有馬温泉紀行
2012.5.25〜5.26


有馬温泉 古泉閣の源泉の櫓


久さしぶりに有馬温泉で兄弟が落ち合った。 朝8時半に曇り空で天気の危ぶまれる中、

家を出発した。 有馬までは名古屋高速、東名阪、第二名神、名神、中国自動車道と、高速

と自動車専用道路を乗り継ぎ、実に走りよいドライブである。 後は渋滞さえなければと言う

「たられば」の世界ではあるが、何時も東名阪の四日市IC近くになると、湾岸線からの合流車で

渋滞するが、今回は渋滞と言うほどのものはなく、スムースに通り貫け、亀山より第二名神に入る。

こちらは何時来ても車が少なく、気持ちが良い。 草津まで暫く、のんびりしたドライブである。 

この道路も大きなトンネルがあり、将来を見越してか、三車線の道幅が確保されこの線が満てるのは

人口減少に入り、何時のことになるのやら想像もできない。 やがて草津JCに入り名神に合流した。


名神はやはり何時もの様に車は増えた。 大津から京都を貫け桂川Pで一服と思っていたが、道路の

一斉メンテナンスで車線が削られ、一挙に走らなくなってしまった。いらいらし出しそれが元で桂川Pでの

休憩も忘れてしまって出来ずじまい。 更に、吹田に入ると自動車事故で完全な渋滞、チンタラチンと

更にいらいら!がつのる。 家内にガムを貰って、クチャ、クチャと噛む。 ガムを噛んでいると幾分

気がまぎれる。 この調子だと有馬に昼、着く予定であったが、少し難しくなってきた。 それよりもトイレ

が心配、中国道をチンタラ、チンタラと進んで、やっとこ西宮の名塩SAが見えてきた。  しかし、満車の

案内がある。 構わず本線より入って行くと、満車どころか充分スペースはあってホッとする。 聞いて

見ると、車の事故は名塩で起こしたのだと言う。 その関係で一時は満車状態であったのだそうだ。


トイレを済まし、昼も過ぎているので、こちらで昼食とする。 食堂に入って天井下に揚げられた

メニューを見ると「明石たこ焼き」が目に入ったので、食券を求めて、販売機を見るが「たこ焼き」が

のっていない。 傍にいた小母ちゃんに尋ねると、「それは屋台で売っています」と、おっしゃる。

見ると、食堂の端に屋台があった。 姉ちゃんに求めると、「お持ち帰りですか?」と言うので、

「いや〜こちらで食べます」と言うと、盆に載せて出してくれた。 やっと、食事にも、ありつき、

熱々のたこ焼きを、お汁につけて、うは、うはと食べる。 うまいね〜 

明石風は、さっぱり味で年寄り向きである。 しかし、隣では若い2人が

「葱マヨネーズかけ」を美味しそうに食べていた。


有馬を直ぐ手前にして、名塩で一服とは、これも旅の意外性である。 

名塩はニュータウンの開発から近年人口が増え続けているそうだ。



旅館 奥の坊

名塩を出て西宮北ICで下り14・5分でホテルに到着した。 ホテルは奥まった有馬川沿いの

一番高い所にあった。 チェックインは3時からで、車と荷物を預け、温泉街を散策する。

有馬川の渓流に沿って旅館街が立っている。 渓流に急峻な山が迫り、土地が狭いため

旅館の駐車場確保が難しい様で、方々に斜面を削ずったり、鉄骨で渓流に張り出したり

して駐車場を設けている。 従って、景色は山があり、渓流が流れ、緑の茂った斜面に

ホテルが建つと言う温泉街らしい景色である。 ホテルの前の道を下ると、直ぐに左手に

赤い塗りの「ねねの橋」がある。 有馬温泉は秀吉や北政所(ねね)が愛したことから

街中に秀吉やねねにちなんだものが多く見かける。 



ねねの橋 銅像はねね

ねねの橋の先を左に折れると太閤通りに出る。 この辺りが街の中心のようだ。

太閤通りの坂道を上っていくと、こちらの名物、炭酸せんべいやみやげ物店が

あり、以前、会社の旅行で有馬には来たことがあるが、さっぱり街の覚えがない。

ただ、粘土色の温泉の湯と炭酸せんべいの缶入りを買って食べた記憶ぐらい。

 その時は、有馬より四国への行程であったが・・・



ねねの橋の下に掛かる太閤橋



 
ねねの橋より望む有馬川




太閤通り

太閤通りを上り、左に折れると細い道となり温泉街らしくなる。 「金泉の湯」の前を通って

更に進み、左に折れると正面にお寺が見える。 手前に階段があり登っていくと、温泉寺

と言われ、黄檗宗の由緒ある寺であった。

温泉寺

奈良時代、行基上人が742年に建立した寺で、上人が温泉で人々を救おうとしたのが

始まりと言う。 本尊は薬師如来が祀られ、有馬温泉の歴史と共に盛衰を同じくして衰退

をしてきたが、鎌倉期に吉野の仁西上人が十二神将にならい十二坊を建て心身両面から

浴客の療養に努め再興されたと伝えられている。 桃山時代には火災に合い北の政所が復興

させたが明治維新の廃仏毀釈で衰退し、それから時代と共に今日の旅館に変身して行った。



温泉寺 本堂




本堂に祀られる薬師如来

本堂の先には御祖師庵があり、行基上人と仁西上人が安置されていて、有馬温泉の

今昔のパネル写真が展示され、有馬の歴史が物語れている。 有馬は落葉山、

灰形山、湯槽山の三山に囲まれた山間の街である。


行基上人

温泉寺を出て、その奥に階段があり、それを登ると極楽寺がある。

極楽寺は善光寺や稲荷さんの様な建物の妻側を正面にした建て方である。


極楽寺

極楽寺は浄土宗の寺院で本尊は阿弥陀如来坐像で、この寺も古く、593年聖徳太子

によって開基されたと伝えられ、念仏道場として栄えて来たが、その間、何度か火事で

焼失し、現在の建物は1782年に再興されたものである。 この時一緒に建てられた

庫裏は阪神淡路大震災で半壊してしまったが、修復時、基礎を掘っていると、下から

秀吉の築造した「湯山御殿」の遺構の一部が発見され、1997年に文化財史跡の

指定を受け、現在、「太閤の湯殿館」として公開されている。



極楽寺

温泉寺、極楽寺共に歴史の古い寺院で参拝者も多いのか、よく手入れされている。

本堂の右奥に行くと、住職の奥さんらしい人が、”65歳以上の方は半額で宜しいよ”

