長崎よかとこ
11.5.1〜11.5.3
連休に息子に誘われ、長崎に出かけることになった。 誘われたとは言え、旅費はこちら持ちである。
新幹線で博多へ出て、博多より長崎本線の特急に乗り継ぐルートである。 長崎と言えば、こちらの感覚では
夜行寝台車で一昼夜と言う印象であるが、現在では「のぞみ」で博多まで3時間、博多より特急カモメで
2時間、節電が叫ばれる昨今、やはり、気が咎める。 景気振興の面もあり、ここは、思い切りとする。
名古屋を出て、30分も乗ると「京都」のアナウンスが聞こえ、東寺の五重塔が目に入り、あっと言う間に
大阪に到着。 大阪を出ると直ぐに明石の海が見えると、神戸に入る。 神戸を出て高砂の港が過ぎると
1時間半で岡山である。 この速さ、この調子で福山から広島、その頃には、空いていた客席もすっかり
埋まり、「自由席からの切り替え終了」の車内アナウンスが響く。 東日本の災害から連休でも乗客が
少ない様である。 やがて新山口に到着。 新山口を出ると間もなく関門トンネル、以前、山口県にいた
頃、このトンネルを歩いたことがあったが、40年も前のこと薄い記憶になってしまった。 小倉を過ぎると
博多は近かった。 ホームをおり、昼食を仕入れる為に構内を物色、海産物の押し寿司をゲットする。
博多で一息入れると、長崎本線で2時間も、物珍しさも手伝って、心地よい道中であった。
やはり電気の力は有難いものであるが、今後は工夫した使用が必要となろう。
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長崎市は18世紀ポルトガル船の来航から貿易港として近代日本の発展の窓口を務め、多くのヨーロッパの文明文化を
取り入れてきたことから街の雰囲気が丁度、香港の様な感じである。 それに入江に山が迫った地形が城下町でなかった
関係からか街の道路が不規則で方向が掴みにくい街である。 それでマイカーやレンタカーでの見物は避けた方がよい。
市内は4つのラインの電鉄が走り、タクシーとの併用が最適な方法のようだ。 博多で一息入れ、長崎駅には難なく到着した。
ホームを出ると、強烈なリズムの和太鼓が腹に響いて来た。 駅前の広場で黒装束の鼓手の一団がいて大勢の観衆が
取り囲んでいる。 我々を和太鼓の演奏で迎えてくれた。 到着、早々、気分が高揚する。
駅ホールの和太鼓を取り巻く観衆
西坂地区・26聖人殉教地
ロッカーに荷物を預け、ホテルには、未だ早いので、少し街を見物する。
駅の近所に26聖人殉教地があると言うので、早速、傍にあった交番で道順を訊ねる。
番を終えたのか背広姿の小太りのお巡りさんか出てきて、”NHKビルんとこ、沿うて行けばよかよ”
”直ぐ分るばい” と、いきなり異卿言葉に接し、思わず微笑んでしまった。
お巡りさんのアドバイス通り、急な坂を登った処、西坂の丘にあった。 今は街の中であるが、
当時はススキ等も生えた寂しいところであったのだろう。 こちらはゴルゴダの丘に似ていたことから
殉教者自らが選んだと言う。 こちらではフランシスコ会宣教師6人と子供3人を含む日本人信徒
20人が処刑されたと言う。 この事件はルイス・フロイスによりヨーロッパに伝えられ、
ローマ教皇によりローマで盛大な祭典がなされ、26名は「日本二十六聖人」となった。
ジュネーブにあるカルバンなど宗教改革者の碑によく似ている。
キリスト教は、この様な犠牲や多くの受難を経て育まれて言ったのであろう。
殉教碑背後は26聖人記念館 26聖人殉教者碑
二十六聖人記念レリーフの裏側には26聖人記念館があり、フランシスコ・ザビエルの渡来から明治時代までの
