比叡山と湖西地区

三井寺・旧竹林院・日吉神社・西教寺
12.5.2〜5.3

今日はこれにて終了する。 今夜の宿は浜大津の湖岸に立つ琵琶湖ホテルに入る。

雨に一時はたたられたが、ホテルは少し派手目であるが素晴らしい景色の見える部屋であった。


部屋よりの琵琶湖

湖面に噴水が上がり噴水にライトアップがなされて、旅心をふくらます眺めであった。



 
翌朝 部屋よりの眺め

黒い山は比叡山、その先の青いのは比良山、白い船は、琵琶湖遊覧船で、

定期に1時間〜1日コースまであるそうだ。 海からゆっくりと見るのも、また

落ち着いた時間が持てそう。 こちらは大津を廻るが、まず一番は近江八景は

「三井の晩鐘」で名高い園城寺からスタートとする。 しかし、外に出ると雨模様

すっかり、気持ちが弾まない。 車で湖岸道路を北へ走ると三井寺の案内があり

左折すると、真直ぐに参道がありそれを上ると、それらしい山門が見えた。 

京都は寺の数が日本一だそうだが、人口当たりで行くと大津が日本一だそうだ。

この辺り比叡山の山麓、寺が集中している。 昔、比叡山の修行僧が多くいた

のが起因しているのか? よく未だに御守をし維持しているものだ。


三井寺(園城寺)

   
三井寺は正式には長等山園城寺と言い天台寺門宗の総本山である。 開基は大友与多王(大友皇子の子が7世紀、

皇位継承の争い(壬申の乱)で大海人皇子(天智天皇の弟:天武天皇)に敗れた大友皇子の霊を弔う為、寺を創建した

のが始まりで10世紀頃から延暦寺との対立があり866年智証大師円珍が唐から帰って三井寺の初代長吏となり天台宗

の座主として認められたが、円珍の没後、比叡山は円珍の門流と、慈覚大師円仁の門流との2派に分かれ、山門派、寺門派

として争いが続き、源平の争乱、南北朝の争乱等による焼き討ちなど幾多の騒乱に遭遇したが現在は天台寺門宗総本山

となり人々の信仰も厚く参拝者も絶えない。 本尊は弥勒菩薩で、金堂をはじめ数々の歴史遺産を要している。 



仁王門 重要文化財

三井寺を入ると、まず中院の表門仁王門がある。この門は1452年に建てられた桧皮葺の仁王門で

東面に建ち、両脇の仁王像がある。 この門は天台宗の古刹常楽寺(湖南市石部町)の門で、後に

秀吉によって伏見に移されていたが、1601年に家康になって現在地に建てられた。 三井寺は秀吉

時代は
疎んぜられ寺領の没収や廃寺など厳しい仕打ちを受け、秀吉は死の直前になって三井寺の

再興を許可していると言う。 これは霊験あらたかな三井寺の祟りを恐れたからだと言われている。



釈迦堂 重文

仁王門を潜ると右手に釈迦堂がある。 南面して建つ比較的に簡素な造りの堂で、秀吉時代、破却の後、

清涼殿を移築したものとの伝えられており、室町時代に建立されたものと思われる。



鐘楼 重文

門を入り左手には鐘楼(三井寺の晩鐘)がある。 これが日本三名鐘の一つと言われ

日本の音風景百選にも選ばれている。 この鐘は1602年、弁慶の引き摺り鐘の跡継ぎ

として鋳造されたもので金堂の南東に建てられていて周囲には、下に腰板を廻らし、

上は連子をはめている。 近年まで屋根は瓦葺であったが、修理時における調査の

結果、建立当初は桧皮葺であったことが判明し、現在は桧皮葺に改められている。




金堂

仁王門を入って正面に金堂がある。 国宝だけに見るからに鳳が羽を開いた様に姿が美しく

豊臣秀吉の正室北政所によって桃山の1599年に建立されされたもので、三井寺境内でも

ひときわ大きく威容を誇っている。 本尊は弥勒菩薩でこちらに祀られている。 内部は

外陣・中陣・後陣に別れ、中陣は中心となる内陣の両側に脇陣を設けていて内陣以外の床は

全て板敷とするのに対して、内陣は土間のままで伝統的な天台系本堂の形式としている。


尚、金堂前の灯篭は無明指燈篭と呼ばれ元には飛鳥時代、天智天皇が大化の改新(645年)

