいり、魂から波動がかえり、ことばとなってうねる。寄せて返して寄せて返す、忘れられた情念、埋もれた記憶を呼び起こす。わたしはそういう語り手になりたかった。
声を響かせ、躰を絃にして、想いを解き放つ、虚空へと、想像の翼をひろげ羽搏きを篝火のように燃え立たせる。そういう語り手になりたかった。
ことばが本来もつ魔力を復活せしめる真の意味の創造、大いなる意思、見えざるものの表現者、そういう語り手になりたかった。


三十五の昼 (2003 2  3)  縷々
 終った 了った おわった  そして つづく ずっと
久々に燃え尽きた感じがする。10日間で仕上げるのはやはりたいへんだったのだなと思う。満足はしていないけれど、今のわたし、今日の会場ではこれ以上は無理であろう。比佐女は命をもってそこにいて、あれはわたしではなかった。練習ではついぞ出ないなにかが本番では立ち現れる、幾度味わっても不思議である。
 午後は視聴覚室でのおはなし会のために、デモをした。金髪のかつらとウェディングドレス、それにサングラスでチラシ配り、こわいヤンキーのねーさん?と云われた。正気じゃできないなぁ....「自由の鳥」 を語っているときにさっき袖を引いた教育長と斎藤課長がみえた。ナーナナーナナーナナーと歌ったかどうかはわからなかった。
 デニーズで反省会をして帰り道、もうつぎに語るおはなしを考えている。業である。デニーズに行く途中、舞台衣裳になるかと夜明けの空のようなインドシルクを求めた。今夜から雪やこんこんのチラシ作成。