越中を尋ねる
(高岡市、瑞龍寺・勝興寺他)04.5.26



”おはようございます”
朝の食堂は、あまり混んでなく、和洋両用のビュッフェスタイルである。
食事を済ませ急いで行く人、食後ゆっくり新聞を見る人色々である。
我々も、食事を済ませ出発する事とする。

コース予定
高岡大仏〜土蔵造りの街並〜格子造りの街並〜元国府跡勝興寺〜
伏木北前船問屋〜重文武田家〜国定公園雨晴海岸〜国宝瑞龍寺〜福光棟方志功館



高岡市は、人口17万人、ここの所減り気味とのこと、アルミ・化学・パルプ、銅器・漆器の伝統産業

それに藩政以来の商業が基幹産業となっているが、御多分に漏れず、地方経済の不況から
こちらも商店街のシャッタ−の閉まる店を見かける。


ホテルに車を置き、近い所から廻ることにする。
古城公園の傍に位置する大手町の高岡大仏。
歴史の上で、奈良、鎌倉に次ぐ日本三大仏に数えられ、1745年最初は木造で造られたが、
過去二度の大火で焼失し、現在のものは再び焼ける事の無い様にという願いから
鋳造の町高岡の象徴でもある鋳銅の大佛となる
光背の朝日が輝き、静かな仏を拝むことが出来た。
境内は美しく保たれ、隅で町の人が廃品回収をしていて、こちらの尼僧の住職が協力をしていたが、
この尼さんのエネルギシュな表情が印象的だった。


此方は、土蔵造りの町と言われ、かっての御馬出町から小馬出町と続く北陸道で、
商人町の中心となり、明治33年の大火後、明治から昭和初期にかけて建てられた
耐火建築の家々が、現在重要建造物保存地区となってをり、繊維関係の商家が目に付く。
この建物は、当時土蔵造りしか許されなかった明治45年に建てられた菅野家(国指定重要文化財)





土蔵造りの町より西へ20分ほど歩いた所に、格子造りの町並(金屋町)があった。
ここは、開町まもなく前田利長が砺波郡の金屋から鋳物師7人を招き、千保川の辺で
町の繁栄策として、鋳物造りを奨励したのが始まりで、多いに栄えたという。



今も、石畳と格子造りの家が500mに渡って軒を並べ、昔懐かしい雰囲気で、旅の心を慰めてくれる

朝からの快晴で、通りの陰影が又美しい。




金屋町をみてホテルに戻ると11時前、チェックアウトを済まし、湊町の伏木地区に向う。
北前船問屋が見つからず、伏木駅で尋ねることにする。

駅事務所を覗き、尋ねると、客を待ち兼ねていたのか、一人の駅員さんが出てくると、
残りの二人の駅員さんも寄って来て、聞いていた。
地図をもらい駅を出ると、左手に”如意の渡しすぐそこ”と言う案内板を見付ける。
そう言えばホテルで貰った観光パンフに出ていたと思い、急遽、其処を見る事にする。
案内に従って道を辿ると、2.3分で如意の渡しに着いた。
渡船場の案内板を見ていると、事務所からオバちゃんが出てきて、遊覧船に乗らないかと誘う。
幾ら?と尋ねると、 200円/人でいい、と言う。
船長さんまで出てきて、奨める。
不景気で大変なんだと思い、協力することにする。

船長さんが、伏木港の説明をしてくれるが、エンジン音で聞き憎い、しかし、一生懸命してくれた。
港を一周し、事務所に戻ると、オバさんが又、寄って来て、何処から来たの”という。
”名古屋から”と答えると、遠い所から、態々と、喜んで高岡の案内書まで呉れた。
伏木という所は、駅員さんといい、ここの人達と言い、人情が熱い!


中古車を買い付けに来るロシヤ船という。 そう言えばロシヤ人らしい女性を見かけた。


これは、如意の渡し場に立つ義経と弁慶の銅像

義経記によると、1187年春、義経が平泉の藤原秀衡を頼って落ち延びる時この地を経た
と言う伝説があり、渡し守の平権現守に”判官殿か?”と怪しまれるが、弁慶が”加賀白山より
連れて来た御坊だ”と 嫌疑を晴らす為、義経を扇で打ちのめすと言う転機で切り抜ける一説である。
 これと良く似た伝説は各地にあるが、勧進帳の安宅関が特に有名である。


勝興寺鐘楼

如意の渡しより、伏木駅に戻り、正面の坂を登ると、高台の上に勝興寺(重文)はあった。
残念ながら、”平成の大普請”で改修中だった。
鐘楼のあたりを見て帰ろうとすると、左手木陰の奥まった所で、リックを担いだオジさんが
手を振って呼んでいる、行って見ると、”ここは少し中が見えますよ”とオジさん。
立派な山門があり、本堂の改修がされているのが見えた。


この寺は浄土真宗本願寺派の古刹で、寺伝に依れば1471年蓮如上人が、次男蓮乗を住職として
越中布教の拠点としたのが始まりで、戦国時代越中一向一揆の拠点となった
城郭寺院の掘りや土塁の形を今も留めている。




緑の茂みに包まれた山門、本堂が、ちらり見える。



勝興寺の後、地図を片手に北前船問屋(旧秋元家)を探すが、見つからない。
人に聞こうと思っても人が居ない。 高台にある細い人気の無い街並を行くと、右手に真新しい
看板が見えた。 よく見ると伏木北前船資料館と書いてあり、錨や船具が置いてあった。

