インド北部V
06.12.10〜06・12.15

         アグラ
アグラは楽園の意味、古代より交通の
要所として発展してきた。
ウッタル・プラデ−シュ州最大の都市で、
人口160万人ガンジス川最大の支流
ヤムナー川沿いにあり、デリーより南に
200kmの位置にある。

インドに来て三つ目であるが、どのホテルも水の出と、水廻りの
良さには驚く。 普通、途上国では水の出が悪かったり、

湯がぬるかったりすることが多いが、英国植民地時代に
培われたものか、ありがたいことである。 しかし、
飲み水がないのが残念ではあるが。


今日はインド観光のハイライトであるタージ・マハルに向う。
相変わらず乾燥している為、何処の木の葉っぱも砂埃をかぶり
黄色っぽくなっている。 

この辺りも、道路の拡張工事で道路沿いの家は立ち退きを余儀なくされて
林の影にバラックのような家や、シートで包んだ様な住まいに
生活している人達が多く見られる。

10分程で到着、バスを降りると、早速、赤い帽子を被った男の子が
”ワンダラー! ワンダラー!”(一ドル)と言って、手作りの民芸品を
売り込みに来る。

物売りや、物乞いを断わり、断わり、タージ・マハルの門へと歩く。
モンスーンの季節でも観光客があると言うだけに、人が一段と多い。

        タージ・マハル
ムガル帝国第5代の王シャー・ジャハーン
が若くして亡くなった妃の為に莫大な資金
を投じ1631年に建てた廟所で、インド・
イスラムの代表的建築物。  世界遺産。
世界から2万人の職人を集め22年かかっ
たといわれる。 



タージマハル入口




南正門

アラベスクの花模様で飾られた正門、イスラム教は南側を正門にする。
正門を潜ると右からの朝日に照らされ、正門の赤とは
対称的な白亜の殿堂が朝靄に輝く。

これぞタージ・マハル!

ドームの下部が僅かにふくらみを保ち、女性の胸部の曲線のよう。
タージ・マハルのタージは帽子を意味し王冠を示す。 マハルは宮殿。



正門の台より望むタ−ジ・マハル





王シャージャハーンはアフガン王の16才の娘を妃に迎え、14人の
子供を出産して33で亡くなった。

 王は愛妃の死を悼んで、予ての約束により
「世界に類を見ない祈念堂を造る」ということで、世界から白大理石や
紅玉石、トルコ石、ダイヤモンド等の宝石を集め建造した。



廟正面

中には真中に皇后ムムターズ・マハルの墓があり、
左隣に一回り大きい王シャージャハンの墓があった。

本来、王の墓はヤムナー川の対岸に黒大理石で同じ形で造る予定で
あったが、余りにも浪費がひどい為、息子のアウラングゼーブにより、

アグラ城に幽閉され、彼の死後も黒大理石の廟も造られることなく、愛妃の
隣に静かに眠ることになった。

よって王の墓だけがタージ・マハルの左右の非対称物となってしまった。



紅玉石や孔雀石、トルコ石の精緻な象嵌でアラベスクの花装飾が為されている。
その外回りにはコーランの詞句が刻まれている。

神のしもべとして入れ、神の庭へ」



廟所より望む南正門

水路の両側の糸杉は死を意味し、花咲く他の木は生を意味する。




廟西側にあるモスク





西側のモスクと対象の物が東にも建ちゲストハウスとなっている。




廟の裏側、右ヤムナ−川の西方





廟より望む東方のヤムナ−川の長閑な風景

タージ・マハルを出て、アグラへと向う。

        アーグラ城
デリーの城と並ぶ巨大な城でムガル帝国
三代の城、 世界遺産となっている。
第三代のアクバルによって1565年に建
てられ、第四代はヒンドゥ−様式、第五代
はイスラム様式と増築していった。 

