アンコール遺跡と古都アユタヤ
05.12.11〜05.12.16




アンコールワット      世界遺産


訪 問 先

カンボヂャ     シェムリアップ市      プノンペンの北西250KMにある人口9万人の都市
                              アンコール遺跡巡りの拠点となっている。

               アンコール・ワット   12世紀前半の建立で三重の廻廊と5基の聖塔を持つ
                              ヒンズー教寺院

               アンコール・トム    12〜13世紀にかけて造られた城都、12KMに及ぶ
                             環濠と城壁に囲まれ中にはバイヨン、パプーオン、
                                                                    王宮、ミヤナカス等の寺院、象のテラス、
                                                                        ライ王のテラス、南大門等がある。

            その他アンコール遺跡群  タ・ケウタ・プロム東メボンプラサット・クラヴァン
                              バンテアイ・スレイプレ・ループタ・ソムの各寺院

              ロリオス遺跡群      アンコール以前の遺跡群で
                              プリアコーロレイバコン

              トレサップ湖       マングロ-ブの生えた魚の宝庫、水上生活者がいる。


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この度のカンボヂャ行きは、秋に愛・地球博を訪れた時、カンボヂャ館で仏陀の瞑想像の背景に

環濠に姿を映した大きなアンコールワットの写真を見た。


内戦時代、このアンコールワットに魅せられて命をかけた若き戦場カメラマンの日本人がいた。

彼を其処まで惹きつけたものとは何なのか??? と思って見ていると、アテンダントが

寄って来て、” 行かれるなら11月から1月が乾季でベストシーズンです。 ”と云う。

この一言がカンボチャ行きの切欠となった。


* 
若き戦場カメラマンとは一の瀬泰造と云い、1970年代のインドシナ半島の戦場を

    駆け巡った20代の若者でカンボヂャの友人にアンコールワットへ行くと、

「地雷を踏んだらサヨウナラ」 の言葉を残し、帰らぬ人となった。

  しかし、彼は地雷を踏んでいなかった・・・・

彼の生涯の物語は1999年に浅野忠信主演で映画化されている。

 彼のH.P  http://www.taizo.photographer.jp/



* アンコール遺跡とは

9世紀から15世紀にかけインドシナ一帯を制覇したクメール王朝の都であった所で、独自の水利、灌漑システムと

大貯水池方式で壮大な文化国家をクメール人達は築いていた。  米作と漁業の豊かなこの土地に

宗教的、文化的な小宇宙を創造し、アンコール・トムを中心にアンコールワットを初め主な遺跡だけでも62ヶ所に及び、

全体では600ケ所を越え、その大半が世界遺産に指定されていると言う。



      



12月11日出発

中部空港、18時のJALにてバンコクに飛ぶ。  JALも随分久しぶりである。

座席はB767の二連のACに座った。  二連席はサービスが受けよくて好きな機種である。

水平飛行に入ると、すかっり雲の上に出て空は黄金に輝き、我々の前途を祝福して呉れていた。



機窓からの夕焼


やがてアテンダントが行き交い、タイ人らしいアテンダントが流暢な日本語で

パッセンジャーと会話を交わす。 しかし、節々に訛りがあり、それが又親しみを感じさせる。

座席の液晶画面を見ると、入国カードの記入要領が出ていたので、早速、用紙をもらって作成する。

 間もなく食事となり、アテンダントが魚か肉か訊ねるので、何魚か確かめると、サーモンと云う。

  サーモンは、あまり好みではなく肉にする。  肉は味のいいよく煮込んだビーフ・シチュだった。

食事も済ませ、ほろ酔いで何チャネルかのオオデイオーを聞きながら、うとうとしていると、

バンコク到着のアナウンスが入る。  結構寝ていたようだ。

やはりフライトも6時間ぐらいが手頃である。

この歳になると10時間ぐらいが限度で、それ以上はきつい。


パスポートコントロールで、不覚にも中国人風の人の後に並んだ為、時間がかかって、

日本人ばかりの長かった隣列の方が、速く進み、後からの人が先に通過していった。

この辺りは国々の事情で、タイ国の日本人客ウエルカムの姿勢が出たようだ。


ホテルは空港から40分程かかり、ラ-マ4世通りのマンダリンだった。

今夜は此方で一泊明日は朝が早い。



12月12日 カンボジャへ

今朝はフライトがバンコク7:30発の為、5時の起床となり、朝食はパンとチーズとソーセージと

フルーツのパックを貰いバスに乗りこむ。 暫らくすると、パックの朝食を食べ始める人達がいた。

こちらは未だ食欲がなく手が出ない。

出国手続を済ませ、バンコクエヤ-ウエイーの小型機に乗りこむ。 

 この飛行機でカンボジアのシェムリアップ空港は約1時間で着く予定。

バスで行くと9時間掛かるそうである。 年寄には少し厳しい!

