再びハンガリー
平11.3.31−11・4.6
はじめに
この旅は平成11年1月24日一通の手紙が飛びこんできた事から始まる。
それはぺトラという女性からのものであった。 内容を見ると、
”私は悲しみもって貴方にお知らせをしなければならない。
昨年の十二月、S氏は悲惨な状況で亡くなりました。
私はテニスクラブで彼と一緒にプレイをしていた仲間です。
若し、お手伝いすることがあれば、何なりとお知らせ下さい。
又、こちらに来られるのであれば、S氏のマザーも私も歓迎します” と言う内容だった。
S氏とは昨年の10月、旅行でブタペストよりフランクフルトへの機内で出会った青年である。
ショックだった。 どうして亡くなったのか?? 何れにしても確認をしようと、電話を掛けると、
こちらの名前は直ぐに判ってくれた。 聞いて見ると、テニスクラブで誰かに銃で撃たれて、
犯人は未だ判らない、何か解れば又連絡するという事で電話を切る。
その後、ぺトラに悔みの手紙に墓前に花でも供えたいと思うがと手紙を送ると、
暫らくして、ぺトラより電話があり、グッドアイデイアと賛成してくれた。
それで貴方は何時か来られるのか? と聞くので、何時か機会があれば行きたい、
と言うことで電話を切った。 翌日、早速、彼女に送金をして、S氏のママに弔文を送る。。
暫らくすると、彼女から手紙が来て、彼の墓に、花と線香を供えた、S氏のママも喜んでいた。
ところで、貴方は何時来るか日程を知らして欲しいと書かれていた。
こちらは何時か機会があれば行きたいと言うニュアンスで伝えたつもりが、表現が拙かったのか
直ぐに来ると受け取ったらしい・・・・ それじゃ、いっそのこと行くことにするか!
と、スケヂュ−ルを組み、彼女に連絡をすると、OK Welcome、の返事がきた。
* 航空券はHISに問合すとルフトハンザの増便記念の格安券があると言うので
それを購入し、ホテルはバーチイ通りから3分のPilvaxホテルを予約する。
ブタペストへ
名古屋空港で出国手続をして待っていると、LH便が遅れるとのアナウンスがあり、
何か幸先の悪い予感がした。 結局二時間遅れとなり、飛行機に乗り込む。
皆さん、ざわざわしながら座席についた。 自分の隣には名古屋のLHのブースで
見かけた外国人が乗ってきた。 彼が落ち着いたところで、”えらく遅れましたね”と
声をかけると、彼は日本語で、”困りました。 ブタペストに人を待たしているので”と答える。
ブタペストと彼が言うので、こちらも、”私もブタペストに行きます”と言うと
”ブタペストはどちらへ”と言うので、”判らない、相手が迎えに来てくれるので”と言って
事情を説明すると、えらく心配してくれて、”ホテルは何処に泊りますか”と聞くので”プリバックス”
と答えると、”それは一番便利がよい所だ”と言ってくれた。
話をしていて解ったのは、彼は(L氏)クロアチア人で、ハンガリーに旅行に来ていて
出会った日本人女性と結婚し、今は日本に住んでいて、英語を教えている。
しかし、収入が少なく、いい職を探しているが、なかなか見つからず、
奥さんに助けられている、と言っていた。 やはり英語が堪能でも職探しは難しい様だ。
フライトは遅れながらも雪に覆われたシベリヤ上空を西へと進んでいるが、このペースでは
フランクフルトでブタペスト行には間に合わないかも知れない。
暫らくするとチャイムが鳴り、飛行機の遅れについて説明があった。
L氏に聞くと、”空港で係の者に確認をして欲しい”と言っているとの事だった。
やがて飛行機はフランクフルトに18時47分到着する。 結局遅れの挽回は出来なかった。
L氏ついてLHのブースに行くと、客でごった返していた。
彼の後ろにつき、ブースで手続をする。 彼に聞くと、ブタペスト行は今日の便は無く、
