越中を尋ねる
(五箇山合掌造り集落・井波町瑞泉寺)
04.5.25
昨夜、梅雨までに新緑の五箇山集落を訪れたいと、天気予報見ると、
快晴が続くことが確認できた。
これはチャンスだと思い、インターネットで越中高岡のホテルの予約を入れてみると
折り返しOKの知らせがあった。
早速、今朝出発する事になる。
コースは東海北陸道を北上し、荘川インターより五箇山合掌集落に寄り、福光に入り、
棟方志功記念館を観賞する。
そのあと、井波にて瑞泉寺を見て、砺波平野の散居村を、夢の平より展望し、
高岡にて1泊する。 翌日市内を見物して、午後、氷見の十二町潟に寄り帰える行程。
昨夜の風で塵がとばされ、五月晴に恵まれる。
東海北陸道を走り大和町を過ぎる頃には、山の緑がかわり、濃い緑と、薄い緑の
まだら模様が素晴らしい。高鷲村では山藤が下がり、緑が浅く一ヶ月近い季節差を感じる。
ひるがの高原SAで一憩つぎ、先へと急ぐ。
気が付くと、何時の間にやら荘川インターを通り過ぎ、着いた所は終点清見インター。
遠いなーと思いきや、その筈、来過ぎていた。
トルゲートのオジさんに道を聞くと地図を呉れた、良く見ると、何んと
白川までの道はなく、舞い戻りと言う。 不覚!!
”今来た道を帰りゃんせ ”じゃないけれど、スタコラと荘川へと、かっ飛ばす。
やっと、荘川に戻り、御母衣ダムを横に見ながらのドライブが続く。
この辺りは、桜の木が多く、季節が合えば楽しかろうにと、ハンドルを廻す。
左手に斑模様の雪を光らす山が見えてきた。白山だろう。
やがて白川に着く、以前、白川に来た時は、世界遺産になって間もなくの頃で
賑わっていたが、今日は道も空いている様だ。
合掌造りを、ちらり見ながら五箇山へと急ぐ。
やっと、五箇山の標識が見えてきた。
妙なもので、標識を見た途端、元気が出て来る。
間もなく左手一段低いところに、菅沼合掌集落が見えた。
車を止める。
上平村菅沼合掌造り集落
荘川の辺に十戸が集落を形成
集落の入り口にある合掌造りの家、アイスクリーム等食物商売をしている。
こちらの集落は、風景も、あまりピントこず、イマイチ、軽く見てお暇とする。
お許しを!
菅沼を出て4.5分の処に上梨地区の村上家がある。
この家は当時の代表的な建築様式が残る合掌造りの家で国の重要文化財として指定されている。
村上家(白い標識のある家)
その後、156号線を相倉合掌造り集落に向って、まっしぐら。
10分ほどで156号をはずれ、登りの山道となる。
やはり、平家の落人と言われるだけに解りにくい所のようだ。
沢から登って山の中腹の陰のような所に集落はあった。
広い駐車場に車を止めると、お爺さんが寄ってきて、300円と言ってパンフを呉れた。
見ると集落の案内である。 しかし、一ページ目に”お願い”とあり、
1、タバコのポイ捨てはやめましょう。
2、塵は持ち帰りましょう。
3、屋敷内、畦道など生活域へは立ち入らないで下さい。
:
等々注意事項が述べられていた。
確かに、自然のリズムに合わせた静かな生活をおくっていた、こちらの人々には、
世界遺産に指定されてからは、村の生活が激変した事であろう。
特に気の付かない観光客は、町の感覚で行動すると迷惑な事が多々あるだろう。
自分も戦時中、田舎に疎開し、昼飯の後、友達と、大声を出して、農家の人が
昼寝をする習慣を知らず、叱られた事があった。
やはり郷に入れば郷の習慣があるから、気を付けなくちゃ!!