シートベルとのサインが消えたので、ホテルで貰って来た朝食を、食欲はないが

スタミナを付ける為に食べる事とする。 

すると機内でも同じ様な朝食ボックスが出てきたので口に合う物だけを摘まむ。

食事の終わる頃には、カンボジアに入ったようだ。

シェムリアップ空港である。  空港と言っても地方空港のようである。

タラップを降りると駐機場所から空港ビルまで距離があり、ぶらぶらと歩く。



バンコックエヤ-ウエー機

南国らしくバンコックエヤ-ウエー機はトロピカルなカラーに彩られている。

飛行機に乗る前、航空会社のブースで紅いドルフィンのシールを腕に張られたが

何のことはない、我々は航空会社のサンドウイチマンをしていた様だ。


入国審査はカウンターが一つで、ぼちぼちと捌いているが、乗客が少ないので、

直ぐに終わった。  小さい空港ビルではあるが、一通りの機能は備わっていた。

デュテイ-フリーの女の子が ”コンニチワ!”と挨拶を呉れる。

話しかけると結構、解るよう。  独学で日本語と英語を勉強していると言う。



デユテイ-フリーの女の子



空港関係のスタッフは皆若く、頑張っている。 新しい仕事は何処の国も同じで、

やはり若者が担っている様だ。 日本の明治維新がそうであった様に。


空港ではガイドのポーさん(32歳)が向えてくれた。 

アジヤの空港は客引きが多くて、鬱陶しいことがあるが、こちらは落ち着いている様だ。

ホテルで一服してから観光する事となりホテルへ向う。

戦時中の頃、子供の絵本で日本の兵隊が椰子の林で現地の子供と遊ぶ風景を見たが、

現在も車窓に同じ風景が流れていく。 初めての風景であるが、見覚えを感じる。

空港から街までは、想像以上に道が整備されているのに驚いた。

街に入ると急激にバイクが増え、自由自在に若者が走っている。

交通マナーは、未だ自動車優先の世界だ。 

街はホテル、レストランなどの観光者向けの新しい建物がどんどん建っている。

やはり農業以外の収入源は観光に頼るのが順序の様だ。

現在ホテルが200軒、ゲストハウス600軒ほど出来ているそうだ。

我々のホテルも噂に違わず、新しいホテル(カサ・アンコール)であった。



 
リゾート風のホテル、カサ・アンコール


プールを持ち、リゾート風のベランダのような廊下が外に廻り、常夏のエキゾチックな佇まい。

鍵を貰い、部屋に行く途中プ-ルサイドを通ると、ヨーロッパ人がボーイと戯れていて

長期に滞在している雰囲気。




ホテルのプールと二階のバルコニー風の廊下


ボーイが部屋まで案内してくれ、ドア-を空けようとカードキ-を差しこみ開けようとするが

引掛りかげんで開け難そうだった。  何だか先が思いやられる。

しかし、部屋は小奇麗に保たれていた。

荷物を片付け、シャワーを浴び、半袖に着替える。

一浴びすると、やはり、さっぱりして気持がいい。

暫らくして、ホテルの出がけにプールサイドにあるカウンターバア-の兄ちゃんが

人懐こく声をかけてくる。  これもサービスの姿勢なのだろう。



カウンターバア-のバーテンの兄ちゃん

観光の前に、クメール料理のレストランで昼食をとる。




クメール料理のレストラン・ニューバイヨン、寺院風の屋根が花々に包まれている。


レストランはブーゲンビリアが咲き、トロピカルなムードが漂う店。

中に入り腰を下ろすと、ガイドのMrポーが、ランドクルーザーのレクサスを見付け

シアヌーク殿下の息子がレストランに来て居ると言う。

しかし姿は見れず、別室でも居るのであろう。

 こちらは、かなり有名な店のようだ。

飲み物の注文取りがあり、地元のアンコールビール(味はまあまあ)を頼む。

スープが出てくる。 海苔が入って香りがよく、実に日本人にはピッタリの味

中国料理の様なつくねを揚げた料理、歯応えがよく甘辛くて美味い。

この後、ココナツミルクを遣ったカレーがつづく。

皆さんは甘たるいと言っていたが、自分の口には合っていた。

他、カボチャ、豚料理、パパイヤ、モンキーバナナ、西瓜、ブラックメロン・・・

味に満足し、レストランを出てシェムリアップ市から東13Kmに位置する最初の訪問地

