仲秋の越前・加賀
08.10.8〜10.9




彼岸花も色あせ、何処からともなく金木犀のほのかな香りを感じる季節になった。

外に出ると、つい先日までは暑かった日差しも穏やかになり、秋が深まって行く。 

紅葉には未だ少し早いが、朝7時半、名古屋高速に飛び乗って、向うは北陸(越前・加賀)へ!


訪問地

福井市・一乗谷朝倉氏館跡〜福井県・永平寺〜福井県・丸岡城〜石川県・那谷寺

〜石川県・鶴仙渓〜福井市・宮の下コスモス広苑〜福井市・養浩館




福井県・南条サービスエレア

昨日、天気予報を見ると天気がよさそうなので、旅館に予約を入れて見ると、

早速メールが入り、「お待ちしてます」とのことで、飛び出した次第である。

季節の風は人の心をも戸外へと誘う。 名神高速を経て、久しぶりに北陸道を走る。

 夏場、山を覆っていた濃い緑も褐色がさし、濁った色に変わってしまった。

北陸道は車がちらほら、しかし自民党は、未だに高速道路を造ると言い続ける。

お陰でのんびりと走れはするが、国の財政は火の車、こんなことを思いながら・・・

やがて敦賀、今庄の長いトンネルを過ぎると福井の南条SAに、こちらで、しばし休憩。

小鯛の笹漬けと新鮮そうな寿司があったので、それを買い込み、最初の目的地

一乗谷朝倉氏遺跡へと走る。 メガネ産業で有名な鯖江を過ぎると福井インター

に到着、インターより158号線を東へ少し走り、田舎道に入ると、両側が山に挟まれ

中を渓流が流れている。 ここが一乗谷らしいと思ったら案内所が見え10分ほどで到着。


 
一乗谷朝倉氏の歴史

朝倉氏は兵庫の豪族であったが南北朝の頃、朝倉広景が主家の斯波氏に従い越前に入った

応仁の乱の後、朝倉高景が一乗谷に本拠を移し義景まで5代103年間、越前の中心となり繁栄

京や奈良とも繋がりを深め、貴族や僧侶の訪問もあって文化的にも栄えた。 その為、北陸の

小京都と呼ばれた。義景の時代には足利義明を向えたり繁栄を誇ったが、1573年天下統一 

の戦いの中で、織田信長軍との戦に敗れ、城下町も焼き討ちに合い灰燼に帰したと言われる。



一乗谷朝倉氏遺跡・石垣と町屋

一乗谷川に沿って1.7km往時は寺院や武家屋敷、町屋などが建ち小京都の町を形成していた。

現在は土塁や石垣、土台石のみが残り、信長に焼き払われた敷地が発掘されている。

3・400mの高さの山に挟まれた地形の城下町で、山々の要所には城や砦を設け防御体制の

優れた構えであったことがよく見えてくる。 一乗谷川の渓流には橋がかかり金色の擬宝珠が

往時を忍ばせる。 「盛者必衰」は世の常、栄えたものは滅びて行く。今はのどかな風景ではあるが

、諸行無常の摂理が伝わってくる。 戦いは内部からの離反により崩壊していったそうだが・・



朝倉館跡正面





唐門

朝倉館跡唐門で、豊臣秀吉が朝倉義景の菩提を弔う為、寄進したものと言われる。

前の水路は館前一直線に彫られた当時の濠である。



館・土台石





朝倉義景公墓所

敷地の奥の茂みに祀られていた。



朝倉義景・墓





湯殿跡庭園

墓の東には館を見下ろす山腹に一乗谷で一番古い湯殿跡庭園がある、中国庭園を

思わすような個性のある庭石が目立ち、厳しい自然の感じが伝わって来る。



湯殿跡庭園・庭石

湯殿跡庭園のその南には諏訪館跡が広がりその山側に諏訪庭園がある。

諏訪館は朝倉義景の妻・小少将のために建てられた館で、遺跡の中でも

規模が大きい。 庭園の中心には大きい庭石が置かれ、庭全体の安定感を保っている。



諏訪館跡





諏訪館跡庭園の巨石

巨石には朝倉氏3代目の貞景、4代目孝景の法名が残されている。

いづれも苔むし、往時の哀愁が漂っている。 一周して案内所の横のベンチで

昼食をとっていると、見ていたのか案内所の女性がお茶を持ってきて呉れた。

「いかがでしたか? 全部見られましたか?」と聞かれ、行った所を答えると、

「まだ南陽寺庭園が残っています。 こちらでは、義景が足利義昭を招き観桜の

宴を開いたところです。 是非見て行ってください」と言われる。 折角の勧めで

あったが、山の中腹の所で、疲労もあり、遠慮することにした。


午後からは吉田郡にある北陸の名刹・永平寺へと向う。 足羽川に沿うて走り越前高田から