バスを降りると、小父さんがアルバムを持って駈け寄って来た。
日本語!日本語!と言う。  見ると日本語版だった。

買う気がないので、相手にせず城へと向う。
しかし、オバちゃんが声をかけたので執拗に追ってきた。

ネゴが始まるも、お互い譲らず城でお別れとなる。

ア−グラ−城はムガール帝国隆盛時のアクバル王が建てただけに
その姿は重厚で城塞と言った方がよくピッタリしている。

彼は宗教の融和を図るため三妃を持ったそうで、第一夫人はヒンドウー教、
第二夫人はキリスト教、第三夫人はイスラム教徒と言う。

入口には赤いベレーの兵隊が警備をしている。



赤砂岩で積み上げた分厚い城壁




堀を渡って城塞門




第4代のジャハンギ−ル王が建てた宮殿




壁に挟まれた通路




第3代のアクバル大帝が妃の為に最初に建てた宮殿




同通用門




第4代ジャハンギ−ル王の寝室




東向きのジャハンギ−ル王の母の部屋

王の母がヒンドゥ−教であった為、その影響で建物の装飾がヒンドゥ−様式。




一般謁見の間




謁見の間とテラス




アクバル大帝の一番豪華な宮殿




同内部の装飾





アグラ城内で一番美しいと言われるジャスミン・タワー

こちらは第5代シャージャハンが自分で建て、其処に自分の息子
アウラングゼーブ帝により幽閉された。

彼は王位継承で兄弟三人の兄弟を殺し実権を握り、
父をこの部屋に幽閉し、外との連絡を禁止した。

この息子の仕打ちに悲しみつつ塔の窓から川越に見える
タージマハルを眺め、王妃をしのび亡くなっていったと言う。



ジャスミン・タワーからみるタージマハル

アグラ城を見て、最後に市郊外南西40KMにある
ファテープルシクリへと向う。



    ファテプ−ル・シ−クリ 
1570年ムガール帝国第三代
アクバル帝が息子生誕で遷都した
都であったが水不足等で、アグラに
戻り、後は寺院となった。

アグラの街を抜け、麦畑の広がる道を走ると小高いところ迄来ると
城門があり其処を抜けて直ぐに、寺院と思わす赤い建物が見えた。

中に入ると、大勢の石工が赤砂岩をガチ、ガチと削る音が喧しく
城跡の修復をしていた。 子供達が、我々を見つけて寄って来た。

一人の子供に持っていたボールペンをねだられてしまう。


ファテプール・シークリの廻廊と子供達

アクバル帝はデリーに城を築き3人の妃を持ったが子供が出来なかった。
僧侶からアグラの南西の地に住むと良いと言われ、シ−クリに住み4番目の
妃から子供が授かり、遷都を決めファテプール(勝利の街)街を造ったと言う。

しかし、水の便が悪く17年でアグラに戻ってしまった。 



建物の柱まで各宗教様式を採り入れ(ギザギザがイスラム)ている。

アクバル帝は自分の理想の為に民を犠牲にしないと言う決心を
もとに、宗教には寛大でヒンドゥー教、イスラム教、キリスト教の
僧侶や法学者、宣教師を集め宗教講話を此方で持ち、三つを纏めた
新宗教デイ二・イラーヒの宣言を、この柱の上の玉座より行なったと言う。



このパピリオンは骨組だけが残っているが、風の塔と呼ばれ
ハーレムの女性が涼をとる為のペルシャ風の憩い場であった。

以前は女性の顔を隠す為のスクリーンがあったが20世紀の
改修で、とり外されたと言う。




宮殿




庭のインド人

当時のスイークリの街はロンドよりも大きかったそうだが、
今はゴーストタウンといわれ、長閑な風景が残っていた。
スイ−クリーを離れ、元の道をアグラのホテルに戻る。



ホテルの朝、風変わりな廊下


翌朝、4時間の行程でデリーへと走る。
道路も今迄で一番整備されていてバスも乗り心地が良い。

ユウカリの植えられた並木道が果てしなく続く。
麦畑や菜の花畑の中、所々に住居が建てられている。

此方の農家では牛糞を燃料としていて、丸いセンベイの様な
牛糞が綺麗に並べ干されている風景がよく見られる。

やがて、車が増えてきたかと思うと、デリーに入っていた。



間口の狭いデリーの店舗

この様な店屋が多く並んでいる。 日本では60年代の様なバイクや
自動車の修理やさんが多く、彼等は修理を繰り返し車を使っている。

排煙規制もこれからであろうか? そう言えばタージマハルでは排煙で
汚れが酷くなるということで、相当手前で電気自動車に乗り換えたっけ。

インドも空気が汚れ、もう規制を始めているのだ。  



マハトマ・ガンジーの墓

ニュウデリーでインド独立の父と言われるマハト・マガンジーの墓へ行った。
彼はヒンズー教徒で火葬の後はガンジス川に散骨され本当の墓はない。
しかし、偉大な功績と5度もノーベル平和賞の候補に選ばれ、
本人の固辞で授賞に至らなかった等、彼を祈念して造られた。

ガンジ−の墓を拝み、インドの旅も終わりとなる。

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今度の旅は象の様なインドの足を撫でた程度のものではあるが
凡その様子を掴む事が出来た。

貧富の差が激しく、カースト以下の貧民が未だ多くいる。
賃金の安い人は3千円/月、又、I T関係の人は5万円/月という。

生活必需品が安く定められ、奢侈品は極端に高くして貧富の差をカバー
していて、因みに主食の小麦粉は22円/KG、ガソリンは150円/L。

日本の様に物質には恵まれていないが、精神面では
インド思想と言うか宗教というか将来に希望を持っていて
国民が将来に希望を持てない日本とは違い救われている。

インドは第一次大戦時、英国に協力したにもかかわらず
自治を認められず、その植民地政策にガンジーは抗議し

不服従運動でイギリス製の綿製品を着用をせず、インド
伝統の手工業綿製品を奨励し、イギリスの機械作りの

製品をボイコットした。 そんな事から工業化に立ち遅れ現在に
至ったといえるが経済では既に世界第4位の経済大国でもあり、

更にソフトやハイテク産業が発展し外貨を稼ぎ社会基盤が
整備されるに従い他産業へも波及して行くであろう。
観光産業も世界遺産を26ヶ所も持ち、これから有望な産業である。

反面、この国が、中国に続けば、世界の資源争いは
更に厳しくなるのでは? そんな思いの旅であった。

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