名古屋・文化のみち
05.11.2



最近、街の賑わいを取り戻す為、各地で街づくりが行われている。

名古屋市も、愛・地球博の開催もあり、それに合わせ、街づくりが進められて来た。

ここに挙げるのは、名古屋城の東より徳川園へかけての地域は江戸時代、武家屋敷街で、

その関係か明治、大正、昭和と人材が集まり業を起こし栄えて来た。

その歴史的な遺産や貴重な文化を守っていく為、「文化の道」として整備し、

この二月にオープンされた。

明日11月3日は文化の日、少し先駆け、「文化の道」を歩いてみた。



地下鉄高丘駅で降り桜通りを西へ、泉1丁目で右折し最初の訪問先「楽只美術館」を

探すが見付からない。 地もとの人に聞いても解らなかった。

とうとう痺れを切らし、通りより少し奥まった方への小道があり、それを入ると、美術館と迄は

言えない様な建物があった。 やはり茶道具を中心とした展示館であれば、

こんな所だろうと入って見ると、図星だった。

 一般の民家の様で、声をかけると、奥から、お婆さんが仕事衣で出てきた。

要を告げると、 今は行事で展示品が出てしまっているので、

一部でも宜しいかと、言うので、了解すると、早速、案内してくれた。

説明を聞いていると、只のお婆さんではなく、先代の奥さんのようだ。

棗と掛け軸、切花入が主で、茶碗が1個も無いのに驚いた。  今更、出るに出られず・・・ 


こちらは茶の湯、松尾流の家元で代々引き継ぎ300年になると言う。

始祖は辻玄哉といい、堺の豪商、武野紹鴎に茶の湯を学んでいた。

武野紹鴎と言えば有名な千利休の師匠でもある。

堺から京都に移り、その後、性も松尾と改め、蛤御門の変で屋敷が焼けた為、

以前から縁のある名古屋に移り住み、現在に至っていると言う。

帰りがけ、展示品が少なく悪く思われたのか13代の松尾宗典氏の

著書「心のベクトル」を戴いて、反って恐縮してしまった。

その本は、「相手の心を思いやって茶を点て、一期一会を大事に人生を楽しむ」との要旨だった。

正に、その通り、御もっとも !


楽只館




何代目かの遺言



楽只館を出て久屋大通りを、次の三の丸庭園に向う。

通りを突き当り、久屋橋を渡ると名古屋市公館があり、その右横にあった。

こちらもよく見ないと見落とすぐらいに案内板が小さい。 

元陸軍将校クラブの庭として明治14年、二の丸庭園の一部を移築したもので

こじんまりしたものであるが、樹木や置かれている庭石は中国大湖の石の様な複雑さの物もあり

流石! 大名屋敷の庭園を伺わせる。  現在は水も無く枯山水の様相。


名古屋市公館




三の丸庭園木戸口



枯山水の様な池





築城以来の樹木と庭石

外堀の土塁の古木を背景にした巨石の置かれた庭は小さいながらも迫力を感ずる。

庭の奥にある庭石は一見の価値がある。



庭園を出て外堀通りを左折すると、間もなく、ヒマラヤ杉に囲まれた市資料館が見えて来る。

この建物は名古屋でも一級の重要文化財で、旧名古屋控訴院・地方裁判所の庁舎であった。



名古屋市資料館正面ハサード

全国8箇所に設置された控訴院庁舎の内、現存する最古のもので、大正11年より4年間かけて

建てられた。 外観は正面中央ドームの塔屋を載せ、外観は赤い煉瓦に

白い花崗岩と人造石を用いて美しいアクセントを付けている。



中央階段

正面入口を入ると、そこはヨーロッパの何処かの美術館にでも来た様な。 

中央階段の柄の良い大理石の手摺、正面と吹き抜けの天井には

ステンドグラスがはまり、ネオバロック様式。



吹き抜け天井ステンドグラス



   
正面階段手摺                正面ステンドグラスと柱



 
会議室                               陪審法廷


他の部屋には名古屋市の歴史的な市政文書や裁判所の歴史資料等が展示されている。




司法事務所の並び

市資料館前は昔、裁判所だった為、司法事務所が軒を連ねている。

その道を東へ進むと国道41号線との交差点に出る。

 越えた右側角にカトリック主税町教会がある。 この教会は名古屋・岐阜地方で初めて

出来た教会で、明治37年に礼拝堂が建てられた。



主税町教会




礼拝堂と鐘楼


鐘楼(復元)は100年前に建てられたフランス製とのこと。 

中に入ると街中にも、かかわらず、その喧騒を感じさせない静けさである。



教会の角より見た主税町通り


こちら(41号線)から国道19号線迄の白壁、主税、撞木の3町は街並保存地区に指定されている。

赤いブロックで舗装された主税町通りを東へ歩くと、左に黒い門構えの料亭「香楽」があり

その先には春田文化集合住宅があり、その隣に春田鉄次郎邸がある。


主税町通り左春田文化住宅が見える



           
春田鉄次郎邸門                       同玄関へのアプローチ


春田邸は武田五一(旧名工専の初代校長)が設計の洋風の数奇屋普請で大正14年に

建てられ、終戦直後は米軍第五航空司令部に接収されていた時期があり、

現在、邸内の洋館部分はフランス料理レストラン「デュポネ」

として利用され、和館の方は公開されている。



春田邸和室

邸内の廊下には、既に電気は来ていたが、ガス燈も点けていた。

当時、富裕層の流行りだったそうだ。  大正ルネッサンスを気取ったのであろうか?


春田鉄次郎は明治初年、多治見に生まれ陶磁器の輸出で成功し、明治26年には

中国に、36年にはアメリカに渡り販路を拡大し、大洋商工(株)を起こした





豊田邸前の武家屋敷門と焼け残った土蔵


この後、豊田佐助邸へと進む。  春田邸の直ぐ先左側に石の門柱が見えて来る。

街並み保存地区ではこの様にビルであるが街並みを保存する為、武家屋敷風の門を残している。


          
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