平村相倉合掌造り集落
この集落は1995年ユネスコの世界遺産に登録され、現在23棟の家屋が存在し
100年から200年前の物が多く、古い物は400年前に建造されたと言われる。
屋根の勾配は60度に近く、雪が滑りやすい構造をしている。
組み立てには釘お使わず、屋根の葺き替えは15年から20年毎に行われている。
集落保存財団
前に、行った白川郷の合掌集落では、観光客が多くて、村の人達は、その応待に追われていた。
その為か好い印象は残っていない。
やはり、この様な処には、”多忙”と言う状景は似合わないようだ。
取って代わり、相倉は、まるで違う。 地理的にも遠い所為か、来訪者も少なく
山々に囲まれ、新緑に包まれた家々の佇まいは、何と、落ち着き、田植えの終わったばかりの
水田をツバメが虫を追って飛び交い、静かな時間が過ぎて行く・・・・
しかし、800年も前から、この国堺で、落人の人達が、自分達の居場所を営々と、
人目を忍んで守ってきたかと思うと、感慨深いものがある。
明るい緑に包まれた田植えの済んだばかりの水面が光に映える
霞みのない晴れ渡った空気にアヤメの色が鮮やか
通りの右手の地主神社の階段で、二人ずれのオバさんが絵を描いていた。
見せてもらうと雪の残った山と民家を描いていて(この写真)、”これから何処へ行かれますか”
と聞かれ”砺波の散居村へ”と、答えると、”あそこも綺麗な所で絵に描きたい”と言っていた。
オバさん達は富山からこちらに来たとの事。
通りの食堂兼土産物屋
アイスクリーム屋
集落のはずれ山が美しい
田植えの済んだ棚田
ツバメが飛び交った棚田
時計を見ると、既に、予定時間が過ぎていた。
止む無く福光町の棟方志功館は、帰りに回すことにし、井波町の瑞泉寺に直行する事にする。
304号を北上すると城端町に入る、何処となく落ち着いた魅力のある町である。
すると、左手に”北陸の小京都城端町”の看板、なるほど!と思う。
間もなく井波町に入る、暫くすると風変わりな真直ぐな道に入る、
これが、瑞泉寺の表参道のよう、彫刻の町と言われるだけに道の両側
彫り物関係の家ばかり、やがて突き当たり、瑞泉寺に着く。
井波町・瑞泉寺
瑞泉寺は浄土真宗大谷派の寺で、14世紀の後期、足利義満の頃、京都本願寺の
第五世綽如上人が京都の戦乱を避け、後小松天皇の勅許を得て建立された。
又、当寺は北陸一向一揆の中心の城郭寺院で武家の支配から法灯を守り続けた。
井波町役場
この山門は総欅造りで県の重要文化財となっており、唐狭間の龍の彫刻は京都本願寺御用彫刻師、
前川三四郎の作で、その他の装飾の彫刻は江戸時代の井波彫刻師の手に依るものである。
前川三四郎の龍の彫刻、 1879年の火災を免れたのは、
この龍が下りて来て、水を吹き上げて消化したと、伝えられている。
山門を入ると右に受付があり、オバさんが拝観料をと言う。 ”家内が二人分払っていないかと、
聞くと、いないと言う。 戸惑っていると、どうぞ入って下さいという。
こちらの人は心が優しい、 町場では考えられない。
山門で写真を撮っている間に、家内は気付かず、先に入った様だ。
家内に追いつき、確認すると払っていないと言う。
帰り、払うことにしよう。
この本堂は一向宗の大拠点として勢力を持った為、1581年佐々成政に焼き払われ、
1885年再建されたもので、北陸随一の大伽藍と言われる。
その欅の丸柱、一枚板の床板、施された彫刻は一見に値する。
この太子堂は、後小松天皇の時、中国より国書が朝廷に届き、難解な為、誰も読む事ができず、
博学であった綽如上人が、京都に呼ばれ、その国書を訳すと同時に、返書まで書いた事で
天皇は大変喜ばれ、その褒美に聖徳太子二歳の南佛木像を贈られ、現在も祭られている。
この堂は幾度かの火災に遭い現在の物は1918年再建された物で井波大工、掘り師、塗り師の
総力をあげて造られたと言われ、中でも、その彫刻は井波彫刻の真髄が見られる。
基材の良さと、彫刻の仕上がりは京都、奈良でも見られない、素晴らしさ!!
寺院を囲む城壁
帰りがけ、受付のオバちゃんに拝観料を払い、お別れ。
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