364号線を北へ走ると10分ほどで永平寺町へ入る。 オバちゃんが手を上げるので車を止める。

オバちゃん曰く。 「帰りに土産を買ってくれたら駐車代はいりません』と言う。

探すのも面倒なのでオバちゃんに鍵を任すと、預り証を呉れた。

さっさと車を駐車場へ移送して行く。 「帰りによって下さい!」と、行ってしまった。


                        吉祥山・永平寺

    永平寺は曹洞宗の大本山で1244年に道元禅師が波多野義重公(越前国・比志庄)の 
  
  要請を受け座禅修行の道場として開かれたのが始まりで現在は堂塔伽藍が建ち並び   

  僧侶の育成と檀信徒の信仰の源となっている。 道元禅師は当初、比叡山で修行し

  24歳の時、中国に渡り天童山の如浄禅師に師事し座禅による悟りの道を教えられ

  日本に帰り座禅こそが仏の道を知る方法であることを説いた。「正法眼蔵」は曹洞宗

  の根本経典であり、日本で生まれた哲学書とも言われている。



永平寺入口

境内は流石に曹洞宗の本山だけに三方を山に囲まれた深山幽谷の清浄な雰囲気で迎えてくれる。

 緑の天蓋の参道を歩むと、やがて正面に菊の御紋の唐門が見えて来る。 勅使門である。 

両脇には大きい杉の木が天に向け凛と立っている。 永平寺には以前、納骨で

訪れたことがあったが、改めて境内の歴史を経た厳粛な空気をひしひしと感じる。



参道




  
勅使門                              納経塔

勅使門の手前には六角形をした納経堂があり、その佇まいの姿が緑の木葉ととけあい何とも素晴らしい。

勅使門の左手には鐘楼堂がある。 梵鐘は大晦日の「除夜の鐘」で有名で国の重要文化財になっている。

日常は朝・昼・夕方・夜の4回修行僧により撞かれているそうだ。



鐘楼堂

一般参拝客の利用する傘松閣より出て、直ぐに重層の山門がある。

山門は永平寺最古の建物で中国唐時代の楼閣門様式で造られ県文化財に指定されている。

両脇には佛の守護神である四天王が鎮座している。 

山門は、これより俗世界の境界を超え、仏の世界に入ることを意味する。

山門より山の斜面に沿い回廊が登り、次に中雀門が構える。 

中雀門は山門と違い袖に塀が付いて山門の様に豪壮さは見られない。

しかし、ステージは更に高くなる。



山門で仏を守る四天王





中雀門

更に登り回廊をあがると仏殿がある。 仏殿は七堂伽藍の中心に位置し

永平寺のご本尊、釈迦牟尼佛が祀られている。 他に禅宗の初祖・達磨像、

道元の師である如浄禅師像が安置されている。 中国宋時代の建築様式で

二層屋根の構造となっている。



仏殿





登り回廊」

回廊が輝いていて、修行僧の「動の座禅」と言われる掃除が如何に心を込めてなされて

いるかがうかがえる。 冬場は更に大変で積雪が多い時期、素足での作務(掃除など)の

厳しさが想像される。 廻廊を登り詰めた所に法堂がある。 こちらでは説法や法要がなされる。



法堂

中央に聖観世音菩薩像が鎮座し、左右には阿吽の白獅子が安置されている。

欅の柱は磨き上げられ、天井からの金の装飾が光り輝く。



法堂内部

法堂で今日までの無事を感謝し、その脇にある承陽殿へと進む。

承陽殿は道元禅師の廟で、いわゆる霊屋である。 曹洞宗の発祥の根源として

聖地とも言うべき場所である。 本殿中央には開山の道元禅師像と霊骨が安置

され左右に2世から5世までの禅師と、総持寺開山の螢山禅師の像が祀られている。

また階下の拝殿には歴代禅師の位牌や久我家(道元の生家)の位牌などが祀られている。

 日本で座禅修行でもしたのか外国人が熱心に拝んでいる姿が印象的だった。



承陽殿

永平寺を見終わり車を預けたオバちゃんの土産屋へより、胡麻豆腐を買って

車のキーを貰う。 次ぎ訪れる丸亀城の場所をオバちゃんに訊ねる。 

丁寧に教えてくれた。 最近は景気が悪く参拝客が少ないと嘆いていた。

オバちゃんに別れを告げ、行きに来た364号線を北へと走り、ケヤキ台の先より

158号を進んで福井北より8号線を北上すると丸岡城の天主の屋根が見えてきた。


                   
                   