やっと見つけて中に入ると、こざっぱりした中年の女性が迎えてくれた。
こちら秋本家は当初、船頭や水主等の宿であったが、1800年代より海運業を始めた。

中に入ると、古地図や船用の金庫や箪笥、船主の生活道具、めづらしい物では、
船の引札(今で言うチラシ)や航海祈願の絵馬等、秋元家の隆盛時には船を10パイ持ち、
船運賃で稼ぐよりも、港港で、その地の産物を仕入れ、他の港で売ると言った、
今の商社の機能にて稼ぐ収入が多かったと言っていた。

こちらは唯一望楼が残されている船問屋で、上に上がると一畳ほどの広さで、往時には
湊を視察にきた加賀藩の重役もここから遠眼鏡で眺めたという。



船問屋の入口


船問屋の内部


帰りがけ、この町は人影が、あまり見かけないが?と聞くと、若者が都会に出てしまう為
町は年寄りだけとなり、寂しくなるばかりです、この館も昨年秋、市が町興しの為に
秋元家から引き受け、開館したとのこと。
高齢化と過疎化が進む中、此方の女性の明るさと、前向きな姿勢に、ホット一安心。



雨晴公園より富山湾越しに見る立山連峰


船問屋を出て、海岸線を3分ほど走ると、国定公園雨晴公園(あまはらし)に着いた。
此方の海岸から氷見の長浜までの海岸は”白い砂浜と松林の美しさと立山連峰の眺めは素晴らしく
万葉の歌人、大伴家持もこの風景を愛し、多くの歌を残している。
日本の渚100選”の一つに選ばれているそうだ。



春は霞みで立山が見にくいと言われるが、この日はよく見ることが出来た。



右手の松の所は、源義経が奥州へ落ち延びる時、
にわか雨の晴れるのを待ったと伝えられる岩陰(義経岩)
それが地名、”雨晴”の由来となっている。



林に囲まれた武田家の正面

雨晴海岸より少し山手に入った所に武田家(重文)はあった。
周囲を鬱蒼とした杉や竹林に囲まれた広大な敷地の中にあり、入ると
中年の夫婦が迎えて呉れて、説明をしてくれた。


武田家は甲斐の武田信玄の弟
逍遥軒信綱(〜1582)の子孫と伝えられ、代々大田村の肝煎(庄屋)を勤めた豪農であった。

それを物語る古文書や明治以降の山岡鉄舟、横山大観などの著名人が、当家に作品を残している。
建物は寛政年間に勝興寺本堂が再建された時の余材で建てられたと伝えられている。
その為か、柱や梁等の材料が立派で、座敷など武家屋敷のような書院もどきの造りとなっている。
庭に下りると、櫟とか栂の巨樹が繁り、過ぎてきた歴史をしのばせる。



座敷よりの庭の眺め

一通り説明を終え、管理人のオジさんが、”どうしてこちらへ来られたか”と聞かれ、
家内が、名古屋は織田、徳川の土地だからと、答えると、納得していた。
帰りがけ、感想を問われ、”庭が隅々まで綺麗に掃除され、皆さんの心が伝わってきます”
と伝えると、恐縮していた。



静かな取り付け道路をぬけ、160号線を通って、市内中央に向う、後は加賀百二十万石、
前田利長の菩提寺、瑞龍寺へと急ぐ。



高岡山瑞龍寺、山門(国宝)

前田利長の祀られた寺だけの事はある、大きな駐車場を構え、観光バスが三台も止まっていた。
駐車場を見たが、名古屋NO.は、居なかった。  やはり、何処も観光客が少ない。
総門を潜ると、正面に雄大な山門が黒く輝く、回廊に囲まれた広場は、
白い玉砂利が敷かれ老眼には、焼けに眩しい。
山門には、左右に金剛力士像が見守っていた。


瑞龍寺は曹洞宗の寺で、加賀2代藩主前田利長の菩提を弔う為、3代藩士の利常が1663年に建立した。
二代藩主利長が高岡に築城し、この地で亡くなり、加賀百万石を譲られた義弟である利常は
その恩を深く感じたといわれる。
伽藍は鎌倉時代に日本に広くもたらされた中国の寺院建築に習って造られている。


仏殿(国宝)

山門を入ると、白い玉砂利は一変し、鮮やかな芝生へと変わり、正面に仏殿が鎮座している。
中へ入ると、ひんやりと涼しく、禅宗建築の複雑な架構jの中に、
明代の釈迦、文殊、普賢の三尊が祀られていた。



法堂(国宝)

三尊を拝み、出た奥の正面には唐破風の入口を持つ法堂があった。
中は総桧造りで、方丈と書院造りの構造である。
前田利長の位牌を拝み、左隅の庭に面した明るい所では、紅い毛氈を敷き、
和服の女性が抹茶を奨めていたが、横を通って、回廊より外に出ると、
ひっそりした所に前田利長、織田信長の分骨の石廟があった。

回廊に戻り、その中どころに、禅堂があり三・四十人が座禅が可能となっていた。
反対側の回廊には、大庫裏があり、寺の生活臭が漂っていた。

一通り見終わって総門を出ると、真直ぐの参道で、八町道(870M)が利長公墓所まで続き、
石畳の快適な道となっている。



加賀二代藩主前田利長公墓所

この墓は、3代藩主前田利常が先代、利長の冥福を祈って1645年に建設したもので、
周囲は鬱蒼とした森と石垣に囲まれ、中心には11.8Mの石塔が立ち、天皇陵の様だった。

参拝を終わった時には、4時になっていた。
棟方志功館もこれでは、もう、無理だ!
遂に諦め、帰途に着く事とする。

今回の越中の旅は、何処へ行っても、歓迎され、落ち着いた、心和まされる旅であった。

旅好きの人達よ!  地方が今、旬ですぞ!!

MENU   
NEKT