悠久のエジプト5

石切り場を見た後、又、コンボイを組む為、バス集合となり、前後に自動小銃を持った

警備がつく。警備も有難いが集合で待たされるのも厄介だが安全には換えれれない。


第4日 アブシンベル

今日はアブシンベルまで約300kmの行程、道は砂漠ばかりという。 アブシンベルは

エジプトの最南のスーダンとの国境に近い所で、これから3時間の道のりである。 


ガイドのミモ氏の話しでは、この辺りはヌビア人が多く住んでいてダム工事で住処が

湖底に沈むため多くの人が移住させられたと言う。 ヌビア人はスーダンに多く

ラクダで1ヶ月駆けてこちらまで買物に来るそうだ。 生活が苦しく50ドル/月程度

の人達もいると言う。 エジプトを縦に流れるナイル川はアフリカのビクトリア湖を

源にスーダンを通ってエジプトに流れる6650kmの命の源である。

最近、アフリカでの民族紛争から難民が発生すると、唯でさえ草木のない砂漠地帯で

燃料に木を燃やすため、益々砂漠化が進み、温暖化へと悪循環が進んでいる。

温暖化でエチオピア高地の降水が減れば水質も悪化し自分達の生活にも影響を及ぼす。

 最近ダムによる塩害や、下流域の土壌の痩せ、鰐の減少等の問題も出ていると言う。


車は、延々と続く黄色い砂漠、直線の道を淡々と走る。 皆は居眠りを始めた。

信号もなく何の変化もない単調な道に運転手が居眠りをしないかと心もとない。

遠方に何か陽炎の様なものが見えて、水平線の下に水面が見える。

ミモ氏にナイル川かと聞くと、川ではなく蜃気楼だと言う。 成るほど、よく砂漠で

湖と間違え蜃気楼を追う話しをよく聞くが、これでは本当に間違えてしまう。


蜃気楼。地平線に島が浮いている様に見える。

暫くすると、道は大きく左に曲がり、又、直線の道となる。 所々に黒い岩の様に

見えるものがある。 それらは鉄分の多い岩石で大きなものもある。

窓際に一人歩く人を見つける。 黒いガラベイヤ(ワンピース)を着て白い

ターバンを巻き歩いている。 野宿をして行くのだろうか?大丈夫かな〜

砂漠を眺めながら、バスに揺られていると、色々の思いが浮かんでくる。


時間も進み湖が左に見える。 大戦後エジプトの独立を成したナセル大統領が

造ったナセル湖である。 漸く、エジプト最南の街アブシンベルに到着した様だ。

大きなアーチを潜りホテルへ着いた。 最南端らしく更に光が強く感じる。

辺りはブーゲンビリアの花が一杯咲き、造りが如何にもアフロな感じ、石積みの

カントリー・ビラと言った建物である。、こちらに荷物を降ろし昼食をとる。


メニューはスープ、ビーフシチュー、ナツメヤシ、オレンジと言ったところ。

シチューの肉は良く煮てはいるが、カスカス。 これがアフリカン・ミートだ。

オレンジは新鮮だし、ナツメヤシは初めて食べたが懐かしい味がした。

何の味かと思いきや干柿の味と言うか。 スタッフは顔が黒くアフリカ・

ヌビヤ人と言うが我々にはブラック・アフリカとしか見えない。


アスワンと違い白いガラベイヤに肩からショールを掛けている。

食事を済まし、バスでアブシンベルへ向うが、5分も経たない内に到着。

ナツメヤシの並木道が整備され神殿の周囲は樹木が茂り公園になっている。

土産物屋が連なり、食事や休憩所も整備され観光に力を入れている様子で

今後、ホテルも増え発展して行きそうである。


アブシンベル神殿への参道

後姿の白いガラベイヤの人物は我がツアーの一員。 