今夜は、こちらでオーバーナイト、ホテルはLHが手当てし(ステイゲン・ベルゲル)
明日8時の便をリザーブする。 シャトルバスが空港から出ているから、
それに乗って欲しいとの事だった。
シャトルバスの発着所に行くと、バスがいて乗ろうとすると、空いているのに、次のバスが来るからと
浅黒いトルコ人風の男が言う。 何か変だねと、L氏に言うと、”彼等はホテルのバスを他に廻し
アルバイトをしている様だ”と言う。 結局、我々2人だけ取り残され、次のバスを待っていると
日本人が又一人来た。 ホテルですかと尋ねると、”そうです、バーゼルまで行く予定が
明日になりました、バーゼルは先生にピアノの仕上がり具合を見てもらいに行く”
とのことで、彼はピアニストで近々コンサートをするそうだ。
バスがやっと来て我々三人で乗りこむ、バスはトルコ人が運行していた。
ドイツも成長期に労働者が不足し、トルコ人を沢山受け入れ、色んな分野で働いている様だ。
ホテルはエヤ−ポートホテルで直ぐに着いた、大きなホテルだった。
ホテルのレセプションでチェックインをすると、夕食と朝食はLHのサービスで
夕食の酒は別料金となるが他の飲み物はOKとの事で、確りした応対だった。
Lさんが家に”連絡を取らなきゃ”と言うので、こちらも、そう言えば”ホテルに電話をしなきゃ”
と言うと、Lさんが”電話は高いからFAXにしなさいと言われ、一緒に事務室に行き
FAXをいれる。 Lさんに”夕食は?” と聞くと、”疲れたので休む”と言うので、
明朝の時間を確認し、部屋に分かれる。
夕食は機内食を食べて来たが、軽く入れておこうと、ダイニングルームに行く。
広い部屋に客は疎らだった。 ウエイトレスが来たのでカードを見せると、サービスの内容を
丁寧に説明してくれた。 エビ料理とビールを貰い、一息入れて部屋に戻る。
第2日目ブタペスト
翌朝、食堂へ行くと、ピヤニストのMさんは、既に来ていた。
食事を始めると、Lさんも現われ、一緒に食事を済ませ、シャトルバスを待つ。
5人ほどが乗りこみ空港へ、ここでピアニストのMさんとも別れ、我々は8時発LHの
ブタペスト行きに、やっと乗りこむ。 やがて、アルプス連峰が朝陽に輝いて見えて来る。
暫らくすると、もうブタペストの街が見えてきた。ドナウ川の大きく蛇行した真中に
マルギット島が見え橋もみえる。 均一な高層ビルの団地も見え、200万都市だけの
スケールを持っている様子がよく解る。 やがてブタペストに到着、入国手続も印象よく済まし、
Lさんとも別れる。 ちらりと振り返ると、Lさんには、女性が迎えに来ていて、
お互い笑顔で、久しぶりの様子だった。
こちらは誰も迎いに着てない様でなので、空港からリムジンバスに乗る、
エルジェベート停留所まで30分程度で到着した。 エルジェベート広場
そこで降りる。 バーチー通りに向いて歩く、春の陽光が気持ちよい。
こちらは昨年来たので、よく解るが、肝心のホテルが見つからない。
通り掛りの学生風の女性に聞くと、直ぐ近くだった。 (外国では、道や場所を聞く場合、
何時も、確かさを考え、20代の学生か、英語の解りそうな人を見つける様にしている。)
その前に両替所が見つかったのでレイトを見ると、グッド! 3000円ほど替える。
これで、チップ等細かいものはOK! ホテルは通りから直ぐ左に入った所にあった。
受付で名前を告げると、メッセージが届いていると、渡された。
見ると、ぺトラからで、”飛行機の遅れをホテルで聞いた、ターミナルが二つあり、どちらか
判らないので行けなかった。 着いたら電話が欲しい” とあった。
早速、電話を入れると、”明日ではだめですか?”と言うので、”明日でも良い”と答えると、
”今日は学期末の試験で、出来たら明日にして欲しい”と言う。 あ〜!彼女は大学生だったのだ。
直ぐOKする。 しかし、お茶ひ―ちゃって、今日はどうするか?