キリスト教の歴史を紹介。 フランシスコ・ザビエルのポルトガル国王ヨハネ3世宛の手紙や天正少年使節の
中浦ジュリアン神父の手紙、島原の乱の記録、マリア観音、16世紀のブロンズ・ピエタなど時代を思い起こさす
遺品が陳列され、信仰に対する時の権力の酷さを浮き彫りにする展示がなされている。
日本26聖人記念聖堂 聖フィリッポ西坂教会
殉教者碑の右手にはバルセロナのサクラダファミリア聖堂を思わす様な尖塔を持つ、
教会がある。 この設計者は初めてアントニオ・ガウディを日本に招待した人物で
ガウディの信奉者と言われる今井兼次氏だそうだ。 道理でよく似ている。
浦上地区平和公園他
西坂の丘より駅に戻り、長崎電鉄の赤迫行きに乗、り浜口町で降りる。
長崎原爆資料館はモダンなガラス張りのドームで、常設展示は3つのテーマに沿って
展示され入り口を入ると浦上地区の風景写真があり、右に長崎の街や生活が表示されたいる。
次に大きな”きのこ雲”が、のぼり、浦上地区を初め長崎の被爆直後の地獄絵が見えろ。
被爆時刻をさした壊れた柱時計が目を引く。 次に中学校の鉄骨の折れ曲がった給水塔、
や被害を受けた浦上天主堂の門など原爆投下直後の長崎の街の惨状を再現している。
今を去る66年前の夏休みの昼のことである。 15万人の人々が、長崎で犠牲となった。
次のコーナーでは原爆が投下されるに至った経過、核兵器開発の歴史、核兵器のない
平和を求め、長崎型原爆・広島型原爆の模型や現代の核兵器などが展示されている。
現代の核兵器の展示
アメリカは何故日本に原爆をおとしたか?
現在までに考えられるのは、
多くの開発費や多くの労力を投入して作った原爆を実際に使用し威力を知りたかったと言う説、
戦争が長引き上陸作戦を行うと、多くのアメリカ兵が犠牲になるので、早く日本を降伏させる為
使用したと言う説、ソ連に対する戦争後の立場を有利にするため使用したと言う説。
何れの説も当時の日本の状況からは、使用の理由には無理があるようだ。
顕示できる理由ならば、何故、現地訪問を避けているのか?
その前に、ここで考えなければならないのは、原爆をおとした理由より重要なのは戦争である。
人間はついヒステリックの集団になる。 気がついた時には、どうにも戦争を止められなくなっている。
それが一番の問題と言える。
平和公園 北村西望作 平和祈念像
長崎原爆資料館より川に沿って北に200mほど歩くと茂みの高台に平和公園がある。
公園には、多くの国から贈られた追悼のモニュメントがたち、来訪者が目立った。
公園の丘より階段を下り、前を見ると左手に茶色の二つの尖塔を持つ浦上天主堂が見えた。
こちらは、予定の訪問地、道路に下り、タクシーを捕まえて天主堂へ。 タクシーに、待って貰って
天主堂の坂を登る。 残念ながら扉が閉まり入れなかったが、被爆して破損した天使像や
廃墟の遺構も見ることが出来た。
浦上天主導
この天主堂は明治6年キリシタン弾圧の禁制がとかれ、自由になった浦上の信徒達によって建設計画が
行なわれたが、資金が集まらず、大正3年に漸く完成を見たが、昭和20年には原爆により破壊されて、
今日のものは昭和34年に再建されたものである。 入口の上に磔刑のキリスト像がついている。
浦上天主堂の廃墟
拷問石
長崎・浦上切支丹教徒260名は、萩に移され、鉄砲責、寒晒などと呼ばれる拷問がなされ
その時、信者が座らされた拷問石とよばれ十字架が刻まれている。 当時の牢番長であった
寺本源七氏が大正元年頃堀内から持ち帰り、自宅の庭に据え、霊を慰めたとされるものだそうだ。
だいぶ運転手さんを待たして、坂を下りると、車が見えない。 こりゃ〜 行ってしまったか?