正面に見える赤い丘が砂岩で出来たアブシンベルの裏面である。 

右手より砂漠の広場を廻り込むとナセル湖が群青の水面を細波で光らせて、

更に左へ進むと神殿正面へとつながり、ラムセス2世の四体の彫像が見えて来る。



アブシンベル神殿


アブシンベル神殿横の広場、右手はナセル湖が広がる

この神殿はエジプト古代・新王国時代のBC1250年頃にラムセス2世が

建造した岩窟寺院である。 ファラオ自らの大神殿と后のネフェルタリの

為に造られた小神殿とからなる。 1813年埋もれていたのをスイスの

学者ヨハン・ブルックハルトにより発見された。 その後、1968年に

アスワン・ハイダムの建設で水没する為、ユネスコの援助を得て

対岸にあったものを、ブロック化し、現地に移設されたそうだ。 


ラムセス2世はヒッタイトとの戦いを終え、国内を治めるため、神への信仰を重視し

自らを太陽神の子として神殿建設に励んだ。 彼は90歳まで生きたと言われ、

子供が108人いたと言うから側室も多くいたのであろう。


大神殿

大神殿は高さ33m奥行き63mの巨大な赤砂岩の岩窟神殿で太陽神ラーを祭り、

ヌビア人へファラオの権力の誇示と敵に対する威圧を示したと伝えられる。

四体のラムセス2世像は左より右えと年齢を経た表情と言われ、左は青年像で右は

老人像となる。 二体目の崩れた像はBC27年の地震による崩壊と言われている。

入口の上に見える小さな像は聖蛇のついた日輪を頭に乗せた太陽神ラーである。



足元の王女像

ラムセス2世像の足元の小さな像は王子や王女の像で、ラムセス2世は古代王朝で、

初めて自らを神と名乗った。



ラムセス二世像の土台に彫られた王と王妃のカルトゥーシュ
下はヒッタイトとの戦いで捉えた捕虜

*カルトーシュとは象形文字で書かれた名前で枠飾りがあり王だけが使用できる。

神殿内へ入ると、大列柱室があり両側に四体づつのオシリス神の姿をした

ラムセス二世像が並び、天井には星の図が描かれ、壁面には歴史的な

ヒッタイトとのカディシュの戦いや、アッシリアの戦い等のレリーフが刻まれている。

ラムセス2世は、ヒッタイト(トルコ東部)と三度戦い、日本の川中島の戦いの様に

勝敗が決せず、停戦協定を結び、神殿建設へとエネルギーを傾注して行った。


オシリス神の姿をしたラムセス二世像・列柱室内

神殿の奥の至聖所にはプタハ神、アメン・ラーの神、ラムセス二世、ラー・ハラクティ神の

四像が並び、年に2度、2月21日と10月21日に入口から光が王の顔を照らすと言う。

小神殿の所でカメラのバッテリーが上がり、残念ながら画像が切れる。


小神殿は王妃・ネフェルタリの為に建てられ、愛と美のハトホル女神を祭っている。

大神殿から100m程の右側に建てられ大神殿に比べると規模は半分程

入口に王と王妃の像が三体ずつ並び、足元には子供たちがいる。

室内はハトホル女神で飾られた6本の柱があり、神々に供物をする

王と王妃の姿が壁には描かれている。


神殿内は夫々照明がなされていて3000年をゆうに超えるレリーフや

ヒエログリフ(象形文字)の鮮明さや色の風化の少なさに驚く。 

砂に永く埋もれていたのが幸いしたのであろう。 神殿を見終わり公園の茶店で

ハイビスカス・ティーを飲む。 味の薄いジュースの様な物であるが赤ワインよりは

薄い綺麗な赤でポリフェノールの多そうで健康には良さそうだ。


