京都・妙心寺
2011.10.20


妙心寺は京都北西部、御所の西、花園にある。 京都には禅宗・五山があり、それらは、今までに見ていたが

五山以外にも寺格の優れた大徳寺と妙心寺がある。 その妙心寺だけ見残していて、今日になった。

京都は古い街のため車では散策しにくい処である。 それでネットで駐車場を調べてみると、寺の花園会館が

駐車場になっていたので、出かけることにした。 京都は紅葉の季節には未だ早く、車も比較的空いていた。

ハイシーズンともなれば、とても、この調子では走れない。 五条通りを走り、西大路五条より西大路を北上すると

妙心寺道に出る。 妙心寺道を西へ進むと右手に花園会館が見えた。 ガードマンの小父さんが”今日は観光バス

だけで満車。普通車は北駐車場へ廻って下さい” と言う。 空いているかと訊ねると、保証は出来ないとおっしゃる。

ま〜 運を天に任し、妙心寺の前を貫け右回りに道を入っていくと、幅が狭くなり、車では厳しく、諦めて何処かの

私有地を借りてユーターンをさせて貰らう。 妙心寺前の丸太町通りに出て、やっと、スタンド駐車場を見つけた。

妙心寺の総門は白い垂れ幕が下がり、「第61回全国奉詠本山大会」とあった。 入口で聞いて見ると、今日は

全国からの信者が集まり、ご詠歌の発表大会と言う。 成程、これでは駐車場がないはずだ。 ネットで調べたが

寺の行事までは気がつかなかった。 総門を潜ると石畳の参道が真直ぐに奥に向かって伸びている。 

参道を入っていくと、朱塗りの三門が、左に見え、  三門の処で黄衣を着た僧侶が来たので、受付を聞こうと

思ったら、アジア系の僧侶だった。 弾みで訊ねると、日本語で ”大阪カラキマシタ、ヨク、ワカリマセン” 