と、思ったら、 門の右手の陰で待っていた。 運転手さんは、愛想よく、どうもと、迎えてくれる。
時間も5時となり、これで、本日は終了、次いでにホテルまで行ってもらう。 長崎駅の手前から
右手に折れ、稲佐橋を渡り稲佐山観光ホテルへと山を登る。 途中、運転手さんが「福山雅治」ご存知ですか?
回り道になるが、よければ彼の家に寄って行きましょうか?と、 こちらも好奇心旺盛! 寄って下さい!と答える。
今は、お母さん一人が住んでいらっしゃると言う。 ここです、と、住宅が多く建つ稲佐山の中腹、コンクリートの
打ち放し仕上げの洒落た注文住宅の感じの家であった。 彼は親孝行でお母さんの為に家を建ててやったとよ。
そんな話を聞くうちに、ホテルが見えてきた。 前には鯉のぼりが皐月空に舞っていた。 どうもありがとう!
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ホテルは9階建ての中型ホテル。 テェックインをして部屋に案内される。 我々は本館でなく
別館の4階、部屋からは長崎港が一望でき、丁度、グラバー邸とは真反対の位置である。
部屋の間取りは和洋室、10畳の和室に6畳の化粧部屋、更にツインベットと応接セットの
部屋があり、DXなものである。 浴場は大浴場と庭園風呂、温泉ではないが湯が豊かで、
浴場からも港が見える。 今度はJRのパックであるが値打ちのある商品だった。
夕食は出島懐石のコース、長崎は卓袱(しっぽく)料理が有名であるが、卓袱風の
懐石料理であった。 チーズ料理や角煮まんじゅうなど洋華の料理も交じり、
美味しい口にあう満足のいく料理であった。 食後、屋上に上がって夜景を見たが
運転手さんが言うように1000万は無理で500万ドル程度が、いい線だった。
諏訪神社、鳴滝方面
諏訪神社参道
翌日、目が覚めると景色がどんより、曇りかと思ったら黄砂が大陸より来ているとのこと
花粉症がよくなるかと思っていたが、こちらでは黄砂で又、目が痒くなりそう。
今日の予定は諏訪神社から長崎歴史文化博物館を見て鳴滝へのコース、ホテル前から
バスに乗り、諏訪神社へは行かないかと、運転手に訊ねると、長崎駅で乗り換えて下さいと言う。
それで、長崎駅で降り、蛍茶屋行きの電鉄で諏訪神社前まで乗る。 少し歩くと諏訪神社の
灯篭が見えた。 石畳の階段がつづき、朝から階段のぼりと相成る。
途中、長崎くんちで、出物が繰り出す踊り場がある。 その先に本殿が鎮座している。
諏訪神社は長崎の鎮守の神様で、1500年代に信濃の諏訪社から御霊分けされた
もので、戦国時代にはキリシタンの大村氏の領地となり他教を嫌った為、社寺は廃れたが
1624年、唐津の初代宮司・青木賢清が長崎奉行・長谷川権六に願い出て、森崎大権現、
住吉大明神、諏訪大社の3社を合祀して再建したと言われている。
諏訪神社
神社に参拝して境内を左の方に進み、階段を降りて行くと、諏訪の杜の一角に、長崎奉行所
(長崎歴史文化博物館)があった。 まだ建ったばかりの建物で、平成17年に絵図面や発掘された
遺構などをもとに復元したそうで、石垣や漆喰の白さが眩く、立派な奉行所が再現されている。
白壁の長崎奉行所(歴史文化博物館)
内部は長崎の海外交流史の文化や歴史の展示と大河ドラマの歴史展からなり
鎖国時代に唯一の外交貿易の拠点として栄えた長崎の重要文化財や美術品をはじめ
ガラス、べっ甲、陶磁器などの工芸品の展示、大航海時代の交流、オランダ、中国、
朝鮮などとの交流の様子が紹介されていて長崎の近世史がよく分る。
長崎奉行所立山役所
