長崎よかとこU
大浦・南山手界隈
丸山から更に南山手のグラバー園へ送ってもらって、こちらは永くなるので、
よく面倒を聞いてくれた運転手さんにお礼を述べて別れる。 流石、大浦から
山手にかけてはオランダ坂や古い元英国大使館、旧香港上海銀行などあり
賑わいのある街で、グラバー園への道は、みやげ物屋が並び、京都・清水寺
への参道を行く思い。
グラバー園への坂道
まず、大浦天主堂へと、坂を登りきると、階段の先に大浦天主堂がすっくと立っていた。
この教会は木造教会で日本最古のもの。 1864年に竣工し、昭和8年に国宝に指定され、
中世のヨーロッパのゴシック調建築である。 正式名は「日本二十六聖殉教者天主堂」と呼ばれ
パリ外国宣教会が派遣したプチジャン、フィーレのフランス人両神父によって西坂の丘で殉教した
26聖人へ祈りを捧げるために建てられた。 それで正面は西坂の丘に向けられ建てられている。
当時、 浦上村の潜伏キリシタンが、この教会を訪れ、プチジャン神父に、「私どももあなたと同じ
信仰をもつ者です」と打ち明けたことから潜伏信徒発見の報がローマへも知らされたと言う。
大浦天主堂
大浦天主堂内部
内部はヨーロッパのカテドラルの様な荘厳で壮大なものではないが、小さいが明るく暖かい雰囲気の
礼拝堂である。 正面祭壇や、ステンドグラスは原爆によって大破したものを修復したが、ステンドグラスは
100年前のものも一部残り、内部の美しい空間を造りだし、礼拝者を祈りの世界へと誘ってくれる。
フランス製のステンドグラス
グラバー園ゲート
大浦天主堂を出てから隣のグラバー庭園へ。 陽気もよく、やはり長崎では人気スポットである。
水色のゲートに誘われる様にエスカレーターに乗り込むと一挙に丘の上のガーデン公園へと上る。
グラバー園のある南山手の丘陵地区は港を見下ろす素晴らしい眺望で、日本の開国によって
中国、ポルトガル、オランダの後に入ってきた外国人の居留地に指定され、グラバー邸を初め
多くの外国人の館が現在も残っている。 歩く歩道に乗って丘の一番高い位置にある
三菱第2ドックハウスに行く。 この建物は明治29年に建てられたベランダを持ったアメリカ
等に見る典型的な西洋風建築である。 ドッククラブとは、長崎港の三菱造船に修理に
入っている間、乗組員達が宿泊していた施設である。
旧三菱第2ドックハウス
ドックハウスの前は展望広場となり、昔の衣装を着けた観光客が往時の雰囲気を味わうかのように
楽しんでいた。 その広場を貫け旧ウォーカー住宅の先にある旧自由亭へ行く。 自由亭は竜馬の
亀山社中のあった伊良林の神社前に元はあり、日本で初めての西洋料理のレストランで、現在も
喫茶店となっている。 創業者は出島のオランダ人から料理を習ったと言う。
日本最初の西洋レストラン・旧自由亭
旧自由亭の隣は、この庭園の目玉と言われるグラバー邸である。
よく茂った植木に囲まれ、邸の前は花壇が広がり色とりどりの花が咲き誇っている。
その先に長崎港が見え三菱長崎造船の赤いクレンも見える。
グラバー邸アーチ
グラバー邸
グラバー邸
グラバー邸は1863年に建てられた日本最古の木造西洋風建築で国の重要文化財にも指定されている。
正面玄関を設けない珍しい南国のバンガロー風の建物である。
ダイニングルーム グラバーと妻ツルの写真が飾られている
グラバーの妻・ツルが使っていた夫人部屋の廊下の天井には、窓のない天井部屋があり
討幕派の薩摩、長州の志士を援助し、国禁を犯して薩摩の若者をイギリスに密航させたり
武器の密売をしたり、志士たちとの密談しきりで、長崎奉行に対し、こんな隠れ部屋も
必要であったのだろう。
窓のない隠し部屋
トーマス・グラバーは1838年生まれのスコットランド人で長崎開港と同時に上海経由で来航し、グラバー商会を設立
幕末の激動の時代の中、時代の流れを見抜いたグラバーは坂本龍馬をはじめ、長州や薩摩などの志士達を支え、
薩摩藩士の英国留学など援助を行った。 幕府や各藩には武器や船舶、機械類などを販売し利益を得たが
諸藩への掛け売が焦げ付き倒産。明治以降は岩崎弥太郎経営の三菱の顧問となり、経済人としても日本の
科学技術の導入に貢献し、外国人として初めて勲二等旭日重光章を受けている。
私生活でも日本人女性・ツルと結婚し、倉場富三郎など2児をもうけて、
77歳で死去した、墓は市内・坂本国際墓地に埋葬されている。
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グラバー園を出て大浦地区の孔子廟へ、石畳の坂を上って行く。
とても風情のあるこのあたり。 赤いレンガ塀に囲まれた一角があり
孔子廟・中国歴代博物館とレンガ塀に書かれていた。
孔子廟は1893年清朝政府と在日華僑により、学問道徳の神として建立され、
中国人が海外で建てた唯一の孔子廟である。 中国、山東省・曲阜の大本山なみに
