比叡山と湖西地区
義仲寺・延暦寺・近江神宮
12.5.2〜5.3

滋賀の大津はあまり知られていないが、古くは都があった所、飛鳥時代、中大兄皇子が同盟国であった

百済が唐に破れ、唐への脅威から対馬や北九州、瀬戸内の水域には防塁を築き戦いに備え、都を飛鳥

よりこちら大津京に遷都したが、僅か5年の儚き都となった、と言う、その地と裏山に位置する天台の

大聖地比叡山を訪れるが、生憎、雨の近江路を往くことになる。


義仲寺門

最初に訪れたのは膳所にある義仲寺である。 名神高速の大津インターで下り旧東海道に面した馬場一丁目

にある。 門前の柳の木が雨にぬれ更にみどりが冴える。 門を入ると左手の受付では小母さん達が受付の

小父さんの説明を熱心に聞き入っている。 句会の同好会のようだ。 我々が顔を出すと、小父さんが

話を中断し、早速、説明書と参観順路を教えてくれた。


義仲寺


義仲寺は木曽義仲の墓がある、平安末期、以仁王の命を受け平氏を北陸・倶利伽羅峠で破り上洛

するが、皇位継承への介入から、後白河法皇の命を受けた源頼朝軍に破れ、この地に葬られた。 

その後、この墓所の畔に尼僧が草庵を結び、それが源義仲の側室・巴御前であった。 尼の没後、

草庵は「無名庵」と呼ばれ、その後、巴寺とも呼ばれて鎌倉時代に義仲寺となったが、戦国時代に

は荒廃して放置されたが、一時は石山寺や三井寺に頼って来た。 芭蕉が奥の細道を終えて義仲

所縁のこちら無名庵を愛し、1691年から弟子・去来の京都「落姉舎」と交互に住んでいた。その後

1694年西国への旅の途中、大阪の旅宿で病に伏し帰らぬ人となる。 芭蕉の「私を木曽義仲公の

側に葬って欲しい」との遺言に去来ら弟子達により義仲の傍に埋葬される。 現在、境内全域が

国の史跡に指定されている。


義仲寺の境内には右手に史料館があり、義仲や芭蕉の肖像画、伊藤若冲の天井画などが陳列されている。

隣には朝日堂がある。 朝日堂は義仲寺の本堂で朝日将軍と呼ばれていた名からである。 須弥段には

中央に観音菩薩が祭られ、厨子には義仲・義高親子の木造が納められている。 その他、芭蕉翁、丈艸など

の位牌が安置され、檀家がいないため、こじんまりとした本堂である。



芭蕉肖像画




源義仲肖像画




本堂(朝日堂)