それではと言う事で、行こうと思っていたデブレチェン行き(ハンガリー東部のウクライナと
ルーマニアの近くにある都市)の切符を買う為、東駅に行くことにする。
エルジェベート橋からのラーコーツイ通りに出て、10分程歩くと黄色い門の様な大きな
駅舎が見えた。 こちらは各地に国際列車が発着している。
中に入ると、ホームの右側に両替所や案内所や色んな店屋が間口狭く並んでいる。
飛行機の普及前は、鉄道がメインで活躍した面影がよく残っている。
ヨーロッパは陸続きであり、ここで旅人達は両替をしたり、土産を買ったり、
散髪をしたり、食事を取ったり、したのであろう。
切符を買おうと思ったが大勢の人で、相当時間が掛かりそうなので諦める。
地下に下りると、大きな音が響く、アンデスの「コンドルが飛んで行く」♪である。
みると4・5人のインディオがサンポ−ニャや、ケーナ等の楽器でパーフォーマンスをしていた。
それにしても、ハンガリーで南米のインデイオにあえるとは思わなかった。
駅前には屋根の無い地下広場が広がり、大勢の人がベンチで憩っている。
そこヘ、ハトも下りて来て、先ほどの喧騒とは、又、のどかである。
暫らく、そこで休憩しホテルに戻る。 ホテルのレセプションの女性に鉄道の切符の
入手方法を聞いてみると、少し高くなってもいいか、と言うので、了解すると、
旅行社があるからと、地図を描いてくれた。
そこでインターシテイ−の切符と言えば買うことが出きると言う。
早速、地図を見ながら、行って見ると、小さな事務所で、解りずらかった。
マネージャーの女性に話すと、”手数料がいるがいいですか”と念を押された。 OK.すると、
直ぐ作ってくれて、日付と時間を確認し、渡してくれた。 二時間半は掛かると言っていた。
しかし、手数料は念を押されるほど高いものではなかった。
帰りがけ、有名なシナゴークがあり寄ってみる。 茶色と白の色を交互に積み上げた
イスラムのモスクの様な色使いで、ロシア正教の様なネギ坊主のドームのある
高い塔を持ったシナゴークである。 ヨーロッパでは最大と言われるだけのことはある。
中に入ると、天井の造りはモスクに似た所があり、壁に書かれた模様などは、余白の無い
幾何学的なイスラムの物とよくにているが、色使いに青がなくユダヤ教独特で落ち着いている。
唯、ダビデの星や、燭台があるので、ユダヤ教という事が判る。
何れにしても、宗教関連の建物は荘厳さを表す為、最高の技術が注がれていて美しい。
ここでは昔、リストやサンサーンスがオルガンを弾いたと伝えられている。
シナゴークを出て、ホテルへ帰る。
午後からは何をするでもなく通りの露天商を覗き、ぶらぶらして終わる。
ブタペスト3日目
朝起きて、食事に行くと、食堂はビジネスマン風の客が多く、それとなく聞いていると
フランス人、アメリカ人等、ブダペストに取引に来ている様子、旅行者は少ない様だ。
食事を済まし部屋に戻り、TVをぼんやりと見て過ごす。
10時過ぎにぺトラから電話が入り、其方に今から行くというので待つことにする。
暫らく待つと、フロントから、お客が見えてますと電話があり、ロビーに下りる。
ぺトラが、S氏のお母さんを連れてソファーに待っていた。
始めてで、やはり緊張していた。 ママはやはり年齢が50歳前の感じ、ヨーロッパ人は
若いうちはスマートだが中年になると、何故か肥える人が多い、彼女もその一人。
ぺトラが紹介をして呉れて、挨拶を交わす、当たり前であるがハンガリー語だった。
ぺトラと、飛行機の遅れた様子や、S氏の犯人が見つかったか等々話していると
ママは言葉が解らないので、手持ち無沙汰の様だった。
犯人に付いては、解らないのは勿論、警察はどうして、この様な事件が起きたのかさえ