と声を掛けてくれる。 何かと思ったら、こちらが「太閤の湯殿館」で本堂より大きいぐらい

の立派な建物が建ち、前庭には鍋島藩の菊池家に秀吉より贈られた桐の紋付きの手水鉢

が置かれたりして、中に入ると「湯山御殿遺跡」が保存され、当時、そこから出土した瓦や

陶磁器の破片、秀吉の書簡なども陳列されていた。


太閤の湯殿館





湯殿の遺構




発掘当時の石組みの遺構




羽柴秀吉の書状 湯山惣中宛て

本願寺御門跡 御湯治之条 入精可馳走事 肝要為共態 申遣候也

九月十九日 秀吉(花押)  湯山 惣中


念仏寺


念仏寺

極楽寺を参観して道に出ると念仏寺の案内があった。 案内に従い進む。

この辺りは道がゴツゴツと不規則に曲がり、昔を残していて温泉街の風情がある。

念仏寺は、1538年の創建で、快慶作と伝わる阿弥陀仏立像を本尊としていて、

現在の本堂は有馬温泉で最も古い建築物で、1712年に建立されたものと言う。


こちらは豊臣秀吉の正室、北政所(ねね)の別邸跡と言われ、秀吉の有馬行きは

「賎ヶ岳の合戦」以降に大阪城築城前や天下統一の後など大きな事業の後に多く

見られたと言う。 当時、有馬からの82号線の船坂越えは難路であったが、心身の

活性化を考えていたのか、織田信雄、蒲生氏郷など多くの武将に湯治を勧めるなど、

秀吉は有馬を、もてなしの場所としても利用していたと思われるふしがある。

1590年には秀吉が有馬大茶会を催ししている。 本堂の右手に樹齢250年を

超えると言われる沙羅双樹があり、毎年沙羅の花が見頃を迎える6月中旬頃

には沙羅の花と一弦琴の鑑賞会が催されるそうだ。


瑞宝寺


瑞宝寺

瑞宝寺は「ねねの橋」より川を10分ほど上った山麓にあり、今は明治維新の廃仏毀釈により

伽藍は無く寂しくなっているが、京都・伏見城から移築した山門や秀吉が「いくら見ても飽きない」と

褒め称えたことから「日暮の庭」と呼ばれる紅葉の庭がある。 今日も、お婆ちゃんが一人功徳

を積むように掃除をしていた。 こちらは関西屈指の紅葉の名所だそうだが、確かに京都の

常寂光寺を思わせる庭ぶりで、黄緑の楓が斜面に生え、秋には燃える姿と変るのであろう。

庭内には瑞宝寺歴代の住職の墓があった。


伏見城より移築の山門



歴代住職の墓

有馬温泉の謂われの場所を見て旅館に戻ると、妹達もホテルに到着していた。

部屋に通され、浴衣に着替えて一息入れる。 旅館・奥の坊は1191年の創業

で、丁度、仁西上人が12坊を開いた頃である。 浴場は6階にあるとのこと、

泉元の関係なのか珍しい階にある。 浴場は例の「金泉の湯」粘土色の湯と

「普通の湯」があり、「金泉の湯」は露天風呂となっていた。 鉄分や塩分が多く

含まれ、空気に触れると酸化して茶褐色になるそうだ。 まず露天風呂の

金泉の湯に入る。 湯が豊富に流れ、勿論、掛け流しである。 暫く、湯に身を任せ

次に普通の湯に入る。 こちらは何も効能はない様だ。 この頃には顔に汗が流れ

身体がやけに、ほとる。 有馬は日本の名泉、古泉とも三大泉に入っていて

疲労回復に効能がある様だ。 晩年の太閤さんが、よく通った訳が頷ける。


夕食は部屋食で、水入らずに、ゆっくりと料理も味わえた。 口に入れると

とろける神戸牛のしゃぶしゃぶ、瀬戸内の海老の刺身など、酒と共に

じっくりと味わうことができた。 妙なもので食事も場所が代わると、風情も

