嵐山、満開の
12.4.12

嵐山は国の史跡・名勝に指定され、平安時代には貴族の別荘地帯であったが、今では、

京都の代表的な観光地となっている。 嵐山の中心部を流れる桂川にかかる渡月橋は嵐山の象徴

となり、渡月橋をはさんで上流が大堰川で、下流から桂川となる。 17世紀に京都の豪商であった

角倉了以が大堰川(桂川)を開削し、現在の丹波町与木村から淀や大坂まで通じ、船運を盛んにして

嵐山・京都の発展に貢献した。 明治になって京から東京に遷都され、久しぶりに嵐山を訪れた

大久保利通は、嵐山の荒廃ぶりに驚き、船頭に尋ねると、以前は幕府が金を出し、その風景を

保全していたと言う話を聞き、政治に文化と言うものの必要性を教えられたと言う。

それ以来、嵯峨嵐山は風光明媚を現在も維持し、多くの人達の来訪が絶えない。

今日も大勢の花見客が訪れていて駅前通りは若衆の人力車も走り大賑わい。 

何といっても嵐山の景色は中之島と言われ、早速、駅前の通りを左へ行くと渡月橋

に出る。 橋上より左手に中之島の嵐山公園が見え、右手には青い山を背景にして

嵐山亀之尾地区の桜に囲まれた街並み見え、映画俳優で有名な大河内山荘もある。

川を渡る風は春爛漫の薫りを放ち、しばし、時が止まり、昔への郷愁がよぎる。


嵐山公園(中之島)



嵐山亀之尾地区

嵐山公園の桜は枝垂れ、染井吉野、山桜と満開で桜見の客で賑わっていた。

兎に角日本人は桜が好きだ。 新渡戸稲造は日本人が桜の花を愛する理由を

欧米人に、こう述べている。 

「薔薇への欧米人の賛美はよく分るが、薔薇は確かに華麗で甘美ではあるが棘を持っている。 

生命への執着がある様に散ることをせず枝上にて朽ちる。 華美な色彩と濃厚な香気は桜では

真逆にして色は華麗ならず、香りは淡くして飽くことがない。 この美の下に刃も毒ももたず、

生への執着もなく、自然の為すがままに、いつなりとも潔く散りはてる」と。


果たして欧米人は、これにどう答えたのだろうか?



嵐山公園




嵐山公園


  
嵐山公園

嵐山公園を一巡りし日も傾き駅えと戻る事とする。 天竜寺付近の路傍で地蔵菩薩が話しかけてきた。

” 良いお花見でした。 ” とね。


地蔵菩薩

帰りは三条京阪で地下鉄を下り、この辺りで食事をと、ぶらぶらと三条大橋を渡る。 

川端の枝垂桜が黄昏の旅愁を誘う。 木屋町通りに出て、一月に来たとき見かけた

京の豪商・角倉了以の別邸跡があるので、そちらへ行って見る。 途中右側に維新の

重鎮・木戸孝允と三本木の芸妓幾松(松子夫人)の木屋町寓居跡があり、木戸孝允が

病魔で没した翌日、松子夫人は剃髪し翠香院となり、二人の想い出に溢れた当屋敷で

余生を過ごした。 当時は反勢力に狙われるため邸内には抜け穴、飛び穴、のぞき穴

つり天井などが保存され幾松の間の天井には大きな石が仕掛けられていたと言う。

  建物は国の歴史的景観として登録有形文化財に指定されている。



三条大橋



同 枝垂れ桜




桂小五郎・幾松寓居跡

木屋町通りの二条近くに角倉了以別邸跡がある。 この庭園は慶長16年角倉了以に

より造られ、その後、明治の元勲・山県有朋の別荘となり、次いで第三代日銀総裁・

川田正一郎別邸に替わり、阿部市太郎の所有を経て現在、がんこ二条苑となる。

やはり、古き重鎮が所持してきただけに、風格のある静かな佇まいである。



二条苑・玄関 山県有朋・第2無燐庵の石碑もあり



二条苑にお座敷の掛かった舞子さん

玄関を入ると、和服の仲居さんが ”お予約ですか?” と聞く。 いや〜だめですか?

と尋ねると、”7時までなら宜しいおす” と言うので、充分時間はあり、早速、シャンデリア

のある洋室に通してもらう。 実に静かな所で、鴨川から引き込んだ水が滝となって庭に

流れ、その音が逆に静けさをつくりだす様だ。 水はこちらを通して高瀬川に流れて行く。

灯篭の大きさ日本一と言い、紅梅も樹齢250年と、何れも金に糸目をつけない主たちの技。

軽い膳定食を注文し、今日一日の疲れを癒す。 食事のあと庭を一周し帰途に着く。



庭園

疎水ではライトアップが為され、夕刻の桜が、また艶やかであった。

これからは、更に幻想的な京都の夜が広がり、やがて眠りにつくと、新しい明日がやってくる。


疎水の桜

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