未だ、解っていないとの事だった。 あまりS氏の事ばかり思い出させてもと思い、
こちらで食事にしようと誘うと、ぺトラがホテルは高いから、私のアイデイアに任せてという。
トラムに乗り議事堂前で降りる。 その傍に彼女が知った
レストランがあるので、そこへ行こうと言う。 彼女にお任かせする。
トラムに乗る為の切符は自主的に、切符入れの穴に入れればよく、
殆ど改札は無いという。 何処か大らかである。
議事堂をちらり見て、レストランに入る。 店内はよく流行っているのか、客が多かった。
レストランにてぺトラとS氏ママ
ここのチェックは、こちらでするからと話すと、彼女も頷いてくれた。
彼女がママに話すと、ママが明日は私の家に是非来て下さい。 その時、息子の墓へも
行ってもらえれば、いいがと、言うので、約束をする。 食事をしながら、ママさんはバラトン湖
(ハンガリー随一のリゾート地)に別荘を持っていて、時間が許すのであれば、私の車で
是非一緒に、と言われるが、あまり迷惑を掛けてもと思い、お断りする。
ママは残念がって、何時も空いているから是非一度、来て下さいと言う。
あまり観光客の来ない店なのか、ウエイターが、しきりに気を配ってくれる。
サーモンが美味しくて、ワインも進み、真ッ昼間から良い気分。
ぺトラが期末試験中なので店を出て、明日、又再会を約し、彼女達と別れる。
酔いに任せて、ぶらぶらと街並をホテルに向って歩く、実に気持ちが良い。
暫らくすると広場に出る。 隅にオープンカフェがあり、老若男女が午後の陽射しを浴びて、
夫々、楽しんでいる。 こちらも、カフェに入り、ホテルも近いのでビールを貰う。
ヨーロッパ人は何を話しているのか、長く休んでいるが、こちらは、直ぐ退屈し、彼等の様に
のんびりとしておれない、早々とカフェを出て、町の露天商を、又、冷かし、ホテルに帰る。
ブタペスト4日目
こちらのホテルも、あきて来たので、他へ替ろうと、フロントでチェクをしてもらい、料金を
ドイツマルクのT/Cで払おうとすると、すると、御機嫌悪く出来ないという。
予約の時にドイツマルクで約束を貰っていると、言っても、それは現金の事でT/Cではないと言う。
押し問答をしていると、後に客の列が出来、彼女は一向に構う様子も無い。
とうとう、こちらが折れて銀行に行くことになる。 郷に従わなきゃ仕方が無いか!
銀行の場所を彼女に聞いて、行って見ると、頑丈そうなガードマンが大股を開き
後に手を組んで入口に立っている。 何か話してきたが、こちらには解らない。
しょうがないので、チェンジ!と言うと、手招きしてくれたので、中に入る。
直ぐに、T/Cの交換はして呉れたが手数料が嫌に高かった。
ホテルに戻り、彼女に支払うと、にやりとして、おつりのフォリントを呉れた。
これでホテルともバイバイ!
昨日、レストランに行った時見かけたホテルに行って見ることにする。
リングホテルと言い、部屋は空いていたので、ここに決める。
リングホテル
早速、ぺトラにホテルを連絡すると、11時ごろに迎えに行くとの事だった。
暫らくすると、迎えに来てくれた。 昨日と同じフォックスワーゲンである。
ドナウに沿うて、車は北上して行く、車のカセットから若向きの曲が流れている。
10分ぐらい行った所からドナウ川をはずれて東に向うと住宅街に入り、地道の道路を走ると
ママの家に着いた。 やはり、家の庭にテニスコーとがあり、S氏は子供の頃から、ここで
テニスをしていたのであろう。 家は一階が半地下式となっており、一見外から見ると平屋の様に
見えるが二階建てである。 二階が玄関で外から階段が取り付けられている。
階段を上がると、広いバルコニー風の踊り場となり、玄関がある。