加わり味わいも深くなる様だ。 積もる話も尽きず、何時しか床に寝に入る。



須磨離宮公園


須磨離宮公園 王侯貴族のバラ園


本日は昨日と打って代わり快晴となった。 今日は有馬より阪神高速・北神戸線で須磨区に出て、

須磨離宮公園と須磨寺を見ることにしている。 旅館を9時ごろ出発、阪神北神戸線から布施畑JC

で神戸淡路鳴門自動車道に入り、垂水JCで神明道路を経由して須磨ICを降りる。左に曲がると、直ぐに

須磨離宮の駐車場があった。 しかし、車が数珠繋ぎになって待っている。 「満車」の案内があったが

此処まで来たら、行きがかり上、しょうがない。 その列に並び空くのを待つ。 それでもボツボツと進み

整理の小父さんが駐車場の奥の方で手招きをする。 待ちかねていた為、アクセルに力が入る。 オッと、


須磨離宮公園は須磨区の丘陵に広がる82ヘクタールの敷地を持つ都市公園で本園と植物園がある。

本園は大谷光瑞(西本願寺22世)の別邸があった所で光瑞氏は大正天皇の従兄弟にあたることから

宮内庁が買収し大正3年に大正天皇の宿泊を主目的に別荘(武庫離宮)を建て、大正・昭和の天皇が

利用してきたが、昭和の大空襲で焼失。 昭和42年に今上天皇の御成婚祈念として今日の離宮公園

が完成した。



洋式庭園

駐車場より入ると、丁度、欧風庭園の横に出る。 庭園はオーストリアのシェンブルン宮殿の

庭をモデルにしたのか一番奥にカスケードがあり、その先の高台に連子風のファサ−ドの

レストハウスを構え、シェンブルンとそっくりである。 ただ、スケールは、とても小さい。

しかし、日本での洋式公園では海を控えたロケーションで見ごたえのある風景と言える。

庭園はバラの花が今盛りで、今日は土曜日で、大勢の人で賑わっていた。 レストハウス

を覗いたが、予約で一杯、残念ながら断念する。 天気がよく、通常であれば庭の前方に

須磨の海が見える展望であるが、生憎、春霞でぼんやりとして海と空の区別がつかない。 



レストハウスより見る欧風庭園全景と須磨浦

植物園は山崎豊子の「華麗なる一族」のモデルと言われる神戸財閥の岡崎家の屋敷跡で

本館は阪神淡路大震災で崩壊したが、和室は日本庭園と共に今も残り、四季折々の植物

を咲かし、散策が楽しめるそうだ。 本園とは陸橋で繋がれているが、今回はご無礼して

須磨寺へ。 馬車道を通って須磨離宮公園の正門を出る。 南には須磨浦があり、昔は

この辺りは月の名所であり、在原行平、業平が月見をし、京の都を想ったり、源氏物語の

「須磨の巻」が書かれたり、情緒ある名所であった様だ。 そんな土地柄から上流社会

の人々が集まり、特に大正天皇の離宮が建てられてからは多くの別荘や邸宅が増えた

と言われる。須磨浦に向って正面真直ぐに延びる道路は離宮道と言って、鎌倉八幡宮の

段葛を思わす様な土塁に松が植えられた美しい並木通りで、通り沿いは立派な邸宅が

見受けられる。 1995年の阪神淡路大震災で古い邸宅が多く失われたそうだ。


その離宮道をぶらぶらと南に歩くが、須磨寺は一向に見えてこない。 正門の出札の

女性は8分程と言っていたが・・・ 地図を確認すると、何ともう一本並んで道があり

通りを間違えた様だ。 早速、方向転換右に折れ、暫く歩くと緑に茂った小山の元に

須磨寺がみえて来た。 赤い橋を渡って仁王門(運慶及び湛慶の作)に入る。


須磨寺


須磨寺参道の赤い龍華橋 