伝統美あふれる儀門や大成殿を初め廟宇に中国の伝統芸術の粋を集め造られている。
中国人は長崎開国の1571年から途中、徳川幕府の鎖国時代を経て1859年開国まで、
穏元禅師をはじめ多数の碩学和尚が来日、興福寺、崇福寺の建立や新地の開発、
中華街の繁栄など長崎に根を下ろして日本文化に大きな影響をあたえて来た。
黌門 儀門
黌門を入ると右手に池を持つ庭があり、中国太湖で採れる奇岩・太湖石が築山に使われていて、
儀門の両側には孔子賛美の唐代と宋代の漢詩碑が建っている。 門を潜ると両側に孔子の高弟
72賢人が並んでいる。 高弟は6芸(徳、礼、知、書、体、射)に通じた賢者たちである。
又、その背後には中国石碑文化の粋と言うか、論語の全文16018文字を楷書で大理石に
彫り掲示されているのは圧巻である。
孔子は儒教の祖といわれ紀元前551年ころ山東省・魯国の武人の次男として誕生。
勉学に励み、多くの弟子達に教えを説いた人物で、中でも「論語」が日本ではよく知られている。
『学びて思はざればすなはち罔(くら)し、思ひて学ばざればすなはち殆(あやう)し』 論語の一節
境内に並ぶ孔子の高弟72賢人
大成殿
大成殿奥には歴代博物館が1983年に新設され、北京故宮博物院よりの
金印、玉印など国宝級の文物が展示されている。
中国歴代博物館 館内の兵馬俑
孔子廟を見て第2日目の予定は無事終わり、大浦天主堂下より長崎電鉄で
長崎駅まで出て、駅前よりタクシーを拾ってホテルに戻る。
出島と新地中華街
朝、目がさめる今日は少し天気が悪いようであり、雨具の用意をする。
本日の予定は日本の鎖国時代、貿易窓口であった出島と新地の中華街を予定。
バスで五島町まで出て、五島町より電鉄で出島まで乗る。 電停前に出島の入口があり
実に便利なロケーションである。 以前は扇形の小さな島であったが、明治以降、埋め立てられ
新地の方まで地続きとなっている。 長崎は1570年の開港であったが、ポルトガル人のキリスト教
布教を禁止するため、長崎の町民の有力者に命じ、人口島を築かせポルトガル人をこちらに収容した。
これが出島の始まりで、1839年には鎖国令によってポルトガル船の来航が禁止され、出島は一時
無人島となったが、1641年には平戸のオランダ商館を出島に移転し、1859年まで218年の間
唯一の外国への窓口としての近代化への役割を果たして来た。
水門
西側にある水門は最初に貿易品が出入りした建物で南の通り口は輸入用に
北の通り口は輸出品が出されていた。 門を入り、左側の案内所の先に、この出島の
メインである緑色の窓枠の家、カピタン部屋がある。 カピタンとはオランダ商館長のことで
その事務所や住居として利用され、日本の役人や大名など出島を訪れた時、接待の場所
としても利用されていたが、オランダ側は土足で日本側は履物を脱ぐと言った、お互いの風習を
尊重していたそうだ。 一階は出島の歴史や生活が展示され、2階は商館長の生活の様子が
展示されている。
カピタン館
2階、商館長の部屋
ダイニングルーム
女性部屋と言われている。 カピタン・厨房
カピタン部屋を出て、その裏にある乙名部屋へ。 こちらは日本側の貿易事務や管理を担当していた
出島乙名が拠点としていた建物で、出島を築いた出島町人から選ばれた。
乙名部屋
乙名部屋を見て中央広場を通って旧長崎内外クラブへ。 こちらは1903年に長崎に
在留する外国人と日本人の社交場として建てられた。 館内は休憩所やビリヤード等
のゲーム場である。 その先には旧出島神学校で教会風の建物、1878年に建てられた
わが国最古のプロテスタントの神学校である。 新学校の前は庭園となっていてシーボルトの
里帰りの植物が植えられ「出島のミニ版模型」などが展示されている。
旧長崎内外クラブ
旧出島神学校
表門よりのミニ出島
庭園に置かれたオランダ船の大砲 庭園内の石橋には「きゃぴたんはし」と書いてある。
入口に戻り、道の左側に立つ、一番船船頭部屋を見る。 この部屋はオランダ船船長や商館員が居宅として
使用してきた建物で、一階は土間を倉庫として使用し、2階を居室として使用していた。 その前はヘトル部屋。
ヘトル部屋とは商館長次席の住居である。
一番船船頭部屋
何れも2階の部屋、ベットが置かれているが、カピタンに比べると程度が落ちるようだ。
へトル部屋
出島地区の塀
塀は忍び返しが付いて部外者の侵入を防いでいる。 他倉庫を見て出島の
見学を終わり、出島の隣に位置する新地・中華街へと線路に沿って歩くと繁華な築町通り
に出る。 築町通りより運河に沿って歩くと、派手な中華街特有の鳥居の様な門が右手に
見えてくる。 ここからがチャイナタウンである。
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