バスに戻りホテルへ、部屋に入って一服、砂漠でありながら何処か湿っぽい。

ナセル湖に面し、良い場所ではあるがホテルとしては今一のよう。

夜は神殿での「光のショー」があるので夕食を早めにと食堂に行く。

仲間から「部屋にヤモリがいた」と言うので大騒ぎ、確かに湿気があるし

ヤモリもいるのだろう。 サソリでなくてよかったとは云うものの本人さんは納まらない。


食事を済ませ、再び神殿へ、すっかり陽が落ち紫黒の空に星が輝いていた。

懐中電灯で足元を照らし神殿を正面にした舞台に、湖に近いところに観覧席が設けられている。

 ショーの始まるまで空を眺めていると、流星が長い尾を引き南の方へ消えて行く。

 何十年ぶりかで見る流星である。 今の日本では中々見られない。

 やがて観客が埋まったところで光と音と映像のエジプト大叙事詩が

神殿全体をスクリーンにして始まる。 強烈な音響と共に雨と風のシーン。


  ナイル川がが増水し上流より養分を含んだ水が下流に広がる。 

それが肥沃な土地を作り出し豊穣をもたらす。 

民は古代の王と共に自然の神々に祈りをささげ繁栄をして行った。

王や王族の姿を光で浮かびあがらせ、昔を思い起こす感動のショーであった。


翌朝、日の出を見に、また、神殿に出かける。 現地につくと、未だ暗い。

やがて空が紅に染まっると、ナセル湖の暗い砂漠より黄金色の太陽が昇り

その上部は白く下半分はオレンジに輝いている。 

アブシンベルでの太陽の大儀式を拝みホテルに戻る。

 朝食を済ませ、又、警備つきコンボイでの移動の為、集合場所へ早めに出かけたが

出発ができない。 するとガイド氏が駆け込んで来て

「自分達は早く来ているのに乗車人員が少ないと、後尾にされた」とぼやいている。

 前にも中国製のバスがいるからと言われて後にされたことがあると言う。 

中国製のバスはトラブルが多いらしく、盛んに中国バスを貶していた。

結局、人員の少ないバスは身軽だからと最後尾を賜って3時間を走ることになる。


砂漠を抜けてやっとアスワンの街に入る。 船着場に多くのクルージング船がいる。

ナイルには260隻が運航しているそうだ。 エジプトでは建て掛けの建物をよく見かける。

ガイドしに聞いてみると、何と理由は完成すると税金が掛けられるからと言う。

税金逃れのために工事途中にしているそうだ。 そう言えばトルコもそうだったな〜

やがて、予定どうり13時にアスワンのホテルに到着、昼はホテルのレストランで

シシケバブのランチを食べる。 午後、アスワンハイダムをバスより見学。


アスワンハイダムは1970年に灌漑用水の確保と氾濫防止の為

ナセル大統領がロシアとドイツの援助を受けて造った巨大なロックヒールダムである。

見たところでは、黒4ダムと高さは変わらない。 しかし長さが違うようだ。

 琵琶湖の7.5倍の広さで、発電量は黒部ダムの6倍だそうである。

 電力の供給や農業用水の安定化がされた反面、鰐がいなくなったり、

下流の土壌が荒廃したりで問題も抱えているようだ。


ダムを見てアスワン駅へと向う。 17時発の列車まで時間があるので駅前の

商店街の見学をする。 電池を買おうと店を探す。 店のおじさん達が

顔を見るや「高い! 貧乏!」、「買わない」とニヤニヤ笑って誘ってくる。

それにしても、やかましい売込みである。 やっと見つけて、交渉成立、

日本の倍の値段と相成る。 交渉を慌てたら彼らのペース、急がないこと!