ロリュオス遺跡へ向う。  道路は地道が少なく、20分程で遺跡へ到着する。


* ロリュオス遺跡とは

ンコール王朝の三代目の王インドラヴァルマン1世が877年初めて都として定め

889年ヤショバルマン1世がアンコールに遷都するまで、繁栄を誇った。

遺跡はロレイ、プリヤ・コー、バコン、の三つからなり、現在は涸れているが

この地に大貯水池を造り、農業生産を陸稲から水稲にかえ、収穫量を飛躍的に高めた。

                   出典 アンコールの神秘 大高秀治


ロレイ祠堂

緑の樹々に包まれた静かな空気の広場の中にロレイ遺跡が建っていた。

ヤショバルマン一世により893年にロリュオス川より水を引き大貯水池の中に建てられたが

現在は水も涸れている。 この建物の特徴は従来は石で築いていたのを煉瓦を使って

四塔の祠堂を造り、真中には十字に引かれた樋があり、中央にはリンガ(シバ神の象徴)

があり、四方に聖水を流す様になっていた




ロレイ祠堂

煉瓦がかなり風化していて、要所に綺麗な彫刻を施した砂岩が組みこまれている。


 




 
中央のリンガと樋            女神のデバター像




院内にはモンキ-バナナやジャクフルーツの大きい実や色々の植物があった。



プリア・コー寺院

以前はジャングルに囲まれていたらしく火を掛けて発掘をしたそうだ。

今も木に囲まれ、鳥の鳴き声もあり、動物の楽園となっている。

真中に大きい石を敷き詰めた参道が塔に向かって敷かれている。


この寺院は最古のもので、879年インドラヴァルマン1世がジャヴァルマン二世と祖先を祀る為に

造られ、プリヤコーは「聖なる牛」と言う意味があり、階段の前にシバ神を守る聖牛の像が

置かれている。 流石に古い為、風化が激しく現在、フランスのチームが入り修復していた。



基壇の上の祠堂




ジャングルに埋もれていたのを焼き払った為、いたる所が黒く焦げている。



 
風化した祠




壁に残る創建時の碑文





ヒンズー教の天女が舞う精緻な彫刻



プリア・コーを見てバコンの前まで来ると、係員が入場のIDカードを拝見と言う。

ハッ!とポケットを探すが見当たらない。  係員が心配そうな目で眺める。

入場カードは遺跡全体を三日間自由に見れる通し券だ。 参ったな!

添乗員が心配して来てくれたが、埒があかない様だ。  入るのを諦め出口へと迂回して

バスに戻ると座席に落ちていた。 又、40弗を払わなければと覚悟していたが助かった。

子供達が更紗の様な布で作った袋を抱えて、”2ドル!2ドル!”といって

迫って来るが、なかなか買い手がつかない。 やはり此方の子供は優しいようだ。




やがてバスは珍らしく赤茶けた土ぼこりの道をタ・プロムへと走る。



タ・プロムアンコール遺跡)


タ・プロムは大きな樹木に囲まれ今まで見た寺院とはスケールが大きく、

又、寺院の廻廊や塀等もあり、輪郭がかなり残っている様だ。

ラテライト(紅い石)で出来た参道も重厚で、立派である。

中国人や韓国人も多く、見学者で賑わっている。

12世紀に王が母親の菩提を祀った霊廟寺院で、当時は

僧院に5千人を越す僧侶と615人の踊り子がいたと云う。

タ・プロムでは発見当時の状況を把握する為、敢えて補修工事を行わず保存されている。

その為、樹齢何百年と言う巨大なカジュマルの根っこが動物の様に建物を抱え込み

どこか不気味で、神秘的でさえある。 又、人の手を入れない為、苔が生えたり

風化したり、夫々の建築物が独特の表情を見せる。

カタ、カタ、カタと聞き覚えのある音がする。 ネパールのヒンズー教寺院で聞いた音である。

すると、修行僧が見えてきた。  

現在は仏教徒と言われるが、ヒンズー教の修行と似たことをするようだ。



廻廊と繋がった祠堂




カジュマルの樹木の大きさが判る。





生き物の様な巨樹の根と廻廊



 
化け物の様なカジュマルの根                 祠の入口を知ってか避けている根っこ



 
美しい女神像、自然が作った色のグラデーション



苔むした壁




祠堂


           続く       HOME