で蘇我一族を滅ぼしたその祟りを恐れ、天皇自ら左薬指を切り、この灯籠の台座下に納めたと

伝えられている。



閼伽井屋

金堂の西奥には金堂と接し閼伽井屋が建っている。 内部には井泉が湧き、天智・天武・持統天皇の

産湯に使われたと言われ、御井が三井寺の名前の由来になったと伝えられている。



霊鐘堂(弁慶鐘)

金堂西方の霊鐘堂に安置される古鐘で、奈良時代のもので園城寺では数少ない智証大師入

山以前の遺品です。 この時代の現存遺品は全国で十数口確認されているが、それらの

中でも東大寺鐘に次ぐ規模を誇っている。 しかし、鋳上がりは悪く傷や欠損があり、俗に

「弁慶引摺りの鐘」と呼ばれている。 「寺門伝記補録」には文永年間にこの鐘が叡山に

持ち去られていたとの記事があるので、これらの損傷は山寺両門の抗争の名残と

言われている。幾度となく焼き討ちに逢った当寺の苦難の歴史を象徴する遺品と言える。




三重塔

金堂の南西の位置に三重塔がある。 これは159年、豊臣秀吉によって伏見城に移築された

大和の比蘇寺の塔を慶長五年に徳川家康が三井寺に寄進したもので、一層目の須弥壇には、

木造・釈迦三尊像が安置されている。 軒深く、三重の釣合よく、相輪の水煙などに中世

仏塔の風格をよく伝えている。



唐院・大師堂

唐院は智証大師円珍が858年、入唐によって請来した経典や法具を868年に内裏の仁寿殿を

下賜されて、そこに納め、伝法潅頂の道場としたことに始まる。 大師堂には、二体の智証大師像

(中尊大師・御骨大師)と黄不動尊立像の三体が安置されていて比較的簡素な構えであるが

参道より一段高く塀に囲まれたこの一郭は独特の趣を見せている。




大師堂への参道

三井寺を出て比叡山の門前町と言われる坂本へと走る。 坂本は多くの史跡や歴史を伝える

建物が残り、一帯は国の重要伝統的建造物群保存地区に選定され、中でも里坊は歴史の街並

を残している。 里坊とは延暦寺の僧侶の隠居所で、今も多く日吉神社参道に残されている。

その中の一つの旧竹林院へと進む。 西大津バイパスを通って47号線に入り坂本ケーブル駅

前を過ぎると、日吉神社の広場があり、その広場の端に旧竹林院は門を構えている。


里の坊・旧竹林院


旧竹林院 

この里坊は明治初年に民間の手に渡り以後、個人の別邸として利用されてきた。

主屋の南西には滝や築山を配し八王子山を借景とした約千坪庭園が広がり二棟の

茶室と東屋があり立派な屋敷である。 当時の比叡山、僧侶の隠居生活はかなり

豪奢な生活が窺われる。


  
二階建ての書院



 
書院前庭園

この庭園は江戸初期に築造されたものと言われ、大宮川の清流を引き込んで庭内を

流し、苔むした庭にしっかり茂った樹木が植えられ、現在、国指定の名勝庭園になっている。

旧竹林院を見て外に出ると直ぐ前に日吉大社の青葉の茂った参道があり、そこを上る。


日吉大社


日吉大社は2100年前に創祀されたと言われ全国の日吉・日枝・山王神社の総本宮で

比叡山山麓に40万m2を要する神社である。 東本宮は古事記にある比叡山の山の神

大山咋神である。西本宮の御祭神は大巳貴神で、天智天皇時代、奈良から大津へ遷都

された際、奈良・三輪山より御神霊を迎え国家鎮護の神として祭られた。 平安遷都の折

は都の鬼門に当たることから魔除けの神社として、また延暦寺が開かれてからは天台宗

の護法神として祭られえ来た。 境内には3000本の紅葉が茂り秋は紅葉の名所でもある。



日吉大社・鳥居

やがて青葉の紅葉の中に破風と中に束の載った赤い鳥居が見えてきた。 この破風は

比叡山の山を表し神仏混合の神社を表していて、比叡山の守り神でもある。 昔は神仏合体