電池をゲットして列車に乗り込む。 頑健そうなポーターがスーツケースを

運び入れてくれる。 コンパートメントの寝台ではあるがスーツケースを

入れたら、えらく狭くるしい。 やがて、列車は動き出した。


黄昏のナイル川に沿い列車は、リズミカルな音をたてて走る。

窓が汚れていて見え難い。 ティシュに水をつけ大掃除、よく見える様になった。

永く拭かずに捨ててあったのだろう。 これで暫く、この席の客は大丈夫。

ボーイが飲み物を持ってきたのでビールを貰う。 添乗員より食事の後チップを

渡すよう云われていた。 しかし、トイレのチップには閉口する。

何時も小銭を用意しなければならず、さもないと大銭を渡すはめになる。

郷に入ればしょうがないが、トイレばかりは煩わしい。


ボーイが食事をくれる。 缶ビールを見て冷えたものと取り替えてくれた。

意外なサービスである。 礼を言うとニヤリと笑って行った。

食事を済ますと外は暗くなっていた。 ボーイがきて寝台をセットしてくれた。

これで、もう寝るばかりである。 ドアの取り付けが悪いのかやけにガタガタと音をたてる。 

気になるので又、メンテナンス、ドアの隙間に紙を折って挟み込む。

どうやら音もなくなり眠りにつく。



第5日 北エジプト

ギザ駅へ15分遅れの5時15分に到着、街は未だ薄暗い。

バスに乗り換え、カイロ市内へ、やはり人口2000万の大都会ナイル川を挟み

霧の発生か街の高層ビルが霞んで見える。 東側は新市街やイスラム地区が西は

ピラミッドやスフィンクスのあるギザの砂漠が広がる。

ホテルに着き、荷物を降ろし一時休憩。

昨日のホテルと違い、今は「ヒルトンホテル」ゆっくり休めるだろう。


ホテルの部屋より見るカイロの朝、右手は10月6日橋


エジプトは当初、西アジア方面から人が移住し、水のあるナイル川周辺に住み着き

集落ができると共に南の上エジプトと北部の下エジプトの王国ができ、紀元前3千年頃

上エジプトと下エジプトが統一され一つの王国となった。

今日は愈々、エジプトのハイライトと言われるピラミッドへ!



ギザの3大ピラミッド

ホテルを出ると、もう街は朝のラッシュ道路レーンなど関係なく車は走る。

信号はあるものの歩行者は信号とは関係なく横断歩道もそうででないところも

軽々と横切って行く。 全て自己責任のルールの様子、交通整理の警察は

まるでお飾り状態で機能していない。 遂に交差点広場で立ち往生。

窓の外ではオジちゃんが焼き芋を売っている。 勤め人風の人が買って行く。

ベンチで毛布を被って寝ていたホームレスと思われるオジサンがやおら起きて

焼いも屋に近寄ると、芋売りのオジサンが、そのホームレスのオジサンに

2・3個包んで与える。 何とも自然なしぐさと言うか姿である。

聞くところの、イスラム教の弱者への喜捨精神が行き届いている様だ。

やがてバスが動き出し左折して進む。 橋を渡り西岸へ入るとナツメヤシ

が沢山生え、右手の家並みの間からチラリと、ピラミッドが覗く。

初めてのピラミッドに胸がときめく。やがて車が右折するとピラミッドが全貌を現す。

サハラ砂漠の中に根を下ろした様な安定感で存在を主張する。

ギザの街道を通って高台のバスプールに着く。 やはり傍で見ると ドテカイ!