シーボルト邸跡にある胸像
長崎奉行所を出て、都電で新中川町まで乗り、そこは鳴滝川の流れるシーボルトゆかりの地。
停留所を電車の進行方向に進むと「シーボルト通り」の標識が見える、そこを左折、閑静な住宅街
に入る。 この通りがシーボルト通り、この辺りは江戸時代、旅人が異国文化を求め長崎を目指し
入って来るのが多かったと言う。 シーボルト通りを進むと道は曲がり細くなって風情のある
道が続く。 やがて高い所に赤レンガの建物が目に付き、道の左に、二本の石の門が見える。
こちらが元シーボルト邸のあった跡で、今は空き地になってシーボルトの胸像が敷地の
奥に立ち、中には往時の痕跡が微かに残っている。
シーボルトはオランダ商館医として出島に赴任し、こちらに私邸を構え鳴滝塾として日本人に
科学全般を教え、同時にオランダ語でレポートを提出さすなど、シーボルトの日本研究にも役立て
ていた。 その後、5年間の勤めが終わり、帰る予定であったが、天文方役人の高橋景保から
貰っていた日本地図を持っていたことから国外追放となった。 彼は妻の滝と子のイネがいたことから
財産を残し、弟子に妻の滝と子のイネを託し、帰国したと言う。 その後、功績から国外追放がとかれ、
再び来日し、鳴滝に住み日本人の治療や日本研究を進め、幕府の外交のアドバイスもしていたが
解職となり、日本を離れ、その後、鳴滝には楠本タキと一人娘、イネが住むようになった。
最盛期の門弟達の数は高野長英など50名に達したと言う。
シーボルト記念館
シーボルト宅跡に隣接してシーボルトの愛用品や功績を今に伝える記念館がある。
建物はオランダにある彼の旧宅、玄関は祖父カール・カスパル宅をイメージしたもの。
1階はシーボルトの生涯の功績について紹介している。 2階はシーボルトの生涯を
当時の世界と日本、東洋への関心、日本研究と医学教育、江戸参府前後、帰国と再渡来、
子孫と顕彰、という六コーナーに分け展示している。 シーボルトの愛用品や
多くの医療器具も展示されている。
シーボルトの持ち出そうとした日本地図
シーボルト記念館の後は亀山社中へ行く為、その行き方をシ記念館の人に訊ねると、風頭山の中腹にあり階段を
登るのが大変で、老人はタクシーで行くのがベターと言われ、タクシーに電話を入れる。 エレベーターで降りると
近所にいたのか直ぐに来た。 乗り込み、行き先を告げると、亀山社中は、昨年は大勢の人出で大変だったと言う。
今日は、どうか分らないが・・・ まあ〜行って見ましょうと、運転手は走り出す。
亀山社中と寺町界隈
長崎市は市域の13%の地域に人口か集中しているため住宅が山の中腹まで建てられ
坂道の多い街である。 今から行く亀山社中も、運転手の話では赤い色の建物(瓊浦高校)
の下辺りと言うから高いところだ。 往時、賑わった長崎街道(国道34号)を横切り風頭山へ
と曲がりくねった道を車は登っていく。 シーボルト記念館の人が老人には無理だと言っていた
のが頷ける。 タクシーは10分ほど走り高校の下辺りで止まり、運転手さんが、”階段が続くけん
手すりを持って降りんしゃい” と言って、返って行った。 余程、我々を心配してくれてた様だ。
竜馬通り入口 竜馬通り坂道
確かに落差のある階段である。 しかし、石畳が、きっちりと敷かれているだけに有難い。 不規則にくねった
道を下りて行くと道が分れ赤い縁の「亀山社中跡」の道標があり、「休石」と刻まれた御影石が用意されていた。
亀山社中への所用人は、此処で一息入れたのであろう。 それにしても、この辺りに住む人達は上り下りが大変だ!