と、答が返ってきた。 少し、お門が違った様だ。 お礼を言って、”ドウモ、スミマセン” といったところ。 



黄衣を着た僧侶

三門の横を通り佛殿、法堂と横に見て進むと、白いテントが張られ、ご詠歌の発表会の為か

仏具の小物などが沢山売られていた。 そこで訊ねると、”石畳の突き当たりの左手に

拝観受付をしている、今から急いで行かれると、1時からの案内に間に合うから、直ぐに

行ってください” とのことであった。 石畳の突き当たり方丈の左手に総合受付があった。

今日は、ご詠歌の発表大会で、拝観料は500円の所、300円に割引していますと言う。

料金を払い、早速、7〜8人の拝観者のグループに混じり、係りの小母さんの説明を拝聴。


妙心寺は臨済宗、妙心寺派の大本山で、創建は1337年、本尊は釈迦如来である。

花園天皇は禅宗に信仰厚く出家して、自身の花園御所のあったこの地に大徳寺・大燈国師

の弟子である関山慧玄を向かえ、妙心寺を開いた。 その後、足利義満の弾圧で寺領を没収

されたり、応仁の乱などで伽藍を焼失したが、幸い細川勝元や豊臣家などの庇護を受け、また

多くの武士層の支えもうけ今日になった。 現在、境内敷地は10万坪あり、法堂など伽藍の他に

塔頭寺院は46箇所を占めて、日本臨済宗・寺院約6000ヶ寺のうち3500ヶ寺が妙心寺派で

占められていると言う。 




三門 1599年創建 重文


グル−プは受付の寝堂を出て、渡り廊下を伝って法堂へと、小母さんに案内されて堂内に入る。

 法堂内は椅子が並べられ、その椅子に座る。 ”今日は奉詠大会の為、入れないが、丁度、昼の

合間を利用し、特別に、ご案内します” と、如才のない手馴れた小母さんの説明が始まった。


法堂は妙心寺の中心の建物で禅寺では説法を行う場所である。 他宗では講堂に当たる。

1656年に建立され重要文化財に指定されている。 堂内は太いケヤキの柱が天井に向け

突っ立ち、その柱に囲まれた大きな雲竜図がこちらを睨んでいる。 説明は、まず天井画の

雲竜図から始まった。 ”鏡天井と呼ばれ、5cmの厚さの板が使用され、狩野探幽が描いた

雲龍図であります、 法堂左手より見始めると、最初は竜が下を向いた下り龍ですが、

法堂の右へ向けて正面を経て移動しながら絵を見ていくと、下り龍が徐々に昇り竜に変わ

って行きます”  法堂の右側より見る時には、完全に鎌首を持ち上げた昇り龍に代わり、

圧巻であった。 天井画を見た後、法堂の右隅に安置されている妙心寺の梵鐘を見る。



法堂





天井画・雲竜図


この梵鐘は内面に「698年、筑前糟屋評造」の銘があり、製作年代と製作地の明らかなもの

としては日本最古で、黄鐘調の鐘の音をもっていると言う。  「徒然草」にも述べられていて

『凡そ、鐘の声は黄鐘調なるべし。 これ無常の調子、祇園精舎の無常院の声なり・・・・

浄金剛院の鐘の声、また黄鐘調なり。』 とあり、その浄金剛院(廃寺)にあったものだそうだ。

もとは境内の鐘楼に置かれていたが、黄鐘調の鐘として国宝に指定され、現在の鐘楼には

そのコピーが使われている。 現在、鐘の音は聞くことが出来ないが、録音された音を拝聴した。

余韻の響きが長くつづく音で、往時は除夜には、この音が鳴り響いていたのであろう。



黄鐘調の鐘のコピーのある鐘楼


鐘の余韻を残し、法堂を出て仏殿へ。 こちらは本尊の釈迦如来と阿難尊者・迦葉尊者の三像が

祀られている。 朱塗りの三門の傍に浴室がある。 その隣に小さな鐘楼がある、これは三代将軍

徳川家光の乳母である春日局が寄進したもので、住職へ風呂が沸いた知らせの鐘だそうだ。

浴場は重要文化財、明智風呂として有名で、明智光秀が山崎の合戦の後、最後に訪れて入浴した

と言われ、当時のものではないが、江戸時代、明智光秀の菩提を弔うために建てられたそうだ。

内部はサウナ式の蒸し風呂で浴槽はない。



仏殿




春日局寄進の鐘





住職専用の浴場(明智風呂)





浴室

浴場の後、境内の公開されている塔頭を覗いて見る。 塔頭へは石畳の綺麗な道が造られ

夫々は立派な築地塀で囲まれ庭園を持っていて、まるで貴族の邸宅街といった情景。

住職の家族や、出入りの職人や商人が行き来し、そこに外国の観光客や参拝客が

混じると言った独特の情景の地域である。 最初に三門に近い「退蔵院」を訪れる。

退蔵院は1404年、越前の豪族・波多野出雲守が妙心寺第三世無因禅師を開山として

創建されたと言う。



退蔵院 入口

院は600年の歴史を持ち、狩野元信作庭の枯山水の庭園の静けさと、現代庭園の

華やかさを持った花の屋敷のようで、春の桜と秋の紅葉の時期にはその華やかさが

浮かんで来るような雰囲気である。 門を潜って枯山水の路地を伝って方丈に入ると

国宝の「如拙」の傑作と言われる「瓢鮎図(ひょうねんず)」がある。 これは足利義持が

依頼した禅の公案を描いたもので「瓢箪で鯰をおさえる」と言う水墨画の傑作だそうだ。

場内、いたるところに「鯰の」飾り物があり、鯰が、こちらのシンボルかな?