この場所はギザの中でも高い所、左手にカイロの街が朝日に霞んでいる。

彼方此方にラクダがいて客を乗せて、のんびりと歩いている。



クフ王のピラミッド

クフ王のピラミッドはギザの中では一番大きく一辺230M高さ138m勾配51度の四角錐である。

当初の高さは146mだったそうで、長さと高さの比が黄金比になっている。

クフ王の父は、第4王朝の創始者スネフェル王の子供で紀元前2560年にピラミッドを建てた。

ピラミッドを構成する一個の石の大きさは1.5m程の物で230万個程を使用して

想像のつかない難工事であったであろうが、未だにその工法は解明されてない。

以前は奴隷が築いたと言う説であったが、今はモンスーンの時期、川の氾濫で

農民の仕事がない時を狙い王が仕事を与えたと言う説が有力のようだ。

ピラミッドは王が権力を誇示する為に造ったと言われるが使用目的は明らかでない。

現段階ではエジプト全体で103個のピラミッドが分かっているそうだ。



カフラー王ののピラミッド

カフラー王はクフ王の子供で第四王朝のファラオであり、2番目の大きさのピラミッドを建造した。

一辺215m、高さ136m元は143m、勾配53度である。 頂上は花崗岩の化粧石が一部残っている。

当時は磨き上げられた赤花崗岩が輝き、鋭いエッジの4角錐の頂点に神々が降りたのであろう。



メンカウラー王のピラミッド

メンカウラー王はクフ王の孫である。 このピラミッドは三大ピラミッドの内で一番小さく

高さ62m元65.5m、一辺105m、勾配51度で長さでは半分以下である。

何故、小さいのかその理由は定かでない。


クフ王のピラミッドの入口、人と比べ石の大きさが分かる。

3個のピラミッドの内、クフ王のピラミッドに入る。 一日200人に入場制限をしていると言う。

地面から10m程の所に入口があり其処まで石段を登る。 木戸には3人のいかつい

オジサン達が番をしているが切符を出すと、いたって愛想よく迎えてくれる。

初めはゆったりした広さの通路を上って行くが、その内、腰をかがめないと頭をぶつける。

苦しい姿勢が続く、やっと切り抜けると、何時の間にやら体が汗ばんでいる。

漸く、たどり着いた所は王の間と言う玄室があり、殺風景な部屋に

欠けた赤花崗岩の石棺が残っていた。

全ては盗掘されてしまっているが感じるものは、やはり墓というイメージ。


他のピラミッドは入場せず、この後、バスで少しはなれた「ピラミッドの丘」に行く。

高い場所で見晴らしが素晴らしい。 ピラミッドまで1km程の距離があると言う。

こちらは土産屋の露天商が沢山出ていて、ラクダの数も多い。

やはり観光客が一番集まりそうな場所のようだ。


ピラミッドの丘

この丘から見るピラミッドは素晴らしいの一言。 サハラ砂漠が見渡す限り。

赤い砂と青い空! バスが小さく見え 時空を超えた悠久を感じる。

ピラミッド最高のロケーションであった。 この後、バスに乗りピラミッドの

反対側へと進む。 綺麗に舗装された道路を行くとスフィンクスが見えてきた。

横を通ってバスの溜り場へ行き、振り返ると正面にスフィンクスとピラミッドが見えた。

そちらに向って歩く。 やはり神聖な所へと向って行く気持ちになる。

石橋のような所に来ると水が溜まっている。 昔は、この辺りまで川が来ていて、

ここは船着場があったそうだ。 スフィンクスの左手には河岸神殿が残っていて

先ず、ここから入る。 河岸神殿は四角の花崗岩がきっちり積まれ、床はアラバスター

(大理石の一種)が敷かれ、当時は暗い通路と言った感じで壁と天井の隙間から

微かな光が入り神秘さを演出し、参拝者に対し王の威徳を感じさせたのであろう。



スフィンクスとカフラー王のピラミッド

そこを抜け列柱の部屋を過ぎると通路が少し上りかげん。

その先は視界が開け、ピラミッドが現れる。

ここからなだらかな上りの参道がピラミッドに向って真直ぐに伸びている。