本堂の前には多くの句碑が立ち、庭の景色を構成している。




行春を あふみの人と おしみける  芭蕉句碑

近江で親しくした人達と湖上に船を浮かべ、去りゆく春を惜しんでいる。
 


 
旅に病で夢は枯野をかけ廻る  芭蕉

芭蕉、最期の句で旅先で死の床に伏しながら、私はなおも夢の中で見知らぬ

枯野を駆け回っていると言う、更に西国への旅を念願しているよう。




古池や 蛙飛びこむ 水の音  芭蕉句碑

本堂の右手前には無名庵が建ち、前には巴塚、義仲公墓、芭蕉翁墓と奥に向かって並ぶ。



巴塚

巴御前は義仲の側室で義仲家臣・今井兼平の妹、義仲と共に平家討伐に従軍し

武勇優れた美女で武将として仕え、宇治川の合戦では最後の七騎に

なっても討たれなかったと伝えられている。 

墓には菊の花がたむけられていた。


義仲公墓

義仲は河内源氏の源義賢の次男で、源範頼・義経とは従兄弟にあたり、宇治川の合戦で破れ

北国へと逃れる途中琵琶湖畔の粟津(この辺り)にて敵の矢を受け討死にした。



芭蕉翁の墓

1694年10月13日、芭蕉の遺骸は去来など門人10人で淀川を上り伏見より義仲寺に

運ばれ14日葬儀、門人ら焼香者80人、 芭蕉翁終焉記に「木曽塚の右に葬る」とある。



曲翠墓

境内の一番奥に膳所・藩士菅沼曲翠の墓がある、芭蕉翁の最も信頼した門人の

一人で、幻住庵(石山寺)は曲翠が翁に提供したものである。 1717年、曲翠は

藩の悪家老・曽我権太夫を槍で刺殺し、自らも責任をとって切腹した。翁は「幻住庵記」

に「勇士曲翠」と記し、また、初見の印象を「ただ者に非ず」と言っている。


 没後曲翠の墓は造られなかったが、膳所不動寺筋の旧址に「菅沼曲翠邸址」の碑を建て、

年々の忌日に法要を行って来たが、昭和48年当寺内に「曲翠墓」が建立された。



翁堂

「曲翠墓」の手前に苔むした庭に囲まれ、詫びた感じの翁堂がこちらを迎えてくれる。

天井は格天井で伊藤若冲の四季の花卉の絵が描かれているが、かなり風化し

色があせている。 正面中央には芭蕉像が安置され、左右には弟子の「丈艸」と

去来の木像が翁を守っているよう。 壁には36俳人の画像が掲げられている。



翁堂祭壇                                             翁堂天井


参観を終わり受付事務所に戻ると、句会の小母さんたち姿はなかった。 受付の小父さんが祭りの後のように

しょんぼりしていた。 ”この辺り昔は綺麗な景色だったんでしょうね〜” と訊ねると、”昔はこの辺りを粟津ヶ原

と言われ「近江八景」の景色のいい所でした、それで芭蕉翁もこちらを愛しました”  ”直ぐ傍まで水辺が来ていた

が昔大津の博覧会があった時、埋め立てされ、今ではビルが建ち並び、見る影もありません” と悲しんでいた。

お礼を述べてて帰ろうとすると、”俳諧に興味のある人達がもっと来て欲しいです”と嘆いていた。

現状が維持が大変のようだ。 お礼を述べて、比叡山に向う。



比叡山ドライブウエイより見る琵琶湖

比叡山ドライブウエイは上まで約9kmの行程途中に見晴らしの効く展望台があるが

今日は生憎の雨で、冴えない風景である。 比叡山もガスがたなびき、快晴であればもっと

すっきりした新緑の山が期待できるのだが・・・ しかし、八重桜が満開なのが何よりの救い。


10分ほどで比叡山の東塔地区に到着する。 雲の上に出たのか、雨もなく助かった。


延 暦 寺


比叡山・延暦寺は 伝教大師・最澄が延暦寺を開いた場所であり、東塔、西塔、横川と

主に三つの地域に分れ堂塔があり、全山では150に昇る.。.東塔は延暦寺発祥の地で

あり、本堂にあたる根本中堂を中心として堂宇が並ぶ。 西塔地区は釈迦堂を中心に

した地域で、横川地区は西塔から車で10分の所で横川中堂が中心として広がっている。

開山は788年、伝教大師・最澄が薬師如来を本尊とする一乗止観院(根本中堂)を創建

したのが始まりである。 桓武天皇が北の鎮護寺と位置づけた。


東塔地区は 総本堂根本中堂をはじめ、堂宇が並ぶ各宗派の宗祖を

祀っている大講堂、祖先回向のお堂である阿弥陀堂など重要な堂宇が集まっている。


比叡山・大講堂

まず大講堂は僧侶が学問研鑽のため議論する所で堂内に入ると、釈迦を始めとして

法然・親鸞・栄西・道元・日蓮と栄西・道元・日蓮と仏教界の開祖の肖像が安置され

圧倒される。 さらに円珍・良忍・信盛・天海・一遍など叡山で研修された高僧達の

肖像画が周囲に掲げえられ、宗派を超えた仏教の修行場であることが伝わってくる。

まさに日本仏教が、こちらで育まれて来た歴史を見るようである。



鐘楼

大講堂を拝観し文殊楼の高台より降りると、根本中堂が圧倒的なエネルギーで迫ってくる。

流石に荘厳な構えである。 延暦寺では三塔、東塔・西塔・横川に、それぞれ中心となる仏堂があり、

これを「中堂」と呼んでいる、東塔の根本中堂はその最大の仏堂で、延暦寺の総本堂である。

本尊は薬師如来で、延暦寺を開いた伝教大師最澄が788年に創建した一乗止観院が元であり、