ママの家、左階段、右コート
入口を入るとリビング兼ダイニングルームになっていて、奥の息子の部屋を案内される。
サイドボードの上に、92年東京大会優勝トロフィーを始め、沢山のトロフィーやプレイートが飾られ、
祖先から引き継がれた古い格調のある家具が並んでいた。 壁には曽祖父が集めた
と言われるヤニ絵の様な絵や、祖父、曽祖父の肖像画が掛かっていた。
ヨーロッパの人間が古い物を大事にする価値観が伝わって来る。
ママさんの夫は以前に亡くなり、親子二人暮しだったと言う。
ママとぺトラ ホームにて
ママさんが昨夜から準備したと言って、沢山の御馳走を出してくれた。
肉と野菜のシチュウの様な料理が美味しいと答えると、えらく喜んでくれた。
昨日、別れてから如何したとか、家族は?、名古屋には地下鉄があるかとか・・・
物価の話しになり、名古屋の様子を話すと、どうして消費税は安いのに、それだけ高いのか、
と聞かれ、道路の使用料が高いのと、政府の税金の無駄使いが物価に影響していると答えると、
驚いていた。 ハンガリーでは税金の一部は、各人の希望で使途を指定することができると言う。
例えば、教育とか、介護とかを指定する、民主主義が日本より進んでいる様である。
食事を終わって、墓地に行く、車で5・6分の所でアパート団地の傍にあった。
大きい墓地で、墓地の塀が細かく棚で仕切られていて枡毎が一つの墓に、なっていた。
こちらの国も、墓がアパート化していたのには驚いた。 彼の墓は地面にあり、
古くからの家系なのであろう。
S氏の墓、真新しい十字架があった
墓に着くとママさんが、また涙を流し、折角、育て上げた息子の思いが甦るのであろう。
特に悲惨な死であっただけに・・・・ こちらも彼の御霊が安らかならんことを祈る。
改めて人間の儚さと、必ず明日もあると思いこんでいる人間の不思議さを感ずる。
墓参りを終わり、ママさんがホテルまで送ってくれた。
第5日目デブレチェンへ
朝起きると、天気は良さそうだ。 10時の急行に乗るためホテルを出て東駅にいく。
駅はガラーンとして客は疎らである。 19世紀頃は大いに賑わったのであろうが、
ホームを聞こうと思うが駅員が一人も見えない。 客に聞いてみるとホームの先に行けという。
暫らくすると車両が入ってきた。 車両の行き先看板を見つけると、ニーレジハーサだった。
これで間違い無い。 乗りこむが、誰もいないので不安になる。
やっと2.3人が乗りこんで来て、ほっとする。 やはり始発なので、皆ぼちぼちと乗りこんでくる。
此方の前席にも若い女性が乗り込んで来た。 何時の間にか静かに列車が動き出す。
日本の様に案内のアナウンスも何も無い。 矢張りヨーロッパは個人の責任が重い様だ。
住宅地帯を走り、暫らくすると大きな高いポプラ並木が続く、こういう風景を見てると
やはり異国に来ている事を感じる。 列車は止まらずどんどん走る、やがてスピードが落ちると
何か場内アナウンスがあるが此方には解らない。 前席の女性に聞いてみると、
流暢な英語で教えてくれた。 テイサ川と言ってドナウと同じくらい大きい川で美しい所だと言う。
ビデオカメラを川の方に向けると、彼女が窓際に置いた飲み物をそっとどけてくれる。
優しい心使いに感謝。 確かに眺めが良く、湿地帯が見えたかと思うと、大きな川が見え、
水の中に沢山の樹々が生えていて、手付かずの自然が広がっている。
やがて川の風景を抜けると、東部の大草原が見えてきた。
これぞプスタと言われる大平原、マジャール人がウラル地方よりヨーロッパにやって来て馬を馳せ遊牧
を始めたハンガリーの原点である。 見渡すかぎり大草原! これさえ見ればハンガリーにも満足!