右手横には獅子の体をしたスフィンクスが鎮座している。

以前に、幕末期、遣欧使節団が日本人では初めて、こちらを訪れて写した写真を

見たことがあったが当時、彼らの驚きは今とは比べものにはならず大きかったと思う。




スフィンクスはカフラー王の守護の為に造られたと伝えられ顔はカフラー王、身体がライオン

と言われている。 頭は智を表し身体は力を表現していると云う。 しかし、ピラミッドから

見ると位置が不自然で、果たしてそうなのかピラミッドとの関係に疑問も残る。

この辺りは石切り場だったそうで、この像は石積みでなく石灰岩より彫り出したもの、

顔と身体の色違いも気に掛かる。 体長が57m 高さが20mと言う。

この後、昼食は中華料理で久しぶりに馴染みのある味の食事ができた。

午後はダハシュールへと行く、灌漑用水路にナツメヤシの林が続く道をはしる。


ダハシュール

ダハシュールはカイロより南30kmほどのナイル西岸所にあり、ここはクフ王の父・

第4王朝スネフェル王によって造られた2個のピラミッドがある。 一つは赤のピラミッドであり、

残る一つは屈折ピラミッドである。


赤のピラミッド

このピラミッドは石灰岩が赤かったことからそう呼ばれた。 ギザに比べると早く

造られた為か勾配が43度となだらかで、土木技術が、まだ未熟だった様だ。

一辺長さ220m、高さ104m、と規模も小さい。



屈折ピラミッド

屈折ピラミッドはスネフェル王が先に建てたものと言われ傾斜角が途中で変わっている。

地面から中間までは54度の角度で進めたが、途中崩壊の危険を感じ傾斜角度を緩やかに

したものと思われている。 大きさも赤のピラミッドよりは小さく、この経験をへて

大規模な赤のピラミッドの勾配が決められて完成したのであろう。 

その後、更に進歩しギザへとつながって行ったと言う。 次はメンフィスへ。


メンフィス

メンフィスはダハシュールより12・3km程度カイロ寄りに戻ったところで、ナイル・デルタの

頂点に当たる土地柄、古王国時代の統一王朝最初の古都であった。その後、中王国時代に

上エジプトのテーベ(ルクソール)に都が移る迄、1000年ほど続いた都であたが、

現在は寂びれて村となっている。 遺跡はプタハ神の聖地であった為、

その神殿跡やラムセス2世博物館、スフィンクスなどの遺跡がある。



博物館内のラムセス2世

公園に見える遺跡には右手に博物館があり、中に巨大なラムセス2世像が横たわっている。

彼は余程の顕示欲が強かったのか、取り巻きがそうさせたのか、エジプト全土に自分像を

残している。 この像は頭にコブラを載せ、バーベルを持った精緻な石像である。



スフィンクス

このスフィンクスはアラバスターでできており、トトメス王のものと言われている。

この他プタハ神や聖牛のミイラを作る解剖台もある。 次は一番古いピラミッドが

あると言うサッカラへと向う。 


サッカラ

サッカラは古都メンフィスのネクロポリス(死者の街)と言われ、砂漠の中に古墳やピラミッドが

多数散らばっているが、一番有名なのは「階段ピラミッド」と呼ばれるジョセル王の造ったもので、

ピラミッドでは最古と言われている。 ジョセル王は古王国時代第3王朝のファラオで

BC2800年にイムホテプ大臣(シュメール人)に命じ、葬祭神殿を含めた

ピラミッド・コンプレックス(複合葬祭神殿)を建造させた。

周囲を塀で囲んだ宗教的な冥界を創り出していると言われる。


ピラミッド・コンプレックス入口

こちらは塞の様な構築物で葬祭神殿の入口とは思えない石造建造物である。

イムホテプ大臣の設計と言われ、中に入るとアラベスターで積まれ、その石積みの

技術に驚かされる。 現在、これだけの仕事ができる職人は、そうはいないだろう。

石と石の隙間がないと言うくらいの擦り合せである。 表面は鏡のように光っている。