その後、何回も災害に遭ったが、復興の度に規模も大きくなった。 現在の姿は徳川家光公の命で

1642年に竣工したものと言う。 堂内は薄暗く、巨大な黒光りした柱が仏への信仰のエネルギー

のように見える。 この柱は幕府か地方の大名に奉納させたものそうだ。 静寂な空気が張り詰め

下の方に御本尊が安置されているそうだが定かではない。 1200年間灯り続けている

「不滅の法灯」が奥の下にあやしく光っていた。 建物は国宝に指定されていてこの字に

廻された廻廊は国重要文化財に指定されている。 やはり日本の多くの宗派の高僧を

育んだ風格のある堂宇である。



延暦寺・根本中堂



根本中堂・中庭

根本中堂を出て阿弥陀堂の方へ。 途中、戒壇院がある。 叡山で修行が終わった修行僧が

戒をこちらで授けられる。 戒壇院は奈良だけであったが、叡山の隆盛によりこちらにも設けられた。

先には大きな登り階段があり、それを上ると空が広がり枝垂桜が今盛りとばかり咲いている。

 こちらは京都より1ヶ月遅れと言われ、800mを越える高さで気温差がなせるのであろう。







阿弥陀堂への階段




左・法華総持院東塔 右・阿弥陀堂

阿弥陀堂は阿弥陀如来が祭られ、堂は壇信徒の先祖回向の道場となっている。

最澄は日本全国に6か所の宝塔を建て、日本を護るために、その中心にこの東塔が置かれている。

本尊は大日如来や五智如来が祀られており、塔の上層部には仏舎利と法華経が安置されている。


阿弥陀堂の前には、水琴窟をもったモダンな庭がある。  左隅


東塔地区を拝観し西塔地区へは歩いても行けるが、雨も来そうなので駐車場より車で

西塔地区へと走る。 5分ほどで駐車場広場に到着。 広場の周囲は八重桜で覆われ

ていて、隅にテントが張られ「萌桜会」と言う幟を立てて桜祭りをやっているようだ。 


法被を着た小父さんたちが、盛んに我々を呼ぶ。 行ってみるとテントには抽選会場

と看板があり、小父さんたちが ”無料ですから、籤を引いて下さい” と、おしゃる。

こちらも無料なら引いてみるか、どうせ ”ざんねんでした” と言われてお仕舞いだろう?


小父さんの言うままに、回転式の小さなドラムを廻すと、ころりと小さな玉が落ちた。

すると、”おめでとうございます” と迎えられ、”お抹茶券が当たりました” とテントの

奥のプレハブに案内される。 愛想のよい法被の女性に券を渡すと、抹茶と桜餅が

出てきた。 しかし家内と息子はお預け状態。 瞬間、家内が ”こちらも二つ下さい!”

 と注文。 これでどうやら、こちらも落ち着いた。 桜餅を戴くと、実に香りのよい

懐かしい味であった。 抹茶を飲み、また桜餅を戴く。 

これが、本当の一服と言うことか〜

このあと駐車場から常光堂と法華堂の間を通り釈迦堂へと行く。


釈迦堂

釈迦堂は西塔の本堂にあたり、延暦寺に現存する最古のもので、元は三井寺の園城寺の

金堂であったが、秀吉が1596年に西塔に移築したもので 国重要文化財に指定されている。

釈迦堂は美しいフォルムをみせ、雨にぬれて青銅葺きの屋根が更に青く、柱や梁の丹塗りとの

相対がきわ立ち、全体の美を引き立てていた。





次いで、少し離れた山道を歩き、東塔地域と西塔地域の境目に位置する浄土院へと向う。 

流石に比叡山は大きな杉を初め古い樹木が茂って、荘厳な世界をよけいに駆り立ててくれる。 

浄土院は伝教大師・最澄の廟所があるところで、やはり奥まった霊場で人影も少ない。

しかしこちらでは生前と同じ様に食事を供えているそうだ。 大師は822年6月4日、56歳で

入滅され、慈覚大師円仁が大師の遺骸を、こちらに移して安置したと言う。 

大師に今までの健康を感謝し比叡山を下りることにする。 


近江神宮


近江神宮楼門

山を下りて大津京の錦織近くに山麓の茂みに赤い鳥居を構え真直ぐな参道が延び

奥に近江神宮がある。 こちらは38代天智天皇を祀る神社で、近江大津宮跡にあり

近江造りといわれ登録文化財となっている。 中大兄皇子は、同盟国であった百済が

唐・新羅の連合軍に破れ日本はその危機から、飛鳥を湖を控えた大津京へと遷都し、

新しい政治体制を固めて、668年には天智天皇に即位され律令制を引くが惜しくも

672年に崩御される。 その後、後継争いで「壬申の乱」が起き、大津宮は僅か

5年間の都で終わった。 遠い昔で想像が出来ないが、余程、都の守りに神経

を使っていたことは窺える。


神宮・拝殿

わが国の時刻制度は、今をさかのぼること1340年の昔、天智天皇の時代に大津の都に

漏刻を設置され時間を知らせて始まるが、漏刻とは水時計のことであり、日本書紀には、

鐘鼓を鳴らして時を知らせた、と記録されていて、政が始めて時間により管理され今日に

至ったことになる。 境内には近江時計眼鏡宝飾専門学校を経営し、多くの時計技術者を

輩出し、時計宝物館もある。

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