大平原を突っ切りやがてデブレチェンに到着する。
表に出ると、駅前はトラムが大きな円弧で廻っていて、おり返して行くようになっている。
道路の中はグリンベルトになっていて、植木や彫刻がある。 随分ひなびた街である。
駅前のロシヤ製のトラム
昼過ぎとなり、食事をしなければと思うが、店が見当たらない。
丁度、その時、駅前にホテルの看板が見えたので、ホテルなら言葉も解るだろうと入る。
右手の建物がホテル
入口を入って左側に食堂はあった。 席に着くと中年のウエイターが来てメニューを
呉れたが、さっぱり解らない。 唯、値段を見るとブタペストより格段に安いのは解る。
ウエイターに聞くが、どうにも通じない、こちらには余程外国人が来ないのであろう。
ウエイターも純朴そのもので、人擦れしていない様だ。
こうなったら、手まねで、彼にメニューを選ばすと、指で ”これ” と言うので、
”これ”を頼む。 食堂内は丁度ランチの時間でホテル客じゃなさそうな人達だった。
天井には大きな羽根の扇風機が、ゆっくりと廻っている。 古い映画にでも出てくる風景
やがてウエイターがごっつい皿を持ってきた。 見ると何と、フライが二枚、天婦羅のような物が
三枚それにポテトとラテシュ、これはどうもウクライナ人のボリュームなのだろうか、
思わず笑ってしまった。 日本人であれば三人分だ。
隣の席を見るとビールらしき物を飲んでいるので、ラベルを見るとAmstelとあったので、
ウエイターを呼び、アムステル!と言うと、直ぐに納得して、持って来てくれた。
やはりビールだった。 天婦羅風に見えた物は牛肉のあげた物で結構美味い。
ライスはインディカ米で、ぱらぱらして、こちらの好みとは違った。
フライはチキンだった。 結局食べるより残した方が多かった。
チェックを頼むと、ウエイターが驚き、残った物を持って帰ってもらおうとしているのか
包み紙を持って来たので、断わった。 彼は怪訝な顔をしていた。
支払いを済まし外に出る。
デブレチェンはハンガリー東部の端にある人口21万の街であるが大学を三つも持つ学園都市であり、
東部地区では主要な都市で過去には二度も首都になったこともある。
特に、中世の宗教改革の後にはカルバン派の拠点となった。
駅から北へ真直ぐのピアツ通りがカルバン派大教会のある処まで伸びている。
喧騒を逃れるには打って付けの街のようである。 通りを大教会に向け歩くと、最初に
左側に、方形の丸みを持たしたモダンな時計台の建物が見える。
これはカルバン派の小教会と言われる。 確かに傍で見ると教会と言う事がわかる。
ピアツ通りから入った路地、人は一人も見えない
その先に、黄色い二本の塔を持った大教会が段々近くに見えてくる。 塔の屋根は赤い銅で葺かれ、
時計が付いている。 傍に来ると、大きい建物で、珍しく装飾の少ない教会でカルバン派らしい。
前には立派な銅像(コシュート)が立っている。 教会左の塔にはラーコーツィの鐘と言われ、
30年戦争の時、敵から奪った大砲よりラーコーツイ一世が鋳造したと言われる大鐘が付いていた。
カルバン派大教会
又、この教会では、1849年コシュートがハプスブルグ家からの独立宣言を行い、
教会の裏のカルバン派大学では独立政府の国会が開かれた。
1944年には反ナチスの臨時政府の会議所にもなったと言われる。
時間が2時になり、市役所を横に見て駅へ戻る。 予定通りの列車で、ホテルに帰る。
フロントで、”メッセージが届いている”と言うので見ると、ママからで、帰りの飛行機を
知らして欲しいという事だった。 早速、ファックスの用紙を貰い、飛行機の時間を書き
ハンガリー語に翻訳を頼み、送ってもらう。
帰途へ 6日目
朝、起き食事を済まし、そろそろ出掛けるかと思っていたら、フロントより電話があり、
”お友達が見えてます”と言うので,下りてみるとママさんがいた。 空港まで送ると言うので
ママさんの車で送ってもらうことにする。 ホテルの人もいなくなり、二人きりで、
お互い何か話すが、言葉が通じず、何か半信半疑の納得で、妙な雰囲気。
ママさんも感じているのか、気をきかして音楽を付けてくれる。
お互い黙りこんだまま、音楽だけが流れる。 暫らくすると空港が見えて来た。
空港のガソリンスタンドに車を入れ、何か係員に話している。
OKと言って、ママさんが降りよと言う。 ジェスチャーも入れた話ではガソリンを
戻るまでに入れるように頼んだ様だった。
歩いて出国カウンターの手前まで来ると、ママさんが包み紙を呉れ、ハグをしてきた。
何か、ずっと以前から知り合っていた様な錯覚を覚えた。
ママさんの顔を見ると、吹っ切れた様な爽やかな顔をしていて・・・
ママに別れを告げる。
ケーセーネ! アビソントゥラーターシュラ!! サヨナラ!!
おわり TOP