道標の処で右に折れ漸く水平の道になる。 見ると狭い道に人がたむろしている。 どうやらこちらが亀山社中の様だ。
係りの人が、こちらにに並んで下さいと声をかける。 家が狭いので入れ替え制の様である。 暫く、待つと、
見終わった人達が出てきて、我々の入場が許された。
「休石」と亀山社中への案内
亀山社中跡 記念館入口
この建物は亀山社中の遺構として伝わる建物を所有者の好意により長崎市が
整備・公開しているもので、幕末当時を復元したものだそうだ。 間取りは玄関を入ると
廊下が真直ぐに伸び、左手に10畳間が2部屋と3畳、右手に4.5畳と厠や炊事場がある。
中に入って見ると、往時の社中の猛者連が、たむろしていた空気が伝わってくる。
月琴、掛け軸、刀などの複製 海援隊旗、竜馬写真パネル
館内には坂本家・家紋入りの黒地羽二重の紋服やブーツ、ピストルなど竜馬・縁の品が展示され、
海援隊約規や船中八策、等の書状、乙女宛書簡、いろは丸の絵画などが飾られていた。
入館待ちの人達もいるので、頃合いのところで切り上げ外にでる。 出て右手に少し行くと
見晴台がありブロンズのブーツと船の舵が作られていて観光の人たちが入れ代わり立ち代り
竜馬気分で、ブーツに入って写真を撮っていた。 こちらは、ちらり覗いてお暇する。
竜馬ブーツのある展望台
亀山社中の前を通って竜馬通りを寺町に向かって階段を降りていく。 この道を竜馬は勿論、亀山社中の
長岡謙吉や陸奥宗光など往時の若者が闊歩していたのであろう。 この伊良林町亀山の場所は
若手の同志だから勤まったのであろう。 体力がないと、この坂ではとても勤まらない。 それにつけても
この辺りのお歳寄は、どうしているのやら?? 往時のなごりを残す道を、どんどん下って行くと、
禅林寺の「竜馬通り入口」に到着。 竜馬通りは此処から上り、亀山社中を
経由して風頭公園まで続いている。 公園には竜馬像があるそうだが、
そちらには、ご無礼しておく。
禅林寺横、竜馬通り入口
禅林寺前の寺町通りには14寺の寺が立ち並ん出いる。 当時は幕府のキリスト教禁制の時代、
長崎の中国人にもキリシタンの疑いがかけられたため、興福寺を初め仏教徒であることを証明する
ため次々、唐寺が建てられたそうだ。 静かな道を南へぶらぶらと行くと、日本最古の
唐寺である興福寺がある。 門が赤い為、「あか寺」とも呼ばれ黄檗宗の寺である。
元は明の商人が長崎を行き来はじめた頃に、航海安全を祈願して小庵を結んだのが起こりで
その後、1624年、中国僧・真円が創建したもので、大雄宝殿と旧唐人屋敷門は国の
重要文化財に指定されている。 境内には鐘鼓楼や三江会所門、媽姐堂など優れた
建築物もある。 流石、風格のある寺院で中国の匠の技の素晴らしさが随所に窺え、
和寺より細かい細工がなされ凝った建築様式には目を見張るものがある。
興福寺の朱色の三門
大雄宝殿
日本の寺とは違った姿、大屋根と下屋の形が違うのは珍しい。
庫裏の庭園
興福寺を出て、次は眼鏡橋である。 どうやら腹が空いてきた。 この辺りで昼飯をと
思うが、寺町じゃなかなか食堂が見つからない。 一筋、中島川寄りの道に入り食堂を探す。
暫く歩き「ちゃんぽん」の看板が目に付き、やっと見つかる。 昼の時間で3組ほどの先客がいた。
店は老夫婦が営んでいた。 カウンター席とテーブル席があり、テーブル席に座る。
早速、地もとの「ちゃんぽん」を頼む。 ラーメンはない様だ。 小母ちゃんに訊ねると
”ラーメンは博多よ〜 長崎は皿うどんかちゃんぽんとよ” なるほどね〜
暫くすると「ちゃんぽん」が出てきた。 口をつける。懐かしい味だ。 以前、名古屋で
長崎から進出してきた「ちゃんぽん屋」が美味しくて、よくはやっていた。
すこ〜し、こちらは味が薄いかな? 小母ちゃんに、酢を頼むと、”お客さんは関東?