須磨寺は真言宗・須磨寺派の大本山の寺院で、本尊は聖観世音菩薩で平安初期に漁師が

和田岬沖で聖観音像を引き上げたのをこちらに納めたのが始まりと言われる。 こちらには

平敦盛の首塚や敦盛首洗いの池、義経腰掛けの松など、源平ゆかりの史蹟が多く見られる。

在原行平が創始したとされる一絃琴も伝えられ、歴史・文化的にも由緒ある寺である。



源平の庭

仁王門を潜って左手に「源平の庭」がある。 普通、寺では枯山水の庭とかはよくあるが

こういった庭は珍しい。 今から800年前、平敦盛・熊谷直実の一騎討ちの場面を再現した

庭で、当時16歳の無官太夫・平敦盛が一の谷の浜辺において、源氏の武将・熊谷直実に

討たれた話は平家物語の中で、最も美しく、最も悲しい物語として古来語り継がれている。

庭前には、「笛の音に波もよりくる須磨の秋」の蕪村句碑があり、庭の角には弁慶が

「一枝を伐らば一指を剪るべし」と制札を立てた、歌舞伎「一の谷嫩軍記」にも登場する

「若木の桜」もある。 右手には千手観音像がある。



本堂

更に奥へ進むと本堂がある。 886年に開基され、その後火災、洪水、地震などの

災害によりたびたび建て直されたが、現在の本堂は1602年豊臣秀頼が片桐且元に

命じ再建したもので、内陣の宮殿は1368年の建造で重要文化財でになっている。

本尊聖観世音菩薩、脇侍・毘沙門天、不動明王が祀られ、昭和47年、文化庁の

指導で全面解体修理が行われ、600年前の姿に復原された。



敦盛首洗いの池

本堂の左手には「敦盛首洗いの池」が往時を窺わせる。 こちらで熊谷次郎直実は

自分の息子と重なる敦盛を寂寞の思いで洗ったのであろう。 この後、豪華な書院と

本坊を参観して三重塔へと進む。



本坊入口



 
三重塔

三重塔は境内左手の奥にあり、旧塔は400年前の文禄大地震の際に倒壊し、その後

当山開創1100年記の昭和59年に再建されたもの。 室町時代様式を基調とし、内部

には大日如来を祀り、内陣の天井と壁面に多数の摶仏を配し、四方扉の内面に八祖像と

般若心経を刻銘したことや、塔上の水煙に釈迦誕生像を配しており、この塔の特徴と言う。

この他にも境内には大師堂や奥の院など多くの堂塔伽藍を有し見応えのある立派な寺院である。



平敦盛の首塚

三重塔の奥に入ると「敦盛の首塚」がある。 敦盛の首と胴は別々に埋葬され

胴塚は合戦の行われた「一の谷」に納められている。  「一の谷の合戦」で直実は公達

らしき少年敦盛を波際で見つけ一騎打ちを挑む。 首を取ろうと見ると、我が子小次郎

ぐらいの齢だった。 小次郎はこの戦いの直前に矢に射られ深手を負っていたので、

直実はその仇討ちとばかりにこの若武者に挑んだ。直実が「私は熊谷の次郎直実だ、

あなたはどなたか」と訊くと、敦盛は「名乗ることはない、首実検すれば分かることだ」と

けなげに答えた。 これを聞いて直実は一瞬この若武者を逃がそうとしたが、背後に

味方の手勢が迫る中、「同じことなら直実の手にかけ、後世のための供養をいたそう」

と泣く泣く、その首を討ったと言う。 熊谷直実は若武者が清盛の甥と解り慙愧の念と

無常観からその後、西山・光明寺の仏門に入ったと言う。 


今回の「有馬温泉紀行」も須磨に来て、「源平合戦」の悲しい物語を

もって御仕舞いとします。   終わり

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