 越前丸岡城

  丸岡城は坂井市丸岡町にあり、柴田勝家が織田信長の命令で一向一揆を

  抑える為、豊原寺を攻略し焼き払った。 その恩賞として越前之国を与えられ

  守護職として越前・北の庄(福井市)に築城を命ぜられ、1576年、甥の勝豊に

  その支城として丸岡城を築城させた平山城で、勝豊の後、本多家、有馬家

  など明治維新まで居城が続いた。 大正中期から昭和に濠が埋め立てられ

  本丸と天主閣を残し公園に整備され現在に至っている。 丸岡城は現存する

  天守閣で一番古い建築で屋根は二層で内部は三階となっている。 屋根は

  石瓦で葺かれ全国でも珍らしく国宝に指定されている。昭和23年の福井大震災

  で倒壊したが昭和25年に修復された。 「一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな

  馬肥やせ」と言う短い手紙は本多重次が陣中から妻に宛てた手紙で、お仙とは
  
  6代目城主本多成重のことである。

   



丸岡城・天守閣

丸岡城は丸岡町の東地区の小高い丘にあり屋根瓦が石製のため銀鼠色に輝き

城全体の色合いが素晴らしい。 木に囲まれた10m程の丘の上にあり、登るといきなり本丸にでる。

城は古城らしく直線的な2つの破風で構え壁は黒いしぶき板と白壁に分かれ素朴な感じがする。

天主閣の中は、まるで垂直に近い階段がかかり、手すりに沿ってロープが下がっている。

このロープを頼りに上り下りをする様になっている。 余ほどスペースが欲しかったのか?

年老いた城主の昇降は大変だっただろうに? よく我慢したものだ。




天主最上階の内部材

福井震災で倒壊したが当時の木材が使用されていて、木造のつくりにはやはり郷愁を感じる。

天主より見る丸岡の町は歴史を経て変貌をしたであろうが、当時は更に長閑なものだったかな?



天守より見る丸岡町風景

城を見て本日の日程は終了、これより8号線を北上して石川県の山代温泉へと向う。

北陸の幹線道路ではあるが、地方の活力が落ちている為か車がやけに少なく、

高速道路を走る必要もないようでる。 あわら市を通って、やがて加賀市に入る。

この辺りは稲の刈入れも殆ど済んだようだ。 街に入り8号線とも分かれ、これより

山代温泉。 しかし、温泉街らしくない町である。 宿泊予定の雄山閣は

街の高台にあった。 前には大きな池があり、噴水が上がっていた。 

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旅館・ロビーから見える滝

フロントでドアや調度品に葵の紋が付いているので、訊ねてみると、経営者が

松平家に縁があり、使わして貰っていると言う。 チェックインをしていると、

元気そうな仲居さんがやって来て、こちらへと、部屋を案内してくれる。

長い廊下を進み左に折れた所の部屋で木製の引き戸の奥にドアーがあった。

囲炉裏部屋を控えに持つ和室だった。 角部屋で申し分のない所である。

仲居さんが、お茶と茶菓子を出してくれて話をするに、新潟から出てきて40年に

なると言う。 丈夫そうな身体で客の接待から布団の上げ下げまで行なうと言う。

かなり重労働のようである。 テキパキと、もてなして出て行った。

明るいうちに宿に入ると、やはり落ちつく、早速、浴場へ、一階の大きな浴場には

お爺さんが一人入っていた。 こちらはジャグジーの槽があり、そちらへ。

身体を伸ばし、しばし泡の刺激に身をゆだねる。 これで疲れもリカバリー??

お爺さんは間もなく出て行った。 こちらも、引き上げることとする。

夕食は例の仲居さんが運んで来てくれた。 減食の身、あれこれと、つつき回し

種類多く食べることにする。  料理長! 申し訳ない!

腹も満腹!   あとは・・・・   これで、おやすみ。

      つづく  HOME