その狭い壁を過ぎると死体を処理する場所の柱廊が続き祝福されて遺体は通って

いったのであろう。 外に出るとピラミッドが見えると言う仕組み。


階段ピラミッド

中では階段ピラミッドが夕日を浴びて輝いていた。

このピラミッドは日干煉瓦で造られ、マスタバ式(台形の低いもの)から更に高い

ピラミッド式へと変わって行った最初のものだそうである。 高さ59mと小ぶりで

初めてのピラミッドだけに、未だ技術も進んでいなかったのであろう。

この様に一連のピラミッド群を見てくると、当時の人々は複雑な社会の現代人と違い、

死後の世界への思い入れと言うか、見えないものへの畏れの思いを持ち、それだけ

自然に対して近くて謙虚な生活をしていたのではないだろうか。

そんな思いで今日はホテルへの帰路につく。



第6日 カイロ

昨夜は砂漠ばかりを歩き、疲れたのかぐっすり熟睡、今朝は早く目が覚め、

部屋から朝日を拝むことができた。 霞かスモッグかカイロの朝日は霞んでいる。


部屋よりの眺め

今日はカイロ市内の見学で最初にイスラム地区にてモスクを見る。

一つ目はムハンマド・アリ・モスク



ムハンマド・アリ・モスク


ムハンマド・アリ・モスク

このモスクはエジプト独立の功労者ムハンマド・アリが1824年に建てたモスクである。

彼はオスマン帝国がエジプトに派遣していた軍人総督で、元々はアルバニア人で

オスマン・トルコ帝国の滅亡後、強力な指導力に基づき、エジプトに政権を樹立、

19世紀初めより150年間支配して来た。 アラバスター(大理石の一種)を多く用い

アラバスター寺院とも呼ばれている。 古い城塞の中に建てられ、これは十字軍が

攻めて来た当時のもので1176年に建てられ、その後は宮殿として利用して来た。



中庭のナイルメーターとフランスより贈られた時計台

宮殿内の中庭にはナイルメーター(ナイルの水位を測り豊作の予想をした)があり

回廊の上にはフランスから贈られた時計がある。 これはルクソール神殿のオベリスクを

フランスに贈った返礼に、フランスよりムハンマド・アリに贈られたもの。



ムハンマド・アリの棺・安置所

モスクの中は赤い絨毯が敷き詰められ、天井には何処のモスクも同じであるが

照明のシャンデリアやランプが丸い円になって下がっている。 

天井や壁はコウランの文字やアラベスク装飾の世界が広がっている。

モスクの右手には金色の説教台があり、出口の横に

金色の透かし彫りの囲いの中にムハンマド・アリの棺が安置されている。


スルタン・ハッサン・モスク

次いでスルタン・ハッサン・モスクは1350年に造られた世界最大級のモスクで、

エジプトのイスラム教のモニュメントで最も華麗な入口をもち マムルーク朝の

最高傑作といわれている。 モスクは一般にも礼拝が開放され、中庭の中央には

噴水があり礼拝に集まる人々は、ここで手を洗い身を清め礼拝を行なう。

 ミナレット(尖塔)の高さはでカイロ一の高さだ。


スルタン・ハッサン・モスクのミナレット



エジプト考古学博物館

カイロの最後は世界最大のエジプト遺物を展示する国立考古学博物館へ入る。

我々の泊まったラムセス・ヒルトンのナイル川河畔道路を挟んで南にある。

混むからと朝、早目に着いたがこちらは様子が変わり大勢の観光客がもう

押し寄せている。 これでは見るのも大変そうだ。


エジプト考古学博物館の正面

正面入口アーチの上にハトホル女神の彫刻があり、その両脇には

クレオパトラと思しき女性像が飾り付けてある。 

この博物館はフランスの考古学者オーギュスト・マリエットによって遺品が展示

されたのが始まりで1858年に創設され現在は国立博物館となっている。

入口に並び入場するが、後から後からと見学者が増えてくる。

1階は時代別に石像や石碑など大きくて重いものが陳列されている。

2階ではテーマ別に陳列されている。 しかし、団体での入場者が多く