瓢鮎図のある方丈





国宝・「瓢鮎図」





方場内




   
狩野元信の作庭 枯山水、                              春には枝垂桜の風景が浮かぶ。




 
狩野元信の庭

退蔵院を出て、前の石畳を北へ歩き、突き当りを左折すると、境内の西端に位置する「大法院」がある。

「大法院」は信州の松代藩主真田信之(幸村の兄)の菩提寺で、信之の遺命で孫娘の長姫が法嗣である

淡道宗廉(大転法輪禅師)を開組として1662年に創建したと伝えられ、院号は信之の法名から「大法院」

と付けられたと言う。 松代藩・真田家から毎年50石が布施され藩寺として庇護された。 八代藩主・幸貫

の儒臣であった「佐久間象山」の墓地も当院にある。 象山は開国論者で幕末、攘夷者に暗殺されたが、

近代日本の志士を育てた思想家で、門人には勝海舟や吉田松陰などがいる。 

今度は佐久間象山生誕200年記念展も開催されていた。



境内の風景




  
大法院門前の秋

大法院門の築地塀にはススキの穂がなびき、寂びた空気をかもし出す。

院は方丈を囲む様に路地庭園があり、午後の傾いた木漏れ日が路地を照らし、

秋の情緒を盛り上げている。 方丈には、「叭叭鳥図(ははちょうず)」襖絵があり

叭叭鳥とは、中国に生息するカラスに似た鳥だそうで、その鳥の群れが飛び立つ様を

描いている。 禅語の「長空鳥任飛」 即ち”自らの心境の思うがまま、自由自在”の意味

を表したものだと言う。 しかし、墨絵で、黒い鳥が群をなし飛び立つ様で、自由と言うより

何か胸騒ぎを感じさせる襖絵である。 絵師は江戸中期にの土方稲領(ひじかたとうれい)作



路地庭園






          方丈の書院          



   
部屋に飾られた佐久間象山の書            佐久間象山像・菊池契月筆


方丈内には象山ゆかりの品々が展示されており、絵画や書、書簡など・・・   写真の書は

象山著、「20歳以降は信濃国に、30歳以降は日本国に、40歳以降は全世界につながりを持つことを知った」と言う書。

方丈を出て院の墓地の奥に、佐久間象山の墓石があった。 比較的新しい感じで、住職に訊ねると、明治初期のものだそうだ。



佐久間象山墓


大法院を出て、妙心寺境内の北門まで歩くと、門の影に北門駐車場があった。

この場所では外来のものは、とても気がつかない場所である。 次、何時、来れるかは

分らないが、今度はこちらに留められよう。 北門から東に向かって石畳を進むと、一番

東の端に、白い漆喰で仕上げられた築地塀の通りに出る。 その掛かりに桂春院がある。

こちらは、ちらり門より覗かして貰う。 門の立札に依ると織田信長の長男織田信忠の次男、

津田秀則により見性院として創建され、後に美濃の豪族・石河壱岐守源貞政が1632年に

亡父光政の50年忌の追善供養のために、桂南守仙和尚を請じて方丈、庫裡、書院、等

を設け、両親の法名・天仙守桂大禅定門の「桂」と裳陰妙春大姉の「春」の二文字を

とって「桂春院」と改められた、とあった。



白い築地塀の通り





桂春院の門                                        塔頭内の庭


桂春院を最後に、足も疲れこんな所で、本日の妙心寺の散策を終ええる。  過去、神社や寺院は

時の権力者によって営みの盛衰が左右されて来た。 妙心寺も、足利義満が北山殿の造営

の際、諸大名に労役の供出を求めた時、大内義弘との関係がなかったら、寺領を没収され

なくて済んだのであろうが、大内義弘が「武士は弓矢をもって奉公するもの」と、義満に

労役の供出を拒否したそうだ。 その為、大内義弘に肩入れしていた妙心寺は幕府の

庇護も
得られず、寺領すらも没収されてしまった。 しかし、それが反面、時の権力者の

庇護に甘え世俗化して行った五山十刹とは違い、座禅修行に専心する独自の道を

進んだことが、現在の隆盛に繋がったとも言える。  諸行無常!!


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