文化の道 その2
5.11.2



石の門柱を潜ると白いタイルの洋館があり、

ここが、自動織機の発明で有名な豊田佐吉の弟、佐助の邸宅である。

案内によると、佐助は兄の事業を補佐し晩年は豊田紡績や菊井紡績等の

役員を歴任したと伝えられている。
  *佐吉邸跡は白壁1



豊田佐助邸

建物は大正12年に建てられ、二階建て洋館の主屋と西側に木造二階建ての和風棟からなっている。




 
洋館1階応接室                       二階座敷

玄関を入ると左に応接間があり、こちらで来客の接待を主にしたそうだ。

照明器具や襖にトヨタの文字を鶴にデザインしたものを使っている。

廊下には、春田邸と同じ様にガス燈の照明がつけられていた。



襖の鶴マーク




1階和室より見た庭

さすが豊田邸には沢山の人が来ていた。   そこを出て主税町筋を東に歩き、

鳥屋筋の交差点を過ぎ、主税町四丁目にかかった所に長屋門がある。




佐助邸前の主税町筋東を望む




主税町長屋門

江戸時代のもので典型的な武家屋敷門。 塀と長屋の一部は取り払われているが、

大扉の左に連子のはまった門番の部屋があり、右には納屋が付いていて往時が忍ばれる。



主税町筋を戻り三丁目と四丁目の交差点を左に曲がると直ぐに赤い屋根の二葉館が見えてくる。

この館が環境保存地区の目玉であり、文化のみちの案内所にもなっている。




二葉館(旧川上貞奴邸)

この館は女優第一号と言われた川上貞奴の旧邸で大正9年に建てられたもので、以前

東区の二葉町にあった。 2000坪の敷地を持ち、当時は二葉御殿と呼ばれていた。

平成12年、市に寄付され、同17年に東区橦木町3丁目に移築復元された。

今は国の文化財に登録されている。



女主の館だけに艶やかな屋根瓦が使われ、アールヌーボー風のお洒落な佇まいとなっている。



同西面

川上貞奴は明治4年に生まれ、16才で芸者となり、明治27年に川上音二郎と結婚、

川上一座のアメリカ公演で始めて女優として舞台に立ち評判を得る。

NHK・TVで放映があった様に、1900年のパリ万博では

展示品よりも彼女の魅力が評判となり、フランス政府から勲章を受け、

一躍「マダム・サダヤッコ」として有名になった。 

その後、夫が亡くなり、名古屋で絹生産販売の事業を起こし、電力王と呼ばれた

福沢桃介(福沢諭吉の娘婿)をパートナーとして二葉御殿で生活を送る。 案内書より



1階大広間の螺旋階段

玄関を入ると、洋風の大広間が広がり、螺旋階段が粋なカーブを描いている。

階段の登り口には洒落た照明灯が立ち、観音開きのドア−と

窓にはモダンな絵画のステンドグラスがあやしく光る。

大正ロマンの香りがして、何処か懐かしい!

三島由紀夫原作の「春の雪」、松枝公爵邸のシーンがふとよぎる。

このホールでは政財界のお歴々が常時出入りしてサロンになっていたと言われる。


  
洗練された絵のステンドグラス





アールヌボー風の照明灯



   
   左 ドイツ人画家ミュッラ−が1900年頃に描いたポスター「サダ・ヤッコ」  右彼女の愛用品


二階には坪内逍遥を始め城山三郎等々名古屋を中心とする郷土ゆかりの

文学者や作品の資料を展示されていた。  こちらはお奨め!



これらを見て国道19号線にでる。  少し北上すると、道の奥まった所に、古いビルが見える。

ここは名古屋陶磁器会館で昭和7年に名古屋陶磁器貿易商工同業組合として建てられた建物で、

昭和初期のレトロな雰囲気があり、全国優れた建築623選にも選ばれている。




名古屋陶磁器会館




館内展示品


館内では素晴らしい絵付けの歴史的な陶磁器が陳列されている。


名古屋における陶磁器の歴史は明治10年代、神戸、横浜等の外国商館からの要望で

瀬戸、美濃から仕入れた素地に上絵付けを施し日用食器として輸出したのが始りである。

明治20年代になると、輸出量が急激に増大し、生産拠点を必要とした陶磁器業者は

ここ東区に集中する武家屋敷跡地を安価で取得し工場を構える様になった。

ここ東区は瀬戸、美濃に近く、当時、主要港である四日市港と水路で繋がる堀川等の

立地に恵まれ、大正から昭和にかけ名古屋は輸出陶磁器の最大生産集積地として栄えた。

陶磁器業の繁栄と共に名古屋に集まった九谷、京都など全国の優秀な絵付け職人は

伝統技法だけでなく、世界の陶業先進国より学び、デコ盛り、金盛り、九谷風、有田風等

多彩な技法でニーズに答え、近代産業として「名古屋絵付け」を確立した。
 案内書より



国道19号沿い道標

陶磁器会館を出て、国道19号を南下して行くと、鍋屋商店街通りとの交差点に、

善光寺街道の古い道標と出会う。  その交差点で鍋屋商店街通りに入り、少し歩くと

松山神社が右側に見える。



松山神社

この神社は太陽を祀っているので社殿が西向きに建てられ、参拝者は東向きに参る。

境内には霊験新たかな惠の水と称し、青銅製の龍の口よりこぼれていた。


  
貞祖院本堂


松山神社から泉二丁目交差点に出て左に折れると貞祖院がある。

この寺は清洲城主、松平忠吉(徳川家康の四男)の養母が建立し、1742年この地に移され

1782年の天明の大火で焼失したが、明治5年尾張四代藩主吉通公の霊廟を建中寺から移し

本堂とされた。 堂内の格天井には菊の門の中に葵が入っていると言う。




この寺を最後に文化の道歩きも終りとする。

名古屋では先日も商工会議所が名古屋の歴史や文化を掘り起こし、見所をインターネットで紹介し

町興しを進めて行くそうだが、こうした古きを尋ねることが、平成のルネッサンスに繋がると良いが。

おわり

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