ガイドの説明が済むまで見ることが出来ず、夫々のガイドが空いた所を

選って説明をする始末。 1階ではギザのピラミッドのカフラー王の滑らかに

彫られた坐像、男装をしたハトシェプスト女王像、そのスフィンクス像等

又、碑では象形文字が解読されたロゼッタストーン等が目を引いた。


2階ではやっぱりツタンカーメンの遺品が群を抜く。 

この遺品はヨーロッパの国の発掘競争の中、イギリスの考古学者ハワード・カーターが

1922年に王家の谷にて発見した品々で整理に数ヶ月掛かったと言う。

目方120kgと言われる黄金の内棺はその豪華さと煌びやかさには驚かされる。

これだけの品物が3000年も前の物だと言うから凄いと言わざるを得ない。

黄金のマスクについても肩まで、すっぽりと被れる作りで当時の金細工と

象嵌の精緻な技術のレベルの高さに驚かされる。 金箔の玉座は背もたれに

赤い身体のツタンカーメン王を王妃のアンケセナーメンが香油を身体に塗っている

と言う実に睦まじい絵柄でツタンカーメンの若夫婦ぶりが伝わって来る。

それに4重ねの棺の入っていた木製の厨子の大きさと豪華さ。 

それに動物の頭の付いたベットや首飾りやブレスレット等装身具から

衣類まで日用の生活用品まで展示されていた。 

博物館の総所蔵点数は25万品と言う。 これを以ってカイロ見学も終る。


夜はクルージングでベリーダンスを楽しんだ。

ナイルの川面は今夜も、悠久の微風が吹いていた。


旅を終えて

エジプト5000年の歴史はナイル川により作られて来たといっても過言ではない。

それは肥沃な大地をもたらし、物資輸送の大動脈としても利用されてきた。

それが大遺跡を残したとも云える。 兎に角、見る遺跡が何れも巨大なものばかりである。

特に、柱の太さや、ピラミッドの大きさは勿論、その石材の大きさに驚く。

 これだけの石材をどう運んだか、如何に組み立てたか、未だに定説がない。

 又、ダハシュールからギザにかけての地域は未だ、無数の遺跡が眠っていると言われている。

日本の吉村先生率いるチームも、こちらで、今も発掘を続けている。


東の中国の古代遺跡も、経済の発展に伴い、追々、発掘がされて行くであろう。

一方、日本を見ると、列島全土、殆どが開発され、今後、中世以降の古文書が旧家の蔵から

見つけられて多少歴史のディティールの修正ぐらいはあろうが、大きな発見はないだろう。

勿論、宮内庁の管理する天皇家の陵墓を発掘でもすれば別であるが・・・

中国や韓国では日本の文化を『縮みの文化』と云う人達がいるが、確かにその通りだと思う。

言われる様に建築物は小さい。 盆栽や茶室などは縮みの典型であろう。


しかし、これらは日本の置かれた自然環境から発したものと思う。

それは土地が狭くて(島国)地震の多いこと、湿潤の気候等、巨大なものや石造りはなじまない。

人間的な面では自然の猛威に対する畏れから、それを敬う畏敬の念。 

八百万神の信仰というかアニミズムである。 この辺りは、エジプトの古代と同じ様に自然信仰である。

近頃はエジプトも自然への挑戦とみられるアスワンダムの弊害が
30年にして囁かれるそうだが・・・

地球の時間で見ないと、その答えは出てこない。

古来より日本人は自然の中の一つの生物と理解し自然との共生の思想があった。

そう云ったことから自然を征服する様な巨大な建物、気候や地震にあわない石材の

使用を控えたのであろう。 それが今日の日本文化を残してきた。


このところ世界は「地球の温暖化」が大問題となり持続可能な環境が叫ばれている。

日本はつい70年程前までは「人は自然に生かされている」と云う考えで

「足るを知る」と云う心を持っていた。

 文明発祥の地エジプトより帰って、こんな原点が蘇る旅であった。

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