関東の人は、よく酢をかけるとよ ” いや〜 名古屋よ、と答えると、”名古屋も同じねえ?”
と、なにか残念そうな表情を見せた。 味が気に入られずに落胆したのかな?
食事を終え、眼鏡橋の場所を小母ちゃんに聞くと、直ぐ裏だそうで、
小母ちゃんの言うなり中島川に出ると、直ぐ傍に「眼鏡橋」があった。
眼鏡橋
眼鏡橋は興福寺の第二代黙子如定禅師が1634年に架けた日本最古のアーチ型石橋である。
他にも中島川には多くの石橋が掛かっていたが、何度も水害でなくし、昭和57年の大水害では
その殆どを失い。 眼鏡橋、桃渓橋、袋橋の3橋は往時の石橋の姿で復旧したそうだ。
中島川は鎖国時代から貿易物資の運搬の中心動脈として利用されてきた川で、
架けられた橋も寺町と同様、古くから中国人によって荷物運送と寺院への
参道として架けられたとも言われている。
東新橋
橋の傍でタクシーを拾い、鍛治町の崇福寺に行って貰う。 こちらは興福寺の後に
建てられた寺で、興福寺と並び黄檗宗の寺院で本尊は釈迦如来で内臓を持った仏像と言う。
福建省の華僑の人達によって福州から超然を招聘して創建した為、福州寺とも呼ばれている。
崇福寺は竜宮城の様な三門(重文)を構えていて、多くの文化財をもっていることで有名で
長崎の三つの国宝のうち、二つ(大雄宝殿と第一峰門)を持っている。 その他、護法堂、
媽姐堂、鐘鼓楼など、丹塗りの伽藍は興福寺の渋さに対して艶やかで見事なもの。
崇福寺・三門
丸山界隈
寺町界隈を見終わり、長崎の花街と呼ばれる丸山へ行って貰う。 運転手さんに行き場所を頼み
廻って貰うことにする。 まず、思案橋より入いる。 この辺りは長崎のネオン街、飲み屋やキャバレー
が狭い道に並んでいる。 昔は吉原や島原と共に三大遊郭と言われ、異人や遊女達が夜毎出入り
していたのであろう。 小さな円山公園の脇を通って、まず「史跡料亭・花月」へ案内してもらう。
車を下りて、玄関を見ていると黒いスーツの女性が出て来たので、訊ねて見ると、
予約がないと、だめとのことで、門と玄関だけを見せてもらった。
花月・入口
花月は幕末から明治かけ栄えた茶屋で長崎で活躍した国際人の社交場で、文人墨客も数多く
坂本龍馬達も、よく利用していたと言う。 こちらの「竜の間」には竜馬がつけた刀傷の跡が
床柱に残っているそうだ。 現在、建物の文化的価値もあり、長崎県の史跡に指定され、
「史跡料亭」として営業している。
花月・玄関
昔の香りを残す丸山の小路
次いで「中の茶屋」は、江戸時代中期に丸山の遊女屋「中の筑後屋」が茶屋を設けていたところで、
花月と共に広く知られた茶屋であるが、車が入らない細い道の為、運転手さんに、待って貰って
見学する。 中の茶屋に行く途中の小さな空き地に、なかにし礼の「長崎ぶらぶら節」の名妓・愛八
と長崎学の古賀十二郎の案内書が立っていた。 話は名妓・愛八と長崎学・古賀十二郎、二人連れで
”長崎の古か歌ば探して歩かんね”と探し当てた民謡を西条八十がプロデュースしてレコード化、
全国に名を売ったと言うもの。
中の茶屋の入口