の神社が多かったが、明治維新の廃仏毀釈より分離されて来た。


本宮楼門・重要文化財

鳥居をくぐり紅葉の参道を進むと檜皮葺、入母屋造りの手摺のある楼門がある。

こちらの楼門は1586年頃に建造されたとしているが正確なところはわからない。

寂びた朱色ではあるが黄緑の楓に囲まれ美しい。 楼門をくぐると直ぐに拝殿があり、

その奥に、西本宮本殿がある。 本殿は国宝で日吉大社の山王七社の中で最も

格が高いとされている。 建築様式は日吉造といわれ、日吉大社だけに見られる

形式という。 日吉造の特徴は屋根の庇が前面と両側面の三面だけで、

背面の屋根は切れたような形になっている。 建造は1586年になされたもの

といわれている。 赤い朱塗りの手摺がこちらの個性のよう。


西本宮・本殿

日吉大社を出て、47号線を暫く北へ上ると左手に西教寺はある。


西教寺


西教寺は、聖徳太子が、仏法の師である慧慈・慧聡のために開設された寺で、

618年に大窪山の号を賜り、669年に西教寺の号を下賜されたと伝えられている。

寺記には天台座主慈恵大師良源大僧正・恵心僧都が念仏道場とした。 その後、 

比叡山で修行された真盛上人が1486年に入山し 普段念仏の根本道場として

西教寺を再興された。 しかし信長の比叡山焼き討ちで焼失した。 その後、明智

光秀が復興し、現在は天台真盛宗の総本山として続いている。 尚、坂本は一時期

明智光秀の城下町であり、境内には明智一族の墓も残っている。 その後明治政府

により、1878年、別派独立が許され天台宗真盛派の本山となった。 1946年には

天台宗三派、延暦寺、三井寺、西教寺が分離、天台宗真盛派を「天台真盛宗」と独立

今日に至っている。 



西教寺・総門

この総門は 天正年間に坂本城主明智光秀が坂本城門を移築したと伝えられている

城門で、 昭和59年老朽化のため修理され形は、そのまま復元されたと言う。

総門をくぐると、参道の左右に子院が並び、参道の正面突き当たりには勅使門がある。

その左に宗祖・大師殿ある。



宗祖大師殿・入口

門を入ると塀に囲まれたこの字の庭があり、その中に大師殿がる。 

庭の隅に幼少の真盛大師像が立っている。



宗祖大師殿

天台真盛宗、宗祖・円戒国師慈摂大師真盛上人の木像が祀られている御堂。



本堂

大師堂を出て、階段を上った奥の小高くなった所に本堂、客殿、書院などが建つ中心伽藍が

あり回廊で結ばれている。 本堂の右手に明智光秀の一族の供養塔などがある。

重要文化財の本堂は入母屋造、本瓦葺の建物で、本尊は阿弥陀如来が祀られている。

 棟札によると、1671年の織田信長の比叡山焼き討ちによる本堂焼失後1574年に本堂

の再興棟上が行われたとあり、その後、1717年に第二十世の真際上人が再建に

乗り出し門末檀徒から浄財を集め、1739年に、現在の本堂が落成したと言う。 



明智光秀一族の供養塔と墓

光秀の本堂再興以来、光秀との由縁は深く、1573年、堅田城に拠った本願寺・顕如と

戦った時の戦死者18名の菩提のため供養米を寄進したと言われ、1582年の山崎の

合戦に破れた時、光秀と一族は当寺に葬られている。 また早逝の側室・熙子の墓もある。

 一段小高い所には光秀の多くの家臣群の墓がある。


明智光秀家臣群の墓

今回、比叡山と大津市をめぐったが、歴史的なスポットの多さに驚いた。

天台薬師の世界より古い聖徳太子や天智天皇等の時代があり、琵琶湖が

大量の物資や人を運ぶ大交通路の役割を持ち、東西南北への交通の要の

位置から政治的、経済的に重要なロケーションにあったことからと言うのが肯けた。


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